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2022/09/14

椎名林檎・考(2)

獣ゆく細道(2018)
90年代末から約10年間、ほとんどジャズと主従逆転するほど椎名林檎を聴いていた私だが、『平成風俗』(2007) 以降は彼女の音楽から離れていた(理由はよく覚えていないが、仕事の関係とか、「東京事変」のテイストがオッサン好みではなくなったのか、あるいはたぶん歳のせいで、ついて行けなくなったのかもしれない)。ただしNHK紅白とか、ニュース番組、ドラマ、CMのタイアップ曲などは時々耳にしていたし、本当に大物アーティストになったものだと感心はしていたが、ほぼ10年近く、新作やDVDも買っていなかったので、いわば浦島太郎に近かった。だが最近になって、YouTubeで久々に近年の椎名林檎のMVやライヴ映像を見たり、歌を聴いたりして、相変わらず衰えることのないアーティストとしての挑戦意欲と創造性に改めて感動した。

2012年の「東京事変」解散後も、時代のニーズに応えて、ヴィジュアルを中心にした「エンタメ度」をさらに高めて、聴き手を楽しませる多彩な映像やショーを次から次へとプロデュースしている。当然だが20代に比べたら外見も作品も成熟し、近年はまさに「姐御」(あねご)と言うべき風格まで漂っていて、バンドやダンサーの統率はもちろんだが、コラボ・ゲストで呼んだエレカシの宮本浩次(獣ゆく細道)や、トータス松本(目抜き通り)のような先輩(一回り年長)男性ミュージシャンまで手玉に取る(?)かのような派手な舞台パフォーマンスを演出している。ステージ上の全員が椎名林檎に「奉仕」しているかのような様相は、もはや姐御どころか「女王様」で、それも歌舞伎町どころか日本のJ-POP界の女王である。東京五輪という世界的イベントのセレモニーへの椎名林檎の参画は、彼女の創造性とプロデュース能力の真価をグローバル・レベルで発揮する大きなチャンスだったと思うが、残念ながらああいう結果になった(今の贈収賄騒動を見ていても、やはり参加しなくてよかったとも言える。国や政治がからむイベントにアーティストが関わると、基本ロクなことにならないからだ)。

ところで、「アーティスト」という語を、今は私も普通に使っているが、とても「アート」とは呼べない活動をしている人間まで指す、この気取った日本語に以前は抵抗があった。音楽界では、昔は単に「歌手」とか「ミュージシャン」と呼んでいたと思うが、今はそのへんのタレントもYouTuberも、みんなアーティストだ。この語はいつ頃から日本で使うようになったのだろうか? そう思って、翻訳者でもあることだし、初心に帰って英語の「artist」を英日や英英辞典で調べてみた。「アート(art)」 はラテン語系で「人工のもの=技術」が原義で、日本語では昔から(と言っても明治以降だが)高度な技術という意味で「芸術」と訳されてきたので、どの辞書でも最初の意味は (1)「芸術家」で、ものを創造する人、特に画家、彫刻家、次に音楽家、作家などである。ヨーロッパでは画家のイメージがいちばん強い。次いで (2) 「一芸に秀でた人」という意味が時代と共にそこに加わり、デザイナー、イラストレーター、舞台芸術家、ダンサー、芸能人、ミュージシャンといった人たちが続く。そこからいわゆる (3)「名人、達人」という意味が加わり、ついには (4)「ペテン師、いかさま師」まで意味が広がってゆく(ある意味で「なるほど」とも思うが)。たぶん昔は一部の人の特殊技能だったものが徐々に社会全体に普及し、資本主義の発展と共にそれを商売にする人も増えてきて、経済規模も大きくなり、職種も多彩になり、中にはその特殊技能を使って悪事を働く人間まで出てくる (?) ――など、歴史的にその範囲も意味も拡大してきたのだろう。1960年代以降、アメリカではロックを中心に、大衆音楽に関わる人間の数が爆発的に増え、徐々にその社会的ステータスも、ミュージシャンとしての意識も向上していったこともあって、メディアが、それまでの高度な芸術創作(creation) を行なう人たちだけでなく、芸事全般に携わる人たちを、(面倒なので)まとめて「アーティスト」と総称するようになったのではないかと推察する(おそらく80年代頃から)。例によって、その英語をそのまま輸入した日本の音楽業界やメディアも、(大昔、洋楽を何でもかんでも「ジャズ」と一言で呼んだように)便利に使える「芸能人の総称」として90年代頃から使い出した――ということのようだ。

