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2019/10/16

”オーケストラ plays JAZZ " in 八王子 (東響&山中千尋)

2008年以来毎年開催されてきたという「八王子音楽祭」が、今年2019年は ”Shall We Jazz?” と題したジャズ特集だった。9月末に9日間にわたって、市内や中心街のあちこちの店やスポットで、コンサートやライヴ演奏他の多彩なジャズ・プログラムが実行されるという、びっくりするような企画である。なぜ最近ジャズ・フェス(祭)が日本中の街で流行っているのか不思議に思って分析中なのだが、「ついに八王子、お前もか !?」という印象だ。JR中央線沿線でジャズと言えば、古くは吉祥寺、高円寺、荻窪あたりのジャズ喫茶だし、ジャズ・フェスでは1990年代に始まった ”阿佐ヶ谷ジャズストリート” が有名だが、三鷹以西の立川、八王子方面はこれまであまりジャズとは縁がない街という印象だった。特に八王子音楽祭は、いつもはイチョウホールを中心にしてクラシック音楽にフォーカスした初夏のイベントだったし、これだけ大々的にジャズを取り上げた企画は記憶する限り初めてのように思う。メインイベントの一つとして9月23日にはイチョウホールで国府弘子と岡本真夜のコンサートが行なわれたが、928日にオリンパスホールで行なわれた ”オーケストラ plays JAZZ” もメイン企画の一つで、新進の原田慶太楼が指揮する東京交響楽団が、定期公演として山中千尋トリオ(山本裕之-b、橋本現輝-ds)を迎えて、ジャズ曲を中心に演奏するというコンサートだ。

毎年秋には大きなホールでのジャズ・コンサートに出かけるのが恒例になっていて、一昨年は東京ジャズ、去年は秋吉敏子&ルー・タバキンだったが、今年は6月の角田健一ビッグバンド(紀尾井ホール)に続き、山中千尋のこのコンサートにした。クラシックとジャズが出会うというこの種の企画は、小曽根真が同じ八王子オリンパスホールで、東京フィルと ”Jazz Meets Classic” というコンサートをこれまでに何度か開いていて、私はそれも数回聴いている。山中千尋をライヴで聴くのは、2017年の紀尾井ホールでの文春コンサート以来で、あのときはモンクを現代的に解釈したエレピ演奏が中心だったが、今回は全曲アコースティック・ピアノによる演奏なので、楽しみにしていた。本当はジャズクラブで聞いてみたいのだが、都内だと結構演奏機会も限られ、チケットの入手も大変なのだ。今回は大ホールだが、かなり前方の席だったので、トリオの演奏ぶりも非常によく見え、迫力があって、楽しめた。また大ホールでストリングスが響き渡るフルオーケストラのサウンドはジャズとはまた別の魅力があって、いつ聞いても気持ちが良いものだ。クラシックのコンサートも以前は時々行っていたのだが、咳払いすら気にしながら緊張して聴くあの雰囲気が、リラックスして聴くのが好きなジャズファンとしてはどうも苦手で、段々足が遠のいた。その点、ジャズも一緒のこうしたコンサートだと、緊張感も薄れて多少気楽に聴けるところがいい。

