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2023/07/18

どこでも浦島

©中川いさみ
「クマのプー太郎」より
じいさんロボ
モノや人の名前など記憶力の低下が最近顕著で、あきれるほどだが、やはり脳機能の低下が老化のいちばん大きな原因なのだろう。しかしミクロに見れば、「老化」とは自分の身体を構成する「細胞」の一つ一つが「経年で徐々に劣化 (aging)し」、自分の身体内部や、外部の情報を把握すべく機能してきた個々の細胞の感度(センサー)が、徐々に鈍って行く過程ではないかということを、ここ数年つくづくと「実感」する。空間認識が衰え、ぶつかるはずのないものにぶつかったり、皮膚感覚が衰え、熱いものを持ったり、何かにぶつかってもその瞬間は気づかず、後になって傷やアザになっていて初めて分かったり、片足だとバランスを崩してズボンが履けなくなったり、立ち上がろうとしてなぜかよろめいたり、顔を洗っているのに鼻の穴に指を突っ込んでみたり(笑)……と、笑えるほど動物的皮膚感覚が衰えていくのは、皮膚のセンサー機能自体が衰えているということで、つまるところ個々の細胞の感度(反応)の劣化に起因する。こうして視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感のすべてが徐々に衰えて行くのだろう。

「よいしょ!」とか、年寄りがアクションのつど、いちいち掛け声を発するのは、若い時は何も意識せずにできたことが、一つアクションを起こすのに、(脳を通じて)そのつど個々の細胞に「やるぞ!」という指令を行き渡らせてやらないと、身体が全体として反応してくれないからだろう。「歳をとる」とは、意識して、日夜、細胞全体にこうした「指令」を出す必要性と頻度が高まるということなのだ…と最近つくづく思うようになった。コロナのおかげで、この3年間外出を控えてきた高齢者は多く、これで使わなくなった細胞の感度劣化がさらに進み、身体の動きが目に見えて衰えた人がきっと多いはずだ(自分のことだが)。

まだ現役で外で働いたり、外出好きな人はともかく、私のように元々インドア派で、以前に輪を掛けて家で過ごす時間が増えた人間にとっては、この「3年間の空白」は、予想以上に心身に目に見えないダメージを与えている気がする。また外部世界とほぼ遮断された3年間の空白は、知らない間に今まで自分の目に馴染んで、当たり前だった「風景」の多くも変えてしまった。特に大都市内の主要区域の変貌ぶりは信じがたいほどだ。新聞、テレビ、ネット情報等で頭では理解し、知っているつもりのことでも、実空間とそこにある実物を目にすると、頭が見事に混乱する。外出した先々で愕然とするのは、こうして自分がまさしく「浦島太郎状態」になっていることだ。コロナが収束しつつある今、日本中の高齢者の多くが、この3年間に起きた実空間の変貌に、まさに「どこでも浦島」状態になっているのではないだろうか。

横浜エアキャビン
先月、渡辺香津美と沖仁のコンサートを見に久々に出かけた横浜でも、その感を強くした。横浜の桜木町あたりに行ったのは、たぶん十年ぶりくらいだと思うが(神戸に行った回数の方が多い)、駅前から「横浜エアキャビン」という、昔スキー場でよく乗ったような小さなゴンドラで、街と運河をひとまたぎして赤レンガ倉庫のある「みなとみらい」埠頭まで行けるという、まるでSFのような乗り物とその景観に驚いた(2021年にできたらしい)。横浜は神戸と同じく、街の佇まいそのものが基本的におしゃれだが、同じ港湾都市でも六甲山がすぐ背後にそびえる神戸に比べると、街の景色に全体として立体感が乏しいので、高層ビル以外に、こうした工夫で上空から街や海を楽しめるようにするのは良い案だと思う(火野正平氏と同じく高所恐怖症の私は、もちろん乗らなかったが)。最近では、東京駅八重洲口再開発による大変貌ぶりに驚いたばかりだが、東京駅周辺は長年通勤してよく知っているつもりだったが、会社があった丸の内側はともかく、八重洲や日本橋方面があんなに変わっているとは思わなかった。今は渋谷も新宿も同じように、とんでもなく変貌しているようなので、もうこうなると、どこへ行っても浦島太郎状態だ。そういう場所では、記憶に残る懐かしい昔の風景は消えて、どこにも見当たらなくなっている。人間は、こうして脳に刻まれた過去の景色の記憶も徐々に喪失しながら、歳を取ってゆくものなのだな…と感慨深い。

