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2017/11/02

モンクを聴く #15 : Tribute to Monk

MONK'stra Vol.1
John Beasley
(2017 Mack Avenue)
モンク作品を演奏した ”Play Monk” あるいは ”Tribute to Monk” 的レコードは昔からたくさんある。一つは単に楽曲(素材)として取り上げ、比較的有名なモンク作品を、いわゆるジャズ・スタンダードとして演奏した性格のものであり、もう一つはモンクの音楽、あるいは音楽家モンクに対する尊敬や思い入れを込めて、ミュージシャンが自身のモンク作品演奏を通して文字通りトリビュートしたレコードだ。後者としてはスティーヴ・レイシーの作品(1958) が有名だが、日本でもピアニスト八木正生(1932-91) が全曲モンク作品のアルバム『Masao Yagi Plays Thelonious Monk』を作っているし(1959)モンク全盛期にはジョニー・グリフィンとエディ・ロックジョー・デイヴィスが『Lookin’ at Monk!』(1961) を録音し、その後もランディ・ウェストン、チャーリー・ラウズといったモンクと親しかったミュージシャンがアルバムを作っている。だがこうしたモダン・ジャズ時代以降も、様々なジャズ・ミュージシャンがモンクの音楽の再解釈に挑んできた。今年はモンク生誕100年ということもあり、ジョン・ビーズリー John Beasley (1960 -) の「モンケストラ MONK'estra」がビッグバンドで斬新な試みに挑戦しており(残念ながら今週の「ブルーノート」でのライヴは聞き逃した)、日本でも山中千尋が全曲モンク作品ではないが『Monk Studies』(Universal) というトリオ・アルバムを発表している。しかも1950年代、60年代の多くの芸術家たちを魅了したように、汲めども尽きない謎と魅力があるモンクの音楽と、モンクという存在そのものがジャズ以外の音楽、さらには音楽以外の芸術分野のアーティストでさえ未だに触発し続けている。

Reflections
Steve Lacy Plays
Thelonious Monk
(1958 New Jazz)
第21章 p434
モンクを本格的に研究した最初のジャズ・ミュージシャンが、モダン・ジャズ時代におけるソプラノサックスのパイオニア、スティーヴ・レイシー Steve Lacy (1934-2004) で、その2作目のリーダー・アルバムが、全曲モンク作品に挑戦した『リフレクションズ Reflections: Steve Lacy Plays Thelonious Monk』(New Jazz, 195810月録音)だった。(ただし別項に記したように、フランスのテナー奏者バルネ・ウィランは1957年1月に、全曲ではないがモンク作品を6曲取り上げたアルバム『Tilt
を既に録音している。)ビバップではなく、シドニー・ベシェら、ディキシーランドやシカゴスタイルの古い音楽の影響をルーツとするレイシーが、次に向かったのがモンクに触発されていたセシル・テイラーであり、1957年夏にモンクが登場する半年以上前に、「ファイブ・スポット」にテイラー・ユニットのメンバーとして出演している。テイラーというフィルターを通してモンクを知るようにったレイシーが、他の奏者のような比較的分かりやすいモンク作品ばかり取り上げなかったのは当然だろう。同じくモンクの影響を受けていたマル・ウォルドロン(p)、セシル・テイラーと共演していたビュエル・ネイドリンガー(b)、当時新進のドラマーだったエルヴィン・ジョーンズ(ds)というカルテットがこのアルバムで取りあげたのは、タイトル曲<Reflections>の他、<Four in One>,<Hornin’ In>,<Bye-Ya>,<Let’s Call This>,<Ask Me Now>,<Skippy>という計7曲のモンク作品である。1957年のズート・シムズ(ts) による<Bye-Ya>以外は(当時は未発表だったバルネ・ウィランの<Let's Call This>もある)、それまでモンク以外誰も演奏したことがない曲ばかりだった。レイシーはモンク作品のメロディ、ハーモニー、リズムという構造を徹底的に研究することから始め、モンクが実際にはせいぜい20曲程度の常時レパートリーしかなかったのに対して、50曲以上のモンク作品をレパートリーにできるまで自身の中に吸収したと言われている。

