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2020/12/13

スティーヴ・レイシーを聴く #2

スティーヴ・レイシーが1965年に米国を去る前に残した(正式にリリースされた)リーダー作は4枚で、その昔、私が聞いていたレイシーのレコードも、実を言えば、それらのアルバムだけだ。離米直前の本書#4のインタビュー(さよならニューヨーク)で「過去のレコードはもう聴きたくないし、これからも聴かないだろう」と語っているように、60年代に入ると、自分が今現在追及している音楽は見向きもされず、録音はおろか演奏の場さえなかった当時のレイシーは過去を振り返るような気分でもなく、またそんな余裕もなかったのだろう。50年代後半から60年代初めにかけての、当時レイシーが研究していたモンク作品を中心にしたこれら4枚のアルバムは、まだレイシー自身の音楽を確立していない習作というべきものだ。とはいえ、それだけに、ハードバップからモード、フリーへと急速に変化しつつあった当時のジャズを背景に、今は上掲の2枚のCDに収まっている、まだ発展途上にあった若きレイシーの瑞々しいソプラノサックスのサウンドの変化を聴くのは楽しい。またレイシー自身も後年のインタビューでは、こうした若い時代の演奏を肯定的に振り返るようになっている(たいていのジャズ・ミュージシャンは、年を経ることで自分の過去の演奏への見方を変えるようだ)。

1957年のギル・エヴァンス盤の録音(9, 10月)の翌11月にレコーディングされたのが、23歳のレイシーにとって初めてのリーダー作『ソプラノサックス Soprano Sax』(Prestige 1958) である。このメンバーはデニス・チャールズとビュエル・ネイドリンガーというセシル・テイラーのグループのメンバーに、ピアニストとしてウィントン・ケリーWynton Kelly (1931-71) が加わったカルテット編成で、モンク作の1曲(Work)を除き、エリントン(Day Dream他)、コール・ポーター(Easy to Love) の作品など、スタンダード曲を中心に演奏したアルバムだ。曲目に加え、初リーダー作の録音で緊張していたこともあって、セシル・テイラーやギル・エヴァンスとの前記2作品に比べてやや無難な演奏に終始している印象がある。レイシーのソプラノサウンドは相変わらず滑らかでメロウだが、とにかく全員が冒険していない普通のハードバップ時代の演奏のように聞こえる。サウンド的に、やはりウィントン・ケリーのピアノの影響が大きいのだろう。中ではモンク作<Work>のサウンドだけが異彩を放っていて、やはりいちばんレイシーらしさが感じられる演奏だ。とはいえ、1曲目の<Day Dream>のレトロなイントロとメロディが滑らかに流れてくると、どこか懐かしい音にホッとしてなごむ。ご本人は満足していなくとも、私的には十分楽しめるアルバムだ。

初リーダー作の1年後、1958年10月に録音されたのが『リフレクションズ Reflections』(New Jazz 1959) である。当時モンク作品を演奏していた人間はほとんどいなかったそうで、アルバム・レベルでモンクの曲を複数取り上げた最初のミュージシャンは、実はフランスのバルネ・ウィランだった(『Tilt』1957)。レイシーのこのアルバムは全曲がセロニアス・モンク作品という世界初の試みであり、しかも<Four in One>、<Bye-Ya>、<Skippy>といった、モンクの中でも難しそうな曲ばかり取り上げているところにも、レイシーの意気込みが伺える。ここでは、ピアノに気心の知れたマル・ウォルドロン、ドラムスにまだコルトレーン・バンドで売り出し前のエルヴィン・ジョーンズというメンバーに声を掛けている。レイシーと音楽的相性の良さが感じられるこの二人が、本アルバムの出来に大きく寄与していることは間違いない(マル・ウォルドロンとレイシーは、ヨーロッパ移住後も親しく交流していた)。ところで本書のレイシーの話では、実はベースはネイドリンガーではなく、当時モンク・バンドのレギュラー・ベーシストだったウィルバー・ウェアの予定だったが、ウェアがリハーサルに現れなかったので(例によって飲み過ぎか?)、ピンチヒッターとして急遽ネイドリンガーを呼んだのだという(もしウェアが参加していたら、もっと良い作品になった可能性があるとレイシーは言っている……)。しかしモンク作品に集中し、その後のレイシーの音楽上の道筋を明確にしたという点からも、いずれにしろこのアルバムは50年代レイシーの記念碑と言うべき作品だろう。リズミカルな難曲に加え、<Reflections>と<Ask Me Now>というモンクの代表的バラードを2曲選んだところもいい。モンク自身でさえ、当時はあまり演奏しなくなったような曲まで選んだこのレコードをレイシーから献呈されて、モンクは喜び、演奏も褒めてくれたらしい。ついでに40年代末のブルーノート盤以来10年間演奏していなかった<Ask Me Now>を、その後は自分でもレパートリーとして取り上げるようになったのだという。

 1960年5月にジミー・ジュフリー Jimmy Giuffre (1921-2008) とカルテットを組んで、短期間「ファイブ・スポット」に出演したレイシーだったが、ジュフリーのコンセプトと折り合わず、そのグループは長続きしなかった。しかし、オーネット・コールマンの前座だった、わずか2週間のその出演時にレイシーを聴きに来たのがニカ夫人にけしかけられたモンクであり、もう一人がジョン・コルトレーンだった。その演奏を聴いたモンクは、(ジュフリーGの演奏は気に入らなかったようだが)その後自分のカルテット(チャーリー・ラウズ-ts、ジョン・オア-b、ロイ・ヘインズ-ds)にレイシーを加えて ”クインテット” を編成し、テルミニ兄弟が「ファイブ・スポット」に加えて出店したクラブ「ジャズ・ギャラリー」に、4ヶ月にわたって出演した。そして「ファイブ・スポット」でレイシーのソプラノサックスのサウンドを聴いたコルトレーンは、その後自分でもソプラノを吹き始めた。その年の11月に録音されたレイシー3作目のリーダー・アルバムが、『ザ・ストレート・ホーン・オブ・スティーヴ・レイシーThe Straight Horn of Steve Lacy』(Candid 1961) である。メンバーを一新して、チャールズ・デイヴィスのバリトンサックスとレイシーのソプラノの2管、ベースにはジョン・オア、ドラムスにはロイ・ヘインズという当時のモンク・バンドのリズムセクションという異色の編成で ”ピアノレス” カルテットに挑戦したレコードだ。これは2管のモンク・クインテットとして、「ジャズ・ギャラリー」で夏の4ヶ月間演奏した直後のタイミングなので、モンク直伝のサックス2管によるユニゾン・プレイなど、当然そのときのモンク・バンドの編成とメンバーから生まれたアイデアに基づくアルバムと考えていいのだろう。選曲は、相変わらずモンクの難曲3曲<Introspection>、<Played Twice>、<Criss Cross>を選び、セシル・テイラーの2曲<Louise>、<Air>と、1曲だけマイルスの<Donna Lee>(パーカー作という説もある)を取り上げているが、モンクのグループとの共演直後ということもあって、レイシーの創作意欲と挑戦的姿勢がとりわけ感じられる作品だ。オーネット・コールマンの登場後でもあり、レイシーが60年代フリー・ジャズへと向かう兆しがはっきりと聞き取れるのがこのアルバムでの演奏だ。

