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2019/03/15

ニカ男爵夫人を巡る4冊の本

The Baroness
Hannah Rothschild
2012
1955年、スタンホープ・ホテル自室でのチャーリー・パーカー変死事件の後、タブロイド紙やゴシップ記者に常に追い回されるようになったニカ夫人は、インタビューを含めて公の場から姿を隠すようになった。以降ニカ夫人への直接インタビューを公表した記録は、1960年の「エスクワイア」誌でナット・ヘントフが書いた記事 "The Jazz Baroness" だけで、それ以外で公に残されているのはモンクのドキュメンタリー映画『Straight, No Chaser』(1988年)の中で話す本人の姿と音声だけである。ロビン・ケリーの『Thelonious Monk』にも、ニカ夫人はあちこちに登場するが、この本はあくまでモンクの人生を中心に、アメリカ黒人史とジャズ史、ネリー夫人や親族、マネージャーなど、モンクを支えた周辺の人々を描いた物語なので、当然ながらパトロンとしてその一人だったニカ夫人の人物としての造形にそれほど記述を費やしているわけではない。一方、今回出版したイギリスのハナ・ロスチャイルドの『The Baroness; The search for Nica, the rebellious Rothschild』(2012年)は、原書タイトルからもわかるように、ニカ夫人の実家であるイギリス・ロスチャイルド家、彼女の出自、経歴などを初めて詳細に語った本で、前半部で主としてロスチャイルド家に関わる物語、後半部でニューヨーク移住後のジャズとモンクとの関係を描いている。著者がロスチャイルド家の一員であることから、厳格な秘密主義を貫く同家情報へのアクセス上の有利さを生かして、ケリーのモンク伝記にはあまり書かれていなかったニューヨーク移住に至るまでのニカ夫人の半生と、その背景がよくわかる構成と内容になっている。またロスチャイルド・アーカイブから引用した幼少期のニカ夫人や家族を撮影した多くの初出写真は非常に貴重だ(残念ながら、邦訳版にはすべてを収載できなかったが)。海外の読者の反応を見ると、やはり前半のロスチャイルド家に関する部分により興味を感じている様子がうかがえる。これは物語としての新鮮さと面白さもあるが、謎多き同家に対する西欧世界の関心の高さを示すものと言ってもいいのだろう。しかし一方で、後半のニューヨーク移住後のニカ夫人とジャズやモンクとの関わりについて言えば、情報の絶対量が少なく、ケリーのモンク伝記など既存文献と重複した部分や引用が多いことと、著者のジャズに関する知識に限界があるという背景もあって、コアなジャズファンの見方からすると、やや物足りなさを感じる可能性はあるだろう。合わせ鏡のように両書を読めば、モンクとニカ夫人の実像が更に見えて来ることに間違いはないが、実はアメリカでは、この2冊の他にもニカ夫人を取り上げた書籍がほぼ同時期に出版されている。