椎名林檎は言うまでもなく、上記「アーティスト」の定義をほとんどすべて満足する「代表的」アーティストの一人だ (ただし(4)の意味は除く)。20年以上にわたり、時代の変化に合わせて(その先を行きながら)様々なパフォーマンスを創作し、提供してきたが、思うに、彼女のように独自の「コンセプト」を突き詰めていくタイプのアーティストにとっては、絶えざる「自分への挑戦」こそが音楽的モチベーションを維持し、高めるための最善の方法なのだろう。私はロック方面には詳しくないので、比較するとしたらジャズのミュージシャンしか思いつかないのだが、サウンド云々ではなく音楽家としての資質的に、ジャズで言うならマイルス・デイヴィスと似たタイプではないかと思う。椎名林檎の「音楽」にはセロニアス・モンク的独創(「定型」を打ち破ろうとする意志と、それを可能にするオリジナリティ)を感じるが、彼女の音楽家としての「姿勢と思想」から感じるのは、むしろクールなマイルス的合理性だ。椎名林檎の中には、この両者が共存しているように思う。

Misterioso
(1958 Riverside)
椎名林檎の言語センスには唯一無二の独創性があるが、ユニークなのは歌詞だけでなく、アルバム名や曲名という「タイトル」もそうだ。ジャズの世界ではモンクが数々の「名言」を残しているが、モンクは言葉遊びも好きで、「MONK」と名前を彫った指輪を逆から「KNOW」と相手に読ませて、「MONK always KNOW」(いつだって分かってる)と言ったり、音楽の中にも常にユーモアとウィットを感じさせるのがモンクの魅力の一つだ。そして歌詞こそ書いていないが、モンクが自作曲に与えたタイトルにも天才的言語センスを感じる。ほとんどのジャズ・スタンダード曲は(愛だの恋だのといった)月並みなティンパンアレーの曲名がついているし、ジャズ・オリジナル曲のタイトルも、デューク・エリントンの曲など一部を除けば変哲もないものがほとんどだ。しかし70曲ものオリジナル作品を書いたモンクは、曲名のセンスも素晴らしく、<Round Midnight><Ruby, My Dear><Straight, No Chaser>などの名曲を筆頭に、<Ask Me Now><Well, You Needn't><Bright Mississippi><Brilliant Corners><Ugly Beauty><Criss Cross><Epistrophy><Reflections><Evidence><Functional><Misterioso>…等々、短い普通の単語を用いながら、曲のイメージとジャズ的フレーバーを瞬時に感じさせ、しかも哲学的な余韻まで残す独創的なタイトルが並ぶ。椎名林檎のアルバム名『無罪モラトリアム』『勝訴ストリップ』『教育』『大人』『平成風俗』『日出処』…など、また特に初期の曲名「正しい街」「丸の内サディスティック」「本能」「ギブス」「罪と罰」「浴室」「迷彩」「茎(STEM)」「ドッペルゲンガー」「意識」…などから感じるのも、モンクと同種の言語センスである(ちなみに、モンクの曲もほとんどが20歳代に作られている)。

Kind of Blue
(1959 Columbia)
モンクは自由人で天才だが、マイルスは育ちの良い秀才である。モンクはピアニストであり「作曲家」だが、マイルスはトランペッターであり「バンドリーダー」である。演奏者(パフォーマー)である点は同じだが、「楽曲のワンマン創作者」と「演奏集団の統率者」とでは見ている世界が違う。音楽家としてのモンクは、常に制約を打ち破る「自由な音楽」を創造していたが、マイルスはジャズ演奏上の一定の制約を認めた上で、その中でバンドとして到達可能な「最高度の音楽美」を追求した。そうした個性の違いはあったが、1950年代に二人が見ていたジャズは、まだビバップを起源とする「アート」だった。それが変質し始めた1960年代になっても、モンクはまだ従来のまま「独自の曲」を書き続けようとしていた(ドラッグの影響と体力の低下で徐々にそれができなくなる)。一方、マイルスは最初から常に「次に何をやるか」を冷静に考えていた音楽家だった。1940年代後半からビバップ、クール、ハードバップ、モード、ファンク……と、ほぼ5年おきに自身の音楽をあえて変化させて「新たなスタイルのジャズ」を創ることへの挑戦を続け、そのつどそれを成功させて「本流」としてジャズ界をリードし続けた。

