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2020/12/29

スティーヴ・レイシーを聴く #3

1960年代初め、レイシーは同じようにフリー・ジャズへの指向を強めていたディキシー出身のトロンボーン奏者ラズウェル・ラッド Roswell Rudd (1935-2017) と二人で、モンク作品だけに集中して楽曲を研究していた。そこにドラムスのデニス・チャールズ、何人も入れ替わったベース奏者が加わって、1962年に ”2管ピアノレス” によるモンクのレパートリー・カルテットというユニークなバンドを結成した。しかし、何しろモンク作品という当時はほとんど誰も知らないような曲だけを演奏するフリー・ジャズまがいの過激なバンドだったので、レコーディングの機会はおろか(クリード・テイラーには、録音途中でダメ出しされた)、クラブでの演奏の場さえ見つからずにレイシーたちは苦闘していた。そこで現代のストリート・ミュージシャンと同じく、様々な場所で自前のギグを創り出していた。そうした時代だった1963年3月に、ヴィレッジのカフェで行なった演奏を非公式録音したものの、1975年まで12年間どこからも正式リリースされなかった伝説的レコードが、モンクの代表作7曲を演奏した習作『スクール・デイズ School Days』(Emanem)だ(このベースはヘンリー・グライムス)。

本書でレイシーが何度か言及しているように、レイシーの音楽が、いかに当時のニューヨークでは受け入れられず、彼がそこを去ることにしたのか、(いろいろな意味で)その理由が分かるような内容の演奏だ。このレコードはその後何度かリリースされ、ジャケットが変わるので注意が必要だが、私が持っているのはこのジャケット写真の現在のCD(Emanem)で、上記レイシーのピアノレス・カルテットの演奏7曲に加えて、あのモンク・クインテット(チャーリー・ラウズ-ts、ジョン・オア-b、ロイ・ヘインズ-ds)が、1960年8月にフィラデルフィアのクェーカーシティ・ジャズ祭に出演したときのブートレグ録音(CBSのラジオ放送)が2曲追加されている(<Evidence>と <Straight, No Chaser>)。「ジャズ・ギャラリー」で、発足したばかりのジョン・コルトレーン・カルテットとソプラノサックスで対峙していたレイシーが、モンク・クインテットに属していた4ヶ月間の演奏は、惜しいことにRiversideがまったく録音しなかったので、このフィリーでのジャズ祭録音が、唯一残されたレイシーとモンクのスモール・コンボ共演記録であり、しかも聞けばわかるが、Columbiaへ移籍直前だったモンクはこの当時は絶好調だった(おそらく未録音の背景には、当時のRiversideとモンクの関係悪化があった可能性もある)。この時まだ26歳だったレイシーが、憧れのモンクと共演できて、どれだけ張りきっていたか伝わってくるような演奏であり、モンクがいちばん難しいと言っていたユニゾンの完成バージョン(ラウズとの)もこの録音で聴ける。

