ページ

ラベル 狭間美帆 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 狭間美帆 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020/03/07

Play ”MONK"(2)

The Thelonious Monk
Orchestra at Town Hall
1959 Riverside
モンク作品をラージ・アンサンブルで演奏する、というコンセプトは魅力的だと思うが、それを最初に手掛けたのはモンク自身だった。1959年のRiverside時代に、当時ジュリアード音楽院の教授で大のモンク・ファンだったホール・オヴァートン Hall Overton (1920-72) との共同編曲で、モンクはビッグバンドのコンサート・ライヴ『The Thelonious Monk Orchestra At Town Hall』を録音し、さらに1963年にはコロムビアでもう一作同じくオヴァートンとライヴ・コンサート・アルバムを残している(Big Band and Quartet in Concert』)。いずれもテンテット(10人編成)で、モンクの過去のコンボ演奏のサウンドを、より大きな編成のバンドによる演奏で拡張するというコンセプトであり、自分の過去のレコード演奏をオヴァートンと綿密に分析しながら、最終アレンジメントを仕上げていったとされている。いわばある種の "Monk Plays Monk" である。モンクはその後のヨーロッパ・ツアー時にも同様の編成でコンサートを行なっているので、このアイデアとフォーマットにはモンク自身がずっと興味を持ち続けていたようだ。(詳細は本ブログ 2017年10月の「モンクを聴く#9: Big Band」をご参照)

モンクはソロが良いと昔から言われてきたのは、まず曲が難しいこともあるが、モンクの意図と彼がイメージしているサウンドを理解し、実際に演奏でそれを表現できる奏者が限られていたからだ。そのスモール・コンボではなかなか完全には表現し難い、複雑なリズムとハーモニー、内声部の動きを持つモンク作品のサウンドを、 ”ラージ・アンサンブル” によって表現するのは、アレンジャーにとってさらにハードルが高いはずだが、確かに非常に興味深いチャレンジではあるだろう。モンク本人でさえそう感じていたからこそ、何度も挑戦したわけだが、モンクが直接関与した編曲に基づく演奏すら当初酷評されたように、成功させるのは簡単ではない。そもそもモンクの音楽自体が当たり前の語法に則っていないし(それが魅力なわけでもあり)、小編成コンボでもサウンド的に満足していたわけではない曲を大編成バンドで拡張して表現するのは、前にもどこかで書いたが、大キャンバスにほぼ即興で抽象画を描くようなものなので、成功させるには並大抵ではない編曲能力とセンス、演奏能力が要求されるからだ。しかし難しいが、仮に成功したら、他の音楽や演奏では決して味わえない素晴らしく魅力的なジャズになる可能性もある。

以下に挙げるのは、これまでに私が探して聴いた「ラージ・アンサンブルによる全曲モンク作品」というレコードだが、もちろんド素人の私に演奏の優劣を判断する能力はないので、あくまで参考として個人的な印象を書いただけである。演奏の評価はプロの音楽家や、聴き手それぞれの視点や嗜好で判断すべきことだが、いずれにしろこの聴き比べは、モンク好きなら楽しめる作業であることは確かだ(ただ、モンク好きでビッグバンドも好き、あるいはビッグバンド好きでモンクも好き、という人がいるのかどうかはよく分からないが…)。それに、レコード(CDでもデータでも)の場合、大型スピーカーで大音量で鳴らせれば別だが、中型以下のスピーカーで聴くビッグバンドは正直言って魅力が半減する。どうしても、迫力に欠け、低域に比べて高音部がやかましく聞こえるからだ。ライヴで聴く優秀な大編成バンドのジャズ・サウンドは、一度聴くと病みつきになるくらい素晴らしいのだが……。