米国でのレイシー最後のリーダー作となったのが、モンクの曲をタイトルにした1961年11月録音の『エヴィデンス Evidence』(Prestige 1962)だ。オーネット・コールマンのグループにいて、レイシーと個人的に親しかったトランペットのドン・チェリー Don Cherry(1936-95)、同じくオーネットのグループにいたビリー・ヒギンズ Billy Higgins (1936-2001) をドラムスに、モンク作品を4曲(<Evidence>, <Let’s Cool One>, <San Francisco Holiday>, <Who Knows>)、エリントンを2曲(<The Mystery Song>、<Something to Live for>) 選曲している。同世代のドン・チェリーは、レイシーが兄弟のようだったというほど一緒に自宅で練習した仲で、フリー・ジャズへ向かうレイシーに音楽的ショックと強い影響を与えたプレイヤーであり、レイシー同様チェリーも60年代からヨーロッパで活動し、70年代に移住した。当然ながら、このアルバムで聴けるのは、モンクの影響圏から脱出し、いよいよフリー・ジャズへ向かって飛び立とうと助走に入ったレイシーの音楽である。レイシー自身、米国時代のアルバムの中では、ギル・エヴァンスとの共演盤と並んで本作をもっとも評価している。

ところで、他のメンバーに比してこのアルバムのベーシストが、「カール・ブラウン Carl Brown」というまったく聞いたことのない奏者なので、今回あらためて背景を調べてみた。アメリカのネット上のジャズ・フォーラムで、同じ質問をしている人がいて、何人かがコメントしている。これは当時オーネットと共演していたチャーリー・ヘイデン Charlie Haden (1937-2014)  が、何らかの理由で偽名で録音したのではないか、という意見もあって(ナット・ヘントフのライナーノーツに、ビリー・ヒギンズがレイシーに紹介したと書かれていることもあり)、関係者がいろいろ過去の話をしているのだが、結論はやはりヘイデンとは別人の実在したベーシストだったらしい。いくつか証拠(evidence) もあって、Atlantic向けにレイシーがヒギンズとトリオで録音した、以下の未発表音源3曲のメンバーにもカール・ブラウンの名前が記載されていることも、証拠の一つとしてあげられている。このときはAtlanticにドン・チェリーも録音していたそうだが、いずれもオクラ入りとなってリリースされなかったのだという。いずれにしろ、60年代に入ってからのレイシーの意欲的な2作は、当時は音楽的に過激すぎてまったく注目されずに終わったのだという。

[NYC, October 31, 1961 ; 5749/5752 Brilliant Corners Atlantic unissued;  Steve Lacy (ss), Carl Brown (b), Billy Higgins (ds) ; <Ruby, My Dear>, <Trinkle, Tinkle>, <Off Minor>]

2020/10/25

訳書『スティーヴ・レイシーとの対話』出版

表題邦訳書が10月末に月曜社から出版されます。

20世紀に生まれ、100歳を越えた音楽ジャズの歴史は、これまでに様々な視点や切り口で描かれ、もはや語り尽くされた感があります。しかし「即興 (improvisation)」 こそが音楽上の生命線であるジャズは、つまるところ、限られた数の優れた能力と個性を持つ「個人」が実質的に先導し、進化させてきた音楽です。こうした見方からすると、ジャズ史とは、ある意味でそれらのジャズ・ミュージシャンの「個人史」の総体であると言うこともできます。大部分がミュージシャン固有の知られざる実体験の集積である個人史は、その人の人生で実際に起きたことであり、ジャズの巨人と呼ばれた人たちに限らず、多くのジャズ・ミュージシャンの人生には、これまで語られたことのない逸話がまだ数限りなくあります。そこから伝わって来るのは、抽象的な、いわゆるジャズ史からは決して見えてこない事実と、時代を超えて現代の我々にも響く、普遍的な意味と価値を持つ物語やメッセージです。変容を続けた20世紀後半のジャズの世界を生き抜いた一人の音楽家に対して、半世紀にわたって断続的に行なわれたインタビューだけで構成した本書は、まさにそうした物語の一つと言えます。

スティーヴ・レイシー (Steve Lacy 1934-2004) は、スウィング・ジャズ時代以降ほとんど忘れられていた楽器、「ソプラノサックス」をモダン・ジャズ史上初めて取り上げ、生涯ソプラノサックスだけを演奏し続けたサックス奏者 / 作曲家です。また「自由と革新」こそがジャズの本質であるという音楽哲学を生涯貫き、常に未踏の領域を切り拓くことに挑戦し続けたジャズ音楽家でもあります。1950年代半ば、モダン・ジャズが既に全盛期を迎えていた時代にデビューしたレイシーは、ジャズを巡る大きな時代の波の中で苦闘します。そして1965年に30歳で故郷ニューヨークを捨ててヨーロッパへと向かい、その後1970年から2002年に帰国するまで、33年間パリに住んで音楽活動を続けました。本書は、そのスティーヴ・レイシーが米国、フランス、イギリス、カナダ他の音楽誌や芸術誌等で、1959年から2004年に亡くなるまでの45年間に受けた34編のインタビューを選び、それらを年代順に配列することによって、レイシーが歩んだジャズ人生の足跡を辿りつつ、その音楽思想と人物像を明らかにしようとしたユニークな書籍です。本書の核となるPART1は、不屈の音楽哲学と音楽家魂を語るレイシーの名言が散りばめられた34編の対話集、PART2は、ほとんどが未発表のレイシー自筆の短いノート13編、PART3には3曲の自作曲楽譜、また巻末には厳選ディスコグラフィも収載されており、文字通りスティーヴ・レイシーの音楽人生の集大成と言うべき本となっています。

原書は『Steve Lacy; Conversations』(2006 Duke University Press) で、パリから帰国してボストンのニューイングランド音楽院で教職に就いたレイシーが2004年に亡くなった後、ジェイソン・ワイス Jason Weiss が編纂して米国で出版した本です。編者であるワイスは、1980年代初めから10年間パリで暮らし、当時レイシーとも親しく交流していたラテンアメリカ文学やフリー・ジャズに詳しい米国人作家、翻訳家です。本書中の何編かの記事のインタビュアーでもあり、また全体の半数がフランス語で行なわれたインタビュー記事の仏英翻訳も行なっています。「編者まえがき」に加え、各インタビューには、レイシーのその当時の音楽活動を要約したワイス執筆の導入部があり、全体として一種のレイシー伝記として読むことができます。

一人のジャズ・ミュージシャンの生涯を、ほぼ「インタビュー」だけで構成するという形式の書籍は、知る限り、私が訳した『リー・コニッツ』だけのようです。しかしそれも、数年間にわたって一人の著者が、「一対一の対話で」集中的に聞き取ったことを書き起こしたもので、本の形式は違いますがマイルス・デイヴィスの自叙伝もそこは同じです。それに対し本書がユニークなのは、45年もの長期間にわたって断続的に行なわれたインタビュー記事だけで構成していることに加え、インタビュアーがほぼ毎回異なり、媒体や属する分野、職種が多岐にわたり(ジャズ誌、芸術誌、作家、詩人、音楽家、彫刻家…他)、しかも国籍も多様であるところです。このインタビュアー側の多彩な構成そのものが、結果的にスティーヴ・レイシーという類例のないジャズ音楽家を象徴しており、それによって本書では、レイシーの人物とその思想を様々な角度から探り、多面的に掘り下げることが可能となったと言えます。ただし、それには聞き手はもちろんのこと、インタビューの受け手の資質も重要であり、その音楽哲学と並んで、レイシーが鋭敏な知性と感性、さらに高い言語能力を備えたミュージシャンであることが、本書の価値と魅力を一層高めています。

