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2018/04/06

仏映画『危険な関係』4Kデジタル・リマスター版を見に行く

日本映画の新作『坂道のアポロン』に続き、恵比寿ガーデン・シネマで特別上映されている仏映画の旧作『危険な関係 (Les Liaisons Dangereuses 1960)』4Kデジタル・リマスター版を見に行った。この映画のサウンドトラックになっているジャズ演奏の謎と背景については、当ブログで何度か詳しく書いてきた。ただこれまでネットやテレビ画面でしか見ていなかったので、リマスターされたモノクロ大画面で、セロニアス・モンクやアート・ブレイキーの演奏を大音量で聞いてみたいと思っていたので出かけてみた。

18世紀の発禁官能小説を原作にしたロジェ・ヴァディムのこの映画は、その後何度もリメイクされるほど有名な作品だが、その理由は、単に色恋好きのフランス人得意の退廃映画という以上に、男女間の愛の不可思議さと謎を描いた哲学的なテーマが感じ取れるからだろう。もちろん出演するジェラール・フィリップ、ジャンヌ・モロー他の俳優陣が良いこともあるし、ジャズをサウンドトラックにしたモノクロ映像と音楽の斬新なコンビネーションの効果もある。映画の筋はわかっているので、今回は主にジャズがサウンドトラックとしてどう使われているのかということに注意しながら見ていた。この映画の音楽担当の中心だったモンクの<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>で始まるチェス盤面のタイトルバックは、再確認したが、アート・ブレイキーのグループ、デューク・ジョーダンたちの名前は出てくるが、画面にアップになってトランペットを演奏するシーンがあるケニー・ドーハムの名前だけ、やはりなぜか見当たらなかった。映画の画面に登場するジャズ・プレイヤーで目立つのは、ドーハムの他、当然ながら当時売り出し中の若いフランス人バルネ・ウィラン(ts)、パリに移住して当時は10年以上経っていたはずのケニー・クラーク(ds)に加え、デューク・ジョーダン(p)の後ろ姿などで、特にもはや地元民のケニー・クラークのドラムス演奏シーンがよく目立つように使われている。

サウンドトラックの楽曲としては、やはりアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズによる<危険な関係のブルース(No Problem)>が、派手な演奏ということもあって、冒頭から最後までいちばん目立った使い方をされていて、特にジャンヌ・モローの顔のアップが印象的なエンディングに強烈に使われているので、彼らのレコードが映画の公開後ヒットしたというのも頷ける。ただし以前書いたように、この曲はデューク・ジョーダン作曲であり、しかもブレイキー、リー・モーガン(tp)、ボビー・ティモンズ(p)、ジミー・メリット(ds)というメッセンジャーズ側は、バルネ・ウィランを除き映画には出ないで音だけで、代わってジョーダンを含む上記のメンバーが出演している(もちろんセリフはないが)という非常にややこしい関係になっている。モンクの演奏は、この映画のサウンドトラックに使われた1959年のバルネ・ウィランを入れたクインテット(チャーリー・ラウズ-ts、サム・ジョーンズ-b、アート・テイラー-ds)によるスタジオ録音テープが、音楽監督マルセル・ロマーノの死後2014年に55年ぶりに発見されて、昨年CDやアナログレコードでも発表されたので、映画中の演奏曲名もよくわかるようになった。しかしじっと見ていると、いかにもモンクの曲らしい<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>と<パノニカ>の独特のムードが、男女間の退廃的なテーマを扱ったこの典型的なフランス映画の内容にいちばんふさわしいことが改めてよくわかる。そしてモンクの他の楽曲もそうだが、当時はやった派手な映画のテーマ曲に比べて、モンクの音楽がどれもまったく古臭くなっていないところにも驚く。監督ロジェ・ヴァディムは、やはりジャズがよくわかっている人だったのだろう。

Les Liaisons Dangereuses 1960
(1959 Rec/2017
Sam Records/Saga Jazz)
『危険な関係』は1959年制作(公開は1960年)の映画だが、この時代1960年前後は、1940年代後半からのビバップ、クール、ハードバップ、モードというスタイルの変遷を経て、音楽としてのモダン・ジャズがまさに頂点を迎えていたときである。ブレイキー他によるハードバップの洗練と黒人色を強めたファンキーの流れに加え、マイルス・デイヴィスによるモードの金字塔『カインド・オブ・ブルー』の録音も1959年、飛翔直前のジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』も同じく1959年、我が道を行くモンクもCBSに移籍直前のもっとも充実していた時期、さらにギターではウェス・モンゴメリーが表舞台に登場し、ピアノではビル・エヴァンスの躍進もこの時代であり、音楽としてのパワーも、プレイヤーや演奏の多彩さも含めて、ジャズ史上のまさに絶頂期だった。ジャズはもはや大衆音楽ではなく、ハイアートとしても認知されるようになり、当時の思想を反映する音楽としてヨーロッパの知識人からの支持も得て、中でもヌーベルバーグのフランス映画と特に相性が良かったために、この『危険な関係』、マイルスの『死刑台のエレベーター』、MJQの『大運河』などを含めて多くの映画に使われた。実は私は『危険な関係』(日本公開は1962年)をリアルタイムで映画館で見ていないのだが、こうしてあらためて60年近く前の映画を見ても、映像と音楽のマッチングの良さは、なるほどと納得できるものだった。1960年代の日本では、のっぺりと明るいだけのアメリカ映画と違って、陰翳の濃いイタリア映画やフランス映画が今では考えられないほど人気があって、何度も映画館に通ったことも懐かしく思い出した。アメリカ生まれではあるが、アフリカやフランスの血も混じったいわばコスモポリタンの音楽であるジャズと、常に自由を掲げた開かれた国フランスの映画は実にしっくりと馴染むのだ。

