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2023/12/28

ジャズと翻訳(6)ソニー・ロリンズ

Saxophone Colossus
Sonny Rollins
(1956 Prestige)

日本語表記の続きになるが、楽器名 "saxophone" も、昔は一般的にサックス=「サ[キ]ソフォン」 だったのが、いつごろからか「サ[ク]ソフォン」という表記が増えたようだ。辞書を見ても、両方の表記があり、ネット上でも同じで、ほぼ半々くらいか(日本語「クーソ」というつながりの音を嫌って、一部の前人が、あえて「キソ」という表記にしたのかもしれない?)。ジャズファンなら誰でも知っていたソニー・ロリンズの名盤『サキソフォン・コロッサス(=サキソフォンの巨像or巨人)』(1956)も、通称「サキコロ」で通っていた。これが「サクコロ」では何となくしまらないような気がするが…?このアルバムはトミー・フラナガン(p)、ダグ・ワトキンス(b)、マックス・ローチ(ds)という、今では夢のようなメンバーによるテナーのワンホーン・カルテットの傑作だ。ベン・ウェブスター、コールマン・ホーキンズ等に続く豪快なテナーサウンドで、ジョン・コルトレーンに先駆けて、若手テナーの第一人者という地位と人気を1950年代半ばに決定づけたロリンズの出世作でもある。大きく男性的なサウンドと、豊かなメロディライン、多彩なリズムが魅力のロリンズに対し、コード、モード奏法からフリージャズへと向かったコルトレーンという二人のジャズテナーの巨人は、その演奏スタイルと個性のゆえに、日米ともに支持ファン層が分かれていた。しかし1967年に40歳で早逝したコルトレーンに対し、その後も我が道を行き、ジャズ界の重鎮として生き抜いてきたロリンズは、21世紀の今も存命だ。

Saxophone Colossus
by Aidan Levy
(2022 Hachette Books)
実は、昨年12月に米国で出版されたソニー・ロリンズ初の本格的伝記『Saxophon Colossus: The Life and Music of Sonny Rollins』(Aidan Levy著)の邦訳版を現在翻訳中だ。本記事で触れている「大著」とはこの本のことで、何といっても約800ページ(本文テキストだけで720ページ)もあって、ロビン・ケリーの『Thelonious Monk』より長く、分厚くデカいハードカバーの現物を目の前にしたときは、さすがに「うーん…」と思わず引いた。前記事(5)の本棚写真のいちばん右側にある巨大な本(笑)がそうだが、最近の本は見た目ほど重くないのが救い(?)か(だが、モンク本以降の翻訳は、紙の原書ではなくPDFのPC画像でやっているので、デカさや重さは関係ないと言えば、ない)。ただ、この本はページ数だけでなく、ページ当たりの単語数が多いので、たぶん20%くらいはモンク本より長いかもしれない。モンク本の完訳原稿の文字数が、MSWordで約80万文字だった(出版した邦訳版はその85%の量)ので、たぶん100万文字近くは行くかもしれない…。ちなみに、長寿だったアルトのリー・コニッツが3年前に92歳でコロナで亡くなった今、1930年生まれで今年93歳になるソニー・ロリンズは、おそらく20世紀のジャズ巨匠中、最年長かつ最後の存命テナーサックス奏者だ(ただし、2014年からさすがに演奏活動は休止している)。パーカー、マイルス、コルトレーン等と同時代を生き、彼らと共にモダン・ジャズ黄金期を実際に経験してきた貴重な生き証人がロリンズなのだ (ドラマーではさらに年長の98歳のロイ・ヘインズがいるが)。

The Bridge
Sonny Rollins
(1962 RCA)
ロリンズはモダン・ジャズ史に名を刻む巨人だが、突然雲隠れしたり、宗教やヨガにはまったり、急にモヒカン刈りにしたり、モンクほどではないにしても、その思想と音楽人生には謎も多く、しかも、これまで本格的伝記は一度も書かれてこなかった。エイダン・レヴィ氏のこの伝記は、当時絶頂期だったロリンズが突然ジャズシーンから姿をくらまして(1960/61年)、一人で練習していたというイーストリバーにかかる有名な「橋」(ウィリアムズバーグ橋)を境に、その前後の年月をPART1とPART2に分けて書かれている。チャーリー・パーカー、セロニアス・モンク、バド・パウエル、クリフォード・ブラウン、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、オーネット・コールマンといったジャズ界の巨人たちとの関係はもちろん、ロリンズが関わってきた他のジャズ界の主要人物たちも次々に登場するが、その物語を、存命のロリンズ本人と著者の未発表直接インタビューをはじめ、主要ジャズ・ミュージシャンや関係者との200を超える新旧インタビューを中心にして描くという、米国ジャズマン伝記の王道を行く編集と構成だ。ロリンズの名盤誕生の背景や、レコーディング情報などもたっぷりと書かれている。

"A Great Day in Harlem"
by Art Kane (Aug.12, 1958) 
米国南部ではなく、カリブ海西インド諸島出身の両親を持つロリンズは、ニューヨーク・ハーレム生まれで、アート・テイラー(ds)、ケニー・ドリュー(p)、ジャッキー・マクリーン(as) のような友人たちと、「シュガーヒル」と呼ばれるハーレムの山の手で育った。この本でも触れているが、モダン・ジャズ全盛期の1958年夏に、そのハーレムで撮影され「エスクァイア」誌に掲載された『A Great Day in Harlem』(ハーレムの素晴らしき一日)という有名な集合写真がある。そこに写っている4世代にまたがる57人のジャズ・ミュージシャンの中で、当時ロリンズは最年少(28歳)であり、これらのうち今も存命なのは、ロリンズと1歳年上のベニー・ゴルソン (ts) の二人だけだそうだ(モンク、ミンガス、レスター・ヤングなどみな写っているが、エリントン、マイルス、コルトレーン等は、当日ニューヨーク市内にいなかったので、この写真には写っていない)。こういう写真を見ると、60年という歳月が過ぎ去ると、今自分の周りいる人間は、みんなこの世からいなくなってしまい、新しい人間と入れ替わっている――という当たり前だが、厳粛な事実をあらためて思い知る。

翻訳は、昨年夏ごろに本ブログを通じて著者エイダン・レヴィ氏から直接依頼されたもので、併せて邦訳本の出版社探しも頼まれた。ソニー・ロリンズは、私的な翻訳対象クライテリアからすると有名かつ大物すぎるのだが、これまで公表された確実な情報が意外に少なく、その人生にも陰翳がある人物であるところに興味を引かれたこともあって、思い切って翻訳を引き受けた(そのときは、まさかこれほどのボリュームの本とは思っていなかったが…)。米国での出版前、昨年秋にはPDFの最終原稿を受け取っていて、一部翻訳も始めていたのだが、予想通り、ロビン・ケリーの『Thelonious Monk』の時と同じく、出版やジャズを巡る今の情勢下、この長大な伝記を日本語で出版しようという男気のある(?)出版社がなかなか見つからず、苦労していた。だが幸いなことに、ノンフィクション翻訳書に力を入れている「亜紀書房」さんが取り上げてくれることになった。基本的に日本語の「完訳版」出版を目指しているが、そうするとたぶん1,000ページ近く(以上?)の本になるので、短縮化の可能性等も含めて、どうやって現実的折り合いをつけるか亜紀書房さんと今後検討する予定だ。モンク本と同じく、記事引用元、背景、関連逸話を詳述している「原注」も貴重な情報ばかりなのだが、小フォントで本文と同様のボリュームがあり、これも和訳したら、おそらく倍近い長さの本になってしまうだろう。いずれにしろ、おそらく今の翻訳ペースだと、出版は来年半ば以降になると思われる。

ロリンズ近影
久々の本格的ジャズ・ミュージシャン伝記、しかも「最後の大物」ソニー・ロリンズということもあって、出版後早々に米国内で多くの書籍賞を受賞し、ハードカバー版は重版され、最近ペーパーバック版も出た。この本は、米国黒人史を背景にした初のロリンズ個人史に加え、ビバップ以降のジャズ史、主なジャズ・ミュージシャンの逸話など、これまでに公表されてきた、ありとあらゆるモダン・ジャズ関連情報を、最新情報も含めて1冊に凝縮したような内容になっている。したがってコアなジャズファンだけでなく、一般の音楽ファンが読んでも、「ロリンズを中心にしたバップ後のモダン・ジャズ史」として俯瞰できる楽しみもある。問題は、上述したように、その長さだけだろう(アメリカ人は本当に長い本が好きだ…)。モンク本でもそうだったが、訳していると、あまりの長さに、途中で放り出したくなるときもある。日本語の本は、小説でもノンフィクションでも、パラグラフごとに改行したりして、余白が多くスカスカだが、アメリカの本はとにかく活字(中身)がぎっしり詰まっているものが多い。文法も違うので、日本語に翻訳すると、おおよそ原書の1.5倍くらいの長さの本になるのだ。翻訳とは、他人が書いたテキストという「制約」の中で日本語文章を「ひねり出す」作業なので、パズルを解くような側面がある。それをずっと続けていると頭が疲れて、たまに身動きできない拘束衣を着せられているように感じるときがある。そういうときは、何の制約もない「日本語の文章」を、自分の言葉とリズムで好き勝手に書いて、すっきりしたいと思う。当初は訳書PRと文章修行が目的だったこのブログで、こうした駄文を何年も書き続けてきた理由の一つは、実はそうした憂さ晴らし的な効用もあるからだ。とはいえ、こうした本邦初となる書籍の翻訳作業は、聞いたことのない新情報が次から次へ出て来るという点で、単なるジャズファン的感想を言えば「楽しい」の一言だ。

私はジャズという音楽そのものへの関心はもちろんまだ強いが、人生の先が見えた今、昔のようにひたすら好みのレコードを探し出すことに喜びを感じたり、集めて聴いて楽しむということははもうない。今はむしろ人間としてのジャズ・ミュージシャンへの興味の方が大きい。ジャズほどそのサウンドに「人間性(個性、人格)」が表現される音楽はないからだ。具体的な歌詞がないのに、抽象的なサウンドを通して逆に人間が見えて来る、というのがジャズの不思議さであり特質なのだ。技術的な解説や、誰の音楽的影響だとかいうような蘊蓄ではなく、どういう人生を歩んできたがゆえに、そういうサウンドのジャズになったのか、という人間的な側面に今はより興味がある。ライヴ演奏の楽しみは、それを自分の目と耳で確認するということでもある。今後も(生きている限り)、そういう視点で面白い海外ジャズ書を探し出し、可能なら翻訳出版して、数少なくなった日本のジャズファンに楽しんでもらいたいと思っている。

(年末でもあり、ひとまず 完)

2023/08/13

「憂歌団」 Forever!

Rolling 70s (1994)
インストのジャズは通年、つまり1年中聴いているが、加えて私には「シーズンもの」というべき音楽ジャンルがある。すべてヴォーカルで、年末になると決まって聴きたくなるのが船村徹、藤圭子、ちあきなおみ…など日本情緒あふれる演歌。春から初夏にかけてはボサノヴァ、真夏はサザン、大瀧詠一、山下達郎などのJ-POP、秋から冬はジャズ・ヴォーカルに加え、井上陽水や長谷川きよしのしみじみ系……と年がら年中ヴォーカルも聴いているわけだが、夏の定番がもう一つあって、それが「ブルース」を唄うバンド「憂歌団」だ。と言っても、女のブルースとか、港町ブルースとかの日本の歌謡曲ではない、本物のブルースをやるバンドだ。こちらは夏向きのクール系音楽ではなく、むしろ逆にアクが強くて暑苦しい系の音楽なのだが、6月から7月くらいになると、私は無性に憂歌団が聴きたくなる。

真冬に聴く演歌もそうだが、ポピュラー音楽にはどれも、その出自から来る「いちばん似合う場 (situation)」というものがある。明るい南国行きの船の上ではなく、雪の舞う北国へ向かう暗い冬の船や列車の中だからこそ、演歌は一層しみじみと心に響く。同様に、ジャズをさわやかな高原で、真っ昼間に聴きたいとはあまり思わない。ジャズは基本的には「都会の」「夜の」音楽だからだ。ブルース(Blues:英語の発音では「ブルーズ」と濁る)も、秋とか冬の澄み切った青空の下で聴きたいとは思わない。アメリカ深南部 (Deep South) の、ミシシッピ・デルタあたりのジトーッと重い湿った空気の中で生まれたブルースも、底に流れる黒人音楽特有の哀しみや嘆きに加え、その出自の一部である「風土」が、サウンドの中に色濃く反映されている。日本の気候とはまったく違うだろうが、強いてあげれば、日本では6月から7月のじめじめした蒸し暑い季節が、いちばんブルースには似合うように思う。

熱心なファンを除けば、今やどれくらいの人が「憂歌団」のことを知っているのか分からないが、ジャズ、ロックに加えフォーク、ニューミュージック、演歌、歌謡曲…と、何でもありで、ほとんど「ビッグバン」状態だった日本の1970年代の音楽界で、ひときわ異彩を放っていたのが「憂歌団」(Blues Band=ブルース・バンド=憂歌・楽団=憂歌団)だ。あの時代ブルースをやっていたバンドは、憂歌団も影響を受け、曲提供も受けた名古屋の「尾関ブラザース」や、京都の「ウエスト・ロード・ブルース・バンド」など、結構あったようだが、もっともインパクトがあり、メジャーな存在になったのは、やはり当時の「アコースティック・ブルース・バンド」憂歌団だっただろう。内田勘太郎のギター、木村充揮(きむら・あつき)のヴォーカルを核にして、花岡献治(b)、島田和夫(ds-故人)を加えた4人の音楽は、「憂歌団」という素晴らしいネーミングと共に、私的にはとにかく衝撃的だった。

