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2021/10/10

英語とアメリカ(8 完)妄想的未来展望

昨年夏のジャズ本に関する話の連載もそうだったが、今年の夏も、終わらないコロナ禍でヒマにまかせて書いてきたので、ジャズとは直接関係ない話がいつの間にかどんどん広がって収拾がつかなくなってきた。本テーマもこのへんで終わりにしたい。最後に「まとめ」として未来展望についての「妄想話」を一つ。

1990年代以降、バブル崩壊による金融破綻と産業界の低迷、デジタル化の遅れによる国際競争力の低下、さらには阪神淡路大震災や東日本大震災、原発事故のような大災害がこれでもかと連続し、まるで呪われたかのような平成の30年だった(安倍晴明でも呼び出したいくらいだ)。おまけに国全体の高齢化も加わって、日本の国家としての活力は明らかに低下しているが、その「とどめ」となったのが、1960-70年代の高度成長期に、東京オリンピック(1964)、大阪万博(1970)、札幌オリンピック(1972) と国際的大イベントを連続開催し、それを国家事業の成功譚と記憶している老人たちが中心になって、あの夢よもう一度と、莫大な資金を投入して誘致し、コロナ禍で反対する多くの国民の懸念をよそに、今年強行開催したオリンピック/パラリンピックという世界的イベントだ。

インバウンド需要をきっかけにして、ほぼ30年間落ち込んできた経済を一気に盛り上げようと目論んでいたが、初めからスタジアム設計、パクリロゴマーク、組織委問題、開会式演出等々と問題が相次ぎ、あげく世界的なコロナ禍に見舞われ、結局は内外から誰も来ない、見ない、「無観客」という前例のない環境下で縮小開催せざるを得なくなり、国家として、ある意味ダブルパンチを喰らうという悲惨な結果に終わったのが2020/2021である。コロナもなかなか収束せず、おおっぴらに酒も飲めず、国のリーダーたちは頼りにならず、いったい日本は今後どうなるのかと不安に思っている人も多いだろうし、中にはもうお先真っ暗だと思っている人もいるかもしれない――しかしながら、これもまた「国家の運命」と考え、悲観しすぎないことだろう。あまり嘆いたり不平を言わずに、日本はあらゆる面で、今は終戦以来の「どん底」状態にあって、逆に言えば「これ以上悪くなることはないだろう」くらいに開き直って、楽観的に将来を見た方が健康にも良いと思う。人生も国家も、急がず慌てず長い目で俯瞰してみると、意外なことに気づくものだ。なんだかんだ言っても、日本はまだ今のところは良い国なのである。

そこで、本記事の最後に、まったく何の根拠もない私の「個人的な勘」に基づく無責任な妄想的未来展望を申し上げれば、日本の「次の30年間は明るい」ものになるのではないかと「漠然と予測」している。というのは以下のように、明治維新以降、日本はどうも約30年周期で「浮沈(上げ・下げ)」を繰り返しているように思えることに最近気づいたからだ。ただし、いずれも主として景況感や政治状況から、その期間を総じて見れば「社会的テンション(世相)」が「ハイ(明るい)」だったか「ロー(暗い)」だったか、という観察にすぎず、何か裏付けデータがあるわけではないことをお断りしておきます(ただ、「景気」というように、その時代に生きる「人々の気分や空気」は、社会全体の動向にも、個人の人生にも大きな影響を及ぼすことがある)。

1870-1900(沈=明治維新後の混乱と近代化模索期)、 1900-1930(浮=日清日露戦勝利による国威発揚と大正デモクラシー期), 1930-1960(沈=日中戦争、太平洋戦争、原爆、敗戦、戦後混乱期), 1960-1990(浮=高度経済成長期を経て80年代の ”Japan as #1”、バブルへ), 1990-2020(沈=バブル崩壊、阪神・東日本大震災などの大災害、デジタル敗戦)、2020-2050 (浮=?)

さらに、ヒマなのでPCスキルを駆使して(?)、おおよその図を描き、各期間を大きなイベントを中心に埋めてみたのが以下のチャートだ。これを眺めていると、何となく、もっともらしい説に思えてくるような気がしないでもない……


生命体にはバイオリズム(bioとrhythmの合成語、身体ー感情ー知性の周期的変化)があるという仮説があり、人間の活動にも、その人生にも「周期的な浮沈のリズム」があると(占いなどで)言われている。企業の寿命と盛衰にも昔から30年説があり、たとえば芸能としてのジャズの歴史は100年以上と長いが、最盛期だったモダン・ジャズ時代は1945 - 75年と、これも30年間という寿命だったようにも見える(頂点は1960年前後)。まあ俗説にすぎないことは分かっているが、宇宙が一定のリズムで動いていることを考えると、地球という天体で生きる生物である人間がそのリズムに影響され、その人間の集団的活動もまた、あるリズムで変化するという考えも、別段、頭ごなしに否定するようなことではないか――とも思う。

また30年周期ということは、60年で「1サイクルの浮沈」ということになり、平均寿命80歳とすれば、これは成人後の人生の長さに相当する。つまり、日本人のほとんど誰もが、時期のずれはあっても「人生で、1サイクルの世の中の浮沈」(これは不可抗力)を経験するということであり、これはこれで神の公平な配材といえるのかもしれない。中高年なら、上図に自分の生年の位置を置いてみれば、おおよその世相の浮沈を過去の経験から想像できる。また、たとえば就職氷河期(90年代後半)を経て現在に至るまでツイていない世代(団塊ジュニア)にも、やがては「明るい時代」がやって来るという希望が(せめて)持てるかもしれない(?)

