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2025/06/29

ジャズ・バラードの森(3)For All We Know

"フォー・オール・ウィ・ノウ For All We Know" は、1934年に書かれた古い曲で (J. Fred Coots曲/ Sam M. Lewis詞)、短く、どちらかと言えば歌詞もメロディも地味だが、別れゆく男女の、やむにやまれぬ切ない気持ちが込められた非常に美しいラヴソングである(70年代にカーペンターズが唄ったのは同名異曲)。だが単に陳腐でセンチメンタルな恋歌ではなく、曲に品格があり、いかにもアメリカン・バラード的な温かさ、やさしさが歌詞とメロディ全体から伝わってくる名曲だ。だから唄い上げるよりも、哀切さと共に、歌の底に流れる、相手を思いやるやさしさが、さりげなく表現されている穏やかな歌唱や演奏が曲想に合っていると思う。『Lady in Satin』(1958) のビリー・ホリデイBillie Holiday の歌唱はこの点でまさに完璧だ。

Lady in Satin 
Billie Holiday 
(1958)
ホリデイは ”Sweetheart, the night is growing old/ Sweetheart, my love is still untold……" というヴァースから唄っている。    

    For all we know / We may never meet again
    Before you go / Make this moment sweet again
    We won't say "Good night(bye)" until the last minute
    I'll hold out my hand and my heart will be in it…… 

この曲のタイトル "For All We Know"(=as far as we know たぶん、おそらく) の適切な和訳は意外と難しい。歌詞の内容に即して、ふさわしい日本語タイトル名をいろいろ考えてみたが、なかなか良い案が出ない。やはり「分かってはいるけれど……(たぶん二人はもう二度と会えないだろう)」という哀切さと、諦念のニュアンスのこもった短い日本語が適切だろう。どうにもならない運命には逆らえず、二人の未来はもうあきらめるしかない、というニュアンスが欲しい。思い切り意訳すれば、「今宵限りの」という訳も可能かもしれない。つまりは「今日でお別れ」である(古いが…原曲も古いので)。

私有の女性ジャズ・ヴォーカルでは、ニーナ・シモン (1957)、とドーリー・ベイカー(1993)があるし、男声ではナット・キング・コール (1958) も有名だ。しかし上述した理由から、ゴスペル調でドラマチックに唄い上げるニーナ・シモンや、高らかな美声のナット・キング・コールよりも、最晩年(亡くなる前年)、人生を知り尽くし、彼岸に向かって歩き始めたかのように、ストリングスをバックに仄かな暗さを湛えて唄う『Lady in Satin』のビリー・ホリデイの枯れた歌唱が、私的にはやはりいちばん心に響く。声や技術の衰えとか、年齢による歌唱の質の問題はあるだろうが、そんなことなど超越した、歌に込めた情感の素晴らしさがこのアルバムのホリデイにはある(それは、バド・パウエルやモンクといったジャズの巨人たちの、最晩年の演奏にも感じることだ。)"I'm a Fool to Want You" をはじめ、 ホリデイのこのレコードは全曲が素晴らしいが、特にこの曲は短く、シンプルで、美しいがゆえに、なおさらだ。

The Art of the Trio Vol.3
 Brad Mehldau 
(1998)
インストではピアノ・ヴァージョンが多く、私が持っているピアノ盤では、デイヴ・マッケンナ Dave McKenna の相変わらず味わいのあるソロピアノ(1955 『Solo Piano』)、ギルド・マホネス Gildo Mahoness の古風だが技巧を凝らした華麗なトリオ演奏(1990 『Gildo Mahoness Trio』)、ブラッド・メルドー Brad Mehldauの端正でモダンなトリオ演奏 (1998 『The Art of the Trio Vol.3』)もあって、それぞれに美しい。ピアノ・トリオとしては、ラリー・グレナディア (b), ホルヘ・ロッシィ(ds)というメルドー・トリオの演奏が、ホリデイ盤と並んで曲想をもっとも美しく表現し、完成度が高いように思う。このアルバムは、冒頭の "Song-Song" をはじめ、他の曲も20代の若きメルドーのロマンチックで繊細な表現が美しく、名演ぞろいの傑作CDである。20世紀末の録音、あれから、もう30年近く経ったのか…という感慨もひとしお感じるレコードだ。

