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2017/06/21

ウォーン・マーシュ #2

Warne Marsh
1957/58 Atlantic
ウォーン・マーシュ的には生涯で最もハイブロウな作品が、Atlanticレーベルに吹き込まれたワン・ホーンの「Warne Marsh」(1957/58)だろう。LA滞在からニューヨークに戻ったマーシュが、レニー・トリスターノの監修の元に制作したアルバムである(LPのアルバム・クレジットにもSupervision監修としてトリスターノの名前が入っている)。Atlanticには既にリー・コニッツと共演した「Lee Konitz with Warne Marsh(1955)を吹き込んでいたが、メジャー・レーベル初のワン・ホーンのリーダー作ということもあって、師匠ともども力の入ったレコーディングだったのだろう。LAでの諸作は、どれもいかにも西海岸という空気に溢れていて、非常に軽やかで清々しい雰囲気があるが、一方このアルバムは、ピアノはロニー・ボールで同じだが、LAとはまったく雰囲気の違う作品に仕上がっている。特にポール・チェンバース(b)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds) という、当時のマイルス・バンドのパワフルなリズム・セクションとマーシュの共演はどう見ても異色だ。アルバム内容を見ると、ロニー・ボール、チェンバース、フィリー・ジョー とのカルテット演奏が2曲、同じくチェンバース、ポール・モチアン(ds) によるピアノレス・トリオ演奏が4曲、計6曲という変則的組み合わせになっている。なぜだろうと、ディスコグラフィーで確認すると、実は前者のカルテットは19571212日に5曲収録され、後者のトリオは翌1958116日に5曲収録されていることがわかった。したがって、アルバム制作時に前者5曲の内3曲が、後者の1曲が "ボツ" になったということになる。しかも採用された、たった2曲しかないカルテット演奏の内、アルバム冒頭の1曲、<Too Close for Comfort>はなぜか演奏途中で(4分弱で)フェイド・アウトしているのである

この件について書かれたものを読んだことがないので、まったくの想像(妄想?)に過ぎないが、これらの選曲とテープ編集にはレニー・トリスターノの意向(と嗜好)が大きく反映されているような気がする。口を出し過ぎたので結果として「監修」とクレジットすることになったのか、最初から「監修」者なので責任上あれこれ口出ししたのか? とにかく、トリスターノがからむ話はおもしろい。しかし、そういうトリスターノの「メガネにかなった」演奏のみが選択され収録されていると考えれば、このアルバムにおける演奏のレベルと音楽的価値についての説明は不要だろう。さらにLAでの作品と印象が違う理由もわかる。リー・コニッツは、マーシュの特にチェンバース、モチアンとの4曲のピアノレス・トリオ演奏について何度も最高度の賛辞を送っている。これらの演奏からのインスピレーションが、その後コニッツのピアノレス・トリオの名作「Motion」(1961 Verve)の録音に結びついた可能性は十分にあるだろう(これも想像ですが)。蛇足ながら、特にこうしたピアノレス・トリオものを楽しむには、ある程度ステレオの音量を上げて、ベースとドラムスの動きも良く聞こえるようにしないと、レコードとプレイヤーの真価を見誤ります。

Live at the Half Note
1959 Verve
この後1959年には、コニッツ、マーシュに当時新進のピアニストだったビル・エヴァンスが加わったクラブ「ハーフノート」でのライヴ録音が残されている(ジミー・ギャリソン-b、ポール・モチアン-ds)。ビル・エヴァンスは、当日教師の仕事のために出演できなかったトリスターノに代わって急遽参加したものだという。だがコニッツ名義のこのレコード「ライヴ・アット・ザ・ハーフノート」がVerveレーベルからリリースされたのは1994年で、何とピーター・インドによる録音から35年後だが、この背景には録音テープを巡るトリスターノとコニッツの師弟間の様々な確執があったと言われている。(コニッツの演奏部分だけトリスターノがテープ編集で削除し、マーシュの部分のみ残して別のレコードとして一度リリースされたという逸話も残っている)。そうしたややこしい背景も理由の一つだったのか、「リー・コニッツ」の中でコニッツが語っているように、ビル・エヴァンスがコニッツの背後ではほとんど弾かず、まるでピアノレス・トリオのように聞こえる場面が多い。またコニッツ本人も認めているように、リズムの点を含めてこの二人は音楽的に相性があまり良くなかったようだ。だが一方のマーシュは、そうした状況だったにもかかわらず、このレコードでも相変わらず素晴らしい演奏をしていると思う。