実は、面白いのは同じ期間に、ほとんど似たような周期で(国力と浮沈の程度の差はあるが)アメリカが日本とほぼ「真逆の浮沈」を繰り返しているように見えることだ。たとえば過去100年間に限っても、第二次世界大戦期(戦後はアメリカ最盛期)、ヴェトナム戦争時代(日本は高度成長期、1975年のヴェトナム敗戦時のアメリカは底?)、90年代に始まるデジタル革命時という各30年は、浮沈サイクルが日本と真逆の傾向にあるようにも見える(そうすると、アメリカの次の30年は「沈」ということになる?)。ただし繰り返すが、あくまでこれは私個人の単なる妄想であり、まったく根拠はない。ところが、念のためにネットで調べてみたら、何と日本のこの景況浮沈の30年周期について、同じような説を既に唱えている人が日本にいることを知った(私の妄想よりは信用できるだろう)。経済学では昔から短期、中期の景気変動説に加え、コンドラチェフの長期波動説等、景気循環論が提唱されているので、今の時代、データに基づいた科学的な検証を行えば、何かしら新しい傾向が得られているのではないかと思う。やがてはAIが、ビッグデータを駆使した総合的分析で、こうした人間の社会経済活動や国家の浮沈周期の存在、その理由等を解説してくれるかもしれない。

さて30年後に私はたぶん生きていないので、まさに無責任な話になるが、2021年という時点で推測される、次の30年間に日本が再浮上するための「唯一ポジティブなシナリオ」とは――《 独創性はあまりないが、特定の「プラットフォーム」(ここではデジタル技術、サービスを含む21世紀デジタル社会の基盤)がひとたび構築された後の、 日本人の学習・分析能力、創意工夫、実行スピード、高い品質は歴史的に実証済みなので、日本が今後、本気で社会の(再)デジタル化(DX)に取り組めば、その過程でもそうした能力が発揮される可能性がある 》ということだろう。その可能性を高めると予想される重大な「ファクト」は―― これまで年功序列をベースにした会社や組織など、社会の中枢にいて、20世紀の成功体験と意思決定権を持つが、デジタルに関する知識とスキルが欠けていたために、業務のデジタル化転換を主導できず、むしろ直接、間接両面でそれを妨げ、結果として過去30年間の日本社会全体のデジタル化への構造転換を遅らせてきた大きな要因と思える――我々のような「情弱中高年以上の年齢層」が、向こう30年間で徐々に退場してゆくことだ(アジアなど新興国のデジタル競争力の強さの要因の一つは、この生産年齢人口の若さであるのは明白だ)。

これは、戦後半世紀の日本の発展に尽力してきた年寄りにもっと敬意を払え――とかいう話ではなく、デジタル革命の勃興期(1990年代)から、残念ながら戦後の日本を牽引してきた世代(1930-50年生まれ?)の「高齢化」がたまたま重なったために、組織や意思決定プロセスの迅速なデジタル体制への転換が「より難しくなった」――すなわち、これも日本の「歴史的運命」だったという話である。しかし、次の30年間は、この世代交代によって日本社会の人口構成も変わり、新たなデジタル技術やサービスの開発、提供者のみならず、その利用者や、政治や企業活動の意思決定の中心を成す層が、遅ればせながらデジタル・リテラシーの高い若い世代に徐々に移行してゆく。過去30年間の出遅れが逆に幸いして、デジタル庁が唱える日本流の「人に優しいデジタル化社会実現」のための施策を基礎から積み上げ、それが社会に根底から浸透し、技術、サービス分野で他国にはない「日本ならでは」の知恵を使ったデジタル活用策が実際に生まれ、機能すれば、この国の産業や社会を根本的に作り変える可能性は十分にあると思う。それが30年周期説という「妄想」に基づく、唯一の希望的観測だ(そうなれば我々年寄りも、火野正平氏の名言「人生下り坂サイコー!」と叫びながら、残された人生を楽しく送れるかもしれない?)。

ただし、いずれにしろ今後の日本は、20世紀のようにデファクト化して「世界市場で主導権を握る」というような大それたことを目指すのではなく(太平洋戦争とデジタル戦争で懲りたはずだし、そもそも似合わない)、産業や文化など、あらゆる分野で世界に類のない価値創造を目指す「ガラパゴス・ジャパン」(英語だとSpecialty Japan?) という独自の道を、自虐的にではなく、世界の趨勢を俯瞰しつつ「戦略的に選択して」前進すべきだと思う。すなわち、総人口は減るが、団塊以上が徐々にいなくなり平均年齢は若返るという要素も含めて、国家も産業も「ダウンサイジング」してゆくというイメージ――つまり得意とする小宇宙化(盆栽化、弁当化)をさらに深化、洗練させて、国家のサイズに適した領域で生き残ってゆくことである。日本的伝統工芸などに限らず、ゲーム、マンガ、アニメの例に見られるように、声高に叫ぶことなく独自文化や技術を掘り下げ、それを控えめに発信しつつ、「世界に発見、認知してもらう」ことによって逆に自らの価値を高めることを、日本の基本的国家戦略にすべきだ。そしてこれは、日本人の特性と国家としての歴史的文脈にも合致した方向性だと思う。デジタル化はあらゆる分野で、そのコンセプトを支える有効な柱となり得るだろう。

