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2019/07/14

ビッグバンド・ジャズを聴く

6月末に紀尾井ホールで行なわれた「角田健一ビッグバンド定期公演」に出かけた(年2回やっているらしい)。紀尾井ホールは、2017年夏の山中千尋のコンサート以来だ。出かけた理由は、どういうわけか、春先に何となく、生のビッグバンドのサウンドを急に聴いてみたくなって、チケットを予約しておいたからだ。角田健一ビッグバンド(通称 “ツノケンバンド”)の予備知識はほとんどなかったが、角田さんはトロンボーン奏者として宮間利之や高橋達也等の複数の著名ビッグバンド在籍を経て、1990年に自分のバンドを立ち上げたらしい。ジャズだけでなく、武満徹の音楽に挑戦するなど、野心的な試みも行なっているリーダーだ。私も1枚だけ録音の良いCDを持っていて(『Big Band Stage』)、これは以前オーディオ的興味で購入したもので、優れた録音のCDだが、ビッグバンドは音域とダイナミックレンジが広く、しかも音にスピードと厚み、迫力があるので、音響的にもやはりライヴで聴くのが最高だ。例によって会場の観客層(満員だった)を目視分析すると、予想通り、自分より一世代上の世代とおぼしき高齢男女がほとんどだった(つまり平均70歳代半ばくらいか)。穏やかな口調でMCも兼ねて進行するリーダーの角田さんは、いろいろ企画を立てて、子供からお年寄りまでを対象に、ビッグバンドの普及に努めておられるようで、会場には子供たちの姿も見られた。当然だが年齢層からして、半分居眠りをしているような人も中には見受けられたが、<イン・ザ・ムード>、<ムーンライト・セレナーデ>をはじめ、誰でも知っている往年のビッグバンドの名曲をずらりと並べ、アンサンブルとソロをバランスよく組み合わせた演奏とサウンドは、滑らかでよく練り上げられ、予想以上に素晴らしいものだった。編成はピアノ、ベース、ギター、ドラムスに、各種サックスとブラス(金管)セクションが加わった標準的なもので、昔はやかましいと感じていたブラスのサウンドも、紀尾井ホールの音響がまろやかなことも影響しているのか、非常に快適で楽しめた。

長年ジャズを聴いてきたが、正直言うと、ビッグバンドは苦手だった(聴いていたのは秋吉敏子くらいだ)。昔から好んで聴いてきたのは、少人数コンボによるジャズばかりである。理由は、基本的に大勢で一緒に何かをする団体行動というものが生来嫌いなこと、一糸乱れぬ統率された演奏とサウンド(合奏)というイメージがどうも苦手、音的に複数のブラス楽器の高音がうるさい、という3点だ。前2者はまったく個人的な嗜好、性格(非体育会系)によるものだが、そもそも規則に縛られない、自由な個人の音楽であることがいちばんの魅力であるジャズに、組織や規律を思い切り導入して個人を制御する、というコンセプトがよくわからない。クラシックと違って、本来そういう規則、約束ごと、支配を好まない人間が、ジャズを演奏したり、聴いたりするものではないか――というような疑問である。ブラス・セクションの音数の多さと高音がやかましい、というのはサウンド上の好み、あるいは聴感そのものの問題なのだろう(やたらと耳につく昔のブラスバンドのイメージ)。もともとシンプルでモノトーン的な音楽世界が好みなので、音数の多い、きらびやかな音楽は苦手なのだ。ピアノのデュオ(連弾)が嫌いなのも同じ理由である。たぶん若いときは、高音に対する聴覚が敏感なことも影響しているのか、とも思う。

