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2021/01/16

スティーヴ・レイシーを聴く #4

スティーヴ・レイシーが1965年に30歳で米国を離れるまでに正式録音したレコードはたった4枚だったが、ヨーロッパに移住後の30年余に、合計で150枚を超えるレコード数に膨らんだ。晩年多作になったのはリー・コニッツも同じで、またそれらレコーディングの大多数はヨーロッパ吹き込みという点も同じだ。レイシーもコニッツも、スナップショットのように、その時点における演奏記録をレコードに残し続けることで、自身の音楽の進化を確認する作業を続けた。それを可能にしたのは、大量販売を優先する米国流商業主義とはレコード文化の異なるヨーロッパのインディレーベルの存在で、フランスのSaravahやOwl、イタリアのSoul Note、スイスのHatology(Hat Hut) などのレーベルが、彼らのような先進的アーティストの挑戦と創造意欲を実質的に支えていたと言えるだろう。その時代のレイシーのレコードを紹介できるほどの知識も経験も私にはないが、翻訳中に探して初めて聴いたCDの中から、私なりに印象に残ったものを以下に何枚か挙げてみたい(だが『Scratching…』 を除くと、結局は80年代以降にレイシーが自身のバンドで目指した独自の音楽(art song/lit-jazz) 系よりも、自分好みの雰囲気を持ったジャズ寄りのレコードばかりになってしまったが…)。

本書#27で書かれているように、『Scratching the Seventies/Dreams』(1997) は、1970年にローマから妻のイレーヌ・エイビと共にパリに移住したレイシーが、フランスのSaravahレーベルから当時リリースした5枚のLPレコードを(20年後にレイシーがレギュラー・セクステットを解散した後に)、同レーベルが再発した3枚組CDだ。ほとんどがレイシー作品からなるその5枚のLPとは、『Roba』(1969)、『Lapis』(1971)、『Scraps』(1974)、『Dreams』(1975)、『The Owl』(1977) であり、『Roba』はイタリア、それ以外はパリ移住後の録音である。『Roba』とソロ『Lapis』以外は、イレーヌ・エイビ(vo, vln)とスティーヴ・ポッツ(as, ss) などによるレギュラーバンドによるもので、詩人ブライオン・ガイシンBrion Gysin (1916- 86)との共作『Dreams』にはデレク・ベイリーがギターで、また『The Owl』には加古隆がピアノで参加している。私が入手したこの3枚組CDには立派なブックレットが入っているが、それが本書#27のエチエンヌ・ブリュネによるインタビュー(1996) のオリジナル・フランス語版だ。その中で、これらのレコードで演奏している各曲の内容、意図、背景について、レイシー自身が詳しく解説している(レイシーの音楽思想を知る上で、非常に興味深いコメントが聞ける)。

これらは、いずれも60年代フリー・ジャズを通過した後の音楽(post-free)を追及していた時代の作品で、中でも間章も気に入ったソロ『Lapis』(1971)は評価の高いレコードだった。レイシー的には、1975年のブライオン・ガイシンとの共作『Dreams』が、その時代の最高作だったと言っている。このCD版のタイトル “scratching” とは、いろいろな意味のある英語で、DJ用語にあるように基本は「引っ掻く」という意味だが、「苦労して金をかき集める」とか「何とか生計をたてる」という意味もあって、1970年代前半のパリで、レイシーが新たな音楽を模索して苦闘していた時代を象徴する言葉なのだ。半世紀前のこうした実験的音楽を鑑賞し、楽しむセンスは残念ながら今の私にはないが、本書を読みながらじっくりと聴いてみると、あの混沌としつつも活力が満ちていた時代に、ヨーロッパの片隅で彼らが創造しようとしていた音楽と、その挑戦を支えていた気概や精神は確かに伝わってくる。