最後に日米関係に関して言えば、大雑把だが常に前進し、変化している「ダイナミック・アメリカ」と、保守的で細部にこだわる「ガラパゴス・ジャパン」は、ある意味で水と油のようなものだが、「イノベーション」は、それを得意とするアメリカに任せて、日本はそこから生まれた技術やアイデアを「選別、洗練」させることに特化するというように、「競争」ではなく、お互いに得意とする分野で棲み分けて「協業する collaborate」こと、つまり従来の基本的枠組みの戦略的強化が、やはり両国にとっていちばん良いことなのだろうと思う。幕末の黒船以来の歴史的運命が示しているように、太平洋をはさんだ日本とアメリカの両国は、いろいろあっても基本的には相性が良く、これからも互いを補い合う良きパートナー足り得る可能性が大きいと個人的には信じている。加えてもう一つは、一党独裁化をさらに進めている中国の動向を睨みつつ、アジアでもっとも日本に友好的な人々から成り、かつ中華文化圏の歴史と本質を理解している台湾と、より密接な関係を築き上げてゆくことが、日本にとって政治、経済両面できわめて重要な選択肢になると思う。

本稿(1)冒頭の、菅総理(当時)のG7写真から受けた印象(世界における日本の立ち位置)と英語問題から思いついた話だったが、つい長い論文(回顧録?)のようになってしまった。その菅総理も、国民の不満を察知した自民党による「ガースー抜き」戦略(文字通り)のゆえに、あっという間に退陣してしまい、岸田新総理になった。

本稿もこれにて終了です。(完)

2021/09/26

英語とアメリカ (7)アメリカ文化

アメリカに関するこの記事を書いていて、昔、司馬遼太郎が書いたアメリカ紀行のような本を読んだことを思い出した。その本のタイトルが『アメリカ素描』だったことも思い出し、今は文庫本になっていることを知って、先日それを買ってあらためて読んでみた。今から35年も前の1986年に読売新聞社から出版された本で、1985年から86年にかけて司馬遼太郎が初めてアメリカを訪問し、西海岸、東海岸の主要都市を40日間ほど旅行したときの観察を基に、紀行文として書いたものだ。80年代半ばといえば、私が米国親会社の内部で仕事をやり始めた頃であり、また日本経済がバブルに向かって絶好調だった時代だ。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』とか『NOと言える日本』とか、威勢のいい本も出版されていて、戦後の対米劣等感から解き放たれて、もうアメリカとは対等だというような空気があふれていた。逆に当時のアメリカは、自動車や半導体で日本に追い抜かれるかもしれない、というプライドとあせり両面が背景となって、ジャパン・バッシングが全米各地で起きていた。

したがって、そうした時代背景も前提にして読むべき本なのだろうが、司馬遼太郎らしい、表層ではなく、常に「歴史の深層」を掘り下げようとする筆致は、初めて、それも短期間だけ訪れたアメリカを対象にしても同じで、わずか数週間、数都市の滞在とは思えないような深みのある洞察と表現で、アメリカという国家の本質を探り出そうと試みている。何を見ても、常に一度、日本や世界の歴史がどうであったかという背景や事実と結び付けてから考察する姿勢と、その作業を可能にする深く広範な知識に驚く。遠くの対象にカメラのピントを徐々に合わせていくように、ある種の臨場感と生理的快感を常に感じさせる文章なので、今読んでも古くささのない、すぐれた文明論になっている。この本は、デジタル時代が到来する前の80年代までのアメリカを観察したものだが、アメリカという国家の本質をとらえようとしているので、その後私が経験上感じたり、考えてきたことを多くの点で裏付けている。同時に、イギリスのピューリタンに始まり、ヨーロッパ各国からの移民や、アジア系移民の歴史等、米国史の常識というべき事実を、おさらいのようにあらためて思い出すことも多く、WASPを頂点とする移民の重層性とヒエラルキーなども、なるほどと頷くことが多い。

特に「多民族による人工国家」という認識をベースにして、文明(普遍性)と文化(個別性)という切り口でアメリカを語った本は、今はともかく当時はまだなかったように思う。19世紀までのヨーロッパの近代文明に続き、アメリカは20世紀に生まれた「文明の国」であり、その文明は「多民族性、多文化性」という、この国が創建された時から内包する複雑なフィルターを経て、濾過されてきたものであるがゆえに、本質的にグローバル(当時はまだ、この言葉は使われていなかったが)に受容され、拡散されるという普遍性を持っている、という指摘はまさしくその通りだ。日本も、戦後の半世紀でアメリカ化されることが当たり前の日常となり、戦後生まれの我々は、子供時代から映画やテレビドラマ、飲食物、自動車、電化製品等を通して、便利で快適なアメリカ文明(=アメリカ文化)を体の芯から刷り込まれた世代だ。こうした国民レベルでの、日常生活の「アメリカ化」という蓄積があったからこそ、アメリカという手本に追いつけ追い越せ、という具体的目標とモチベーションが生まれ、日本の産業も経済も発展したのである。

90年代以降のデジタル時代になっても、「さらに便利で快適な生活」を提案するGAFAのようなビジネスを通じて、世界中で絶えず「アメリカ化」が進行してきた。私もコロナ禍の最近などは、気づくと毎日家の中で何の抵抗もなくAppleのスマホやWin PCを使って交信し、MacやWinのOS上でGoogleで検索し、MS/Wordで翻訳原稿を書き、Macオーディオで音楽を聞きながらGoogle Bloggerでブログを書き、YouTubeで動画を見たり、音楽を聴いて楽しみ、普通にAmazonであれこれ買い物をしている。そうこうしているうちに、GAFAは世界中の国や人々の日常生活の奥深くまで浸透し、知らず知らずのうちに(個人情報を収集しながら)、それらの国や地域固有の思想や文化に影響を与えているのである。その圧倒的な影響力、支配力と、今や自分がほぼ無自覚にそれらの「サービス」を日常的に利用していることに、正直言って時に恐怖すら覚えることがある。