本書のもう一つの魅力は、レイシーとセロニアス・モンクとの音楽上の関係が具体的に描かれていることです。モンクの音楽を誰よりも深く研究し、その真価を理解し、生涯モンク作品を演奏し続け、それらを世に知らしめた唯一の「ジャズ・ミュージシャン」がスティーヴ・レイシーです。私の訳書『セロニアス・モンク』(ロビン・ケリー)は、モンク本人を主人公として彼の人生を描いた初の詳細な伝記であり、『パノニカ』(ハナ・ロスチャイルド)では、パトロンとしてモンクに半生を捧げ、彼を支え続けたニカ男爵夫人の生涯と、彼女の視点から見たモンク像が描かれています。そして本書にあるのが三番目の視点――モンクに私淑して師を身近に見ながら、その音楽と、音楽家としての真の姿を捉えていたジャズ・ミュージシャン――というモンク像を描くもう一つの視点です。レイシーのこの「三番目の視点」が加わることで、謎多き音楽家、人物としてのモンク像がもっと立体的に見えて来るのではないか、という期待がありました。そしてその期待通り、本書ではレイシーがかなりの回数、具体的にモンクの音楽と哲学について語っており、モンクの楽曲構造の分析とその裏付けとなるレイシーの体験、レイシー自身の演奏と作曲に与えたモンクの影響も明らかにされています。ニューヨークのジャズクラブ「ファイブ・スポット」と「ジャズ・ギャラリー」を舞台にした、ニカ夫人とモンク、レイシーの逸話、またソプラノサックスを巡るレイシーとジョン・コルトレーンの関係など、1950年代後半から60年代初頭にかけてのジャズシーンをリアルに彷彿とさせるジャズ史的に貴重な逸話も語られています。そして何より、モンクについて語るレイシーの言葉には常に温かみがあり、レイシーがいかにモンクを敬愛していたのかが読んでいてよく分かります。

本書で描かれているのは、ジャズの伝統を継承しつつ、常にジャズそのものを乗り越えて新たな世界へ向かおうとしたスティーヴ・レイシーの音楽の旅路と、その挑戦を支えた音楽哲学です。20世紀後半、世界とジャズが変容する中で苦闘し、そこで生き抜いたレイシーの音楽形成の足跡と、独自の思想、哲学が生まれた背景が様々な角度から語られています。レイシーが生来、音楽だけでなく写真、絵画、演劇などの視覚芸術、文学作品や詩など言語芸術への深い関心と知識を有するきわめて知的な人物であったこと、それら異分野芸術と自らの音楽をミックスすることに常に関心を持ち続けていた音楽家であったことも分かります。後年のレイシー作品や演奏の中に徐々に反映されゆくそうした関心や嗜好の源は、レイシーにとってのジャズ原体験だったデューク・エリントンに加え、セシル・テイラー、ギル・エヴァンス、セロニアス・モンクという、レイシーにとってモダン・ジャズのメンターとなった3人の巨匠たちで、彼らとの前半生での邂逅と交流が、その後のレイシーの音楽形成に決定的な影響を与えます。

さらにマル・ウォルドロン、ドン・チェリー、ラズウェル・ラッドなど初期フリー・ジャズ時代からの盟友たち、テキストと声というレイシー作品にとって重要な要素を提供した妻イレーヌ・エイビ、フリー・コンセプトを共同で追求したヨーロッパのフリー・ジャズ・ミュージシャンや現代音楽家たち、テキストやダンスをミックスした芸術歌曲(art song)や文芸ジャズ(lit-jazz) を共作したブライオン・ガイシン他の20世紀の詩人たち、ジュディス・マリナや大門四郎等の俳優・ダンサーたち、富樫雅彦や吉沢元治のような日本人前衛ミュージシャン――等々、スティーヴ・レイシーが単なるジャズ即興演奏家ではなく、芸術上、地理上のあらゆる境界線を越えて様々なアーティストたちと交流し、常にそこで得られたインスピレーションと人的関係を基盤にしながら、独自の芸術を形成してゆく多面的な音楽家だったこともよく分かります。

翻訳に際しては、いつも通り、原文の意味が曖昧に思える箇所は著者にメールで質問して確認しています。ワイス氏によれば、本書は英語版原書と今回の日本語版の他は、数年前にイタリア語版が出版されただけで、オリジナル記事の半数がフランス語のインタビューであるにもかかわらず、フランス語版は出ていないそうです(イタリアのおおらかさと、フランス国内で芸術活動をする《アメリカ人》に対するフランス的反応のニュアンスの対比は、本書中のレイシーの発言からも想像できます)。

なお、この本はレイシーの音楽人生と思想に加え、フリー・ジャズを含めた曲の構造とインプロヴィゼーションの関係、またソプラノサックスとその演奏技術に関するレイシーの哲学や信念など、ジャズに関わる専門的なトピックもかなり具体的に語られています。そこで今回は、サックス奏者で批評家でもある大谷能生さんに、プロのミュージシャンの視点から、レイシーとその音楽に関する分析と考察を別途寄稿していただくことにしました。タイトルは『「レイシー・ミュージック」の複層性』です。どうぞ、こちらもお楽しみに。

(*) 月曜社のHP/ブログもご参照ください。https://urag.exblog.jp/240584499/

2020/04/11

モンクとニカとフランス

セロニアス・モンクとニカ夫人(パノニカ)の物語は、アメリカの天才黒人ミュージシャンと、イギリスのユダヤ系大富豪ロスチャイルド本家出身の男爵夫人が、20世紀アメリカで生まれた新しい音楽ジャズを介して、人種、貧富、地理的制約を超えた不思議な友情を生涯にわたって築いてゆくという、「事実は小説よりも奇なり」を地で行く実話である。活字でノンフィクション・ノベル化もできるだろうし、あるいは、ジャズを愛する映像作家とかコミック作家が、この壮大で不思議な物語を何とかヴィジュアル化してくれないものだろうか……とノンフィクションである『パノニカ』を翻訳中から思っていた。ところが、それをヴィジュアル化したコミックが実際に2018年に登場していた。

ユーセフ・ダウディ Youssef Daoudi というフランス在住の漫画家兼イラストレーター(モロッコ出身らしい)が、モンクとニカ夫人の人生と友情、当時のジャズの世界を、世界で初めて「コミック」として描いたのが、『Monk!: Thelonious, Pannonica, and the Friendship Behind a Musical Revolution』(2018 First Second /US) だ。英語では Graphic Novelと呼ぶらしい「大人向けのストーリー漫画」で、日本の漫画に比べるとセリフが少なく、絵でイメージを表現する傾向が強い抽象的な漫画と言えようか。私が買ったのは英語版の立派なハードカバー製の本で(電子版も、フランス語版もあるようだ)、素人目で見ても、金色を入れた2色刷りの美しくオシャレなコミックで、表紙絵に見るように、モンク独特の動き、ダンスを捉えたアーティスティックな絵もなかなか素晴らしい。海外のコミックと日本のコミックとの画風、作風の本質的違いはよく分からないが、この作品は絵柄が緻密で、大人っぽい。日本のジャズ漫画というと、昔はまずラズウェル細木のジャズマニア系ギャグ漫画があったし、ストーリー漫画としては『坂道のアポロン』(小玉ユキ)、現在も連載中の『Blue Giant』(石塚真一)などがあるが、この『Monk!』のようにグラフィック系の絵柄で、かつノンフィクション・ノベルのように実在のモデルを描いたストーリー系ジャズ漫画はこれまでなかっただろう。

物語は、マンハッタンからリンカーン・トンネルを抜けてウィーホーケンの自邸に向かうニカのクルマ(ベントレー)のカーラジオから、1981年のレーガン大統領暗殺未遂事件のニュースが聞こえてくるシーンから始まる(ニカは60歳代後半、モンクが亡くなる1年前という設定だ)。ニカ邸の自室ベッドで、きちんとスーツを着たまま相変わらず天井を見つめて横たわっているモンクに、帰宅したニカが「ピアノを弾いたら…」と勧める短い会話から、徐々に二人の回想シーンへと移って物語が展開してゆく。私が翻訳した『セロニアス・モンク』、『パノニカ』他のノンフィクション作品で描かれてきた事実や、逸話や、言葉から主要部分を抽出してストーリーとして上手にまとめ、それを詩的な絵と文学的な表現でヴィジュアル化している。したがって個人的には既視感と共に、伝記による活字の記憶と絵が一体となって、イメージしていたモンクやニカ夫人の姿が立ち現れ、あたかも実際に動き出したような気がして、読んでいて非常に楽しかった(ただしセリフは短いが英語なので、微妙な意味は翻訳しないと分からないが)。人間モンクとパノニカの苦悩、二人の友情も抽象的ながらよく表現されていると思う。またニューヨークの風景や、ジャズクラブの喧騒、ミュージシャンたちの姿と表情、演奏しているサウンド……など、画面からジャズがそのまま聞こえてくるようなリアルな描写も素晴らしい(このへんは、先輩格の『Blue Giant』の画風の影響もあるのか?)