90年代ではまず、ドラマーで息子のT.S.モンク(1949-) がドン・シックラー Don Sickler(1944-)の編曲で、上記モンク録音を参考にしながら、父の生誕80周年に共同で発表した、10-12人編成のオールスターバンドによる父親へのトリビュート・アルバムMonk on Monk』(1997 N2K)がある。豪華オールスターに気を使いすぎたのか、どの曲も整然とアレンジされすぎていて、モンク的破綻(?)や意外性がなく、どこか物足りないという感は否めないが、古臭くはなく、かと言って新しさを狙った風でもなく、非常にオーソドックスなアレンジの演奏だ。しかし、なにしろヴァン・ゲルダ―による現代的なクリーンで厚みのある録音で、きっちりとアレンジされたモンクの名曲を、モンクをよく知る一流プレイヤーたちが次から次へと演奏するサウンドを聴いていると、これはこれで単純に気分が良く、私的にはとても楽めるレコードだ。(収録曲、メンバー詳細等は、2017年11月の本ブログ 「モンクを聴く#15:Tribute to Monk」 をご参照)

The Bill Holman Band
Brilliant Corners
The Music of Thelonious Monk
1997 JVC
同じ時期(1997年)に発表されたもう1枚が、JVCがプロデュースしたビル・ホルマンBill Holman(1927-)のバンドによる『Brilliant Corners:The Music of Thelonious Monk』だ。ホルマンは、スタン・ケントン直系の西海岸の伝統的アレンジャーで、能力とセンスは折り紙付きなのだろうが、モンクの音楽との相性がどうかと思っていた(60年代末に、モンク/オリヴァー・ネルソンというCBSでの残念な組み合わせの前例があるので)。結果は予想通りというべきか、確かに流麗、ゴージャス、モダンな演奏は素晴らしいのだが、洗練されすぎているためか、ごく普通のビッグバンドのサウンドのように聞こえ、モンクを全面に出してタイトルを謳うほどの個性的なモンク解釈が感じられないような気がする。だが、たぶんこれは好みの問題なのだろう。
* 収録曲は以下の10曲。
 Straight, No Chaser /Bemsha Swing /Thelonious /'Round Midnight /Bye-Ya /Misterioso /Friday the 13th /Rhythm-A-Ning /Ruby, My Dear /Brilliant Corners

Standard Time Vol.4
Marsalis Plays Monk

 1999 Sony
まったく知らなかったのだが、意外なことに、ウィントン・マルサリス Wynton Marsalis(1961-) がモンク作品をノネット編成で演奏した『Standard Time Vol.4: Marsalis Plays Monk』というレコードをリリースしている(1999 Sony ただし録音は93/94)。超有名曲をあえてはずした選曲になっているところが、ウィントンらしいと言えようか。予想されたことだが、印象としてはまさしくマルサリス的モンクで、まったく別の音楽(クラシック?)のように聞こえるところもある。何というか、熱さとか、ユーモアとか、ウィットとか、温かみとか、基本的にモンクの音楽の属性というべき要素がことごとく除去されて、全体が蒸留されたような、アクのないサウンドだ。ニューオリンズのように聞こえる部分もあって面白い工夫も見られるのだが、基本的には滑らかで上品、低刺激なモンクなので、大きく好みが分かれるだろう。とはいえ、これらの演奏から、マルサリス的解釈による作曲家モンクへの敬意というものが、素人の耳にもどことなく伝わって来ることも確かだ。
* 収録曲は以下の14曲。
Thelonious /Evidence /We See /Monk's Mood /Worry Later/Four in One /Reflections /In Walked Monk (Marsalis) /Hackensack /Let's Cool One /Brilliant Corners /Brake's Sake /Ugly Beauty /Green Chimneys

考えてみると、上記3枚のCDはいずれも1990年代の演奏と録音であり、アレンジャーも参加プレイヤーたちも、モンクと同時代を生きていたメンバーがほとんどだ。だから1950/60年代のモンクの天才と斬新さを記憶し、みんなが身体でそれを覚えているがゆえに、基本的にモンクのイメージをなぞるような正統的リスペクトになるのかもしれない。そう思って聴けば、これらはいずれも良くできた楽しめるレコードだろう。