しかしこの時代を境に、べトナム戦争や公民権運動など、60年代の政治の時代に入るとモダン・ジャズからはわかりやすいメロディ“が徐々に失われてゆき、ロックと融合してリズムを強調したり、ハーモニーの抽象化や構造の解体を指向するフリージャズ化へと向かうことになる。だから、いわゆる「古き良き」モダン・ジャズの時代はここでほぼ終わっているのである。スウィング時代の終焉を示唆する1945年終戦前後のビバップの勃興がジャズ史の最初の大転換とすれば、二度目の転換期となった1960年前後は、いわゆるモダン・ジャズの終焉を意味したとも言える。その後1960年代を通じて複雑化、多様化し、拡散してわかりにくくなったジャズの反動として、政治の時代が終わった1970年代に登場した明るくわかりやすいフュージョンが、メロディ回帰とも言える三度目の転換期だったとも言えるだろう。さらに、アメリカの景気が落ち込んだ1980年代の新伝承派と言われた古典回帰のジャズは、そのまた反動だ。1990年代になってIT革命でアメリカ経済が息を吹き返すと、またヒップホップを取り入れた明るく元気なものに変わる。こうしてジャズは、音楽としてわかりやすく安定したものになると、自らそれをぶち壊して、もっと差異化、複雑化することを指向し、それに疲れると、今度はまたわかりやすいものに回帰する、という自律的変化の歴史を繰り返してきた。別の言い方をすれば大衆化と芸術化の反復である。マクロで見れば、その背後に社会や政治状況の変化があることは言うまでもない。なぜなら、総体としての商業音楽ジャズは、時代とそこで生きる個人の音楽であり、その時代の空気を吸っている個々の人間が創り出すリアルタイムの音楽だからである。聴き手もまた同じだ。だから時代が変わればジャズもまた変化する。ジャズはそうした転換を迎えるたびに「死んだ」と言われてきたのだが、実はジャズは決して死なないゾンビのような音楽なのだ。逆にそういう見方をすると、セロニアス・モンクというジャズ音楽家が、いかに時代を超越した独創的な存在だったかということも、なぜ死ぬまで現世の利益と縁遠い人間だったかということもよくわかる。映画の画面から流れる<パノニカ>の、蝶が自由気ままにあてどなく飛んでいるようなメロディを聴いていると、その感をいっそう強くする。

ところでこの映画は、昨年7月に亡くなった名女優ジャンヌ・モローを追悼して新たにリマスターされたものらしく、公開は同館で324日から始まっていて、413日まで上映される予定とのことだ。しかし私が座ったのは真ん中あたりの席だったが、この映画館の構造上どうしても見上げる感じになるので首が疲れるし、下の字幕と大きな画面の上辺を目が行ったり来たりするので目も疲れる。年寄りは高くなった後方席で、画面を俯瞰するような位置で見るのが画も音もやはりいちばん楽しめると思った。この映画館の音量は、『坂道のアポロン』と『ラ・ラ・ランド』の中間くらいの大きさで、まあ私的には許容範囲だった。観客層の平均年齢は平日の昼間だったので、予想通りかなり高年齢のカップルが多かった。昼間働いている普通の人には申し訳ないようだが、まあ今はどこへ行っても平日の昼間はこんな感じである。また面白そうなジャズがらみの映画が上映されたら行ってみようと思う。

2017/10/06

モンクを聴く #2 : Piano Trio (1952 - 56)

モンクのピアノ・ソロは美しいが独白特有の緊張感が常に感じられ、ある種の厳しさがあるので(コロムビア盤は別だが)、しょっちゅう聞きたいとは思わない。一方コンボは音楽としては非常に面白いのだが、曲全体の複雑な構造とリズム、ホーンなどバンド編成と声部に気を取られて、モンクの音そのものがやや聞き取りにくい時がある。トリオはその中間で、何よりモンクのピアノの音が中心なのでよく聞こえるし、リズムセクションが入るので活気が出て、モンク独特のリズム、アクセントも、ドラムス相手に瞬時に反応するモンクの意図もよく聞こえて来る。編成がシンプルなので曲のメロディも骨格もよく見え、ひと言で言えば聞いていて分かりやすくて楽しい。絵画で言えば、ソロはデッサン、コンボは油絵、トリオは水彩画に例えられるだろうが、そこは何を描いてもモンクはモンクで、しかも抽象画だ。

Genius of Modern Music Vol.1
(1947 Blue Note)
第10章
しかし、モンクはライヴの場でもそうだが、ピアノ・トリオの録音数も思いのほか少なく、単独アルバムとしてはプレスティッジとリバーサイドに吹き込んだ3枚だけだ。当然ながら「作曲家」モンクとしては、シンプルなトリオよりも、やはり基本的にホーン・セクションを入れた重層的なサウンドで自分の音楽を表現したかったからだろう。録音としては194710月に、ブルーノートに吹き込んだアート・ブレイキー(ds)とジーン・ラメイ(b)とのトリオが最初で、そこでは<ルビー・マイディア>、<ウェル・ユー・ニードント>、<オフ・マイナー>、<イントロスペクション>の自作曲4曲に加え、<ナイス・ワーク・イフ・ユー・キャン・ゲット・イット>、<パリの4月>という計6曲を録音している。モンクはピアノ・トリオのドラマーとしてアート・ブレイキーを好んでいたが、これはやはり1940年代のバド・パウエルとのジャムセッション巡りの時代からの長い交流と師弟関係があって、気心が知れていたことと、ブレイキーのスウィンギングで力強いドラミングがモンクの好みだったからだろう。