レイシーのソプラノサックスは、モンクと同じく一度嵌ると病みつきになるほど個性的だが、そのメロディとサウンドもモンク同様に常に温かく美しい。モンクだけを演奏したレイシー初期のこのアルバムでは、まるで二人のサウンドが合体したかのように聞こえる。モンク・バラードの傑作で、レイシーがシンプルに淡々と吹くタイトル曲<Reflections>の懐かしさ漂うメロディは、シンプルゆえにいつまでも耳に残るほど印象的だ。モンクに傾倒していたレイシーが書き留めたと言われる有名な「モンク語録」も、これまでにも多くが知られ、また本書にもいくつか出て来るが、どれも実に興味深く、ジャズの神髄を捉えた言葉ばかりだ。レイシーがあるインタビューで述べた、「画家ユトリロがパリのモンマルトルを描いたように、モンクはニューヨークという街そのものを音楽で描いていたのだ」、という表現もまたモンクの音楽の本質の一部を捉えた名言だろう。そのレイシーが初めてモンク・クインテットのメンバーとして共演した、19606月からの16週におよぶ「ジャズ・ギャラリー」での貴重な長期ギグを、リバーサイドがまたしても録音しなかったのは返すがえすも悔やまれる。レイシーは60年代を通じて、ピアノレスというフォーマットでモンク作品の探求を続け、1963年にはラズウェル・ラッド(tb)、ヘンリー・グライムス(b)、 デニス・チャールズ(ds)というカルテットで、2作目となる全曲モンク作品のLP『School Days』(Emanem) をライヴ録音で残している(ただし発表されたのは12年後)。その後ヨーロッパ中心の活動を続けた後、1970年代にはパリに移住し、70年代半ばにはプロデューサー間章を仲立ちにして、富樫雅彦(ds)、吉沢元治(b)ら日本のミュージシャンとも共演している。その生涯を通じて、レイシーの音楽の根底にあったのは常にセロニアス・モンクだった。

A Portrait of Thelonious
(Orig.Rec.1961/
1965 Columbia)
第26章 p563
モンク作品を取り上げた中で別格とも言えるレコードが、バド・パウエル (1924-66) 196112月17日にパリで録音したピアノ・トリオ、『A Portrait of Thelonious』である。これはキャノンボール・アダレイがパリでプロデュースした音源で、実際には1965年になってコロムビアからリリースされている。パウエルがモンク作品を演奏したのは1944年のクーティ・ウィリアムズ楽団時代の<Round Midnight>の初録音、トリオでは1947Roostの<Off Minor>(モンクによるブルーノート録音より前である)、1954Verveの<Round Midnight>くらいしか思いつかない。二人は音楽的には師弟関係にあり、兄弟のように親しい間柄でもあり、モンクはパウエルに捧げた代表曲<In Walked Bud>も作曲している(1947年)。モンクの曲を演奏するのに、パウエル以上にふさわしいピアニストはいなかったと思うが、パウエルは意外にもモンクの曲をあまり録音していない(たぶん売れないという制作者側の商業的理由や、モンクの曲を演奏できるミュージシャンがいなかったからだろう)。このアルバムでモンクの曲を取り上げたいきさつはよくわからないが、同じ年1961年4月18日にモンクが7年ぶりにパリ公演を行なって大成功を収め、その時にパウエルとも再会しているので、おそらくそうしたことからモンク作品の案が出て来たのだろう。

アルバム全8曲のうちモンク作品は<Off Minor>,<Ruby, My Dear>,<Thelonious>,<Monk’s Mood>という4曲で、当時の現地レギュラーメンバー、ピエール・ミシュロ(b) とケニー・クラーク(ds) がサポートしており、録音も非常にクリアだ。他のレコードを含めてパリ時代に録音されたパウエルの演奏には、もちろん往年のような凄みや切れ味はないが、モンクがそうだったように、技術の巧拙を超えた晩年の天才にしか表現できない情感があり、当時のパウエルのモンクに対する温かな心情が伝わって来るようなこのレコードが私は昔から大好きだ。特にしみじみとした<Ruby, My Dear>は、この曲のあらゆる演奏の中で最も美しい解釈だと思うし、私はパウエルのこの演奏がいちばん気に入っている。アルバム・ジャケットを飾る抽象画とデザインは、ニカ男爵夫人によるもので、本書に描かれたこの3人の当時の関係を彷彿させる点でも、このレコードからは、単にモンクの曲をパウエルが演奏したということ以上の特別な何かを感じる。本書にも書かれているように、パウエルが亡くなる1年前の1965年、レナード・フェザーとのインタビューで、このレコードの<Ruby, My Dear>の感想を訊かれたモンクが「ノーコメントだ」と答えているのも、モンクの心の中に、言葉にできない当時のパウエルへの様々な思いが去来していたからだろうと思う。

Monk on Monk
T.S.Monk
(1997 N2K Encoded Music)
終章 p66
0
『モンクを聴く』シリーズ最後のアルバムは、人間セロニアス・モンクを最もよく知る男、息子でドラマーのトゥートことT.S.モンク(1949 -)が、父親の生誕80周年に自らプロデュースした『モンク・オン・モンク Monk on Monk』(N2K、1997年2月録音) である。1990年代当時の新旧の大物ミュージシャンが集結し、全曲モンク作品を取り上げた10-12人編成のアコースティック・ビッグバンドよるこのアルバムのモチーフになっているのは、言うまでもなく父親モンクの2回のビッグバンドのコンサートだ(彼は2回とも会場にいたという)。

