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2017/04/06

バド・パウエルとモンク

ロビン・ケリーの「Thlonious Monk」 を読んで、セロニアス・モンクとバド・パウエル(Bud Powell 1924-1966)の実際の関係がどのようなものだったのかを初めて知った。7歳年長のモンクがパウエルの師匠のような存在だったという話はこれまでも聞いていたが、2人の具体的な関係や、ジャズ・ミュージシャンとして生きた時代、ニューヨークと、パウエルが一時移り住んだパリ時代の2人の関係など、自分の中で情報が整理できていなかったので、そうだったのかと驚くことも多かった。何より、2人がピアニストとして単なる先輩、後輩の関係だっただけではなく、兄弟のような愛情と絆で結ばれていたことも知った。パウエルの友人だったもう一人の優れたピアニスト、エルモ・ホープも加わって、この3人は生涯の友となるのである。

バド・パウエルは疑いなくモダン・ジャズ・ピアノの開祖であり、パウエルなくしてその後のジャズ・ピアノの発展はなかったと言われているが、和声やリズム面のコンセプトにおいて、初期のパウエルにもっとも大きな影響を与えたのがモンクであり、若きパウエルのジャズ界での成長を後押しし、生涯を通じて彼を支え続けたのもモンクだった。パウエルはピアニスト兼アレンジャーとして初の職場となったクーティ・ウィリアムズ楽団時代に、当時仕事に恵まれず苦労していたモンクの曲<ラウンド・ミドナイト>を、楽団の演目に取り上げて欲しいとボスを説得している。そして、1945年にクーティ・ウィリアムズ楽団によって<ラウンド・ミドナイト>が初録音された。一方のモンクは、1947年に<イン・ウォークト・バド(In Walked Bud)>という、パウエルに捧げた曲を作っている。

パウエルはその後ビバップの中心人物として、全盛期だった1940年代後期から50年代半ばにかけてブルーノート、ルーレット、ヴァーブ等で天才としか言えない別格のレコードを何枚も残した後、徐々に閃きを失い、精神の病も進行していった。その後1959年から5年間をパリで過ごしたが、ジャズ・ミュージシャンを芸術家として温かく迎え入れた当時のパリは、アメリカで苦労していた彼らにとっては救いの都だった。そのパリ時代のパウエル(とレスター・ヤング)のイメージを元にして描いたのが映画「ラウンド・ミドナイト」(1986年)で、落ちぶれた天才テナーマンをデクスター・ゴードンが実際に演じていることで有名だ。アルコールと抗精神病薬の影響もあって、半ば廃人のようになったパリ時代のパウエルを、大江健三郎が目撃している(「危険な綱渡り」)。パリ時代の最後になって結核で倒れたパウエルに送金して助けたのも、1964年にニューヨークに帰還した後、どん底状態にあったパウエルを支えていたのもモンクだった。

パウエルの天才はビバップ高速奏法の技術だけではない。時折垣間見せるロマン派的な情感の表出が並外れているのだ。「ジャズ・ジャイアントJazz Giant」(1949-50 Verve/ Ray Brown &  Curley Russel-b, Max Roach-ds)は、全盛期のそうした両面のパウエルの演奏が楽しめる傑作レコードだ。とりわけ最後に続くスタンダードのバラード3曲(YesterdaysApril in ParisBody & Soul)に聴ける抒情と美は言語を超越する素晴らしさで、まさに芸術の域に達している。そしてパウエルがパリに移住した後は、モンクのヨーロッパ・ツアー時のパリ訪問を楽しみにしていて、現地での2人の再会も友情に満ちたものだったという。そのパリ時代にパウエルが録音したトリオ作品の1枚が、モンクの曲を中心にした「ポートレート・オブ・セロニアス A Portrait of Thelonious」だ1961/ Pierre Michelot-b, Kenny Clarke-ds)。実際このレコードに収録されているモンクの曲は、<ルビー・マイ・ディア>、<オフ・マイナー>、<セロニアス>、<モンクス・ムード>の4曲だけだが、異郷にあったパウエルの、モンクへの友情がそれぞれの演奏から溢れているような、とても温かいアルバムだ。このレコードがCBSからリリースされたのは1965年で、収録された<ルビー・マイ・ディア>についてのレナード・フェザーの皮肉な質問と、パウエルへの慈愛に満ちたモンクの返答が聞ける2人の対談も行なわれている。そして、印象的なこのレコードのジャケットを飾る画は、ジャズ・ミュージシャンの守護天使であり、最後までモンクを支え続けたパトロンであり画家でもあった、ニカ男爵夫人が描いたものである。この画にはやはり、モンクの音楽とどこか相通ずるものを感じる。