The Popular Duke Ellington
1966
しかしよく考えてみれば、ジャズは1930年代のスウィング・ジャズ全盛時代まではビッグバンドが主体で、そもそもは唄ったり、踊ったりするための伴奏音楽として発展してきた音楽なのだ。それがデューク・エリントン、カウント・ベイシー、グレン・ミラー、ベニー・グッドマンのような有名な大編成バンドの最盛期である。バンドが少人数になり、音楽だけを独立して演奏し、クラシックのように「聴衆」としてそれを聴くのが当たり前のようになり始めたのは、1940年代後半のビバップ登場以降だ(1950年代半ばのニューヨークのクラブでさえ、まだスモールコンボの伴奏で客が踊るのが普通だったらしい)。上記バンドや、クロード・ソーンヒル、スタン・ケントンなどの白人ビッグバンドから、ビバップ以降も数多くのスター・ソロ奏者や、クールジャズでマイルスにも多大な影響を与えたギル・エヴァンスのような名アレンジャーが生まれて来た。日本でも戦後の進駐軍以降はアメリカ流になり、昔(1960-70年代)はスマイリー小原、原信夫、高橋達也、宮間利之などのリーダーに率いられていた生ビッグバンドが、テレビ番組や舞台のショーの歌や踊りの伴奏音楽としてかならず出演していたように思う。したがって今回の観客層のような私より一世代上の人たちが若いときには、「ジャズ」と言えばそうした音楽を意味していたのだろう。石原裕次郎や日活映画全盛期の、あのナイトクラブやキャバレーで演奏される、きらびやかなジャズというイメージである。ロックやポップスが登場するまで、日本でもそうした「ジャズ」が唄って踊れる音楽だったのだ。しかしアート・ブレイキー他が来日してファンキー・ブームが起こった60年代からはその日本でも、「聞かせる」スモールコンボのモダン・ジャズが徐々に主流になり、エレキギターを使うロック系も台頭し、何より70年代の「カラオケ」の登場が、こうした生ビッグバンド(生オケ)の仕事場と、そこで働くバンドマンの生活の糧を徐々に奪って行ったことは間違いないだろう。大昔のニューヨークで、無声映画からトーキー(今の音声付映画)の時代になって、映画館で生演奏をしていた多くのミュージシャンが失業したときと同じだ(例えが古すぎるか?)。そういうわけで、ビッグバンド・ジャズは確かに伝統的ジャズではあるが、大学のバンドやブラスバンドなど音楽教育の場だけで生き残った、古臭くてやかましい昔の音楽、というのが私的イメージだったのだ。

Big Band Stage
角田健一ビッグバンド
2011 Warner Music
ところが、ツノケンバンドのよく制御され統率のとれたオーソドックスな演奏とそのサウンドは、予想に反して聴いていて非常に心地良かった。爽快でさえあった。ビバップが作った「自由な個人による自由な即興演奏」というモダン・ジャズのイメージはもはや大昔のもので(幻想か?)、ハードバップ(定型化)、フリー(解体)を経て、1970年代のマイルスの電化サウンド導入以降は、フュージョンも含めて、全体が組織的に統御された演奏とサウンドがジャズでも主流になった。もう突出した個人の創造性だけに頼る音楽ではなくなり、基本的にみんなで調和しながらアレンジされた演奏をするエンタメ音楽になった。これはつまり、ある意味でスウィング時代のジャズへの先祖返りと言えないこともない。1960年代の混沌とした政治状況とその反映でもある行先の見えないフリー・ジャズ時代の後、反動として1970年代にわかりやすいフュージョンが支持されたのも偶然ではなく、精神的バランスを取ろうとする人間心理が働いて、社会全体として、そうした安定した世界を音楽にも求めたということなのだろう。その後20世紀末からインターネット時代になって数十年経ち、今や世界中で溢れる洪水のような(しかも似たような)情報に誰もが振り回されるようになって、頭の中が日常的にどこか混沌とした状態になり、しかも将来が不安だらけということになると、時代の気分として、みんなそれを逃れて、分かりやすく、きちんと統制の取れた落ち着いた音楽を求めたくなるのではないかという気がする(これはジャズに限らない。分かりやすいメロディを持つ ”あいみょん” の音楽が支持されるのも同じ現象だ)。世代的にも、私には昔のビッグバンド・ジャズへのノスタルジーはまったくないので、おそらくツノケンバンドに対する自分でも予想外の反応と共感も、よく知っているメロディばかりという分かりやすさ、きちんと統率された組織が生む整然としたサウンドの美しさと安心感、各奏者の職人技のように磨き抜かれた破綻のないソロ演奏、聴いていて単純に楽しいと感じるスウィング感とサウンド……といったような要素が、複雑で分かりにくい現実から開放してくれる、一種のカタルシス効果を与えてくれたからではないかと思う(もちろん、こちらが年をとったせいもあるだろうが……)。いわば、ごちゃごちゃになったコンピュータのファイルを、リセットしてきれいに整理整頓し直したときのような爽快感が後に残って、この世界も悪くないなと思ったのだ。確かに、ジャズの原点とはこういうものだったのだなあ、と思わず再認識させられた気もした。