1975年に初来日したレイシーは、招聘した間章のプロデュースで富樫雅彦、吉沢元治、佐藤允彦たちと国内のコンサート・ツアーを行い、何枚か録音を残した(『Stalks』他)。特に、事故で下半身の動きは失ったものの、当時は復帰して本格的活動を再開し、『Spiritual Nature』等の新作が好評だった富樫雅彦(1940-2007) との、その後も続いた音楽的交流は本書に書かれている通りだ。1979年にパリに渡って公演し、ドン・チェリーや加古隆たちと現地録音した富樫が、1981年にレイシーと日本で録音したキング盤『Spiritual Moments』(富樫作の3曲とレイシー作2曲) では、当時レイシー・バンドにいたケント・カーター(b)とのトリオによる研ぎ澄まされた演奏が聴ける。モンク伝来の「余計なものは削ぎ落とす」ことを信条とし、スペースを重視するレイシーの美意識と、少ない音数で見事に空間を造形する富樫のパーカッションは、基本的に音楽的相性が良いのだと思う。3人で並んで写っているジャケット写真も貴重で、楽しそうな雰囲気が印象に残る。1986年にはレイシー、ケント・カーターにドン・チェリー(tp) も加わった『Bura Bura』 、1991年にはレイシー、富樫のデュオ『Eternal Duo』、その後も2000年には深谷エッグファームでレイシー、富樫に高橋悠治(p)というトリオでも録音するなど、2004年にレイシーが亡くなるまで交流は続き、その間二人は数多くの貴重な録音を残した。

レイシーとピアニストのマル・ウォルドロンMal Waldron(1925-2002)は、50年代半ばから交流があり、1958年のモンク作品集『Reflections』で初共演して以来の盟友ともいえる間柄で、レイシー同様ウォルドロンも60年代半ばにヨーロッパへ移住し、移住後も二人は様々な機会に共演を重ね、特に80年代には数多く共演した。パーカッシブで厚く重い低域を持ったウォルドロンのピアノは、明らかにモンクの影響を感じさせ、またレイシーが言うように、50年代後半のビリー・ホリデイの歌伴時代から伴奏の名人として知られていた。ジャッキー・マクリーンと共にビリー・ホリデイを偲んだ『Left Alone』(1959 Bethlehem) や、ソロ・アルバム『All Alone』(1966 GTA) など、1970年代になると日本でも独特の陰影のあるピアニズムが支持されて人気を博し、何度も来日し、日本人の奥さんと結婚するなど、ジャズ界きっての日本通だった。しかしウォルドロンは、実は当時の日本のジャズファンが抱いていた一般的イメージとは異なる、急進的側面も併せ持ったピアニストでもあった。アムステルダムのコンサートホール (旧) 「Bimhuis」でライヴ録音された二人のデュオ『At the Bimhuis 1982』(Daybreak) は、2006年になって初めてCD化された未発表音源だ。その4年前の1978年に急逝した間章に捧げた曲が冒頭の〈Blues for Aïda〉で、日本通のウォルドロンと、日本文化をリスペクトしていたレイシーの二人による、深い日本的エキゾチスム(尺八風)を感じさせるデュオ演奏が聞ける(清水俊彦氏によれば、『万葉集』の悲歌をモチーフにした曲だという)。ウォルドロンの前衛的自作曲〈Snake Out〉、モンクの代表作3曲(Reflections, Round Midnight, Epistrophy) も含めて、レイシーの美しいソプラノの背後から聞こえる、ウォルドロン節ともいえる低域のリフは、オールド・ジャズファンにはどこか懐かしいサウンドでもある。長い交流を背景にした二人の、ぴたりと息の合った素晴らしいデュオ・アルバムだ。

1980年代のレイシーのレコードで、日本のジャズファンにいちばんよく知られているのは、ギル・エヴァンスGil Evans (1912-88) 最後の録音となった、二人のデュオ作品『Paris Blues』(Owl) だろう。1987年12月の本録音の3ヶ月後(88年3月)にエヴァンスは亡くなった。1950年代半ばに『Gil Evans & Ten』で、レイシーとソプラノサックスを実質的にジャズ界にデビューさせた恩人がエヴァンスであり、二人はその後30年にわたって親しく交流を続けていた。二人には共通のサウンド嗜好があったように思えるし、またエヴァンスはレイシーのソプラノ・サウンドを本当に気に入っていたのだろう。ここでは二人の自作曲とエリントン、ミンガスの作品を選び、あまり耳にできないエヴァンスの弾くピアノ(エレピも)演奏が聴ける。二人が歩んできた人生を振り返るように語る、レイシーのソプラノとエヴァンスのピアノのサウンドが空間で美しく溶け合っている。