"オーケストラplays JAZZ"
2019-09-28
八王子オリンパスホール
山中トリオによる<エスターテ~サマータイム>(たぶん)の美しいメドレーで始まり、続いて東響との「ラプソディ・イン・ブルー」(ジョージ・ガーシュイン)、アンコールはトリオによる<八木節>、休憩をはさんで東響の「デューク・エリントン」(C・カスター編)、「シンフォニック・ダンス」(レナード・バーンスタイン)というプログラムだった。ガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」(1924) はクラシックに分類されているが、“イン・ブルー” が示すように、ジャズの語法でクラシックの狂詩曲を作ったという、ある種のフュージョンである。日本でも山下洋輔、小曽根真、大西順子など、名だたるジャズ・ピアニストがチャレンジしてきたように、ジャズ側からクラシック音楽の世界に “正式に” 足を踏み入れることのできるたぶん唯一の有名曲だ。好みもあるだろうが、これまで聞いてきた限り、この曲はクラシック的なリズムを基調にした几帳面な演奏はあまり面白みがないように思う。ジャズ的スウィングとグルーヴがどこかしらずっと聞こえて来るような演奏が楽しい。また何箇所かあるピアノによるカデンツァのパートは、奏者によってまったく違う個性のインプロヴィゼーションが聞けるが、ジャズファンからすると、そこがこの曲のいちばんの聴きどころだ(クラシックファン的にはこのあたりはどうなのだろうか? ド素人的には、この曲の譜面はいったいどういう構成と表記になっているのだろうか、といつも気にしながら聞いてきた。)今回オーケストラと共演した山中千尋トリオのスリリングな超高速・超強力演奏は、個人的にはもう文句なく最高だった。リニアに疾走する彼女の高速ピアノからは、いつも何とも言えないカタルシスを感じる。同じ女性ジャズ・ピアニストでも、どちらかと言えばヘビーで男性的な大西順子のピアノとは対照的なサウンドで、ダイナミックでいながら空中を翔んでいるような軽やかさがあるのだ。あの小柄な身体から、どうやってあのパワーが出て来るのかと思うくらい、ぞくぞくするほどパワフルでスウィンギングな演奏だった。アンコールのトリオによるおハコ<八木節>も、当然ながら超絶のドライヴ感で弾きまくり、相変わらず楽しく素晴らしい。オーケストラの団員も、終始驚愕の目で彼女のピアノを凝視していたのが印象的だった。クラシック界の奏者から見たジャズ・ピアニストというのは、やはり驚異の存在なのだろうと思う。

Symphonic Dances
from "West Side Story"
生のクラシックのフルオーケストラをそれほど聞き込んでいるわけではないので、構成面でのピアノとのバランスや、音楽的、技術的表現に関する部分はよく分からないが、売り出し中の原田慶太楼の指揮は山中千尋と同じく若さとリズム感にあふれ、豪快なアクションでこちらもパワフルにオーケストラを率いていたように思う。ほとんどアメリカ育ちの人のようなので、クラシックのみならず、ジャズやアメリカンポップスのリズム感が身についているのだろう、ガーシュインでの山中トリオとの連携もリズム的にまったく違和感がなく、もたつきも古臭さもなく、またエリントンもバーンスタインも、見事にオーケストラ全体を “スウィング” させていた。何よりアメリカ流に、堅苦しくなく、楽しそうに指揮しているところが良い。「デューク・エリントン」はカルヴィン・カスターという人が、<Sophisticated Lady>他のエリントンの名作4曲をオーケストラ用にアレンジした曲らしい。初めて聞いた演奏だったが、エリントンはそもそもこうしたアレンジに向いた楽曲を書いてきたわけで、当然ながらこれはなかなか面白かった。バーンスタインが作曲した、ミュージカル『ウエスト・サイド・ストーリー』からの曲「シンフォニック・ダンス」はよく知っているメロディが続き、非常に楽しめた。ただ最後がピアニッシモで消え入るように終わったが、それで終了とは気づかない聴衆から拍手が来ないまま、数秒してから指揮者が督促して拍手が起こる、という滅多にない珍妙な幕切れとなった。それまでの演奏があまりにダイナミックだったので、昔のミュージカル映画や曲の「構成」を知らない聴衆(私も含め)が、最後も派手な終わり方をするのだろう、と何となく予想していたからだと思う。だがこのあたりも、純クラシック曲の演奏会ではなく、いかにもアメリカ的、ジャズ的大らかさがあって良かったのではないだろうか。アンコールを、聴衆もよく知っていて、分かりやすく威勢の良い「マンボ」の楽章できっちりと締めたので安心した。