Release Record:
Send Tape
1959/60 Wave
 
ウォーン・マーシュのこの時期の他のワン・ホーン・カルテットとしては、これもピーター・インド(b) の私家録音だが、トリスターノ派のメンバーと共演した「Release RecordSend Tape」(1959/60 Wave)がある。緊張感に満ちた高度なインプロヴィゼーションの続くAtlantic盤と違い、こちらは仲間内で非常にリラックスした当時のマーシュの演奏が楽しめる。本アルバムはマーシュ、インドの他、ロニー・ボール(p)、ディック・スコット(ds)というトリスターノ派によるカルテットの演奏が収められていて、時期からすると「ハーフ・ノート」でのライヴのすぐ後に当たる。録音された11曲はスタンダードとマーシュのオリジナルが約半々だ。「ハーフノート」でのマーシュの演奏も冴えわたっていたが、ここでは気心の知れたメンバーということもあってか、伸び伸びと独特のインプロヴィゼーションを楽しむマーシュの様子が伝わって来る好演の連続で、同じくロニー・ボールのリラックスした小気味の良いピアノも楽しめる好アルバムだ。

Crosscurrents
1978 Fantasy
マーシュはコニッツ同様に、60年代、70年代とそれほど注目を浴びたわけではないが、72年から、チャーリー・パーカーのアドリブラインを5人のサックス奏者がプレイする "スーパーサックス" の一員として参加している。その後リリースされた「クロスカレンツ Crosscurrents」(1978 Fantasy) は、リー・コニッツ、ウォーン・マーシュとビル・エヴァンス、という3人の共演(エディ・ゴメス-b、エリオット・ジグモンド-ds)で、一体どういう音楽になるのか期待一杯だったこともあって(まだVerveの「ハーフノート」ライヴ盤はリリースされておらず、初のエヴァンス・トリオとの共演に興味があった)、最初にアルバムを聴いた時は正直言って少々がっかりした記憶がある。当時はもうみんな年だったせいか、緊張感、躍動感というものがあまり感じられなかったからだが、こちらも年のせいか近年はそれなりの味わいがあるなと感じるようになった。「ハーフノート」盤同様に、ここでもエヴァンスはコニッツのバックではあまり弾いていない。しかしこのアルバム中で唯一、マーシュの短いバラード<Everytime We Say Goodbye> だけは、なぜか最初に聴いて以来ずっと耳から離れず、私にとって永遠のバラードとなった。コニッツのクールで理知的な表現とは異なり、マーシュのバラ―ドには不思議な味わいと温かみがあり、そのふわふわとした、つかみどころのない独特のテナーサックスの音色、メロディライン、演奏リズムには、マーシュにしかない音世界がある。ピッチが揺れるような、ゆらめくようなここでのマーシュのバラードは、聴いていると全身から力が脱けていくような気がするのだが、単なる抒情というものを超えて、遠くから、まるでこの世とあの世の境目から流れて来るかのような、実に摩訶不思議な音の詩になっている。ビル・エヴァンスのピアノも、コニッツのシャープな世界よりも、やはりリズムを含めてマーシュのソフトで柔軟な音世界の方がずっと相性が良いように思う。マーシュは、後年の「ア・バラード・ブック A Ballad Book」(1983 Criss Cross)でも、カルテットでこうしたバラード・プレイを中心に聞かせているので(ピアノはルー・レビー)、この独特の世界に興味がある人はぜひそちらも聞いてみていただきたい。

2017/06/08

リー・コニッツを聴く #4:Verve

Very Cool
1957 Verve
Tranquility
1957 Verve
50年代中期、Storyville時代の3作品は知性とエモーションのジャズ的バランスが見事で、私的にはコニッツの白眉だと思うが、Atlanticを経てさらにトリスターノの世界から解き放たれ、ジャズ的に寛容さが出て柔軟になっていった時代の演奏も、非常に心地良いジャズで私はこれも好きだ。Verveに移籍後初のアルバム「Very Cool」(1957)は、ドン・フェラーラ (tp) を加えた2管クインテット(サル・モスカ-p、ピーター・インド-b、シャドウ・ウィルソン-ds) による演奏で、ハードバップ的サウンドが強まるが、その中に依然コニッツ的クールさと斬新さが光る演奏だと思うし、それはまたコニッツの成熟と演奏家としての多様性の拡大とも言える。確かにテンションは往時に比べれば弱いが、その代りジャズ的リラクゼーションが増して上質な音楽として今聴いても古びず楽しめるアルバムだ。「Tranquility」(1957) はアルバム・タイトル(平穏)と脱力ジャケット写真が表している通り、ビリー・バウアーのギタートリオ(ヘンリー・グライムス-b, デイヴ・ベイリー-ds) をバックに、さらにリラックス度が増したコニッツが聞ける(このあたりで、おいおい大丈夫か…?と言いたくなるが)。