Nica's Dream
David Kastin
2011
その1冊は、デヴィッド・カスティン (David Kastin) が書いた『Nica’s Dream; The Life and Legend of the Jazz Baroness』(2011年) である。カスティンはニューヨークの名門スタイベサント高校(モンクが中退した学校)で、英語教師をしながらジャズやアメリカ音楽に関する記事を書いてきた人で、2006年に「Journal of Popular MusicSociety」誌にニカ夫人に関する記事(Nica's Story) を寄稿し、それが好評だったこともあって、その後もインタビューや調査を続けながら、5年後の2011年にこの本を出版している。この本は未邦訳だが、その一部が村上春樹の翻訳アンソロジー『セロニアス・モンクのいた風景』(2014年 新潮社) の中に収載されている。ニューヨーク在住の米国人音楽ライターであるカスティンの本は、イントロをパーカー変死事件で始め、ニューヨークのジャズシーンにおけるニカ夫人の存在に比重を置いており、ハナ・ロスチャイルドの本に比べると、当然ながらジャズ関連情報の量、洞察の質の両面で、よりジャズ寄りだが、一方でニューヨークに来る前のロスチャイルド家側を中心にした彼女の来歴情報は、同家の強固な秘密主義によって入手するのが難しかったと著者自身が語っている。カスティンのアプローチは、ジャズとニカ夫人の関係を、ケリーと同じくノンフィクション作品として正攻法で正確に描こうとしている。一方、ハナ・ロスチャイルドの本はカスティンの淡々とした筆致とは対照的でニカ夫人本人や彼女の兄姉をはじめ、ロスチャイルド家の親族たちと実際に面識があり、彼らに対する情愛と一族の異端児の物語としてのロマンを常に感じさせるが、ノンフィクション作品としては細部が多少甘い部分がある。残されている記録の大元は同じなので、両書で取り上げているエピソードに大きな違いはないが、事実関係についての細部の語り口が違う。ハナは次作では小説 (『The Improbability of Love』2015) を発表しているように、映像作家でもある彼女は、細かな事実を積み上げてゆくことよりも、むしろストーリー・テラーとしての資質が強い人なので、ハナの本は物語性が強く、ノンフィクションというよりも小説を読んでいるような気がしてくるのが特徴だ。したがって、このへんは読者側の好みもあるだろうと思う。あるいは、ロスチャイルド家を中心としたニカ夫人の前半生とその人物像はハナの本で、ジャズやモンクの音楽との関係を中心とした後半生はカスティンの本で、という読み方もできるだろう(掲載写真も前者は主としてロスチャイルド家関連、後者はニューヨーク時代が中心である)。私がハナの本を邦訳した理由は、やはりロスチャイルド家側を核にしたニカ夫人の人物と経歴描写の具体性と物語性が新鮮で、そこにより強い興味を抱いたからだ。

Three Wishes
Nadine de Koenigswarter
2006 (仏) / 2008 (米)
もう一冊『Three Wishes; An Intimate Look at Jazz Greats』(2008年) は、文章ではなく、写真と短いインタビュー回答文によるユニークな構成の作品で、ニューヨーク時代のニカ夫人とジャズ・ミュージシャンたちの交流が、いかに広範かつ親密で、想像以上にものすごいものだったかという事実を衝撃的に示す、いわばジャズ・ドキュメンタリー書籍だ。上記の本では想像するしかなかった彼らの実際の交流の模様と関係が、ニカ夫人自らがポラロイド・カメラで撮影した数多くのジャズ・ミュージシャンの写真の中にリアルに残されているからである。そして、"If you were given three wishes, to be instantly granted, what would they be?"  (今すぐかなえてもらえる3つの願い事があるとしたら、それは何かしら?) というニカ夫人の質問に対して、セロニアス・モンクに始まる約300人のジャズ・ミュージシャンの回答(1961年から66年)をニカ夫人が書き留め、それが上記写真群と併せて掲載されている。中にはバド・パウエルのパトロンだったフランシス・ポードラの写真や回答(フランス語風の英語発音をニカ夫人がそのまま綴っている)や、秋吉敏子の名前もある。超有名人から無名のミュージシャンまで、おふざけから真摯なものまで、バラエティに富むそれらの回答は実に示唆に富んでいて、当時のジャズが置かれた状況から、個々のミュージシャンの性格、人生観、理想、悩み、苦しみまでが短い答の中から見事に浮かび上がっている。モンクやコールマン・ホーキンズ、ソニー・ロリンズ、アート・ブレイキー、ソニー・クラーク、ホレス・シルヴァーといったニカ夫人と特に親しかったミュージシャンをはじめ、マイルス、コルトレーン、フィリー・ジョー、ミンガスなど、綺羅星のようなモダン・ジャズのレジェンドたちの言葉と、大部分がウィーホーケンのニカ邸(Cathouse あるいは Catville)で撮影された、素顔をさらけ出してリラックスしている多くのミュージシャンたちのスナップショットが渾然一体となって、この本自体がまさにモダン・ジャズの世界そのもののようだ。ジャズファンにとっては、今にもそこから音が聞こえてきそうな文字通り夢のような本である。生前出版しようとして果たせなかったニカ夫人の遺志を継いで、ナダイン・ド・コーニグズウォーター(英語読み)という、ハナ・ロスチャイルドと同じくニカ夫人を大叔母とする、フランスのコーニグズウォーター家(ニカ夫人の元夫側)のヴィジュアル・アーティストが、ニカ夫人の子供たちの協力を得て編纂し、2006年にフランスで出版して好評を博し、その後英語版としてゲイリー・ギディンズの序文を加えて2008年に米国で出版されている。私が読んだのはこの英語版だが、仏語版も含めて編集した邦訳版も出版されている(2009年、P-Vine Books)。ただミュージシャンたちの英語の回答はほとんどが短いもので、イメージを膨らませながら彼らの生の言葉を原文で味わうのも楽しいので、興味のある人はぜひ英語版を読まれてはどうかと思う。掲載されているカラーとモノクロ写真の多くは構図も質もプロの撮った写真とは違うし、保存状態も様々だが、何よりミュージシャンたちの飾り気のない姿がどれも生きいきとしていて美しく、彼らを見つめるニカ夫人の眼差しがどのようなものだったか、ということが実に鮮明に伝わってくる。ちなみに、この英語版の表紙に使われている写真は、セロニアス・モンクと、モンクを長年支えたテナー奏者チャーリー・ラウズである。