Solo on Vogue
1954 Paris
アメリカでなかなか売れずに苦労していたセロニアス・モンクが、ヨーロッパ・デビューしたのが36歳のとき、1954年6月のパリ・ジャズ祭だった。フランス人男爵で外交官の夫と、その当時離婚を考えていたニカ夫人は、そのときニューヨークを離れ、実家のあるイギリスに帰省中だった。1951年に、兄ヴィクターのピアノの先生だったテディ・ウィルソンから教えられ、衝撃を受けた<Round Midnight>を作曲し、ブルーノートに録音した男セロニアス・モンクに一目会いたいと、ニカはニューヨーク中のジャズクラブを探したが、キャバレーカードを剥奪され、クラブ出演できなかったモンクに、それまで一度も会えないでいた。パリの「サル・プレイエル」にモンクが初出演することを知ったニカは、友人の著名な女性ジャズ・ピアニストで、モンクとも親しかったメアリ・ルー・ウィリアムズと一緒に急遽ロンドンからパリに飛ぶ。メアリ・ルーを介した、この1954年のパリにおける二人の運命的な出会いをきっかけにして、以降ニカ夫人は1982年にモンクが亡くなるまで、彼を支援し続けることになる。このとき、モンクのファンだったフランス人プロデューサーのシャルル・ドロネー (1911-88) が、フランス放送協会のラジオ番組向けに急遽現地録音したソロ演奏が、後にリリースされたモンク初のソロ・アルバムにして名盤『Solo on Vogue』である。ドロネーはその後も、モンク作品を中心にしたレコードをバルネ・ウィラン(ts)を使って制作するなど、モンクの音楽を好んでいた。

フランスとジャズの結びつきはニューオーリンズ植民地時代以来の歴史的なものである。1950年代になると、シドニー・ベシェ、ケニー・クラーク、デクスター・ゴードン、バド・パウエルなどが、人種差別の激しいニューヨークを離れて、彼らを芸術家として遇してくれるパリに次々と移住する。その後ヌーベルバーグと呼ばれた斬新な手法のフランス映画が、ジャズをサウンドトラックとして使用するようになり、MJQ、マイルス・デイヴィス、アート・ブレイキー、そしてモンク(1959『危険な関係』)も広く知られるようになる。さらに、シドニー・ベシェに憧れてソプラノサックス奏者となり、モンクの音楽を徹底的に研究して全曲モンク作品のアルバム『Reflections』(1959) を録音し、ついにニカ夫人の推薦でモンクのグループに一時期在籍していたのがスティーヴ・レイシー Steve Lacy (1934-2004) である。フリー・ジャズ時代の1965年に、米国を離れてヨーロッパへと向かったレイシーは、1970年にパリに移住すると、そのまま30年以上にわたってパリに住み続け、その間モンク作品を何度も取り上げた。このように、ジャズ全体とフランスの関係はもちろんのこと、モンクとフランスも歴史的、音楽的、運命的に奇妙に深いつながりがある。そして、上記のコミックや、以下の伝記、レコードのように、その後もモンクとフランスの不思議な関係は続くのである。

セロニアス・モンク
ローラン・ド・ウィルド
1997 音楽之友
謎多きモンクを描いた最初の評伝は、1987年のドイツ人批評家トーマス・フィッタリングのドイツ語版の本(英語版は1997年)である(ただし、この本の半分はモンクのレコード評だ)。次に出版されたのがフランス人ジャズ・ピアニスト、ローラン・ド・ウィルド Laurent de Wilde (1960-) による、フランス語版の『MONK』(1996 L'Arpenteur /Gallimard)である。ド・ウィルドは、米国のワシントンDCで生まれたフランス人で、幼少時からフランスで育ち、パリの名門高等師範学校で哲学、文学を専攻して卒業した後、米仏を行き来しながらジャズ・ピアニスト、作曲家として演奏活動を行なってきたミュージシャンだ。そのド・ウィルドが崇拝するモンクを描いたこの本は、パリのカフェ「ドゥ・マゴ Les Deux Magots」主催の音楽書籍賞である第1回ペレアス賞を受賞し、多言語に翻訳されている(邦訳版は『セロニアス・モンク:沈黙のピアニズム』1997年 音楽之友社/水野雅司訳)。本国アメリカ人による英語版評伝は、1997年に女性伝記作家レスリー・ゴースが書いた『Straight, No Chaser』が最初だが、英語版の決定版というべき本は、歴史学者ロビン・ケリーによるモンク伝記『Thelonious Monk』(2009年) である。この本は、膨大な事例や史料を学者らしく一つ一つ検証し、それらをジグソーパズルのパーツのように埋め込みながら、人間モンクとその生涯、彼を支えた周囲の人たちを、アメリカ黒人史を背景とした大きな物語として描いた典型的な伝記だ。それに対して、音楽家モンクを「100年に1人の天才」と呼ぶド・ウィルドの作品は伝記的部分を織り込みながらも、モンク・フリークのジャズ・ピアニストである著者が、主として芸術的、技術的、美学的視点から観察、分析したモンクの天才性を、賞賛を込めて描いた「私的モンク論」というべき内容の本だ。

モンクの「音楽」をここまで詳細に語った本は他にないと思われるが、本書(邦訳版)は絶版なので、私が読んだのは中古本を入手したつい最近のことである。フランス語的表現のゆえか、あるいは著者の原文の特徴のせいなのか、少し直訳的な硬い表現、文章ではあるものの、ジャズの演奏、技術、魅力を伝える独特の文学的筆致には、対象に近接したマクロ写真を見るように細部を浮かび上がらせる不思議な味わいがある。伝記としてモンクの全体像を本書に求めるのは無理があるが、ジャズ音楽家としてのモンクの天才性と、彼が創出した独創的音楽の「本当のすごさ」が具体的に伝わってくる緻密な表現は、モンクを敬愛するジャズ・ピアニストなればこそだろう(上記コミック『Monk!』にも、ド・ウィルドが分析したモンクのピアノ奏法の特色と思われる部分が登場している)。読んでいると、斬新ないくつかのモンク解釈に加え、ド素人的にも著者の考えに同意できること、頷ける点がたくさんあって、たぶんそうだろうと思っていたモンクのすごさとその美点が、ジャズ・ピアニストによる詳細な説明で再確認できる。したがってジャズをよく知り、モンクの音楽が好きな人にとっては非常に楽しめる本だ。ロビン・ケリーの実証的モンク伝記と併せて読むと、人間モンクの芸術家としてのイメージがより立体的に浮かび上がる。

New Monk Trio
Laurent de Wilde
2017 GAZEBO
ローラン・ド・ウィルドは、エレクトリック・ピアノによる演奏を含めて、これまでモンク作品を何曲か取り上げてきたが、崇拝するモンク作品の扱いにはずっと慎重だったようだ。しかし自著出版から20年、モンク生誕100年を記念する2017年に、モンク作品だけ(1曲のみ自作)を選んで制作したトリビュート・アルバム『New Monk Trio』をようやくリリースした。Jérôme Regard (b)、Donald Kontomanou (ds)というピアノ・トリオでは、全曲アコースティック・ピアノで以下のモンク作品に挑戦している。スローからアップテンポまで、バラエティに富む選曲だが、モンク作品らしく全体に空間を生かしたモダンな解釈で、やはりどこかフランス的香りのするエレガントな演奏を披露している。
Misterioso /'Round Midnight /Monk's Mood /Thelonious /Pannonica /True Fort /Monk's Mix /Four In One /Reflection /Coming On The Hudson /Locomotive /Friday The 13th

