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2017/06/30

オーディオ体型論

オーディオは長年楽しんできたが、ずいぶんと散財もした。ジャズに限らず、我々の世代のオーディオファンはみな同じような経験をしていることと思う。金に糸目をつけないハイエンドに向う人もいれば、できるだけ金をかけず、徹底的に知恵で勝負する人もいるのがオーディオだ。私も振動やノイズ制御、電源やケーブルによる音の変化は体験としては理解したし、コンセントやケーブルなど諸々の小細工も楽しんではいたものの、電気の 基本知識もない文系人間であり、しかも不器用な上に根性もないので、さすがに庭に「自前の電柱」を立てるところまでは行かない中途半端な(?)マニアだった(ジャズもそうだが、どうも自分は中途半端なマニアのようだ)。そして10年ほど前からMacBookをオーディオ専用に使うシステムを構築し始め、その後5年ほど前にやっと行き着いたPCオーディオ・システム(Mac/iTunes/Audirvana/HDD/DDC/DAC/AMP/SP)でほぼ進化(?)も散財も止まった。NASは信号経路が何となく信用できないので、基本的には有線接続機器によるシステムだ。ハイレゾにも今は特に興味はない(何せ昔のジャズには音源そのものがないので)。CDPもアナログプレイヤーもあるが、最近はほとんど使わない。今はCDデータを非圧縮でHDDに取り込んだ手持ちの音源が、できるだけ気持ちよく鳴るようにセッティングしているだけだ。再生ソフトウェアの著しい進化による音質向上も大きいが、PCによる音源情報管理の便利さは、一度味わうともう抜け出せない。大量のレコード(LPCD)から探し出す手間だけでなく、気分によってジャンルやアーティストや曲を自由に選んだり、迅速に並べ替えたりできることは、音楽を聴く上で何より便利で楽しいのだ。特にジャズの場合、素材というべき「曲」を選んで、異なるミュージシャンによる同じ曲の演奏を一気に聴き比べると、意外な発見もあって非常に面白く、この聴き方はPCシステムならではのことだろう。それにアンプとスピーカーさえ決まれば、昔アナログ・カートリッジを替えたように再生ソフトやDACを入れ替えれば、大して金をかけずに音の変化を楽しむこともできる。

アンプはシンプルなデザインが気に入って買ったPRIMAREのプリとパワーで固定されたままだ。スピーカーもJBLやB&Wをはじめ何台入れ替えたか覚えていないくらいだが、これも45年前にTADにしては安い小型モニタースピーカーを手に入れ、Pioneerのリボンツイーターを上に乗せてから、そのクセのない素直な音が気に入ってずっと使っている。もちろん低域は限界があるが、今の環境と耳には丁度良い。(ヘッドフォンはあの閉塞感が嫌いなので使ったことはない。趣味のオーディオとはスピーカーを鳴らすことだと思っているので)。隣家が気にならず、広いリビングのあるマンションに引っ越したのも、大きなスピーカーを大音量で気兼ねなく鳴らすのが半分目的だったのだが、移ってからは聞く音量もむしろ下がってしまった。大型スピーカーの魅力は捨てがたいが、所詮集合住宅では限界があるし、昔はチマチマしているとバカにしていた小型システムによるニアフィールドの音体験をすると、これはこれでいいものだと(歳のせいか)思うようになった。ジャズ=大型スピーカー=大空間という古典的法則は、=大音量というもう一つの条件が加わらないと結局面白くない。昔のジャズ喫茶はこれらの条件をある程度満たしていたがゆえに、音に興味のあるジャズファンは通ったのだ。神戸の “jamjam” のようなジャズ喫茶はその理想で、デフォルメされた仮想空間なのに、リアルに聞こえるジャズの世界を自宅で創り出すことに昔はみな夢中になっていたもので、オーディオの活況もそれが理由の一つだった。