Thelonious Monk
Robin D.G. Kelley
2009
ハナ・ロスチャイルドが制作したドキュメンタリー映画『The Jazz Baroness』(2008年)も含めて、これらはいずれもニカ夫人の没後20年(2008年)という節目前後に発表されており、おそらく関係者の多くが既に物故したことなどもあって、ロスチャイルド家からの資料提供や使用許諾などが以前より得やすい段階に入り、公表できる環境が整ってきたことが背景にあるのだろう。デヴィッド・カスティンは、ロビン・ケリーとは執筆中から交流していて、互いに情報や意見をやり取りしていたという。またカスティンの本には、ハナ・ロスチャイルドとのインタビューから聞き取った事例も引用されているが、ハナの本でも同じ話が本人の語り口を通して書かれている。またハナ自身もロビン・ケリーにインタビューしている。今回私が邦訳したハナの本『The Baroness』は、長い取材期間を経て、ロビン・ケリーのモンク伝記の3年後、カスティンの本の1年後、2012年に出版されているので、この当時3人のライターが、それまで神話と伝説に包まれていたセロニアス・モンクとニカ夫人の真の姿を描き出そうと、それぞれの視点からほぼ同時期にチャレンジしていた様子が伝わってくる。二人が生きた20世紀半ばという時代、あまりに個性的な彼らの破天荒な生き方、そして両者にまつわる謎を、ジャズという音楽を介して掘り起こし、捉えなおす作業は、3人のライターにとってはさぞかし刺激的かつ魅力的なものだっただろうと想像する。3冊の本には当然ながら重複する部分も多いが、実際どの本もジャズファンなら楽しんで読める内容であり、ニカ夫人に対するそれぞれの著者の視点、力点も違う。たとえば、ケリーは「モンクとニカ」、カスティンは「ジャズとニカ」、ハナは「私とニカ」というそれぞれ固有の視点で描いており、ノンフィクション作品として対象としているニカ夫人との距離感が異なる。しかし事実に関する情報という点からは、相互に補完し合う関係にもなっているために、これら3冊の本によってニカ夫人の実像がより立体的に浮かび上がって来る。そして第三者の文章では決して描ききれない世界を、ニカ夫人自身が捉えたミュージシャンの肉声とヴィジュアル情報でストレートに伝えている『Three Wishes』は、3冊の本が描く物語を補完し、そこに一層のリアルさを付加している本だが、それと同時に単独書として、ジャズ書史上でも唯一無二とも言うべき圧倒的な存在感と魅力を放っている。