Meets Jimmy Guiffree
1959 Verve
You and Lee
1959 Verve
最初あまりピンと来なかったが、じっくり聴いてみるとなかなか楽しめる演奏だと思うようになったのが「Lee Konitz Meets Jimmy Guiffree」と「You and Lee」という1959年の2枚のアルバムだ。当時新進の若手奏者だったビル・エヴァンス(p)が前者の全曲、後者も4曲(残り4曲はジム・ホールのギター)参加している。ジミー・ジュフリーは映画「真夏の夜のジャズ」ではボブ・ブルックマイヤー、ジム・ホール と共にテナー・サックスで登場するが、当時は編曲者としてもモダンなジャズを手掛けていて、この後60年代初めには、ポール・ブレイ(p)、スティーヴ・スワロウ(b) と共にヨーロッパのフリー・インプロヴィゼーションに先駆ける内省的なフリー・ジャズの世界も追求していた。この2作品も当時としては非常にモダンなアレンジメントで、滑らかで、上品だが時にダンサブルとも言えるような演奏もあり、多彩な音楽を作りあげている。聴きなじむと、どの曲も高度だが実に気持ちのいい演奏で、ある種のノスタルジーも感じさせ、今の時代にイージー・リスニング的に聴くと非常にいい。コニッツはクロード・ソーンヒル楽団時代や、「クールの誕生」バンドなど、この種のアンサンブルは得意としてきた分野で、この頃は円熟の域に入りつつあって、どの演奏も余裕たっぷりで貫録さえ感じさせるほどだ。ビル・エヴァンスもまさに上昇期だったが、ここではソロをあまり取ることもなく、時々閃きを感じさせるフレッシュなバッキングでサポート役に徹している。全体的にハイレベルの演奏で、まさにあの時代の「スムース・ジャズ」とでも呼べるようなモダンで洗練されたアンサンブルである。

Motion
1961 Verve
1960年前後、オーネット・コールマンのような新世代フリー・ジャズ・ミュージシャンが台頭し、マイルスは「カインド・オブ・ブルー」でモードを手がけ、コルトレーンも「ジャイアント・ステップス」を経て徐々にフリーに向かっていく中、上記アルバムジャケットの変遷に見るように、益々リラックスした "ゆるい"(?)作品が増えていたVerve後半のコニッツは、おそらく「このままではいかん…」と危機感を募らせたのではないかと想像する(あくまで想像です)。そこで生まれたVerve時代最後の作品が、アルトサックス、ドラムス、ベースのピアノレス・トリオによる「モーション Motion(1961)である。このアルバムは間違いなく「Subconscious-Lee」と並ぶリー・コニッツの最高傑作だが、後者が師トリスターノの強い影響下にあった若い時期のものであるのに対し、「Motion」はコニッツがその後約10年間をかけて到達した自身の音楽の集大成とも言えるものだ。インプロヴィゼーションのための自由空間を制約するコード楽器との共演をコニッツは徐々に好まなくなり、60年代以降トリオやデュオでの演奏が増えて行くが、その方向を決定づけたのはこの「Motion」で得られた自信だろう。それくらいここでのコニッツは自信に満ち、豊かで伸びやかな演奏を展開している。「リー・コニッツ」で本人が述べているように、”知的でクール” と見られていたコニッツと、当時コルトレーンのグループにいた ”ホットでワイルド” なエルヴィン・ジョーンズ(ds)との初の組み合わせは、当時誰が見ても異質で意外なものだった。コルトレーンとの共演ぶりから相性面で不安を感じていたコニッツだったが、前日の夜「ヴィレッジ・ゲート」でコルトレーンとの激しいライヴ演奏をこなし、翌朝早くに録音現場に現れたエルヴィンの人柄と、予想外の驚くべき繊細さと絶妙なタイム感でリズムを繰り出すその演奏にすっかり感激したという。10年にわたり晩年のトリスターノの専属ベーシストだったソニー・ダラス(b)、エルヴィンともコニッツとも旧知で、そのベースワークは二人の間を取り持ちながら緊張感溢れる演奏を支えている。当日のこの3人の演奏技術と人間的コンビネーションが相まって、この傑作が生まれたのだろう。

収録全5曲ともスタンダードだが、コニッツの演奏から聞こえてくる原曲のメロディは、得意曲 <Foolin’ Myself> を除くとどれも希薄で、エルヴィンの繰り出すリズムに反応しながら冒頭からほぼ全編が緊迫した即興ラインの連続である。そこに聴ける創造力と音楽的テンションは、アルトサックスによるジャズ・インプロヴィゼーションの極致と言えるものだろう。ピアノのようなコード楽器のないことが、自由なインプロヴィゼーション空間を生み出すというコニッツの持論に頷かざるを得ないように、3つの楽器がそれぞれ独立したリズムとラインを刻みながら空間で見事に溶け合う、という最高度のジャズ的グルーヴを味あわせてくれる傑作だ。しかしながら、この久々の傑作を作ったにもかかわらず、この後60年代からのコニッツは、ジャズを取り巻く世界の変貌もあって、ジャズ・ミュージシャンとして最も厳しい時代を生きることになる。

