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2017/05/18

菊地成孔、高内春彦の本を読む

菊地成孔と高内春彦は2人ともジャズ・ミュージシャンだが、片や山下洋輔のグループで実質的なプロ活動を始め、以来日本での活動が中心のサックス奏者兼文筆家、片やアメリカ生活の長いギタリスト兼作曲家というキャリアの違いがある。今回読んだ菊地氏の本は2015年の末に出版されているので既に大分時間が経っているが、最近(4月)、高内氏の書いたジャズ本が出たこともあって、2人のジャズ・ミュージシャンが書いた2冊の本を続けて読んでみた。これはまったくの個人的興味である。共通点はジャズ・ミュージシャンが書いた本ということだけだ。本のテーマもまるで違うし、文筆も主要な仕事の一つとしてマルチに活動している人と、ジャズ・ミュージシャン一筋の人という違いもあるので、本の出来云々を比較するつもりはなく、以下に書いたのはあくまで読後の個人的感想だということをお断りしておきたい。

高内氏はジャズ・ギター教則本は何冊か書いているようだが、これまで本格的な著作はなく、この本「VOICE OF BLUE -Real History of Jazz-舞台上で繰り広げられた真実のジャズ史をたどる旅」(長いタイトルだ…)が初めてのようだ。80年代初めの渡米以降アメリカ生活が長く、それに本人よりも女優の奥さんの方が有名人なので、いろいろ苦労もあったことだろう。しかし、なんというか、自然体というのか、のんびりしているというのか、構えない人柄や生き方(おそらく)が、この本全体から滲み出ているように感じた。私が知っていることもあれば、初めて知ったこともあり、特に1970年代以降のアメリカのジャズ現場の話は、これまであまり読んだことがなかったので参考になる部分も多かった。ただ英語表現(カタカナ)がどうしても多くなるのと、カジュアルな言い回しを折り混ぜた文体は、肩肘張らずに読める一方で、どこか散漫な印象も受ける。歴史、楽器、民族など博学な知識が本のあちこちで披露されていることもあって何となく集中できないとも言える。モードの解析や、ギタリストらしい曲やコード分析など収載楽譜類も多いが、これらはやはりジャズを学習している人や音楽知識のある人たちでないと理解するのが難しいだろう。一方、デューク・エリントンを本流とするアメリカのジャズ史分析や、ジャズの捉え方、NYのジャズシーンの実状、新旧ミュージシャン仲間との交流に関する逸話などは、著者ならではの体験と情報で、私のようなド素人にも面白く読めた。伝記類を別にすれば、こうしたアメリカでの個人的実体験と視点を基にしてジャズを語った日本人ミュージシャンの本というのはこれまでなかったように思う。ただし全体として構造的なもの、体系的な流れのようなものが希薄なので、あちこちで書いたエッセイを集めた本のような趣がある。また常に全体を冷静に見渡している、というジャズ・ギタリスト兼作曲家という職業特有の視点が濃厚で、技術や音楽に関する知識と分析は幅広く豊富だが、逆に言えば広く浅く、あっさりし過ぎていて、ジャズという音楽の持つ独特の深み、面白味があまり伝わって来ない。たぶん一般ジャズファン対象というよりも、ジャズ教則本には書ききれない音楽としてのジャズの歴史や背景をジャズ学習者にもっと知ってもらおう、という啓蒙書的性格の本として書かれたものなのだろう。ただしジャズへの愛情、構えずに自分の音楽を目指すことの大事さ、という著者の思想と姿勢は伝わってきた。

一方の「レクイエムの名手 菊地成孔追悼文集」は文筆家としての菊地成孔が書いたもので、ジャズそのものを語った本ではない。クールな高内氏と対照的に、こちらは独特のテンションを持った語り口の本だ。これまでに私が読んだ菊地氏の本は、10年ほど前の大谷能生氏との共著であるジャズ関連の一連の著作だけだが、これらは楽理だけではなく、ジャズ史と、人と、音楽芸術としてのジャズを包括的に捉え、それを従来のような聴き手や批評家ではなく、ミュージシャンの視点で描いた点で画期的な本だと思うし、読み物としてもユニークで面白かった。これらの本格的ジャズ本と、ネット上で菊地氏が書いたものをほんの一部読んできただけなので、この本「レクイエムの名手」は私にとっては予想外に新鮮だった(彼のファンからすれば何を今更だろうが)。個人的接点の有無は問わず、親族から友人、有名人まで、「この世から失われた人(やモノ)」を10年以上にわたって個別に追悼してきたそれぞれの文章は、各種メディアに掲載したりラジオで語ってきたものだ。それらをまとめた本のタイトルを、原案の(自称)「死神」あらため「追悼文集」にしたという不謹慎だが思わず笑ってしまうイントロで始まり、エンディングを、死なないはずだったのに本の完成間近に亡くなったもう一人の「死神」、尊敬する相倉久人氏との「死神」対談で締めくくっている。私のまったく知らない人物の話(テーマ)も出て来るのだが、読んでいるとそういう知識はあまり関係なく、彼の語り口(インプロヴィゼーション)を楽しめばいいのだと徐々に思えてくる。音楽を聞くのと一緒で、その虚実入り混じったような、饒舌で、だが哲学的でもあり、かつ情動的な語り口に感応し楽しむ人も、そうでない人もいるだろう。中には独特の修辞や文体に抵抗を感じる人もいるかもしれないが、現代的で、鋭敏な知性と感性を持った独創的な書き手だと私は思う。