17/18 oz (1991)
ブルースの歴史に特に詳しいわけではないが、いくつかの系譜があるブルースの起源の一つは、言うまでもなくジャズのルーツでもあるアメリカ南部の黒人音楽を核にした「カントリー・ブルース」だと言われている。つまり本来が土くさい、汗くさい音楽で、NYやシカゴなど都市部に広まってジャズやR&Bのルーツにもなった、モダンな「シティ・ブルース」とはサウンドの肌合いが違う。だから一部のブラック・ミュージック好きな人たちを除けば、そもそも、あっさり好みが多い日本人の嗜好に合うような音楽ではなかっただろうと思う。憂歌団の音楽は、このアメリカ生まれの黒っぽく土くさいブルースに、きちんと「日本語で日本的オリジナリティ」を加えて、日本にブルースという音楽を「土着化」させた初めての音楽だった。ジャズで言えば、山下洋輔グループが同じく1970年代に生み出した「日本独自のフリージャズ」と、その性格と立ち位置がよく似ている。

ブルースの日本土着化を可能にした「要因」はいくつかあるだろうが、その一つは、間違いなく憂歌団の本拠地である「大阪」という土地柄、風土だ。東京でも京都でもなく、日本で大阪ほどブルースの似合う街はない。昔(50年前)に比べると、今は大阪もすっかりモダンに様変わりしたようにも見えるが、その根底に、気取らず、飾らず、泥臭く、人間味があって、「本音」で生きることにいちばんの価値を置く、という長い「文化」がある大阪こそ、日本にブルースが根付く土壌をもっとも豊かに備えている街だ。憂歌団のオリジナル・メンバーの出身地であり、彼らの音楽が持つサウンドと歌詞のメッセージに共感し、それを支持する「聴衆」が多いこともその条件の一つだろう。そして「日本語のブルース」を可能にしたのが、上記文化を象徴する言語である「大阪弁」の持つ独特の語感とリズムだ。そしてもちろん、その大阪弁をあやつる木村充揮の、「天使のだみ声」と呼ばれる超個性的なヴォイスと歌唱が決定的な要因だ。内田勘太郎のブルージーだが、同時に非常にモダンなブルース・ギターと木村の味のあるヴォーカルは、もうこれ以上の組み合わせはないというほど素晴らしかった。とりわけ木村充揮は、ブルースを唄うために生まれてきたのか…と思えるほどで、ブルースとは何かとか考える必要もなく、木村が唄えばそれがブルースであり、どんな楽曲も「ブルースになる」と言ってもいいほどだ。

私が持っている憂歌団のレコードは『17/18 oz』(1991)と、2枚組『憂歌団 Rolling 70s』(1994)というベスト盤CDだけだったが、彼らの名曲をほとんどカバーしているこの40曲ほどを、何度も繰り返し聴いてきた。今はこれらをまとめた新しいベスト盤も、DVDも何枚か出ているし、木村充揮のソロ・アルバムも何枚かリリースされている。それにYouTubeでも過去のライヴ演奏など、かなり昔の記録までアップされていて、映像では内田勘太郎の見事なギタープレイもたっぷりと楽しめる。憂歌団のレパートリーは、ブルース原曲や、アメリカのスタンダード曲に加え、オリジナル曲の「おそうじオバチャン」、「当たれ!宝くじ」、「パチンコ」、「嫌んなった」など、70年代憂歌団の超パワフルで、いかにも大阪的なパンチのきいた楽曲が最高だ。しかしシャウトする曲だけではなく、木村がブルージーかつ、しみじみと唄う「胸が痛い」「夜明けのララバイ」「けだるい二人」のようなバラード曲や、「夢」「サンセット理髪店」など、ほのぼの系の歌も絶品だ。ただし、バンドとしての憂歌団の素晴らしさをいちばん味わえるのは、何といってもライヴ演奏だろう。それも大阪でやったライヴが特に楽しめる(聴衆のノリが違う)。ライヴで唄う定番曲「恋のバカンス」や「君といつまでも」他の、日本のポップスの木村流カバーも非常に楽しめる(時々、森進一みたいに聞こえるときもあるが)。

「憂歌団」というバンド自体は1998年に活動休止したが、その後も内田勘太郎と木村充揮はソロ活動を続け、2014年には「憂歌兄弟」を結成したり、二人は今もソロや種々のコラボ企画で活動を続けている。現在YouTube上では、多彩なミュージシャンと木村充揮の共演記録が貴重な映像で見られる。もう70歳に近く、さすがに昔のようなワイルドさは減ったが、今や「枯淡の域」に達した感のある木村のソロ・ライヴ記録はどれも本当に面白い。最近ではコロナ前2018年に地元の大阪、昭和町(阿倍野区)のイベントでやった屋外ソロ・ライヴ(「どっぷり昭和町」)が傑作だ。お笑いと同じく、演者と観客が一体化して盛り上がる大阪ならではのライヴは、とにかく見ていて楽しい。木村を「アホー」呼ばわりし「はよ唄え」と、突っ込みながら歌をせがむ観客と、舞台上で悠然と酒を飲み、タバコをふかして、その観客に向かって「じゃかっしー、アホンダラ!」と丁々発止で渡り合い、適当に客をイジり、イジられながら、ギター1本で延々と語り、唄う木村充揮の芸は、まさにブルースなればこそ、大阪なればこそ、という最高のパフォーマンスだ。もうこうなると、もはや完全に名人芸「ブルース漫談」の芸域だ。

The Live (2019)
また憂歌団時代はつい内田勘太郎ばかりに目が行っていたギターだが、映像で見ると、ソロで唄うようになった木村のブルース・ギターが、半端なく上手いことがよくわかる。今はアンプをつないだエレキが多いが、カッティング、ヴォイシングともに、限られた音数のギター1本だけで、その独特のヴォーカルを伴奏しながら、深くブルージーなグルーヴを生み出すテクニックはすごいものだ(しかも酒を飲み、客と冗談を言い合いながら)。世界には「吟遊詩人」の時代から、ギター一本の伴奏と歌だけで「その音楽固有の世界」を瞬時に生み出してしまう名人アーティストがいるもので、「ボサノヴァ」ならジョアン・ジルベルト、「演歌」なら船村徹が思い浮かぶが、木村充揮は間違いなく世界に一人しかいない稀代の「日本語ブルース歌手」である。その木村は、コロナが収束に向かっていることもあり、今年は7月以降のライヴスケジュールもびっしりとつまっているし、9月初めには、何とあの東京のど真ん中「丸の内 Cotton Club」でライヴをやるらしい。いや、楽しみだが、大丈夫か(何が)?

団塊の若者が主導し、1960年代的「混沌」を半分引きずりながら、同時に高度経済成長に支えられた未来への「希望」が入り混じった1970年代のカオス的でパワフルなカルチャーには、商業的成功だけではない、サブカル的音楽の存在と価値を認め、それを楽しむ度量というものがあった。それに当時は老いも若きも、まだ国民の半分くらいは「自分は貧乏だ」という意識があって、それを別に恥じることもなく、かつ「権力には媚びない」という60年代的美意識がまだ残っていた。この70時代から80年代にかけてのポピュラー音楽からは、音楽的な洗練度とは別に、「生身の人間」が作っているというパワーと手作り感が強烈に感じられるのだ。ところが80年代に入って日本がバブルへと向かい、みんながそこそこ裕福になり、世の中も人間もオシャレになってくると、音楽も徐々に洗練されるのと同時に、80年代末頃からは、デジタル技術が音楽の作り方そのものを変え始める(生身の人間による音楽の「総本家」たる即興音楽ジャズさえも、80年代以降は明らかに変質してゆく)。聴き手側でも、「おそうじオバチャン」的世界を共感を持って面白がり、支持する層も徐々に減って行っただろう。憂歌団にはブルースという普遍的な音楽バックボーンがあり、決して流行り歌を唄うだけのバンドではなかったが、こうして社会と人間の音楽への嗜好が変わって行くと、バンドの立ち位置も微妙に変化せざるを得なかっただろう。

20世紀後半は日本に限らず、世界中でありとあらゆる種類のポピュラー音楽が爆発的に発展した時代だ。その時代に生まれた様々な、しかも個性豊かな音楽に囲まれて青春時代を送り、生きた我々の世代は本当に幸運だったと思う。その世代には、この世に音楽がなかったら、人生がどんなにつまらないものになるか、と本気で思っている人が大勢いることだろう。しかし、この20世紀後半のような幸福な時代――次々に新たな大衆音楽が生まれ、それを創造する才能が続々と登場し、それらを聴き楽しむ人が爆発的に増え、音楽と人が真剣に向き合い、感応し合い、楽しく共存した時代――は、もう二度とやって来ないだろう。あの半世紀は「特別な時代」だったのだ。この夏も、こうして70年代「憂歌団」の超個性的な演奏を聴きながら思うのは、そのことだ。

2023/04/21

(続)「長谷川きよし」を聴いてみよう

2018年1月に『「長谷川きよし」を聴いてみよう』という記事を本ブログで書いてからもう5年が過ぎた。その後コロナ禍のために音楽ライヴもすっかりご無沙汰だったが、昨年10月末に「新宿ピット・イン」で長谷川きよしのライヴを久々に見て、ある意味、ミュージシャンとして、その「不変ぶり」に感動した。私は1969年のデビュー作「別れのサンバ」以来のファンなので、50年以上彼の音楽を聴いてきたことになるが、73歳にして、その美声も、声量も、歌唱も、ギターも、サウンドも、半世紀前とほとんど変わっていなかったからである。そして、その「異質ぶり」も、ほとんど変わっていないと言える。長谷川きよしの歌の世界は、1970年代の日本のポピュラー音楽界では異質で、90年代も異質だったし、そして今でも異質だ。そもそも、時流や世の中の嗜好に音楽を合わせるというようなアーティストではなく、基本的に時代はおろか国すら超越して、ひたすら自らが「愛する音楽」を唄い、演奏する、という自分だけの世界を持つ音楽家だからだ。日本のポピュラー音楽界では、実にユニークな存在なのである。

私は歌だけ聴いていたわけではなく、「別れのサンバ」をはじめ、長谷川きよしの初期アルバム2作のほとんどの曲のギターを学生時代に「耳コピ」して、自分でもギターを弾いて唄って楽しんでいた(当時はそういう人が結構いたことだろう)。したがって、彼の音楽の聴き方も、普通の長谷川きよしの歌のファンとは少し異なるかもしれない。当時からジャズを聴いていた私がいちばん興味を持ったのは、歌だけでなく、長谷川きよしが弾くガットギターのサウンドだ。非常に日本的なサウンドの歌がある一方で、ジャズの世界では当たりのmajor7やdimというコードを多用するガットギターの「響きのモダンさ、美しさ」を、初めて知ったのも長谷川きよしの演奏からだ(今もガットギターによるジャズが好きなのもその影響だ)。ただし当時の長谷川きよしは、ジャズっぽい曲もあったがジャズではなく、サウンド的には総じてシャンソン、サンバやボサノヴァ系の曲が多かった。だがギターの「奏法」はフラメンコ的でもあり、ギターの弦へのタッチと破擦音が強烈で、それがガットギターのサウンドとは思えないようなダイナミックさを生んでいるのが特色だった。いずれにしろ、あの当時日本で流行っていたフォークソングや、歌謡曲、ロック、グループサウンズなどからはおよそ聴けなかったモダンなギターコードの新鮮な響きに夢中になった。1970年頃、そんなコードやサウンドが聞ける歌を唄ったり、演奏しているポピュラー歌手は日本には一人もいなかったと思う。

Baden Powell
長谷川きよしのリズミカルで歯切れの良いギター、特にコード奏法の大元は、やはりバーデン・パウエルだろう。私も「別れのサンバ」から始めて、その後バーデン・パウエルやジョアン・ジルベルトなど、ブラジル音楽のサンバやボサノヴァ・ギターの演奏にチャレンジするようになった。当然だが、あの時代は今のようなデジタル録音機器はもちろんなく、アナログ録音機さえカセットはおろか、高価なオープンリールのテープレコーダーしかなかった。ましてギターのコピー譜など何もなく、ただレコードを何度も何度も繰り返し聴いて、音やコードを探し、耳コピで覚えた音を、自分流に勝手に演奏していた。バーデン・パウエルの「悲しみのサンバ (Samba Triste)」など、耳コピの音符を基にして自分で譜面まで書き起こしたほどだ(その後、故・佐藤正美氏の完コピ演奏を聴いて、その正確さに驚いた。この曲は今でもYouTube上で演奏している人が結構いる)。確か『長谷川きよしソングブック』という楽譜集がその後出版されて、「夕陽の中に」のようなジャズっぽい複雑なコードの曲は、その譜面で覚えた気もする。だが、そうやって苦労して覚えた音符や演奏も、半世紀後の今はほとんど忘れてしまい、もう指も動かない…(どころか、情ないことに、近頃はギターを持つだけで重たく感じるくらいだ…)。

1970年頃、銀座ヤマハの裏手にあったシャンソン喫茶「銀巴里」で、ナマの長谷川きよしの歌と演奏を「目の前で」見て、聴いて、その歌唱の本物ぶりと、ギターのフレット上を縦横無尽に動き回る指の長さと、その動きの速さに心底びっくりし、圧倒され、感動した。長谷川きよしのサウンドとリズムは、シャンソン、カンツォーネ、フラメンコ、サンバ、ボサノヴァ、ジャズ……が一体となった、まさに「ワールド・ミュージック」の先駆で、そんなジャンル横断的な音楽を演奏する歌い手も当時の日本には一人もいなかった。それから50年後の昨年末の「ピットイン」ライヴに行ってから、これまで聴いてきた彼の曲や演奏を、あらためて聴き直してみた。当時の他のポピュラー曲の多くが、半世紀を経て古臭い懐メロになってしまった今も、「別れのサンバ」を筆頭に、長谷川きよしの楽曲の多くは色褪せることもなく、一部の曲を除けば、ほとんどが依然として「モダン」なままだ。これもまた驚くべきことである。

