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2023/12/28

ジャズと翻訳(6)ソニー・ロリンズ

Saxophone Colossus
Sonny Rollins
(1956 Prestige)

日本語表記の続きになるが、楽器名 "saxophone" も、昔は一般的にサックス=「サ[キ]ソフォン」 だったのが、いつごろからか「サ[ク]ソフォン」という表記が増えたようだ。辞書を見ても、両方の表記があり、ネット上でも同じで、ほぼ半々くらいか(日本語「クーソ」というつながりの音を嫌って、一部の前人が、あえて「キソ」という表記にしたのかもしれない?)。ジャズファンなら誰でも知っていたソニー・ロリンズの名盤『サキソフォン・コロッサス(=サキソフォンの巨像or巨人)』(1956)も、通称「サキコロ」で通っていた。これが「サクコロ」では何となくしまらないような気がするが…?このアルバムはトミー・フラナガン(p)、ダグ・ワトキンス(b)、マックス・ローチ(ds)という、今では夢のようなメンバーによるテナーのワンホーン・カルテットの傑作だ。ベン・ウェブスター、コールマン・ホーキンズ等に続く豪快なテナーサウンドで、ジョン・コルトレーンに先駆けて、若手テナーの第一人者という地位と人気を1950年代半ばに決定づけたロリンズの出世作でもある。大きく男性的なサウンドと、豊かなメロディライン、多彩なリズムが魅力のロリンズに対し、コード、モード奏法からフリージャズへと向かったコルトレーンという二人のジャズテナーの巨人は、その演奏スタイルと個性のゆえに、日米ともに支持ファン層が分かれていた。しかし1967年に40歳で早逝したコルトレーンに対し、その後も我が道を行き、ジャズ界の重鎮として生き抜いてきたロリンズは、21世紀の今も存命だ。

Saxophone Colossus
by Aidan Levy
(2022 Hachette Books)
実は、昨年12月に米国で出版されたソニー・ロリンズ初の本格的伝記『Saxophon Colossus: The Life and Music of Sonny Rollins』(Aidan Levy著)の邦訳版を現在翻訳中だ。本記事で触れている「大著」とはこの本のことで、何といっても約800ページ(本文テキストだけで720ページ)もあって、ロビン・ケリーの『Thelonious Monk』より長く、分厚くデカいハードカバーの現物を目の前にしたときは、さすがに「うーん…」と思わず引いた。前記事(5)の本棚写真のいちばん右側にある巨大な本(笑)がそうだが、最近の本は見た目ほど重くないのが救い(?)か(だが、モンク本以降の翻訳は、紙の原書ではなくPDFのPC画像でやっているので、デカさや重さは関係ないと言えば、ない)。ただ、この本はページ数だけでなく、ページ当たりの単語数が多いので、たぶん20%くらいはモンク本より長いかもしれない。モンク本の完訳原稿の文字数が、MSWordで約80万文字だった(出版した邦訳版はその85%の量)ので、たぶん100万文字近くは行くかもしれない…。ちなみに、長寿だったアルトのリー・コニッツが3年前に92歳でコロナで亡くなった今、1930年生まれで今年93歳になるソニー・ロリンズは、おそらく20世紀のジャズ巨匠中、最年長かつ最後の存命テナーサックス奏者だ(ただし、2014年からさすがに演奏活動は休止している)。パーカー、マイルス、コルトレーン等と同時代を生き、彼らと共にモダン・ジャズ黄金期を実際に経験してきた貴重な生き証人がロリンズなのだ (ドラマーではさらに年長の98歳のロイ・ヘインズがいるが)。