ピアニストで作曲家のラン・ブレイクRan Blake (1935-)は、大学を卒業したばかりの若い時に、自らセロニアス・モンク家に出入りしていたほどモンクとその音楽に傾倒していた。ネリー夫人が忙しいときには、まだ幼かったモンク家の二人の兄妹(TootとBarbara)の面倒を見ていたし、モンクの死後、若くして病気で亡くなったそのBarbaraを追悼するアルバムも制作した。ブレイクはジャズ演奏家であると同時に、サード・ストリームを主導した作曲家ガンサー・シュラーたちとの長い音楽的交流もあり、また教育者としてニューイングランド音楽院で長年教鞭をとってきたインテリでもある。だからスティーヴ・レイシーとの接点も共通点も当然あったことだろう。『That Certain Feeling-George Gershwin Songbook』(1990 Hatology)は、そのブレイクのピアノと、レイシーのソプラノ、リッキー・フォードRicky Ford (1954-) のテナーサックス2管による、ジョージ・ガーシュインの名曲をカバーしたアルバムだ。ソロ、デュオ、トリオと、どの曲も深く沈潜する知的で陰影に満ちた演奏だが、特にレイシーとの『The Man I Love』は、透徹した究極のクールサウンドが実に味わい深い素晴らしいデュオだ。翌年ブレイクは、全曲モンク作品を演奏したピアノ・ソロアルバム『Epistrophy』(1991 Soul Note)をリリースしている。

最後に、レイシーの共同制作者で1986年に亡くなった詩人のブライオン・ガイシンを追悼すべく、同年12月にパリで行なわれた3日間のコンサートの模様をプライベート録画し、4篇に編集してYouTubeにアップした映像を、著者のJason Weiss氏が送ってきたので、以下にそのリンクをはっておく。いずれも本書に登場するガイシン作品をフィーチャーしたステージだ。レイシーのソプラノ、イレーヌ・エイビの歌、JaosnWeissたちが一緒に歌っている模様、特に#4では踊る大門四郎、アクション・ペインティングをする画家の今村幸生の姿も見られる…など、いずれも貴重な映像記録だ(私にはディープすぎてよくわからない世界だが、1980年代後半の彼らのパフォーマンスに興味ある人はご覧ください)。

Gysin/Lacy#1 "Somebody Special" (Brion Gysin) - Steve Lacy Sextet - Dec 17 1986 - YouTube

Gysin/Lacy#2 "Nowhere Street" (Brion Gysin) - Steve Lacy Sextet - Dec 17th 1986 - YouTube

Gysin/Lacy#3 Cut-Ups -Texts & songs by Brion Gysin from Trois Soirs pour Brion Gysin - 18 Dec 1986 - YouTube

Gysin/Lacy#4 A Japan-ing for Brion Gysin ブリオン・ジシンに捧ぐ日本-ing Musée D'Art Moderne Paris Dec19 1986 - YouTube

2020/10/25

訳書『スティーヴ・レイシーとの対話』出版

表題邦訳書が10月末に月曜社から出版されます。

20世紀に生まれ、100歳を越えた音楽ジャズの歴史は、これまでに様々な視点や切り口で描かれ、もはや語り尽くされた感があります。しかし「即興 (improvisation)」 こそが音楽上の生命線であるジャズは、つまるところ、限られた数の優れた能力と個性を持つ「個人」が実質的に先導し、進化させてきた音楽です。こうした見方からすると、ジャズ史とは、ある意味でそれらのジャズ・ミュージシャンの「個人史」の総体であると言うこともできます。大部分がミュージシャン固有の知られざる実体験の集積である個人史は、その人の人生で実際に起きたことであり、ジャズの巨人と呼ばれた人たちに限らず、多くのジャズ・ミュージシャンの人生には、これまで語られたことのない逸話がまだ数限りなくあります。そこから伝わって来るのは、抽象的な、いわゆるジャズ史からは決して見えてこない事実と、時代を超えて現代の我々にも響く、普遍的な意味と価値を持つ物語やメッセージです。変容を続けた20世紀後半のジャズの世界を生き抜いた一人の音楽家に対して、半世紀にわたって断続的に行なわれたインタビューだけで構成した本書は、まさにそうした物語の一つと言えます。