2017/06/04

リー・コニッツを聴く #2:Storyville

Jazz at Storyville
1954 Storyville
私的にはリー・コニッツ絶頂期と思えるのが、1950年代中期の Storyville レーベルの3部作で、いずれもワン・ホーン・カルテットである。1枚は、当時ボストンのコープリー・スクエア・ホテル内にあったジョージ・ウィーンが所有していたジャズクラブ「Storyville」でのライヴ録音「Jazz At Storyville」(1954)、もう1枚は同年のスタジオ録音「Konitz」、最後の1枚は「In Harvard Square」で1954/55年に録音されている。「Jazz At Storyville」は、絶頂期を迎えつつあったコニッツの演奏をライヴ録音したことに価値がある。ラジオ放送したものなので、冒頭、中程、最後とJohn McLellandMC3度入っているが、録音もクリアで、当時のジャズクラブの雰囲気が臨場感たっぷりに楽しめる(週末や翌週ライブの案内など)。ロニー・ボール (p)、パーシー・ヒース(b)、アル・レビット (ds)というカルテットで、自信に満ち、イマジネーション豊かな、まさに流れるようなアドリブで当時の持ち歌を演奏するコニッツのアルトは素晴らしい。

Konitz
1954 Storyville
スタジオ録音「Konitz」は、ロニー・ボールに加え、ピーター・インド (b)、ジェフ・モートン (ds)というトリスターノ派のメンバーで固めた演奏である。この時期のコニッツの音楽が素晴らしいのは、言わばクール・ジャズと当時主流だったハードバップのほぼ中間地点にいて、知的クールネスとジャズ的エモーションの音楽的バランスが見事なのだ。それはハードバップ系の他のどのジャズ、どのミュージシャンとも違う、コニッツだけが到達しえた独創的な世界だった。この後のAtlanticVerve時代は、よりハードバップに接近した演奏が増え、ウォーム・コニッツなどとも呼ばれることになるが、そこに奏者としてより円熟味も加わっているので、どちらがいいかは聴く人の好みによるだろう。いずれにしても、私が好きなStoryville時代は、若さ、技量、イマジネーションが3拍子揃った「旬の」 コニッツが聴ける。

In Harvard Square
1954/55 Storyville
グリーンの美しいLPジャケットもあるが、私は特に「In Harvard Square」が当時のコニッツの音楽的バランスが絶妙で好きだ(サポート・メンバーは「Konitz」と同じ)。どの演奏も難解でもないし、気疲れもしない、非常に心地良いジャズだが、音色、紡ぎ出すライン、時折のテンションにはクール・ジャズの魅力が溢れていて今聴いても新鮮だ。これら3枚のアルバムすべてに参加している、トリスターノ派の盟友であったロニー・ボールの軽快でよくスウィングするピアノも、コニッツの滑らかで高度なアドリブを見事にサポートしている。ロニー・ボールもトリスターノとバップ・ピアニストの中間にいて、冷たくもなく、熱すぎもせず、イギリス人らしい小気味の良いピアノを弾く人だ。これら3枚どのアルバムからも、即興演奏に命を懸けたようなストイックで切れ味鋭い1950年前後のコニッツの演奏から、クールネスを基本にしながらも、メロディを意識したより歌心に溢れた演奏に変貌していることがよくわかる。トリスターノの呪縛からようやく解き放たれて、リー・コニッツ自身のスタイルをほぼ築き上げつつあった時代だと言えるだろう。

コニッツのインタビュー本「Lee Konitz」でのこの時期についてのコメントは、プロモーターだったジョージ・ウィーンによる「コニッツLA置いてけぼり事件(LAギグの帰りの切符をウィーンが手配していなかった)」しか出て来ない。著者アンディ・ハミルトンに何故なのか質問してみたが、2人の間ではSroryville時代に限らず、50年代のレコードに関する話はほとんど出て来なかったということだ。著者自身が好きなこの時代のレコードがAtlanticの「ウィズ・ウォーン・マーシュ」で、その話が中心だったこと、それに何せ当時80歳近かったコニッツも、この時代の細かなことはもうほとんど忘れかけていたということらしい。

2017/05/29

レニー・トリスターノの世界 #2

Lennie Tristano All Stars
(Rel. 2009 RLR)
前項のように、昔からAtlanticの「鬼才…」や「ソロ」ばかり紹介されるために、変人ぶりや難解で高踏的なイメージだけが定着してしまったが、限られてはいるものの、中には聴き手がリラックスしてトリスターノの名人ぶりを楽しめるレコードも残されている。Lennie Tristano All Stars」(RLR 2009)というCDは、トリスターノがシカゴからニューヨークに出てきた翌19478月にクラブ「Café Bohemia」(Pied Piper)で録音されたライヴ演奏と、19646月のクラブ「Half Note」でのTV中継ライヴ(Look Up & Live)からの3曲をカップリングした珍しいレコードだ。47年のライヴは、ビル・ハリス(tb)、フリップ・フィリップス(ts)、ビリー・バウアー(g)、チャビー・ジャクソン(b)、デンジル・ベスト(ds)という、ウッディ・ハーマン楽団のメンバーを中心にしたコンボにトリスターノが飛び入りしたもののようだ。未だスウィング色の強い、喧騒のビバップ・コンボに「潜入した」当時28歳のここでのトリスターノは、CMではないがまさに異星から来た「宇宙人トリスターノ」だ。ハリスやフィリップスの実にスウィンギングな熱演に客席から掛け声もかかり、ダンスも踊れそうな音楽に一応は合わせているが、リズム、ライン、コードとも時々周囲と全く違う異次元のサウンドを繰り出し、特にトリスターノのソロに入ると一気に場が冷え込み、演奏メンバーもクラブの客も面喰らっている様子が手に取るようにわかる。トリスターノがニューヨークのジャズシーンに突如出現した当時のインパクトが目に見えるようにわかって実におもしろい。このCDは録音もプアで基本的には好事家向けだが、トリスターノ・ファンなら初期のトリスターノと、当時のニューヨークのクラブでのビバップの雰囲気を知る貴重な記録として非常に楽しめる。それからワープして17年後、すっかりモダンになった1964年の「Half Note」ライヴ録音3曲は、リー・コニッツ、ウォーン・マーシュという弟子たちとトリスターノ最後の共演である(ソニー・ダラス-b、ニック・スタビュラス-ds)。このライヴ演奏翌年のヨーロッパ・ツアーを最後に、トリスターノはほぼ人前で演奏することはなくなる。