『タウンホール・コンサート』(Riverside 1959) に続くセロニアス・モンク2度目のビッグバンド公演をライヴ録音したのが、Columbia移籍後の1963年12月30日の「フィルハーモニック・ホール」でのコンサート『Big Band and Quartet in Concert』(CBS)である。上記『School Days』と同じ年の演奏であり、レイシーもそこに参加し、Riverside盤と同じくホール・オヴァートンが再び編曲を担当した。直後は不評だった「タウンホール」でのコンサートの音調は、低域部が重かったという反省から、モンクとオヴァートンはチャーリー・ラウズ(ts)、ニック・トラヴィス(tp)、エディ・バート(tb)、フィル・ウッズ(as,cl)、ジーン・アレン(bs,cl/bcl)というホーンセクションのメンバーに、サド・ジョーンズ(corn) と、レイシー(ss) を新たに加えた。この高域部の強化によって明るい響きになったビッグバンドは前作と違って当初から好評だった。その演奏を収めたCD2枚組は録音が非常にクリアなので、各パートの音も明瞭で快適なサウンドを楽しめる。1961年の『Evidence』以降、ラズウェル・ラッド(tb)との上記非公式録音以外に演奏や録音の機会がほとんどなかったレイシーは、1963年末のモンクのこのアルバムの他、ギル・エヴァンスのマイルスとの共演盤『Quiet Night』(Columbia 1963)や、ケニー・バレルの『Guitar Forms』( Verve 1964)などのエヴァンス編曲のオーケストラ作品に時々参加している。おそらくモンクもエヴァンスも、苦闘しているレイシーに、何とか仕事の機会を与えたいと思っていたのではないだろうか。その後カーラ・ブレイ Carla Bley (1936-) 率いるJazz Composer’s Orchestra(JCO)の『Communication』(Fontana 1964/1965)への参加が、米国におけるレイシー最後の録音記録となったようだ。本書#4のインタビュー「さよならニューヨーク」は、その直後に行なわれたものであり、そこでレイシーは、1950年代初めにセシル・テイラーが挑戦していた音楽と似たようなものを、ほぼ15年後にフリーフォームのオーケストラで再演しているかのようなカーラ・ブレイたちの当時の音楽に対する印象を述べている。自分を受け入れてくれないニューヨークに苛立ち、愛想をつかしたレイシーは、30歳になったその年1965年にヨーロッパへと旅立つのである。

レイシーにとって初めてのヨーロッパは、デンマーク・コペンハーゲンのクラブ「カフェ・モンマルトル」でのドン・チェリー(tp)、既に現地移住していたケニー・ドリュー(p) たちとの仕事で始まった。その後チェリーや現地のミュージシャンたちとフリー・ジャズを追求していたローマ滞在中の1966年に、レイシーはやがて妻となるスイス人のチェロ奏者イレーヌ・エイビと出会う。イタリア人のエンリコ・ラヴァ(tp)、南アフリカからの亡命ミュージシャンだったジョニー・ディアニ(b)とルイス・モホーロ(ds) らとカルテットを結成したレイシーは、ラヴァの妻がアルゼンチン人だったことから、66年春に、本書で何度も言及しているアルゼンチンでの9ヶ月に及ぶ苦難のロードへと出かける。『森と動物園 The Forest and the Zoo』(ESP Disk 1967)は、9ヶ月にわたるブエノスアイレス滞在を終える直前に、レイシーが現地でライヴ録音した上記カルテット絶頂期のフリー・ジャズ演奏であり、二度とそれ以前に戻ることのできない「錬金術のフリー」とレイシー自身が語る、バンドが完全燃焼したアルバムだった(独特のジャケットの絵はボブ・トンプソン)。そしてこの演奏をもって、レイシーのフリー・ジャズ追及時代は頂点を迎え、その後は70年代のpost-free/poly-freeという、曲構造と自由な即興を同時に内包するというモンク作品に触発された、レイシー固有の音楽を創造する時代へと移行してゆく。

ところで、この話で思い出したのが、ナット・ヘントフが著書『ジャズ・イズ』(1976)で唯一の非アメリカ人ジャズマンとして取り上げたガトー・バルビエリ Gato Barbieri(1932-2016)で、レイシーと同世代で当時日本でも人気を集めたアルゼンチン人のテナーサックス奏者である。政変で混乱していたあの時代のブエノスアイレスには「ジャズのジャの字もなかった」かのように語っているレイシーと、その地で当時すでにジャズ・ミュージシャンとして活動していたバルビエリに、何か接点はなかったものか気になったので調べてみた。