The Bridge
Sonny Rollins
(1962 RCA)
ロリンズはモダン・ジャズ史に名を刻む巨人だが、突然雲隠れしたり、宗教やヨガにはまったり、急にモヒカン刈りにしたり、モンクほどではないにしても、その思想と音楽人生には謎も多く、しかも、これまで本格的伝記は一度も書かれてこなかった。エイダン・レヴィ氏のこの伝記は、当時絶頂期だったロリンズが突然ジャズシーンから姿をくらまして(1960/61年)、一人で練習していたというイーストリバーにかかる有名な「橋」(ウィリアムズバーグ橋)を境に、その前後の年月をPART1とPART2に分けて書かれている。チャーリー・パーカー、セロニアス・モンク、バド・パウエル、クリフォード・ブラウン、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、オーネット・コールマンといったジャズ界の巨人たちとの関係はもちろん、ロリンズが関わってきた他のジャズ界の主要人物たちも次々に登場するが、その物語を、存命のロリンズ本人と著者の未発表直接インタビューをはじめ、主要ジャズ・ミュージシャンや関係者との200を超える新旧インタビューを中心にして描くという、米国ジャズマン伝記の王道を行く編集と構成だ。ロリンズの名盤誕生の背景や、レコーディング情報などもたっぷりと書かれている。

"A Great Day in Harlem"
by Art Kane (Aug.12, 1958) 
米国南部ではなく、カリブ海西インド諸島出身の両親を持つロリンズは、ニューヨーク・ハーレム生まれで、アート・テイラー(ds)、ケニー・ドリュー(p)、ジャッキー・マクリーン(as) のような友人たちと、「シュガーヒル」と呼ばれるハーレムの山の手で育った。この本でも触れているが、モダン・ジャズ全盛期の1958年夏に、そのハーレムで撮影され「エスクァイア」誌に掲載された『A Great Day in Harlem』(ハーレムの素晴らしき一日)という有名な集合写真がある。そこに写っている4世代にまたがる57人のジャズ・ミュージシャンの中で、当時ロリンズは最年少(28歳)であり、これらのうち今も存命なのは、ロリンズと1歳年上のベニー・ゴルソン (ts) の二人だけだそうだ(モンク、ミンガス、レスター・ヤングなどみな写っているが、エリントン、マイルス、コルトレーン等は、当日ニューヨーク市内にいなかったので、この写真には写っていない)。こういう写真を見ると、60年という歳月が過ぎ去ると、今自分の周りいる人間は、みんなこの世からいなくなってしまい、新しい人間と入れ替わっている――という当たり前だが、厳粛な事実をあらためて思い知る。

翻訳は、昨年夏ごろに本ブログを通じて著者エイダン・レヴィ氏から直接依頼されたもので、併せて邦訳本の出版社探しも頼まれた。ソニー・ロリンズは、私的な翻訳対象クライテリアからすると有名かつ大物すぎるのだが、これまで公表された確実な情報が意外に少なく、その人生にも陰翳がある人物であるところに興味を引かれたこともあって、思い切って翻訳を引き受けた(そのときは、まさかこれほどのボリュームの本とは思っていなかったが…)。米国での出版前、昨年秋にはPDFの最終原稿を受け取っていて、一部翻訳も始めていたのだが、予想通り、ロビン・ケリーの『Thelonious Monk』の時と同じく、出版やジャズを巡る今の情勢下、この長大な伝記を日本語で出版しようという男気のある(?)出版社がなかなか見つからず、苦労していた。だが幸いなことに、ノンフィクション翻訳書に力を入れている「亜紀書房」さんが取り上げてくれることになった。基本的に日本語の「完訳版」出版を目指しているが、そうするとたぶん1,000ページ近く(以上?)の本になるので、短縮化の可能性等も含めて、どうやって現実的折り合いをつけるか亜紀書房さんと今後検討する予定だ。モンク本と同じく、記事引用元、背景、関連逸話を詳述している「原注」も貴重な情報ばかりなのだが、小フォントで本文と同様のボリュームがあり、これも和訳したら、おそらく倍近い長さの本になってしまうだろう。いずれにしろ、おそらく今の翻訳ペースだと、出版は来年半ば以降になると思われる。