そのオーディオに熱中していた当時に思いついたことがいくつかある。その一つが「オーディオ体型論」だ。あの頃は様々なオーディオ評論家の先生たちが、アンプやスピーカーやCDプレイヤーなど、どの機器が良いとか、どの組合せが良いとか、毎月のように発表されるオーディオ新製品の評価や自身の意見を語っていた。オーディオ誌も色々あって、毎月のように買ってそれらの批評を楽しみに(かつ結構真剣に)読んで、次に何を買おうかと思いあぐねていた。そうした記事をしばらく読んでいるうちにあることに気づいた。それは、それぞれの批評家には、どうも固有の音の好みがあるようだということだった。つまりA氏が素晴らしいという音と、B氏やC氏が素晴らしいという音は違うのではなかろうかという疑問である。そして長年の読書体験からある法則が思い浮かんだ。それは細身の人、筋肉質な人、太目な人…というように、その評論家の体型と彼が好む音との間には、ある種の相関がありそうだということだった。オーディオに興味のない人が聞いたら何を言っているのかチンプンカンプンの、音の感覚的批評語(音がー細い、痩せた、速い、太い、遅い、華やか、芳醇etc.)で語る評論家それぞれの「体型」と、彼らが「好む音」にははっきりと相関があるように思えたのだ。

たとえば私が好きだった長岡鉄男氏の体型は見たところ小柄で筋肉質だったが、好む音も竹を割ったような、と言われるシャープでハイスピードの音だった。やや小太り気味の菅野沖彦氏は豊潤な音を好んでいそうだった。「ステレオ」誌に登場していたブチルゴム制振の金子英男氏もそうだ。一方、中肉中背の人は、バランスの取れたあまり個性の強くない音が好みのようだ、ということが批評(感想)文をずっと読んでいるとわかってくる。私も痩せていた若い頃は細身でシャープな音が好みだったが、歳を経て体重が増すにつれ、比較的肉厚で豊かな音を徐々に好むようになった。大人になって性格が丸くなったとか、聴覚が徐々に衰えたとかそういうことではなく、単純に物理的に体重が増して体型が変わったことの方が、影響が大きいと思ったのだ。つまり「良い音」というのは人によって異なる。そしてその人の「体型」(骨格と肉付き)と、音を聞いて感じる「快感」には相関がありそうだ、ならばその時の自分と体型の近い人の意見を参考にすれば、求めている音に近づけるかもしれない、というのが結論だった(と言うほど大それた話ではないが、まあヒマだったのだろう)。おそらくスピーカーによる空気の振動と、それが自分の肉体に伝わる骨伝導(共振?)によって、聴覚だけではない自分が肉体的に感じる心地良さが関連しているものと推測されるが、この仮説(?)は今でも有効だと自分では思っている。もう一つ思いついたのが「オーディオマニア短命論」だが、これは差し障りがあるので書くのはやめておく。

音楽を聴くためのオーディオには可変要素が多過ぎるし、良くなるか悪くなるかは別にして、「何をいじっても音は変わる」ことは実感した(駄耳の私にもわかる程度に)。また良い機器というものは確かにあるが、機器単体の物理的性能や科学的測定データと、聞く側にとっての「良い音」にはほとんど何の関係もない…と言えなくもない。アナログだろうがデジタルだろうが、PCを使おうが、それは同じだ。音に興味のない一般人には感知できない変化に一喜一憂するオーディオの世界がオカルトと呼ばれる所以だが、(上述の仮説が有効なら)聴く側の人間の肉体と感覚がそもそも千差万別なのだから、ある意味当然と言えば当然だ。あるのは「自分にとって良い音」だけである。その「自分」に近い感覚を持つ人の数が相対的に多ければ、それがマジョリティになるし、機器やシステムの評価も相対的に高いということになるのだろう。しかし考えてみれば、抽象芸術である音楽の評価とはすべからくそういうものであり、ジャズレコードの「自分にとっての名盤」も同じことだろう。自分にとって良い音、理想の音を目指しながら「微妙な音の変化を楽しむ過程」こそがオーディオという趣味の本質だと思うが、それがたとえ自分にしか感知できない変化であっても、むしろ自分にしか感知できない変化であればなおさら楽しい、というところが問題(?)なのだ。おまけに自分の体型、肉体、つまり五感も年齢と共に刻々と変化しているわけで、それはつまり(再び上述の仮説が有効なら)自分にとって良い音、理想の音も実は変化しているということに他ならない。つまりキリのない作業が死ぬまで続くということである。それに人間は飽きっぽいし、物欲もある。昔のように、機器を次から次へと買い替える中毒症状に陥る人が出るのもそれが理由だろう。(大金持ちの人は別にして)これを承知で、身を滅ぼさない程度に分相応の金をつぎ込む限り、良い音楽を良い音で聴きたいと願う音楽好きにとって、オーディオという終わりなき趣味はやはり面白い。