一般的には「黒の舟歌」や加藤登紀子との「灰色の瞳」など、長谷川きよしにしては珍しい(?)ヒット曲が有名で、テレビ出演のときにもそういう歌ばかり唄ってきた。長谷川きよしのファンは、ほとんど「コアな」ファンばかりだとは思うが、そうしたヒット曲や分かりやすい曲のファンもいれば、彼の詩や訳詞の世界が好きだという人、シャンソンやラテン系のしぶい弾き語りが好きな人、また私のようにジャズやボサノヴァ系の歌が好きなファンまで様々だろう。しかし、「変わらない長谷川きよし」を何十年にわたって聴いてきた私が、真に「名曲」「名唱」だと思う歌は、やはりほとんどが初期の楽曲で、『ひとりぼっちの詩』、『透明なひとときを』というデビュー後2作のアルバムに収録されている。たいていのシンガーソングライターは、やはりデビューした当時の音楽がもっとも新鮮で、長谷川きよし自身もそうだが、聴き手としての自分もまた、まだ若く感受性が豊かだったことや、自分でギターコピーまでしていたこともあって、なおさらそうした曲の素晴らしさを理解し、また感じるという傾向もあるだろう。しかし、CD再発やダウンロードに加え、最近はストリーミング配信にも対応したということなので、長谷川きよしの「有名曲」や新しめの曲しか聞いたことのない人にも、それ以外の「隠れた名曲、名唱」の数々を、ぜひ一度聴いてもらいたいと思っている。もちろん好みの問題はあるだろうが、とにかくこれまで日本にはおよそいなかった、素晴らしい音楽性を持ったユニークな歌手である、ということが分かると思う。というわけで、以下はあくまで極私的推薦曲である。

ひとりぼっちの詩
(1969)
アルバム『ひとりぼっちの詩』(1969年) は、若き盲目のギタリスト&歌手という売り出しイメージもあって(ジャケットもいかにもそうだ)、どちらかと言えば暗くメランコリックなサウンドとトーンで、十代の少年/青年にしか書けない、孤独、純情、夢想が散りばめられたデビューアルバムだ。「別れのサンバ」(こんな複雑なギターを一人で弾きながら、自作曲を歌える20歳は、50年後の今もいない)、「歩き続けて」(1973年の井上陽水の「帰れない二人」と並ぶ、永遠の青春ラブソング。イントロのmaj7の響きが当時としては出色)という2曲は、いまだに色あせない名曲だ。クールなボッサギターで、深い夜の孤独をしみじみと唄う「冷たい夜に一人」、同じくボサノヴァの青春逃避行ラブソング「心のままに」、さらに、おしゃれな都会風ボサノヴァ「恋人のいる風景」など、どれも未だにモダンな曲ばかりだ。

透明なひとときを
(1970)
2作目のアルバム『Portrait of Kiyoshi Hasegawa(透明なひとときを)』(1970年)は、デビューアルバムとは趣をがらりと変えて、シャンソン、カンツォーネなどのポピュラー曲のカバーに、モダンなボサノヴァのタイトル曲をはじめとする自作曲を加えた、当時の長谷川きよしの歌の世界のレンジの広さと「全貌」を伝える傑作だ。中でも「夕陽の中に」は、このアルバムに収録された「光る河」と同じく津島玲作詞のオリジナル曲で、村井邦彦のジャジーな編曲と、とても20歳とは思えない大人びたアンニュイな歌唱が素晴らしい。「透明なひとときを」も、村井邦彦のアレンジによる、当時としては超モダンなボサノヴァ曲だ。越路吹雪の歌唱で有名だったシャンソンを、ピアノ中心のジャズ風にアレンジした「メランコリー」、60年代カンツォーネの名曲「アディオ・アディオ」「別離」、サンバ調の「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」等々、いずれも当時まだ20歳の若者が作ったり、唄ったりしたとは信じられないほど本格的な歌唱で、何度聴いても素晴らしい。

コンプリート・シングルス
(1999)
長谷川きよしは、まだ十代のときに、1960年代に隆盛だったシャンソン・コンクールで入賞したことがデビューのきっかけだったほどなので、上記アルバム収録曲のほか、エディット・ピアフの「愛の賛歌」、ジルベール・ベコーの「帰っておいで」「そして今は」「光の中に」など、一部フランス語の歌唱も含めてシャンソンは何を唄っても素晴らしい。いわゆるシャンソン風の語り歌と違って、正統的、本格的な歌唱で唄い上げるのが特徴だが、ギターと美声で原曲の良さが見事に描かれる。津島玲時代を除くと共作はそれほど多くないが、1970年代には、荒井由実時代のユーミンの曲「ひこうき雲」「旅立つ秋」のカバーの他に、「ダンサー」「愛は夜空へ」など、ユーミン作詞・長谷川きよし作曲のコラボ曲があって、これらはさすがに長谷川きよしに似合う曲ばかりだ。「卒業」(作詞・能 吉利人)「夜が更けても」(作詞・津島玲)も佳曲だ。私は上記2枚のアルバムLPとCD以外は、『コンプリート・シングルズ』『マイ・フエイバリット・ソングス』などのコンピレーションCDに収録されたこれらの曲を聴いている。'00年代には、長谷川きよしを「発見」した椎名林檎とも共演し、彼女が提供した「化粧直し」もカバーした(これは椎名林檎本人の歌が、実に長谷川きよし的でいい)。

アコンテッシ
 (1993)

私が最後に買った「LP」は1976年の『After Glow』で、その頃からどこか歌の世界が、変質してきたような気がしていた。だから、それ以降80年代の長谷川きよしの歌はほとんど聴いていない(本人も一時スランプになったらしく、隠遁生活をしていた)。そして、バブル崩壊後の1993年に突然復活し、ほぼ15年ぶりに聴いて驚愕したのが、NHK BSでテレビ放映されたフェビアン・レザ・パネ(p)、吉野弘史(b)、ヤヒロトモヒロ (perc)とのユニットであり、そのメンバーで録音したのが名作『アコンテッシ』である。自作定番曲の再カバーと、ピアソラ、カルトゥーラの名曲に自作の訳詩をつけ、それらを素晴らしいユニットの伴奏でカバーしたこのアルバムこそ、初期2作と並んで、歌手・長谷川きよしの歌手としての個性と実力をもっともよく捉えた傑作だ。初期からの「バイレロ」「ラプサン」「別れのサンバ」「透明なひとときを」という名曲に加えて、岩松了作詞の新作「別れの言葉ほど悲しくはない」、さらにピアソラの「忘却 (Oblivion)」、カルトゥーラの「アコンテッシ」という3曲がとにかく素晴らしい。長谷川きよしは、この90年代半ばの再ブレイクで、再びTVやライヴで脚光を浴びるようになり、何枚か新作CDもリリースしてきた。

ギター1本で唄う長谷川きよしもいいのだが、私はどちらかと言えば、ライヴでやっていたピアノ(林正樹)やパーカッション(仙道さおり)のような伴奏陣のリズムとメロディをバックに、リラックスして、歌に集中して唄うときの長谷川きよしの歌唱がいちばん素晴らしいと思う。だから昨年も、久々に「新宿ピットイン」のドス・オリエンタレスとの共演ライヴにも出かけたのだが、期待通りで、やはり行ってよかったとつくづく思う。今年はコロナからの復活ライヴが各地で行なわれるようになって、音楽シーンもミュージシャン自身もやっと活気が戻って来たが、長谷川きよしをはじめ、70歳を過ぎたベテラン・ミュージシャンたちにとっては、限りある人生に残されていた時間のうち、貴重な3年間をコロナで失ってしまい、引退時期を早めた人も多いようだ。残念ながら4/2の京都「RAG」でのソロライヴには行けなかったが、長谷川きよしは今は地元になった京都でもライヴ活動を続けるようだし、来月以降東京、大阪でのライヴ公演も決まっているらしいので、これまで彼を未聴だった人は、ぜひ一度ナマで聴いてもらいたいと思う。

2022/09/24

椎名林檎・考(3)

デジタル時代になり、見えなかったもの、知らなかったものがどんどん可視化されるようになって、何でもかんでも精緻に「分析」するのが昨今の流行りだ。芸術の世界も例外ではなく、今はPCさえあれば誰でもそこそこの絵が描け、作曲さえできる「一億総アーティスト」時代なので、美術や音楽も「鑑賞者」による単なる印象批評ではなく、「作り手」側の視点で、技術的な角度から作品を細かく分析することが多くなっている。クラシックでもポピュラー音楽でも、「音楽を熱く語る」のは、もはやダサいという時代なので、一言「イイネ!」とか「刺さる!」「エモい!」で済ますか、それとも逆に、クールかつ技術的に、きれいに分解してみようという流れなのだろう。ただし楽曲の構造や、コード進行や、似た曲の存在等をいくら分析したところで、その曲の素晴らしさは説明できないし、「普通の聴き手」はコードはもちろん、歌詞の意味もいちいち解釈しながら聴いたり、唄ったりしているわけでもない。作品を全体として「一瞬で」受け止め、感じ、楽しんでいるわけで、音楽家もそうして聴かれることを望んでいるだろう。

ド素人ながら、私もジャズを聴いて分析まがいのことはする。ただしそれは技術的な分析ではなく(やりたくともできないが)、ジャズ・ミュージシャが「何を考えて」、そういう「サウンド」の演奏をするのか――そこに興味があるからだ。つまり音楽を作り出す人間の思想とか人間性に関心がある。ジャズはヴォーカルもあるが、基本はインスト音楽なので、演奏から感じ取るイメージは抽象的で、どう感じるかは聴き手の感性次第だ。楽器の「音」そのものには何の意味もないからである。だが本来ジャズは、演奏者の話し言葉――「語り口」を楽器の音で表現する音楽芸術なので、当然そのサウンド表現には奏者なりの意味やメッセージが込められている。半世紀もジャズを聴いていれば、ド素人でも、サウンドから奏者がどういうタイプの人間なのか、何となく推量できるようになるものだ。ただし、セロニアス・モンクのような「真の天才」が創り出す音楽は、プロの音楽家でも分析できない。彼らは凡人には手が出せない領域にいるからだ。ただ一言「素晴らしい!」としか言えないだろう。日本のポップス界では、椎名林檎がその領域に近いところにいるアーティストだと思う。

私は記事でも映像でも、音楽家の「インタビュー」とか「対談」ものが好きで、よく読んだり見たりするし、自分の翻訳書も4冊のうち2冊はインタビュー本だ。それは、音だけでは見えてこない音楽家の思想を、本人が直接語る言葉からある程度聞き取ることができて、音の世界とは別に、それが楽しいからだ。椎名林檎の場合も、ブログで書き始めた後に、YouTubeでこれまで見ていなかったインタビュー動画をいくつか見た。面白かったのは、向井秀徳との『僕らの音楽』対談(2005 フジ)、もう一つは『トップランナー』(2008 NHK) だった。前者での向井に対する態度(完全にファン目線でデレデレだが、向井とのデュオKIMOCHIの歌唱は最高)、後者でのアーティストとしてのよく整理された明快な発言が印象的だ。その結果、2004年の「東京事変」のスタートに関して、(1)で書いたような私のまったくの想像とは、異なる心境や考えの変化が当時の椎名林檎の内部で起きていたことをよく理解した。

Queen's Fellows (2002)
ところで音楽界ではトリビュートやカバーが相変わらず流行っているが、「トリビュート」アルバムの傑作の一つは、今から20年前の2002年に発表されたユーミンへの初のトリビュート『Queen's Fellows』だ。意表をつくような、鬼束ちひろの「守ってあげたい」で始まり、ユーミンの名曲を集めたこのアルバムは、参加した男女ミュージシャンの人選、選曲、編曲、歌唱のクオリティがすべて素晴らしく、ユーミンのデビュー30周年にふさわしい、これぞ女王へのトリビュートと言うべきアルバだ(tribute: 感謝/尊敬を込めた「捧げもの」であり、単なる歌の「カバー」ではない)。はっきり言って本家より歌がうまいとか、そういうことではなく、高い質を持った「原曲」と各アーティストの「個性」の間で化学反応が起きて、別の作品として見事に仕上がっている曲が多いということである。

1960年代という重く暗い政治の季節の反動もあって、軽やかで明るい70年代という時代を象徴するユーミンの楽曲の底に流れているのは、基本的に健全でhappyな気分であり、同時代を生きた誰もが、今でも「あの日に帰りたい」と理屈抜きに反応してしまう何かがどの楽曲にもある。このトリビュート作全体に漂っているムードもそこは同じで、曲想は違っても、どこか温かなムードが、どの歌の底にも流れている。そこに椎名林檎も参加しているが、唄っているのが「翳りゆく部屋」である。荒井由実時代最後のシングル(1976年)だったこの曲は、歌詞もサウンドも、もっとも「ユーミンらしからぬ」曲だ。1970年代のユーミンの曲に、「死」という語句まで含む、こんな「暗い歌」は他にない。当時20歳の椎名林檎が(録音は1999年)、なぜこの歌を選んだのか理由は分からないが、おそらく当時の彼女には、ユーミンの曲の中でいちばん共感できる歌だったからなのだろう。アルバム中で異彩を放つ(浮いている)その歌は、完全に椎名林檎バージョンの「翳りゆく部屋」であり、オルガンを使った荘厳な本家のサウンドとは別種の、バックにエレキギターの乾いたサウンドがずっと物憂げに響く、どこか90年代的な哀感が滲む名唱だ。

アダムとイヴの林檎 (2018)
その椎名林檎本人への初のトリビュート・アルバムが、デビュー20周年に発表された『アダムとイヴの林檎』(2018) である。「普遍性」と「幸福感」が根底にあるユーミンの音楽は、普通の歌手にとってそれほど唄うのが難しいとは思えないし、素人でもカラオケで楽しく唄えるだろう。一方、一部の曲を除けば、超個性的で、複雑で、常に不穏な気配が漂う、陰翳の濃い椎名林檎の音楽を、現代のミュージシャンがどう料理するかが、このアルバムの見もの(聴きもの)だった。選曲は予想通り『無罪』から6曲、『日出処』から4曲、『勝訴』から2曲他と、いわゆる唄えるヒット曲が中心で、孤高の傑作(?)『カルキ』の曲は一つも入っていない。これは、ビジネス的に考えれば当然の選択だろう。それにユーミンの曲と異なり、椎名林檎の楽曲は、(MVの映像も含めて)彼女固有の歌唱表現と一体化した世界なので、やはり彼女にしか唄えない曲が多く、カラオケならともかく、第三者のプロ歌手が唄うと単なるモノマネになるか、まったく似て非なるものになる可能性があるからだ。