The Monk : Live at Bimhuis
狭間美帆
2018 Universal
実を言えば、それまで秋吉敏子のバンド以外まともに聞いたことのなかったビッグバンドへの私の興味に火をつけたのは、2017年の「東京ジャズ」で聴いた、狭間美帆が指揮したデンマーク・ラジオ・ビッグバンド(DRBB)だった。リー・コニッツ目当てで出かけたものの、このビッグバンドと各ソロ奏者の共演が新鮮で、特にビッグバンドの多彩なリズムとサウンドが斬新で、今まで聴いてきたどんなジャズバンドにもない魅力と可能性を感じたのである。『セロニアス・モンク』翻訳作業を通じて聴いた、モンクがホール・オヴァートンと共作した、自作曲自演による2回のビッグバンド公演ライヴ録音の独創性と面白さをあらためて知ったことも、興味を持ったもう一つの要因だった。そのモンク作品を、2017年「東京ジャズ」の直後に、狭間美帆がオランダのメトロポール・オーケストラを指揮してライヴ録音したアルバムが『The Monk: Live at Bimhuis』(2018)である。これはもう、モンクの音楽を現代のジャズ・アレンジと大編成バンドで聞かせてくれるという、個人的に望んでいた最高の組み合わせであり、どの曲も大いに楽しんでいる。オヴァートンと同じように、クラシックの作曲科出身で、ジャズ畑奏者の出身でないところが狭間美帆の作る音楽のユニークさの主因なのだろう。今年10月には名門DRBB初の女性主席指揮者に正式就任するという話なので、今後彼女の発信する音楽も非常に楽しみである。伝統的で超オーソドックスな角田健一ビッグバンドも、狭間美帆の現代的アレンジによる斬新なジャズ・オーケストラも、今後ジャズを聴く楽しみの幅を大いに広げてくれそうだ。

2018/09/18

秋吉敏子、ルー・タバキンのコンサートを見に行く

9月初めの東京ジャズ2018はスキップした。今年も昨年同様、同日に渋谷区の防災訓練が行なわれたらしいが、場所は昨年と違ってNHKそばの代々木公園ではなく別の場所だったようだ(よかった)。最近本を読んだこともあって、代わりに出かけたのが915日に東京文化会館小ホールで行われた、秋吉敏子とルー・タバキンのデュオ・コンサート、"The Eternal Duo" だ。(ただしいつも通り、私の場合コンサートは聴くというより見に行くという要素が強いが)。せっかく上野公園まで行ったので、ついでに動物園で実物を見たことのないパンダでも見て来ようと思ったが、敬老の日の週で、高齢者がタダで入場できるらしくて年寄りでごったがえしそうなので、行列嫌いもあってやめておいた。これまで見なかったのは、パンダには何の罪もないが、レンタル・パンダだと思うと、つい某国の政治的意図が頭に浮かんで素直に楽しめないこともある。ちなみにディズニーランドも行ったことがないが、こちらはもう一つの某国の、わざとらしいカルチャー満載のところにどうも抵抗があるためだ。