これら4冊の本が2008年以降5年ほどの期間に相次いで発表されたことによって、モンクとニカ夫人にまつわる神話や謎が完全に解明されたとまでは言えないまでも、二人の実像らしきものがようやく見えてきたことは確かだろう。しかし、ハナも自著で触れているように、公に報道されたものを除き、故人の生前記録はすべて抹消するというロスチャイルド家の家訓と、伝記を含めて彼女に関するいかなる企画にも協力しない、とニカ夫人の子孫たちが合意していることもあって(『Three Wishes』の写真とインタビューは唯一の例外である)、今後彼女に関する新たな情報が出て来るかどうかは疑問だ。モンクとニカ夫人と特に親しく、いちばん身近で二人を見ていた存命のジャズ・ミュージシャンは、おそらくウィーホーケンのニカ邸で一緒に暮らしていたバリー・ハリスと、二人といちばん親しかったソニー・ロリンズだと思われるが、調べた限りハリスがこれまで二人について詳しく語ったことはないようだ。ロリンズも知人について語ることを基本的に拒否してきた人物のようなので、この可能性も低いだろう。またニカ夫人が、モンクを中心に幾多のジャズレジェンドたちの演奏をジャズクラブ、コンサートホール、ホテル自室、ウィーホーケン自邸で収録していた数百時間に及ぶとされる未公開の私家録音テープも存在するが、それらも依然としてロスチャイルド家の管理下にあって、門外不出と言われている。仮にこれらの録音がいずれ陽の目を見ることになれば、まさにロスチャイルド家が間接的に支援したツタンカーメン王墓発見並みの、ジャズ史上最大の未発表音源発掘となることだろう。それと同時に、音によるドキュメンタリーとして、上記4冊の本の世界にさらなるリアリティと深みを付加することは間違いない。これは20世紀のジャズを愛するジャズファンに残された、最大にして最後の夢というべきものだろう。

1982年にモンクが亡くなった後、予想外の死亡原因となった1988年の心臓手術の前日に、ニカ夫人は病室のベッドで、その少し前に亡くなった姉のリバティとモンクの二人がすぐそこにいるような気がする、と子供たちに語ったという。またモンクを長年献身的に支えたテナー奏者で、ニカ夫人とも親しく交流してきたチャーリー・ラウズが、ニカ夫人と同年同日の11月30日に肺癌のためにシアトルで亡くなっている。同じ年1988年に制作されたモンクのドキュメンタリー映画『Straight, No Chaser』には、ニカ夫人、ラウズの二人も登場しており、「そろそろ、このへんで…」と、まるでモンクが二人一緒に迎えに来たかのようである。知れば知るほどニカ夫人にはまだまだ謎と伝説が多く、その人物と人生に興味は尽きない。

2019/01/20

訳書 『パノニカ ジャズ男爵夫人の謎を追う』 出版

表題邦訳書が、2月下旬に「月曜社」から出版されます。

本書は、イギリスの大富豪ロスチャイルド家の出身で、20世紀半ばのアメリカ・ジャズ界の伝説的パトロンとして、またセロニアス・モンクの個人的パトロンだったことでも知られる、“ニカ・ド・コーニグズウォーター男爵夫人”(Baroness Nica de Koenigswarter 1913-1988、以下ニカ夫人)の生涯と実像を描いたノンフィクション作品です。前訳書「リー・コニッツ」、「セロニアス・モンク」は、片や芸術哲学、片や米国史を専門とする英米の大学教授が、これまであまり語られてこなかったジャズ・ミュージシャンの人生と音楽思想を描いた多少アカデミックな内容のノンフィクション作品でしたが、本書は、ドキュメンタリー映像作家で、ニカ夫人の実家イギリス・ロスチャイルド家の一員でもある著者が、大叔母にあたるニカ夫人の数奇な生涯を、親族ならではの近接した視点で愛情を込めて描いた、驚きとロマンの物語と言えます。