曲目は以下の8曲で、ほとんどモンクの家族、親族、友人にちなんだ有名曲ばかりを選んでいる。
Little Rootie Tootie/ Crepuscule with Nellie/ Boo Boo’s Birthday/ Dear Ruby (=Ruby, My Dear)/ Two Timer (="Five Will Get You Ten" by Sonny Clark)/ Bright Mississippi/ Suddenly (=In Walked Bud)/ Ugly Beauty/ Jackie-ing

総勢20人を越える参加メンバーも豪華で、編曲したT.S.モンク(ds)、ドン・シックラー(tp)に加え、ホーンはウェイン・ショーター(sax)、グローバー・ワシントJr (ts)、ロイ・ハーグローヴ(fgh)、ウォレス・ルーニー(tp)、アルトゥール・サンドバル(tp) や、父親の旧友デヴィッド・アムラム(fh)、エディ・バート(tb)、クラーク・テリー(tp) などが参加し、各曲でそれぞれが素晴らしいソロを聞かせる。ベースはロン・カーター、デイヴ・ホランド、クリスチャン・マクブライドが、またピアノはハービー・ハンコック、デヴィッド・マシューズに加え、ジェリ・アレン、ダニーロ・ペレスというポスト・モンク世代を代表するピアニストが交代で担当している。そして2曲入ったヴォーカルは、『Underground』(1967) でジョン・ヘンドリックスが歌詞を付けて歌った<In Waked Budを、ダイアン・リーヴスとニーナ・フリーロンが見事なデュエットで聞かせ、モンクが詞を付けたいとずっと思っていた<Ruby, My Dear>をケヴィン・マホガニーが初めて歌詞 (by Sally Swisher) 付きの甘いバラードとして歌っている。モダン・ジャズの香りがまだ比較的残っていた90年代の感覚で、モンクの音楽をアコースティック・ビッグバンドとヴォーカルというフォーマットで多彩に解釈したこのアルバムは、オールスター・バンドにありがちな月並みな演奏ではなく、父親の音楽を内側から捉えていた息子による新鮮なアレンジメントと参加メンバーの素晴らしさで、どの曲も演奏も非常に楽しめる。父モンクの時代とは異なり、楽器の質感が伝わり、見通しも良いクリアな90年代的録音 (by ルディ・ヴァン・ゲルダー) も気持ちが良い。

House of Music
T.S.Monk Band
(1980 Atlantic)
第29章 p654, 終章 p660
T.S.モンクは1977年に立ち上げたR&BのT.S.モンク・バンドを率い、以来ミュージシャンとして活動する傍ら、1984年に早逝した妹バーバラ(ボーボー)・モンクの、亡き父親に改めて光を当てるという遺志を引き継ぎ、セロニアス・モンク財団および同ジャズ学院 (Thelonious Monk Institute of Jazz) を1986年に創設、運営し、次世代のジャズ・ミュージシャンを教育、支援する組織を初めて作るという、米国ジャズ史上画期的な仕事を成し遂げた人だ。『Monk on Monk』がリリースされた1998年にT.S.モンクが受けたインタビューの記事を読んだが、非常に興味深い。モンクに関する本は、当時存命だったネリー夫人が書かない以上、母親が亡くなるまでは手を付けないし、それまでは誰でも書くのは自由だが、モンク家として公認はしないと述べている。その後2002年にネリー夫人が亡くなったことで、ロビン・ケリー教授の本書(2009年出版)を初めてモンク財団として公認し、執筆にあたって資料提供なども協力したということのようだ。(オリン・キープニューズの息子がモンク伝記を書くという噂がずっとあったが、本書で書かれたモンクとキープニューズの関係を知ると、それは難しそうだったということはわかる。ただし真の理由は不明だが)。彼が最も影響を受けたドラマーは、常に身近にいてその下で修行もしたマックス・ローチ(1924-2007) よりも、むしろアート・ブレイキー(1919-90) だという。自らバンドを率いてきたこともあって、ブレイキーは単なるドラマーでなく、ジャズ・メッセンジャーズというバンドのリーダーとしてずっとチームを率いてきたからだ、というのがその理由だ。昔のジャズ・スターはみなそうした「バンド」から生まれて来たものだが(リー・モーガン、ウェイン・ショーター、80年代のウィントン・マルサリスもメッセンジャーズ出身だ)、現代のジャズ界からは若いミュージシャンを昔のように育て、支えて行くための基盤が失われている。モンク・ジャズ学院は彼らを育て、支援し、さらにセロニアス・モンク・国際コンペティションのような音楽イベントを通じて、才能ある無名の若手を世の中に送り出すマーケティング的機能と役目も果たしているのだという。自分は父親のような音楽上のパイオニアではなく、バンドや組織を統率するリーダーとしてジャズに関わっている、というのがこの当時の彼の認識だ。つまり、父モンクのジャズ界への重要な貢献の一つでもあった、サンファンヒルの小さなアパートメントに若いミュージシャンたちを集めて指導していた、あのジャズ私塾の精神を引き継いでいるのだ。彼は現在もこの方向に沿って、全米に拡大した広範な活動を続けている。T.S.モンクは、やはり両親の強い血筋と薫陶を感じさせる、強固なヴィジョンと意志を持った人物である。