Jasmine 
Keith Jarret &
Charlie Haden
(2010)
原曲の持つ、哀しいが、素朴で温かな別れ歌のイメージをもっともよく表現しているもう1枚のピアノ演奏は、病から回復途上にあったキース・ジャレット Keith Jarretが、ベースのチャーリー・ヘイデン Charlie Hadenと久々にデュオで共演した『Jasmin』(2010) 中の1曲だ。キースが他のアルバムで演奏したこの曲の音源を私は聞いたことがないので、想像だが、これはアメリカン・バラードを好むチャーリー・ヘイデンの選曲かもしれない。ECMの他のキースのライヴ・アルバムのような、きらびやかで、きれいに余韻が響き渡る録音ではなく、キースの自宅スタジオでいわば私家録音されたかのような音源は、響きが抑え気味で地味だが、ピアノとベースの質感はよく捉えており、病を経たキースの訥々とした丁寧な演奏が、逆にこの曲の持つ素朴な美しさと哀切さをよく表現しているように思う。このCDは、他の演奏も同じムードを感じさせ、キースの他のレコードとはどこか異なる、しみじみと枯れた味わいを持ったレコードだ。

Guitar On the Go
Wes Montgomery
 (1961)
私が保有しているこの曲の唯一のギター盤が、Wes Montgomeryの『Guitar On The Go』(1961)で、メル・ラインのハモンド・オルガンとウェスのギターによるデュオによる演奏で、ホリデイ盤から3年後の録音だ。インディアナ・ポリスの盟友であるこの二人の、ブルージーでリラックスしたサウンドは、他のレコードのような哀切さはあまり感じられないが、この曲のメロディの美しさを別の視点で捉えた、さらりとした "For All We Know" を聞かせてくれる。実は、この曲を初めて聴いたのも、良い曲だとメロディを覚えたのも、高校生時代に生まれて初めて買ったジャズ・レコード、ウェスのこのアルバムだった。他の曲もすべてスムーズかつブルージーな気持ちの良い演奏で、私の愛聴盤の1枚だ。

Live in Tokyo
Chet Baker
 (1987 King)
そして、この曲のヴォーカルとインスト(トランペット)両方の極めつけが、ホリデイから30年後に録音されたチェット・ベイカーChet Bakerの『Live in Tokyo』(1987)ではないかと思う。オランダで不慮の死を遂げる前年の、最晩年の「東京」でのライヴ公演であり、チェット唯一の日本録音である。独特のアンニュイでブルージーなヴォーカルとトランペットが、「未来のない恋人たち」という曲想にピタリとはまって、私的にはビリー・ホリデイ盤と並ぶこの曲のベスト・トラックだ。私は行けなかったが、1987年、昭和女子大・人見講堂でのチェット最後の来日公演は、バブル真っ盛りで浮き立っていた一方で、どこかに「これでいいのか…?」と漠然とした不安や疲労も感じていた日本のジャズファンを癒し、魅了したことだろう。この2枚組CD(Memorial Box) は録音も非常に良く、音の粒立ちがきれいで、ハロルド・ダンコ Harold Danko (p), Hein van de Geyn (b), John Engels (ds)というトリオをバックにしたカルテットだが、当時ヨーロッパでリー・コニッツと双頭カルテットを率いていたダンコの、チェットに寄り添うような知的で控え目なピアノも美しい。リー・コニッツはチェット・ベイカーのことを、唄うがごとく自然にトランペットでメロディを生み出す真正のインプロヴァイザーだと評していたが、この曲を聴くと、まさにその通りだと思う。ヴォーカルとトランペットが、切れ目なく自然に流れてゆくようなチェットのサウンドは実に見事で美しい。