ギリシア、ローマ、中国などの古代文明から19世紀の西ヨーロッパまで、「文明」とはそもそも、ある国や地域固有の「文化」が政治、経済、軍事等のパワーを背景にして、周辺地域に徐々に浸透し、その過程でそれら周辺文化も吸収しながらさらに深化、拡散する、という普遍化プロセスを経て成立するものだ。ところが20世紀の「アメリカ文明」は、国家の成立時から既に普遍性を内包しており、その下で形成された「アメリカ固有の文化」が、国力を背景に短期間にそのまま世界に拡散したところがユニークなのだ。20世紀の情報伝播速度が飛躍的に上がり、デジタル化によってさらにそれが加速されているという時代背景も違う。本稿中でも挙げたように、そうしたアメリカ文化を象徴するコンセプトないしキーワードは――ヴィジョン(理想)、ミッション(使命)、フロンティア(最前線)、リモート(遠隔)、チェンジ(変化)、スピード(速度)、チャレンジ(挑戦)――等、本稿で挙げてきたアメリカ人が好む概念や行動を表す特質だが、中でも「Change(変化)」こそが、これらの特質に通底するアメリカ文化の本質ではないかと思う。

私は昔から、アメリカ人には常に 「Change」への脅迫観念(=常に変化し続けなければならない)があるのではないかと思ってきた。アメリカ人はよく働くが、それは日本人が美徳とする「勤勉」とはまた違うもので、「じっとしていると競争相手に負ける、置いて行かれる」という、資本主義の権化のような国に生きる人間特有の恐怖心のようなものだと思う。これは産業界だけでなく、たとえばマイルス・デイヴィスが米国音楽界で「芸術音楽としてのジャズ」というジャンルだけでなく、「ジャズ・ビジネス」の世界でも成功した稀なミュージシャンだった理由の一つでもあると推測している。第二次大戦後からマイルスは、ビバップ/クール/ハードバップ/モード/フュージョン/ファンク……と、演奏スタイルを時代に応じて(約5年ごとに)意図的に変化させ続けたが、これほど自身の音楽上のスタイルを変え続け、それでいながらジャズ界のリーダー的地位を確保し続けたジャズ・ミュージシャンは他にいない。もちろん才能あってのことで、芸術上の理由もあるだろうが、聡明なマイルスはむしろ、そうし続けないと「米国人聴衆に飽きられるのではないか」と恐れ、あるいはそれを見抜き、先手を打っていたのではないかというのが私の想像だ。

司馬本にも出て来るが、何年かすると「街の様子」がすっかり変わってしまう、というのも「Change」の象徴で(田舎は別だが)、資本主義社会の非情と移ろいやすさを表している。その例として、廃墟のようになったドック群を見て、フィラデルフィアの造船業の盛衰史を語っているが、ピッツバーグの鉄鋼も、私が90年頃に実際に見たデトロイトの自動車も同じだ。栄えていた街や地域が急速に廃墟化する様は、日本のように穏やかな文化を持つ国の人間からすると、本当に強烈なショックなのだ。20世紀後半に、これらの産業はみな日本に一度主役の座が移ったが、その次に鉄鋼、造船が韓国へ、さらに中国へと生産の主力が移ったのは歴史が示すとおりだ。半導体や電子機器の歴史も同じである。1980年代のアメリカ人が感じた、身の回りから国産品 (Made in USA) が徐々に消えてゆくという喪失感を、21世紀になって感じているのが我々日本人なのだ。それが資本主義であり、それもわずか数十年という期間にその変遷が起きているのである。日本に追いつかれた(表面的に、だが)アメリカは、半世紀の間、世界を主導していたそれらの国内製造業をある意味でスクラップ化し、それに代わる新たな産業をまた生み出したが、それが(80年代の準備段階を経て)90年代から始まった、インターネットとコンピュータを駆使したデジタル革命による産業のIT化だ。実物経済ではなく「カネがカネを生む」というウォール街の投機ビジネスを目にした司馬は、「モノ」を作らなくなったアメリカはいずれ亡びるのではないか……と80年代的に危惧しているが、一度沈んだかに見えても、再浮上するための資本と人材(リソース)を常に潤沢に維持し、次の成長を支える戦略と制度を常に見直している真正の資本主義国家アメリカは、90年代以降は「サービス」で復活を遂げたのである。

新聞紙や包装紙を再利用して大事に使っていた昭和30年代の日本に、アメリカ生まれの「使い捨て」ティッシュペーパーが初めて登場したときは本当に驚いたものだ。米国は他の国と違って、土地も資源も豊富なので「eco」という概念がそもそも稀薄だ。地球規模で「大量生産と大量消費」という概念とシステムを広め、その効用と利便性と引き換えに環境危機を生み出した最大の要因は、我々の生活を欲望の赴くままに、世界規模でひたすら便利に快適にしてきた「アメリカ文明」にあると思う。程度の差はあれ、世界のどこでも便利で快適な生活がひとたび実現すると、人間はもう元に戻れない。しかも90年代以降のデジタル化で、モノだけでなくサービスまでが自在に利用できるようになると、さらにその先の便利さが欲しくなる。1日かかっていた仕事が1時間ですむようになると、もっと短くできないかと考えるようになる。人間の欲望には際限がないので、ますます便利で快適な生活を求める。結果として、貧しかったがゆったりしていた生活から、便利で快適だがあわただしく、小忙しい毎日へと人間の世界が変わってゆく。低コストで大量に生み出したモノがあふれてゴミになり、地球規模で環境を汚染し、生産活動に大量に消費していたエネルギーゆえに天然資源は枯渇する。脱炭素もSDGsも、こうした地球規模の問題を解決しなければ、もうやっていけない状態に近づいているという危機感から生まれたものだ。最近になって、マルクスの『資本論』やマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のように、根源的な問いに答えてくれそうな(懐かしの)思想がまた注目を集めているのも、人々がこの状況に本当に危機感を抱き始めたからだろう。