そこで分かった驚きの事実とは……1947年にブエノスアイレスにやって来たバルビエリは、1953年にラロ・シフリン Lalo Schifrin (1932-) というクラシック畑出身の作曲家、ジャズ・ピアニスト兼指揮者のオーケストラに参加し(これはレイシーがセシル・テイラーと出会った年でもある)、その後イタリア人女性と結婚して1962年にアルゼンチンからローマへと活動拠点を移す(この時バリビエリも30歳だった)。その後レイシーの盟友で、パリにいたドン・チェリーと出会ってフリー・ジャズに傾倒し、なんとレイシーが米国を去った同じ年、1965年に逆にローマからニューヨークへ移住してチェリーのバンドに入る。さらにレイシーがアルゼンチンへの旅を終えて一度米国に戻った67年には、バルビエリは米国で初リーダー作となる『In Search of the Mystery』(ESP Disk) を発表し、翌68年にはレイシーも参加していたジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ(JCO)に参加する。その後もチャーリー・ヘイデンの『Liberation Music Orchestra』(Impulse! 1969)、カーラ・ブレイの『Escalator Over The Hill』(JCOA 1971) といった、当時かなり話題を呼んだフリー・ジャズ系アルバムへ参加している。しかしレイシーとバルビエリの、この大西洋を横断する《ニューヨーク /ローマ /ブエノスアイレス》という3都市間の、まったく「逆方向の旅路」の不思議な巡り合わせをどう考えたらいいのだろうか? レイシーがニューヨークを去ったために、チェリーもJCOも後釜のようにバルビエリを採用したとも考えられるが、レイシーもバルビエリについては一言も言及していないので、実際はどうだったのかまったく分からないが、ドン・チェリーが媒介して、レイシーとバルビエリが接触した可能性はあるかもしれない(あるいは、すれ違いだったのか?)。

ガトー・バルビエリは、その後1972年にはベルナルド・ベルトリッチ監督の映画『ラストタンゴ・イン・パリ』の音楽監督を務めて一気にスターとなり、Flying Dutchmanや Impulse! といったレーベルに多くの録音を残しているが、1980年代以降は低迷していたようだ。一方のレイシーは、アルゼンチンの後エイビと共に1967年にいったんニューヨークへ戻るが、現地ではたいした仕事もなく、エイビのヴォーカルを初めて取り入れ、ポール・モチアンたちと作ったバンドで再度ヨーロッパへ向かったが、それも短命に終わる。やむなく1968年に再びローマへ活動の拠点を移し、現地にいたアメリカ人の現代音楽作曲家の集団ムジカ・エレットロニカ・ヴィヴァ(MEV)と共に、フリー・ジャズを超えた実験的音楽の世界を追及するようになる。

2020/12/13

スティーヴ・レイシーを聴く #2

スティーヴ・レイシーが1965年に米国を去る前に残した(正式にリリースされた)リーダー作は4枚で、その昔、私が聞いていたレイシーのレコードも、実を言えば、それらのアルバムだけだ。離米直前の本書#4のインタビュー(さよならニューヨーク)で「過去のレコードはもう聴きたくないし、これからも聴かないだろう」と語っているように、60年代に入ると、自分が今現在追及している音楽は見向きもされず、録音はおろか演奏の場さえなかった当時のレイシーは過去を振り返るような気分でもなく、またそんな余裕もなかったのだろう。50年代後半から60年代初めにかけての、当時レイシーが研究していたモンク作品を中心にしたこれら4枚のアルバムは、まだレイシー自身の音楽を確立していない習作というべきものだ。とはいえ、それだけに、ハードバップからモード、フリーへと急速に変化しつつあった当時のジャズを背景に、今は上掲の2枚のCDに収まっている、まだ発展途上にあった若きレイシーの瑞々しいソプラノサックスのサウンドの変化を聴くのは楽しい。またレイシー自身も後年のインタビューでは、こうした若い時代の演奏を肯定的に振り返るようになっている(たいていのジャズ・ミュージシャンは、年を経ることで自分の過去の演奏への見方を変えるようだ)。