今年2018年は、二人がトシコ・アキヨシ=ルー・タバキンというコンビを結成して50周年ということもあり、秋吉敏子単独ではなく、夫君も一緒にということになったそうだ。二人はコンビ結成の翌年1969年に結婚しているので、来年は結婚50周年(金婚式)ということになる。88歳(秋吉)と78歳(タバキン)というから、おそらくジャズ史上最高齢夫妻による有料ジャズ・コンサートになるのではないだろうか(ギネス入り?)。普通なら、老人ホームで逆に誰かが演奏してくれる音楽をゆっくり聞く側にいてもおかしくない年齢である。昨年のリー・コニッツの東京ジャズ出演時が89歳なので、秋吉氏は一歩及ばない(?)が、それにしても二人ともまだまだ元気だ。特に、さすがに若い(?)タバキン氏は、テナーサックス、フルート共に、大きな体全体を武道家のように使った豊かな音で、エネルギッシュに吹き切って、まったく年齢を感じさせないのがすごい。秋吉氏は相変わらず、黒柳徹子氏以外に今はめったに聞けない正しい日本語で、クールな喋りを聞かせたが(私は彼女の話し方が好きだ)、さすがに全身を駆使しなければならないピアノという楽器相手では、時々体力的にきつそうに見えたが(時々鼻をかんでいたので風邪でもひいていたのかもしれない)、それでも全体としてとても88歳とは思えない演奏だった。独特の形状をした小ホールはサイズ、全体に響き渡るアコースティック楽器の音響は良いと思ったが、東京文化会館自体が古い建物(1961年建造)で、座席も昔の日本人体型基準なので、最近のホールに比べるといかんせん座席の前後左右が狭くて、どうもゆったりした気分で聞けない。1990年代に改装しているそうだが、もっと工夫して欲しかった。聴衆層は当然中高年が9割だったが、それでもほとんどがたぶん出演者よりは若い(?)、という何だか不思議なジャズ空間だった。

NHKで放映予定
ジャズ・コンサートでは珍しく、パンフレットにはクラシックのように当日の演奏曲名(全6曲の自作曲名とソロ2曲)と曲の概要が書いてあった(普通のジャズ公演パンフではほとんど曲の紹介はない)。パンフレットの最後に児山紀芳氏の名前と紹介記事が書いてあったが、舞台に登場はしなかったので、児山氏がプロデュースをしたという意味なのだろうか(あるいはパンフ解説?)。デュオ、ソロ、デュオの順で、<Long Yellow Road>から始まり、<花魁譚>、<秋の海>という日本的旋律が聞こえる曲と、ソロ2曲をはさんで<Eulogy>、<Lady Liberty>といういわゆるジャズ曲をミックスした構成で、『ヒロシマ』からの<Hope(希望)>を最後に、コンサートはノンストップ1時間ほどでプログラムが終了した。もう終わりかと唖然としていたら、その後アンコールで3曲追加されたが、それでも終わったのは開始1時間半後の7時半近くだった。短いが、お二人の年齢を考えれば仕方がないだろう。最後は、タバキン氏に支えられるように秋吉氏が舞台後方の独特の音響版の後ろに消えて行った。昨年の東京ジャズでのリー・コニッツもそうだったが、本物のジャズ・ミュージシャンの晩年の後ろ姿には、何ともいえない、どこか胸にじわりと来るものをいつも感じる。

秋吉敏子には1950年代から通算80枚ほどのレコードがあるようで、初期のピアノトリオ、チャーリー・マリアーノとのカルテット時代、1970年代以降のタバキンとのビッグバンド時代などでそれぞれ名盤があるが、私が最近よく聴いているトシコ=タバキンのレコード(CD)は、2006年にカルテットで来日したときの録音『渡米50周年日本公演』(20063月、朝日ホールでの非公開ライブ、TTOCレコード)だ。二人にGeorge Mraz (b)、 Lewis Nash (ds) が加わったカルテットで、今から12年前、秋吉敏子76歳時の録音である。曲目は<Long Yellow Road>、<孤軍>、<Farewell To Mingus>、<The Village Lady Liberty>、<Trinkle Tinkle>、<すみ絵、<Chasing After Love>という7曲で、モンクの<Trinkle Tinkle>以外は自作曲である。秋吉氏がモンクの曲を取り上げるのは珍しいと思うが、これはタバキン氏の希望だったのだろうか? 夫妻共々、本作ではコンサートでもやった<Lady…>のような急速テンポでもまったく年齢を感じさせないほど躍動的で、また<…ミンガス>のようなスローな曲では美しく成熟したバラードを聞かせている。このレコードは盛岡の有名なジャズ喫茶店主、照井顕氏のプロデュースで、当時の新進レーベルTTOCの金野氏が録音したものだそうだが、秋吉氏の名曲をカバーしており、またカルテットでもあることから、秋吉のピアノ、タバキンのサックス、フルート共にクリアに聞こえ、かつムラーツのベース、ナッシュのドラムスのリズムセクションの音も良く捉えられている。加工感のない、ストレートな非常に気持ちの良いジャズ音なので、つい何度も聴きたくなる。できればこういう録音は大口径スピーカーで思い切りボリュームを上げて聴いてみたい。トシコ=タバキンの、スモールコンボでの円熟した、しかし力強い演奏を楽しめる良いCDである。