そういう前提で聴いたこのトリビュートだが、個人的にまずまず印象に残ったのは(オッサン的嗜好になるのはやむを得ない)、草野マサムネ他(正しい街)、宇多田ヒカル&小袋成彬(丸の内サディスティック)、レキシ(幸福論)、AI(罪と罰)、エビ中(自由へ道連れ)などだ。知らない人だがMIKA(ミーカ。レヴァノン人?)の、レトロなフレンチ・ラテン風「シドと白日夢」は、どうしても歌詞が注目されがちな椎名林檎の楽曲の「メロディ」が持つ魅力と普遍性を示唆していると思う。ユーミン・トリビュートにも参加している井上陽水(カーネーション)と田島貴男(都合のいい身体)は、本作でも完全に自分の世界に持ち込んで唄っている(陽水はさすがに声が苦しそう。田島貴男は往年の「憂歌団」と並び、日本で最高のブルース表現者の一人だ)。全曲とは言えないまでも、椎名林檎的世界をあまり損なうことなく、各アーティストやバンド独自の個性をきちんと加えたアレンジや演奏が予想以上にあったのには正直言って驚いた。これは、この20年間で、あの強烈な個性とインパクトを持った椎名林檎の音楽が、少なくともJ-POPの世界では、もはや「スタンダード」(classic)というべき領域に入ったことを意味していると考えていいのだろう。

ニュートンの林檎
初めてのベスト盤  (2019)
翌2019年には、『ニュートンの林檎~初めてのベスト盤』が2枚組CDでリリースされた。収録された30曲は代表曲ばかりで、まあ、そうなるだろうなという選曲だ。椎名林檎というと、難解な曲や激しくシャウトする強烈な曲が目立つが、着物姿で唄うシュールな曲(積木遊び、やっつけ仕事、神様、仏様等)もあるし、ピュアなラブソングも、やわらかで、みずみずしい抒情を湛えた佳曲、名曲もたくさんある。私が個人的にいちばん好きな曲は「茜さす 帰路照らされど…」(『無罪』収録)だ。作詞・作曲をするミュージシャンは誰でもそうだと思うが、デビュー当時の若い時代にしか書けない「ラブソング」というものがある。50年前の井上陽水の「帰れない二人」や長谷川きよしの「歩き続けて」などがそうした永遠の名曲だ。「茜さす…」もまさしくその一つで、彼らから30年後で、時代背景も(まだスマホなどない)、恋愛のシチュエーションも違うが、たぶん十代の女性にしか書けない、みずみずしさと切なさが見事に表現されている名曲であり、名唱だ。他にも、「同じ夜」「おだいじに」「映日紅の花」「手紙」「黄昏泣き」「夢のあと」「茎」「意識」「おこのみで」「ポルターガイスト」等が、私の好きな曲だ。 長谷川きよしをイメージして提供した「化粧直し」(『大人』収録)というボサノヴァ曲にも、そうした彼女の感性の一部が表れていると思う。

このベスト盤には収録されていないこれらの曲は、いわゆる椎名林檎的パンチには欠けるが、音楽的装飾をできるだけ控え目にして、いわば彼女の「素」あるいは「静」の部分を、素直な歌詞とメロディで美しく表現した作品のように私には聞こえる。そして、どれも時代や世代を超えて受け入れられる名曲ばかりだと思う。『カルキ』中の曲や、これらの名曲だけを選んで、(もちろん椎名林檎が唄うからいいのだという面はあるだろうが)本家とは異なる個性と魅力を持った歌い手を選び、別の角度から「作曲家・椎名林檎」の音楽世界を描いたトリビュートを作ったら、それはそれで素晴らしいアルバムになるのではないだろうか。

音楽は、人類が発明した「史上最高の薬」である。元気なときには活力が増し、辛いときには癒しを与えてくれる特別な薬だ。ほんの一握りの独創的「先発薬」があり、続く数多いコピー薬「ジェネリック」の集合体という構造も、薬の世界とよく似ている(ジェネリックにもきちんと薬効があるところも同じだ)。デジタル化でコピーが容易になり、サブスクも広まって市場構造も変化し、今は音楽の価値そのものが揺らいでいる。そこにコロナ禍が加わり経済的にも打撃を受け、音楽家にとってはまさに苦難の時代だ。しかし景気が悪かろうと、未来が見えにくかろうと、いつの時代も人間にとって音楽そのものが持つ力は不可欠であり、かつ不変だと思う。だから大変だとは思うが、「志」ある音楽家には何とか頑張って生き抜いてもらいたい。

元気のない今の日本も、音楽の未来にはまだまだ希望はあると思っているが、それは、アジアの辺境で生き、伝統を維持しながら、数千年にわたって海外の文物を輸入し、吸収し、内在化しながら、「日本独自の文化」を生み出してきた日本人ならではの資質――すなわちポジティヴな意味での「ガラパゴス化」という能力がこの島国にはあるからだ。「ガラパゴス化」を卑下し、世界標準に決してなれないローカル世界の限界だとネガティヴに捉えているようでは、日本の未来はない。そうではなく、民族が持つ固有の文化であり能力だと考えたら、別の未来が見えてくる。「似たようなもの」だけを大量に生産し、消費し続けたら、便利だがつまらない世界、しかもいずれ誰も生き残れないような世界になる――と、日本人がデジタル競争の敗因として「ガラパゴス化」を反省しているうちに、外の世界ではとっくに逆の価値観へとパラダイムシフトが起きているのである。

ボカロPとコラボした
Adoの1stアルバム『狂言』
(2022)
音楽の世界でも、民謡、長唄、端唄、浪曲、演歌、歌謡曲といった日本古来の音楽的伝統と感性を基盤にしながら、日本人は明治以降150年にわたって、クラシック、ジャズ、ロック、R&B、フォーク、シャンソン、ボサノヴァ、タンゴ、カンツォーネ、フラメンコ、カントリー&ウェスタン、ハワイアン、ヒップホップなど、「ありとあらゆる洋楽」を貪欲に取り入れ、吸収してきた(こんな国が他にあるだろうか?)。そして最新の「ボカロP」(ボーカロイドxプロデューサー)のように、コンピュータ技術、アニメーション技術を駆使した仮想空間思想さえもそこに加えて、固有の音楽と多様な洋楽を、日本という「るつぼ」で溶融して作り出した現代のJ-POPは、いわば新たに創造された「音楽の合金」である。J-POPは、今や世界レベルの魅力と独自性を獲得した音楽となりつつあり、一部アーティストたちの音楽的洗練度と創造性は、今やワールド・クラスだと思う。そして私の耳には、その中から様々な「椎名林檎的なもの」が聞こえてくる。

20世紀と現代との違いは、今はクラシックやジャズなど高度な専門的音楽知識や技術を習得した多くの若者が、音楽ジャンルを超越して、J-POPシーン内部を横断してソロやグループ活動を行なっていることだ。21世紀になってアートとエンタメが融合したように、もはや音楽にジャンルも境界線もない。とりわけ、昔は言語的に不可能だと思われていた「日本語の歌詞」が、まったく違和感なく、速くて複雑なメロディ、ハーモニー、ビート、リズムに見事に乗せられていることには、本当に驚く(年寄りにはほとんど聞き取れないが)。ヒップホップ、ラップの影響はもちろんだが、高い質を備えた日本産の音楽に、独自の日本語の歌詞を適用する「言語技法」を最初に用いた音楽家の一人が椎名林檎だ(先人には桑田佳祐がいるが)。さらに言えば、1世紀以上にわたる洋楽のコピー、モノマネという歴史を経て、真に日本的オリジナリティを有する音楽合金を、20世紀末の日本のポップス界で初めて具現化したのが椎名林檎であり、彼女こそ比類のない「ガラパゴス・ジャパン」を音楽の世界で初めて実現したアーティストだと思う。

「うっせぇわ」でデビューしたAdoを聴いて、その衝撃(斬新さ、面白さ)に「椎名林檎の再来か」と私は喜んでいた。2002年生まれのそのAdoが、新作映画『カラダ探し』向けに椎名林檎が書いた曲「行方知れず」を唄うという、まさに親子のような二人のコラボが実現することになったそうだ。Adoについて、『無罪』を全曲唄ってもらいたかったほどの「理想的な "どら猫声" だ」と絶賛する椎名林檎のコメントも笑える。こうして独創の林檎DNAが、21世紀生まれの若いアーティストたちに脈々と受け継がれて行くことを願っている。
(完)

2022/09/04

椎名林檎・考(1)

山本潤子の正統的かつ清々しい歌も好きだが、正反対のような椎名林檎の予定調和を覆す、超個性的な歌も私は好きだ。ジャズで言うと、トリスターノやリー・コニッツの破綻のないストイックなサウンドもいいが、モンクの自由で独創的な音楽にも惹かれるというようなものだろう。この両極とも言うべき音楽嗜好は、ある意味節操がないが、自分が椎名林檎の音楽に惹かれる理由は、たぶんモンクと同じく、既成の枠組みを乗り越えようとする強靭な「意志」と、それを支える唯一無二の「オリジナリティ」を感じるからだろうと思う。

    歌舞伎町の女王
1990年代末に椎名林檎がデビューしてから10年間ほど、彼女のCDとDVDのほとんどを購入して聴いたり見たりしていた。当時は、なんだかもうジャズにあまり魅力を感じなくなっていて、何か他に面白い音楽はないものかと、J-POP含めてあれこれ聴いていた。しかし打ち込みとサンプリングで、似たような曲だらけになっていた90年代J-POPの中で、偶然耳(目)にした強烈な「歌舞伎町の女王」(1998) にあっという間にやられた。日本的で、猥雑で、まるで昭和ど真ん中のような歌と映像の世界があまりに面白くて、すぐにカラオケでも唄っていたくらいだ。こうして椎名林檎はデビュー2曲目(シングル)にして、ロック好きの同世代の若者だけでなく、ママやチーママがひしめく夜の歓楽街で、いかにも実際にありそうな話をファンタジーとして描いたこの曲によって、中高年オヤジ層もファンの一部として「取り込む」ことに見事に成功した。続くナース姿の『本能』での、ワイルドかつ官能的世界もそれを加速したことだろう。若い人たちは気づかないかもしれないが、椎名林檎の音楽にはそもそも、基本的要素としてのロックやジャズの他に、日本人中高年層の体内に刷り込まれた昭和的体質が「つい反応」してしまうような、演歌や歌謡曲、シャンソンその他諸々の大衆音楽の要素が散りばめられているのだ。大衆的どころか、とんがったアブないイメージが強い楽曲にもかかわらず、性別や世代を超えた、椎名林檎の全方位的人気の理由の一つはそこにあるのだと思う。

   無罪モラトリアム
手持ちのiTunesのデータを調べてみたら、1999年の『無罪モラトリアム』から『勝訴ストリップ』(2000)『唄ひ手冥利〜其ノ壱〜』(2002)『加爾基 精液 栗ノ花』(2003) 、さらに「東京事変」の『教育』(2004)『大人』(2006) 、斎藤ネコとの『平成風俗』(2007) までのCDが入っている。他にDVDとして『性的ヒーリング壱、弐、参』『短編キネマ 百色眼鏡』『賣笑エクスタシー』などを所有している(当時よほど嵌っていたのだろう)。'00年代に入るとテレビ出演などメディアへの露出も増え、特に3作目の『加爾基 精液 栗ノ花』のリリース前後には、筑紫哲也や久米宏とのニュース番組での対談等を通じて、中高年インテリ層の認知度もさらに高まった。こうして椎名林檎は、デビュー当時のアングラ的イメージが強いキワモノ・ロック歌手扱いから、完全に「メジャー・アーティスト」の一人へと「昇格」したのである。

日本のポップス史上、松任谷由実 (1954-) と並ぶ最高の「女性アーティスト」はやはり椎名林檎 (1978-) だろう。以前にも本ブログで書いたことがあるが、その音楽的スケールと影響力、独創性、作詩・作曲能力、プロデュース能力、性別・世代を超えたパフォーマーとしてのポピュラリティ等――全ての点においてこの二人の才能は傑出している。さらに、ユーミンの歌や曲はいまだに古びず、単なるナツメロではなく時代を超えて愛され続けている。そのユーミンから四半世紀後に登場した椎名林檎は、デビューした年齢も、十代から曲を作ってきた点でもユーミンとほぼ同じだが、若者のほとんどが音楽そのものに熱狂した「70年代」ではなく、音楽がモノと同じように日常の中で消費され捨てられるようになった「90年代」という時代に現れたために、この点では不利だ。しかし'00年代に入ってからもコンスタントに新曲やアルバムをリリースし続け、十代に作った自作曲を20年後のライヴの場で唄い、まったく古くささを感じさせないどころか、そこにさらに新鮮な魅力を加えている椎名林檎も、この「時間」という試練を完全に乗り超えた本物のアーティストになったと言えるだろう。

1970年代という、高度成長期の活力に満ちた日本、希望に満ちた未来へと成長を続けた明るい日本を象徴していたユーミンの楽曲の背景には、バブルに向かって日々変貌していた「モダンな都会」というイメージが常にあった。それに対し、そのバブルがはじけて「昭和」的世界が文字通り終焉を迎え、不況とリストラで先の見えない世紀末の日本であがく団塊ジュニア、氷河期世代の一人として登場したのが、1978年生まれの椎名林檎である。さらに90年代半ばには阪神大震災やオウムのテロが続き、堅牢で安定していたはずの世界が脆くも崩れてゆく様を目撃し、喪失感、孤独感を募らせていたこの世代の音楽家に、自分の思いや感情をてらいなく表現したり、皆で一緒に唄える希望に満ちた歌など、もはや作れるはずがなかった。それまでの日本のポップスにはおよそ見られなかった、椎名林檎の楽曲が持つ深い陰翳と屈折には、個人的資質だけでなく、疑いなくこうした時代背景が投影されていると思う(「スピッツ」の楽曲にも同種のものを感じる)。そして2001年、追い打ちをかけるように、テレビの画面を通してリアルタイムで目撃した米国9.11テロが、アーティスト椎名林檎にさらなる衝撃を与える。