最晩年のチェット・ベイカーの他のスタジオ録音は、それなりに魅力があるが、時どきあの世に一緒に連れて行かれそうなほど暗いイメージがあるのであまり聴かない。だが、このCDはライヴ録音ということもあってそこまでの暗さはなく、むしろはかなく美しい。若い頃に比べると声に瑞々しさが欠けているのは仕方がないが、それでも持ち前の、囁くように深くどこまでも沈みこむヴォーカルと、底知れない孤独を表現するチェットのトランペット・サウンドには唯一無二の魅力があり、この名曲の最高の解釈と演奏の一つだと思う。東京公演を収めたこの2枚組CD(愛蔵版)には、他のスタンダード曲と共に、"Almost Blue" 、"My Funny Valentine"、 "I'm a Fool to Want You"などチェットの得意なバラードも収録されており、彼が最晩年に、それも東京で残した傑作だ。

2025/06/13

ブラッド・メルドーを聴きに(観に)行く

 5月11日(日)に、ブラッド・メルドーBrad Mehldau を聴きに「サントリーホール」へ出かけた。クリスチャン・マクブライド Christian McBride (b)、マーカス・ギルモア Marcus Gilmore (ds)という新トリオでの初の日本公演である。メルドー来日は2023年のソロ公演以来らしい。コロナ前は私も「東京ジャズ」や小曽根真など、年1回程度は大きなホールでのジャズ・コンサートに出かけていたが、コロナ以降の大ホールでのジャズ・ライヴは初めてで、しかも初の「生」メルドーである。そう言えば、ジャズのライヴ自体も、1年前の中牟礼貞則のソロ・ギター以来だ。音楽の性質上、ジャズ・ライヴの「ハコ」は小さい方がいいに決まっているが、大ホールにはお祭り的な華やいだ要素もあるので、それはそれで楽しめる。

この1-2年、腰の調子が悪く、都心へ出かけることもほとんどないので、東京都心の風景の変貌ぶりに驚いたが、もっと驚いたのはコンサートの客層だ。普通のジャズ・ライヴやコンサートではおよそ見かけない、若い観客、特に女性が多いのにびっくりした。私がこれまで出かけたジャズ・コンサートでは、中高年層、それもたぶん60代以上の人たち(ほとんどオッサン)が大半で、平均年齢も60から70歳くらいだった。今回は、満員(2000人?)の客層が老若男女万遍なくいることが何より驚きだった。都心の変貌と言い、まるで浦島太郎になったような気がした。コロナを境に(年寄りが減って) 客層が変わったということなのだろうか? 全体としてジャズ人気が高まったわけでもないだろうし、やはり「現役」メルドーの人気を反映しているのだろう。30年前の90年代キース・ジャレットの来日コンサートを思い出した。ビル・エヴァンス(70年代)→ジャレット→メルドー…と、特に女性は、やはりジャズと言えば白人ピアニストなのだと改めて実感した。

それとメルドーはクラシックの影響も濃く、しかもプログレッシヴ・ロック(プログレ)にも並々ならぬ愛着を抱いているので、普通のジャズ・ファンに加えて、クラシック・ファン、ロック・ファン層も相当来場していたと思われる。今回のトリオは東京で計4回(オペラシティ、紀尾井ホール2回、サントリーホール)、大阪(サンケイホール)で1回と、1週間で都合5回のコンサートをほぼ1000人以上収容の大ホールで開いたわけで、単純計算でもそれだけで五千人以上の観客を動員したことになる。1日で万単位のロックやポップスには到底及ばないが、ジャズでこの観客動員は異例だろう。まさに21世紀の多様性を象徴するジャズ界のスター、メルドーならではということだろう。5回のコンサート演目は後に発表された資料によると、各回9ー10曲だが、重複は数曲しかないので、このトリオは計50曲前後のレパートリーを準備していたことになる。

