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2019/08/01

京都を「読む」(1)

京都では祇園祭も終わり、次の夏の大イベントは、お盆の ”五山の送り火” だ( ”大文字焼き” ではない)。元々京都好きだったこともあり、時間のある最近は毎年京都に行くようになって、もうかなりの回数になる。名所旧跡を含めた京都市街地の地図はおおむね頭に入ったし、JR、地下鉄、京阪、阪急、嵐電、叡電などを乗りこなせば、もう大体どこへでも行ける(バスはまだよくわからない)。「よく飽きないね」とか言われることもあるが、これはディズニーランドや USJ 好きの人が何度も通うのと同じことだ。京都は、「日本」を主題にしたテーマパークだと指摘した人がいるが、その通りである。何度行っても、見ても、1,200年の重層的な日本の歴史を背景にした尽きない面白さと魅力が京都にはあるからだ。こんな都市は、日本には(世界にも)他にない。京都は日本の宝である。名所旧跡や寺社巡り、食事処で、たとえボッタくられようと、時にはダマされようと、観光目的でたまにやって来る非京都人(よそさん)にとっては、”時空を超えた京都” というイメージ の中で、いっとき楽しい時間を過ごせたらそれでいいのである(地元で普通に暮らす京都人にとっては迷惑だろうが)

最近では、高台寺に登場した般若心経を読経するアンドロイド観音(写真:京都新聞)もその象徴だが、結構高い料金を払いながら、あちこちのアトラクションを巡って楽しむというシステムも、テーマパークと一緒なのだ。TV番組に登場する血色の良い胡散臭そうな坊さんの説教や解説もそうしたイメージを助長しているが、寺社に限らず、各スポットのもっともらしい「物語」が、そもそも歴史的にどこまでが事実で、どこから先が後付けの作り話の類(伝説、神話、宣伝等)なのか、実のところはっきりしないケースが非常に多い。だから眉に唾をつけながらウソとホントの境目を見極めるのも、”よそさん” 流京都の楽しみ方の一つである。とは言うものの、よく観察すれば、人工のテーマパークには望むべくもない本物の歴史と、そこで生きてきた人間の存在もリアルに感じられることも確かだ。このフィクション(ウソ、ホラ)とノンフィクション(ホント)が、至るところで違和感なく不思議に溶け合っているのが京都という街であり、その魅力なのだと思う。(だが、そのキモである日本の歴史や文化という共同幻想と、それに対するある種のリスペクトを持たない外国人観光客の急増で、この絶妙なバランスを保ってきた都市イメージは急激に崩れつつあり、今や単なる観光テーマパーク都市への道を邁進しているようにも見える。)

当然ながら、京都に関する本もいろいろ読んできた。京都はとにかくネタが豊富なので、ネット時代の今でも、学術書以外に数え切れないほどのいわゆる「京都本」が出版されている。大きく分けると、普通の観光ガイド的な総花本、特定の地域や裏ネタに関する中級者向けガイド本、食を中心にしたグルメ本、歴史や文化遺産を中心にした正統的な都市ガイド本、日々の伝統行事や祭事を網羅した本(『京都手帖』など)、京都人気質や文化を語った ”京都論” 的な本、独特の差別の歴史を描いたタブー本、地理・地学本、怪しげな魔界・心霊本……といった具合でキリもなくある。しかし読む人のニーズによってもちろん違うだろうが、「京都本」はやはり京都ネイティヴの人が書いた本がいちばん参考になるし、読んで面白いと思う。単なる知識、情報の伝達だけでなく、ホメてもケナしても、たぶん行間に地元京都への愛情が感じられるからだろう。穴場や、地元の人が楽しむグルメ・スポットの案内など、かつて中心だった ”事実” に関する情報は、ネットとスマホ時代になって、しかも変化が激しいので、あまり有難味はなくなった。むしろネット情報だけでは見えて来ない、歴史、人間や文化面での面白み、深み、謎、といった知的情報を如何にして読者に提供するかが、紙媒体としての「京都本」の今後の存在価値だろう。当然だが、この種の本は出版時期や情報自体が新しければ良いというものでもない。京都伝統(?)の ”イケズ” の様相と分析などは、日本文化論として永遠に続くだろうし、江戸・東京という中央政権に対する怨嗟や対抗意識と歴史認識、大阪・神戸という関西近隣都市への競争意識や優越感もそうだろう。今はそれがさらに細分化されて、京都市と京都府、さらには京都の洛中と洛外の格差、ヒガみとか、目くそ鼻くそ的自虐ネタまで出て来て、まさしくケンミンショー並みの面白さだ。ただし、総じてこの種の「京都本」の語り口は、特に男性著者だと、いわゆる ”京男” らしさ(細かい、まわりくどい、しつこい、喋りすぎ……)が目立つ場合が多いような気がする。京都人が書いた本の中で、実際に京都巡りや、京都のことを知り、考える上で、個人的に参考になったり、読んで面白いと思った本をこのページで挙げてみた。いずれも今から10年以上前、2000年代に入って間もなくの本で、「京都検定」の開始など当時は京都ブームだったようだ。だが、今読んでも内容の価値と面白さは変わらない、つまり私的名著である。