   賣笑エクスタシー
椎名林檎のコスプレ的表現、芝居(演劇)や芝居小屋(劇場)好きは、初期の頃からのMV (Music Video) や映像作品が示す通りだ。残念ながら、私は彼女の本物のライヴの舞台を見たことがないが、DVDなどの映像で見るかぎり、MVやライヴステージは音だけのCDよりも圧倒的に魅力的だし、面白い。テレビ番組では制約があって、その魅力が出せないだろうが、本物のライヴは、きっと芝居小屋のような幻想的かつ猥雑な面白さで一杯だっただろう。MVは80年代からあったが、歌だけでなく、最初からその強烈な「ヴィジュアル・イメージ」を意図的に前面に打ち出して登場した新人アーティストは、日本のポップス史上、おそらく椎名林檎が初めてだろう。90年代からのデジタル技術の進化によって、映像作品の制作が容易になったこともあって、今では当たり前になった映像込みの歌のプロモーション(PV) を、既に90年代の後半に彼女は始めていた。当然ながら、背景にはレコード会社を含めた周到な戦略的マーケティングがあっただろうし、女子高生や新宿系やナース姿などの映像は確かにインパクトがあったが、ある意味で「あざとい」印象を一部の人たちに与えたことも事実だろう。

初期からのMVや映像作品をずっと見ていると分かるが、彼女は最初から「素顔」をほとんど見せない。新作のたびに、まず楽曲の背景になる独自の「物語(シナリオ)」を創作し、その設定に基づいて変幻自在の「椎名林檎」というコスプレ(主演女優)を演じる「出し物」を上演している。歌手にとって自らの存在を象徴する「声と歌唱」も、ドスのきいた巻き舌によるワイルドな歌唱から、幼女のようなあどけない声に至るまで、その「出し物」に応じて千変万化する。まるでカメレオンのように、衣装はもちろんこと、自分の「顔」ですら、新曲を発表するたびに、同じ人物かどうか分からないほど毎回「変えて」いたのが椎名林檎なのだ。女性に人気がある理由の一つは、このパフォーマンスが彼女たちの変身願望を刺激するからだろう。

そこにあるのは、舞台上で観客の視線を一身に浴びる「椎名林檎」をどう演出するか――すなわち、冷静かつ複眼的な視点で「アーティスト椎名林檎をプロデュースする」というコンセプトである。椎名林檎は最初から、単なる作詞・作曲家でも、歌手でも、女優でもなく、それらを統合した「アーティスト」だった。おそらく彼女が最もやりたかったのは、単純な歌手・椎名林檎のショーではなく、「椎名林檎一座」による現代の見世物としての「芝居」(パフォーマンス)であり、彼女は最初から一座の座長(総合プロデューサー)だったのだろう。椎名林檎の、あるときは和風であり、あるときは洋風でもあるという和洋ごちゃまぜ、またあるときはレトロであり、あるときはモダンでもあるという時代交錯感を醸し出す唯一無二の音楽表現に散りばめられたロック、ジャズ、歌謡曲、シャンソンなどの諸要素は、彼女の体内に蓄積され、形成されてきた並はずれた量のデータベースから生まれてくるものだが、アルバムであれ、コンサートであれ、映像作品であれ、それらはすべてこの「芝居」を構成し、娯楽として提供するためのパーツにすぎない。だから2004年に立ち上げたバンド「東京事変」は、この「芝居」の幕間の「音楽ショー」という位置付けなのだろう、と当時の私は勝手に推測していた。

     加爾基 精液 栗ノ花
ド素人の私見だが、このように基本的に「アート志向」の音楽家だった椎名林檎のデビュー後10年間のアルバムを振り返ると、その「芸術的頂点」は、やはり2003年に発表した3作目の『加爾基 精液 栗ノ花』(=カルキ)だろう。十代に作ったという名曲が並ぶ『無罪』『勝訴』は文句なしに素晴らしいアルバムだったが、正直に言って、『カルキ』はまず不思議なタイトルも含めて、最初にそのダークなサウンドを聴いたとき、椎名林檎は頭がおかしくなったのかと思ったほどだ。多重録音を多用していて、一度聴いただけでは掴み切れないほど複雑なサウンドの曲が多いので、何度聴き返したか分からないほど聴いた。しかし繰り返し聴いているうちに、これは本当にすごい作品だと徐々に思うようになった。今も時どき聴くが、まったく飽きないし、古さを感じない(つまり、そこはジャズの名盤と同じである)。冒頭の「宗教」から終曲「葬列」まで、隙のない、緻密に作り上げた曲だけで構成され、詩集、あるいは短編小説集のような文芸色を感じるこの作品も、全てが名曲だ(ただし、ほとんど素人には唄えないような曲ばかりだ。これは「聴く」ための作品なのだ)。しかし今でも、このアルバムを全曲通して聴くと「頭が疲れる」ので、直後に分かりやすいJ-POPでも聴いて頭を休めたくなる。

この「凝りに凝った」アルバムで、椎名林檎はその才覚を駆使して、やりたいことを全てやりつくしている感がある。作詩、作曲、歌唱、編曲、録音、さらに写真、ジャケットデザイン、詩のフォント、シンメトリーにこだわった曲名や言葉の配置、アルバム全体の構成に至るまで、アルバム・コンセプトへの徹底したこだわりぶりは怖いほどだが、それを20代前半という年齢で実現してしまった早熟ぶりと、作品プロデュース能力、それを可能にするアーティスティックな才能は恐るべきものだ。デビュー後、結婚、出産、離婚を経て「大人」になった椎名林檎が、時代性や商業性よりも、「アーティスト椎名林檎」として本当にやりたいことを、とことん突き詰めて作ったアルバムが『カルキ』だったのだろう。そして、個人的体験である出産の「生」、さらに9.11テロが与えた社会的な「死」のイメージも、この作品全体のトーンに影響を与えているように感じる。

      平成風俗
『カルキ』は、タイトル(人前で口に出しにくい)、録音・制作手法(手作り感、多重録音の多用、曲間のつなぎ、音が聴き取りにくい、CCCD等々) に関する物議をかもし、前2作との印象の違いに、ファンの意見を二分したアルバムだったようだが、この『カルキ』のすごさが理解できないと、椎名林檎の半分しか楽しめないことになるだろう。『カルキ』はCDだけでなく、同時期に発表した『短編キネマ 百色眼鏡』『賣笑エクスタシー』他の一連のDVD群と共に、「音と映像」によるマルチメディア作品の一部として鑑賞することで、その世界観のスケールと奥行がさらに理解でき、楽しめる。そしてもう一つ、ライヴ映像を見れば明らかだが、これらの作品は「斎藤ネコ」の超アバンギャルドでグルーヴィーなヴァイオリンとアレンジ、アコースティック楽器によるジャズ演奏という音楽コンセプトなしには表現できない世界だ。「迷彩」のライヴ演奏の後半などは、ほとんどフリー・ジャズだ。

その後、映画『さくらん』の音楽を手掛けるにあたって斎藤ネコと再度共作する。そして今度はホーンとストリングスのフル・オーケストラを編成して、「大人」の鑑賞にも耐えるジャジーなアレンジと聴きやすい録音で、セルフカバー曲を含めて仕上げた『平成風俗』(2007) は、傑作『カルキ』のいわば続編であり、変奏曲であり、別テイクでもある(『カルキ』の原曲を中心に、「商業的に」磨き上げた作品と言ってもいい)。サウンドが激しくないので、高齢者でも(?)何度も聴いて楽しめる奥深さを持ったこの2作は、今も椎名林檎の私的ベストアルバムである。陰翳の濃い曲ばかりで、個人的には優劣がつけ難いが、強いて言えば、編曲を含めた好みは「迷彩」「やっつけ仕事」「意識」「ポルターガイスト」「ギャンブル」「浴室」などだ。名作「夢のあと」も、東京事変『教育』の初出バージョンよりも、『平成風俗』版の方が好みだ。(続く)

2022/08/20

夏のジャズ(2)

夏場にはラテン系など、音数の多い賑やかな音楽を楽しむという人もいるだろうが、私の場合、基本的には音数があまり多くない、空間を生かした、文字通り風通しの良い音楽に「涼しさ」を感じる。夏に聴きたくなるジャズというと、前記事のように、どうしてもギター中心のサウンドになるが、ホーンも、ピアノも、ヴォーカルも、それぞれやはり夏向きの演奏はあるし、またそういう奏者もいる。

In Tune
(1973 MPS)

「山本潤子」の記事で書いたが、80年代はじめに「ハイ・ファイ・セット Hi-Fi Set」が出したジャズ寄りのレコードを集中して聴いていたところ、夏場に聴く「ジャズ・コーラス」も、なかなか気持ちがいいものだと改めて感じた。そこで(ご無沙汰していたが)昔ずいぶん聴いた、オスカー・ピーターソン Oscar Peterson (1925-2007) が自身のトリオ名義でプロデュースした男女4人組(女声1人)コーラス・グループ 、"シンガーズ・アンリミッティド The Singers Unlimited" の『In Tune』(1973) を久々に聴いてみた。"The Singers Unlimited" は、70年代に『A Capella』他の美しいコーラスアルバムを数多くリリースしているが、1971年に録音されたメジャー・デビューとも言える本アルバムでも非常に気持ちの良いコーラスを聞かせている。ピーターソンのピアノは個人的にはあまり趣味ではないが、このアルバムではピアノトリオがコーラスの背後で控え目な演奏に徹していて、かつMPSらしいソリッドな音質もあって、どのトラックも楽しめる。特に好きだったLPのB面1曲目「The Shadow of Your Smile」の冒頭のアカペラのコーラスハーモニーは、夏場に聴くとやはり気持ちが良い(CDでは6曲目)。

 In Harvard Square
 (1955 Storyville)
ホーン楽器だと、夏場はやはり涼しげなアルトサックス系がいい。そこで文字通り「クールな」リー・コニッツ Lee Konitz (1927-2020) を聴くことが多い。どちらかと言えば、あからさまな情感 (emotion) の発露が低めで、抽象度が高いコニッツの音楽は、聴いていて暑苦しさがないので基本的に何を聴いても夏向き(?)だ。だが私の場合、トリスターノ時代初期のハードなインプロ・アルバムはテンションが高すぎて、あまり夏場に聴こうという気にならない。頭がすっきりする秋から冬あたりに、集中して真剣に音のラインを辿るように聴くと、何度聴いてもある種のカタルシスを感じられる類の音楽だからだ。だから夏場に聴くには、1950年代半ばになって、人間的にも丸みが出て(?)からStoryvilleに吹き込んだワン・ホーン・カルテットの3部作(『Jazz at Storyville』『Konitz』『In Harvard Square』)あたり、あるいは50年代末になってVerveに何枚か吹き込んだ、ジム・ホールやビル・エヴァンスも参加した比較的肩の力を抜いたアルバム(『Meets Jimmy Guiffree』『You and Lee』)とかが、リラックスできていい。ここに挙げた『In Harvard Square』は、Ronnie Ball(p), Peter Ind(b), Jeff Morton(ds) というカルテットによる演奏。Storyville盤は3枚ともクールネスとバップ的要素のバランスがいいが、このアルバムを聴く機会が多いのは、全体に漂うゆったりしたレトロな雰囲気と、私の好きなビリー・ホリデイの愛唱曲を3曲も(She's Funny That Way, Foolin' Myself, My Old Flame)、コニッツが取り上げているからだ(コニッツもホリデイの大ファンだった)。

Cross Section Saxes
(1958 Decca)
リー・コニッツのサウンドに近いクールなサックス奏者というと、ほとんど知られていないが、ハル・マキュージック Hal McKusick (1924-2012) という人がいる(人名発音はややこしいが、昔ながらの表記 "マクシック" ではなく、マキュージックが近い)。上記リー・コニッツのVerve盤や、『Jazz Workshop』(1957) をはじめとするジョージ・ラッセルの3作品に参加していることからも分かるように、そのサウンドはモダンでクールである。本作『Cross Section Saxes』(1958 ) の他、何枚かリーダー作を残していて、いずれも決して有名盤ではないが私はどれも好きで愛聴してきた。押しつけがましさがなく、空間を静かに満たす知的なサウンドが夏場にはぴったりだ。1950年代後期、フリージャズ誕生直前のモダン・ジャズの完成度は本当に素晴らしく(だからこそ ”フリー” が生まれたとも言える)、黒人主導のファンキーなジャズと、主に白人ジャズ・ミュージシャンが挑戦していた、こうしたモダンでクールなジャズが同時に存在していた――という、まさにジャズ史の頂点というべき時代だった。本作もアレンジはジョージ・ラッセルや、ジミー・ジュフリーなど4名が担当し、マキュージック(as, bc他) 、アート・ファーマー(tp)、ビル・エヴァンス(p)、バリー・ガルブレイス(g)、ポール・チェンバース(b)、コニー・ケイ(ds)他――といった多彩なメンバーが集まって、6人/7人編成で新たなジャズ創造に挑戦する実験室(workshop)というコンセプトで作られた作品だ。このアルバムの価値を高めているのも、デビュー間もないビル・エヴァンスで、ここで聴けるのはマイルス・デイヴィスの『Kind of Blue』(1959) 参加前夜のエヴァンスのサウンドだ。その斬新なピアノが、どのトラックでもモダンなホーン・サウンドのアクセントになっている。