原書『The Baroness; The search for Nica, the rebellious Rothschild』の著者ハナ・ロスチャイルド(Hannah Rothschild 1962-)は、ニカ夫人の実兄でイギリス第3代ロスチャイルド男爵ヴィクター・ロスチャイルド氏の孫、氏の長男で第4代現ロスチャイルド男爵ジェイコブ・ロスチャイルド氏の長女です。オックスフォード大学を卒業後BBCに勤務し、主にドキュメンタリー映画の制作を手がけ、その後ロスチャイルド家関係の仕事や慈善活動に従事し、2015年からはロンドン・ナショナル・ギャラリー(国立絵画館)初の女性理事長を務めています。ロスチャイルド家の一員ではあったものの、同家においては異端児とも言うべきこの大叔母の存在すら知らなかった著者が、20代の初めに知ったニカ夫人に強い興味を抱き、1984年にニューヨークまで出かけて初めて本人と会い、親族として交流を始めます。しかし、そのニカ夫人が1988年に74歳で急死してしまいます。その後、この大叔母の生涯と謎を追い続けようと決心した著者は、BBCに入社後、ついにニカ夫人を題材にしたラジオ番組とドキュメンタリー映画を制作します。両作品ともに『The Jazz Baroness (ジャズ男爵夫人)』(2008年)というタイトルで、後者はBBCHBO(米)両局で放映され、また世界各地の映画祭などでも上映されてきました。そして、その間に続けた通算20年以上にわたるニカ夫人に関する調査と探求の総決算として、2012年にノンフィクション書籍として本書をイギリスで発表したものです。

ニカ夫人(旧姓名:キャスリーン・アニー・パノニカ・ロスチャイルド Kathleen Annie Pannonica Rothschild)は、セロニアス・モンクが作曲した〈パノニカ〉を筆頭に、ジャズ・ミュージシャンたちから彼女に捧げられた数多くのジャズ曲タイトル中の "ニカ Nica" として、あるいはジャズ界の大パトロン "ニカ男爵夫人" として、ジャズ関係者やジャズファンならその名を知らぬ人はいないほどの伝説的人物です。しかし、ニカ夫人の話を元にして、クリント・イーストウッド監督が映画『バード』(1988年)でも描いた、スタンホープ・ホテル自室でのチャーリー・パーカー変死事件 (1955年) のスキャンダルに象徴されるように、20世紀半ばのアメリカ・ジャズ界に常に影のように登場する "謎のパトロン" というイメージが強く、また一族の秘密を厳守するというロスチャイルド家の家訓もあり、これまで日本はおろかアメリカでも、その人物像の詳細が語られたことはありませんでした。私も自分で翻訳したロビン・ケリーのモンク伝記を読むまで詳しいことはまったく知りませんでしたが、同書で触れている1954年のパリにおける、セロニアス・モンクとの運命的出会い以前のニカ夫人の経歴と、その後のジャズ界、特にモンク個人との深いつながりを知って、その謎めいた背景や人物像をもっと詳しく知りたいという強い興味が湧いて来ました。そこでロスチャイルド家出身とされていたニカ夫人と血縁関係にある著者が、ロビン・ケリーのモンク伝記の3年後に出版した原書を読んでみることにしました。それが本邦訳書出版のきっかけです。

The Jazz Baroness(ジャズ男爵夫人)』というラジオ番組や映画のタイトルから "Jazz" をはずして原書を『The Baroness』と名付けたように、本書では、ジャズ側からではなく、あくまでニカ夫人側の視点に立って、彼女の人生と人物像、そしてジャズとモンクとの関係を描こうとしています。ロスチャイルド家という、ドイツを祖とするユダヤ系イギリス人大富豪の令嬢として1913年に生まれ、3人の兄姉と共に大邸宅で育ち、イギリス上流階級の世界で生き、フランス人男爵と結婚してフランスの豪壮な城に住み、その後ナチスのホロコーストからかろうじて逃れ、第2次世界大戦中はド・ゴール将軍の自由フランス軍に自ら志願して夫と共にアフリカ、ヨーロッパ戦線で従軍し、叙勲され、戦後は外交官夫人として家族と共にノルウェーとメキシコに赴任する――という、文字通り世界を股にかけたコスモポリタンとして波乱の半生をニカ夫人は送っていました。しかし大戦中の1943年にニューヨークで聴いた、デューク・エリントン楽団のジャズ・シンフォニー『ブラック・ブラウン・アンド・ベージュ Black, Brown and Beige』の中に、ジャズの世界へ向かえという "神のお告げ" を聞き取ります。さらに外交官夫人としてメキシコに住んでいた戦後間もないあるとき、兄ヴィクターとも親しかったピアニスト、テディ・ウィルソンの勧めで聴いたセロニアス・モンクの演奏するSPレコード『ラウンド・ミッドナイト ‘Round Midnight』に深い感銘を受け、その後1951年に、それまでの生活すべてを投げ捨てて単身ニューヨークへと向かい、そのままそこで、ジャズという音楽、そしてセロニアス・モンクに残りの人生のすべてを捧げることになります。