大阪駅
5月末に4年ぶりに行った関西旅行でも、万博を控えた大阪駅の大変貌ぶりに驚愕した。これまでは宿泊も京都と神戸が中心で、大阪には滅多に立ち寄らなかったので、おそらく、なおさら昔のイメージとのギャップを感じたのだろう。夕方、京都駅で元上司と久々に会食して、そこから新快速で大阪駅に向かったが、これまで通り、大阪駅ではいちばん後方で電車を降りてホームの階段を下りれば、以前なら阪急梅田方面に自然に足が向いて、そのまま歩道橋を渡ったらすぐに阪急三番街に着いたはずだった。ところが荷物を引きずっていたので、ホームの真ん中あたりにあった登りエスカレーターについ乗ってしまったために、駅を南北に横断する新しい歩道橋に出てしまい、そのまま北口改札を出たら、あるはずのヨドバシ梅田の姿がなく、目の前に見たこともないビルがいくつもできている。ヨドバシは?と探すと、遥か右手の方向に見えるではないか。つまり電車が、以前よりずっと前方(西)に停車していたわけだ。当然阪急梅田との距離は遠くなる。そのままよくわからない新しいビルの中に入ってしまって、そこからエスカレーターを降りたり登ったりして、うろうろしながら人混みの中をスーツケースをがらがらと引きずって歩いたために、何やかやで阪急梅田側にたどり着くのに10分以上かかってしまった。しかも阪急側も三番街に新しい区域ができたりして、昔と勝手が違い、そこでもスーツケースを引きずってうろうろしてしまい、ようやくホテルにたどり着いたときには、もうくたくたに疲れ切っていた(ほとんど徘徊老人状態である)。その疲れもあったのか、翌日晩の会社の同窓会は久々で楽しかったせいもあって、よせばいいのに冷酒を飲みすぎて足腰が立たなくなってしまい、80歳過ぎの先輩二人に両脇を抱えられてホテルまで送ってもらうという体たらくだった。というわけで、この時点で完全にもうろくじいさん状態だった。

久々の神戸「JamJam」
その翌日の神戸は、六甲山があるおかげで南北がわかりやすく、平坦で似たようなビルばかりの大阪のように迷うことはなかった。それもあるのだが、若かった学生時代に4年間過ごしているので、それこそ皮膚感覚を含めた五感が街の方角と空気を忘れず、きちんと機能している感じがした。大阪から向かう電車の窓から右手に六甲山が見えてくると、今でもなんだかほっとする。神戸はまた、震災後の復興過程で街の風景全体が一度大きく変貌しているので、それに目が慣れているせいもあるだろう。しかし、4年ぶりに訪問するのを楽しみにしていた元町のジャズ喫茶「JamJam」では、前日の大酒もあって、いつもの地下への急階段ではなく、安全策として使ったエレベーターを降りた先にある暗い廊下で、まったく気づかなかった小さな段差につまずいて前方に転び、おでこをしたたかに固い木の床にぶつけて大きなこぶを作った。痛くて、入店してからもずっと濡れタオルで額を冷やしていて、ジャズをゆっくり聴くどころの話ではなかった。しかし、少し落ち着いてから見渡した店内がほぼ満席だったのにはまた驚いた。以前何回か訪問したときは、いつも客の姿がまばらで、いつまで店が持つのかと不安に思った記憶があるからだ。ここでもまた浦島太郎状態かと、何があったのか観察したが、特に店内の様子に変化はなく、いつもの空間で大音量のジャズが鳴っている。違うのは、以前はいつも平日に行っていたのが今回は日曜日だったのと、たぶん当日が「神戸まつり」の開催日で、人出が多かったせいだろうと推察して安心した。あるいは昨今のジャズブームもあって、客数が実際に増えているのかもしれない。そういうわけで、おでこが痛くて今回はじっくりと音を楽しめなかったのが残念だ(帰宅後しばらくは、右目の周りがパンダ状態だった)。