Pyramid
(1961 Atlantic)
夏場に、ギターと並んでもっとも涼しさを感じさせるのがヴィブラフォン(ヴァイブ)のサウンドだ。モダン・ジャズのヴァイブと言えば、第一人者はもちろんMJQのミルト・ジャクソン Milt Jackson (1923-99) である。MJQと単独リーダー作以外も含めると、ジャクソンが参加した名盤は数えきれない。何せヴァイブという楽器は他に演奏できる人間が限られていたので、必然的にあちこち客演する機会が多くなって、特に大物ミュージシャンのアルバムへ参加すると、それがみな名盤になってしまうからだ。1940年代後半から50年代初めにかけてのパーカー、ガレスピー、モンク等との共演後、1951年にガレスピー・バンドの中から "ミルト・ジャクソン・カルテット(MJQ)" を立ち上げるが、翌52年頃からピアニスト、ジョン・ルイス John Lewis (1920-2001) をリーダーとする "モダン・ジャズ・カルテット(こちらもMJQ)" (パーシー・ヒース-b, ケニー・クラーク後にコニー・ケイ-ds) へと移行した。よく知られているように、MJQはジャズとクラシックを高いレベルで融合させ、4人の奏者が独立して常に対等の立場で演奏しながら、ユニットとして「一つのサウンド」を生み出すことを目指したグループで、ルイスの典雅なピアノと、ジャクソンのブルージーなヴィブラフォンがその室内楽的ジャズ・サウンドの要だった。その後70年代の一時的活動中断を経て、1997年までMJQは存続し、ジャクソンはその間ずっと在籍した。MJQの名盤は数多いが、モダン・ジャズ全盛期1959/60に録音された『Pyramid』は、比較的目立たないが、彼らのサウンドが絶妙にブレンドされた、クールで最高レベルのMJQの演奏が味わえる名盤だ。

Affinity
(1978 Warner Bros)
ピアノはそもそもの音がクールなので、夏向きの音楽と言えるが、やはり「涼し気な」演奏をする奏者と、そうでないホットな人はいる。ビル・エヴァンス Bill Evans (1931- 80) はもちろん前者だが、上で述べたコニッツの場合と同じく、夏場はリラクゼーションが大事なので、エヴァンス特有の緊張感のあるピアノ・トリオよりも、ハーモニカ奏者トゥーツ・シールマンToots Thielemans (1922-2016) 他との共演盤『Affinity』あたりが、いちばん夏向きだろう(マーク・ジョンソン-b、エリオット・ジグモンド-dsというトリオに、ラリー・シュナイダー-ts,ss,flも参加)。これは1980年に亡くなったビル・エヴァンス最晩年の頃の演奏で、若い時代の鋭く内省的な演奏というよりも、どこか吹っ切れたような伸び伸びした演奏に変貌していた時期で、本作からもそれを感じる。ベルギー生まれのシールマンは、1950年代はじめに米国へ移住後、数多くのジャズやポピュラー音楽家と共演してきたハーモニカの第一人者。夏場、特に夕方頃に聴くハーモニカの哀愁を帯びたサウンドは清々しく、とりわけ「Blue in Green」などは心に染み入る。

The Cure
(1990 ECM)
キース・ジャレット Keith Jarret (1945-) の健康状態に関するニュースが聞こえてくると、ジャズファンとしては悲しいかぎりだ。ついこの間もバリー・ハリス(p) の訃報を聞いたばかりで、20世紀のジャズレジェンドたちが一人ずつ消えてゆくのは、本当にさびしい。ピアノを弾くのが困難でも、キースには、せめて長生きしてもらいたいと思う。そういうキースのアルバムは、すべてが「クール」と言っていいが、演奏の底に、何というか、ジャズ的というのとはまた別種の「情感」が常に流れているところに独自の魅力があるピアニストだと個人的には思っている。80年代以降の「スタンダード・トリオ」(ゲイリー・ピーコック-b, ジャック・デジョネット-ds) 時代のレコードは、ほぼ全部聴いていると思うが、私の場合ここ10年ほどいちばんよく聴くのは、トリオも熟成した後期になってからのレコード『Tribute』(1989) や、ここに挙げた『The Cure』(1990) だ。モンク作の「Bemsha Swing」(実際はデンジル・ベスト-ds との共作)や、自作曲「The Cure」、エリントンの「Things Ain't…」など、ユニークな選曲のアルバムだが、なかでもバラード曲「Blame It on My Youth」(若気の至り)の、ケレン味のないストレートな唄わせぶりが最高に素晴らしくて何度聴いたか分からない。この後ブラッド・メルドーや、カーステン・ダールといったピアニストたちが、この曲を取り上げるようになったのは(キース自身、その後のソロ・アルバム『The Melody at Night, with You』(1999) でも再演している)、ナット・キング・コール他の歌唱でも知られるこの古く甘いスタンダード曲を、クールで美しい見事なジャズ・バラードに昇華させたキースの名演に触発されたからだろう。ニューヨーク・タウンホールでのライヴで、相変わらず響きの美しい、気持ちの良い録音がトリオの演奏を引き立てている。

Mostly Ballads
(1984 New World)
もう一人は、まだ現役だが、やはり白人ピアニストのスティーヴ・キューン Steve Kuhn (1938-) だろうか。若い頃は耽美的、幻想的と称されていたキューンのピアノだが、私的印象では、どれも凛々しく知的な香りがするのが特徴で、一聴エモーショナルな演奏をしていても、その底に常にクールな視座があり、ホットに燃え上がるということがない。しかしその透徹したサウンドはいつ聴いても美しく、またクールだ。初期のトリオ演奏『Three Waves』(1966) や、ECM時代のアルバムはどれも斬新でかつ美しい。本作『Mostly Ballads』(1984) は私の長年の愛聴盤で(オーディオ・チェックにも使ってきた)、ソロとベース(ハーヴィー・シュワルツ Harvie Swartz)とのデュオによる、静かで繊細なバラード曲中心の美しいアルバムだ。響きと空気感をたっぷりと取り込むDavid Bakerによる録音も素晴らしく、大型スピーカーで聴くと、キューンの美しいピアノの響きに加えて、ハーヴィー・シュワルツのベースが豊かな音で部屋いっぱいに鳴り響くのだが、小型SPに変えてしまった今の我が家では、もうあのたっぷりした響きが味わえないのが残念だ。

Complete
London Collection
(1971 Black Lion)
「クール」とか「涼しい」をテーマにすると、どうしても白人ジャズ・ミュージシャンばかりになってしまうが(自分の趣味の問題もある)、ピアノではもう一人、実はセロニアス・モンク Thelonious Monk (1917- 82) の演奏、それもソロ・ピアノは暑苦しさが皆無なので、夏に聴くと非常に心が落ち着く気持ちの良い音楽だ。モンクのソロ・アルバムの枚数は4枚しかないが、もう1つが、モンク最後のスタジオ録音になった『London Collection』(1971) のソロで、録音もクリアで聴いていて非常に気持ちが良い。3枚組CDでリリースされた本作品のソロは、alt.takeを含めてVol.1とVol.3に収録されていて、晩年になってもソロ演奏だけは衰えなかったモンクが楽しめる。LP時代には発表されず、CD版のVol.3の最後に追加されたソロで、「Chordially」と名付けられた「演奏」は、モンクが録音本番前に様々な「コードchord」を連続して弾きながらウォーミングアップしている模様を約9分間にわたって記録した音源だ(ちなみに、英語の "cordially" は、「心をこめて」という意味の副詞である。タイトル "chordially" は、モンクらしい言葉遊びだろうと推測している)。翌1972年からウィーホーケンのニカ邸に引き籠る前、欧州ツアー中のロンドンで記録された文字通りセロニアス・モンク最後の「ソロ演奏」であり、比類のない響きの美しさがなぜか胸に迫って、涼しさを通り越して、もの悲しくなるほど素晴らしい。

2022/08/10

夏のジャズ(1)

真冬の生まれなので、暑い夏はそもそも苦手だ。今年のような酷暑は最悪である。本来ジャズは夏向きのホットな音楽だが、避暑地や夜のジャズクラブでのライヴならともかく、日本の蒸し暑い夏に、狭い日本の家の中で、レコードで聴くホットなジャズはやはり暑苦しい。最近は歳のせいもあって、聴くのに気力、体力を要するようなヘビーなジャズ(昔のジャズ)をじっくり聴くことはめっきり減った。夏場はとりわけそうで、ボサノヴァや、ポップス系統のリラックスして聞き流せる音楽、ジャズでも、重くなく軽快、あるいはクールさを感じさせるサウンドを持つ演奏をどうしても聴きたくなる。それに暑くて、難しいことを考えるのも億劫なので、一聴クールでも、「思考」することを要求するようなテンションの音楽も私的にはアウトだ。ジャケットも暑苦しくない、見た目が涼し気なデザインが好ましい(これらは、あくまで個人的趣味嗜好の話なので、もちろん賛同できない人もいるだろうと思います)。

Jim Hall & Pat Metheny
(1999 Telarc)

夏場に聴いて、もっとも気持ちの良いジャズは何かと言えば、これもまったくの個人的好みだが、その答は「ジャズギター」だ。ロックやポップスと違い、オーソドックスなジャズギターはアコースティック系でも、エレクトリック・ギターでも、基本的サウンドは「クール」である。もちろん奏者にも依るが、たとえばジム・ホールJim Hall (1930-2013) の演奏はエレクトリック・ギターだが、クールなサウンドのジャズギターの代表だ。ホールにソロ・アルバムはない(と思う)が、ビル・エヴァンスとの『Undercurrent』を筆頭に、ロン・カーター、レッド・ミッチェル、チャーリー・ヘイデンというベース奏者との「デュオ作品」があって、いずれも名人芸というべきジム・ホールの見事なインタープレイが楽しめる。ここに挙げたパット・メセニーPat Metheny (1954-) とのギターデュオ・アルバムも、名人二人による演奏、サウンド共に最高にクールだ。ジム・ホールはエレクトリック・ギターだけだが、メセニーはアコースティック、エレクトリック両方を弾き分けて変化のあるデュオ演奏にしている。特に、美しいメロディを紡ぎ出すメセニーとの、息の合った繊細なバラード演奏(Ballad Z, Farmer's Trust, Don't Forget, All Across the City等)が素晴らしい。クラシック録音が専門のTelarcレーベル特有の、空間の響きを生かした、ジャズっぽくないクールな録音も夏場はいい。

Small Town
(2017 ECM)
サウンド・コンセプトという点で、クールなジム・ホールの延長線上にいるギタリストがビル・フリゼール Bill Frisell (1951-) だ。聴けば分かるが(ド素人なので技術的なことは分からないが)、二人の「サウンド」は非常によく似ている。たぶんギターのトーンと、音の間引き具合、スペース(空間)の使い方から受ける印象が、そう感じさせるのだろう。フリゼールはずっと、ジャズというジャンルを超えた音楽を追及していて、「アメリカーナ」というローカル・アメリカの文化・伝統に根差した、より幅の広い音楽領域を視野に入れた世界を探求している(より土着的、大衆的で、分かりやすい音楽とも言える)。「ヴィレッジ・ヴァンガード」でのライブ録音の本作『Small Town』は、トーマス・モーガンThomas Morgan (1981-) のベースとのデュオ演奏で、静謐な音空間の中に深い知性を感じさせながら、一方で、やさしく包みこむようなフリゼールのギターが相変わらず魅力的だ。本作ではなんと、トリスターノ時代のリー・コニッツの代表作で、今やジャズ・スタンダード曲の一つ「Subconscious Lee」も取り上げている。ギターによる同曲の演奏は(高柳昌行の録音以外)聴いたことはなく、このフリゼールの演奏はなかなかの聞きものである。ちなみに、私の訳書『リー・コニッツ ジャズ・インプロヴァイザーの軌跡』の中で、フリゼールがコニッツとの共演体験について語っているインタビューがあるが、コニッツの音楽の特徴をミュージシャン視点で語っていて非常に面白い。このCDに加えて、もう1枚(同じ時の録音の)デュオアルバム『Epistrophy』(2019 ECM) もその後リリースしていて、そこではセロニアス・モンクの表題曲に加えて「Pannonica」も弾いている(フリゼールはモンク好きでもある)。

My Foolish Heart
(2017 ECM)
夏場に「涼しさ」をいちばん感じさせる音楽は、(ボサノヴァもそうだが)やはりナイロン弦のガットギターを使うジャズだろう。フュージョン系ならアール・クルーEarl Klugh だが、クールなECM系のジャズならラルフ・タウナーRalph Towner (1940-) がいる。タウナーは自己のバンド「オレゴン」に加えて、1970年代から『Diary』(1974) など、単独でECMに数多くの録音を残しており、特に静謐な空間に響きわたる独特のソロ・ギターは、冬場はサウンドが冷え冷えしすぎて、個人的にはあまり聴く気が起こらないのだが、夏場に聴くと逆にそのクールなサウンドが非常に気持ちがいい。タウナーはスチールの12弦アコギの演奏も多く、そちらはさらにシャープでエッジのきいたサウンドだが、柔らかでかつクールなナイロン弦ギターのソロ演奏も多く(いずれもECM)、『Ana』(1996) 『Anthem』(2001)『My Foolish Heart』(2017) などは、いずれも静謐かつ美しいギターサウンドが聴けるアルバムだ。

Time Remembered
(1993 Verve)
ビル・エヴァンスが演奏していた代表曲を、ガットギターだけの「アンサンブル」でクールかつクラシカルに演奏した、ジョン・マクラフリンJohn McLaughlin (1942-) の『Time Remembered:Plays Bill Evans 』(1993) も、美しく涼やかなサウンドで、夏になると聴きたくなるレコードだ。マクラフリンは60年代末にマイルス・デイヴィスの『Bitches Brew』他へ参加して以降、マハビシュヌ・オーケストラでのジャズ・ロック、パコ・デ・ルシア、アル・ディメオラとのギター・トリオ、クラシック分野への挑戦など、超絶技巧を駆使して多彩なジャンルで演奏活動を行なってきた真にヴァーサタイルなギタリストだ。マクラフリンと4人のクラシックギター奏者、アコースティック・ベースというセプテット編成のこの作品は、崇拝していたビル・エヴァンスへのオマージュとして1993年にイタリア・ミラノで制作したアルバムで、空間に美しく響く繊細なサウンドは、ビル・エヴァンスの世界を見事にギターで再現している。