実は私はメルドーの「大ファン」とは言えない。90年代後半の初期のトリオ以降、出るCDはそこそこ購入してきたが、どうもこれまでロクに(真剣に)聴いて来なかったからだ。理由はおそらく、彼のバンドの特徴である独特のリズム(変拍子、複合拍子)のゆえに、メロディ重視のバラード曲を除くと、少なくともレコードでは20世紀のジャズ的グルーヴ、ジャズ的カタルシスがあまり感じられないからだった。クラシックも人並みには聴いているが、ファンというほどでもないし、ロック・ファンでもないし、当然プログレの特徴もよく知らないので、演奏の中に共感できる部分が少ないからだろう。総体としては、ウェイン・ショーターのモダンなサックスを聴いたときに感じたものと似ている。斬新で、すごいとは思うのだが、どうも没頭して聴く気が起きないのだ。やはり20世紀半ばのビバップ系モダン・ジャズ体験がデフォルトなので、少なくとも前進するリズムのメリハリが欲しいのだろう。とはいえ、今回のコンサートは久しぶりのライヴということもあって、もちろん楽しんだ。

「サントリーホール」のコンサートの演目(左表)で、いちばん気に入った曲は3曲目の "#26" という、メルドーのオリジナル曲だ。#26の意味はよくわからないし、まだ名前がない曲なのか?と思って調べたら、『Ode』(2012)というアルバムに収録されていた。曲の中盤で高速インプロに入ってからのトリオの疾走感は素晴らしかった。これはレコードでは決して味わえない快感で、ハイウェイ上を「地を這うように」疾走するかのような、重心の低い高速サウンドには興奮した。バラード以外のメルドーの演奏で初めてグッときた曲で、なるほどこういう魅力もあるのだと感心した。"East of the Sun" "The Nearness of You" などのジャズ・スタンダードは普通に楽しめた。アンコールでやったモンクの "Think of One" も意外で、よかった。

特に大ホールでのジャズのライヴ・コンサートというのは「夢」と似ている。聴いているときは結構盛り上がって、感激することもあるのだが、終わって時間が経つにつれて、いったい具体的に演奏のどこが、何が良かったのかよく覚えていないことが多いからだ。ライヴ録音CDなどを冷静に聴いていると、演奏後の聴衆の熱狂ぶりに「どこがそんなに良かったんだ?」と、思わず突っ込みたくなるようなケースが時どきあるが、あれも同時体験という現場の空気が生むものだろう。サウンドと時間が同時に流れているので、その最中には忘我の状態にすらなれるが、逆に後で思い出そうとしてもその流れそのものが思いだせないこともある。これは私が大雑把な人間なのと、多分歳のせいもあるが、ジャズの場合演奏する曲も、クラシックやポップスのように曲名がすぐに分かるとは限らないし、演奏自体もその場で生まれる即興演奏であり、音楽として複雑なので、素人は細部の記憶が曖昧になることが多い。それにレコードと異なり、ライヴの場合、見た目(ヴィジュアル情報)とサウンド両方を、同時に脳が追いかけて処理するので、メモリー上はインパクトが強いヴィジュアル情報が勝って、サウンド側の記憶が相対的に弱くなる。だから当日のステージ上の映像イメージは鮮明でも、演奏そのものの記憶が相対的に薄まるのではないか、という気がする。

昔のジャズファンは、いまほど潤沢に本物のサウンドに触れる機会もなかったので、それこそ真剣に「音そのもの」と対峙して聴いていた。あの1960/70年代のジャズ喫茶時代を生きた平岡正明氏などは、「ジャズは生がいちばんだが、ライヴは演奏している人間が邪魔、家で聴くと自分が邪魔だ。だからジャズ喫茶で聴け」という、名言(?)を残しているほどだ。だが普通の聴き手にとっては、ジャズのライヴ演奏はやはり、その場でパフォーマンス自体を楽しむもので、音や演奏内容の細部をあれこれ云々する場ではないのだろう。昔の山下洋輔Gのフリー・ジャズなどはその典型で、今でもサウンドを含めた「身体経験」として記憶している。これは観衆も受け身ではなく、奏者と共に場を構成するメンバーの一員だという意味でもあり、元々ロック・コンサートなどはまさにそういう場になっているが、日本の普通のジャズ・ライヴの場合、なかなかそこまで盛り上がるケースは少ないだろう。どうしても分析的に(頭で)聴く傾向が強いのが日本の伝統的ジャズファンで、そこがまたジャズの魅力でもあると思うのだが、今回のメルドーはそういう意味でも「観客」の反応がいつもと違い、スタンディング・オベーションもごく普通に自然に起きていた。