それから20年近くを経て、ピアニストのジョン・ビーズリーJohn Beasley (1960-) がMONK’stra Vol.1』&『Vol.22016&2017 Mack Avenue)という2枚のアルバムを発表している(Vol.1 /9曲、Vol.2 /10曲)。モンクを大編成バンドで演奏すべく2013年に結成された「モンケストラ」は、基本15/16人編成のラージ・アンサンブルで、こちらはアレンジャーも若く、生きた時代も違うので、好き勝手とまでは言わないが、かしこまらないで、現代のリズムやグルーヴを大胆に取り入れたかなり遊びの精神が入った多彩なアレンジになっている。そもそもモンク自身がある意味ルール破りの達人だったわけで、こうした型破りな挑戦は、現在のアーティストがモンクをリスペクトする一つの方法でもあるだろう。しかし私的には、2作品ともに全体としてあれこれ奇を衒いすぎた感が強く(いじりすぎでうるさい)、あまり「ジャズ」的なグルーヴを感じさせないのが残念だ。それとビル・ホルマンもモンケストラもそうだが、いずれも西海岸のビッグバンドだ。これはあくまで個人的感覚にすぎないが、そのせいかサウンドがどことなく(オリヴァー・ネルソン盤ほどではないにしても)、モンクにしてはやや明るく、きらびやかすぎるように聞こえる。個人的には、モンクの音楽はやはり、ニューヨークの景色に似合った、しぶく艶消しのサウンドがよく似合うように思う。

The Monk; Live at Bimhuis
狭間美帆
2018 Universal
The Monk: Live at Bimhuis』(Universal) は、狭間美帆がオランダの ”メトロポール・オーケストラ” を指揮して、モンク作品全7曲を演奏した最新CDだ2017年10月(狭間が出演した「東京ジャズ」のすぐ後)にアムステルダムの「ビムハウス」で、モンク生誕100周年記念コンサートの一環としてライヴ収録された演奏で、7曲のうち<Round Midnight>、<Ruby My Dear>など4曲は、モンクの ”ソロピアノ” 演奏を元にして編曲したものだという。作曲家モンクの頭の中で ”鳴り響いていたはずの音” を、オーケストラのサウンドで表現するという試みであり、これはモンクがホール・オヴァートンと「タウンホール」コンサート向けに行なった編曲手法と同じだ。世界で唯一と言われるジャズ・フィルハーモニック・オーケストラによる斬新な演奏は、モンク的フレーバーを感じさせながら、何よりもカラフルな「現代のジャズ」を感じさせるところが素晴らしい。上記2枚の録音のLA的輝きよりも、サウンドにヨーロッパ的陰翳と、ある種の重さが感じられるところも私的には好みだ。単なるアレンジャーではなく、作曲家という狭間のバックグラウンドが、こうした斬新なアレンジと演奏を可能にしているのだろう。狭間美帆は2017年の「東京ジャズ」で自ら指揮し、素晴らしい演奏を聞かせてくれたデンマークラジオ・ビッグバンドの首席指揮者に2019年10月から就任しており、今後も益々活躍が楽しみな作曲家・アレンジャーだ。秋吉敏子に次いで、日本のジャズ界から世界で活躍するこうした才能が現れたことを非常に嬉しく思う。今年2020年5月の「東京ジャズ(プラス)」にも3年ぶりに出演するらしいので、今から楽しみにしている。
* 収録曲は以下の7曲。
Thelonious /Ruby My Dear /Friday The 13th /Hackensack /Round Midnight /Epistrophy /Crepuscule With Nellie