1957年のギル・エヴァンス盤の録音(9, 10月)の翌11月にレコーディングされたのが、23歳のレイシーにとって初めてのリーダー作『ソプラノサックス Soprano Sax』(Prestige 1958) である。このメンバーはデニス・チャールズとビュエル・ネイドリンガーというセシル・テイラーのグループのメンバーに、ピアニストとしてウィントン・ケリーWynton Kelly (1931-71) が加わったカルテット編成で、モンク作の1曲(Work)を除き、エリントン(Day Dream他)、コール・ポーター(Easy to Love) の作品など、スタンダード曲を中心に演奏したアルバムだ。曲目に加え、初リーダー作の録音で緊張していたこともあって、セシル・テイラーやギル・エヴァンスとの前記2作品に比べてやや無難な演奏に終始している印象がある。レイシーのソプラノサウンドは相変わらず滑らかでメロウだが、とにかく全員が冒険していない普通のハードバップ時代の演奏のように聞こえる。サウンド的に、やはりウィントン・ケリーのピアノの影響が大きいのだろう。中ではモンク作<Work>のサウンドだけが異彩を放っていて、やはりいちばんレイシーらしさが感じられる演奏だ。とはいえ、1曲目の<Day Dream>のレトロなイントロとメロディが滑らかに流れてくると、どこか懐かしい音にホッとしてなごむ。ご本人は満足していなくとも、私的には十分楽しめるアルバムだ。

初リーダー作の1年後、1958年10月に録音されたのが『リフレクションズ Reflections』(New Jazz 1959) である。当時モンク作品を演奏していた人間はほとんどいなかったそうで、アルバム・レベルでモンクの曲を複数取り上げた最初のミュージシャンは、実はフランスのバルネ・ウィランだった(『Tilt』1957)。レイシーのこのアルバムは全曲がセロニアス・モンク作品という世界初の試みであり、しかも<Four in One>、<Bye-Ya>、<Skippy>といった、モンクの中でも難しそうな曲ばかり取り上げているところにも、レイシーの意気込みが伺える。ここでは、ピアノに気心の知れたマル・ウォルドロン、ドラムスにまだコルトレーン・バンドで売り出し前のエルヴィン・ジョーンズというメンバーに声を掛けている。レイシーと音楽的相性の良さが感じられるこの二人が、本アルバムの出来に大きく寄与していることは間違いない(マル・ウォルドロンとレイシーは、ヨーロッパ移住後も親しく交流していた)。ところで本書のレイシーの話では、実はベースはネイドリンガーではなく、当時モンク・バンドのレギュラー・ベーシストだったウィルバー・ウェアの予定だったが、ウェアがリハーサルに現れなかったので(例によって飲み過ぎか?)、ピンチヒッターとして急遽ネイドリンガーを呼んだのだという(もしウェアが参加していたら、もっと良い作品になった可能性があるとレイシーは言っている……)。しかしモンク作品に集中し、その後のレイシーの音楽上の道筋を明確にしたという点からも、いずれにしろこのアルバムは50年代レイシーの記念碑と言うべき作品だろう。リズミカルな難曲に加え、<Reflections>と<Ask Me Now>というモンクの代表的バラードを2曲選んだところもいい。モンク自身でさえ、当時はあまり演奏しなくなったような曲まで選んだこのレコードをレイシーから献呈されて、モンクは喜び、演奏も褒めてくれたらしい。ついでに40年代末のブルーノート盤以来10年間演奏していなかった<Ask Me Now>を、その後は自分でもレパートリーとして取り上げるようになったのだという。