Thelonious Monk Trio
(1952/54 Prestige)
第12章 p237
モンク初の単独のトリオ・アルバムは、プレスティッジと契約後の初録音となった1952年の『Thelonious Monk Trio』だ。現在のCDには全10曲が収録され、自作曲8曲、スタンダード2曲という構成で、52年10月録音の4曲にアート・ブレイキー(ds)とゲイリー・マップ(b)を使い、同年12月録音の4曲ではドラムスにマックス・ローチを起用した。本書に書かれているように、ブルーノートでは売れず、仕事のない長く苦しい時期を経て、ようやく新規レーベルと契約して心機一転したモンクの気迫が伝わって来るような、溌剌とした、明るく、力強い演奏が続く。スタジオのピアノの調律が狂っていようとお構いなしに、一緒に鼻歌を歌いながら楽しそうに弾くモンクの声もはっきりと聞こえて来る。トリオというシンプルな編成もあるのだろう、ブルーノート時代の、非ビバップというコンセプトにこだわって頭を使い過ぎたかのような、ある種芸術指向の強い複雑な音楽とは別のモンクの姿が見えて来る。現CD冒頭の<ブルー・モンク>は、2年後の19549月に別途ヴァン・ゲルダー・スタジオで初録音されたもので、アート・ブレイキー(ds)とパーシー・ヒース(b)がサポートしているが、このブルースはまさに 「モダン・ジャズのイメージ」 を代表する演奏だ。モンクも後年この<ブルー・モンク>が大好きな曲だと言っている。後にビッグバンドでも再演した息子に捧げた<リトル・ルーティ・トゥーティ>の活気とユーモア、デンジル・ベストとの共作<ベムシャ・スウィング>の躍動するリズム、ミディアム・スローのバラード<リフレクションズ>、ソロ演奏<ジャスト・ア・ジゴロ>(これも1954年の別録音)の美しさなど、その後のモンク・スタンダードとなる名曲と名演ぞろいだ。ピアノ・トリオというシンプルな編成と全曲3分以内という短さもあって、モンクの素顔を捉えたような飾り気のないストレートな解釈と弾むようなリズムで、RVGリマスター盤の録音も良く、どの曲を聞いても非常に気持ちが良い。シンプルに演奏してはいても、1952年から54年という時代を思えば、ここでのサウンドとメロディは斬新で、開放感に溢れ、モンクがいかに先進的な音楽家だったかがよくわかる。私がモンクを好きになったのもこのアルバムを聞いてからだ。モンクを初めて聴きたいという人がいるなら、ソロやコンボではなく、ピアノ・トリオを、中でもまずこのアルバムを勧めたい。これを聴いて文句があるようなら、縁がなかったと思ってモンクは諦めた方が良い。

Thelonious Monk
Plays Duke Ellington
(1955 Riverside-stereo)
第15章 p282-
モンクの次のトリオ・アルバムは、リバーサイドに移籍後の初録音、19557月の『プレイズ・デューク・エリントン Plays Duke Ellington』である。プレスティッジ盤は2曲を除き、すべてモンクの自作曲だったが、当時モンクのオリジナル曲はまだ大衆向けとは言えないと考えていたプロデューサーのオリン・キープニューズは、もっとわかりやすい曲を演奏したトリオ・アルバムを作って、まずモンクを売り出そうとした。そこで最初に選んだのがデューク・エリントンの作品だった。長い付き合いのオスカー・ペティフォード(b)とケニー・クラーク(ds)というリズムセクションをモンクは選んだ。本書に書かれているように、このアルバムには「リバーサイドに言われたモンクが渋々作った」とかいう見方を含めて様々な評価があったが、大筋としては「控えめな印象」という表現が一番多かったようだ。しかし著者がネリー夫人や息子トゥートの発言として書いているように、尊敬するデューク・エリントンの作品を取り上げたこのレコードの録音に、実際モンクは並々ならぬ意義を感じていたという。ブラシ・ワーク中心のケニー・クラークのドラミングも含めて、プレスティッジ盤に比べて全体的に「モンクらしさ」が控えめで、ある種大人しく、上品な作品であることは間違いない。やはりエリントンという大先達の作品だけを取り上げるという挑戦は、モンクと言えどもかなり緊張して臨んだことは間違いないだろうし、普通のスタンダード曲に比べてエリントンの曲の完成度が高くて、モンク流の解釈と再構成も慎重にならざるを得なかったのかもしれない。本書に書かれた録音時のモンクのエピソード(譜読みにたっぷり時間をかけた)からも、そうした心理があった可能性がある。選曲はエリントンの有名なナンバーのみで、<スウィングしなけりゃ意味ないね>、<ソフィスティケイティッド・レディ>、<キャラバン>など全9曲で、<ソリチュード>のみがソロ演奏である。

The Unique
Thelonious Monk
(1956 Riverside-stereo)
第16章 p304
リバーサイドの次のトリオ・アルバムは、翌19563月、4月に録音した『ザ・ユニーク・セロニアス・モンク The Unique Thelonious Monk』である。オスカー・ペティフォードのベースは変わらず、既にヨーローッパに移住していたケニー・クラークに代わってアート・ブレキーをドラムスに起用している。エリントンに続き、今度は、全曲スタンダードのモンク流解釈をトリオで聞かせようというリバーサイドの戦略だ。<ティー・フォー・ツー>、<ハニー・サックル・ローズ>など、よく知られたスタンダード曲のみ7曲を演奏している。ビリー・ホリデイの愛唱歌だった<ダーン・ザット・ドリーム>は、モンクが最も好んだバラード曲の一つだ。同じくバラードの<メモリーズ・オブ・ユー>のみソロ演奏だが、本書でも書かれているように、この曲を愛奏していたモンクのストライド・ピアノの先生だったアルバータ・シモンズをおそらく偲んだもので、その後モンク愛奏曲の一つともなった。何より曲のメロディ、とりわけ古い歌曲を愛したモンクが両バラードともに慈しむかのように繊細にメロディを弾いている様子が聞こえて来る。このレコードでは、エリントン盤とは異なり、モンク流の曲の解釈と再構成をかなり取り入れており、またアート・ブレイキーの参加がモンクを煽っていたことは間違いないだろう。結果としてこのアルバムは、プレスティッジの自作曲中心のアルバムと対を成す、ピアノ・トリオにおけるモンク流スタンダード解釈のショーケースとなっている。