スティーヴ・レイシー (Steve Lacy 1934-2004) は、スウィング・ジャズ時代以降ほとんど忘れられていた楽器、「ソプラノサックス」をモダン・ジャズ史上初めて取り上げ、生涯ソプラノサックスだけを演奏し続けたサックス奏者 / 作曲家です。また「自由と革新」こそがジャズの本質であるという音楽哲学を生涯貫き、常に未踏の領域を切り拓くことに挑戦し続けたジャズ音楽家でもあります。1950年代半ば、モダン・ジャズが既に全盛期を迎えていた時代にデビューしたレイシーは、ジャズを巡る大きな時代の波の中で苦闘します。そして1965年に30歳で故郷ニューヨークを捨ててヨーロッパへと向かい、その後1970年から2002年に帰国するまで、33年間パリに住んで音楽活動を続けました。本書は、そのスティーヴ・レイシーが米国、フランス、イギリス、カナダ他の音楽誌や芸術誌等で、1959年から2004年に亡くなるまでの45年間に受けた34編のインタビューを選び、それらを年代順に配列することによって、レイシーが歩んだジャズ人生の足跡を辿りつつ、その音楽思想と人物像を明らかにしようとしたユニークな書籍です。本書の核となるPART1は、不屈の音楽哲学と音楽家魂を語るレイシーの名言が散りばめられた34編の対話集、PART2は、ほとんどが未発表のレイシー自筆の短いノート13編、PART3には3曲の自作曲楽譜、また巻末には厳選ディスコグラフィも収載されており、文字通りスティーヴ・レイシーの音楽人生の集大成と言うべき本となっています。

原書は『Steve Lacy; Conversations』(2006 Duke University Press) で、パリから帰国してボストンのニューイングランド音楽院で教職に就いたレイシーが2004年に亡くなった後、ジェイソン・ワイス Jason Weiss が編纂して米国で出版した本です。編者であるワイスは、1980年代初めから10年間パリで暮らし、当時レイシーとも親しく交流していたラテンアメリカ文学やフリー・ジャズに詳しい米国人作家、翻訳家です。本書中の何編かの記事のインタビュアーでもあり、また全体の半数がフランス語で行なわれたインタビュー記事の仏英翻訳も行なっています。「編者まえがき」に加え、各インタビューには、レイシーのその当時の音楽活動を要約したワイス執筆の導入部があり、全体として一種のレイシー伝記として読むことができます。

一人のジャズ・ミュージシャンの生涯を、ほぼ「インタビュー」だけで構成するという形式の書籍は、知る限り、私が訳した『リー・コニッツ』だけのようです。しかしそれも、数年間にわたって一人の著者が、「一対一の対話で」集中的に聞き取ったことを書き起こしたもので、本の形式は違いますがマイルス・デイヴィスの自叙伝もそこは同じです。それに対し本書がユニークなのは、45年もの長期間にわたって断続的に行なわれたインタビュー記事だけで構成していることに加え、インタビュアーがほぼ毎回異なり、媒体や属する分野、職種が多岐にわたり(ジャズ誌、芸術誌、作家、詩人、音楽家、彫刻家…他)、しかも国籍も多様であるところです。このインタビュアー側の多彩な構成そのものが、結果的にスティーヴ・レイシーという類例のないジャズ音楽家を象徴しており、それによって本書では、レイシーの人物とその思想を様々な角度から探り、多面的に掘り下げることが可能となったと言えます。ただし、それには聞き手はもちろんのこと、インタビューの受け手の資質も重要であり、その音楽哲学と並んで、レイシーが鋭敏な知性と感性、さらに高い言語能力を備えたミュージシャンであることが、本書の価値と魅力を一層高めています。

本書のもう一つの魅力は、レイシーとセロニアス・モンクとの音楽上の関係が具体的に描かれていることです。モンクの音楽を誰よりも深く研究し、その真価を理解し、生涯モンク作品を演奏し続け、それらを世に知らしめた唯一の「ジャズ・ミュージシャン」がスティーヴ・レイシーです。私の訳書『セロニアス・モンク』(ロビン・ケリー)は、モンク本人を主人公として彼の人生を描いた初の詳細な伝記であり、『パノニカ』(ハナ・ロスチャイルド)では、パトロンとしてモンクに半生を捧げ、彼を支え続けたニカ男爵夫人の生涯と、彼女の視点から見たモンク像が描かれています。そして本書にあるのが三番目の視点――モンクに私淑して師を身近に見ながら、その音楽と、音楽家としての真の姿を捉えていたジャズ・ミュージシャン――というモンク像を描くもう一つの視点です。レイシーのこの「三番目の視点」が加わることで、謎多き音楽家、人物としてのモンク像がもっと立体的に見えて来るのではないか、という期待がありました。そしてその期待通り、本書ではレイシーがかなりの回数、具体的にモンクの音楽と哲学について語っており、モンクの楽曲構造の分析とその裏付けとなるレイシーの体験、レイシー自身の演奏と作曲に与えたモンクの影響も明らかにされています。ニューヨークのジャズクラブ「ファイブ・スポット」と「ジャズ・ギャラリー」を舞台にした、ニカ夫人とモンク、レイシーの逸話、またソプラノサックスを巡るレイシーとジョン・コルトレーンの関係など、1950年代後半から60年代初頭にかけてのジャズシーンをリアルに彷彿とさせるジャズ史的に貴重な逸話も語られています。そして何より、モンクについて語るレイシーの言葉には常に温かみがあり、レイシーがいかにモンクを敬愛していたのかが読んでいてよく分かります。

