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2023/09/24

ジャズと翻訳(1)ジャズ本

ジャズを「同時代の音楽」として楽しみ、主導してきた1940ー50年代初め生まれの団塊を中心とする世代が、今や70歳から80歳に達し、鬼籍に入り、病院に入り、寝たきりになり……と、社会活動から徐々に退場しつつあり、日本の実質的なジャズの聴き手の数は減る一方だ。2010年に休刊したジャズ専門誌「スイングジャーナル」の後継誌「Jazz Japan」編集長の今夏の孤独死が象徴するように(彼はもう1世代若いのだが)、4年近いコロナ禍とこの夏の酷暑が、ジャズを知り、楽しんできたその世代に、特に大きな肉体的ダメージを与えているような気がする。そういう背景もあって、ジャズに対する国内の「需要」全体が、これまで以上に急速に冷え込んでいるように感じる。「Jazz Japan」誌は今156号で終了するが、「Jaz. in」と名称を変更して再出発するという。

中高年が残り少なくなってきた人生をどう楽しむか、人それぞれ考え方があるだろうが、今の私の楽しみの一つは「20世紀ジャズ博物館」を渉猟することだ。20世紀半ばに生まれたモダン・ジャズは時代を先導する音楽だったが、そのジャズの「核たる部分」は今や古典であり、残されたジャズDNAが多様な音楽に拡散し、浸透し、その中でジャズは今も生き続けている、というのがいろいろ考えた末の私の認識だ。ただし本来「ルールがないのがルールである」という自由な精神を持ち、ジャズを生んだアメリカと同じく多様な文化の混合物、つまり雑種であるジャズDNAの生命力は強靭であり、今後さらに薄く拡散しながら膨張を続けることだろう。したがって、その核となった部分が収納された「20世紀ジャズ博物館」は、私にとっては宝の山だ。録音、映像記録はもちろん、ジャズの時代とその音楽、人物たちを描写し、語った、国内外の「ジャズ本」もその一部であり、そこから面白いものを探し出すのが楽しみなのだ。数は減ったかもしれないが、そういう楽しみ方をしているジャズファンはまだまだいると思うし、日本ではほとんど紹介されたことのない海外ジャズ書の自力翻訳出版も、その一環としてやってきた。

定年退職後、その翻訳出版を半分趣味で始めて10年経った。その間5冊の翻訳書を出版したので、ほぼ2年に1冊というペースとなり、これは「死ぬまでに10冊」を目標にした当初の計画通りである。そのきっかけというか目的は、本ブログを開始した初期の「ジャズを『読む』」という3本の連載記事(2017年3月)で書いた通りである。要は、自分で面白いと思ったジャズ本を、「日本語で読めるもの」にしたい、ということだった。「演る」を除き、趣味としてのジャズの面白さは《「聴く」→「読む」→「知る」→「考える」→「聴く」》という終わりのないサイクルにある、というのが私的ジャズ観なので、「読む」という行為はジャズを楽しむための必須要件なのだ。

時にネガティヴな使い方もされる「蘊蓄」(うんちく)と呼ばれる知識集積も、単に「聴く」だけではない、この「読む」→「知る」→「考える」というプロセスで培われるもので、ジャズが他のポピュラー音楽と異なるのは、クラシック音楽と同じく、この知的プロセス単独でも十分に楽しめるだけの、歴史と深さと多様性を持っている音楽だからである。曲や楽理や演奏技術に加え、米国史、ジャズ史、ジャズ・ミュージシャンの個人史とその人生など、周辺情報を深く知れば知るほど、ジャズを「聴く」ことが楽しくなる。そこを「面倒くさい」と思うような人は、そもそもジャズ好きにはならないだろう。