神戸まつり
 サンバパレード
ところで「神戸まつり」というのは、私の学生時代にはなかったと思うが、後で調べたら1971年に始まって今年が第50回目だという。つまり大学3年のときに第1回が始まったようだ。当時は学園紛争で2年間ロックアウトされていた大学で、ようやく授業が開始されたばかりで、市が主催する公共行事などにはあまり関心が向かなかったのだろう。「JamJam」のあと、その「神戸まつり」でサンバカーニバルのパレードというのを見た。東京では浅草が有名だが(行ったことはないが)、「阿波踊り」や「よさこいソーラン」などはまだ日本オリジナルのダンスなので、なかなかだと思うが、サンバは日本とどういう関係があるのかよくわからない(私はサンバ、ボサノヴァ好きなのでOKだが)。だが神戸でやると、異国の文化が街にすんなり馴染むように思えるのが不思議だ。賑やかなパレードが行進した三宮と元町を結ぶ大通り沿いを歩きながら、確か学生時代の夏に、屋上ビアガーデンでウェイターのアルバイトをした、昔の「神戸オリエンタルホテル」がそのへんにあった記憶が突然蘇った。このあたりだったと思える場所を見渡してみたが、特定はできなかった(震災で街全体がかなり変わってしまったせいもあるのか)。ホテルの屋上ビアガーデンでは、当時の関西らしくストリップショーをやっていて、若くてきれいな(そう見えた)踊り子さんが一枚一枚上から脱いでゆく衣装を舞台から客席へ投げ捨てると、学生アルバイトのウェイターたちがそれを競って拾い歩く、という実に楽しいショータイムが毎晩行なわれていた。

今のコロナ禍と同じく、当時は大学紛争でまともに授業がなく、ヒマだったこともあって、家庭教師や塾の講師の他、こうした面白いアルバイトをたくさんやった。六甲山中で撮影した映画のエキストラ(加山雄三主演「蝦夷館の決闘」の、その他大勢のアイヌ人兵士役。寒かったので、休憩時間に黒沢年男と倍賞美津子と一緒に焚火にあたった記憶がある)、住之江競艇場のガードマン(制服を着て、一日中客席で立ってじっとレースを見ていただけ。一回のターンでほぼ勝負が決まる単純な競技だと分かったが、博打好きにはそこがいいのだろう。「ケンカや暴動が起きたらすぐ逃げるように」と指示されていた。ガードマンがそれでいいのか?と思ったが、当然だろう。神戸港の積荷泥棒を一晩中寝ずに見張るウォッチマンというアルバイトも同じで、危ないと思ったらすぐ逃げることになっていた)、それに除草剤散布というのもやった(雇い主は個人経営者で良い人だった。あちこちクルマで移動して、工場敷地とか、草の生える場所に除草剤を撒く仕事。今考えると化学的に危険な作業だったが、当時は何も考えていなかった。甲子園球場の中に入って外野の芝生に散布したこともある。つまり私は甲子園の土を踏んだことがある)――等々、次から次へと、キリもなくあの時代のことを思い出す。最近のことは何でもすぐに忘れるのに、半世紀も昔のことは、楽しいことも、若気の至りで今となっては恥ずかしいことも、まるで昨日のことのようにはっきりと覚えているのが実に不思議だ。

六甲山の中腹や山上から初めて見た神戸の夜景の美しさも、忘れられない(当時は百万ドルだったが、今はインフレで一千万ドルに値上がりしている)。三宮で酔っ払って、夜中に歩道にひっくり返って寝ていても、若いお巡りさんがやさしく注意して起こしてくれて、(昔の)東遊園地の芝生広場に移動して、そのまま朝まで芝生の上で寝たこともあった。バイト経験も含めて、何だかあの時代の人や街は、今よりずっとやさしかったような気がする。震災もあって、こうした記憶に残る風景もずいぶん消えてしまった。しかし今思えば、「神戸オリエンタルホテル」の屋上ビアガーデンこそ、浦島的には、まさしく「乙姫様のいる竜宮城」だった…。