こうした功罪両面を持つアメリカ文化(文明)を生み出してきた「アメリカ人」に関しては、人それぞれのイメージを持っていることだろう。複雑な背景を持つ国なので、一言で「アメリカは…」とか「アメリカ人は…」とかはもちろん言えない。私が長年経験したと言っても、アメリカの中のほんの一部の企業、地域のコミュニティに関することにすぎず、それをもって一般化できないのももちろんだ。だから、あくまで限られた体験に基づく個人的感想だが、あえて言えば、アメリカ人からは、異民族や植民地統治の長い歴史を持つイギリス等、ヨーロッパ各国のような思想的複雑さや、ある種の狡猾さ(「思慮深い」「洗練された」とも言う)は感じられない。アメリカ人は「総じて」シンプルで、フランクで、フェアな人たちだという印象を持っている(人種差別の問題は、米国の基礎疾患のようなものなので別の話だ)。

私はアメリカのドタバタ喜劇映画が昔から好きで、シリアスな局面でも、事態や自分を茶化す乾いたアメリカン・ユーモアが好きだ。日本人もそうだが、何かあっても、しつこく恨みを抱いたりしないおおらかさもいい。アメリカとアメリカ人についての、全体としてポジティブな私の見方は、幸運にもこれまでの長い交流の中で、本当にイヤな体験をほとんどしてこなかったせいなのだろうと思う。ただし、群れることを嫌い、オフィスでも個室やパーティションで区切られた世界を好む彼らは、自由の国にいながら、どこか孤独に見えるのも事実だ。それとどこかでも書いたが、アメリカ人は成長してアメリカ人「になる」のであって、一方、日本人は生まれながらに日本人「である」、という両国民のアイデンティの認識は、基本的価値観の違いを知る上で重要だと感じることが多い。

一方、移民国家としての米国には、他国から見ればおかしな点や欠点もたくさんあるだろう。私が気づいたその一つは、トランプ時代が象徴しているように、アメリカが世界の中心だという意識が強く、歴史の短い自国のことしか知らない、関心がない、という人間が総体として多いので、異国の歴史や文化、そこに住む外国人がどのような存在なのか、その多彩さに思いを巡らせる「想像力」を欠いている人が多いことだ。その結果、何ごとも「自分たちが良いと思うこと」は世界中のどこでも通用する、と楽天的に(傲慢にとも言えるが)信じ込んでいるところが「普通の」アメリカ人にはある。だから国や民族、文化の微妙な違いなどは無視して、自国の価値観を強引に押し付けたり、大雑把に「アメリカ人」がいるように「アジア人」もいるというような、ある意味で「雑な」思想や姿勢が、政治問題、企業の事業戦略や運営から現在のアジア系ヘイト問題に至るまでの背景にあるように思う。

当然だが、逆にそれが「歴史や伝統にとらわれない」という自由、進取、革新の国民性、文化という長所を生み出してきたわけで、科学技術の発明、市場創造、起業精神のみならず、20世紀の映画やジャズのように、まったく新しいアートやエンタメ産業を生み出す土壌にもなっている。バラバラな出自の移民をまとめるために、まず共有すべき理想(Vison) を掲げて前進しつつ、人類がかつて経験したことのない社会を作ろうと、失敗もリスクも容認しながら、今も挑戦し続ける真に「実験的な国家」がアメリカなのだ。一方、同じ人種で長い歴史を持ち、互いを良く知り、和を重んじるための約束事が多く、変化やリスクを避け「何事にも慎重な」日本は、文化的にその対極にある国と言えるだろう。(続く)

2021/09/10

英語とアメリカ(6)デジタル化

世界のデジタル競争力
スイスIMD調査
日本経済新聞 2020年10月
日本のデジタル化が、世界の趨勢から見てどの程度遅れているのかは、5Gとかスマホの進歩とか、表層的話題で覆われているので日常的に実感するのは難しいが、世界では様々な指標を用いて分析されている。何を指標にするかで当然評価は変わるし、左表(スイスIMD)の「デジタル競争力ランキング」はその一つだが(知識、技術、将来への準備、の3項目で評価)、1位の米国は当然として、他のどの分析を見ても、日本の順位にそれほど大差はないので、この表の順位(27位/63ヶ国中)あたりが世界における客観的な立ち位置だと考えていいのだろう。見ての通り先進国はおろか、アジア主要国の中でも最低で、途中が省略されているがマレーシアより下、しかも、さらに沈下中だ(IMDの分析データ詳細はネット上で見られるが、中でも知識/国際的人材、技術/法規制の枠組み、将来/企業の俊敏性などの評価が最下層に近い)。コロナ禍のワクチン接種の問題等によって、従来から(大昔から)指摘されていた縦割り行政に起因する中央、地方官庁のデジタル化のお粗末さ(いまだにFAX、各地でばらばら)が顕在化したこともあって、菅内閣による「デジタル庁」という役所が異例の速度で創設され、今月からスタートした。