ロリンズ近影
久々の本格的ジャズ・ミュージシャン伝記、しかも「最後の大物」ソニー・ロリンズということもあって、出版後早々に米国内で多くの書籍賞を受賞し、ハードカバー版は重版され、最近ペーパーバック版も出た。この本は、米国黒人史を背景にした初のロリンズ個人史に加え、ビバップ以降のジャズ史、主なジャズ・ミュージシャンの逸話など、これまでに公表されてきた、ありとあらゆるモダン・ジャズ関連情報を、最新情報も含めて1冊に凝縮したような内容になっている。したがってコアなジャズファンだけでなく、一般の音楽ファンが読んでも、「ロリンズを中心にしたバップ後のモダン・ジャズ史」として俯瞰できる楽しみもある。問題は、上述したように、その長さだけだろう(アメリカ人は本当に長い本が好きだ…)。モンク本でもそうだったが、訳していると、あまりの長さに、途中で放り出したくなるときもある。日本語の本は、小説でもノンフィクションでも、パラグラフごとに改行したりして、余白が多くスカスカだが、アメリカの本はとにかく活字(中身)がぎっしり詰まっているものが多い。文法も違うので、日本語に翻訳すると、おおよそ原書の1.5倍くらいの長さの本になるのだ。翻訳とは、他人が書いたテキストという「制約」の中で日本語文章を「ひねり出す」作業なので、パズルを解くような側面がある。それをずっと続けていると頭が疲れて、たまに身動きできない拘束衣を着せられているように感じるときがある。そういうときは、何の制約もない「日本語の文章」を、自分の言葉とリズムで好き勝手に書いて、すっきりしたいと思う。当初は訳書PRと文章修行が目的だったこのブログで、こうした駄文を何年も書き続けてきた理由の一つは、実はそうした憂さ晴らし的な効用もあるからだ。とはいえ、こうした本邦初となる書籍の翻訳作業は、聞いたことのない新情報が次から次へ出て来るという点で、単なるジャズファン的感想を言えば「楽しい」の一言だ。

私はジャズという音楽そのものへの関心はもちろんまだ強いが、人生の先が見えた今、昔のようにひたすら好みのレコードを探し出すことに喜びを感じたり、集めて聴いて楽しむということははもうない。今はむしろ人間としてのジャズ・ミュージシャンへの興味の方が大きい。ジャズほどそのサウンドに「人間性(個性、人格)」が表現される音楽はないからだ。具体的な歌詞がないのに、抽象的なサウンドを通して逆に人間が見えて来る、というのがジャズの不思議さであり特質なのだ。技術的な解説や、誰の音楽的影響だとかいうような蘊蓄ではなく、どういう人生を歩んできたがゆえに、そういうサウンドのジャズになったのか、という人間的な側面に今はより興味がある。ライヴ演奏の楽しみは、それを自分の目と耳で確認するということでもある。今後も(生きている限り)、そういう視点で面白い海外ジャズ書を探し出し、可能なら翻訳出版して、数少なくなった日本のジャズファンに楽しんでもらいたいと思っている。

(年末でもあり、ひとまず 完)

2023/12/10

ジャズと翻訳(5)日本語表記

英語版ジャズ用語集の一例
ジャズ本は音楽書なので、普通の文章に加えて、当然ながら原書英語にもジャズ独特の表現が頻出する。普通の辞書には載っていないスラングも多く、私はジャズの演奏はしないので、翻訳を始めたころ(10年前)は解釈に悩む語句も多かった。一般音楽用語までは手持ちのPC版『ランダムハウス英和』『リーダーズ英和』『研究社大英和』で95%はカバーできるが、時にはこれらの大辞典にも載っていない言葉もある。その場合はWebで調べるのだが、Web上の日本語の「ジャズ用語集」などは結構いい加減な説明もあるので、かならずしも信用できない。英語版のオンライン・ジャズ用語集もかなり多いが、これまでのところ、コロンビア大学のWeb版 "Jazz Glossary" は語句説明も簡潔で内容も信頼できるし、有用だ。