Thelonious Monk
Plays Duke Ellington
(1955 Riverside-mono)
エリントン盤をはさんで、これら50年代のピアノ・トリオ3作における自作曲とスタンダードのモンク流解釈と演奏を聴き比べてみると非常に面白い。なお、リバーサイドの上記2作品アルバム・ジャケットは、モノラルとステレオ・バージョンの2種類がある。本書に書かれているように、現在CDに主として使われている上記ジャケット写真は、いずれも売り上げ増を狙ったリバーサイドがステレオ・バージョン用に作ったものだ。ちなみに左のジャケットはモノラル盤の『Plays Duke Ellington』オリジナル・ジャケットである。まだ30歳代半ばのスリムなモンクが写っている。

モンクはこの15年後、1971年のアート・ブレイキー(ds)とアル・マッキボン(b)を起用した最後のスタジオ録音『ロンドン・コレクション London Collection Vol.2』(Black Lion)まで、トリオだけのアルバムは録音していない。

2017/06/06

リー・コニッツを聴く #3:Atlantic

1950年代半ば以降の約10年間というのは文字通りモダン・ジャズ黄金期であり、特にその頂点と言えるのは50年代後期で、ハードバップ、ファンキー、モードなど、それぞれのスタイルや演奏コンセプトを持ったミュージシャンたちでまさに百花繚乱の時代だった。その間マイルス・デイヴィスはハードバップからモードへと舵を切り、セロニアス・モンクはようやく独自の音楽の認証を得て脚光を浴び始め、ジョン・コルトレーンはシーツ・オブ・サウンドの開発を始め、オーネット・コールマンは新たなフリー・ジャズを提案し、アート・ブレイキーはジャズ・メッセンジャーズでさらに大衆にアピールし…という具合に、誰もが新たなジャズの創造と、果実を手に入れることを目指して活発に活動していた時代だった。またモンクを除けば、当時のリーダーたちはみな30歳前後で、創造力も活力も溢れていた。そのジャズ全盛期にリー・コニッツはどうしていたのだろうか?

Lee Konitz with Warne Marsh
1955 Atlantic
自身の哲学に忠実で常にブレないコニッツは、その間も独自の道をひたすら歩んでいた。短かったStoryville時代を経て、コニッツはついにメジャー・レーベルであるAtlanticと契約する。その最初のアルバムが「リー・コニッツ・ウィズ・ウォーン・マーシュ Lee Konitz with Warne Marsh」(1955)だ。このアルバムは、コニッツにとって最も有名な録音の1枚だが、メンバーがウォーン・マーシュ(ts)、サル・モスカ(p)、ロニー・ボール(p)、ビリー・バウアー(g)、というトリスターノ派に加え、オスカー・ペティフォード(b)、ケニー・クラーク(ds) というバップ系の黒人リズム・セクションが参加したセクステットであるところが、それまでのコニッツのリーダー・アルバムとは異なる。コニッツのアルト、マーシュのテナーによる対位法を基調とした高度なユニゾンは、トリスターノのグループ発足後約7年を経ており、テナーの高域を多用するマーシュと、アルトをテナーのように吹くコニッツとの双子のような音楽的コンビネーションは既に完成の域に達していたはずで、ここでも全体に破綻のない見事な演奏を聴くことができる。しかしペティフォード、クラークという強力なリズム・セクションの参加が、トリスターノ派とは異なる肌合いを与えているせいなのか、当時の他のコニッツのワン・ホーン・アルバムに比べると、バランスはいいのだがどこか独特のシャープネスや閃きのようなものが欠けていて「重い」、という印象を以前から個人的に抱いていた。アンディ・ハミルトンの「Lee Konitz」を読むと、当時常用していたマリファナの影響で、リーダー録音であったにもかかわらず、実は録音当日の体調が思わしくなく、本人もこの録音における自分の演奏には満足しておらず、特にマーシュとの一体感に問題があったとコメントしている。自己評価が非常に厳しい人なので割り引いて考える必要もあるが、確かに名盤だが、何となく50年代の他のアルバムと違う印象を持った理由がわかった気がした。とは言え、飛翔しつつあったコニッツ、マーシュという、この時代のトリスターノ派の最盛期の共演を代表するアルバムであることは確かだ。

Lee Konitz Inside Hi-Fi
1956 Atlantic
その後コニッツは1956年に「Lee Konitz Inside Hi-Fi」、「Worthwhile Konitz」、さらに「Real Lee Konitz」という3枚のLPAtlanticに吹き込む。(正確に言えば、「Worhwhile Konitz」はAtlantic本社に残された未発表音源を日本のワーナー・パイオニアが1972年に編集したLPが原盤である。)「Inside Hi-Fi」はサル・モスカ(p)、ビリー・バウアー(g)、ピーター・インド/アーノルド・フィシュキン(b)、ディック・スコット(ds)とのカルテットによる1956年の別々のセッションを収めたもので、コニッツはそこでテナーも吹いている。その時サル・モスカが参加した録音の残りのセッションと、同年のジミー・ロウルズ(p)、リロイ・ヴィネガー(b)、シェリー・マン(ds)という、珍しい西海岸のプレイヤーと有名曲を演奏したLA録音を組み合わせたのが日本編集の「Worthwhile」である。