そこで、とりあえずホームページを一読してみた。まず気になったのは「ミッション(Mission)」と「ビジョン(Vision)」だ。ミッションが上に書かれていて『誰一人取り残さない、人に優しいデジタル化を。』で、次にビジョンが来ていて『Government as a Service』、『Government as a Startup』と2つが書いてあるが、どうもミッション、ビジョンの順序と内容が逆のような気がする(それに、なぜビジョンだけ英語なのかも謎)。本稿の(2)で書いたが、Vision/Mission (/Strategy or Value) は、元々はP・ドラッガーが、20年くらい前に米国で提案したビジネス戦略の立案プロセスを概念図化したものだ。詳しくは知らないが(親会社もそうだったので)本場(?)のアメリカでは当然「Vision」が上位概念(ピラミッドの頂点部分)だろうと思う。例によってそれを輸入加工した日本では、Web上の企業のホームページやコンサルタント会社の記事も、半分以上はMissionが上位に来ていて、しかもVisionと内容的に区別がつかないケースが多い。読んでもよく分からないような曖昧な表現も見受けられる。借り物の概念を使って、日本人の思想、視点で作ると、どうもそうなるようだ、と理解した。これが、あらゆる日本型組織の方針設定等に見られる特徴であり(総花的で焦点が曖昧)、運営上の混乱の源のような気がする。

(3) で書いたように、ものごとを見ている視点、視界が違うからだろう。まず、長期的に「あるべき未来図」(Vision)を常に思い浮かべるのが習性になっている(歴史が極小のフロンティア志向の)民族と、まず自らを律する「使命(任務)」(Mission)を先に思い浮かべる(長い過去を引きずり、その延長線上に生きている)民族の差ということなのだろう。ほとんどのアメリカ人がまず「現在から見た未来」に目を向けがちなのに対し、日本人が常に「過去から始まる現在を見る」傾向があり、相対的に未来に目を向ける比率がアメリカ人より圧倒的に低いという分析があって、私も実際にその実験に米国親会社の研修で参加したことがあるが、実にその通りの傾向が見られた。つまり過去へのこだわりの強さ(日本)、未来へ託す希望の強さ(米国)、の差とも言える。また翻訳の仕事をしてあらためて分かったのは、英語と日本語における過去形、現在形の表現にもその違いが表れていることだ。英語の文章や会話では、過去ー現在完了ー現在ー未来の「時制表現」は文法上ほぼ明確だが、日本語では、同じ文章や会話の中で過去と現在を行ったり来たりして、過去のことなのに、あたかも現在のことのように現在形で表現していることが多い。これは「歴史的現在」と呼び、英語にもあるが頻度が違う。特に小説や会話で頻出するが、英→日翻訳の場合は日本語を工夫して、過去のことではあっても部分的にあえて現在形にした表現で訳さないと、みんな「…た」で終わってしまい、単調でおさまりが悪い文章になる(意識して日本語の文章を読んでみたら分かります)。

何が言いたいのかというと、社会全体のデジタル化のような根本的変革は、過去(アナログ思想)の延長線上で徐々にやろうとしても、うまく行かないということである。つまりアメリカ型の、未来を見据えたラディカルな「Change」思想が必要で、昔の日本が得意とした徐々に前進させてゆく「カイゼン」思想ではうまく行かないということで、それが過去30年間の日本のデジタル化失敗から得られた教訓だろう。それを打破すべく、遅ればせながら「デジタル庁」を創設したことは一歩前進と評価したいが、それにしても上記ミッション、ビジョンの設定はどうもしっくりと来ない。国家として2021年のフェーズで重要なのは、「行政手続き」のデジタル化とか、「紙からデータへ」というデジタル化の初期(20年以上も前だ)に期待されたスピードと効率向上という単純な効果(digitization or digitalization) ではなく(もちろんそれすら実現できていないのだが)、むしろ社会的ツールとしてのデジタルを、国としていかに活用して、社会の在り方そのものを変えてゆくかという構想 (digital transformation; DX) の方だろうし、もちろんそのことはデジタル庁の中でも議論されている。

ただし社会のデジタル化は万能ではないし、移行の過程である程度の歪や痛みも伴う。アナログ世界の何をどこまでデジタル化したら国家として最も望ましいかは、当然ながら各国の歴史や文化に関わってくる問題なので、その最適解は国ごとに違うと思う(やがては各国が、その国に適したバランスで落ち着くのだろう)。だから日本における「デジタル化の理想」を協議した結果が、いかにも日本らしい『人に優しいデジタル化社会の実現』だという結論に至ったなら、それこそをデジタル庁が音頭を取って日本国民が共有し、目指すべき「ビジョン」とすべきではないか。「誰一人…」は情報弱者、高齢者等への配慮だろうが、「人にやさしい」で表現されていると考えれば(標語は短い方がいいので)言葉としては不要だろう。そのためにデジタル庁が担うべき使命(ミッション)が、『Government as a Service』=「国、地方公共団体、民間事業者、その他あらゆる関係者を巻き込みながら有機的に連携し、ユーザーの体験価値を最大化するサービスを提供します」、と『Government as a Startup』=「高い志を抱く官民の人材が、互いの信頼のもと協働し、多くの挑戦から学ぶことで、大胆かつスピーディーに社会全体のデジタル改革を主導します」であるべきだろう(ただし、文章が長いし、もっと他に重要な仕事や、簡潔な表現がある気もするが)。