ラジオ収録中の山中、原田両氏(右二人)
八王子音楽祭Tweetsより
終演後、八王子ユーロードの特設ブースで行なわれた八王子FMの公開ラジオ番組収録に、原田、山中両氏が参加したトークがあり、そこへも出かけた。原田氏が実は元々サックス奏者を目指していたのでジャズもよく分かっている、という話をしていたが、その指揮ぶりからなるほどと納得した。またピアノ奏者と指揮者が、演奏中どう互いを観察しているのか、という内輪話も二人から聞けて面白かった。番組収録後には、モンク生誕100年にあたる2017年に出版した私の訳書『セロニアス・モンク 独創のジャズ物語』を取り上げ、その書評を日本経済新聞で書いていただいた山中千尋氏に直接お礼を申し上げる機会がようやく得られ、約2年間の胸のつかえが下りた。出版不況下で、モンクというユニークではあるがいわゆる人気者とは言えない音楽家の伝記であり、かつ長すぎるという理由で出版社から軒並み断られていたのを、シンコーミュージックがやっと出版してくれた本だったが、加えてジャズ界や出版界とは縁もゆかりもない人間が翻訳した本でもあり、専門誌は別として普通はなかなか一般メディアでは取り上げてもらえないものだ。しかし同じ年に、『Monk Studies』というモンクにトリビュートした新アルバムをリリースしていたジャズ・ピアニストである山中氏による全国紙での書評のおかげで、ずいぶんと本の知名度も上がったと出版社から聞いている。だが彼女は基本的に米国在住で、私はSNSもツイッターもやっていないので、これまで直接お礼する方法がなかったのである(幸運にも、今年出版した次書『パノニカ』も、仏文学者で、放送大学教授の宮下志朗氏に読売新聞で書評を書いていただいたが、実は宮下先生にもまだお礼を申し上げていない…)。また、これはまったくの偶然なのだが、実は彼女と同郷出身である旨お伝えした。ジャズ版<八木節>に即反応するのもそのためだが、こうして八王子で直接お目にかかれたのも不思議な縁である。握手してもらった手が華奢で小さいことにも驚いた。ジャズ・ピアニストという人種は私にはまさにワンダーランドの住人で、常に驚嘆するしかないのだが、あの手で、よくあのピアノ演奏ができるものだ、とあらためて本当にびっくりした。山中さんには、今後とも「ジャズ」の世界で活躍していただきたい、とつくづく思う。

2018/10/06

忘れ得ぬ声 : ジャッキー・マクリーン

なぜか時々無性に聴きたくなるジャズ・ミュージシャンがいる。サックス奏者ジャッキー・マクリーン(Jackie McLean 1931-2006) もその一人だ。私はマクリーン・フリークというほどではないが、一時期マクリーンに凝って、いろいろアルバムを聴き漁ったことがあり、当時集めたLPCDもかなりの数になっている。時々、PCに入れたマクリーンのアルバム音源を連続して再生していると、懐かしさもあって、つい時の経つのを忘れるほど楽しい。親しかった昔の友人と久々に会って、話を聞いているような気がするからだ。もう亡くなってしまった昔の知人や懐かしい友人たちは、顔も思い出すが、むしろ記憶している "声" の方が、いつまでも生々しく聞こえてくるように思う。マクリーンの場合、特にそう感じるのは、ややピッチが高めで、哀感を感じさせる、かすれたアルトサックスの音色、粘るリズムとフレーズ、演奏の中から聞こえてくるブルース……それらが一体となってマクリーンにしかない個性的サウンドを形作っているのだが、それが単なるサックスの音というより、“人間の声” のように感じさせるせいだと思う。同じチャーリー・パーカーのコピーから始めても、ソニー・スティットのような名手をはじめとした他のパーカー・エピゴーネンとは違う、マクリーンにしかないその "声” が、技術の巧拙を超えて、どのアルバムを聴いても聞こえてくる。アルトサックスではリー・コニッツもそうだが、これはジャズではすごいことで、それこそがジャズ音楽家の究極の目標の一つと言ってもいいくらいなのである。マクリーンのアルトで有名なアルバムと言えば、日本ではまずはソニー・クラークの名盤『Cool Struttin’』(Blue Note 1958)、それにマル・ウォルドロンの『Left Alone』Bethlehem 1960)が昔から定番だ。どちらも出だしの一音でマクリーンとわかる、これぞジャズというそのサウンドには忘れがたいものがある。