街歩きガイドの類もずいぶん買ったが、結局これまでいちばん役に立っているのは、『京都でのんびり―私の好きな散歩みち』(2007)、『京都をてくてく』(2011  祥伝社黄金文庫, 小林由枝という同じ著者の文庫本2冊だ。ひと通り名所には行った人が、街歩きのときに持ち歩くのにとても適していて、コンパクトだが2冊でほぼ京都市内をカバーし、普通は観光客が歩かないルートや場所、地元の店なども紹介されている。何よりイラストレーターでもある著者(下鴨出身の優しく、きめ細かな心づかいが伝わって来るような地図イラストと、京都愛を感じるほんわかした手書きの文章がとても良い。両方とも出版されて大分経つが、情報的には今でもまったく問題ない(何せ相手は1,200年の歴史がある街なので)。

これも同じく女性の著者だが、こちらは壬生出身(亀岡在)の漫画家で、旅歩きコミックの元祖グレゴリ青山が、地元民ならではの視点と経験から、京都人や京都のおかしさを描いた何冊かのコミックだ。というか、そもそも私が京都本をあれこれ読むようになったキッカケが、確か “グさん” のコミック『ナマの京都』(2004 メディアファクトリー)の笑いがツボにはまったせいだったのだ。その後『しぶちん京都』、『ねうちもん京都』、『もっさい中学生』、最近の『深ぼり京都散歩』など、京都がらみの本は全部読んだが、どれも笑える。面白さの理由は、京都や京都人を観察する距離感、視点が、他の京都本と比べて段違いに普通で、対象に接近しているからだろう(近すぎて、デフォルメされているとも言える)。ただ漫画は人それぞれ好みがあるので、かならずしも笑いの保証はできないが、著者独特の画風とギャグ、ユーモアの世界に波長が合う人なら、間違いなく大笑いしながら、地元民の語る京都の裏話のあれこれを楽しめるだろう。特に初期の何作かは、”京都本・史” に残る傑作ではないかと思う(もう絶版かもしれないが…)。京都は、かしこまっったり、辛気臭い顔で語ったり、持ち上げるだけでなく、「笑い飛ばすもの」でもある、という見方が当時は非常に新鮮だった。