Moon and Sand
(1979 Concord)
ガットギターによる夏向きのアルバムを、もう1枚あげれば、ケニー・バレル Kenny Burrell (1931-) がギター・トリオ(John Heard-b, Roy McCurdy-ds)で吹き込んだ、ラテン風味が散りばめられた『Moon and Sand』(1979 Concord) だろうか 。ケニー・バレルは、チャーリー・クリスチャン、ウェス・モンゴメリーに次ぐ黒人ギタリストで、ブルース・フィーリングに満ちた数多くのジャズ・アルバムを残してきたが、ガット・ギターの演奏にもかなり挑戦している。ギル・エヴァンスのオーケストラと共作した『Guitar Forms(ケニー・バレルの全貌)』(1965 Verve) でも、何曲か渋いガットギターを披露している。アルバム・タイトル曲「Moon and Sand」もその中の1曲だ。本作でも10曲のうち半数がガットギターの演奏で、Concordということもあって、全体的印象としてはイージーリスニング風だ。とはいえ、「どう弾いても」ブルージーになってしまう、というバレルのギタープレイが楽しめる好盤だ。このCDは今は入手困難らしく、ネット上ではとんでもないような価格がついているが、調べたところ、他のバレルのアルバムと合体させた2枚組CD『Stolen Moments』(2002)が同じConcordから「普通の」値段でリリースされていて、その2枚目に本作が収められているので、入手したい人はそちらを購入することを勧めます。

Jazz
(1957 Jubilee)
昔はB級名盤として、たまに取り上げられていた地味なアルバムが、ジョー・ピューマ Joe Puma (1927-2000) の『Jazz』(1957 Jubilee) という、ヒネリのないそのまんまのタイトルのレコードだ。ピューマがまた、これといった特徴のない奏者で(ジミー・レイニーの音に似ている)、このアルバムが日本でなぜ結構知られていたかと言えば、前年に『New Jazz Conceptions』でRiversideからデビューしたばかりのビル・エヴァンスが、ピアノで3曲参加しているからだろう。LPのA面3曲は、ピューマとエディ・コスタ Eddie Costa のヴィブラフォン、オスカー・ペティフォードのベースというトリオ、B面3曲がピューマ、ビル・エヴァンス、ポール・モチアンのドラムスに、ペティフォードのベースというカルテットによる演奏だったが、CDもそのままだ。その後、ペティフォードの代わりにスコット・ラファロがベースで加わって、あのビル・エヴァンス・トリオが誕生したのだろう。全体にオスカー・ペティフォードのがっしりとしたベースが中心のサウンド(モノラル録音)で、そこにピューマのギター、コスタのヴァイブ、エヴァンスのピアノという3者がスムースかつクールにからむ――という、まあこれといった特徴のない演奏が淡々と続くアルバムなのだが、そのあっさり感が逆に夏向きで(?)気持ちが良い。コスタのヴァイブもクールでいいが、短いながらも、デビュー間もない若きエヴァンスのシャープなピアノは、いつ聴いてもやはり斬新だ。

Guitar On The Go
(1963 Riverside)
ウェス・モンゴメリーWes Montgomery (1923-67) は、オクターブ奏法を駆使して、ブルージーかつドライヴ感のあるホットな演奏をする奏者というイメージが強いが、ウェスの代表的アルバムに収録されているバラード演奏などを聴くと、非常に美しくセンシティブなサウンドが聞こえてきて、単にテクニックばかりでなく、深い歌心のあるギタリストでもあることがよく分かる。『Guitar On The Go』(1963) はそのウェスが、故郷インディアナポリス以来の盟友メル・ラインMel Rhyne のオルガン・トリオをバックに、いかにもリラックスして演奏したRiverside時代最後のアルバムで、Verveへ移籍後ポップなウェスに変身する前のピュア・ジャズ作品である。とはいえ、どの曲もメル・ラインのアーシーかつグルーヴィーなオルガンが実に気持ちよく響き、そこにウェスの滑らかなメロディ・ラインがきれいに乗って、まさにスムース・アンド・メローを絵に描いたような、気持ちの良い演奏である(夜寝る前にこれを聴くと、ぐっすりと眠れる)。ちなみにこのアルバムは、今から半世紀以上前の高校生時代に、私が人生で初めて買った思い出深いジャズ・レコード(当時の新譜)である。こういうレコードを聴くと、モダン・ジャズはいつまで経っても古びない音楽だなと、つくづく思う。

2021/05/14

井上陽水の50年

ジャズ以外の音楽を聴くとなると、年末に聴く演歌系とは別に、年に何回か集中して聴きたくなる日本人アーティストがいる。私の場合、長谷川きよしと並んで頻度が高いのはやはり井上陽水だ(他には、ほぼ夏限定だが山下達郎、大瀧詠一、サザン)。いつもはレコードを聴くのだが、たまには映像でもということで、先日は「陽水の50年」という、井上陽水のデビュー50周年となる2019年末にNHKが放送したテレビ番組の録画をしばらくぶりに見た。もちろん陽水の歌も久々に堪能したが、松任谷由実、玉置浩二、奥田民生、宇多田ヒカル、リリー・フランキーという陽水と交流のある5人のゲストが、旧友、師匠、弟子、同業者、先輩、ダチ…といった各視点で陽水を語る趣向も面白かった。玉置浩二、奥田民生との懐かしいデュエット、宇多田ヒカルの〈少年時代〉のカバー映像(一部だが)なども楽しめた。

ユーミンが「ヨースイ」と呼び捨てにしたり、奥さんの石川セリと親友だ…とかいう話も初めて聞いた(前に一度見たはずなのだが、演奏部分は記憶にあっても、このコメントは憶えていなかった…)。奥田民生の、陽水のカニ好きの話も面白かったが、興味深かったのは、宇多田ヒカルがソングライターとしての彼女との同質性を語った、特に歌詞に関する分析で、陽水の詩の本質を見事に捉えていたように思う(さすがに天才同士)。相変わらず掴みどころのない、陽水のシニカルでおネェな喋りも久々に楽しんだ。昔から、思い切り力の抜ける「みなさん、お元気ですかー」という日産セフィーロのバブル時代(1988年)のCMといい、時々テレビで見たタモリとのサングラス漫談のようなやり取りといい、最近では『ブラタモリ』の脱力系エンディング・テーマ〈女神〉といい、清水ミチコのモノマネのネタになるほどキャラの立った陽水には、唯一無二の存在感がある。今やユーミンも出ている年末の『紅白』には、「恥ずかしいから」という理由で出場しないところもおかしい。

それにしても70歳を越えてなお(1948年生まれだ)衰えを見せずにあの高音域を駆使し、しかも50年も前の自作曲を、まったく古臭さを感じさせずに唄いこなす井上陽水は間違いなく天才だが、その尋常ではない才能とバイタリティからして、「怪物」とさえ呼べそうな気がする。「アンドレ・カンドレ」 という、"いかにも" な芸名で陽水がデビューした1969年前後は、20歳前後になった団塊世代に支えられ、あらゆる新しい音楽が爆発的な勢いで出現した日本の音楽市場の「ビッグバン時代」だった。今はもう当たり前だが、自作自演の「シンガーソングライター」という言葉が生まれたその時代に、鮮烈なオリジナリティを持って現れ、その後半世紀にわたって楽曲創作を続け、唄い続け、しかも時代ごとに、誰もが今でも記憶している大ヒット曲をコンスタントにリリースしてきた陽水ほど、その呼称にふさわしい日本人歌手はいないだろう。吉田拓郎、小椋佳、小田和正、長谷川きよし…など、あの時代に現れた自作曲を唄う素晴らしい歌手はたくさんいるが、この50年をあらためて振り返ってみると、陽水はやはり別格のアーティストなのだということがよくわかる。

陽水の独創性をもっとも象徴しているのは、独特の歌声とメロディに加え、世代を超えて日本人の心の琴線に触れる「歌詞」であり、その言葉が喚起する文学的、詩的、哲学的イメージである。時に呪文のようにも、単なる語呂合わせ(?)とも聞こえることもあるが、ありきたりの言語表現が生む月並みな世界とは縁のない歌詞、そこから生まれるイメージの抽象性こそが、陽水の楽曲がいつまでも古びず、時代に縛られないオールタイム性を維持してきた最大の理由だろう。どこにでもありそうでいて実は存在しない世界を、日本的情緒と、時にシュールなイメージにくるんで描くファンタジーが陽水ワールドなのだ。ある意味で、これほど文学的、哲学的な雰囲気が濃厚な歌手、楽曲は、日本のポピュラー音楽界には他に存在しない。しかも、それでいながらほとんどの曲に、ヒットに必須の要素、日本の大衆にアピールする要素がかならずあるところが陽水の音楽の魅力だ。ただし、諧謔、言葉遊びの要素もあるその歌詞に、過剰に深い意味を見出そうとするのは、本人も本意ではない(恥ずかしい?)だろうという気がする。基本的に「はぐらかし」が好きなので、聴き手側が抱くイメージが(歌詞の抽象性ゆえに)多彩、多様であればあるほど、喜ぶ人ではないかと思う。

歴史の長い陽水のベストアルバム、ベスト曲は、人によって様々だろう。シングル盤の名曲もたくさんあるし、数多いヒット曲からセレクトしたベスト曲コンピ盤もある。ダウンロードやストリーミングという曲のバラ聞き時代には、「アルバム=作品」という意識も稀薄になって、今後はアルバム単位で歌手の世界を語ることもさらに減ってゆくだろう。しかしジャズがそうだが、陽水のように単発のヒット曲云々を超えて、時代を代表するような楽曲を数多く残してきた20世紀のポップ・アーティストは、やはり時代を切り取るようなアルバム単位で、いつまでも語る意味も価値もあると思う。古い時代のアルバムから順次聞き返すと分かるが、何より陽水のアルバムは、あたかも一人の作家が発表してきた詩や短編小説を集めた作品集のように、一作ごとにアルバム・コンセプトが背後にきちんと存在することを感じさせる。陽水の楽曲はそれぞれが一編の詩か小説(物語)であり、だから各アルバムには一つのムードを持った詩集あるいは短編小説集の趣がある。

ベストアルバムは初期3作を挙げる人が多いそうだが、やはり70年代のアルバムにある陽水的な斬新さこそがいちばん魅力的だ。デビュー盤『断絶』(1972) は、〈傘がない〉などまさに陽水を代表する歌もあるが、アルバム全体としてまだ60年代フォーク色が強く、さすがに今聴くと曲想もサウンドも多少古臭く感じる部分がある。『陽水IIセンチメンタル』(1972) は、タイトル通り、若さとメランコリー感に満ちた名曲、佳曲が並ぶ文字通りの名盤だが、中でも〈能古島の片思い〉などは、永遠の青春ラヴソングだ。アルバム全体の完成度という点からいえば、次の『氷の世界』(1973) が70年代と言わず、陽水の全作品の中でもダントツだろう。日本初のミリオンヒットとなったこのアルバムには、若き陽水のあふれるような才能が凝縮されている。タイトル曲の他、〈心もよう〉〈白い一日〉〈帰れない二人〉など名曲も満載であり、1970年代初頭の時代の風景と我々の記憶を、もっとも鮮明に甦らせるレコードだ。続く『二色の独楽』(1974) は結婚後のハッピー感とLA録音のせいもあったのか、陽水の作品ではもっとも「明るい」アルバムだ。ただし充実しているが、明る(軽)すぎて、どこか陽水的な深みや謎という「風味」が薄い気がする(この盤は録音もいまいちだ)。70年代で個人的に好きなもう1作は、フォーライフ設立後の初アルバム『招待状のないショー』(1976) だ。〈結詞〉(むすびことば) のような名曲の他、どの曲も編曲も、一皮むけたようなモダンさ、シンプルさ、味わいがある(以上、あくまで個人的感想です)。

陽水のアルバムのもう一つの特徴は、時代を問わず、どれも「録音」のクオリティが高いことだ。1970年代のレコードは、完成されたアナログ技術とそれに習熟した音響技術者が録音していることもあって、ニューミュージックと呼ばれていた当時の他のレコードも総じて録音は良いが、陽水のアルバムはそれらに比べてもサウンドのナチュラルさが際立っている。ヴォーカルも楽器の音もレンジが広く、非常に深みのある音で録られているので、オーディオ的にも再生する楽しみが大きい。上記の主要アルバムは、70年代発売当時に買ったLPと、80年代以降のリマスターCDの両方を持っているが、考えてみれば当時買ったLPなどは、ジャズで言えばオリジナル盤に相当するわけで、サウンドの鮮度が高いのも当然だ(だが、アルバムのCD版も音は非常に良い)。陽水自身が、どれだけ自作アルバムの録音クオリティにこだわりがあるのかは分からないが、「音楽耳」が異常に優れた人のはずなので、コンサートやテレビ番組でのサウンドから想像できるように、質の低いサウンドや録音を許すとは思えない。だから陽水自身が、作品の録音の質には相当深く関わっているのだろうと想像する。すべて好録音の70年代の陽水作品の中でも、私の装置で聴いた限りは『招待状のないショー』が最も音質的に優れた録音のように思う。これはLPでも、CD版で聴いても同じである。やはりオリジナル・アナログ録音そのものの質が高かったのだろう。1970年代の、特にアコースティック・サウンドをナチュラルに捉えたアナログ録音は、技術レベルの点でも、やはり日本の録音史の頂点だったのだろう。そしてほぼ同世代の大瀧詠一や山下達郎などもそうだが、音と響きへの繊細な感性を持ち、妥協せずに録音の質にこだわるアーティストは、当然だがヴォーカルだけでなくアルバム全体の「サウンド」も素晴らしいのである。