マクリーンの公式な初録音は、20歳のとき1951年のマイルス・デイヴィス『Dig』(Prestige)参加で、その後毎年のようにマイルスのBlue NotePrestige等のレコーディング・セッションに参加していた。初リーダー作となったのは、ハードバップの時代に入り、ドナルド・バードのトランペットも入った2管の『The Jackie McLean Quintet-The New Tradition Vol.1』1955 Ad-Lib/Jubilee)だ。私はこのアルバムが大好きで、McLean(as)Donald Byrd(tp)Mal Waldron(p)Doug Watkins(b)Ronald Tucker(ds) というメンバーによる演奏は、マクリーンもバードも含めて、ほぼ全員が20歳代の新進プレイヤーたちの気合を象徴するように、粗削りだがアルバム全体が溌溂かつ伸びのびとしていて、どの演奏もエネルギーに満ちているので、聴いていて実に気持ちが良い。ここでのマクリーンは、既にして個性全開ともいうべき鋭いフレーズと独特のサウンドを展開しており、ドナルド・バードの流れるようなトランペット・ソロ、初期のマル・ウォルドロンのアブストラクト感のあるピアノ、ダグ・ワトキンスの重量感のあるベースなど、どのプレイも楽しめる。特にマクリーンとバードの2管の相性は良いと思う。アルバム冒頭の<It’s You or No One>が聞こえてきた途端に、全盛期のモダン・ジャズの空気が流れ、マクリーンのあの “声” に何とも言えない懐かしさがこみあげて来る。私的に大好きな演奏The Way You Look Tonight>、マクリーンが書いたジャズ・スタンダード<Little Melonae>の初演、最後にはマクリーンのアイドル、チャーリー・パーカーへのオマージュとして、バラード<Lover Man>も入っている。初代レーベル(Ad-lib)は猫のジャケットだが、この2代目(Jubilee)の面白いデザイン(フクロウ?)も、本アルバムの若さと爽快感がそこから聞こえて来るようで気に入っている。

マクリーンはこの後PrestigeNew Jazzに何枚かのレコードを吹き込み、さらにドナルド・バードと共にBlue Noteに移籍し、1959年の初リーダー作『New Soil』以降、1960年代はBlue Note盤、その後ヨーロッパのSteeple Chase盤などをはじめ、一時引退するまで数多くの録音と名盤を残しており、その間独特のアルトの音色も微妙に変化してゆく。復帰後、晩年の'90年代には、大西順子(p)と『Hat Trick』Somethin’else 1996)を吹き込んでいる。人それぞれに好みがあると思うが、私が個人的に好きなマクリーンは、どれも一般的なジャズ名盤とまでは言えなくとも、やはり瑞々しい若き日の演奏が聴ける1950年代だ。まずはPrestigeの『4, 5 and 6』(1956) で、McLean(as)Mal Waldron(p)Doug Watkins(b)、Art Taylor(ds)というワン・ホーン・カルテット(4)による 3曲(Sentimental JourneyWhy was I BornWhen I Fallin' Love)、そこにDonald Byrd(tp) が加わったクインテット(5)で2曲(ContourAbstraction)、さらにHank Mobley(ts) が加わったセクステット(6)で1曲(Confirmation)ということで、タイトルの『4, 5 and6』になる。考えてみれば、Prestigeらしい適当なアルバム・タイトルだが、ヴァン・ゲルダー録音による音が生々しく、どの曲を聴いてもハードバップのあの時代が蘇って来るような、肩の凝らない演奏が続いて楽しめる。ここでもドナルド・バードのトランペットが良い味だ。