ジャズだけに限らないが、よく見る簡単な語句でも音楽用語の意味は特殊だ。たとえば名詞 ”time" は「拍子」で、4/4拍子は "four-four (time)" だし、3/4拍子は "three-four (time)"だ。また ”value" とは「音価」(音の長さのこと)で、 "note" は「音符」、"whole note" は「全音符」、"half note" とは「二分音符」で、「四分音符」は "quarter note" だ。(この「二分」と「四分」とは、割合のことではなく、全音符-whole note-を2つ、4つに分けた長さ、という意味だと今ごろ理解したのも、英語表現への疑問からだった。8分音符以降も同じ)。"changes" とは変化ではなく曲中のコード構成(進行)のことだし、"chops" は肉切りではなく、楽器演奏技術(技量)を指す。

動詞系もたとえば "trading section"とは貿易課のことではない。日本では「バース交換」と呼ぶのが普通のようだが、この「バース」とはいったい何のことかと調べたら、実は "bars" すなわち複数の 「小節 (bar)」のことで(英語発音では「バー」だろう)、奏者間の4小節とか8小節の短い掛け合い演奏 (trading 4s, とか8sと表記)のことだとわかった。ときどき見かける 「ヴァース交換」 という日本語表記が混乱の元だ(日本語の「小節」は、英語では "bar" の他に "measure" とも "meter"とも表記されることがあるのでややこしい)。日本では普通に使うブルースやロックギターの「チョーキング」(キュイーンと弦を上下にずらして音をスラーさせる技)も、英語では "bend (ing)" (曲げる)だ。 "sit in"「飛び入り演奏」などはよく知られているが、"lay out" は、あるパートの演奏だけを一時休止すること、"stroll" は文字通り、その間ぶらつくようにプレイすること、"lay (laid) back" はゆったりとしたフィーリングでプレイすること、"play cold" はぶっつけ本番、"noodling" は適当に慣らし演奏すること (ラーメン屋のチャルメラから来ているのか?と思ったがそうではない)等々…これらはジャズ用語のほんの一部だ。

マイルズ・デイヴィス?
マイルス・デイビス?
AIで翻訳が簡単、身近になった一方で、大昔の翻訳書や翻訳者のイメージのまま、今も勘違いしている人が時々いる。原書にあった資料、写真などが未収載だとか、名前などのカタカナ表記が間違っているとか、ネット上のブックレビューの場などで批判(非難)する人もいる。ジャズ・ミュージシャンの「人名」など、固有名詞の日本語表記にいちゃもんをつけている人が時々いるが、これも歴史的背景があって、これが正しいとか、厳然と決まったルールがあるわけでもない。ウィリアムスとウィリアムとか、ジェイムスとジェイムとか、エヴァンスとエヴァンとか、末尾の濁音もそうだ。今や完全に日本語になったブルース(blues)は英語発音ではブルーと濁るし(いやブルースでいいという説もある)、マイルス(Miles)も実はマイルだ。油井正一さんが、日本語は末尾の濁音を嫌うので、あえてをスという表記にした、という話をどこかで読んだことがある。上記 "bar" のように、"b" と "v" の表記(「バー」か「ヴァー」か。"Davis" もデイビスかデイヴィスか、など)、あるいは語尾 "-ve" の「ブ」と「ヴ」も、どちらにするか迷う("five", "live", "love"など)。どっちでもいいと思うが、気になる人には気になるだろう。昔、坂本九の「上を向いて歩こう」が、アメリカでは「スキヤキ」になったくらい、あちらでは大らか(いい加減?)なので、こうした細かな点にこだわるのも日本人の特性か。

ただし今は、聞いたことのない単語や人名の発音でも、何語であろうとインターネットの音声辞書でネイティヴの発音でほとんどが確認でき、「実際の発音に近い」日本語表記が可能になったので、今後は昔のようなことは減るだろう。串刺し検索のできるWeb辞書や、モノの画像情報もそうだが、「百聞は一見に如かず」がいとも簡単に可能になって、たぶん昔の翻訳者が何のことかといちばん苦労していた問題が噓のように、なんでもインターネットで即座に分かる時代になった。