Lennie Tristano
Manhattan Studio
1955/56 Jazz Records
もう1枚は、ピアノ・トリオ「Manhattan Studio」(1955/56 Jazz Records)だ。'50年代初めにトリスターノは彼のジャズ教室のための練習と録音を目的にマンハッタンに小さなスタジオ(317 East 32nd)を作ったが、このレコードは1955/56年にかけて、そのスタジオで記録された演奏を集めた私家録音盤である。40年代の超革新的な姿勢も、このアルバムと同時期のAtlantic盤での録音ギミックもなく、ピーター・インド(b)、トム・ウェイバーン(ds)という二人の弟子をリズム・セクションに従えて、ごく当たり前のピアノ・トリオとして演奏している。コンボやソロが多く、またトリスターノのトリオと言えば50年代初めの数曲の演奏を除き、ビリー・バウアーのギターとベースによるものしかないので、ベースとドラムスによるトリオ演奏だけから成るアルバムはこの1枚だけだ。ここでは流れるようなスピードと美しさ溢れる「素顔の」トリスターノの素晴らしいピアノが堪能できる。9曲の内、自作2曲を除き、他7曲はトリスターノにしては珍しく全てスタンダードを弾いている。いつものようにいきなりくずさずに、どの曲もストレートにメロディを弾いていて、ごく普通の4ビートのピアノ・トリオとして構えずに聴け、トリスターノのインプロヴィゼーションの世界がわかりやすい。複雑さもなく、こんなにリラックスした雰囲気で、楽しそうに(たぶん)スウィングして弾いているトリスターノは他の録音では絶対に聴けない。弟子たちと自分のスタジオで、好きな曲を自由に弾いている様子が伝わってきて、他のアルバムで常につきまとう聴き手に強いる緊張感がここにはない。リズム・セクションも1950年代半ばの普通のピアノ・トリオのリラックスしたバッキングで、よく言われる正確で律儀なメトロノーム的な伴奏だけではない。しかしフォーマットは普通だが、演奏そのものはやはりトリスターノで、50年代半ばという時代を思えばその音世界の斬新さは相変わらずだが、同時にそのドライブ感と、次から次へ出てくる美しいフレーズとメロディ・ラインはまさにバド・パウエル並みで、これにはびっくりする。

Lennie Tristano
Chicago in April 1951
(Uptown)
数は少ないがリラックスして楽しめるライヴ音源もまだ残されている。数年前に発掘されリリースされたCDだが、19514月に故郷のシカゴに帰って、「ブルー・ノート・クラブ」に出演したレニー・トリスターノ・セクステットの未発表ライヴ録音全14曲を収めた2枚組CD「Chicago in April 1951」Uptown)がそれだ。これまでトリスターノのライヴ音源はプアなものが多かったが、これはピアノとホーンの音について言えば予想以上にクリアで、おそらくこれまでのグループによるクラブ・ライヴ録音ではベストの音質だろう。しかもトリスターノが時々MCをやりながら演奏していて、その声もクリアで、これにも驚く(初めて彼の声を聞いた)。リー・コニッツ(as)、ウォーン・マーシュ(ts)に、同じくトリスターノ門下だったウィリー・デニス(tb)が加わり、リズム・セクションにバディ・ジョーンズ(b)、ミッキー・シモネッタ(ds)を配した3管セクステットによる演奏である。このCDはトリスターノがまだ32歳の時の録音で、コニッツ、マーシュを含むグループとしての一体感も完成の域に達していた時期でもあり、おそらく音楽的には絶頂期にあっただろう。本作はプレイヤーとして全盛期のトリスターノの素晴らしいピアノと、グループのリラックスしたクラブ・ライヴ演奏が、初めてクリアな音で楽しめる貴重盤である。