26歳で単身アメリカに渡り、ルー・タバキンという自分を理解してくれるアメリカ人ジャズマンと出会い結婚し、アメリカでジャズを演奏し続け、ついに彼女にしかない独自の語法とサウンドを獲得した秋吉敏子は、まさにジャズそのものという人生を生き抜いて来た本物のジャズ・レジェンドである。これからもご夫妻で仲良く、まだまだ頑張ってジャズを続けていただきたいと思う。

2018/08/10

秋吉敏子、児山紀芳の本を読む

昨年末に秋吉敏子の『エンドレス・ジャーニー』(祥伝社)、この7月には児山紀芳の『ジャズのことばかり考えてきた』(白水社)という2冊の本が出版された。秋吉氏はジャズ音楽家として、児山氏はジャズ・ジャーナリスト、プロデューサー他として、二人とも60年以上の長きにわたりジャズに関わってきた人物だ。アメリカと日本という生きた場所こそ違うが、人生の大半をジャズに捧げてきた二人の日本人に関する本を興味深く読んだ。

2017 祥伝社
作年ピアノの鍵盤数と同じ数、88歳という米寿を迎えた秋吉敏子(1929年生まれ)は、言うまでもなく日本のみならず世界的に知られたジャズ音楽家であり、すべてに「日本人初」という経歴を積み上げてきたジャズの世界のパイオニアだ。よく知られているように、終戦後、16歳で生まれ故郷の満州から引き揚げ、テディ・ウィルソンのピアノに感動し、大分・別府のクラブを皮切りにジャズの世界に飛び込む。その後上京してジャズ・ピアニストとして活動していた1953年に、来日していたオスカー・ピーターソンに認められたことがきっかけで、ノーマン・グランツの米国のレーベルで自身初、かつ日本人初となるジャズ・アルバムを録音する。それが縁となって1956年、26歳のときにボストンのバークリー音楽院に日本人として初めて奨学生として留学し、以来ジャズ・ピアニスト、作編曲家として72年の楽歴のうち、62年間をアメリカで活動してきた。その間ニューポートやモンタレージャズ祭へ日本人として初めて参加するなど、多くのライブ演奏とレコーディングをニューヨークとロサンゼルスを中心に行い、1999年には「国際ジャズ名声の殿堂」入りを果たし、また14回ノミネートされたグラミー賞の受賞こそ逃したが、数度の「ダウンビート」誌批評家投票のポールウィナー、2007年の「ジャズマスターズ賞」をはじめとして、数々の栄誉あるジャズ賞をアメリカ国内でも受賞してきた。こうした経歴をざっと振り返っただけでも、秋吉敏子が日本人ジャズ音楽家として別格のキャリアの持ち主だということがわかる。