長年生きてきて思うのは、大雑把に分けると、年齢や性別を問わず、いつの時代も人間はやはり「寄らば大樹」という権力志向、上昇指向の強い体制派と、「そんなの関係ねぇ」という反権力の自由派の2通りに分類できそうだということだ。もちろんどんな人間にも両面があるし、世の中的には両者ともに必要だが、そのバランスが個人や組織や社会の在り方を決める。ジャズ好き人間はどう考えても昔からやはり後者なのだろうと思う。権力好き(?)なジャズマンとかジャズファンも中にはいるかもしれないが、あまり想像しにくい。スティーヴ・レイシーが語ったように、ジャズとは本質的に反体制、反定型の音楽、つまり出来上がった世界や決め事に抗ったり、そこから脱出したりして、常に「制約からの自由」を追い求める音楽であり、そこにこそ世界中の人々の心に響き、そこに共感する――という音楽としてのジャズが持つ魅力と普遍性があるのだと思う。

私はどうも昔から、エラそうにしている(「主流」然とした)ヒトやモノが嫌いな性分だ。モノにだって一見してエラそうに見えるモノはあるし、クルマやオーディオでも、そういう匂いのする製品は昔からある。クルマやオーディオならコンパクトで、機能的で、スッキリしたデザインの機械が好きだ。どの世界であれ、中心的存在のヒトやモノはもちろんそれなりにリスペクトするが、それよりもあまり目立たないけれど、実は非常に良い仕事をしているヒトやモノが好きな性分なのだ。ジャズにもパーカーやマイルスのように、歴史的に主流というべき人たちは当然ながらいるが、ジャズの魅力は、基本的にそれが必ずしもヒエラルキーにはならず、また聴き手にもそれを感じさせず、目立たないながら個性のある優れたミュージシャンも数多く存在し、そうした人たちの演奏も平等に楽しめるところにある(あった)。自分の訳書で取り上げてきたジャズマンの顔ぶれを見てもそうだし、ピアニストなら独創的なモンクや、いぶし銀のような魅力があるトミー・フラナガンやバリー・ハリスに魅力を感じるのも同じ理由だ。

ジャズ演奏にはソロもあれば、小編成から大編成のアンサンブルまであり、楽器の種類も、演奏の形態も多様だし、そこに参加するミュージシャンも多彩だ。とはいえ、ジャズとは基本的には「自由な個人の音楽」であるところが重要なのだと思う。誰か第三者が正確に書いた譜面を楽器でなぞり、その世界の枠内で完成された美や個性を追求するクラシック音楽との違いがそこにある。誰にも似ていない自分だけの声(voice) を自由に追い求めるのがジャズ・ミュージシャンの性であり、他のミュージシャンや楽器と共演することで、そこからまた別のサウンドを新たに生み出す過程にジャズの醍醐味がある。だがあくまで大前提は、まず奏者一人一人が「独自のサウンド」を持っていることなのだ。バンドメンバー個々人のサウンドを「ブレンド」して生み出すデューク・エリントンの音楽が、米国でなぜあれだけ評価され、崇拝されているのか――それはジャズという音楽の持つ「個と集団」という本質的関係を、自らのバンド音楽の中で高い次元で調和させることを常に目指し、しかもそれを実現してきたからで、エリントンの目指した音楽そのものが「ジャズ」を見事に体現していたからである。

ジャズに関する英語の原書は、現役の会社員時代から読んでいて、ときどき面白い原書に出会うと、日本ではなぜこうした「面白いジャズ本」が出版されないのだろうか、とずっと疑問に思っていた(「面白い」と言っても自分がそう感じるだけの話で、他の人はそうは思わない可能性もあるが…)。はっきり言って、今も私の本棚にずらりと並んでいる1970年代から読んできた数多くのジャズ本も含めて、日本で出版されてきたジャズ関連書籍(教則本や演奏技術書の類を除く)のほぼ80%が、著者の解説や感想文付き「レコード・カタログ」だ。続く10%が翻訳書を中心にしたパーカー、マイルス、コルトレーンなどジャズ巨人の伝記類と、ジャズ解説書も兼ねたジャズ通史で、この2タイプが、時代と著者は違えど(多少の新情報を加えながら)繰り返し出版されてきた(これは日本のジャズ受容史と関係する話で、日本人ほどジャズの「レコード」を聴いてきた国は世界中探してもない。一般人にはジャズのナマ演奏がほとんど聴けなかったというのが、いちばん大きな理由で、そこは明治以降のクラシック音楽の受容史と同じことだ)。そして残る10%(以下?)がマイナーなジャズ・ミュージシャン、批評、思想、楽理等に関するコアな本だろう。これらが少ない理由は、言うまでもなく、出版しても売れない(需要が少ない)類の本だったからだろう。