懸念するのは、デジタル庁がデジタル・インフラのさらなる整備・強化や、デジタル・ビジネスの自由な発展を支援し、促進する――ならいいが、民間の仕事に横から口を出し、利権がらみで上から規制したがる恐れがあることで(担当大臣のこれまでの言動、デジタル監の人事問題に既にその兆候が表れている)、その行動と成果を注視してゆく必要があるだろう。だから、この役所創設の「目標」設定と「任務」の定義は重要で、それが曖昧だと、従来の「日本的役所」がまた一つ増えるだけの話になって、デジタルによる効能「スピードと効率アップ」どころか、相変わらず利権を貪る輩の餌食となって、税金の無駄使いに終わる可能性もある。上図のように世界的に見て明らかに遅れていること(ほぼ手つかずであること)と、コロナ禍の混乱や制約の問題(社会的にニーズが高まっていること)が「逆に幸いして」、今はデジタル技術やサービスを駆使して、ほぼゼロベースで日本を変革できる千載一遇のチャンスであり、その「変革プラン」の策定は日本の未来にとって極めて重要だからだ。成功すれば、沈みっぱなしの過去30年間から脱却し、日本ならではの新たな価値創造を通じて、日本が真に生まれ変われる可能性さえあるのだ。

たとえばデジタル技術や機器による通信インフラが整備され、その有効性がようやく実証されつつある今、個人レベルでも「地方への移住」という選択肢の可能性がかつてなく高まっている。従来から指摘されていることだが、社会全体として見ても、「人口密度」と「地価」が異常に高い大都市圏に国や企業のリソースを集中させ続けることは、日本の産業構造の持つ「宿命的コスト高」から逃れられず、かつ今回のコロナや地震のような災害時の「社会的リスク」が増大するだけで、もはやプラスの要素は何もない。コスト(地価)の安い地方に拠点を分散し、従業員はゆったりとした地方で、広い居住スペースと安い生活費(住居費)で暮らし、容易になったホームオフィスやオンライン会議、満員電車から解放された短時間通勤等で家庭と仕事をバランスよく両立する、そして、そうしたリソースの分散・移動によって地方に雇用を創出して地域を活性化する、また観光客も呼ぶなど過疎化対策にも寄与する、さらに、これまで制約の多かった女性や障がい者が、家にいながら、もっと自由に働けるような条件や環境を整備する――等々、デジタル技術の社会的活用は、これまで日本では克服するのが困難だったそれらの課題を実現するためのインフラ、ツールとして強力な潜在能力を秘めている。そのための法整備や既存の慣行の改革も必要だ。それらの結果として社会の在り方、価値観そのものを変えてゆく力もある(transformation)。単に「テレワーク化をもっと進めましょう」とお願いするのではなく、その変化を強力に推進するための政治的指針と、支援のための施策が重要なのだ。

もっと言うなら、「長期的視点」から国土全体への人や資源のバランスの取れた「再分配」を最優先課題とし、その「大構想の下で」、デジタル技術とシステムを最大限活用して抜本的改革を目指す『21世紀型の日本列島改造論』こそを国家戦略として官民共同で策定し、計画的に実行すべきではないか。そこでの「デジタル庁」最大の任務は、その「長期戦略策定と実行」を、省庁を横断的に統括して推進する司令塔であるべきだ。そして、上に立ってその大改革を主導し、「1億人の国民」が将来も安定した生活を送れるような施策を提案、実行することが、国政を担う政治家の最大使命だろう。日本国内だけでなく、「台湾」のようにデジタル化が進んでいる海外の「友好国」と密接に協業し、その知見やリソースも活用するなど、国際的視野を拡げ、柔軟に取り組む政治的リーダーシップも必要だ。

政策より政局好きで、派閥間の権力闘争にしか興味もなく、頭の中は「昭和」のままで、デジタル世界の ”デ” の字も分からず、80歳を越えてなお反社のボスさながらの言動で権力にしがみつく老人たちや、金と利権にしか興味のない無為・無策・無能の3無の政治家たちにはとっとと引退してもらって、古い制度を大胆にスクラップ化し、同時に未来の「グランド・デザイン(大きな絵)」を描き、主導できる新たな政治家やリーダーが現れることを一国民として切望する。無用・無能な国会議員の数を半減させ、定年制を導入して全体を若返らせ、一人あたりの議員報酬レベルを上げ、その待遇に見合う能力とプライドを持った、真に優秀な議員を「厳重に選別」するための制度構築が必要だろう。また現代の日本に存在する、もっとも有効な「未開拓リソース」は女性だ。たぶん、この国の未来を救うのは、過去のしがらみに縛られ、忖度しながら生きる常に内向きな「日本の男」ではなく、広い視野で世界を知る、真に優れた女性リーダーではないかと思う(ただし、男中心の政治世界で生き抜いてきた老獪な女性政治家とか、反対を声高に叫ぶだけの古臭い左翼的女性ではない)。いずれにしろ、世界を知らず、また知る努力もしない、狭い日本の、そのまた一地方や一団体の利益代弁者とその後継者が国政を担えるような時代はもうとっくに終わっているのである。(続く)

2021/08/28

英語とアメリカ(5)リモート

英語の会議では「テーマ」が前述のように、具体的<<<抽象的というレベルの順で難しくなるし、「相手の数」が1人< 少人数<< 大人数、 という順で当然難易度も上がる。1対1なら、質問しながらでも何とかして議論できる可能性は高いだろう。しかし相手の人数が増えるにつれて、通常は会話のスピードが上がり、やり取りが複雑化するので、徐々に質問するのさえ難しくなる。また議論そのものの難度だけでなく、長時間ずっと英語で聞き、考え、喋るという頭脳の疲労がそこに加わるので、「普通の日本人」では疲れ切ってしまって、とても議論などついて行けなくなることが多い(そこに、やたらと長い夜の会食まで加わると、もうへとへとになる。ただし、いずれも「場数と慣れ」の問題でもある)。