地名などで、どこに点[・]を入れるかも、決まりはあるようで、ない。New Yorkは本来の表記基準ならニュー・ヨークとすべきだろうが、慣例表記はニューヨークだし、Los Angels ロス・アンジェルスもロサンゼルスだし、San Francisco サン・フランシスコもサンフランシスコで、みな同じように前人が最初に使用した表記がそのまま使用されて一般化し、日本語として定着したものだ。アルトサックスもアルト・サックスも、テナーサックスもテナー・サックスもそうで、決まりはない。私は縦書きの場合[・]が途中に入ると読みにくい(うるさい)ので、日本語化した単語は[・]なしの表記を好んでいる。ジャズ書の翻訳文は人名、楽器名、曲名、地名などカタカナ表記がどうしても多く、見た目がごちゃごちゃしがちなので、それをうるさく感じさせずに、できるだけ縦書き日本語として「視覚的に」スムースに読ませる工夫も必要で、たとえば頻出するジャズクラブ名や新聞・雑誌名などは「xxxx」とカッコ付きにして、他の一般カタカナ語句と区別して、すぐに分かるようにしているのもその一つである。

日本語の漢字、ひらがな、カタカナの歴史もそうだが、ラテン語の英米語への浸透、変形、定着が示すように、外来語の発音や表記は、歴史的な試行が積み重なって徐々に定着してゆくもので、「原語の発音」にあまり拘泥して白黒つけるものでもないと思う。その民族、文化圏に適した表現に時間をかけて自然に収斂してゆくものだろう。特に日本という国は、そうした外来文化の吸収に関しては、2,000年に及ぶ独特の技術(?)蓄積があるので、どんな外来語も。いずれはもっとも適切な発音や表現に落ち着き、定着してゆくのだろうと思う。

ところで、本記事の(1)冒頭に記したように、団塊の世代が漸減して市場が縮小するとともに、ジャズを「聴く人」が減り、出版社も編集者もジャズを「知る人」も減り、何より本自体が売れなくなった今の時代、この種の特殊な(ジャズ)翻訳書が出版社側の企画からスタートすることはほぼないと言える。読者層が限られ「売れない」ことに加え、出版社からすると、翻訳書は「儲からない」のだ。バブル時代以降らしいが、日本への著作権料が高騰して、高い印税を原著者や版権者にまず支払わなければならず、さらに翻訳者にも別途翻訳料を支払い(昔に比べるとずっと安いようだが)、今は写真など図版類にも個別に著作権料を別途支払う必要があって、近年はこれも高騰しているらしい。原書掲載の写真類をカットしたり、時に代替したりするのは、それが理由だ。しかも、ジャズ本などは典型的だと思うが、翻訳書は一部を除いて大量の印刷部数になるケースも稀で、せいぜい千から数千部程度で、規模の経済が有効ではない(村上本は別として)。だから、国内本を出版するよりも、1冊あたりの原価が大幅に高くなるという宿命がある(翻訳書の価格が高いのはそれが理由だ)。しかも翻訳者は、長い時間と労力を費やす割に一般的に印税は低く、労働の対価としても、まったく見合っていないケースが大半だ。今後AI翻訳化がさらに進めば、ますますそうなるだろう。

というわけで、出版社、翻訳者ともに経済的にはあまりハッピーな世界ではないのだ。それにもかかわらず、ジャズを含めて、いわば特殊な芸術ジャンルの翻訳書が今でも世に出ている理由は、翻訳者と出版社(編集者)の「熱意」以外の何物でもない。一部の大ヒット作を除けば、マイナーな翻訳書の出版で大儲けした人などいないと言っていい。訳者も出版社もほぼボランティアに近い条件で、いわば情熱だけで出版しているのに近いケースが大部分だろう。儲けようとしてやっているのではなく、あくまで情熱と、出版することに価値と意味がある(埋もれさせるのは勿体ない、日本語で読んで楽しんでくれる人がまだ世の中にいる)と信じているから、出版社も赤字覚悟でやっているようなもので、いわばボランティアに近いのだ。

(続く)