ジャズの「芸術的」頂点と言われるモードの傑作『Kind of Blue』(1959) を発表した後、60年代のマイルスはモードを洗練させることに注力し、オーネット・コールマンの登場後、主潮流になったフリー・ジャズへは向かわず、むしろ大衆音楽として新たに台頭してきたロックやR&Bの特徴や動向を冷静に観察し、分析していた。音楽的な理由もあっただろうが、何よりフリー・ジャズでは「金(ビジネス)にならない」ことが聡明なマイルスには分かっていた。音楽家として、アメリカという国で「生き残る」には、一部の聴衆にしか理解できない難しいことだけやっていてはだめで、一定数の「大衆」の支持が不可欠だと考えていたからだろう。大衆に受け入れられ、彼らに飽きられず、なおかつジャズ・アーティストとして自らの「芸術上の基準」も満たす音楽を創造すべく、常に「次の目標」へ向けて挑戦を続けていたのである。

ジャズの宿命だったコインの表裏であり、資本主義の発展と共に1960年代に顕著になったこの「芸術(アート)と芸能(エンタメ entertainment)の相克」は、やがて資本主義下のアーティストの誰もが向き合わざるを得なくなる問題だが、マイルス・デイヴィスという人は、60年代当時最先端の「アート」だったジャズ界のリーダーとして、その問題を「止揚」(aufheben) すべく苦闘していた音楽家だったと私は考えている。そして60年代後期に行き着いたマイルスの答えが、電子楽器とポリリズムを導入した『Bitches Brew』(1969)に代表されるエレクトリック・ジャズである。マイルスは、それまでのホーン奏者を中心とする「個人の即興演奏」から、ギターやキーボードという電子楽器を使った「集団即興」へとジャズのスタイルをシフトさせた。同時にステージ上ではヒップさを強調し、ロックを意識した派手な衣装ばかりか、演奏時の見栄え、振舞いなど、音楽以外のパフォーマンスも含めてエンタメ志向を強めていった。それが70年代以降、ファンク、フュージョンという、より大衆寄りの新しいジャズのスタイルと流れを生み出し、その歴史的転換によって、ジャズと、ロック、R&B、ポップスという他のポピュラー音楽との「境界線」も、その後さらに薄れてゆくのである(これをジャズの「拡張」と言うか、「衰退」と見るかは意見が分かれる)。ジャズ出身のアレンジャー、クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンの80年代におけるコラボは、いわばその総仕上げと言えるだろう。

三毒史 (2019)
こうして20世紀の代表的アートの一つだった、アコースティック楽器による「モダン・ジャズ」が終わりを迎える頃(1978年)に生まれ、バブル後の90年代日本のポピュラー音楽界に現れたのが椎名林檎である。音楽ビジネスも当時は不況の影響を大きく受けていたことだろう。その経済環境下で登場した椎名林檎は、生来「アート志向」が非常に強いミュージシャンだったがゆえに、マイルスと同じく、この「アートとエンタメ」という問題を最初から強く意識し、音楽家としてのアーティスティックな目標とビジネスの成功を「両立」させるための手法を、冷静に考え抜いてきたのではないかと思う。

この「アートかエンタメか」という二元論は、「ジャズか否か?」あるいは「ロックか否か?」、という大昔の音楽ジャンル議論と同じく1990年代まではかろうじて存在していた。しかし90年代以降、情報と経済のグローバル化の進展が社会の価値観を変えた。「アート」を真剣に追及することよりも「カネになるか、ならないか」という2択のエンタメ(=商業主義)全盛となった21世紀の今は、この二元論は完全に消え失せたと言っていい(「アーティスト」という言葉だけは残ったが)。現在クラシック、ジャズを含めてあらゆる音楽ジャンルで進行しつつあり、この20年間の椎名林檎の音楽・映像作品、ステージ演出の推移が如実に示しているように、21世紀の今は、アートとエンタメは、完全に一体化された「パフォーマンス」として「止揚」されつつあると言っていいのだろう。そうした見方からすると、2003年の椎名林檎のアルバム『カルキ』は、マイルスの『Kind of Blue』と同じく、「アート」の価値がまだかろうじて残されていた時代に、アート志向が強かった若き椎名林檎が挑戦し、到達した「頂点」と言うべきアルバムだったと言えるだろう。(続く)

2022/09/04

椎名林檎・考(1)