2017/08/10

ジャズ映画を見る (2)

一般的にジャズ映画と呼ばれている中で一番多いのは、ジャズ・ミュージシャン本人を描いた伝記的映画だ。「グレン・ミラー物語」(1954や「ベニー・グッドマン物語」(1956など白人ビッグバンドのリーダーを描いた映画が古くからあって、私も昔テレビで見た程度だが、いかにも往時のハリウッド的な作りの映画だった記憶がある。我々の世代だと、一番記憶に残っているのは、やはり1980年代の「ラウンド・ミッドナイトRound Midnight」(1986年)と、「バードBird」(1988年)だろうか。(しかし、これらの映画も既に30年も前の作品だと思うと、つくづく時の流れを感じる。当時の日本はバブル真只中で、一方でアメリカはまだIT革命前の不況に喘いでいた時代だった。)

「ラウンド・ミッドナイト」は、フランス人のベルトラン・タヴェルニエ (1941-) が監督・脚本、ハービー・ハンコック (1940-) が音楽を担当した米仏合作映画である。基本はピアニスト、バド・パウエル  (1924-66) がパリに移住していた時代 (1959-64) に、パトロンとしてパウエルを支え続けたフランス人、フランシス・ポードラ (1935-97) が書いた評伝 “Dance of The Infidels”(異教徒の踊り)で描かれたパウエルの物語だが、そこにテナーサックスのレスター・ヤング (1909-59) の生涯の逸話もミックスしている。この二人のジャズの巨人をモデルにした主人公、テナー奏者デイル・ターナー役を、パウエルと同時期にパリに住み、共演もしていたデクスター・ゴードン (1923-90) が演じている。ハンコック(p)とボビー・ハッチャーソン(vib)も実際に役を演じ、またフレディ・ハバード(tp)、ウェイン・ショーター(ts)、ロン・カーター(b)、ビリー・ヒギンズ(ds)、トニー・ウィリアムズ(ds)、ジョン・マクラフリン(g)、さらにチェット・ベイカー(tp)など、当時の錚々たる現役ジャズ・ミュージシャンたちが、ジャズクラブの演奏シーンに登場している。そしてもちろん、映画のタイトル「ラウンド・ミッドナイト」によって、この曲の作曲者であるもう一人のジャズの巨人で、パウエルを兄のように支え続けたセロニアス・モンクへのオマージュも表現している。フランス人監督が、落ちぶれた晩年のジャズの巨人を1960年前後のパリを舞台に描いた世界なので、ジャズ映画とはいえ、映像、演出ともに陰翳の濃い映画全体のトーンはやはりフランス映画的で、ほの暗く、しっとりしていて、アメリカ映画的な乾いた単純明快な描き方ではない。パリ時代のバド・パウエルは様々に語られてきたが、実際はこの映画で描かれた以上に悲惨な状態だったのだろう。しかし、その時代にパウエルが残したどのレコードからも、演奏技術の衰え云々を超えて、天才にしか表現できない味わいと寂寥感が伝わって来る。この映画で描かれているのも、まさに沈みゆく夕陽のような晩年の天才の最後の日々だ。主演のデクスター・ゴードンは、この映画での枯れた演技を高く評価されたが(地のままだという説もあるが)、ハッチャーソンやハンコックも含めて、即興で生きるジャズメンというのは、やはり演技力もたいしたものだと思う。なおデイル・ターナーが娘チャンに捧げた印象的なメロディを持つ曲は、ハンコックがこの映画のために書いた ”Chan’s Song (Never Sad)” という曲である。映画オープニングのモンクの曲 ”Round Midnight” と同じく、ミュート・トランペットのような音でこの曲がエンディングで流れるが、これは両方ともボビー・マクファーリンによる高音スキャット・ヴォーカルなのだそうである。この曲は今やジャズ・スタンダードになっていて、私が好きなのは、マイケル・ブレッカー(ts)のアルバム  ”Nearness of You:The Ballad Book” (2001 Verve) 冒頭の演奏で、ハンコック自身のピアノの他、パット・メセニー(g)、チャーリー・ヘイデン(b)、ジャック・デジョネット(ds)が参加している。この演奏は美しくまた素晴らしい。