2019/07/14

ビッグバンド・ジャズを聴く

6月末に紀尾井ホールで行なわれた「角田健一ビッグバンド定期公演」に出かけた(年2回やっているらしい)。紀尾井ホールは、2017年夏の山中千尋のコンサート以来だ。出かけた理由は、どういうわけか、春先に何となく、生のビッグバンドのサウンドを急に聴いてみたくなって、チケットを予約しておいたからだ。角田健一ビッグバンド(通称 “ツノケンバンド”)の予備知識はほとんどなかったが、角田さんはトロンボーン奏者として宮間利之や高橋達也等の複数の著名ビッグバンド在籍を経て、1990年に自分のバンドを立ち上げたらしい。ジャズだけでなく、武満徹の音楽に挑戦するなど、野心的な試みも行なっているリーダーだ。私も1枚だけ録音の良いCDを持っていて(『Big Band Stage』)、これは以前オーディオ的興味で購入したもので、優れた録音のCDだが、ビッグバンドは音域とダイナミックレンジが広く、しかも音にスピードと厚み、迫力があるので、音響的にもやはりライヴで聴くのが最高だ。例によって会場の観客層(満員だった)を目視分析すると、予想通り、自分より一世代上の世代とおぼしき高齢男女がほとんどだった(つまり平均70歳代半ばくらいか)。穏やかな口調でMCも兼ねて進行するリーダーの角田さんは、いろいろ企画を立てて、子供からお年寄りまでを対象に、ビッグバンドの普及に努めておられるようで、会場には子供たちの姿も見られた。当然だが年齢層からして、半分居眠りをしているような人も中には見受けられたが、<イン・ザ・ムード>、<ムーンライト・セレナーデ>をはじめ、誰でも知っている往年のビッグバンドの名曲をずらりと並べ、アンサンブルとソロをバランスよく組み合わせた演奏とサウンドは、滑らかでよく練り上げられ、予想以上に素晴らしいものだった。編成はピアノ、ベース、ギター、ドラムスに、各種サックスとブラス(金管)セクションが加わった標準的なもので、昔はやかましいと感じていたブラスのサウンドも、紀尾井ホールの音響がまろやかなことも影響しているのか、非常に快適で楽しめた。

長年ジャズを聴いてきたが、正直言うと、ビッグバンドは苦手だった(聴いていたのは秋吉敏子くらいだ)。昔から好んで聴いてきたのは、少人数コンボによるジャズばかりである。理由は、基本的に大勢で一緒に何かをする団体行動というものが生来嫌いなこと、一糸乱れぬ統率された演奏とサウンド(合奏)というイメージがどうも苦手、音的に複数のブラス楽器の高音がうるさい、という3点だ。前2者はまったく個人的な嗜好、性格(非体育会系)によるものだが、そもそも規則に縛られない、自由な個人の音楽であることがいちばんの魅力であるジャズに、組織や規律を思い切り導入して個人を制御する、というコンセプトがよくわからない。クラシックと違って、本来そういう規則、約束ごと、支配を好まない人間が、ジャズを演奏したり、聴いたりするものではないか――というような疑問である。ブラス・セクションの音数の多さと高音がやかましい、というのはサウンド上の好み、あるいは聴感そのものの問題なのだろう(やたらと耳につく昔のブラスバンドのイメージ)。もともとシンプルでモノトーン的な音楽世界が好みなので、音数の多い、きらびやかな音楽は苦手なのだ。ピアノのデュオ(連弾)が嫌いなのも同じ理由である。たぶん若いときは、高音に対する聴覚が敏感なことも影響しているのか、とも思う。