名門一族の伝統と強い磁場から逃れ、自分なりの生き方を見つけたいと悩んでいた当時20代初めの著者には、大叔母ニカ夫人のこの型破りの人生が、一つの解答を与えてくれるように思えました。ロスチャイルド家という大富豪のイギリス分家の女性の一人だったニカ夫人が、なにゆえに自分の一族も、国も、ステータスも、結婚生活も、家庭も突然棄てて、モダン・ジャズ全盛時代のニューヨークに単身で渡り、ジャズに魂を奪われ、ジャズ・ミユージシャンたちを支援し、とりわけセロニアス・モンクにその後の人生の大半を捧げることになったのか――本書はその疑問と謎を、大叔母ニカ夫人と同じく、徹底した男系一族であるロスチャイルド家の女性という特異な立場にいる著者が、長い時間を費やして追った物語です。とりわけ、ヨーロッパの国家や君主を対象としたユダヤ人銀行家としてのロスチャイルド家の苦難の歴史、イギリス上流階級における一族の暮らし、内情や秘密、ニカ夫人の生い立ちと経歴などを描いた前半部分は、同家内部の人間にしか書けない、ある意味で非常に新鮮かつスリリングなノンフィクション読み物となっています。そして著者は、ニカ夫人がその世界を捨てて、ニューヨークとジャズに向かった手がかりをそこに見出そうとします。

本書はノンフィクション作品ではありますが、ロスチャイルド家を巡る歴史や逸話、ニカ夫人の驚きの経歴とジャズ、そしてモンクとの運命的な出会い、ニューヨークにおけるジャズ・ミュージシャンたちとの交流や暮らしぶり、最後の日々までモンクを支え続けた彼女の愛と献身......など、その信じ難い物語と途方もないスケールから、いわばジャズを巡る20世紀のファンタジーとして読むこともできます。著者も単なる風変わりな親族の伝記ではなく、そうした視点と深い思い入れを込めてこの本を書いています。究極のジャズ・ノンフィクションとも言えるロビン・ケリーのモンク伝記も「事実は小説より奇なり」を地で行く波乱の物語ですが、本書のニカ夫人の物語には、それを遥かに超えたスケールと破天荒さがあり、同時に、モンクがそうであったように、"自由" を求め続けた人間だけが放つ不思議なロマンが漂っています。

富豪一族や個人の大パトロンが芸術と芸術家を支援するというヨーロッパ古来の文化的伝統が、二十世紀半ばのアメリカにおけるジャズ界の背後にも存在したという事実、大富豪の末裔ニカ夫人のまさに破天荒で、常に自由を求める精神と博愛主義に満ちた波乱の生涯、そして天才セロニアス・モンクへ捧げた尽きることのない無償の愛――それらを描いた壮大なノンフィクションとして、本書はジャズファン以外の人が読んでも十分に楽しめる物語ではないかと思います。

     以下は、訳書 『パノニカ ー ジャズ男爵夫人の謎を追う』全24章のタイトルです。

もう一人の妹 蚤の女王 ハンガリーの薔薇 宝石の鳥籠 長く暗い牢獄 ロスチャイルド家の人々 蝶と憂鬱 社交界デビュー 最高司令官 フランスの女城主 / 嵐の時代 戦場の女 外交官の妻 神のお告げ ニューヨーク 孤独のモンク ネリーとニカ バードの死 パノニカ 奇妙な果実 差別と闘う 狂気の人 最後の日々 ラウンド・ミッドナイト