映画「バード」は、言うまでもなく天才アルトサックス奏者チャーリー・パーカー (1920-55) の生涯を描いたもので、製作・監督は筋金入りのジャズファンであるクリント・イーストウッドだ。1930年サンフランシスコ生まれのイーストウッドは、少年時代に西海岸にやって来たパーカーの演奏を実際に聴いている。映画中の演奏シーンでは、パーカーの録音から、パーカーのソロ部分だけを抜き出し、その音(ライン)に合わせて、レッド・ロドニー(tp. 1927-94. 実際にパーカーと共演し、映画でも 南部ツアー時の “アルビノ・レッド” として描かれている)、チャールズ・マクファーソン(as)、ウォルター・デイヴィス・ジュニア (p)、ロン・カーター(b)などが実際に演奏した音楽を使うという凝りようである。したがってパーカーの演奏シーンの音楽はもちろん素晴らしい。物語はパーカーの少年時代からの多くの逸話や、相棒だったディジー・ガレスピー (1917-93) との交流も出て来るが、ほとんどはドラッグによって破滅に向かう天才パーカーの苦悩と、それを支えるチャン・パーカー夫人 (1925-99) との夫婦の情愛を描いたもので、映画は当時存命だった彼女の監修も経て制作している。パーカー役のフォレスト・ウィテカーは、演技はともかく、外見(顔や体型や仕草)がパーカーの私的イメージと違い過ぎて、正直どうもピンと来ない。鶴瓶に似ているとかいう話もあったが、実際のパーカーは、もっと凄みもあって(鶴瓶にもあるが)、もっとカッコ良かったんじゃなかろうか、と思う(ジャズに限らないが、いつの時代も人気の出るカリスマ的ミュージシャンは、何と言ってもカッコ良さが大事なはずなので)。それと、チャン夫人の回想が中心になっているためだと思うが、映画全体のムードと流れが暗く、重苦しい。パーカーがドラッグまみれだったのは確かだろうが、本当はもっとあっただろう、ジャズとパーカーの音楽の持つ明るく陽気な部分があまり描かれていないのが残念なところだ(印象に残ったのは、ユダヤ式結婚式のシーンくらいだ)。クリント・イーストウッドのジャズへの愛情の深さは伝わって来るものの、一方で彼の基本的ジャズ観が表れているのかもしれない。

同時期のもう一作は、スパイク・リー (1957-)監督・制作の「モ・ベター・ブルースMo’Better Blues(1990)で、実在のモデルはいないが、1960年代後半にニューヨーク・ブルックリンで生まれたジャズ・トランペッターとその仲間たちの音楽、友情、恋愛、挫折を描いた映画である。フランス人、白人アメリカ人による重厚な上記2本の映画とは違って、もっと若い(当時30歳代初め)アフリカ系アメリカ人の監督が、ジャズとミュージシャンたちをテンポ良く、比較的軽く明るく描いた作品だ(制作費も安かったらしい)。当時スパイク・リーが、クリント・イーストウッドの「バード」に刺激されて制作したという話もあって、リー監督本人も、主人公デンゼル・ワシントンの幼なじみの小男マネージャー役(ジャイアントというあだ名)で、準主役的に登場してコミカルな演技を披露している(田代まさし、みたいだが)。当時まだ30歳台の主役デンゼル・ワシントン (1954-) は実にセクシーでカッコ良く、ジョン・コルトレーンの風貌と、ソニー・ロリンズの外見を足して2で割ったような雰囲気があるし、特にトランペットの演奏シーンでの男っぽい立ち姿は若き日のロリンズのようで本当にサマになっている。音楽も、リー監督とほぼ同世代のブランフォード・マルサリス(sax)、テレンス・ブランチャード(tp)といった一流ミュージシャンが制作に関わっているので演奏シーンでは本格的なジャズが聞ける。クラブにジャズを聴きに来るのは今や(1980年代)日本人とドイツ人ばかりで、黒人はまったく来ないと主人公が嘆くセリフとか、ピアニストの面倒をあれこれと見るフランス人女性のパトロンがフランス語でまくしたてたり、ミンガスの自伝タイトルから取ったジャズクラブ名(Beneath the Underdog)が出て来たり、パーカーやコルトレーンのレコードを偏愛する姿、さらに後半からは疾走するコルトレーンの「至上の愛」をバックに物語が進み、最後に主人公がやっと結婚して、生まれた子供の名前をマイルスにするというオチもあって、ジャズへのオマージュが全編に溢れている。カラフルなエンドロールのバックに流れるジャズ讃歌のような(たぶん)ラップも非常に楽しい。話としては単純だが何よりテンポが軽快なこともあって、同時代の3本の映画の中で、私的に一番ジャズを感じさせたのはこの「モ・ベター・ブルース」だった(もちろん人それぞれの好みによると思うが)。やはり各監督の資質、ジャズ観に加え、過去を振り返るのと、今 (1980年代当時) を描こうとする作り手の姿勢が、映画全体の印象と関係しているのだろう。 