山本潤子の正統的かつ清々しい歌も好きだが、正反対のような椎名林檎の予定調和を覆す、超個性的な歌も私は好きだ。ジャズで言うと、トリスターノやリー・コニッツの破綻のないストイックなサウンドもいいが、モンクの自由で独創的な音楽にも惹かれるというようなものだろう。この両極とも言うべき音楽嗜好は、ある意味節操がないが、自分が椎名林檎の音楽に惹かれる理由は、たぶんモンクと同じく、既成の枠組みを乗り越えようとする強靭な「意志」と、それを支える唯一無二の「オリジナリティ」を感じるからだろうと思う。

    歌舞伎町の女王
1990年代末に椎名林檎がデビューしてから10年間ほど、彼女のCDとDVDのほとんどを購入して聴いたり見たりしていた。当時は、なんだかもうジャズにあまり魅力を感じなくなっていて、何か他に面白い音楽はないものかと、J-POP含めてあれこれ聴いていた。しかし打ち込みとサンプリングで、似たような曲だらけになっていた90年代J-POPの中で、偶然耳(目)にした強烈な「歌舞伎町の女王」(1998) にあっという間にやられた。日本的で、猥雑で、まるで昭和ど真ん中のような歌と映像の世界があまりに面白くて、すぐにカラオケでも唄っていたくらいだ。こうして椎名林檎はデビュー2曲目(シングル)にして、ロック好きの同世代の若者だけでなく、ママやチーママがひしめく夜の歓楽街で、いかにも実際にありそうな話をファンタジーとして描いたこの曲によって、中高年オヤジ層もファンの一部として「取り込む」ことに見事に成功した。続くナース姿の『本能』での、ワイルドかつ官能的世界もそれを加速したことだろう。若い人たちは気づかないかもしれないが、椎名林檎の音楽にはそもそも、基本的要素としてのロックやジャズの他に、日本人中高年層の体内に刷り込まれた昭和的体質が「つい反応」してしまうような、演歌や歌謡曲、シャンソンその他諸々の大衆音楽の要素が散りばめられているのだ。大衆的どころか、とんがったアブないイメージが強い楽曲にもかかわらず、性別や世代を超えた、椎名林檎の全方位的人気の理由の一つはそこにあるのだと思う。

   無罪モラトリアム
手持ちのiTunesのデータを調べてみたら、1999年の『無罪モラトリアム』から『勝訴ストリップ』(2000)『唄ひ手冥利〜其ノ壱〜』(2002)『加爾基 精液 栗ノ花』(2003) 、さらに「東京事変」の『教育』(2004)『大人』(2006) 、斎藤ネコとの『平成風俗』(2007) までのCDが入っている。他にDVDとして『性的ヒーリング壱、弐、参』『短編キネマ 百色眼鏡』『賣笑エクスタシー』などを所有している(当時よほど嵌っていたのだろう)。'00年代に入るとテレビ出演などメディアへの露出も増え、特に3作目の『加爾基 精液 栗ノ花』のリリース前後には、筑紫哲也や久米宏とのニュース番組での対談等を通じて、中高年インテリ層の認知度もさらに高まった。こうして椎名林檎は、デビュー当時のアングラ的イメージが強いキワモノ・ロック歌手扱いから、完全に「メジャー・アーティスト」の一人へと「昇格」したのである。

日本のポップス史上、松任谷由実 (1954-) と並ぶ最高の「女性アーティスト」はやはり椎名林檎 (1978-) だろう。以前にも本ブログで書いたことがあるが、その音楽的スケールと影響力、独創性、作詩・作曲能力、プロデュース能力、性別・世代を超えたパフォーマーとしてのポピュラリティ等――全ての点においてこの二人の才能は傑出している。さらに、ユーミンの歌や曲はいまだに古びず、単なるナツメロではなく時代を超えて愛され続けている。そのユーミンから四半世紀後に登場した椎名林檎は、デビューした年齢も、十代から曲を作ってきた点でもユーミンとほぼ同じだが、若者のほとんどが音楽そのものに熱狂した「70年代」ではなく、音楽がモノと同じように日常の中で消費され捨てられるようになった「90年代」という時代に現れたために、この点では不利だ。しかし'00年代に入ってからもコンスタントに新曲やアルバムをリリースし続け、十代に作った自作曲を20年後のライヴの場で唄い、まったく古くささを感じさせないどころか、そこにさらに新鮮な魅力を加えている椎名林檎も、この「時間」という試練を完全に乗り超えた本物のアーティストになったと言えるだろう。