 1960年5月にジミー・ジュフリー Jimmy Giuffre (1921-2008) とカルテットを組んで、短期間「ファイブ・スポット」に出演したレイシーだったが、ジュフリーのコンセプトと折り合わず、そのグループは長続きしなかった。しかし、オーネット・コールマンの前座だった、わずか2週間のその出演時にレイシーを聴きに来たのがニカ夫人にけしかけられたモンクであり、もう一人がジョン・コルトレーンだった。その演奏を聴いたモンクは、(ジュフリーGの演奏は気に入らなかったようだが)その後自分のカルテット(チャーリー・ラウズ-ts、ジョン・オア-b、ロイ・ヘインズ-ds)にレイシーを加えて ”クインテット” を編成し、テルミニ兄弟が「ファイブ・スポット」に加えて出店したクラブ「ジャズ・ギャラリー」に、4ヶ月にわたって出演した。そして「ファイブ・スポット」でレイシーのソプラノサックスのサウンドを聴いたコルトレーンは、その後自分でもソプラノを吹き始めた。その年の11月に録音されたレイシー3作目のリーダー・アルバムが、『ザ・ストレート・ホーン・オブ・スティーヴ・レイシーThe Straight Horn of Steve Lacy』(Candid 1961) である。メンバーを一新して、チャールズ・デイヴィスのバリトンサックスとレイシーのソプラノの2管、ベースにはジョン・オア、ドラムスにはロイ・ヘインズという当時のモンク・バンドのリズムセクションという異色の編成で ”ピアノレス” カルテットに挑戦したレコードだ。これは2管のモンク・クインテットとして、「ジャズ・ギャラリー」で夏の4ヶ月間演奏した直後のタイミングなので、モンク直伝のサックス2管によるユニゾン・プレイなど、当然そのときのモンク・バンドの編成とメンバーから生まれたアイデアに基づくアルバムと考えていいのだろう。選曲は、相変わらずモンクの難曲3曲<Introspection>、<Played Twice>、<Criss Cross>を選び、セシル・テイラーの2曲<Louise>、<Air>と、1曲だけマイルスの<Donna Lee>(パーカー作という説もある)を取り上げているが、モンクのグループとの共演直後ということもあって、レイシーの創作意欲と挑戦的姿勢がとりわけ感じられる作品だ。オーネット・コールマンの登場後でもあり、レイシーが60年代フリー・ジャズへと向かう兆しがはっきりと聞き取れるのがこのアルバムでの演奏だ。

米国でのレイシー最後のリーダー作となったのが、モンクの曲をタイトルにした1961年11月録音の『エヴィデンス Evidence』(Prestige 1962)だ。オーネット・コールマンのグループにいて、レイシーと個人的に親しかったトランペットのドン・チェリー Don Cherry(1936-95)、同じくオーネットのグループにいたビリー・ヒギンズ Billy Higgins (1936-2001) をドラムスに、モンク作品を4曲(<Evidence>, <Let’s Cool One>, <San Francisco Holiday>, <Who Knows>)、エリントンを2曲(<The Mystery Song>、<Something to Live for>) 選曲している。同世代のドン・チェリーは、レイシーが兄弟のようだったというほど一緒に自宅で練習した仲で、フリー・ジャズへ向かうレイシーに音楽的ショックと強い影響を与えたプレイヤーであり、レイシー同様チェリーも60年代からヨーロッパで活動し、70年代に移住した。当然ながら、このアルバムで聴けるのは、モンクの影響圏から脱出し、いよいよフリー・ジャズへ向かって飛び立とうと助走に入ったレイシーの音楽である。レイシー自身、米国時代のアルバムの中では、ギル・エヴァンスとの共演盤と並んで本作をもっとも評価している。

ところで、他のメンバーに比してこのアルバムのベーシストが、「カール・ブラウン Carl Brown」というまったく聞いたことのない奏者なので、今回あらためて背景を調べてみた。アメリカのネット上のジャズ・フォーラムで、同じ質問をしている人がいて、何人かがコメントしている。これは当時オーネットと共演していたチャーリー・ヘイデン Charlie Haden (1937-2014)  が、何らかの理由で偽名で録音したのではないか、という意見もあって(ナット・ヘントフのライナーノーツに、ビリー・ヒギンズがレイシーに紹介したと書かれていることもあり)、関係者がいろいろ過去の話をしているのだが、結論はやはりヘイデンとは別人の実在したベーシストだったらしい。いくつか証拠(evidence) もあって、Atlantic向けにレイシーがヒギンズとトリオで録音した、以下の未発表音源3曲のメンバーにもカール・ブラウンの名前が記載されていることも、証拠の一つとしてあげられている。このときはAtlanticにドン・チェリーも録音していたそうだが、いずれもオクラ入りとなってリリースされなかったのだという。いずれにしろ、60年代に入ってからのレイシーの意欲的な2作は、当時は音楽的に過激すぎてまったく注目されずに終わったのだという。

[NYC, October 31, 1961 ; 5749/5752 Brilliant Corners Atlantic unissued;  Steve Lacy (ss), Carl Brown (b), Billy Higgins (ds) ; <Ruby, My Dear>, <Trinkle, Tinkle>, <Off Minor>]