Lennie Tristano Quintet
Live in Toronto 1952
Jazz Record
s
そしてもう1枚のライヴ録音は、翌1952年カナダ・トロント(UJPOホール)でのコンサート・ライヴ「Live in Toronto 1952(Jazz Records)で、こちらはリー・コニッツ (as)、ウォーン・マーシュ (ts)、ピーター・インド (b)、 アル・レヴィット (ds) というクインテットによる演奏。ビリー・バウアー (g) はツアーに参加しなかったものの、メンバーはいわば当時のトリスターノ派全員集合である。このトロントでのライヴは、当初実験的要素もあったコニッツ、マーシュを従えたバンドを立ち上げてから5年近く経っており、グループとしての音楽的コンセプトも各自の役割も全員に浸透し、互いの理解も深まった段階に達していたことだろう。一発勝負のライヴでありながら、6曲すべてにおいて全員その流れるようにスムースで切れ味の良いユニゾン、アドリブともに見事で、ビバップとは異なる手法によるジャズ史上最高レベルの集団即興演奏だと言われている。トリスターノが希求していた理想のジャズが、ある意味ここで完成されたとも言えるだろう。ところがコニッツはこの公演の翌月トリスターノの元を離れ、トリスターノが以前から評価していなかったスタン・ケントン楽団に入団し、結果このトリスターノ・バンドは実質的に解散することになるのである。

1940年代のシカゴ時代、コニッツが十代の時から師事していた師匠とその高弟は、ここについに袂を分かつ。音楽上よりも経済的な理由だったとは言え、このトロント直後の片腕リー・コニッツの離反がトリスターノに与えた衝撃がいかに大きかったかが想像できる。マーシュは ’55年まで留まったが、前項に記したように、1952年のこの一件後トリスターノは徐々に公の場に出なくなり、マンハッタンのスタジオにこもってフリー・ジャズや多重録音などのジャズ研究とジャズ教師に専念するようになる。トリスターノとコニッツはその後ついに完全には和解せず、時折の共演を除き、かつての師弟関係は失われる。1959年の「Half Note」で、トリスターノの代役として急遽参加したビル・エヴァンスと、コニッツ、マーシュが共演したライヴ演奏(Verve) にも、実はそうした師弟間の葛藤と裏事情が伺われる逸話が残されている。そして上記1964年の「Half Note」での共演を最後に、以後2人は二度と顔を合わせることはなかった。だが「リー・コニッツ」のインタビューで、70年代半ばになってから2人が交わした電話ごしの会話のことをコニッツが語っているが、久々の会話を終えたトリスターノの嬉しそうな姿を、当時の弟子コニー・クローザーズから後年伝え聞いたコニッツが、思わず落涙した話は胸を打つものがある。

トリスターノ派ミュージシャン以外にも、セシル・テイラーやチャールズ・ミンガス、ポール・ブレイ、ビル・エヴァンス等への影響を含めて、トリスターノの革新的コンセプトがその後のジャズに与えた音楽的影響は決して小さくはなかったが、アメリカではそれはずっと無視されるか、過小評価されてきた。彼は小さくてもいいので自分のジャズクラブが欲しいとずっと言っていたそうだ。大衆には受けなくとも、自分の音楽を理解してくれる聴衆が少しでもいれば、そこで思う存分演奏したいと考えたのだろう。商業主義への妥協を拒んだ人生ゆえに、’78年に59歳で亡くなるまでにその願いは結局かなわなかった。しかし20世紀半ばのアメリカという国には、このような「理念」を持つジャズ音楽家も存在したのである。

2017/05/27

レニー・トリスターノの世界 #1

「ジャズにも色々あるのだ」ということを初めて知ったのが、1970年代に盲目のピアニスト、レニー・トリスターノ  (1919-1978) の「 Lennie Tristano(邦題:鬼才トリスターノ) (1955 Atlantic) というレコードを聴いたときだった。それまで聴いていた "普通の" ジャズ・レコードとはまったく肌合いの違う音楽で、クールで、無機的で、構築的な美しさがあり、ある種クラシックの現代音楽のような雰囲気があったからで、ジャズ初心者には衝撃的なものだった。しかし、それ以来この独特の世界を持ったアルバムは私の愛聴盤となった。