1970年代という、高度成長期の活力に満ちた日本、希望に満ちた未来へと成長を続けた明るい日本を象徴していたユーミンの楽曲の背景には、バブルに向かって日々変貌していた「モダンな都会」というイメージが常にあった。それに対し、そのバブルがはじけて「昭和」的世界が文字通り終焉を迎え、不況とリストラで先の見えない世紀末の日本であがく団塊ジュニア、氷河期世代の一人として登場したのが、1978年生まれの椎名林檎である。さらに90年代半ばには阪神大震災やオウムのテロが続き、堅牢で安定していたはずの世界が脆くも崩れてゆく様を目撃し、喪失感、孤独感を募らせていたこの世代の音楽家に、自分の思いや感情をてらいなく表現したり、皆で一緒に唄える希望に満ちた歌など、もはや作れるはずがなかった。それまでの日本のポップスにはおよそ見られなかった、椎名林檎の楽曲が持つ深い陰翳と屈折には、個人的資質だけでなく、疑いなくこうした時代背景が投影されていると思う(「スピッツ」の楽曲にも同種のものを感じる)。そして2001年、追い打ちをかけるように、テレビの画面を通してリアルタイムで目撃した米国9.11テロが、アーティスト椎名林檎にさらなる衝撃を与える。

   賣笑エクスタシー
椎名林檎のコスプレ的表現、芝居(演劇)や芝居小屋(劇場)好きは、初期の頃からのMV (Music Video) や映像作品が示す通りだ。残念ながら、私は彼女の本物のライヴの舞台を見たことがないが、DVDなどの映像で見るかぎり、MVやライヴステージは音だけのCDよりも圧倒的に魅力的だし、面白い。テレビ番組では制約があって、その魅力が出せないだろうが、本物のライヴは、きっと芝居小屋のような幻想的かつ猥雑な面白さで一杯だっただろう。MVは80年代からあったが、歌だけでなく、最初からその強烈な「ヴィジュアル・イメージ」を意図的に前面に打ち出して登場した新人アーティストは、日本のポップス史上、おそらく椎名林檎が初めてだろう。90年代からのデジタル技術の進化によって、映像作品の制作が容易になったこともあって、今では当たり前になった映像込みの歌のプロモーション(PV) を、既に90年代の後半に彼女は始めていた。当然ながら、背景にはレコード会社を含めた周到な戦略的マーケティングがあっただろうし、女子高生や新宿系やナース姿などの映像は確かにインパクトがあったが、ある意味で「あざとい」印象を一部の人たちに与えたことも事実だろう。

初期からのMVや映像作品をずっと見ていると分かるが、彼女は最初から「素顔」をほとんど見せない。新作のたびに、まず楽曲の背景になる独自の「物語(シナリオ)」を創作し、その設定に基づいて変幻自在の「椎名林檎」というコスプレ(主演女優)を演じる「出し物」を上演している。歌手にとって自らの存在を象徴する「声と歌唱」も、ドスのきいた巻き舌によるワイルドな歌唱から、幼女のようなあどけない声に至るまで、その「出し物」に応じて千変万化する。まるでカメレオンのように、衣装はもちろんこと、自分の「顔」ですら、新曲を発表するたびに、同じ人物かどうか分からないほど毎回「変えて」いたのが椎名林檎なのだ。女性に人気がある理由の一つは、このパフォーマンスが彼女たちの変身願望を刺激するからだろう。

そこにあるのは、舞台上で観客の視線を一身に浴びる「椎名林檎」をどう演出するか――すなわち、冷静かつ複眼的な視点で「アーティスト椎名林檎をプロデュースする」というコンセプトである。椎名林檎は最初から、単なる作詞・作曲家でも、歌手でも、女優でもなく、それらを統合した「アーティスト」だった。おそらく彼女が最もやりたかったのは、単純な歌手・椎名林檎のショーではなく、「椎名林檎一座」による現代の見世物としての「芝居」(パフォーマンス)であり、彼女は最初から一座の座長(総合プロデューサー)だったのだろう。椎名林檎の、あるときは和風であり、あるときは洋風でもあるという和洋ごちゃまぜ、またあるときはレトロであり、あるときはモダンでもあるという時代交錯感を醸し出す唯一無二の音楽表現に散りばめられたロック、ジャズ、歌謡曲、シャンソンなどの諸要素は、彼女の体内に蓄積され、形成されてきた並はずれた量のデータベースから生まれてくるものだが、アルバムであれ、コンサートであれ、映像作品であれ、それらはすべてこの「芝居」を構成し、娯楽として提供するためのパーツにすぎない。だから2004年に立ち上げたバンド「東京事変」は、この「芝居」の幕間の「音楽ショー」という位置付けなのだろう、と当時の私は勝手に推測していた。