この他、ジャズを取り上げた最近の洋画は、今年封切り時に映画館で見た「ラ・ラ・ランド」で、この映画についてはブログの別の記事で書いている。同じ監督の「セッション」や、一時引退時のマイルス・デイヴィスを描いた「マイルス・アヘッド」(2016)、チェット・ベイカーを描いた「ボーン・トゥー・ビー・ブルー」(2015) などはまだ見ていないが、いずれ機会があれば見てみたいと思う。ミュージシャンの伝記系以外の映画なら、日本でも上野樹里の「スウィング・ガールズ」(2004) があったし、先日テレビでは筒井康隆原作の「ジャズ大名」(1986)をやっていたが、時代劇とジャズという奇想天外な組み合わせ、お遊びたっぷりの演出で非常に面白かった。タモリや山下洋輔まで出演していたのでびっくりした(知らなかった)。こういうジャズを題材に取り上げた映画は、漫画「坂道のアポロン」もついに映画化されるように、すぐれた作者がいて、良いテーマがあれば、これからも作られてゆくだろう。

2017/04/06

バド・パウエルとモンク

ロビン・ケリーの「Thlonious Monk」 を読んで、セロニアス・モンクとバド・パウエル(Bud Powell 1924-1966)の実際の関係がどのようなものだったのかを初めて知った。7歳年長のモンクがパウエルの師匠のような存在だったという話はこれまでも聞いていたが、2人の具体的な関係や、ジャズ・ミュージシャンとして生きた時代、ニューヨークと、パウエルが一時移り住んだパリ時代の2人の関係など、自分の中で情報が整理できていなかったので、そうだったのかと驚くことも多かった。何より、2人がピアニストとして単なる先輩、後輩の関係だっただけではなく、兄弟のような愛情と絆で結ばれていたことも知った。パウエルの友人だったもう一人の優れたピアニスト、エルモ・ホープも加わって、この3人は生涯の友となるのである。

バド・パウエルは疑いなくモダン・ジャズ・ピアノの開祖であり、パウエルなくしてその後のジャズ・ピアノの発展はなかったと言われているが、和声やリズム面のコンセプトにおいて、初期のパウエルにもっとも大きな影響を与えたのがモンクであり、若きパウエルのジャズ界での成長を後押しし、生涯を通じて彼を支え続けたのもモンクだった。パウエルはピアニスト兼アレンジャーとして初の職場となったクーティ・ウィリアムズ楽団時代に、当時仕事に恵まれず苦労していたモンクの曲<ラウンド・ミドナイト>を、楽団の演目に取り上げて欲しいとボスを説得している。そして、1945年にクーティ・ウィリアムズ楽団によって<ラウンド・ミドナイト>が初録音された。一方のモンクは、1947年に<イン・ウォークト・バド(In Walked Bud)>という、パウエルに捧げた曲を作っている。

パウエルはその後ビバップの中心人物として、全盛期だった1940年代後期から50年代半ばにかけてブルーノート、ルーレット、ヴァーブ等で天才としか言えない別格のレコードを何枚も残した後、徐々に閃きを失い、精神の病も進行していった。その後1959年から5年間をパリで過ごしたが、ジャズ・ミュージシャンを芸術家として温かく迎え入れた当時のパリは、アメリカで苦労していた彼らにとっては救いの都だった。そのパリ時代のパウエル(とレスター・ヤング)のイメージを元にして描いたのが映画「ラウンド・ミドナイト」(1986年)で、落ちぶれた天才テナーマンをデクスター・ゴードンが実際に演じていることで有名だ。アルコールと抗精神病薬の影響もあって、半ば廃人のようになったパリ時代のパウエルを、大江健三郎が目撃している(「危険な綱渡り」)。パリ時代の最後になって結核で倒れたパウエルに送金して助けたのも、1964年にニューヨークに帰還した後、どん底状態にあったパウエルを支えていたのもモンクだった。