本書で描かれているのは、ジャズの伝統を継承しつつ、常にジャズそのものを乗り越えて新たな世界へ向かおうとしたスティーヴ・レイシーの音楽の旅路と、その挑戦を支えた音楽哲学です。20世紀後半、世界とジャズが変容する中で苦闘し、そこで生き抜いたレイシーの音楽形成の足跡と、独自の思想、哲学が生まれた背景が様々な角度から語られています。レイシーが生来、音楽だけでなく写真、絵画、演劇などの視覚芸術、文学作品や詩など言語芸術への深い関心と知識を有するきわめて知的な人物であったこと、それら異分野芸術と自らの音楽をミックスすることに常に関心を持ち続けていた音楽家であったことも分かります。後年のレイシー作品や演奏の中に徐々に反映されゆくそうした関心や嗜好の源は、レイシーにとってのジャズ原体験だったデューク・エリントンに加え、セシル・テイラー、ギル・エヴァンス、セロニアス・モンクという、レイシーにとってモダン・ジャズのメンターとなった3人の巨匠たちで、彼らとの前半生での邂逅と交流が、その後のレイシーの音楽形成に決定的な影響を与えます。

さらにマル・ウォルドロン、ドン・チェリー、ラズウェル・ラッドなど初期フリー・ジャズ時代からの盟友たち、テキストと声というレイシー作品にとって重要な要素を提供した妻イレーヌ・エイビ、フリー・コンセプトを共同で追求したヨーロッパのフリー・ジャズ・ミュージシャンや現代音楽家たち、テキストやダンスをミックスした芸術歌曲(art song)や文芸ジャズ(lit-jazz) を共作したブライオン・ガイシン他の20世紀の詩人たち、ジュディス・マリナや大門四郎等の俳優・ダンサーたち、富樫雅彦や吉沢元治のような日本人前衛ミュージシャン――等々、スティーヴ・レイシーが単なるジャズ即興演奏家ではなく、芸術上、地理上のあらゆる境界線を越えて様々なアーティストたちと交流し、常にそこで得られたインスピレーションと人的関係を基盤にしながら、独自の芸術を形成してゆく多面的な音楽家だったこともよく分かります。

翻訳に際しては、いつも通り、原文の意味が曖昧に思える箇所は著者にメールで質問して確認しています。ワイス氏によれば、本書は英語版原書と今回の日本語版の他は、数年前にイタリア語版が出版されただけで、オリジナル記事の半数がフランス語のインタビューであるにもかかわらず、フランス語版は出ていないそうです(イタリアのおおらかさと、フランス国内で芸術活動をする《アメリカ人》に対するフランス的反応のニュアンスの対比は、本書中のレイシーの発言からも想像できます)。

なお、この本はレイシーの音楽人生と思想に加え、フリー・ジャズを含めた曲の構造とインプロヴィゼーションの関係、またソプラノサックスとその演奏技術に関するレイシーの哲学や信念など、ジャズに関わる専門的なトピックもかなり具体的に語られています。そこで今回は、サックス奏者で批評家でもある大谷能生さんに、プロのミュージシャンの視点から、レイシーとその音楽に関する分析と考察を別途寄稿していただくことにしました。タイトルは『「レイシー・ミュージック」の複層性』です。どうぞ、こちらもお楽しみに。