モンク、ニカ夫人とフランスの関係、そしてモンクに対して示してきた「フランス語圏」からの関心とその表現をこうして並べてみると、モンクは、ニューヨークはもちろんだが、背景としてのパリが誰よりもよく似合うジャズマンだという気がする。完璧な構造なのに、全体の造形がどことなく歪んで見え、予期せぬハーモニーや不思議なリズムで構成された「当たり前でない」モンクの音楽、モンクの自由、モンクの美は、アメリカよりも、むしろフランス的美意識、フランス的価値観こそが真に理解し、愛することができる世界なのかもしれない。

2019/02/17

モンク作 "パノニカ Pannonica" を聴く

今日でブログを始めてちょうど2年経った。内容はともかく、よく続いたものだ。ちなみに、本日217日はセロニアス・モンク(1982年没)の命日である。

ニカとモンク
photo by Moneta Sleet Jr.
(1960s)
ジャズ本の翻訳中は、その本の主人公に関連するレコードを聴きながら作業している。そうすると主人公の人物像、物語や思想のイメージが “降りて来る” 気がして、文章の背景や意味がより正確に理解できるように思えるからだ。『リー・コニッツ』のときは、コニッツ、レニー・トリスターノ、ウォーン・マーシュなどトリスターノ派の音楽を中心に聴き、『セロニアス・モンク』のときは当然モンクのレコードをずっと聴いていた。今回出版した『パノニカ』の翻訳中は、主人公がジャズ・ミュージシャンではなく、しかも前半のロスチャイルド家に関する部分は、イギリスを中心としたヨーロッパの富豪の物語なので、ジャズではなく、どうしてもクラシック音楽が聴きたくなり、珍しくずっとクラシックを聴いていた。だが後半のニューヨーク時代は、主にジャズ・ミュージシャンたちからニカ夫人に捧げられたジャズ曲を選んで聴いていた。本書巻末には彼女に捧げられた20曲のリスト(実際は計24曲と言われている)が掲載されており、モンクの他にも、ソニー・ロリンズ、ホレス・シルヴァー、ソニー・クラーク、ケニー・ドリュー、ダグ・ワトキンス、トミー・フラナガン、バリー・ハリスなど、多くの有名ミュージシャンの名前とニカ夫人にちなんだ曲名が挙げられている。それぞれがニカ夫人のイメージを自分なりに捉え、それを音楽にしているので、比較しながら聴くと非常に興味深いが、同時に彼女がいかに多くのジャズ・ミュージシャンたちから愛されていたのかが想像できる。

Les Liaisons Dangereuses 1960
1959/2017 (Sam Records)
とは言え、訳書『パノニカ』に書かれたニカ夫人の人物としてのイメージを、もっとも生きいきと捉えた曲は、やはり彼女に捧げられた初めての曲であり、モンク自身が作った<パノニカ Pannonica>だろう。モンクの才能と、二人の関係の密度が桁違いなので、これは仕方がない。どことなくアンニュイな響きを持つこの曲のメロディと独特のリズムは、“蝶” のように軽やかに、あでやかにあてどなく飛んで行くニカ夫人のイメージそのものだ。風景や人物のイメージを、音の世界で常に見事に描き出すモンクはやはり天才だ。モンクは傑作アルバム『Brilliant Corners』(1957)で<パノニカ>を初演しているが、ソニー・ロリンズのテナー、アーニー・ヘンリーのアルトを加えたクインテットで、モンクはここではピアノとチェレスタを弾いていて、凝った演奏に仕上げている。その後,Les Liaisons Dangereuses 1960 (仏映画危険な関係』サウンドトラック)』(1959録音/2017リリース),『Alone in San Francisco』(1959),『Criss Cross』(1963),『Monk In Tokyo』(1963),『Monk』(1964) と、都合6枚のアルバムでこの曲を取り上げている。例によってi-Tunesでこれを連続再生すると、モンクがこの曲を毎回どう料理しているのか、その違いが聴けて非常に楽しい。演奏はいずれもチャーリー・ラウズのサックス入りのカルテットだが、『Alone……』は、『危険な関係』サウンドトラック音源が2017年に「発掘」されるまで、モンクによるこの曲の唯一のソロ演奏だった。本ブログ別項 (2017/4/14 & 10/23) で詳細を書いた、サウンドトラックとして使用された演奏(2CD)では、カルテットとソロで<パノニカ>を計4テイク録音しているが (カルテットは、チャーリー・ラウズ-ts、サム・ジョーンズ-b、アート・テイラー-ds)、この発掘音源は録音も奇跡的に良く、またどの演奏も楽しめる。昨年見た4K版映画『危険な関係』では、<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>と共に、メイン・テーマとしてずっと流れるモンクの弾く<パノニカ>は、これ以上ない、というほど映画のストーリーと映像にぴたりとはまっていた。この曲をサウンドトラックとして使ったマルセル・ロマーノと、監督ロジェ・ヴァディムのセンスはさすがと言うべきだろう。

Thelonica
Tommy Flanagan
1983 Enja
モンク以外のミュージシャンはどうかと手持ちのCD、レコードを始め、ネット上でも調べてみたが、<ラウンド・ミッドナイト>ほどではないにしても、モンク作品の中では、非常に多くのジャズ・ミュージシャンが取り上げているスタンダード曲になっていることがわかる。モンク音楽の最高の理解者であり、愛弟子とも言えるスティーヴ・レイシー(Steve Lacy 1934-2004)による60年代以降の複数の演奏は当然としても、その他にも、実に多彩なミュージシャンが録音している。私の手持ちレコードでは、やはりトミー・フラナガンのピアノ・トリオ『Thelonica』(1983) に収録された演奏が素晴らしい (ジョージ・ムラーツ-b、アート・テイラー-ds) 。アルバム中唯一のフラナガン自作曲であり、アルバム・タイトルでもある "Thelonica" が表すように、このレコードは、モンクが亡くなった1982年の秋に、トミー・フラナガンがモンク作品だけを演奏して、モンクとニカ夫人の二人に捧げたものである。訳書『パノニカ』には、ニカ夫人がイギリスに住む著者ハナ・ロスチャイルドにアメリカからこのレコードを送った話が出て来る(ニカ夫人の実兄、ヴィクター・ロスチャイルド男爵に聞かせるため)。ごつごつとしたモンク独特の音楽から美しい部分だけを抽出したかのように、<パノニカ>始めどの曲も、まさに流麗なピアノ・トリオに変容させているが、これはこれで実にフラナガンらしいモンク解釈だ。このアルバムは、バド・パウエルの『Portrait of Thelonious』(1961)と並び、同時代のピアニストが心をこめて送った、ニカ夫人とモンクへのもっとも美しいオマージュである。

Now He Sings, Now He Sobs
Chick Corea
1968/CD 2002 Blue Note
 
意外だったのは、チック・コリア(Chick Corea) が<パノニカ>を2回取り上げていることだ。若きコリア2枚目のリーダー作で、ミロスラフ・ヴィトゥス(b)、ロイ・ヘインズ(ds) とのピアノ・トリオによる、今でも斬新なアルバム『Now He Sings, Now He Sobs』(1968LP/2002CD) CD版に追加曲として収録されていている(オリジナルLPは未収録)。もう1枚は『Expressions』(1994) で、こちらはソロ・ピアノである。コリアとモンクの接点はまったく不明だが、上記トリオ作品と同じメンバーによる『Trio Music』(1982)でも、モンク作品をCD1枚分、計7曲演奏しているので、ピアニストとして、モンクに対する何がしかの思いがコリアにはずっとあったのだろう。これらのアルバムでは、独特のモダンなコリア的モンク解釈の世界を聴くことができる。その他のピアニストでは、山中千尋、ホレス・パーラン、シダー・ウォルトン、エリック・リード、菊地雅章といった人たちが<パノニカ>を演奏しているが、特にエリック・リード(Eric Reed) は、2000年代に入ってからモンクをテーマにしたアルバムを3枚リリースしている。<パノニカ>は、ピアノ・トリオによるそのうちの1枚『Dancing Monk』(2011) に収録されているが、山中千尋の『Monk Studies』(2017)と同じく、速いテンポによるユニークで現代的な演奏だ