Real Lee Konitz
1957 Atlantic
Real Lee Konitz」は1957年2月のピッツバーグでのクラブ・ライヴを、ベース奏者で録音技師でもあったピーター・インドが録音し、それをコニッツが後でテープ編集して仕上げたといういわくつきのレコードだが、完成した演奏は素晴らしい(ビリー・バウアー-g、ディック・スコット-ds、一部ドン・フェラーラ-tp)。テープ編集は今どきは当たり前に行なわれている録音方法だが、当時なぜコニッツがこの手法を取り入れたのかは調べたが不明だ。それ以前からテープ編集が得意だった師匠レニー・トリスターノの影響だったのかもしれない。”Real" の意味を考えたくなるが、これがAtlantic 最後の作品となった。


Worthwhile Konitz
1956 Warner Pioneer(LP)
他の2枚のLPは今でもCDで入手可能だが、日本編集盤のLP「Worthwhile Konitz」は単体ではCDリリースされておらず、唯一これら3枚のAtlanticLP音源をまとめた2枚組コンピレーションCDで、私が保有しているThe Complete 1956 Quartets」(American Jazz Classics)でのみ聴けるが、このCDは今は入手困難のようだ(ただしMozaicのコンプリート版には収録されているだろう)。Atlantic時代は、言うまでもなくStoryvilleに続くコニッツの絶頂期であり、これらのアルバムにおける演奏はどれも高い水準を保ち、当時のコニッツの音世界が楽しめる。選曲もポピュラー曲が増え、アブストラクトさもさらに薄まり、一言で言えば聴きやすくわかりやすい演奏に変貌していることが明らかだ。

2017/05/27

レニー・トリスターノの世界 #1

「ジャズにも色々あるのだ」ということを初めて知ったのが、1970年代に盲目のピアニスト、レニー・トリスターノ  (1919-1978) の「 Lennie Tristano(邦題:鬼才トリスターノ) (1955 Atlantic) というレコードを聴いたときだった。それまで聴いていた "普通の" ジャズ・レコードとはまったく肌合いの違う音楽で、クールで、無機的で、構築的な美しさがあり、ある種クラシックの現代音楽のような雰囲気があったからで、ジャズ初心者には衝撃的なものだった。しかし、それ以来この独特の世界を持ったアルバムは私の愛聴盤となった。

Tristano
1955 Atlantic
1954/55年に録音されたLP時代のA面4曲の内の2曲<Line Up>と<East 32nd Street>は、ピーター・インド(b)、ジェフ・モートン(ds)というトリスターノ派リズム・セクションの録音テープを半分の速度にして再生しながら、その上にトリスターノがピアノのラインをかぶせて録音し、最後にそれを倍速にして仕上げたものだとされている(ただし諸説ある)。<Line Up>は、<All of Me>のコード進行を元にして、4/4と7/4という2つの拍子を用いたインプロヴィゼーションで、初めて聴いたときには思わずのけぞりそうになったほどだが、この緊張感に満ちた演奏は今聴いても実に刺激的だ。他のA面2曲<Turkish Mambo>とRequiem>は、トリスターノのピアノ・ソロによる多重録音である。<Turkish Mambo>4/45/812/87/8という4層の拍子が同時進行する複雑なポリリズム構造を持つ演奏だという(音楽学者Yunmi Shimによる分析)。もう1曲の<Requiem>は、音楽家として互いに深く尊敬し合っていたチャーリー・パーカー(1955年没)を追悼した自作ブルースで、トリスターノのブルース演奏は極めて珍しいものだが、これも素晴らしい1曲だ。武満徹の「弦楽のためのレクィエム」は、トリスターノのこの曲に触発されたものだと言われている。また後年トリスターノの弟子となる女性ピアニスト、コニー・クローザーズもこの曲を聴いてクラシックからジャズに転向したという。2人ともトリスターノの音楽の中に、ジャズとクラシック現代音楽を繋ぐ何かを見出したということだろう。このA面で聴ける構造美とテンション、深い陰翳に満ちた演奏は、トリスターノの天才を示す最高度の質と斬新さを持つ、ジャンルを超えた素晴らしい「音楽」だと思う。

LP時代のB5曲はうって変わって、リー・コニッツ(as)が加わったカルテットが、スタンダード曲をごく普通のミディアム・テンポで演奏しており、1955年6月にニューヨークの中華レストラン内の一室でライヴ録音されたものだ。(コニッツはこの数日後に、「Lee Konitz with Warne Marsh」をAtlanticに吹き込んでいる。)スタン・ケントン楽団を離れたコニッツが自己のカルテットを率いていた絶頂期だったが、ここではリズム・セクションにアート・テイラー(ds)、ジーン・ラメイ(b)というトリスターノ派ではないバップ奏者を起用していることからも、A面のトリスターノの「本音」とも言える音楽世界との差が歴然としている。しかし、この最高にリラックスした演奏もまた、ピアニストとしてのトリスターノの一面である。実は本来は、このカルテットのライヴ演奏のみでアルバムを制作する予定だったが、満足できない演奏があったコニッツの意見で、5曲だけが選ばれ、代わってトリスターノのスタジオ内に眠っていた上記4曲を「発見」したAtlanticが、それらをA面として収録してリリースした、ということだ(その後このライヴ演奏のみを全曲収録したCDも発表された)。アルバムの最終コンセプトはたぶんトリスターノが考えたのだろうが、A面はトリスターノの「本音」、B面は「こわもて」だけじゃないんですよ、という自身のコインの両面を伝えたかった彼のメッセージのようにも聞こえる(勝手な想像です)。ただしそれはあくまでLPアルバム時代の話であり、CDやバラ聴きネット音源ではこうした作品意図や意味はもはや存在しない。残念なことである。