(*) 月曜社のHP/ブログもご参照ください。https://urag.exblog.jp/240584499/

2018/10/06

忘れ得ぬ声 : ジャッキー・マクリーン

なぜか時々無性に聴きたくなるジャズ・ミュージシャンがいる。サックス奏者ジャッキー・マクリーン(Jackie McLean 1931-2006) もその一人だ。私はマクリーン・フリークというほどではないが、一時期マクリーンに凝って、いろいろアルバムを聴き漁ったことがあり、当時集めたLPCDもかなりの数になっている。時々、PCに入れたマクリーンのアルバム音源を連続して再生していると、懐かしさもあって、つい時の経つのを忘れるほど楽しい。親しかった昔の友人と久々に会って、話を聞いているような気がするからだ。もう亡くなってしまった昔の知人や懐かしい友人たちは、顔も思い出すが、むしろ記憶している "声" の方が、いつまでも生々しく聞こえてくるように思う。マクリーンの場合、特にそう感じるのは、ややピッチが高めで、哀感を感じさせる、かすれたアルトサックスの音色、粘るリズムとフレーズ、演奏の中から聞こえてくるブルース……それらが一体となってマクリーンにしかない個性的サウンドを形作っているのだが、それが単なるサックスの音というより、“人間の声” のように感じさせるせいだと思う。同じチャーリー・パーカーのコピーから始めても、ソニー・スティットのような名手をはじめとした他のパーカー・エピゴーネンとは違う、マクリーンにしかないその "声” が、技術の巧拙を超えて、どのアルバムを聴いても聞こえてくる。アルトサックスではリー・コニッツもそうだが、これはジャズではすごいことで、それこそがジャズ音楽家の究極の目標の一つと言ってもいいくらいなのである。マクリーンのアルトで有名なアルバムと言えば、日本ではまずはソニー・クラークの名盤『Cool Struttin’』(Blue Note 1958)、それにマル・ウォルドロンの『Left Alone』Bethlehem 1960)が昔から定番だ。どちらも出だしの一音でマクリーンとわかる、これぞジャズというそのサウンドには忘れがたいものがある。

マクリーンの公式な初録音は、20歳のとき1951年のマイルス・デイヴィス『Dig』(Prestige)参加で、その後毎年のようにマイルスのBlue NotePrestige等のレコーディング・セッションに参加していた。初リーダー作となったのは、ハードバップの時代に入り、ドナルド・バードのトランペットも入った2管の『The Jackie McLean Quintet-The New Tradition Vol.1』1955 Ad-Lib/Jubilee)だ。私はこのアルバムが大好きで、McLean(as)Donald Byrd(tp)Mal Waldron(p)Doug Watkins(b)Ronald Tucker(ds) というメンバーによる演奏は、マクリーンもバードも含めて、ほぼ全員が20歳代の新進プレイヤーたちの気合を象徴するように、粗削りだがアルバム全体が溌溂かつ伸びのびとしていて、どの演奏もエネルギーに満ちているので、聴いていて実に気持ちが良い。ここでのマクリーンは、既にして個性全開ともいうべき鋭いフレーズと独特のサウンドを展開しており、ドナルド・バードの流れるようなトランペット・ソロ、初期のマル・ウォルドロンのアブストラクト感のあるピアノ、ダグ・ワトキンスの重量感のあるベースなど、どのプレイも楽しめる。特にマクリーンとバードの2管の相性は良いと思う。アルバム冒頭の<It’s You or No One>が聞こえてきた途端に、全盛期のモダン・ジャズの空気が流れ、マクリーンのあの “声” に何とも言えない懐かしさがこみあげて来る。私的に大好きな演奏The Way You Look Tonight>、マクリーンが書いたジャズ・スタンダード<Little Melonae>の初演、最後にはマクリーンのアイドル、チャーリー・パーカーへのオマージュとして、バラード<Lover Man>も入っている。初代レーベル(Ad-lib)は猫のジャケットだが、この2代目(Jubilee)の面白いデザイン(フクロウ?)も、本アルバムの若さと爽快感がそこから聞こえて来るようで気に入っている。