Carmen Sings Monk
1988 Novus
ピアノ以外では、スティーヴ・レイシーの他にも内外のホーン奏者による演奏も数多い。珍しいのはギターで、比較的最近になってピーター・バーンスタイン(Peter Bernstein) が『Monk』(2008),Signs Live!(2017) という2枚のアルバムで<パノニカ>を取り上げている。前者はギター・トリオによるモンク作品、後者はブラッド・メルドー(p)も参加したカルテットによるライヴ演奏だ。ヴォーカルで唯一と思われるのは、晩年のカーメン・マクレエ (Carmen McRae) のグラミー賞受賞アルバム『Carmen Sings Monk』(1988)だ。チャーリー・ラウズ(一部)とクリフォード・ジョーダンがサックスで参加し、80年代らしいモダンな伴奏をバックに、全曲(alt.を除き14曲)モンクの名曲を唄ったこのアルバムは、カーメン・マクレエにしか表現できない、圧倒的な歌唱によるモンクの世界だ。収録曲の半数に歌詞を書いたジョン・ヘンドリックスが<パノニカ>にも歌詞を付け、<リトル・バタフライ Little Butterfly>というタイトルで唄っている。美しいが、複雑なモンクのメロディに付けられた歌詞を、明快で知的な表現で、余裕でこなすカーメンはやはり本当にすごい歌手である。録音も非常にクリアで、カーメンの正確な歌唱によってモンク作品のメロディがよく聞き取れるので、モンク・ファンだけでなく、普通のジャズ・ヴォーカルとして誰でも楽しめるアルバムだ。モンクは自分の曲に良い歌詞を付けたいという希望をずっと持っていたようなので、生きているときに、旧友ジョン・ヘンドリックスの歌詞、カーメンの歌によるこの素晴らしいヴォーカル・アルバムを聴いたら、きっと大いに気に入ったのではないだろうか。(このアルバムは1988年1,2月に録音され、同年にリリースされているので、その年の11月30日に急死したニカ夫人が聴いた可能性はあるかもしれない。)

2017/11/02

モンクを聴く #15 : Tribute to Monk

MONK'stra Vol.1
John Beasley
(2017 Mack Avenue)
モンク作品を演奏した ”Play Monk” あるいは ”Tribute to Monk” 的レコードは昔からたくさんある。一つは単に楽曲(素材)として取り上げ、比較的有名なモンク作品を、いわゆるジャズ・スタンダードとして演奏した性格のものであり、もう一つはモンクの音楽、あるいは音楽家モンクに対する尊敬や思い入れを込めて、ミュージシャンが自身のモンク作品演奏を通して文字通りトリビュートしたレコードだ。後者としてはスティーヴ・レイシーの作品(1958) が有名だが、日本でもピアニスト八木正生(1932-91) が全曲モンク作品のアルバム『Masao Yagi Plays Thelonious Monk』を作っているし(1959)モンク全盛期にはジョニー・グリフィンとエディ・ロックジョー・デイヴィスが『Lookin’ at Monk!』(1961) を録音し、その後もランディ・ウェストン、チャーリー・ラウズといったモンクと親しかったミュージシャンがアルバムを作っている。だがこうしたモダン・ジャズ時代以降も、様々なジャズ・ミュージシャンがモンクの音楽の再解釈に挑んできた。今年はモンク生誕100年ということもあり、ジョン・ビーズリー John Beasley (1960 -) の「モンケストラ MONK'estra」がビッグバンドで斬新な試みに挑戦しており(残念ながら今週の「ブルーノート」でのライヴは聞き逃した)、日本でも山中千尋が全曲モンク作品ではないが『Monk Studies』(Universal) というトリオ・アルバムを発表している。しかも1950年代、60年代の多くの芸術家たちを魅了したように、汲めども尽きない謎と魅力があるモンクの音楽と、モンクという存在そのものがジャズ以外の音楽、さらには音楽以外の芸術分野のアーティストでさえ未だに触発し続けている。

Reflections
Steve Lacy Plays
Thelonious Monk
(1958 New Jazz)
第21章 p434
モンクを本格的に研究した最初のジャズ・ミュージシャンが、モダン・ジャズ時代におけるソプラノサックスのパイオニア、スティーヴ・レイシー Steve Lacy (1934-2004) で、その2作目のリーダー・アルバムが、全曲モンク作品に挑戦した『リフレクションズ Reflections: Steve Lacy Plays Thelonious Monk』(New Jazz, 195810月録音)だった。(ただし別項に記したように、フランスのテナー奏者バルネ・ウィランは1957年1月に、全曲ではないがモンク作品を6曲取り上げたアルバム『Tilt
を既に録音している。)ビバップではなく、シドニー・ベシェら、ディキシーランドやシカゴスタイルの古い音楽の影響をルーツとするレイシーが、次に向かったのがモンクに触発されていたセシル・テイラーであり、1957年夏にモンクが登場する半年以上前に、「ファイブ・スポット」にテイラー・ユニットのメンバーとして出演している。テイラーというフィルターを通してモンクを知るようにったレイシーが、他の奏者のような比較的分かりやすいモンク作品ばかり取り上げなかったのは当然だろう。同じくモンクの影響を受けていたマル・ウォルドロン(p)、セシル・テイラーと共演していたビュエル・ネイドリンガー(b)、当時新進のドラマーだったエルヴィン・ジョーンズ(ds)というカルテットがこのアルバムで取りあげたのは、タイトル曲<Reflections>の他、<Four in One>,<Hornin’ In>,<Bye-Ya>,<Let’s Call This>,<Ask Me Now>,<Skippy>という計7曲のモンク作品である。1957年のズート・シムズ(ts) による<Bye-Ya>以外は(当時は未発表だったバルネ・ウィランの<Let's Call This>もある)、それまでモンク以外誰も演奏したことがない曲ばかりだった。レイシーはモンク作品のメロディ、ハーモニー、リズムという構造を徹底的に研究することから始め、モンクが実際にはせいぜい20曲程度の常時レパートリーしかなかったのに対して、50曲以上のモンク作品をレパートリーにできるまで自身の中に吸収したと言われている。

レイシーのソプラノサックスは、モンクと同じく一度嵌ると病みつきになるほど個性的だが、そのメロディとサウンドもモンク同様に常に温かく美しい。モンクだけを演奏したレイシー初期のこのアルバムでは、まるで二人のサウンドが合体したかのように聞こえる。モンク・バラードの傑作で、レイシーがシンプルに淡々と吹くタイトル曲<Reflections>の懐かしさ漂うメロディは、シンプルゆえにいつまでも耳に残るほど印象的だ。モンクに傾倒していたレイシーが書き留めたと言われる有名な「モンク語録」も、これまでにも多くが知られ、また本書にもいくつか出て来るが、どれも実に興味深く、ジャズの神髄を捉えた言葉ばかりだ。レイシーがあるインタビューで述べた、「画家ユトリロがパリのモンマルトルを描いたように、モンクはニューヨークという街そのものを音楽で描いていたのだ」、という表現もまたモンクの音楽の本質の一部を捉えた名言だろう。そのレイシーが初めてモンク・クインテットのメンバーとして共演した、19606月からの16週におよぶ「ジャズ・ギャラリー」での貴重な長期ギグを、リバーサイドがまたしても録音しなかったのは返すがえすも悔やまれる。レイシーは60年代を通じて、ピアノレスというフォーマットでモンク作品の探求を続け、1963年にはラズウェル・ラッド(tb)、ヘンリー・グライムス(b)、 デニス・チャールズ(ds)というカルテットで、2作目となる全曲モンク作品のLP『School Days』(Emanem) をライヴ録音で残している(ただし発表されたのは12年後)。その後ヨーロッパ中心の活動を続けた後、1970年代にはパリに移住し、70年代半ばにはプロデューサー間章を仲立ちにして、富樫雅彦(ds)、吉沢元治(b)ら日本のミュージシャンとも共演している。その生涯を通じて、レイシーの音楽の根底にあったのは常にセロニアス・モンクだった。