80年代以降で私が好きなアルバムの筆頭は『Lion & Pelican (ライオンとペリカン)』(1982)で、次に『ハンサム・ボーイ』(1990)、『アンダー・ザ・サン』(1993) という3枚だ。時代を超える陽水の楽曲だが、当然ながら創作行為はその時代の空気の中で行なっているわけで、これら3枚を<before/ mid/ after "バブル">という視点で聴いてみると、曲想と時代の関係も透けて見えてきて面白い。『ライオン…』は、タイトル曲の他、〈リバーサイド・ホテル〉〈背中まで45分〉、個人的に好きな〈チャイニーズ・フッド〉〈約束は0時〉他の名曲揃いの傑作アルバムで、30歳を過ぎた陽水による洗練された大人の音楽という印象だ。バブル全盛期の『ハンサム・ボーイ』には〈最後のニュース〉〈少年時代〉というメガヒット曲に加えて、個人的に大好きな〈自然に飾られて〉という名曲がある。そして『アンダー・ザ・サン』には、〈5月の別れ〉〈Make-up Shadow〉〈カナディアン・アコーディオン〉という、これも大ヒット曲が収録されている……が、こうしていくつか曲を挙げてみたところで、これらは陽水が書いた数多くの名曲のほんの一部にすぎないことをあらためて感じる。それほど陽水には名曲が多い。

そしてコンサート・ライヴに出かけると、陽水が唄うどの曲も、我々の世代の身体と心の奥底に深く沁みこんでいることがつくづく分かる。'00年代以降になってから、都内で行なわれた陽水のライヴ・コンサートに何度か出かけたが、それは陽水が60歳頃に行なった年齢を感じさせないコンサートの素晴らしさに感激して、つい何度も出かけるようになったからだ。テレビで見るより遥かにエネルギッシュで、しかも毎回アレンジに工夫を凝らしたサウンドをバックに唄いまくる陽水のステージは、その年齢を考えたらまさに驚異的だ。高域は徐々に苦しくなってはきたが、オリジナルのキーは維持しているし(たぶん)、声量はまだ十分で、ピッチは常に安定して決して音を外さず、リズムには融通無碍というべき柔らかさがあり、バックのサウンドも毎回シンプルでいながら新しい。天性の資質があるとはいえ、年齢的に見て、体力はもちろんのこと、事前に相当量のボイス・トレーニングをこなすことなしに、あの2時間近い濃密なパフォーマンスを維持することはできないだろう。そして何より、陽水がステージで唄う数多い曲のほとんどを、聴き手であるファンが鮮明に記憶しているという点にこそ、アーティストとしての井上陽水のすごさがある。

70歳を越えてなお現役で活動を続ける陽水は、時空を超えて、音楽の持つ不思議な力を実感させてくれる稀有なアーティストだ。どんなジャンルの音楽もそうだが、ライヴ・コンサートでは、その場にいるアーティストと聴衆だけが共有できる真に幸福な瞬間が時として生まれる。ジャズにもそういう瞬間はあるが、陽水のようなポピュラー歌手の場合は、聴衆のほとんどが名曲の記憶と共に生きる同時代人であることが聴く喜びを増幅するので、会場のボルテージがまったく違う。ステージ上の陽水も、そうした聴衆側の思いや感動を直接感じ取り、インスパイアされながら唄っているはずだ。昨年来のコロナ禍を最悪の厄災と呼ぶしかないのは、音楽産業や演奏活動への経済面の打撃ばかりでなく、アーティストと音楽ファンをつなぐ、人生におけるこうした至福の瞬間も奪ってしまったからである。

2021/01/29

年末に聴く「永遠の嘘をついてくれ」

私はジャズ好きだが、ジャズしか聴かないゴリゴリのジャズファンというわけではない(今どき、そんな人がいるかどうかは知らないが)。昔からボサノヴァやシャンソン、クラシック音楽はもちろん、日本のフォークもJ-ポップも演歌も歌謡曲も自分が良いと思った音楽なら何でも聴いてきた。昔から椎名林檎のファンだったし、最近は米津玄師とかあいみょんもたまに聴く。良い音楽にジャンルも時代も関係ないからだ。最近の印象は、カラオケ文化のおかげで、どの歌手もみんな歌がうまいのと、たぶんアニソンの影響だろうが、全体的に感情を露わにする「絶叫型」の歌唱が増えたように思う。ロック系を除くと、日本人の歌い手は伝統的にあの種の唄い方はしていなかったような気がする。何だか、みんな何かを訴えかけるように、大声で叫んでいる歌ばかりのように聞こえるが、気のせいか。

つま恋 2006
youtube.com
例年、年末になると、なぜか昔聴いた演歌とか歌謡曲をずっとYouTubeで見聞きするのが恒例なのだが、コロナのせいかどうか分からないが、昨年末はどうもそういう気分にならなかった。代わりに聴いていたのが吉田拓郎、浜田省吾、中島みゆき…といった普段ほとんど聞いたことのないミュージシャン、つまり同世代のフォーク系ミュージシャンというべき人たちだった。きっかけは、たまたまYouTubeで吉田拓郎と中島みゆきの「2006年つま恋」での伝説的な歌と映像を、久しぶりにテレビ画面で見たことからだった。YouTubeというのは、こうして昔聴いた人たちが突然画面に現れて、それに引きずられるように、ずるずると芋づる式にその時代の歌や歌手をあれこれ思い出しては続けて聴いてしまう、というタイムスリップ起動作用がある。コロナ禍でもなければ、たぶんみんな我慢できずにカラオケ店へと急ぐことだろう。

2006年9月23日の「つま恋」野外コンサートは、1975年の「拓郎・かぐや姫」以来、31年ぶりのジョイント・コンサートとあって、3万5千人の中高年(!)が大挙してつめかけたという。3万5千人の中高年大集合という絵柄も想像を絶するが、そういえば1970年代という時代には、今と違って、若者はみんなで一緒に「同じ音楽」を聴いていたような気がするなあ、としみじみ思いだす(もちろん私のようにそうでない人間もいたが)。そして、同じ1975年に「つま恋」で行なわれた第10回のヤマハ・ポプコンで、「時代」を唄ってグランプリを獲得したのが中島みゆきだ。その同窓会的コンサートに、事前予告なしに中島みゆきが突如客演し、吉田拓郎と1曲だけ共演したのが「永遠の嘘をついてくれ」(中島みゆきが作詞・作曲して拓郎に提供した曲)で、その映像と歌を初めてテレビで見たときには、会場の異様な盛り上がりと共に、とにかくその歌と演奏の素晴らしさに完全にノックアウトされた。放映後の世の中の反応からも、いかに多くの人(中高年?)がこの演奏を見て、聴いて圧倒されたり、感動したのかが分かる。私のような取り立ててファンでもない人間が見てもそう感じたのだから、この音楽パフォーマンスには並外れたインパクトがあったということだろう。

Forever Young
私が見たYouTubeの画質があまりにひどかったので、ネットでDVD情報を調べてみたら、確か当初はかなり高額で販売されていた2枚組Blu-rayディスク『Forever Young』(すごいタイトルだ…) が、Amazon特価でだいぶ安くなっていたので、正月だし、この際だから(?)と購入した。さすがにこちらは、美しい映像と音声を安心して最後まで楽しめるので、こうした音楽が好きな人にはお勧めだ。スマホやPCで見るYouTubeも結構だが、素晴らしい音楽や演奏は、きちんとしたソースを、きちんとした装置で再生すると、楽しみや感動が何倍にもなって味わえる。自宅のテレビとオーディオシステムで再生したこのBDの映像と音声では、まず拓郎のソロによるサビのワンコーラスに続き、バンドのイントロが始まって少しすると、薄暗いステージの左手奥から、白いシャツと青いジーンズ姿の中島みゆきが、ゆっくりと、かつ颯爽と登場し、スポットライトが彼女を照らし出す。それに気づいた聴衆の数が徐々に増えていって、「ウォー!」という驚いたようなどよめきが会場全体に段々と広がってゆく。そしてマイクに向かった中島みゆきが、3万人を超える大観衆を前にして、まさに巫女的としか言いようのない強烈なオーラを全身から発しながら前半部を堂々と唄う。それに負けじと吉田拓郎が、完全に自分の持ち歌として男らしくパワフルに後半部を唄い切り、続く二人のハモリでエンディング…と、息もつかせずに聴衆を一気に引き込む両者の魅力はまさに圧倒的だ。そして、歌い終わった中島みゆきが、拓郎と、まだ演奏を続けているバンドに一礼して舞台から去ってゆく後ろ姿はまさに千両役者で、思わず声を上げたくなるほどだ。

このBDには「南こうせつとかぐや姫」やかまやつひろし等、他のメンバーの歌や演奏も収められており、吉田拓郎が唄う他のヒット曲ももちろん収録されているが、映像を見ていると、この日の他の出演者も、歌も、何もかもが、同夜の拓郎・みゆきのこの1曲、特に中島みゆきの登場で完全にかすんでしまったかのように見える(もちろん好みの問題もあるので、そう思わない人もいるだろうが)。バックバンドもバックコーラスも、会場の聴衆も、彼ら二人と完全に一体となったこの演奏には、聴く者を高揚させ感動させる強力な何かがあり、何度見ても聴いても素晴らしい。しかもこの曲が1970年代懐メロではなく、中島みゆきの1995年の作品であるところも、様々な解釈を呼んだ謎めいたタイトルも、歌詞も、印象的なメロディも、すべてが実に興味深い。そこから二人の関係をあれこれ憶測する説も飛び交ったりしていたのも、聴いた人たちの想像力(妄想力?)を否応なく喚起する並外れたパワーがこの演奏にあったという証だろう。そして、そのパワーの源の一つと考えられるのは、2006年当時、吉田拓郎は90年代後半のキンキキッズのテレビ番組出演、中島みゆきは2000年のNHKの「地上の星」の大ヒット等で、二人ともミュージシャンとして再び全国的脚光を浴びた時期を経て、おそらく精神的にも非常に充実していたことだろう。

ジャズもそうだが、素晴らしい演奏を聴いていると、この奏者はなぜこういうサウンドの音楽を作り、こういう演奏をするのだろうか――と、私はすぐに演奏の背後にあるそのミュージシャンの思想や人生に興味を引かれ、人間としてのミュージシャンのことをもっと深く知りたくなる。だから、魅力的な音楽だけが持っている、聴く人間のインスピレーションを強烈に刺激する力の存在はよく分かる。藤圭子が唄った「みだれ髪」の短い傑作テレビ映像も、その種の想像を呼び起こされた体験だったが、そのとき、その場でしか聴けない音楽ライヴでは、時として聴き手がまったく予期しない一期一会の劇的パフォーマンスが現出することがある。「つま恋」におけるこの曲も、まさしく奇跡の1曲、永遠の1曲だ。

中島みゆきがステージを去った後もしばらく続いたバンドの演奏がようやく終わり、まだ興奮冷めやらぬ聴衆を前にして、共演してくれた中島みゆきに感謝する弁を述べつつ、吉田拓郎が「驚いたね…(共演してくれた、かまやつひろしも、中島みゆきもいい人たちだが)二人とも歳を経てきたからいい人になったんだよね。若いころはイヤな奴だったんだ、きっと…」とコメントしたのも、(たぶん本音と思うが)何度聞いても結構笑える。素晴らしい演奏の直後に、こういうコメントをする吉田拓郎という人物にも妙に感心するし、出演したミュージシャンたちそれぞれの人間性や、過去からの彼らの人間関係も透けて見えてくるようなコメントで、そこから様々な想像もできて非常に面白い。その後ラジオ番組で、後日談として吉田拓郎が「あの時は自分のステージだったのに、完全にみゆきに持っていかれた」と発言していたのも本音と思え、おかしかった。実際に当日はリハもなく、中島みゆきの衣装や登場のタイミングなども、打ち合わせなしだったので、舞台にいた拓郎も不意をつかれたようで本当に驚いたらしい。すべてきっちり演出した舞台かと思っていたのだが、中島みゆきが仕組んだ演劇的サプライズもあったたわけで、ミュージシャンという人種は、どんなに親しい間柄でも、舞台の上ではやはり互いにライバルなのだと思った。

イメージの詩
浜田省吾
中島みゆきの個性の強い歌も、以前はほとんど聴かなかったのだが、当時このステージ映像を見てからベスト盤CDを買ったり、ときどき聴くようになった。ユーミンの音楽世界が全体として映画的で、ソフトな物語なら、中島みゆきの曲と歌詞はまさに演劇的で、暗く奥深い。吉田拓郎と同じく、どの曲もあっさりしたおしゃれ系ではなく、人の心の中にずいずいと裸足で侵入してくるような独特の力強さがあり、歌詞も含めてこの種の音楽が好きな人には、やはりたまらない魅力があるのだろう。心に響くようなエールを送る歌が得意なところも同じで、「ファイト!」も中島みゆき作で拓郎が唄った曲だが、やはりよく似合っている。年末はYouTubeの再生につられて、吉田拓郎のバックバンドにいた浜田省吾もずっと聴いていた。拓郎と同じ男性的歌唱が魅力のミュージシャンで、二人とも男っぽいバラードの歌唱が素晴らしいと思うが、浜田省吾の歌にはブルース的というか、常にそこはかとない哀愁がある。拓郎作の「イメージの詩」などはまさしく本家取のようで、この曲を歌う浜田省吾の哀愁の滲む男性的な歌唱は、私的には拓郎よりも素晴らしいと思うくらいで、私はこの歌と浜田省吾の声が大好きだ。

普段はあまり聞かない、こうしたどちらかといえば男臭い、あるいは素朴でパワフルなミュージシャンのヴォーカルが、昨年末にかぎって急に聴きたくなったのは、やはり演歌や歌謡曲と同じく、年の終わりに感じる過去への無意識の郷愁のなせるわざなのか、それとも、鬱々としたコロナ禍の世界に負けまいとするパワフルな歌への、これも無意識の共感というべきものなのだろうか。あるいは単に、スティーヴ・レイシーの抽象度の高い複雑な音楽を、翻訳作業中、ここしばらくの間ずっと聴き続けていた反動なのか。