マクリーンはこの後PrestigeNew Jazzに何枚かのレコードを吹き込み、さらにドナルド・バードと共にBlue Noteに移籍し、1959年の初リーダー作『New Soil』以降、1960年代はBlue Note盤、その後ヨーロッパのSteeple Chase盤などをはじめ、一時引退するまで数多くの録音と名盤を残しており、その間独特のアルトの音色も微妙に変化してゆく。復帰後、晩年の'90年代には、大西順子(p)と『Hat Trick』Somethin’else 1996)を吹き込んでいる。人それぞれに好みがあると思うが、私が個人的に好きなマクリーンは、どれも一般的なジャズ名盤とまでは言えなくとも、やはり瑞々しい若き日の演奏が聴ける1950年代だ。まずはPrestigeの『4, 5 and 6』(1956) で、McLean(as)Mal Waldron(p)Doug Watkins(b)、Art Taylor(ds)というワン・ホーン・カルテット(4)による 3曲(Sentimental JourneyWhy was I BornWhen I Fallin' Love)、そこにDonald Byrd(tp) が加わったクインテット(5)で2曲(ContourAbstraction)、さらにHank Mobley(ts) が加わったセクステット(6)で1曲(Confirmation)ということで、タイトルの『4, 5 and6』になる。考えてみれば、Prestigeらしい適当なアルバム・タイトルだが、ヴァン・ゲルダー録音による音が生々しく、どの曲を聴いてもハードバップのあの時代が蘇って来るような、肩の凝らない演奏が続いて楽しめる。ここでもドナルド・バードのトランペットが良い味だ。

上の盤と並んで好きなこの時期のレコードは、Prestigeの傍系レーベルNew Jazzに吹き込んだ『McLean’s Scene』(1956)だ。Prestigeと違って、New Jazzのアルバムはタイトルもそうだが、このマクリーンのレコードの赤い印象的なジャケット・デザインに見られるように、どれも “一丁上がり” という軽さがなく、一応考えているように見える(Blue NoteRiversideのような丁寧さや知性は感じられないが)。こちらもMcLean(as)Bill Hardman(tp)Red Garland(p)Paul Chambers(b)Art Taylor(ds)という2管クインテットによる3曲(Gone with the WindMean to MeMcLean's Scene)と、McLean(as)Mal Waldron(p)Arthur Phipps(b)Art Taylor(ds)というワン・ホーン・カルテット3曲(Our Love is Here to StayOld FolksOutburst)を、組み合わせたスタンダード曲中心の作品だ。こうした曲の組み合わせも、Prestigeが一発録りで一気に録音した音源を、あちこちのアルバムに適当に(?)組み合わせて収録しているので、アルバム・コンセプト云々はほとんど関係ない(もう1枚、同じメンバーで同日録音した音源を収録した『Makin’ The Changes』というマクリーンのリーダー作がある。当然だが、こちらも良い)。この時代のこうしたレコードは、細かなことをごちゃごちゃ言わずに、ひたすら素直にマクリーンの音を楽しむためにあるようなものだ。ただし、マクリーンの "声" を生々しく捉えたヴァン・ゲルダー録音でなかったら、ここまでの魅力はなかっただろう。Prestigeもこれでだいぶ救われた。

もう1枚も、同じくNew Jazzの『A Long Drink of the Blues』1957)である。全4曲ともにゆったりとしたブルースとバラードで、タイトル曲で冒頭の長い(23分)のブルース<A Long Drink of the Blues>のみがMcLean(ts,as)Webster Young(tp)Curtis Fuller(tb)Gil Cogins(p)Paul Chambers(b)Louis Hayes(ds)という3管セクステット、残る3曲のバラード(Embraceable YouI Cover the WaterfrontThese Foolish Things)が、McLean(as)Mal Waldron(p)Arthur Phipps(b)Art Taylor(ds)というワン・ホーン・カルテットによる演奏だ。スタジオ内の長い演奏前のやり取りの声から始まる1曲目のブルースでは、マクリーンがアルトとテナーサックスを吹いているが、そのテナーはフレーズはまだしも、ピッチのやや上がったかすれた音色までアルトと同じようで、まるで風邪をひいたときのマクリーンみたいなところが面白い。後半のバラードは、ビリー・ホリデイの歌唱でも有名なスタンダードで、マクリーンの哀愁味のあるアルトの音色がたっぷり楽しめる。当時ホリデイの伴奏をし、独特の間を生かした自己のスタイルを確立しつつあったマル・ウォルドロンのピアノも、メロディに寄り添うように美しいバッキングをしている。この作品もそうだが、Blue Note盤のような格調、また演奏と技術の巧拙やアルバム完成度は別にして、ブルースやバラードなどを若きマクリーンがリラックスして吹いており、こちらも肩の力を抜いて、あの “声” をひたすら楽しんで聴けるところが、’50年代のこうしたアルバムに共通の魅力だ。新Macオーディオ・システムは時間とともに音が一段と良くなり、間接音の響きが増して実に気持ちが良いので、ついヴォリュームを上げてしまうが、ヴァン・ゲルダー録音のマクリーン一気通貫聴きの楽しみを倍加している。