The Popular Duke Ellington
1966
しかしよく考えてみれば、ジャズは1930年代のスウィング・ジャズ全盛時代まではビッグバンドが主体で、そもそもは唄ったり、踊ったりするための伴奏音楽として発展してきた音楽なのだ。それがデューク・エリントン、カウント・ベイシー、グレン・ミラー、ベニー・グッドマンのような有名な大編成バンドの最盛期である。バンドが少人数になり、音楽だけを独立して演奏し、クラシックのように「聴衆」としてそれを聴くのが当たり前のようになり始めたのは、1940年代後半のビバップ登場以降だ(1950年代半ばのニューヨークのクラブでさえ、まだスモールコンボの伴奏で客が踊るのが普通だったらしい)。上記バンドや、クロード・ソーンヒル、スタン・ケントンなどの白人ビッグバンドから、ビバップ以降も数多くのスター・ソロ奏者や、クールジャズでマイルスにも多大な影響を与えたギル・エヴァンスのような名アレンジャーが生まれて来た。日本でも戦後の進駐軍以降はアメリカ流になり、昔(1960-70年代)はスマイリー小原、原信夫、高橋達也、宮間利之などのリーダーに率いられていた生ビッグバンドが、テレビ番組や舞台のショーの歌や踊りの伴奏音楽としてかならず出演していたように思う。したがって今回の観客層のような私より一世代上の人たちが若いときには、「ジャズ」と言えばそうした音楽を意味していたのだろう。石原裕次郎や日活映画全盛期の、あのナイトクラブやキャバレーで演奏される、きらびやかなジャズというイメージである。ロックやポップスが登場するまで、日本でもそうした「ジャズ」が唄って踊れる音楽だったのだ。しかしアート・ブレイキー他が来日してファンキー・ブームが起こった60年代からはその日本でも、「聞かせる」スモールコンボのモダン・ジャズが徐々に主流になり、エレキギターを使うロック系も台頭し、何より70年代の「カラオケ」の登場が、こうした生ビッグバンド(生オケ)の仕事場と、そこで働くバンドマンの生活の糧を徐々に奪って行ったことは間違いないだろう。大昔のニューヨークで、無声映画からトーキー(今の音声付映画)の時代になって、映画館で生演奏をしていた多くのミュージシャンが失業したときと同じだ(例えが古すぎるか?)。そういうわけで、ビッグバンド・ジャズは確かに伝統的ジャズではあるが、大学のバンドやブラスバンドなど音楽教育の場だけで生き残った、古臭くてやかましい昔の音楽、というのが私的イメージだったのだ。

Big Band Stage
角田健一ビッグバンド
2011 Warner Music
ところが、ツノケンバンドのよく制御され統率のとれたオーソドックスな演奏とそのサウンドは、予想に反して聴いていて非常に心地良かった。爽快でさえあった。ビバップが作った「自由な個人による自由な即興演奏」というモダン・ジャズのイメージはもはや大昔のもので(幻想か?)、ハードバップ(定型化)、フリー(解体)を経て、1970年代のマイルスの電化サウンド導入以降は、フュージョンも含めて、全体が組織的に統御された演奏とサウンドがジャズでも主流になった。もう突出した個人の創造性だけに頼る音楽ではなくなり、基本的にみんなで調和しながらアレンジされた演奏をするエンタメ音楽になった。これはつまり、ある意味でスウィング時代のジャズへの先祖返りと言えないこともない。1960年代の混沌とした政治状況とその反映でもある行先の見えないフリー・ジャズ時代の後、反動として1970年代にわかりやすいフュージョンが支持されたのも偶然ではなく、精神的バランスを取ろうとする人間心理が働いて、社会全体として、そうした安定した世界を音楽にも求めたということなのだろう。その後20世紀末からインターネット時代になって数十年経ち、今や世界中で溢れる洪水のような(しかも似たような)情報に誰もが振り回されるようになって、頭の中が日常的にどこか混沌とした状態になり、しかも将来が不安だらけということになると、時代の気分として、みんなそれを逃れて、分かりやすく、きちんと統制の取れた落ち着いた音楽を求めたくなるのではないかという気がする(これはジャズに限らない。分かりやすいメロディを持つ ”あいみょん” の音楽が支持されるのも同じ現象だ)。世代的にも、私には昔のビッグバンド・ジャズへのノスタルジーはまったくないので、おそらくツノケンバンドに対する自分でも予想外の反応と共感も、よく知っているメロディばかりという分かりやすさ、きちんと統率された組織が生む整然としたサウンドの美しさと安心感、各奏者の職人技のように磨き抜かれた破綻のないソロ演奏、聴いていて単純に楽しいと感じるスウィング感とサウンド……といったような要素が、複雑で分かりにくい現実から開放してくれる、一種のカタルシス効果を与えてくれたからではないかと思う(もちろん、こちらが年をとったせいもあるだろうが……)。いわば、ごちゃごちゃになったコンピュータのファイルを、リセットしてきれいに整理整頓し直したときのような爽快感が後に残って、この世界も悪くないなと思ったのだ。確かに、ジャズの原点とはこういうものだったのだなあ、と思わず再認識させられた気もした。