秋吉敏子の人生は、1996年に出版した自伝『ジャズと生きる』(岩波新書)で自ら詳細に語っているが、この本は彼女の個人史と共に、その背景にある戦後の日本ジャズ界、全盛期のアメリカ・ジャズ界の様子も描いた貴重な記録であり、かつ非常に面白い読み物でもある。今度の本『エンドレス・ジャーニー』は、長年秋吉敏子のレコードをプロデュースしてきた岩崎哲也氏が、彼女の人生観、ジャズ観を形成しているいくつかのキーワードを核にして、様々な逸話も挿入しながらインタビュー形式で本人が語った言葉をまとめたものだ。映像で見ても、本で読んでも、とにかくいつも感じるのは、彼女の醸し出す凛としたたたずまいと、常にぶれない(決然としたと言うべきか)強固な意志だ。アメリカで長年暮らしたからそうなったのか、元々そういう女性だったのか、あるいは満州での体験や、アメリカでの若き日の体験がそうさせたのかもしれないが、当然ながらいわゆる普通の日本人女性とはまったく異なる雰囲気がある。ジャズが他のポピュラー音楽と違うところは、基本的に歌詞はなく、器楽演奏のみの抽象的なサウンドで演奏されることだ。もちろん聴き手が自然に身体を揺らすリズム(swing) がその基本だが、言葉の世界に制約されることがないので、聴き手側は演奏された音楽を自由に解釈でき、またクラシック音楽と同じく、音楽上の快感としてエモーション(情)だけではなく、知性を感じさせる要素(理)も同時に聞き取ることができる。ジャズ音楽家側にも、表現者としてそれぞれ固有の「情」と「理」のバランスがあり、どちらかと言えばエモーションに訴える「情」の人と、知性に働きかける「理」の人がいるように思う。もちろんこれは聴き手としての個人的なフィーリングにすぎないのだが、私は女性ジャズ・ピアニストの大半に、「男性以上に豪快な」面と、この「理」の要素を強く感じる。両方ともおそらく、特に男が支配的な世界で伍してゆくためには、女性が自然に身につけざるを得ない資質なのだろうと想像している(あるいは、そういう資質のある女性が生き残るのか)。秋吉敏子の場合も言葉や雰囲気だけでなく、その音楽から感じるのは「男性的な潔さ」と共に、この「理」だ。

クラシック・ピアノからスタートしたこと、ジャズ(ビバップの和声)の大元はバッハだという認識、ジャズ・ピアニストであると同時に作曲家・編曲家でもあるということなどが、おそらく秋吉敏子の音楽に、ある種の構造的なもの(理)を常に感じる理由の一部なのだろう。自らの人生の来し方と行く末を見つめる<ロング・イエロー・ロード>、フィリピン・ルバング島で戦後を一人で生き延びた小野田少尉と、アメリカで孤独な闘いを続ける自分を重ねた<孤軍>、水俣や広島の悲惨さに触発された『ミナマタ』、『ヒロシマ』と続くオリジナル作品込められているのは、政治や権力に翻弄される個人の悲劇であり、作品のテーマへのこだわりは、音楽家として社会的メッセージを「ジャズ語」で発信したいという意志と、それを表現するためのコンセプト(理)がまずあるからだ。「Authenticity(ジャズの正統性)がない」という日本人であることへの初期の差別的批判に対し、日本人がジャズをやることで、ジャズの世界を少しだけ豊かにすることに貢献したい、と決心した彼女の心意気と共にあったのも、『花伝書』、『五輪書』などの日本の伝統的思想や、邦楽を自身の音楽の基盤として取り入れることによって、人種の壁を越えたジャズを創造したいという理想である。ピアノとジャズを心から愛しながらも、異邦人として、女性として、差別の根強いアメリカで苦闘し、ジャズが常に変化して行く中、ジャズ・ミュージシャンとしての自らのアイデンティティを求め続けた。そして60年代末にルー・タバキンという良き伴侶を得て、ビッグバンドという形式を通して、ようやく自らの表現手法と進むべき道を見つけ今日に至った彼女のジャズ人生は、強靭な精神と共に、この理知なしには形成し得なかっただろう。88歳の今でも、理想に一歩でも近づくべく挑戦し続けている秋吉敏子は、バド・パウエルのピアノを手本にスタートしつつ、日本人である自分を見つめなおすことによって独自の音楽を再構築してきた、揺るぎない「理」のジャズ・ミュージシャンである。本書にはその彼女の人生観と音楽思想のエッセンスを平易に語る言葉が散りばめられている。