普通の読み物として、これまで個人的に面白いと思った本は、今や定番に近い本なのだろうが、やはり『秘密の京都』(2004)、『イケズの構造』(2005)、『怖いこわい京都』(2007 新潮文庫)など、多くの京都本を書いている入江敦彦の本だ。著者は西陣出身で、ファッション関係の仕事をしつつロンドン在住というエッセイスト・小説家だが、この代表作とも言える3冊は、それぞれ京都の散策ガイド、言語文化考察、京都にまつわる恐怖譚集で、いずれも楽しく読めた。特に『イケズの構造』では、京都ならではの言語文化、京都人ならではの視点を、京男ならではの語り口で開陳している。これを京男っぽい面倒くさくてイヤみな本と取るか、ユニークで興味深い本と取るかは読者次第だろう。”京都語” をそもそも外国語として捉えることや、『源氏物語』やシェイクスピアまで ”京都語” で翻訳してその真意を知ることなどで、単なる意地悪ではない、言語文化としての「イケズ の神髄」を伝えようとする視点や解説は、私的にはとても新鮮で面白かった。ロンドンで暮らし、イギリス人の文化や言語との共通点に気づいたり、京都を地球の向こう側から俯瞰するという経験は大きいと思う。その後現在まで、くだらない本も含めて似たような京都本が数多く出ているが、15年も前に、京都人独特のものの見方や考え方の世界を、学術的な読み物でも売れ線狙いの内容でもなく京都人自身が初めて真面目に語ったという意味で、その後の京都本の原点のような本である。併載されている、同じく京都人のイラストレーター・ひさうちみちおのイラストも、おかしい。

もう1冊は、同時期に出版され、今は文庫化されている『京都の平熱―哲学者の都市案内』(2007 鷲田清一 講談社)だ。こちらは下京区で生まれ育った、現象論・身体論というファッション世界を研究する哲学者である著者の視点から、市中を一巡する市バス206系統の周辺地区を巡りつつ、京都という都市と文化を読み解く試みである。らーめん、うどん、居酒屋など、普通の街の食事処から、通り、建物、寺社、学校、人物に至るまで、観光地とは別の素の京都を、普段の京都市民の目線で考え、語るエッセイだ。併せて写真家・鈴木理策(この人は京都人ではない)によるモノクロ写真が、普段の京都視覚イメージとして提供している。山ほどある京都本の中でも、京都という懐の深い都市を内側から捉えた知的な一冊である。たまたまだが、私的好みでここに挙げた4人の京都出身の著者のうち、女性2人がイラストレーターと漫画家であり、男性2人が共にファッションの世界に関連した仕事をしている――というように、伝統美術工芸に限らず、ヴィジュアル表現の世界と京都文化には常にどこか深いつながりを感じる。「京の着倒れ」とは、舞妓さん(装飾の極限)と修行僧(質素の極限)を両極とする、他所にはない振れ幅の大きいファッションの自由を許容する伝統が生んだものだ、という著者の説を読んで、その理由が分かった気がした

古典を含めて、京都を舞台にした「小説」は読まないが、そもそも今や存在の半分はフィクションである京都に、さらにフィクションを上塗りするような物語にはあまり興味を引かれないからだ。しかしNHKの『京都人の密かな愉しみ』は、フィクション(常盤貴子主演のドラマが軸)とノンフィクション(京都で今も続く伝統行事や文化の紹介)が同時に進行してゆくというユニークな構成で「京都人」という不思議な存在を描くテレビ番組で、こちらは2015年の初回放送以来、毎回楽しみに見てきた。ドラマと一体化した、阿部海太郎の美しいサウンドトラックのCD『音楽手帖』も買って楽しんでいるし、番組を書籍化し、背景や裏情報などをまとめた同名の本 (2018 宝島社)も読んだ。ドラマ編の主人公、「老舗和菓子屋の一人娘、跡継ぎで、いつも美しい着物姿の常盤貴子」という ”イメージ” が象徴するように、またドラマと併行して、今も生きている京都の様々な伝統行事等が紹介されるように、このフィクションとノンフィクションの絶妙な融合こそが「京都の実体」だと思ってきたので、この番組は実によく考えて作られているなと、放映中ずっと感心しながら見ていた。監督・源孝志のアイデア、脚本、演出は素晴らしいし、他の出演者たちも全員がとても良い味を出している。今はシリーズ2「Blue修業中」という別のドラマの途中で(常盤さんはもう出演していない)、今月はNHK BSで久々に新作の放送があり、また過去の放送分も集中的に再放送する予定らしいので、京都好きだが、これまで見逃していた人は、そのユニークな物語、美しい映像と音楽をぜひ楽しんでみては如何だろうか。