The Monk : Live at Bimhuis
狭間美帆
2018 Universal
実を言えば、それまで秋吉敏子のバンド以外まともに聞いたことのなかったビッグバンドへの私の興味に火をつけたのは、2017年の「東京ジャズ」で聴いた、狭間美帆が指揮したデンマーク・ラジオ・ビッグバンド(DRBB)だった。リー・コニッツ目当てで出かけたものの、このビッグバンドと各ソロ奏者の共演が新鮮で、特にビッグバンドの多彩なリズムとサウンドが斬新で、今まで聴いてきたどんなジャズバンドにもない魅力と可能性を感じたのである。『セロニアス・モンク』翻訳作業を通じて聴いた、モンクがホール・オヴァートンと共作した、自作曲自演による2回のビッグバンド公演ライヴ録音の独創性と面白さをあらためて知ったことも、興味を持ったもう一つの要因だった。そのモンク作品を、2017年「東京ジャズ」の直後に、狭間美帆がオランダのメトロポール・オーケストラを指揮してライヴ録音したアルバムが『The Monk: Live at Bimhuis』(2018)である。これはもう、モンクの音楽を現代のジャズ・アレンジと大編成バンドで聞かせてくれるという、個人的に望んでいた最高の組み合わせであり、どの曲も大いに楽しんでいる。オヴァートンと同じように、クラシックの作曲科出身で、ジャズ畑奏者の出身でないところが狭間美帆の作る音楽のユニークさの主因なのだろう。今年10月には名門DRBB初の女性主席指揮者に正式就任するという話なので、今後彼女の発信する音楽も非常に楽しみである。伝統的で超オーソドックスな角田健一ビッグバンドも、狭間美帆の現代的アレンジによる斬新なジャズ・オーケストラも、今後ジャズを聴く楽しみの幅を大いに広げてくれそうだ。

2017/09/07

東京ジャズでリー・コニッツを「見る」

93日(日)の「第16回東京ジャズ」昼の部に出かけた。東京ジャズは2014年以来で、その年はオーネット・コールマンが出演するというので、最後の姿だろうと思って丸の内の東京国際フォーラムまで行ったのだが、何と大ホールに入場してから突然アナウンスがあり、病気のためにコールマンが来日できなくなったという。急遽プログラムを変更して、コールマンの出番は小曽根真がMCで仕切った参加ミュージシャンたちによる即席の大ジャムセッションとなった。これはこれでハプニングが付き物のジャズらしくて非常に楽しく、その時のステージを堪能したことを覚えているが、残念ながらそのコールマンは翌年6月に亡くなってしまった。今はネット映像で何でも見られる時代だが、マイルス・デイヴィス、ビル・エヴァンス、キース・ジャレットのような人たちをライヴで見た経験から言うと、ジャズファンにとって、生きている(本物の)ジャズの巨人を実際に目にする機会はやはり貴重で、一生記憶に残るものだ。ライヴで聞いた音の記憶はすぐに薄れるが、目で見たことはいつまでも覚えているものなのだ。