年齢を重ねると、周囲の人間が徐々にこの世を去り、時には毎月のように訃報を聞くこともあるので、死に対する感受性も若い時とは違ってくる。自分に残された時間さえも少なくなってくると、亡くなった人に対する「追悼」も切実さが徐々に薄まり、自分のことも含めて客観的にその人の人生を振り返るというある種乾いた意識が強くなる。これは人間として当然のことだと思う(だが若くして逝ってしまった人への感情はそれとは別だ)。そういう年齢の人間がこの本から受ける読後感を一言で言えば、「泣き笑い」の世界だろうか。泣けるのにおかしい、泣けるけど明るいという、「生き死に」に常についてまわる、ある種相反する不可思議な人情の機微を著者独特の文体で語っている。文章全体がジャズマン的諧謔と美意識に満ちていて、しみじみした項もあれば笑える箇所もあるが、そこには常に「やさぐれもの」に特有の悲哀への感性と、対象への深い人間愛を感じる。独特の句読点の使い方は、文中に挿入すると流れを損なう「xxx」の代替のようでもあり、彼の演奏時のリズム(休止やフィル)、つまりは自身の身体のリズムに文章をシンクロさせたもののようにも思える。カッコの多用も、解説や、過剰とも言える表現意欲の表れという側面の他に、演奏中に主メロディの裏で挿入するカウンターメロディのようにも読める(文脈上も、リズム上も、表現者としてそこに挿入せずにはいられない類のもの)。文章の底を流れ続けるリズムのために、文全体が前へ前へと駆り立てるようなドライブ感を持っているので、先を読まずにいられなくなる。「追悼」をメインテーマに、菊地成孔がインプロヴァイズする様々なセッションを聴いている、というのがいちばん率直な印象だ。そしてどのセッションも楽しめた。

特に印象に残ったのは、氏の愛してやまないクレージー・キャッツの面々やザ・ピーナッツの伊藤エミ、浅川マキ、忌野清志郎、加藤和彦など、やはり自分と同時代を生きたよく知っているミュージシャンの項だ。私は早逝したサックス奏者・武田和命 (1939-1989) が、一時引退後に山下洋輔トリオ(国仲勝男-b、森山威男-ds)に加わって復帰し、カルテット吹き込んだバラード集「ジェントル・ノヴェンバー」(1979 新星堂)を、日本のジャズが生んだ最高のアルバムの1枚だと思っている。このアルバムから聞こえてくる譬えようのない「哀感」は、絶対に日本人プレイヤーにしか表現できない世界だ。どれも素晴らしい演奏だが、冒頭のタッド・ダメロンの名曲<ソウルトレーン SoulTrane>を、「Mating Call」(1956 Prestige) における50年代コルトレーンの名演と聞き比べると、それがよくわかる。哀しみや嘆きの感情はどの国の人間であろうと変わらないはずだが、その表わし方はやはり民族や文化によって異なる。山下洋輔の弾く優しく友情に満ちたピアノ(これも日本的美に溢れている)をバックに、日本人にしか表せない哀感を、ジャズというフォーマットの中で武田和命が見事に描いている。菊地氏のこの本から聞こえてくるのも、同じ種類の「哀感」のように私には思える。それを日本的「ブルース」と呼んでもいいのだろう。彼のジャズ界への実質的デビューが、1989年に亡くなった武田和命を追悼する山下洋輔とのデュオ・セッションだった、という話をこの本で初めて知って深く感じるものがあった。会ったことも生で聴いたこともないのだが、山下氏や明田川氏などが語る武田氏にまつわるエピソードを読んだりすると、武田和命こそまさに愛すべき「ジャズな人」だったのだろうと私は想像している。時代とタイプは違うが、本書を読む限り、おそらく菊地成孔もまた真正の日本的「ジャズな人」の一人なのだろう。その現代の「ジャズな人」が、昔日の「ジャズな人」を追悼する本書の一節は、それゆえ実に味わい深かった。 

2人のジャズ・ミュージシャンが書いた本は両書とも楽しく読めた。また2人とも心からジャズを愛し生きて来たことがよくわかる。だが高内氏の本はジャズを語った本なのだが、私にはそこからジャズがあまり聞こえてこない。一方菊地氏の本はジャズそのものを語った本ではないが、私にはどこからともなくずっとジャズが聞こえてくる。もちろん私個人のジャズ観や波長と関係していることだとは思うが、この違いはそもそも本のテーマが違うからなのか、文章や文体から来るものなのか、著者の生き方や音楽思想から来るものなのか、あるいは日本とアメリカという、ジャズを捉える環境や文化の違いが影響しているのか、判然としない。年齢は1954年生まれの高内氏が菊地氏より10歳近く年長だ。1970年代半ばの若き日に、フュージョン(氏の説明ではコンテンポラリー)全盛時代の本場アメリカで洗礼を受け、以来ほぼその国を中心に活動してきたギタリストと、バブル時代、実質的にジャズが瀕死の状態にあった80年代の日本で同じく20歳代を生きたサックス奏者…という、演奏する楽器や、プロ奏者としてのジャズ原体験の違いが影響しているのか、それとも単に個人の資質の問題なのか、そこのところは私にもよくわからない。