     加爾基 精液 栗ノ花
ド素人の私見だが、このように基本的に「アート志向」の音楽家だった椎名林檎のデビュー後10年間のアルバムを振り返ると、その「芸術的頂点」は、やはり2003年に発表した3作目の『加爾基 精液 栗ノ花』(=カルキ)だろう。十代に作ったという名曲が並ぶ『無罪』『勝訴』は文句なしに素晴らしいアルバムだったが、正直に言って、『カルキ』はまず不思議なタイトルも含めて、最初にそのダークなサウンドを聴いたとき、椎名林檎は頭がおかしくなったのかと思ったほどだ。多重録音を多用していて、一度聴いただけでは掴み切れないほど複雑なサウンドの曲が多いので、何度聴き返したか分からないほど聴いた。しかし繰り返し聴いているうちに、これは本当にすごい作品だと徐々に思うようになった。今も時どき聴くが、まったく飽きないし、古さを感じない(つまり、そこはジャズの名盤と同じである)。冒頭の「宗教」から終曲「葬列」まで、隙のない、緻密に作り上げた曲だけで構成され、詩集、あるいは短編小説集のような文芸色を感じるこの作品も、全てが名曲だ(ただし、ほとんど素人には唄えないような曲ばかりだ。これは「聴く」ための作品なのだ)。しかし今でも、このアルバムを全曲通して聴くと「頭が疲れる」ので、直後に分かりやすいJ-POPでも聴いて頭を休めたくなる。

この「凝りに凝った」アルバムで、椎名林檎はその才覚を駆使して、やりたいことを全てやりつくしている感がある。作詩、作曲、歌唱、編曲、録音、さらに写真、ジャケットデザイン、詩のフォント、シンメトリーにこだわった曲名や言葉の配置、アルバム全体の構成に至るまで、アルバム・コンセプトへの徹底したこだわりぶりは怖いほどだが、それを20代前半という年齢で実現してしまった早熟ぶりと、作品プロデュース能力、それを可能にするアーティスティックな才能は恐るべきものだ。デビュー後、結婚、出産、離婚を経て「大人」になった椎名林檎が、時代性や商業性よりも、「アーティスト椎名林檎」として本当にやりたいことを、とことん突き詰めて作ったアルバムが『カルキ』だったのだろう。そして、個人的体験である出産の「生」、さらに9.11テロが与えた社会的な「死」のイメージも、この作品全体のトーンに影響を与えているように感じる。

      平成風俗
『カルキ』は、タイトル(人前で口に出しにくい)、録音・制作手法(手作り感、多重録音の多用、曲間のつなぎ、音が聴き取りにくい、CCCD等々) に関する物議をかもし、前2作との印象の違いに、ファンの意見を二分したアルバムだったようだが、この『カルキ』のすごさが理解できないと、椎名林檎の半分しか楽しめないことになるだろう。『カルキ』はCDだけでなく、同時期に発表した『短編キネマ 百色眼鏡』『賣笑エクスタシー』他の一連のDVD群と共に、「音と映像」によるマルチメディア作品の一部として鑑賞することで、その世界観のスケールと奥行がさらに理解でき、楽しめる。そしてもう一つ、ライヴ映像を見れば明らかだが、これらの作品は「斎藤ネコ」の超アバンギャルドでグルーヴィーなヴァイオリンとアレンジ、アコースティック楽器によるジャズ演奏という音楽コンセプトなしには表現できない世界だ。「迷彩」のライヴ演奏の後半などは、ほとんどフリー・ジャズだ。