Crosscurrent
1949 Capital
トリスターノは、チャーリー・パーカーと同年1919年にシカゴで生まれた。9歳の時には全盲となり、シカゴのアメリカ音楽院入学後はジャズだけでなくクラシック音楽の基礎も身に付け、20代初めから既に教師として教えるようになっていた。1946年にビバップが盛況となっていたニューヨークに進出し、シカゴ時代からの弟子だったリー・コニッツも間もなく師の後を追った。リー・コニッツ(as)、ウォーン・マーシュ(ts)、ビリー・バウアー(g)、ピーター・インド(b)、アル・レヴィット(ds)というトリスターノのグループは、既に1948年頃からフリー・ジャズの実験を初めており、1949年のアルバム「Crosscurrents」(Capitol)で、<Intuition>、<Digression>というジャズ史上初の集団即興による2曲のフリー・ジャズ曲を録音している。当時彼らはクラブ・ギグやコンサートでも実際に演奏している。ただしそれらは対位法を意識していたために、曲想としてはクラシック音楽に近いものだった。当然ながらクラブなどでは受けないので、その後グループとしてのフリー演奏は止めたが、1951年にマンハッタンに開設した自身のスタジオで、トリスターノはフリー・ジャズ、多重録音の実験を続けていたのだ。(多重録音は今では普通に行なわれているが、70年近く前にこんな演奏を自分で録音して、テープ編集していた人間がいたとは信じられない。テオ・マセロがマイルスの録音編集作業をする15年以上も前である。)

メエルストルムの渦
1975 East Wind
亡くなる2年前、1976年に日本のEast WindからLPでリリースされたレニー・トリスターノ最後のアルバムが「メエルストルムの渦 Descent into the Maelstrom」だ1975年に、当時スイング・ジャーナル誌編集長だった児山紀芳氏とEast Windが、隠遁生活に入っていたトリスターノと直接交渉して、過去の録音記録からトリスターノ自身が選んだ音源をまとめたものだそうだ。ただし音源は1952年から1966年にかけての5つのセッションを取り上げていて、中に1950年代前半(上記「鬼才トリスターノ」音源より前である)に録音したこうした多重録音の演奏が3曲収録されている。アルバム・タイトル曲<メエルストルムの渦>はエドガ・アラン・ポーの同名小説から取ったもので、録音されたのは1953年であり、当時としては驚異的なトリスターノのフリー演奏が聞ける。一人多重録音による無調のフリー・ジャズ・ピアノで、重層化したリズムとメロディがうねるように進行してゆく、まさにタイトル通りの謎と驚きに満ちた演奏だ。セシル・テイラー、ボラー・バーグマンなどのアヴァンギャルド・ジャズ・ピアニスト登場の何年も前に、トリスターノは既にこうした演奏に挑戦していたのである。1952年(195110月という記録もある)のピーター・インド(b)、ロイ・ヘインズ(ds)との2曲のトリオ演奏(Pastime、Ju-Ju)もピアノ部分が多重録音である。他の演奏は “普通の” トリスターノ・ジャズであり、1965年のパリでの録音を含めてピアノソロが5曲、1966年当時のレギュラー・メンバーだったソニー・ダラス(b)、ニック・スタビュラス(ds)とのトリオが同じく2曲収録されている。本人がセレクトした音源だけで構成されていることもあり、Atlantic2作品と共に、このアルバムはトリスターノの音楽的メッセージが最も強く込められた作品と言えるだろう。

The New Tristano
1962 Atlantic
1950年前後、トリスターノはインプロヴィゼーション追求の過程で、微妙に変化する複雑な「リズム」と、ホリゾンタルな長く強靭な「ライン」を組み合わせることによって、ビバップの延長線上に新しいジャズを創造しようとしていた。特に強い関心を持っていたのはポリリズムを用いた重層的なリズム構造だ。そのためリズム・セクションに対する要求水準は非常に高く、当時彼の要求に応えられるドラマーやベーシストはほとんどおらず、ケニー・クラークなどわずかなミュージシャンだけだったと言われている。よく指摘されるメトロノームのように変化のないリズムセクションも、その帰結だったという説もある。要するに、上記多重録音のレコードは、「それなら自分一人で作ってしまおう」と考えたのではなかったかと想像する。だからある意味で、これらの多重録音による演奏はトリスターノの理想のジャズを具体化したものだったとも言える。だが多重録音と速度調整という「操作」をしたことで、ジャズ即興演奏の即時性に反するという理由だと思うが、当時彼のAtlantic盤は批評家などから酷評された。その後しばらく経った1962年に、これらの演奏の延長線として、録音操作無しの完全ソロ・ピアノによるアルバム「ザ・ニュー・トリスターノThe New Tristano」(Atlantic)を発表して、自らの芸術的理想をついに実現したのである。