東京ジャズは今回から場所を渋谷に移し、Hall/ Street/ Clubという3会場がNHKホール代々木公園ケヤキ並木/ WWW(X)の3箇所になった。ところが当日の代々木公園では「渋谷区総合防災訓練」というイベントが同時に行なわれていて、NHKホール横のケヤキ並木と広場周辺では、緊急時の防災グッズを並べた白いテントが林立し、自衛隊による炊き出し(カレー)に長い行列ができ、お祭りの露店なども出ていて、あたりは人で一杯だった。ジャズ祭というのは、いわば「楽しい非日常」の世界だと思うが、防災訓練はあまり楽しくない非日常を想定した催しだ。どちらも非日常だが、これが同時に同じ場所で開催されるとミスマッチの極みで、まさに会場はchaosだった。私の印象ではストリート会場の雰囲気は、いろんな人が入り乱れていて、どう見てもジャズ祭には見えなかった。ステージの奏者もやりにくかったのではないかと思う。避難民の横で呑気にジャズなんか演奏したり聞いている場合か…というような思いがどうしても浮かんで来るのだ。したがって、きれいな丸の内のおしゃれな大人のジャズ祭というイメージだったのが、すっかり庶民的(?)な貧乏くさいムードになってしまい、しかもどう見ても主催者の言う若者の町で…という雰囲気でもない。非常に残念なことで、この日程はどうにかならなかったのだろうか。 

とはいえ、一歩NHKホールの中に入れば、もちろんそうしたchaosとは無縁のジャズの世界ではある。昼の部の最初のセットは ”Celebration” と題して、ジャズ100年(これはジャズが初めて「録音」されてから、という意味らしい)を振り返る企画で、狭間美帆指揮のデンマークラジオ・ビッグバンドと、フィーチャーされたアーティストが時代を代表するジャズを演奏するという趣向だ。ニューオリンズから始まり、スウィング、ビバップ、クール、(ハードバップやモードは多分時間の都合で飛ばして、いきなり)フリー、フュージョン、そして現代という区分けで、ビバップは日野皓正(tp)、クールはリー・コニッツ(as)、フリーは山下洋輔(p)、フュージョンはリー・リトナー(g)、現代はコーリー・ヘンリー(key)という人たちがフィーチャーされた。ニューオリンズのトレメ・ブラスバンドの賑やかなオープニングでコンサートが始まり、アモーレ&ルルが華麗なスウィング・ダンスを披露し、話題の(?)日野皓正は、うっぷんを吹き飛ばすかのように<チュニジアの夜>を圧倒的なエネルギーで豪快に吹き切り、リー・コニッツが登場し(後述)、ピアノに火を付けて燃やしながら演奏した、あの70年安保の時代の映像を写したスクリーンをバックに、山下洋輔が相変わらずパワフルなピアノを聞かせ、リトナーも懐かしいあのギター・テクニックを見せてくれ、ヘンリーは実に今風のサウンドをキーボードで美しく響かせた。これらのセッションはいずれも聞きごたえのある演奏で楽しめたが、特にビッグバンドを自在に操りながら、フィーチャーされた各ミュージシャンを引き立てる狭間美帆の「堂々たる」指揮(バンマス)ぶりには感心した。山下洋輔の教え子で作曲家兼アレンジャーらしいが、まだ若いのにアメリカでも高い評価を受けているようだし、優れた才能を感じさせる人だ。山中千尋もそうだが、今の日本の女性は音楽でも世界に飛び出して活躍していて本当に頼もしい。狭間美帆の音楽は、7月に大西順子とコラボしたモンクの音楽を取り上げたライヴを聞き逃したが、次に機会があればぜひまた聴いてみたい。斬新なアレンジによる現代のビッグバンド・ジャズは、サウンドがパワフルかつ新鮮で、聞いていて非常に楽しくて気持ちがいい。優れた作曲家やアレンジャーが手掛ければ、まだまだジャズを魅力的に掘り下げ、発展させる可能性を大いに秘めているフォーマットだと思った。
2番目のセットはシャイ・マエストロ・トリオ Shai Maestro Trioというイスラエルのピアノ・トリオで、私はこれまで聞いたことがなかった。全体に静謐、クールかつメロディアスなサウンドは、キース・ジャレットのようでもあり、昔聞いたノルウェーのヘルゲ・リエン・トリオを何となく思い出しながら聞いていたが、トリオが生み出す独特のメロディ、リズム、音階にはやはりユダヤ的サウンド特有の世界を感じた。カミラ・メザ Camila Mezaというチリ出身の女性ヴォーカリスト兼ギタリストが途中で加わったが、この人の歌とギターは素朴で、エキゾチックでいながら現代的でもあり、非常に素晴らしかった。このトリオとヴォーカルの生み出すサウンドとグルーヴには独特の響きと美しさがあり、初めて聴いたにもかかわらず、思わず引き込まれてしまうような魅力があった。イスラエル、南米という地理的な広がりだけでなく、ジャズという音楽が持つ懐の深さと裾野の広さ、同時にモダンなビッグバンドと同じく、ジャズの未来の可能性を感じさせる音楽だと思った。続く最後のセットは、チック・コリアとゴンサロ・ルバルカバのピアノ・デュオで、名人2人のインプロヴィゼーションは美しく見事だったが、私はそもそもピアノ・デュオというフォーマットそのものが昔から苦手なので、この演奏は普通に楽しんだだけだ。ピアノは他の楽器に比べるとそれ自体でほぼ完成されていて、1台だけであらゆるサウンドが出せる万能感のある楽器だ。だからソロなら奏者独自の聞かせどころと全体的な完結感があって聞いていてまだ面白いのだが、2台でやると音数が多過ぎて、2者の対話というより饒舌なお喋りを延々と聞かされているような気がして、ひと言で言うと「うるさい」のである。それが好きな人も勿論いると思うので、まあ、これは個人的な音楽の好みの問題です。ちなみに今回のコンサートの模様は、10月下旬にNHK BSでTV放送されるということだ。 