その後、映画『さくらん』の音楽を手掛けるにあたって斎藤ネコと再度共作する。そして今度はホーンとストリングスのフル・オーケストラを編成して、「大人」の鑑賞にも耐えるジャジーなアレンジと聴きやすい録音で、セルフカバー曲を含めて仕上げた『平成風俗』(2007) は、傑作『カルキ』のいわば続編であり、変奏曲であり、別テイクでもある(『カルキ』の原曲を中心に、「商業的に」磨き上げた作品と言ってもいい)。サウンドが激しくないので、高齢者でも(?)何度も聴いて楽しめる奥深さを持ったこの2作は、今も椎名林檎の私的ベストアルバムである。陰翳の濃い曲ばかりで、個人的には優劣がつけ難いが、強いて言えば、編曲を含めた好みは「迷彩」「やっつけ仕事」「意識」「ポルターガイスト」「ギャンブル」「浴室」などだ。名作「夢のあと」も、東京事変『教育』の初出バージョンよりも、『平成風俗』版の方が好みだ。(続く)

2017/12/22

時代を超える歌姫たち

年末になると、年寄り向けに昔の歌手や歌を特集したテレビ番組が増えるが、先日は今年亡くなった作曲家・船村徹(1932-2017) の特集をやっていたので、つい見てしまった。私は基本的にはジャズ中心に聴いているが、クラシックもJ-Popも、時には古い演歌や歌謡曲も聴く。我々の世代は、中学時代以降にプレスリーやビートルズによって洋楽の洗礼を受けた人がほとんどだと思うが(私はアストラッド・ジルベルトのボサノヴァも同時に聴いていたが)、それ以前は普通の家庭のラジオやテレビから流れていたのは大部分が演歌や歌謡曲だったので、幼少期に自然と脳に刷り込まれているそういう音楽には無意識のうちに反応してしまうのである。なので、ずいぶんとそのジャンルの曲も聴いてきたが、やはり作曲家・船村徹と作詞家・阿久悠は日本オリジンの歌謡曲史上でも別格の存在だと思う。船村徹は自作曲をギターを弾きながら自身でも歌っているが、哀感に満ちたその歌と歌唱は、どの曲も日本人中高年の心の琴線に触れる素晴らしさだ。(特に年末に聞く、高橋竹山を謳った「風雪ながれ旅」には痺れる。)

不死鳥 (DVD)
 美空ひばり
(1988 日本コロムビア)
その番組の最後の方で、星野哲郎・作詞、船村徹・作曲という黄金コンビによる「みだれ髪」を、1987年に闘病後復活した美空ひばり (1937-89) が レコーディングし、1988年の武道館コンサートで歌うまでの短いエピソードを紹介していたが、ひばりの歌にはあらためて感動した。実を言えば、若い時にはひばりにはまったく関心もなかったのだが、自分が年齢を重ねるにつれて徐々にその凄さがわかってきた。この映像もたぶん以前に見たり聞いたりしたことがあったのだろうが、なぜかこの時には、彼女の歌唱に思わず引き込まれてしまったのである。美空ひばりは戦後の復興昭和時代を象徴する歌手であり、数え切れないほどの名唱を残している人だが、絶唱とも言えるここでの歌唱には、ジャンルも時代も超えた圧倒的な存在感と心に深く響く美しさがあった(この曲は、後でYouTubeで聴いた藤圭子の歌も実に素晴らしかった。2大名唱と思う)。ひばり後、昭和後期の高度成長とバブル期の<表>を象徴する女性歌手・作曲家は松任谷由美であり、<裏>はたぶん中島みゆきだろう。そしてバブル後、混沌の平成の象徴は椎名林檎だろうと思う。これらの女性アーティストたちは、その音楽的スケール、独創性、作詩・作曲能力、性別・世代を超えたポピュラリティ、全ての点において傑出した才能を持っている。そして日本でその嚆矢となったのが、歌唱の世界のみだが、美空ひばりなのだ。彼女たちはそれぞれ幼少期に生きていた時代が違うので、体内に蓄積された音楽的要素の質・量が異なるだけで、持てる才能のレベルは同じだと思う。ひばり、ユーミン、中島みゆきの歌や曲はいまだに古びず、単なるナツメロではなく時代を超えて愛され続けている。だが椎名林檎は、音楽がモノと同じように日常の中で消費され、捨てられるようになった時代に現れたためにこの点で不利だ。歌におけるメロディの重要度が時代と共に薄れ、歌そのものが複雑になり、かつては人々の記憶にすぐに定着していたシンプルなメロディを持つ音楽が減ってきた時代背景もある。あらゆるものが断片化している現代では、音楽的成功の形も同じくマスから断片へと移行し続けるだろう。だから今後日本のポピュラー音楽の世界で、これらの女性たちと同等の音楽的スケールを持ち、かつ大きな成功を収める女性アーティストが現れるかどうかは疑問だ。