パウエルの天才はビバップ高速奏法の技術だけではない。時折垣間見せるロマン派的な情感の表出が並外れているのだ。「ジャズ・ジャイアントJazz Giant」(1949-50 Verve/ Ray Brown &  Curley Russel-b, Max Roach-ds)は、全盛期のそうした両面のパウエルの演奏が楽しめる傑作レコードだ。とりわけ最後に続くスタンダードのバラード3曲(YesterdaysApril in ParisBody & Soul)に聴ける抒情と美は言語を超越する素晴らしさで、まさに芸術の域に達している。そしてパウエルがパリに移住した後は、モンクのヨーロッパ・ツアー時のパリ訪問を楽しみにしていて、現地での2人の再会も友情に満ちたものだったという。そのパリ時代にパウエルが録音したトリオ作品の1枚が、モンクの曲を中心にした「ポートレート・オブ・セロニアス A Portrait of Thelonious」だ1961/ Pierre Michelot-b, Kenny Clarke-ds)。実際このレコードに収録されているモンクの曲は、<ルビー・マイ・ディア>、<オフ・マイナー>、<セロニアス>、<モンクス・ムード>の4曲だけだが、異郷にあったパウエルの、モンクへの友情がそれぞれの演奏から溢れているような、とても温かいアルバムだ。このレコードがCBSからリリースされたのは1965年で、収録された<ルビー・マイ・ディア>についてのレナード・フェザーの皮肉な質問と、パウエルへの慈愛に満ちたモンクの返答が聞ける2人の対談も行なわれている。そして、印象的なこのレコードのジャケットを飾る画は、ジャズ・ミュージシャンの守護天使であり、最後までモンクを支え続けたパトロンであり画家でもあった、ニカ男爵夫人が描いたものである。この画にはやはり、モンクの音楽とどこか相通ずるものを感じる。

バド・パウエルは、その翌年1966年の夏に41歳で短い生涯を終える。そして翌1967年5月にはエルモ・ホープも43歳で急死し、さらにその直後7月のジョン・コルトレーン40歳の死という盟友3人の連続死が、既に肉体と精神を病みつつあったモンクに決定的な打撃を与える。同じ年に、モンクと共にあった伝説のジャズクラブ「ファイブ・スポット」もついに閉店し、モンクをはじめとするミュージシャンたちを苦しめた悪名高いキャバレーカードも廃止され、いわゆる「モダン・ジャズの時代」はここにある意味終焉を迎えた。そして、ベトナム戦争と公民権問題で揺れるアメリカを象徴するように、フリー・ジャズ、ジャズ・ロック、ファンク、エレクトリック、フュージョン等々、その後に続く混沌の70年代に入ってゆくのである。

2017/02/23

モンク考 (1) モンクの音楽の背景にあるもの 

セロニアス・モンクは大好きな人もいれば、嫌いな人もいるという個性的なジャズ音楽家だ。そこは個人の好みや感覚という問題もあるので何とも言えないが、私のようなモンク好きな人間にとっては、やはりその音楽の背景についてもっと知ってみたい、という興味が尽きない不思議な魅力がある。私はリー・コニッツが好きで、音楽的には真反対に見えるようなモンクも好き、というやや変則的な好み(?)があって、その理由については自分でもよく説明できないでいた。しかしロビン・D・G・ケリーの「Thelonious MonkThe Life and Times of an American Original」を読み(翻訳し)ながら、モンクのCDをずっと聴いているうちに、これまではっきりとわからなかったモンク像がおぼろげながら見えてきて、そこから考えたことがいくつかあるので、ここに「モンク考」としてその一部を書いてみたい。(私的感想文です)
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5 by Monk by 5
1959 Riverside
この本を読み終わって私がまず思い浮かべたのは、なぜか「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟(うぶね)かな」という芭蕉の有名な句であった。宴の後に漂う寂寥感と、天才ジャズマンの人生を知った後の感慨が同じものだと言うつもりはないが、著者も述べているように、モンクの物語はまさに読んでいて疲れるのだが、一方で確かにわくわくするようなスリルもあり、どこかおかしくもあり、また美しくもあり、しかし哀しくもある。世の中の認証を求めて苦闘し、警察による精神的、肉体的暴力に耐え、愛する家族のためにあくせくギグに出演し、ロードに出かけ、生活と創造活動に疲れ、酒とドラッグで癒し、精神を病んだ天才にしかわからない心象風景は、やはり美しく、また哀しいものでもあったのだろう。当然ながら、モンクの音楽世界もそれは同じだ。聴く者をハッピーにさせるあの骨太で、ユーモアがあり、何物にも捉われない自由と開放感こそモンクの音楽の身上だが、同時に、奇妙に響くコードや複雑に躍動するリズム、その上に乗った不思議に美しいメロディからは、べたつきのないメランコリーと、そこはかとないノスタルジーがいつも聞こえてくるのである。