2018 白水社
同じく80歳を超えた児山紀芳(1936年生まれ)は、今は休刊中の「スイングジャーナル」というジャズ雑誌(SJ誌)の編集長時代(第1期1967-79年)を通じて、我々の世代をジャズの世界へと導いてくれた水先案内人であり、かつ師匠のような人だ。本書『ジャズのことばかり考えてきた』(白水社)は、1950年代の大阪におけるジャズ喫茶体験から始まる回顧録だが、児山氏が初めて書いた本だという。後継のSJ誌元編集長が数えきれないほどのジャズ本を次から次へと出版してきた一方で、これまで児山氏が一冊の本も出して来なかったのを私はずっと不思議に思っていたので、この本がやっと出版されて何だかほっとしたような気がしている。本書を読むと、懐かしい臨時増刊号「モダンジャズ読本」の発刊、「SJ誌選定ゴールドディスク」、「ジャズディスク大賞」、「南里文雄賞」のような古くからのジャズファンには馴染み深いSJ誌の各賞の創設、そして輸入情報の聞き書きではなく、当時はまだ珍しかったアメリカ出張によって、直接ジャズ・ミュージシャンやジャズ関係者と現地で接触し、最新の生きた情報を伝えるなど、ジャズ・ジャーナリストとしての当時の氏の企画力、行動力が驚くべきものだったことがわかる。70年代末に同誌を離れた後の80年代には、プロデューサーとして個人的にも親しかったヘレン・メリルやジョン・ルイスなど海外のプレイヤーのレコーディングに取り組み、また日本独自企画のアルバムによって日本人ジャズ・ミュージシャンにも光を当てる。さらにレコード・コレクターの真骨頂と言うべきか、クリフォード・ブラウンやキーノート・レーベルをはじめ、埋もれていた歴史的価値のある未発表音源を、自らアメリカに乗り込んでレコード会社の倉庫で独自に発掘し、しかも完全版BOXとして世に紹介するという超マニアックな仕事にのめり込む。その後も、コンサートのプロデュースやNHK-FMのラジオ・パーソナリティ、地方支援の企画などで常にジャズの仕事に関わってきた。ミュージシャン交流譚として、マル・ウォルドロン、ソニー・ロリンズ、アート・ペッパー、ジョン・ルイス、レイ・ブライアント等との私的交流の回想に加え、半世紀に及ぶ付き合いで、日本からエールを送り続けてきた秋吉敏子もその一人として取り上げており、本の帯にはその秋吉氏の推薦文も書かれている。本書で書かれている数多くの海外活動やエピソードからして、アメリカや世界のジャズ界でもっとも有名な日本人ジャズ・ミュージシャンが秋吉敏子だとすれば、もっとも有名な "非" ジャズ・ミュージシャンは間違いなく児山紀芳だろう。

本書に書かれた多くの事実をあらためて知ると、1960年代後半からの日本におけるジャズの普及と発展が、いかに児山氏の情熱と啓蒙によって支えられていたのかもよくわかる。以前から思っていたことだが、ジャズ・ジャーナリストしての児山氏の素晴らしさは表層的な時代の流行を追うだけではなく、ジャズの歴史と伝統、そしてジャズ音楽家たちを常にリスペクトし、何を書いても語っても、そのニュートラルで控えめな語り口から温かな人間味が伝わってくること、そして何より、すべての言動の背後に、氏のジャズに対する深い「愛」を感じさせることだ。70年代までのSJ誌からは、児山氏の熱意とジャズへの愛が実際に我々に伝わってきたし、それに触発されてジャズに熱中した読者も数多かったと思う。『ジャズのことばかり考えてきた』=「ジャズばか考」というシャレのきいたタイトルも、まさに氏の人生と人柄を象徴している。数多かったジャズ評論家も、ジャズ喫茶もほとんど消えた現在、こうした姿勢でジャズに関わり続けるジャーナリストはもう児山氏ただ一人になったような気がする。この本はおそらく、児山氏の頭の中の膨大なジャズ・アーカイブからその一部を取り出したものにすぎないのだろうが、非ミュージシャンという立場で、日本におけるジャズの普及に貢献し続け、人生を文字通りジャズという音楽に捧げてきた人物が、初めて「自分」のことを語った素晴らしい「ジャズ本」である。