バド・パウエルは、その翌年1966年の夏に41歳で短い生涯を終える。そして翌1967年5月にはエルモ・ホープも43歳で急死し、さらにその直後7月のジョン・コルトレーン40歳の死という盟友3人の連続死が、既に肉体と精神を病みつつあったモンクに決定的な打撃を与える。同じ年に、モンクと共にあった伝説のジャズクラブ「ファイブ・スポット」もついに閉店し、モンクをはじめとするミュージシャンたちを苦しめた悪名高いキャバレーカードも廃止され、いわゆる「モダン・ジャズの時代」はここにある意味終焉を迎えた。そして、ベトナム戦争と公民権問題で揺れるアメリカを象徴するように、フリー・ジャズ、ジャズ・ロック、ファンク、エレクトリック、フュージョン等々、その後に続く混沌の70年代に入ってゆくのである。

2017/02/25

モンク考 (3) 人間モンクの魅力と才

本書を読んで知ったもう一つの事実は、天才音楽家モンクの創造人生を現実面で支えていたのはほとんど周囲の人々、中でも女性たちであったということだ。とは言っても芸術家によくある話とか、他のジャズ・ミュージシャンたちの伝記に描かれているような乱れた女性関係の話ではない。モンクの‟ピュア“さを裏付けるように、母親バーバラ、妻ネリー、真のパトロンだったニカ男爵夫人の3人をはじめ、親族である義理の姉や妹、姪たち、さらにモンクにストライド・ピアノの基本を教えたアルバータ・シモンズ、モンクの友人でありメンターのような存在だったメアリ・ルー・ウィリアムズという二人のピアニスト、さらにモンクの売り出しに奔走したブルーノートのロレイン・ライオンもそうだ。母親とネリー夫人は別格としても、他の女性たち全員が、天才だが普通に考えれば変人で、厄介な人物モンクとその音楽を愛し、彼を無償の愛で支えている‟女神”のようだ。モンクには男女を問わず誰もが魅了される何かが当然あったのだろうが、とりわけ女神(Muse)たちから全人的に愛された人物だったのだと思う。‟普通の“ ジャズに見られる激しいジャズ的エモーション、無頼感、モダンなクールさなどとは異なり、複雑でモダンなのに純粋、無垢、素朴、ユーモアが、温かさと美しさと常に同居しているモンクの音楽が放つ不思議な魅力は、おそらくこのことと大いに関係があるのだろう。

Thelonious Monk Quartet
with John Coltrane
at Carnegie Hall
1957 Blue Note
この本には多くのジャズ・ミュージシャンやサイドマンたち、プロデューサー、クラブオーナーたちとモンクとの逸話が登場するが、彼らがどうモンクと音楽的、人間的に関わり、どうモンクの音楽を理解、吸収したのか、あるいは逆に反発したのか、ということが史実として興味深く描かれている。私が感じた本書の魅力の一つは、ハービー・ニコルズ、エルモ・ホープ、アート・ブレイキー、ソニー・ロリンズなどの登場人物との関係に見られるように、これまではレコードだけを通じて、自分の中でいわば点としてバラバラに存在していた当時のジャズ・ミュージシャンたちが、20世紀半ばのニューヨークを舞台にしたモンクの物語の中で、一つのコミュニティとしてリアルに繋がってゆくことだった。そして、そこで描かれるモンクの人間味もまた魅力的である。