この本で著者が描こうとした主題は「自由」と「独創」である。モンクも、そしてモダン・ジャズの本質もまたそこにある。制度であれ、規則であれ、慣習であれ、自らを束縛する約束事から解放されたいと希求する魂がモダン・ジャズを生み、モンクはまさにそれを体現した音楽家だった。モンクの音楽を聞いていると、なぜ自由になった気がするのか、なぜ精神が軽く解き放たれたように感じるのか、よく説明できないものの長年そう感じてきたが、楽理分析を超えた、その謎の源と思われるものが本書で描かれている。その典型例が、フランク・ロンドン・ブラウンという作家が触発されて小説「The Myth-Maker」を書いたとされる、モンクの曲〈ジャッキーイング(Jackie-ing)〉だ。1959年のアルバム「5 by Monk by 5(Riverside) 冒頭の1曲で、モンクのカルテットにサド・ジョーンズが客演したこの曲の初演だが、モンク的自由が溢れ、躍動感に満ちた名演であり、各ソロも素晴らしいが特に背後でコンピングするモンクのピアノは最高だ。

またよく知られているように、チャーリー・パーカーやバド・パウエルのエピゴーネンは数多く、本流としてのモダン・ジャズはある意味そのコピーの連鎖で出来上がったような音楽である。しかしモンクにはそうしたプレイヤーはほとんどいなかった。音楽思想の独自性は理解されても、モンクの音楽そのものがあまりにも「個性的」、「独創的」で、コピーしようがなかったからだ。その点で、モンクはリー・コニッツとよく似ている。コニッツとモンクは、白人と黒人、ホーン奏者とピアニスト兼作曲家という違いがあり、またそのジャズ観、生き方、音楽のスタイルともに両極にあるほどの違いがあるかに見える。しかしただ一つ、「誰にも似ていない、誰にも真似できない」固有の声(voice)を持っているという点で、二人にはジャズ音楽家として共通の資質と精神があるのだ。両者ともに、1フレーズを聞いただけでコニッツであり、モンクだとわかるほどサウンドの個性が際立っている。そして、その音楽が時流に媚びず、深く個人に根ざしているがゆえに、いつまでも古びることのない普遍性を持っている。コード進行に縛られず、曲のメロディに基づく自由な即興演奏にこそ価値があるという強固な音楽的思想と信念を持ち、妥協することなく自らの音楽を追求したことで、時に周囲から理解、評価されにくい異端の人だったという点も同じである。この二人の独創的音楽家の一番の違いは、当然ながらモダン・ジャズ本流に与えた音楽的影響の大きさだ。トリスターノ派のコニッツが、白人の非主流派としてマイナーな存在、芸術指向の強い孤高の位置に留まり続けてきたのと対照的に、ブルースやストライド・ピアノというジャズの伝統を背負った黒人モンクは、生涯にわたってショービジネスの世界に生き、異端ではあったが最初から常にジャズの本流にいて、その独創性はジャズという音楽と、同時代はもちろん、その後に続く世代のジャズ・ミュージシャンたちに深くかつ目に見えない影響を与え続けた。

そうしたジャズ界への影響力と音楽的スケールも含めて、モンクこそまさに「群盲、象を撫でる」がごとき芸術家であり、ジャズというジャンルを超えた音楽家だった。様々な分析が試みられてきたが、誰もモンクの音楽の全体像を「正しく」表現できない。いくら言葉を並べても、パトロンだったニカ男爵夫人が書いたように、「それは不遜であり、意味のないこと」なのだろう。この本の中でも、モンクを愛する人たちが、モンクの素晴らしさを様々な表現で形容しているが、私がいちばん気に入ったのは、アーティストにして批評家ポール・ベーコンの、「元気がいいが、やり方は無茶苦茶で……だが出来上がってみると世界のどこにもないような美しい家を建てる」名うての大工の譬えだ。「モンクは "独創的でしかいられない"人間なのだ」というニカ夫人の表現も、まさにモンクの本質を突いている。モンクの最高傑作「Brilliant Corners(1957 Riverside)は、不遇だったモンクの独創性がようやくジャズ界の公式な認証を得て、そのジャズマン人生もようやく開花した記念すべきアルバムである。

Brilliant Corners
1957 Riverside
本書で描かれた生き方から、モンクはとにかく束縛されることが大嫌いな人間だったことがわかる。あらゆる規則や約束事に縛られることを嫌い、何ものにも捉われないのがモンクであった。1960年代の公民権闘争の時代、政治的に共感することがあってもマックス・ローチやチャールズ・ミンガスとは違い、直接的政治行動に関わったり、集団や組織の一部として行動することを徹底して嫌い、多くの慈善興業やギグに出演しても常に個人として単独で行動している。その姿勢は宗教に関しても同じである。音楽上も、共演相手が誰であろうと、常に自分の音楽を演奏していた。モンクの音楽とは本質的に「自由」を表現したものだ、という冒頭の著者の指摘も、米国黒人史における政治的自由に加え、人生でも音楽でも、個人としての自由を常に求め続けたモンクの資質を意味している。