そういうわけで、例によって演奏内容はあまり鮮明に覚えていないが、気づいたのは、この新トリオはベースのクリスチャン・マクブライドの存在感が非常に大きいということだ。選曲(半分はスタンダードやポピュラー曲)も含めて演奏は基本的にはオーソドックスで、ベースをフィーチャーする場面も多く、逆に言うと以前のメルドー・トリオのサウンドとは違う方向性を感じた(ある意味では聴きやすい)。どんなバンド・セッティングにも柔軟に対応できるのがメルドーの特色でもあるので、今回のトリオはそういうコンセプトなのだろう。コンサート冒頭では、多分そのマクブライドのウッドベースのアンプ増幅が大きすぎて、ピアノにかなりかぶっているようで、メルドーのピアノの音がぼやけて聞こえた(私の駄耳のせいか?)。紀尾井ホールで山中千尋のエレクトリック・ピアノを聴いたときも感じたが、アコースティックなクラシック音楽向けに設計されたホールは音の響き(残響)が強いので、エレクトリック楽器だと、それが強調されすぎて会場の音が飽和 (クリップ)する傾向があるように思う。ホールのPAシステムの設定がどうなっていたのか分からないが、今回の座席の位置(1F中央よりやや後ろ右側)も関係しているのかもしれないし、こちらの耳が慣れたのか、PA調整したのか、徐々にそれも気にならなくはなったが…。マクブライドのプレイそのものは、相変わらずダイナミックで、ヴァーチュオーソぶりも遺憾なく発揮していた。ロイ・ヘインズ(昨年99歳で死去)の孫だというマーカス・ギルモアのドラムスは初めて聴いたが、マクブライドのベースとは対照的に、終始軽く漂うような浮遊感がある独特のプレイだ。メルドーのピアノには合っているように思った。ただしソロ部分では、もう少しメリハリをつけてアピールしても良いのでは、と個人的には感じた。

私はソニー・ロリンズの人生を描いた長編伝記『Saxophone Colossus』(Aidan Levy著) の翻訳を2月に終え、現在はブラッド・メルドーの自伝というか回顧録というか、第三者でもゴーストライターでもない、メルドー本人が書いて、2023年に英国で出版した書籍『Formation』の翻訳作業をしている。これはVol.1で、26歳までのメルドーの前半生を振り返っている。この邦訳版はおそらく来年に、そしてたぶんVol.2の原書もいずれ出版される予定だ。今回メルドーの実物(?)を聴きに(観に)行ったのも、どういう人物なのか、ミュージシャンなのか、この目と耳で確認したいと思ったからだ。私はジャズほどミュージシャン個人の思想や人格がストレートに表現される音楽はないと思っていて、それを演奏するジャズ・ミュージシャンという人たちの「頭の中」がどうなっているのか昔から興味がある。直接の演奏から受ける印象を補填する最良の情報が本人インタビューやライヴで、そこでリー・コニッツ、 スティーヴ・レイシーなど、本人が生で喋るインタビュー本を優先して楽しみながら翻訳してきた。以前メルドーが書いた、短いが印象的なエッセイを読んだことがあるが、そのとき、この人は普通のジャズマンと異なり、哲学的、作家的な文章を書く資質があるという印象を受け、興味を引かれた。これまで著名な海外ジャズ・ミュージシャン本人が、(本当に)自筆で自伝を書いたケースは限られていると思えるので、そういう意味でも非常に興味深い本だ。まだ20%くらいの進捗だが、これまでのところ、メルドーの「音楽」とこの「自伝」は、(当然ながら)構成、表現内容共に、まさに「相似形」だと感じているところが多々ある。