とりわけ、モンクのヒーローだったデューク・エリントン、恩人コールマン・ホーキンズ、愛弟子のバド・パウエルたちとの交流は感動的だ。1950年代後半のジョン・コルトレーンとの交流も描かれており、二人の当時の素晴らしい共演記録も一部残されているが、録音数が限られているのは実に残念なことだ。幸い2005年に奇跡的に発見されたカーネギーホールでの実況録音(1957年)が、当時の二人の最良の演奏を記録している。高次の音楽的交感という意味から言えば、おそらくロリンズと並んでコルトレーンこそがモンクにとって最高のパートナーだっただろう。そしてモンクの薫陶が、その後のコルトレーンに与えた音楽的影響の大きさもジャズ史では周知のことである。マイルス・デイヴィスが自叙伝でも述べているモンクとの歴史的(?)口論は何度か出てくる。人柄はまったく正反対だが(もちろんモンクは優しい人間だ)、結局二人ともお山の大将同士だったのだろう。それに、片や裕福に育ち、田舎から出て来て一旗上げようという野心を持ったマイルスと、貧乏だが基本的にはニューヨークという都会育ちのモンク、という二人の経歴の違いも少なからず影響しているだろう。モンクの方が9歳年長だったが、どちらも生まれついてのリーダー的性格で、人物、音楽上の能力から見ても両雄相並び立たずということである。しかし音楽的コンセプトは違っていたかも知れないが、二人は間違いなく互いに敬意も抱いていただろう。特に天才肌のモンクの音楽性と創造力にはマイルスはかなわないと思っていただろうし、モンクはマイルスの知性と構想力、統率力には一目置いていただろう。コルトレーンとの共演と並び、1954年のクリスマス・イブ、プレスティッジの2枚のLPに残された二人の巨人の伝説の共演記録は人類の宝である。

Miles Davis and
the Modern Jazz Giants
1954 Prestige 
スティーヴ・レイシーとのやり取りをはじめとして、教師、指導者としてのモンクの有名な発言(名言)のいくつかも本書に出てくる。いずれもサイドマンや第三者にモンク流の音楽思想を伝えるものだが、どれもジャズの真理を突いた含蓄に富む言葉ばかりである。だがその指導法は、同じ時代にジャズ演奏教育のための学校を初めて作り、体系的、組織的に教えようとした白人のレニー・トリスターノの近代的手法とは対極にある超個人的手法だ。しかも譜面を見せずに、聞かせる音だけで自作曲のメロディを覚えさせるという徒弟制度並みの方法である。この場合、モンクが「ほとんど喋らない」というのもポイントだろう。教わる側はそれで否が応でも集中せざるを得ないからだ。それによって頭で理解するのではなく、フィーリングで体得することができる(するしかない)。リハーサルなしで、出たとこ勝負の即興演奏ができたのもそうした訓練があればこそだ。だがそもそもは、やはりこれがジャズ伝承の原点なのだと思う。

モンクの天才の一つが作曲の才だが、本書を読んでいてあらためて感じたのは、モンク作品のタイトルの素晴らしさだ。月並みなティン・パン・アレーや、無味乾燥のビバップの曲名とは違い、「ラウンド・ミドナイト」や「ルビー・マイ・ディア」のような有名曲はもちろんのこと、「エピストロフィー」、「ウェル・ユー・ニードント」、「ミステリオーソ」、「ストレート・ノー・チェイサー」、「ブリリアント・コーナーズ」、「アグリー・ビューティ」等々、どの曲名もジャズ・センスに溢れ、背後に意味と情景が感じられ、しかもメロディが即座に浮かんで来るほど曲のイメージと一体化している。モンクは音感とともに、実はこうした言語能力にも並々ならぬものを持っていたがゆえに、あの短いけれど本質を言い表した数々の名言を残してきたのだろう。