前作の演奏加工への批判に対する挑戦もあり、1曲を除き、完全なソロ・ピアノである。疾走する左手のベースラインと右手の分厚いブロック・コードを駆使して、複雑なリズム、メロディ、ハーモニーを一体化させてスウィングすべく、一人ピアノに向かって「自ら信じるジャズ」を演奏する姿には鬼気迫るものがあっただろうと想像する。盲目だったが彼の上半身は強靭で(ゴリラのようだったと言われている)、その強力なタッチと高速で左右両手を縦横に使う奏法を可能にしていた。収録された7曲のうち<You Don’t Know What Love Is>以外は「自作曲」だが、このアルバムに限らずトリスターノは、既成曲のコード進行に乗せてインプロヴァイズした別のLine(メロディ)に別タイトルをつけるので、原曲はほとんどスタンダード曲である。この姿勢が彼のジャズに対する思想(「即興」こそがジャズ)を表している。たとえば <Becoming>は<What Is This Thing Called Love>,<Love Lines>は<Foolin’ Myself>,<G Minor Complex>は<You’d Be So Nice To Come Home To> などだ。原曲がわかりやすいものもあれば、最初からインプロヴァイズしていて曲名を知らなければわからないものもある。同じく<Scene And Variations>の原曲は <My Melancholy Baby> で、<Carol>、<Tania>、<Bud>という3つのサブタイトルは彼の3人の子供の名前だ。Budは当然ながら、崇拝していたバド・パウエルにちなんで名づけたものだ。クールでこわもて風トリスターノの人間味を感じる部分である。

不特定の客が集まる酒を扱うクラブでの演奏を嫌がり、売上至上主義の商売に批判的で、その手助けをしたくない、というトリスターノの姿勢は若い頃シカゴ時代から基本的に変わらなかった。未開の領域で、自身の信じるビバップの次なるジャズを創造するという姿勢がより強固になっていった40年代後半以降、この傾向はさらに強まる。ジャズという音楽、アメリカという国の成り立ちを考えると、これが如何に当時の音楽ビジネスの常識からかけ離れていたかは明らかだろう。ニューポート・ジャズ祭への出演要請も事前の手続き上のトラブルから断ったりしているが、60年代のヨーロッパでのライヴなど、コンサート形式ならたとえpayが低くても基本的に参加する意志はあったようだ。しかし、クラブでも、コンサート・ホールでもその数少ないライヴ演奏記録は常に新鮮でスリリングな最高のジャズである。ただし、その音楽が本質的に内包する高い緊張感と非エモーショナルな性格から、ジャズにリラクゼーションを求める層に受けないのは昔も今も同じだろう

2017/04/14

仏映画「危険な関係」サウンドトラックの謎

ルイ・マル監督の「死刑台のエレベーター」(1957)にはマイルス・デイヴィス、ロジェ・ヴァディム監督の「大運河」(1957)にはMJQ、エドゥアール・モリナロ監督の「殺られる」(1959)にはアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズというように、当時ヌーベルバーグと呼ばれた新潮流の象徴だったフランス映画には盛んにジャズが使われていた。映画「危険な関係」は、ロジェ・ヴァディム監督による1959年制作の作品である。フランスの貴族を描いた18世紀の官能小説が原作で、舞台を20世紀のパリに置き換え、退廃的な上流階級の恋愛模様をジェラール・フィリップとジャンヌ・モローが演じている映画だ(後年何度かリメイク映画化されている)。小説と同じく映画も反社会的だと物議をかもし、フランスやイギリスでは当初上映禁止になったらしい。ロビン・ケリーの「Thelonious Monk」に、この「危険な関係」のサウンドトラックとモンクにまつわる面白い裏話が出て来る。私は映画そのものを見ておらず、映画にモンクが関係していることも知らず、この映画に関係する所有ジャズ・レコードは、デューク・ジョーダン(p)がリーダーの「危険な関係のブルース」(1962) だけだったこともあり、この話は意外だった。そこで、この映画と音楽の背景について調べたのだが、映画、音楽ともにネット上でも様々な説明があって、どこにもはっきりしたことが書いていないので、自分でさらに詳細な情報に当たり整理してみた。すると驚くような事実(おそらくだが)が浮かび上がったのである。

「死刑台のエレベーター」にマイルス・デイヴィスを起用した音楽監督、マルセル・ロマーノからモンクに打診があったのは1958年である。モンクは不評だったヨーロッパ・デビュー(1954年のパリ・ジャズ祭に出演した)後はヨーロッパを訪問していなかったが、1957年夏に「ファイブ・スポット」にジョン・コルトレーンと共に登場し、ようやく注目を浴び始めていた当時のモンクをニューヨークで直接見たロマーノが、モンクの音楽をサウンドトラックとして使いたいと申し入れてきたのだ。しかし当時ボストンのクラブ「ストーリーヴィル」出演時に奇妙な行動をし、その後一時行方不明になったりしていたモンクは情緒不安定な状態にあり、なかなかその申し入れを受諾しなかった。ロジェ・ヴァディムもニューヨークまでやって来て、何とかモンクの了承を取り付けようとしたが、モンクはなお首を縦に振らなかった。1959年の夏、映画が完成した後にモンクはやっと承諾したものの、映画のサウンドトラックための新曲は結局書けず、その代わりに当時アメリカ・デビューをしたばかりのフランス人テナー奏者バルネ・ウィランを自分のカルテットに加えて、〈オフ・マイナー〉、〈クレパスキュール・ウィズ・ネリー〉、〈パノニカ〉など、当時リバーサイドに吹き込んでいた既存曲をあらためて映画用に録音した。ところがロマーノは、万が一モンクがダメだった場合に備えて、デューク・ジョーダン(p)にも作曲を依頼しておいたのである。そこでモンクのグループ(チャーリー・ラウズ-ts、サム・ジョーンズ-b、アート・テイラー-ds)と同じ時に同じスタジオで、バルネ・ウィランを加えたアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズによるジョーダン作の曲も録音したのだ。