Tristano
1955 Atlantic
1954/55年に録音されたLP時代のA面4曲の内の2曲<Line Up>と<East 32nd Street>は、ピーター・インド(b)、ジェフ・モートン(ds)というトリスターノ派リズム・セクションの録音テープを半分の速度にして再生しながら、その上にトリスターノがピアノのラインをかぶせて録音し、最後にそれを倍速にして仕上げたものだとされている(ただし諸説ある)。<Line Up>は、<All of Me>のコード進行を元にして、4/4と7/4という2つの拍子を用いたインプロヴィゼーションで、初めて聴いたときには思わずのけぞりそうになったほどだが、この緊張感に満ちた演奏は今聴いても実に刺激的だ。他のA面2曲<Turkish Mambo>とRequiem>は、トリスターノのピアノ・ソロによる多重録音である。<Turkish Mambo>4/45/812/87/8という4層の拍子が同時進行する複雑なポリリズム構造を持つ演奏だという(音楽学者Yunmi Shimによる分析)。もう1曲の<Requiem>は、音楽家として互いに深く尊敬し合っていたチャーリー・パーカー(1955年没)を追悼した自作ブルースで、トリスターノのブルース演奏は極めて珍しいものだが、これも素晴らしい1曲だ。武満徹の「弦楽のためのレクィエム」は、トリスターノのこの曲に触発されたものだと言われている。また後年トリスターノの弟子となる女性ピアニスト、コニー・クローザーズもこの曲を聴いてクラシックからジャズに転向したという。2人ともトリスターノの音楽の中に、ジャズとクラシック現代音楽を繋ぐ何かを見出したということだろう。このA面で聴ける構造美とテンション、深い陰翳に満ちた演奏は、トリスターノの天才を示す最高度の質と斬新さを持つ、ジャンルを超えた素晴らしい「音楽」だと思う。

LP時代のB5曲はうって変わって、リー・コニッツ(as)が加わったカルテットが、スタンダード曲をごく普通のミディアム・テンポで演奏しており、1955年6月にニューヨークの中華レストラン内の一室でライヴ録音されたものだ。(コニッツはこの数日後に、「Lee Konitz with Warne Marsh」をAtlanticに吹き込んでいる。)スタン・ケントン楽団を離れたコニッツが自己のカルテットを率いていた絶頂期だったが、ここではリズム・セクションにアート・テイラー(ds)、ジーン・ラメイ(b)というトリスターノ派ではないバップ奏者を起用していることからも、A面のトリスターノの「本音」とも言える音楽世界との差が歴然としている。しかし、この最高にリラックスした演奏もまた、ピアニストとしてのトリスターノの一面である。実は本来は、このカルテットのライヴ演奏のみでアルバムを制作する予定だったが、満足できない演奏があったコニッツの意見で、5曲だけが選ばれ、代わってトリスターノのスタジオ内に眠っていた上記4曲を「発見」したAtlanticが、それらをA面として収録してリリースした、ということだ(その後このライヴ演奏のみを全曲収録したCDも発表された)。アルバムの最終コンセプトはたぶんトリスターノが考えたのだろうが、A面はトリスターノの「本音」、B面は「こわもて」だけじゃないんですよ、という自身のコインの両面を伝えたかった彼のメッセージのようにも聞こえる(勝手な想像です)。ただしそれはあくまでLPアルバム時代の話であり、CDやバラ聴きネット音源ではこうした作品意図や意味はもはや存在しない。残念なことである。

Crosscurrent
1949 Capital
トリスターノは、チャーリー・パーカーと同年1919年にシカゴで生まれた。9歳の時には全盲となり、シカゴのアメリカ音楽院入学後はジャズだけでなくクラシック音楽の基礎も身に付け、20代初めから既に教師として教えるようになっていた。1946年にビバップが盛況となっていたニューヨークに進出し、シカゴ時代からの弟子だったリー・コニッツも間もなく師の後を追った。リー・コニッツ(as)、ウォーン・マーシュ(ts)、ビリー・バウアー(g)、ピーター・インド(b)、アル・レヴィット(ds)というトリスターノのグループは、既に1948年頃からフリー・ジャズの実験を初めており、1949年のアルバム「Crosscurrents」(Capitol)で、<Intuition>、<Digression>というジャズ史上初の集団即興による2曲のフリー・ジャズ曲を録音している。当時彼らはクラブ・ギグやコンサートでも実際に演奏している。ただしそれらは対位法を意識していたために、曲想としてはクラシック音楽に近いものだった。当然ながらクラブなどでは受けないので、その後グループとしてのフリー演奏は止めたが、1951年にマンハッタンに開設した自身のスタジオで、トリスターノはフリー・ジャズ、多重録音の実験を続けていたのだ。(多重録音は今では普通に行なわれているが、70年近く前にこんな演奏を自分で録音して、テープ編集していた人間がいたとは信じられない。テオ・マセロがマイルスの録音編集作業をする15年以上も前である。)