Lady in Satin
Billie Holiday
 (1958 Columbia)
さて、その美空ひばりの「みだれ髪」を聴いていて否応なく思い起こしたのがビリー・ホリデイ Billie Holiday (1915-59) である(私の訳書に出て来るが、セロニアス・モンクが、若い時に寝室の天井にホリデイの写真をテープで留めて貼っていた、という話は面白かった)。昔からホリデイを聴くとひばりを思い出し、逆もまたしかりだったが、この二人は本質的な部分で実によく似ているのである(二人は顔の骨格もよく似ているように思う。なので発声も声質も似ているように私には感じられる)。ひばりは若い時からジャズを歌っているし、影響を受けたかどうかはよくわからないが、当然ホリデイも好きだったという。しかし、ひばりの歌は洋楽も含めて、どんな曲を歌っても「借り物」という感じがせず、完全にその曲を自分のものとして消化し、自分の世界で歌ってしまうところが非凡なのだ。ビリー・ホリデイもまったく同じで、何を歌ってもホリデイのメロディ、リズムの世界にしてしまう。通常の、歌がうまいとか下手だとか、ピッチやディクションがどうだとかいうレベルの評価とはまったく無縁の存在なのだ。そして二人に共通しているもう一つの点は、万人の心に訴えかける「歌の力」だ。つまり、二人とも歌謡曲やジャズといった商業ジャンルなどは遥かに超えた、そしてその比類のない個性ゆえに時代さえも超えた大天才歌手なのである。とはいえ、個人的な好みを言えば、二人とも若い時の歌よりも、夕陽が沈みかけ、消えかかるときのような晩年の歌唱により惹かれるものがある。体力や技術、声の瑞々しさに頼って楽々と歌った若い時期よりも、それができなくなって、やむなく全身から絞り出すように、天才が魂を込めて歌うヴォーカルに感動するのだ。モンクやパウエルの晩年のピアノ演奏にも同じことを感じるので、これは自分が年を取ったという証かもしれないが、音楽にはそういう美の世界というものがあると思う。だから晩年のひばりの「みだれ髪」に感動したように、昔から私のいちばん好きなビリー・ホリデイのレコードは、絶頂期の若い時の録音ではなく、亡くなる前年19582月にストリングスをバックに録音した『Lady in Satin』Columbia)である。<I’m a Fool to Want You>を筆頭に、肉体の衰えが表現の一部となって昇華したかのような曲と歌が、どれも心に染みる素晴らしいアルバムだ。ホリデイの苦難の生涯のことは様々に語られて来たが、ここで聞けるのは、これまでの自分の人生をゆっくりと振り返りながら、同時に彼岸を見ているかのような、諦観と愛と静けさに満ちたホリデイの絶唱である。

The First Recording
Nina Simone
 (1958 Bethlehem)
音楽ジャンルも時代も超えて人の心に訴えかける歌姫は、クラシックでもシャンソンでも、民俗音楽の世界にもそれぞれいるが、ジャズ・ヴォーカルではホリデイと並んで、そうした魅力と能力を感じさせるもう一人の天才女性歌手がニーナ・シモン Nina Simone (1933-2003) だ。上記ホリデイのアルバムと同じ1958年に録音されたシモンのデビュー作『The First Recording (Little Girl Blue)』(Bethlehem)も、そうした普遍的価値を持つ傑作アルバムである。ここで聞けるシモンの歌は、まだ若い25歳くらいのときのものだが、どの歌唱も本当に素晴らしい。<Little Girl Blue>、<I Loves You Porgy>などの名曲の他、全てが名唱であり、クラシック・ピアノの訓練を積んだシモンの端正なピアノと、ゴスペルやブルースを身体深く浸みこませた彼女の歌が、絶妙にバランスした唯一無二の歌の世界を聞くことができる。シモンはそもそもジャズというジャンルにこだわった歌手ではなく、60年代以降はより広い音楽ジャンルと公民権運動に活動のベクトルが向かい、様々な問題を抱えた70年代以降、2003年にフランスで亡くなるまで厳しい人生を送ったようだ。しかし、ホリデイの<I'm a Fool to Want to You>と同じく、冒頭のスピリチュアルのごとき<Little Girl Blue>1曲が象徴するように、今から60年も前のモダン・ジャズ全盛期に吹き込まれた、このデビューアルバムから聞こえる魂の歌には永遠の価値がある。