この映画の音楽担当は確かにセロニアス・モンクとクレジットされているのだが、上映後大ヒットしたのは、当時人気絶頂だったアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのサウンドトラック・レコード「危険な関係」(1960 Fontana)であり、しかも作曲者名としてクレジットされているのは、デューク・ジョーダンではなく全曲ジャック・マーレイ(Jaques Marray)という人物だった。一説によれば、映画中に出て来るナイトクラブでの演奏シーンには、デューク・ジョーダン(p)、ケニー・ドーハム(tp)、バルネ・ウィラン(ts)、ポール・ロベール(b)、ケニー・クラーク(ds)が登場するが、実はそのシーンの音楽は、アート・ブレイキー(ds)、リー・モーガン(tp)、ボビー・ティモンズ(p)、ジミー・メリット(b)にバルネ・ウィラン(ts)が加わった演奏で置き換えられているというのだ。それはニューヨークで、モンクのカルテットと同じ時に録音された演奏ということである。つまりドーハム、ジョーダンやクラークは映画に顔だけは出したが彼らの演奏は使われず、一方ブレイキーのグループは映画には登場しなかったが演奏は使われ、かつそのサウンドトラック・レコードは大ヒットしたというわけである。そしてフランスの当時の新人スタープレイヤー、バルネ・ウィランは3つのセッションいずれにも参加しているのである。

ジャック・マーレイという人物はデューク・ジョーダンの仮名だという説もあるが、ジョーダンは1962年になって「危険な関係のブルース」という映画で使用された曲 ("No Problem")を演奏したレコードを出している(私が持っているもの)。そしてそれはチャーリー・パーカー夫人だったドリス・パーカー所有のパーカー・レコードがリリースしたもので、夫人自身が書いたそのライナー・ノーツには、ブレイキーのオリジナル・サウンドトラックにはジョーダンの作曲にもかかわらず別人の名前が誤って使われており、このレコードこそ本当の作曲者による演奏だとはっきり書いてある。このレコードのメンバーは、ソニー・コーン(tp)、チャーリー・ラウズ(ts)、エディ・カーン(b)、アート・テイラー(ds)である。ジャック・マーレイは確かに実在の作曲家らしく、この映画の音楽も一部担当していたようだが、なぜジョーダンではなく彼の曲としてクレジットされていたのかは調べたがわからなかった。パーカーが可愛がっていたジョーダンを、夫人が当時の経済的苦境から救うためにリリースしたものだと言われているので、この話が真実だった可能性は高い。

ところでモンクの音楽は実際にどう使われたのだろうか? オリジナル映画を確認したところ、映画冒頭のチェスの盤面を使ったタイトルバックの音楽はモンクの〈クレパスキュール・ウィズ・ネリー〉である。音楽担当としてのモンク、ジャック・マーレイ、バルネ・ウィラン、モンクのグループ、ブレイキーのグループ、デューク・ジョーダン、ケニー・クラークの名前は全員が出て来る。だがケニー・ドーハム他の名前はない。バルネ・ウィランを加えたモンク・グループの演奏が〈パノニカ〉他計7曲と、モンクによるゴスペル聖歌のピアノ・ソロ1曲で、これらが映画のほぼ全編に使われている。特に〈クレパスキュール…〉と〈パノニカ〉がメインテーマ曲で、この2曲は何度も聞こえてくる。ブレイキーのグループの演奏が主としてパーティやクラブなど華やかな場面で使用されているのに対して、モンクの音楽は大部分が男女間の微妙な情景の背景音楽として挿入されている。アブストラクトでどことなく不安なムードを醸し出すモンクのサウンドが、このフランス映画のアンニュイで危なげなムードにぴたりとはまって、ロジェ・ヴァディムがなぜモンクの音楽を使いたかったのかがよくわかる。一方ケニー・ドーハム、バルネ・ウィラン、ケニー・クラーク、デューク・ジョーダン(背中だけ?)は確かに画面に登場している。その演奏は明らかにボビー・ティモンズのピアノやリー・モーガンのトランペットなどメッセンジャーズ側のものだが、そこでの音楽「全部」がアート・ブレイキー側の音源なのかどうかはわからなかった(ケニー・ドーハムの顔とトランペット・プレイは何度かアップになっているので、一部はその音をそのまま使っている可能性もある。それが全部リー・モーガンの音だとしたらひどい話なので…)。またモンクが演奏したサウンドトラックは映画中だけで使われ、レコード化されなかった(おそらく映画用新曲が書けなかったために、当時リバーサイドに吹き込んだばかりの曲だけを使ったからだろう)。

本来なら、新曲によるサウンドトラックはもちろん、ナイトクラブでの演奏シーンにはモンクが登場したはずで、また撮影に合わせてパリでのコンサート、クラブ・ライヴも別途企画されていたのだが、モンクの不調でこうした企画はすべてお流れとなってしまったのだ。どうなるかはっきりしなかった当時のモンクを不安視したヴァディムとロマーノが、とにかくバルネ・ウィランをフィーチャーして企画を練り直し、結果として安全策として準備していたジョーダンの曲と、ブレイキーのグループの演奏が脚光を浴びたということなのだろう。この映画の日本公開は1962年で、モンクの初来日は翌1963年だった。映画と完全に一体化したマイルス・デイヴィスの「死刑台のエレベーター」とは対照的に、「危険な関係」の音楽として普通に思い浮かべるのは華々しいブレイキーかジョーダンであり、この映画をモンクの音楽と共に記憶しているジャズファンもほとんどいないのではないだろうか(少なくとも私の世代では)。しかしこのエピソードも、いかにもモンクらしいと言うべきか。

(追記 2017 7/5)
知らなかったのだが、気が付いたら、何とこのとき以降お蔵入りになっていたと思われる、モンクのカルテットにバルネ・ウィランが加わった上記演奏(1959) が、今年になってCD/LP「Les Liaisons Dangereuses 1960」(SAM RECORDS/SAGA) として発売されていた。映画中で聞こえるモンクの演奏はこれが音源である。