A Portrait of Thelonious
(Orig.Rec.1961/
1965 Columbia)
第26章 p563
モンク作品を取り上げた中で別格とも言えるレコードが、バド・パウエル (1924-66) 196112月17日にパリで録音したピアノ・トリオ、『A Portrait of Thelonious』である。これはキャノンボール・アダレイがパリでプロデュースした音源で、実際には1965年になってコロムビアからリリースされている。パウエルがモンク作品を演奏したのは1944年のクーティ・ウィリアムズ楽団時代の<Round Midnight>の初録音、トリオでは1947Roostの<Off Minor>(モンクによるブルーノート録音より前である)、1954Verveの<Round Midnight>くらいしか思いつかない。二人は音楽的には師弟関係にあり、兄弟のように親しい間柄でもあり、モンクはパウエルに捧げた代表曲<In Walked Bud>も作曲している(1947年)。モンクの曲を演奏するのに、パウエル以上にふさわしいピアニストはいなかったと思うが、パウエルは意外にもモンクの曲をあまり録音していない(たぶん売れないという制作者側の商業的理由や、モンクの曲を演奏できるミュージシャンがいなかったからだろう)。このアルバムでモンクの曲を取り上げたいきさつはよくわからないが、同じ年1961年4月18日にモンクが7年ぶりにパリ公演を行なって大成功を収め、その時にパウエルとも再会しているので、おそらくそうしたことからモンク作品の案が出て来たのだろう。

アルバム全8曲のうちモンク作品は<Off Minor>,<Ruby, My Dear>,<Thelonious>,<Monk’s Mood>という4曲で、当時の現地レギュラーメンバー、ピエール・ミシュロ(b) とケニー・クラーク(ds) がサポートしており、録音も非常にクリアだ。他のレコードを含めてパリ時代に録音されたパウエルの演奏には、もちろん往年のような凄みや切れ味はないが、モンクがそうだったように、技術の巧拙を超えた晩年の天才にしか表現できない情感があり、当時のパウエルのモンクに対する温かな心情が伝わって来るようなこのレコードが私は昔から大好きだ。特にしみじみとした<Ruby, My Dear>は、この曲のあらゆる演奏の中で最も美しい解釈だと思うし、私はパウエルのこの演奏がいちばん気に入っている。アルバム・ジャケットを飾る抽象画とデザインは、ニカ男爵夫人によるもので、本書に描かれたこの3人の当時の関係を彷彿させる点でも、このレコードからは、単にモンクの曲をパウエルが演奏したということ以上の特別な何かを感じる。本書にも書かれているように、パウエルが亡くなる1年前の1965年、レナード・フェザーとのインタビューで、このレコードの<Ruby, My Dear>の感想を訊かれたモンクが「ノーコメントだ」と答えているのも、モンクの心の中に、言葉にできない当時のパウエルへの様々な思いが去来していたからだろうと思う。

Monk on Monk
T.S.Monk
(1997 N2K Encoded Music)
終章 p66
0
『モンクを聴く』シリーズ最後のアルバムは、人間セロニアス・モンクを最もよく知る男、息子でドラマーのトゥートことT.S.モンク(1949 -)が、父親の生誕80周年に自らプロデュースした『モンク・オン・モンク Monk on Monk』(N2K、1997年2月録音) である。1990年代当時の新旧の大物ミュージシャンが集結し、全曲モンク作品を取り上げた10-12人編成のアコースティック・ビッグバンドよるこのアルバムのモチーフになっているのは、言うまでもなく父親モンクの2回のビッグバンドのコンサートだ(彼は2回とも会場にいたという)。

曲目は以下の8曲で、ほとんどモンクの家族、親族、友人にちなんだ有名曲ばかりを選んでいる。
Little Rootie Tootie/ Crepuscule with Nellie/ Boo Boo’s Birthday/ Dear Ruby (=Ruby, My Dear)/ Two Timer (="Five Will Get You Ten" by Sonny Clark)/ Bright Mississippi/ Suddenly (=In Walked Bud)/ Ugly Beauty/ Jackie-ing

総勢20人を越える参加メンバーも豪華で、編曲したT.S.モンク(ds)、ドン・シックラー(tp)に加え、ホーンはウェイン・ショーター(sax)、グローバー・ワシントJr (ts)、ロイ・ハーグローヴ(fgh)、ウォレス・ルーニー(tp)、アルトゥール・サンドバル(tp) や、父親の旧友デヴィッド・アムラム(fh)、エディ・バート(tb)、クラーク・テリー(tp) などが参加し、各曲でそれぞれが素晴らしいソロを聞かせる。ベースはロン・カーター、デイヴ・ホランド、クリスチャン・マクブライドが、またピアノはハービー・ハンコック、デヴィッド・マシューズに加え、ジェリ・アレン、ダニーロ・ペレスというポスト・モンク世代を代表するピアニストが交代で担当している。そして2曲入ったヴォーカルは、『Underground』(1967) でジョン・ヘンドリックスが歌詞を付けて歌った<In Waked Budを、ダイアン・リーヴスとニーナ・フリーロンが見事なデュエットで聞かせ、モンクが詞を付けたいとずっと思っていた<Ruby, My Dear>をケヴィン・マホガニーが初めて歌詞 (by Sally Swisher) 付きの甘いバラードとして歌っている。モダン・ジャズの香りがまだ比較的残っていた90年代の感覚で、モンクの音楽をアコースティック・ビッグバンドとヴォーカルというフォーマットで多彩に解釈したこのアルバムは、オールスター・バンドにありがちな月並みな演奏ではなく、父親の音楽を内側から捉えていた息子による新鮮なアレンジメントと参加メンバーの素晴らしさで、どの曲も演奏も非常に楽しめる。父モンクの時代とは異なり、楽器の質感が伝わり、見通しも良いクリアな90年代的録音 (by ルディ・ヴァン・ゲルダー) も気持ちが良い。