だから教則本や演奏技術書(今はこの分野の本ばかりだが)を除くほとんどのジャズ本は、「レコード紹介」を通じた演奏、楽曲、ミュージシャン、楽器の解説書だ。もちろんそれはそれで読んで面白いのだが、私のような長年の読者からすると、さすがにもう飽きた。また、芸術批評の対象に値するようなすぐれた「ジャズ・レコード」は、(私見では)1990年代でほぼ終わっていると思う。ジャズは「マイルスさえ聞いていればいい」とか乱暴なことを言う人がいたせいで、(売れることもあって)毎年のように出るマイルス本も、もうおなか一杯だ。数少ない例外的に面白かったジャズ本は、批評家なら相倉久人、また山下洋輔氏や、菊地成孔・大谷能生両氏というジャズ演奏家の書いた本、さらにマイク・モラスキー氏のように外から見た日本のジャズなど、ジャズという音楽そのもの、その歴史、特質、影響、他音楽との関係などが、独自の視点で書かれている本が新鮮で面白かった。もう一つ、定期的に出版され、ジャズ本としては例外的に「売れて」いるのが作家・村上春樹氏が執筆した本(自著、訳書)だが、これはジャンルとしてのジャズ本というよりも、「村上本」として人気があるということだろう。

私は元来、分野やメディアに関わらず、著名な人物が「本音で語るインタビュー」が好きだ。ジャズも例外ではなく、初の訳書『リー・コニッツ』もそうだし、最近も『カンバセーション・イン・ジャズ』という、1960年頃の批評家ラルフ・J・グリーソンのインタビュー記録を復刻した本を翻訳出版した。伝統的に、米国のジャズ・ジャーナリズムの基本は「インタビュー」であり、なおかつ日本と違って、ミュージシャンといえども、自分の言葉で個人としての意見を述べ、発信せざるを得ない社会文化的背景があるので(黙っていると、何も考えていないアホだと見なされる。アメリカ人が、しょうもないことでも、とにかく堂々と何でも喋るのはそのせいである)、音楽に限らず、芸術の世界全般に多くのアーティストに対する優れたインタビュー記録が残されてきた。だから米国のノンフィクションのジャズ本の多くは、ジャズ・ミュージシャンの演奏記録と共に、本人あるいは周囲の人間に対するインタビューに基づいた情報(一次史料)を基にして書かれている。その中にはアーティストの個人史として、あるいは20世紀芸術論として、21世紀の今でも(だからこそ)十分に読む意味と価値がある書籍も含まれている。そこが日本の一般的ジャズ本との大きな違いだろう。

「インタビュー」という、ある種の即興演奏に近い「対話」形式、インタビューする側の知見と力量、対話を通じて互いに相手を触発する言語表現力、結果としての対談内容の質と深度に、文化的な違いも含めて日米間には大きな差があるように思う。日本では昔から「書いたもの > 語ったもの」という暗黙の価値基準があるように思え、その場限りで消える対話、対談に重きが置かれて来なかった(軽く見られる)歴史があるからだと思う。そして当然だが、少なくとも「英語」を完璧に駆使できない限り、20世紀の日本人が当時の米国のジャズ・ミュージシャンたちの音楽思想や、本心、本音をリアルタイムの「インタビュー」を通して聞き出すことは簡単ではなかっただろう。加えて、同じ国や共同体の一部で生きるという実体験がなければ、背景も含めた言葉の真の意味を理解することは難しいだろう。だから、英語ネイティヴによって語られた本、書かれた本が、やはり私が知りたいと思っているジャズの世界を楽しみ理解するためには必要なのだ。(続く)