実は私が今回の東京ジャズに出かけた一番の目的は、最後の来日になるかもしれないリー・コニッツを「見る」ことだった。2013年の東京ジャズ出演を見逃したので、コールマンの例もあることだし、今回はぜひ見たかったからだ。来月90歳(!)になるコニッツが、上記 ”Celebration” の「クール・ジャズ」のパートになって、おぼつかない足取りで、エスコートの係員に手を引かれて舞台の袖から出て来た瞬間の姿を見ただけで、私の胸は一杯になった。昨年訳書「リー・コニッツ」の原著者アンディ・ハミルトンから、最近は物忘れが激しくなったようだ、という話をメールで聞いていたので、まさか90歳を迎える今年来日するとは夢にも思っていなかったのだ。そこで知人を通じて、東京ジャズの合間にどこかで個人的に会えないかアレンジを依頼していたのだが(自分の訳書にサインでもしてもらって宝物にしたかった)、ご本人が高齢であり、音楽に集中したいので、という理由で残念ながら直接会うことは叶わなかった。だが、とにかく最後になると思われる舞台上のコニッツの姿を見ることができただけで満足だ。コニッツはピアノとのデュオで<Darn That Dream>を吹き、しかも途中で突然スキャット(だったように思う)で歌い出したのだ! コニッツは歌うのが好きで、そのインプロヴィゼーションが歌うことから生まれるという話は訳書にも書いてある。聴衆は突然のことにきょとんとしたような反応だったが、彼をよく知るヨーロッパの聴衆ならおそらく拍手喝采の場面なのだろう。前日に、ある人から教えてもらった2011年のダン・テプファー(p)とのデュオによるヨーロッパ・ツアーの模様を捉えたドキュメンタリー動画(All The Things You Are, MEZZO)をインターネットで見たばかりだったので(コニッツの素顔を捉えたこの映像は貴重で素晴らしい)、今回のコニッツの外見や所作に6年の歳月をつくづく感じた。しかし、揺らめくように「歌う」独特のフレーズと、何とも言えない微妙なテクスチュアを持ったあの音色は健在だった。90年間ジャズに生きた巨匠が紡ぎ出すアルトサックスの響きには、いかなる批評も感想も超越した美しさと深味があった。続いて狭間美帆指揮のビッグバンドともう1曲演奏したコニッツは、最後もよろよろしながら舞台の袖に消えて行った。オペラグラスのレンズを通して見たその姿を、私は決して忘れることはないだろう。