House of Music
T.S.Monk Band
(1980 Atlantic)
第29章 p654, 終章 p660
T.S.モンクは1977年に立ち上げたR&BのT.S.モンク・バンドを率い、以来ミュージシャンとして活動する傍ら、1984年に早逝した妹バーバラ(ボーボー)・モンクの、亡き父親に改めて光を当てるという遺志を引き継ぎ、セロニアス・モンク財団および同ジャズ学院 (Thelonious Monk Institute of Jazz) を1986年に創設、運営し、次世代のジャズ・ミュージシャンを教育、支援する組織を初めて作るという、米国ジャズ史上画期的な仕事を成し遂げた人だ。『Monk on Monk』がリリースされた1998年にT.S.モンクが受けたインタビューの記事を読んだが、非常に興味深い。モンクに関する本は、当時存命だったネリー夫人が書かない以上、母親が亡くなるまでは手を付けないし、それまでは誰でも書くのは自由だが、モンク家として公認はしないと述べている。その後2002年にネリー夫人が亡くなったことで、ロビン・ケリー教授の本書(2009年出版)を初めてモンク財団として公認し、執筆にあたって資料提供なども協力したということのようだ。(オリン・キープニューズの息子がモンク伝記を書くという噂がずっとあったが、本書で書かれたモンクとキープニューズの関係を知ると、それは難しそうだったということはわかる。ただし真の理由は不明だが)。彼が最も影響を受けたドラマーは、常に身近にいてその下で修行もしたマックス・ローチ(1924-2007) よりも、むしろアート・ブレイキー(1919-90) だという。自らバンドを率いてきたこともあって、ブレイキーは単なるドラマーでなく、ジャズ・メッセンジャーズというバンドのリーダーとしてずっとチームを率いてきたからだ、というのがその理由だ。昔のジャズ・スターはみなそうした「バンド」から生まれて来たものだが(リー・モーガン、ウェイン・ショーター、80年代のウィントン・マルサリスもメッセンジャーズ出身だ)、現代のジャズ界からは若いミュージシャンを昔のように育て、支えて行くための基盤が失われている。モンク・ジャズ学院は彼らを育て、支援し、さらにセロニアス・モンク・国際コンペティションのような音楽イベントを通じて、才能ある無名の若手を世の中に送り出すマーケティング的機能と役目も果たしているのだという。自分は父親のような音楽上のパイオニアではなく、バンドや組織を統率するリーダーとしてジャズに関わっている、というのがこの当時の彼の認識だ。つまり、父モンクのジャズ界への重要な貢献の一つでもあった、サンファンヒルの小さなアパートメントに若いミュージシャンたちを集めて指導していた、あのジャズ私塾の精神を引き継いでいるのだ。彼は現在もこの方向に沿って、全米に拡大した広範な活動を続けている。T.S.モンクは、やはり両親の強い血筋と薫陶を感じさせる、強固なヴィジョンと意志を持った人物である。

2017/02/25

モンク考 (3) 人間モンクの魅力と才

本書を読んで知ったもう一つの事実は、天才音楽家モンクの創造人生を現実面で支えていたのはほとんど周囲の人々、中でも女性たちであったということだ。とは言っても芸術家によくある話とか、他のジャズ・ミュージシャンたちの伝記に描かれているような乱れた女性関係の話ではない。モンクの‟ピュア“さを裏付けるように、母親バーバラ、妻ネリー、真のパトロンだったニカ男爵夫人の3人をはじめ、親族である義理の姉や妹、姪たち、さらにモンクにストライド・ピアノの基本を教えたアルバータ・シモンズ、モンクの友人でありメンターのような存在だったメアリ・ルー・ウィリアムズという二人のピアニスト、さらにモンクの売り出しに奔走したブルーノートのロレイン・ライオンもそうだ。母親とネリー夫人は別格としても、他の女性たち全員が、天才だが普通に考えれば変人で、厄介な人物モンクとその音楽を愛し、彼を無償の愛で支えている‟女神”のようだ。モンクには男女を問わず誰もが魅了される何かが当然あったのだろうが、とりわけ女神(Muse)たちから全人的に愛された人物だったのだと思う。‟普通の“ ジャズに見られる激しいジャズ的エモーション、無頼感、モダンなクールさなどとは異なり、複雑でモダンなのに純粋、無垢、素朴、ユーモアが、温かさと美しさと常に同居しているモンクの音楽が放つ不思議な魅力は、おそらくこのことと大いに関係があるのだろう。

Thelonious Monk Quartet
with John Coltrane
at Carnegie Hall
1957 Blue Note
この本には多くのジャズ・ミュージシャンやサイドマンたち、プロデューサー、クラブオーナーたちとモンクとの逸話が登場するが、彼らがどうモンクと音楽的、人間的に関わり、どうモンクの音楽を理解、吸収したのか、あるいは逆に反発したのか、ということが史実として興味深く描かれている。私が感じた本書の魅力の一つは、ハービー・ニコルズ、エルモ・ホープ、アート・ブレイキー、ソニー・ロリンズなどの登場人物との関係に見られるように、これまではレコードだけを通じて、自分の中でいわば点としてバラバラに存在していた当時のジャズ・ミュージシャンたちが、20世紀半ばのニューヨークを舞台にしたモンクの物語の中で、一つのコミュニティとしてリアルに繋がってゆくことだった。そして、そこで描かれるモンクの人間味もまた魅力的である。

とりわけ、モンクのヒーローだったデューク・エリントン、恩人コールマン・ホーキンズ、愛弟子のバド・パウエルたちとの交流は感動的だ。1950年代後半のジョン・コルトレーンとの交流も描かれており、二人の当時の素晴らしい共演記録も一部残されているが、録音数が限られているのは実に残念なことだ。幸い2005年に奇跡的に発見されたカーネギーホールでの実況録音(1957年)が、当時の二人の最良の演奏を記録している。高次の音楽的交感という意味から言えば、おそらくロリンズと並んでコルトレーンこそがモンクにとって最高のパートナーだっただろう。そしてモンクの薫陶が、その後のコルトレーンに与えた音楽的影響の大きさもジャズ史では周知のことである。マイルス・デイヴィスが自叙伝でも述べているモンクとの歴史的(?)口論は何度か出てくる。人柄はまったく正反対だが(もちろんモンクは優しい人間だ)、結局二人ともお山の大将同士だったのだろう。それに、片や裕福に育ち、田舎から出て来て一旗上げようという野心を持ったマイルスと、貧乏だが基本的にはニューヨークという都会育ちのモンク、という二人の経歴の違いも少なからず影響しているだろう。モンクの方が9歳年長だったが、どちらも生まれついてのリーダー的性格で、人物、音楽上の能力から見ても両雄相並び立たずということである。しかし音楽的コンセプトは違っていたかも知れないが、二人は間違いなく互いに敬意も抱いていただろう。特に天才肌のモンクの音楽性と創造力にはマイルスはかなわないと思っていただろうし、モンクはマイルスの知性と構想力、統率力には一目置いていただろう。コルトレーンとの共演と並び、1954年のクリスマス・イブ、プレスティッジの2枚のLPに残された二人の巨人の伝説の共演記録は人類の宝である。

Miles Davis and
the Modern Jazz Giants
1954 Prestige 
スティーヴ・レイシーとのやり取りをはじめとして、教師、指導者としてのモンクの有名な発言(名言)のいくつかも本書に出てくる。いずれもサイドマンや第三者にモンク流の音楽思想を伝えるものだが、どれもジャズの真理を突いた含蓄に富む言葉ばかりである。だがその指導法は、同じ時代にジャズ演奏教育のための学校を初めて作り、体系的、組織的に教えようとした白人のレニー・トリスターノの近代的手法とは対極にある超個人的手法だ。しかも譜面を見せずに、聞かせる音だけで自作曲のメロディを覚えさせるという徒弟制度並みの方法である。この場合、モンクが「ほとんど喋らない」というのもポイントだろう。教わる側はそれで否が応でも集中せざるを得ないからだ。それによって頭で理解するのではなく、フィーリングで体得することができる(するしかない)。リハーサルなしで、出たとこ勝負の即興演奏ができたのもそうした訓練があればこそだ。だがそもそもは、やはりこれがジャズ伝承の原点なのだと思う。

モンクの天才の一つが作曲の才だが、本書を読んでいてあらためて感じたのは、モンク作品のタイトルの素晴らしさだ。月並みなティン・パン・アレーや、無味乾燥のビバップの曲名とは違い、「ラウンド・ミドナイト」や「ルビー・マイ・ディア」のような有名曲はもちろんのこと、「エピストロフィー」、「ウェル・ユー・ニードント」、「ミステリオーソ」、「ストレート・ノー・チェイサー」、「ブリリアント・コーナーズ」、「アグリー・ビューティ」等々、どの曲名もジャズ・センスに溢れ、背後に意味と情景が感じられ、しかもメロディが即座に浮かんで来るほど曲のイメージと一体化している。モンクは音感とともに、実はこうした言語能力にも並々ならぬものを持っていたがゆえに、あの短いけれど本質を言い表した数々の名言を残してきたのだろう。