上の盤と並んで好きなこの時期のレコードは、Prestigeの傍系レーベルNew Jazzに吹き込んだ『McLean’s Scene』(1956)だ。Prestigeと違って、New Jazzのアルバムはタイトルもそうだが、このマクリーンのレコードの赤い印象的なジャケット・デザインに見られるように、どれも “一丁上がり” という軽さがなく、一応考えているように見える(Blue NoteRiversideのような丁寧さや知性は感じられないが)。こちらもMcLean(as)Bill Hardman(tp)Red Garland(p)Paul Chambers(b)Art Taylor(ds)という2管クインテットによる3曲(Gone with the WindMean to MeMcLean's Scene)と、McLean(as)Mal Waldron(p)Arthur Phipps(b)Art Taylor(ds)というワン・ホーン・カルテット3曲(Our Love is Here to StayOld FolksOutburst)を、組み合わせたスタンダード曲中心の作品だ。こうした曲の組み合わせも、Prestigeが一発録りで一気に録音した音源を、あちこちのアルバムに適当に(?)組み合わせて収録しているので、アルバム・コンセプト云々はほとんど関係ない(もう1枚、同じメンバーで同日録音した音源を収録した『Makin’ The Changes』というマクリーンのリーダー作がある。当然だが、こちらも良い)。この時代のこうしたレコードは、細かなことをごちゃごちゃ言わずに、ひたすら素直にマクリーンの音を楽しむためにあるようなものだ。ただし、マクリーンの "声" を生々しく捉えたヴァン・ゲルダー録音でなかったら、ここまでの魅力はなかっただろう。Prestigeもこれでだいぶ救われた。

もう1枚も、同じくNew Jazzの『A Long Drink of the Blues』1957)である。全4曲ともにゆったりとしたブルースとバラードで、タイトル曲で冒頭の長い(23分)のブルース<A Long Drink of the Blues>のみがMcLean(ts,as)Webster Young(tp)Curtis Fuller(tb)Gil Cogins(p)Paul Chambers(b)Louis Hayes(ds)という3管セクステット、残る3曲のバラード(Embraceable YouI Cover the WaterfrontThese Foolish Things)が、McLean(as)Mal Waldron(p)Arthur Phipps(b)Art Taylor(ds)というワン・ホーン・カルテットによる演奏だ。スタジオ内の長い演奏前のやり取りの声から始まる1曲目のブルースでは、マクリーンがアルトとテナーサックスを吹いているが、そのテナーはフレーズはまだしも、ピッチのやや上がったかすれた音色までアルトと同じようで、まるで風邪をひいたときのマクリーンみたいなところが面白い。後半のバラードは、ビリー・ホリデイの歌唱でも有名なスタンダードで、マクリーンの哀愁味のあるアルトの音色がたっぷり楽しめる。当時ホリデイの伴奏をし、独特の間を生かした自己のスタイルを確立しつつあったマル・ウォルドロンのピアノも、メロディに寄り添うように美しいバッキングをしている。この作品もそうだが、Blue Note盤のような格調、また演奏と技術の巧拙やアルバム完成度は別にして、ブルースやバラードなどを若きマクリーンがリラックスして吹いており、こちらも肩の力を抜いて、あの “声” をひたすら楽しんで聴けるところが、’50年代のこうしたアルバムに共通の魅力だ。新Macオーディオ・システムは時間とともに音が一段と良くなり、間接音の響きが増して実に気持ちが良いので、ついヴォリュームを上げてしまうが、ヴァン・ゲルダー録音のマクリーン一気通貫聴きの楽しみを倍加している。