この2冊の本から伝わって来るのは、とにかく二人ともジャズに魅せられ、心からジャズを愛し、ジャズに生きて来た人たちだということだ。二人にとって同時代の音楽だったモダン・ジャズに、音楽家として、ジャーナリストとして深く関わってきた秋吉敏子と児山紀芳こそ、現代日本における最高のジャズの生き証人と言えるだろう。私が邦訳したアンディ・ハミルトンの『リー・コニッツ ジャズ・インプロヴァイザーの軌跡』は、秋吉敏子とほぼ同世代の1927年生まれで、彼女と同じく人生をジャズに捧げ、今でも現役で演奏を続けるリー・コニッツと、イギリス人の美学者ハミルトンの5年にわたるインタビューを中心に構成した本である。二人の対話を通して、この名アルトサックス奏者の人生と音楽を振り返りつつ、同時に芸術としてのジャズ即興演奏の本質に迫るというアプローチで、ジャズという音楽の本質、ジャズ音楽家コニッツの人物像と思想を浮かび上がらせた斬新な本だ(インタビュー当時のコニッツの年齢は80歳の少し前である)。その本を翻訳し終えて思ったのは、一対一で、ジャズ・アーティストの内面に深く切り込むインタビューを行なって、このような音楽書としてまとめることがはたして日本人に可能だろうか、という疑問だった。そのときまず頭に浮かんだのは、仮にその対象となり得る日本人ジャズ音楽家がいるとしたら、第一番目に挙げられるのは間違いなく秋吉敏子だろう、ということだった。

1956年という、モダン・ジャズが全盛期を迎えつつあったアメリカに、20代半ばの若さで単身で渡り、以来日本ではなく現地でジャズと共に生きて来た秋吉敏子のジャズ音楽家としての人生は、彼女以外の日本人が誰も体験したことのない、誰も語ることのできない唯一無二の記録としての価値がある。秋吉氏自身、自伝も書き、今回の本も出版し、テレビ番組にも出演し、今やネット動画でも演奏やインタビューが見られるし、確かにそこでかなりのことをこれまでに語ってきた。ただしそれらは、彼女がジャズファン以外の人たちも意識して、主として自分の人生や作品について、意図的にわかりやすく書いたり、語ったりしてきたことのように思う。仮にコニッツの本のように、ジャズという音楽とジャズの世界を深く理解した「聞き手」が、時間をかけて二人だけでじっくりとインタビューし、音楽家・秋吉敏子の「ジャズ体験」、「ジャズ観」というものをより深く掘り下げるような対話をすれば、彼女がこれまで語ったことのない話、語ろうとしなかった話、あるいは自分でも気づかないような、心の奥底にある声が聞こえて来る可能性があるのではないかという気がする。

リー・コニッツの本は、予想を超えた対話の成果を生み出したが、ジャズという音楽とホーン奏者にとっての即興演奏について、コニッツが自分の言葉であれだけ明晰に語るとは誰も想像していなかったのだ。もちろんコニッツの知性と長い時間をかけた対話だったことが理由の一部だが、それを可能にしたのは、聞き手である芸術哲学の徒アンディ・ハミルトンの構想、周到な準備、構成力、そして何よりインタビュー技術があったからこそだと思う。そして、そのコニッツも、バド・パウエルも、モンクも、ニカ夫人も、ミンガスも、マイルスも、コルトレーンも生きていたモダン・ジャズ全盛期のアメリカの現場を、ただ一人日本人ジャズ音楽家として目撃し、その世界でジャズ・ピアニスト、作編曲家として生き抜いて来た秋吉氏の貴重な体験を、第三者が聞き手としてもっと掘り下げることができたら、ジャズとアメリカ、ジャズと日本人、ジャズとピアニスト、ジャズと女性音楽家、そしてジャズとは何か、アメリカとは何か――という、音楽としてのジャズをより普遍的な視点で、また日本人ならではの視点で俯瞰する、より広く、より奥の深い音楽的対話が生まれて来るのではないかと想像する。そしてその「聞き手」として、もっともふさわしい人物こそ児山紀芳氏ではないだろうか。個人的願望ではあるが、二人がお元気なうちに、こうしたコンセプトで、もし<秋吉敏子 x 児山紀芳>という対話が実現し、記録され、音楽書籍として出版されたら、それはきっと後世に残る素晴らしい日本のジャズ遺産の一つになるだろうと思う。

*2019/02/05 追記
本日、児山紀芳氏の訃報を知りました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。