メエルストルムの渦
1975 East Wind
亡くなる2年前、1976年に日本のEast WindからLPでリリースされたレニー・トリスターノ最後のアルバムが「メエルストルムの渦 Descent into the Maelstrom」だ1975年に、当時スイング・ジャーナル誌編集長だった児山紀芳氏とEast Windが、隠遁生活に入っていたトリスターノと直接交渉して、過去の録音記録からトリスターノ自身が選んだ音源をまとめたものだそうだ。ただし音源は1952年から1966年にかけての5つのセッションを取り上げていて、中に1950年代前半(上記「鬼才トリスターノ」音源より前である)に録音したこうした多重録音の演奏が3曲収録されている。アルバム・タイトル曲<メエルストルムの渦>はエドガ・アラン・ポーの同名小説から取ったもので、録音されたのは1953年であり、当時としては驚異的なトリスターノのフリー演奏が聞ける。一人多重録音による無調のフリー・ジャズ・ピアノで、重層化したリズムとメロディがうねるように進行してゆく、まさにタイトル通りの謎と驚きに満ちた演奏だ。セシル・テイラー、ボラー・バーグマンなどのアヴァンギャルド・ジャズ・ピアニスト登場の何年も前に、トリスターノは既にこうした演奏に挑戦していたのである。1952年(195110月という記録もある)のピーター・インド(b)、ロイ・ヘインズ(ds)との2曲のトリオ演奏(Pastime、Ju-Ju)もピアノ部分が多重録音である。他の演奏は “普通の” トリスターノ・ジャズであり、1965年のパリでの録音を含めてピアノソロが5曲、1966年当時のレギュラー・メンバーだったソニー・ダラス(b)、ニック・スタビュラス(ds)とのトリオが同じく2曲収録されている。本人がセレクトした音源だけで構成されていることもあり、Atlantic2作品と共に、このアルバムはトリスターノの音楽的メッセージが最も強く込められた作品と言えるだろう。

The New Tristano
1962 Atlantic
1950年前後、トリスターノはインプロヴィゼーション追求の過程で、微妙に変化する複雑な「リズム」と、ホリゾンタルな長く強靭な「ライン」を組み合わせることによって、ビバップの延長線上に新しいジャズを創造しようとしていた。特に強い関心を持っていたのはポリリズムを用いた重層的なリズム構造だ。そのためリズム・セクションに対する要求水準は非常に高く、当時彼の要求に応えられるドラマーやベーシストはほとんどおらず、ケニー・クラークなどわずかなミュージシャンだけだったと言われている。よく指摘されるメトロノームのように変化のないリズムセクションも、その帰結だったという説もある。要するに、上記多重録音のレコードは、「それなら自分一人で作ってしまおう」と考えたのではなかったかと想像する。だからある意味で、これらの多重録音による演奏はトリスターノの理想のジャズを具体化したものだったとも言える。だが多重録音と速度調整という「操作」をしたことで、ジャズ即興演奏の即時性に反するという理由だと思うが、当時彼のAtlantic盤は批評家などから酷評された。その後しばらく経った1962年に、これらの演奏の延長線として、録音操作無しの完全ソロ・ピアノによるアルバム「ザ・ニュー・トリスターノThe New Tristano」(Atlantic)を発表して、自らの芸術的理想をついに実現したのである。

前作の演奏加工への批判に対する挑戦もあり、1曲を除き、完全なソロ・ピアノである。疾走する左手のベースラインと右手の分厚いブロック・コードを駆使して、複雑なリズム、メロディ、ハーモニーを一体化させてスウィングすべく、一人ピアノに向かって「自ら信じるジャズ」を演奏する姿には鬼気迫るものがあっただろうと想像する。盲目だったが彼の上半身は強靭で(ゴリラのようだったと言われている)、その強力なタッチと高速で左右両手を縦横に使う奏法を可能にしていた。収録された7曲のうち<You Don’t Know What Love Is>以外は「自作曲」だが、このアルバムに限らずトリスターノは、既成曲のコード進行に乗せてインプロヴァイズした別のLine(メロディ)に別タイトルをつけるので、原曲はほとんどスタンダード曲である。この姿勢が彼のジャズに対する思想(「即興」こそがジャズ)を表している。たとえば <Becoming>は<What Is This Thing Called Love>,<Love Lines>は<Foolin’ Myself>,<G Minor Complex>は<You’d Be So Nice To Come Home To> などだ。原曲がわかりやすいものもあれば、最初からインプロヴァイズしていて曲名を知らなければわからないものもある。同じく<Scene And Variations>の原曲は <My Melancholy Baby> で、<Carol>、<Tania>、<Bud>という3つのサブタイトルは彼の3人の子供の名前だ。Budは当然ながら、崇拝していたバド・パウエルにちなんで名づけたものだ。クールでこわもて風トリスターノの人間味を感じる部分である。

不特定の客が集まる酒を扱うクラブでの演奏を嫌がり、売上至上主義の商売に批判的で、その手助けをしたくない、というトリスターノの姿勢は若い頃シカゴ時代から基本的に変わらなかった。未開の領域で、自身の信じるビバップの次なるジャズを創造するという姿勢がより強固になっていった40年代後半以降、この傾向はさらに強まる。ジャズという音楽、アメリカという国の成り立ちを考えると、これが如何に当時の音楽ビジネスの常識からかけ離れていたかは明らかだろう。ニューポート・ジャズ祭への出演要請も事前の手続き上のトラブルから断ったりしているが、60年代のヨーロッパでのライヴなど、コンサート形式ならたとえpayが低くても基本的に参加する意志はあったようだ。しかし、クラブでも、コンサート・ホールでもその数少ないライヴ演奏記録は常に新鮮でスリリングな最高のジャズである。ただし、その音楽が本質的に内包する高い緊張感と非エモーショナルな性格から、ジャズにリラクゼーションを求める層に受けないのは昔も今も同じだろう