Blues People
LeRoi Jones
(Amiri Baraka)
私がいた米国系企業がそうだが、上司や経営者層と重要案件を協議する場合、現地社員は自分の言葉(ネイティヴ言語)ではなく、「支配階層の言語」しか使えない。ということは、いくらこちらの意見が正しいと思っても相手の方が(当然ながら)英語がうまい(?)ので、結局は議論でも負ける可能性が高くなる(もちろん力関係もある)。相手にも優秀な人もいれば、そうでない人もいる。どう考えてもこちらの言い分の方が妥当だと思えるのに、単に相手の方が英語がうまいというだけで、結局は議論に負けて不本意な決定になるのは本当に悔しいものだ(人にもよるのだろうが、私の場合)。戦後日本の進駐軍時代や、世界各地の植民地時代の被統治民もおそらく同じような心境だっただろう――もっと言えば、西アフリカから奴隷としてアメリカ大陸に連れて来られた黒人たちは、こうして自分たちの唯一のアイデンティティだった「言語」を剥奪され、隷属させられたのか……とまあ、大袈裟に言えば、ついジャズのルーツにまで思いを馳せるような苦しい経験を何度もした。バイリンガル環境で育った日本人、あるいは若い時から英会話を徹底して訓練してきた人たちを除けば、100%の英語環境の中に一人で置かれた大方の日本人は、一度はきっと、こうした自己に対する無力感、無能感、ついには諦念(もう、しょうがないか…)に近い心情を抱くのではないだろうか。

私の場合もっとも必要だったのは、社外の人(顧客など)と交流、交渉するための英語ではなく、また(ずっと日本勤務だったので)外人上司や同僚との世間話でもなく、あくまで社内における「業務上のコミュニケーション」(協議、会議等)のための英語だ。したがって「目指した英語」とは、日常会話などは二の次で、とにかく英語ネイティヴと「普通に協議でき」、重要テーマなどにおける「議論で負けない、説得力のある英語」だった。そして、いろいろと試した結果、それを可能にするのは、結局のところロジック(論理)しかない、と思うに至った。ただし日本語で頭の中で考えたことを、そのまま英語に変換して説明しても彼らには理解しにくい。表音文字アルファベットを一つ一つ組み立てる、という英語圏的ロジックに置き換えて説明しなければならない。そのロジックさえしっかり組み立てれば、英語の表現自体が多少下手でも十分に意思は伝わるし、西欧人は、そうしたロジックに沿ってさえいれば、少なくともこちらの言い分を聞こうとするし、理解できるからだ。

そのロジックを鍛えるのにいちばん良い方法は、メール、レポート、論文、何でもいいが、下手でもいいから「英語の文章をたくさん書く」ことだと思う。自分の考えを、「簡潔に、論理的に」英語の文章として書き出す訓練を続け、仮に重要な議論の機会があれば、事前にその「文章」を相手に渡して説明しておく。口頭だけの議論だと、瞬時に良い言葉やフレーズが見つからないケースがよくあるが(語彙が少ないのでアドリブがきかない)、こうしておけば、こちらの基本的な考えは事前に理解されるので、会議では互いの疑問点だけに絞って議論できるし、文章での表現が会話時のフレーズにもロジックにも自然と生きてきて、説得力が増す。この手法は経験上も非常に有効だった。

……とまあ、エラそうに書いてきたが、実を言えば、私も当初は英語の会議に出席するのが本当にイヤで仕方がなかった。何せ実際に英語中心の仕事になったのは40歳を過ぎてからで、読み書きはともかく、もっと若い時から英会話を学習しておけば、と何度思ったかわからない。たぶん100%外資なら諦めもついて、言語も思想も思い切ってすべて米国流に従えば、それほど躊躇したり悩むこともなかったのだろうが、日米双方に片足を置いて、両親会社や日本人の上司や社員に忖度しながら仕事を進める合弁会社は本当にややこしいのである。

合弁会社勤務で身に付けたもう一つの個人的スキルが「PC」だ。米国親会社は、まだ郵便と電報による海外交信が普通だった1980年代(インターネットが普及する前)から、至急案件の場合に専門オペレーターに原稿を渡し、文章で交信したそれまでの通信方式「テレックス (telegraph-exchange) 」に代わって、IBMの「PROFS」という、コンピュータ画面にキーボードで文字を直接入力して、「瞬時に」海外と英文で交信できるEメールの前身ツールを使い始めていた。電話や自動車、さらにインターネットと、長距離通信や移動のための機器をアメリカが次から次へと発明したのは、日本の狭い国土とは正反対の「広大すぎる国土」という地理的制約のゆえだったのは明らかだろう。「見える顧客」よりも、「見えない市場」というビジネス上の視点や概念も同じだ。つまり建国時代から、先のよく見えない「フロンティア」と「リモート」への挑戦こそが、アメリカ文化や産業のキーワードであり、やがてこれがインターネットとデジタル革命という、国境を超えたグローバル化思想へとつながる。もちろん次は宇宙がその対象である(これらの技術開発の大前提に、軍事があることは自明だ)。

その後'90年代になると、親会社では事業のグローバル展開とインターネットの普及に合わせて、部長や役員といった役職とは関係なく、英語のメールは当然として、PCをツールとして使った仕事を要請されるようになった。米国企業では、日本と反対で一般的に上に行けば行くほど管理職がよく働くというのは本当だ。若い部下や秘書任せではなく、自分でWord、Exel、PowerPointなどの使い方を勉強し、資料を作り、それを使ってプレゼンするのである。もちろん、これは’90年代のデジタル革命後の、すべてが忙しくなってからの話だ。また給与体系も年功序列の日本と違って、リーダー層の地位、労働量と給与がシンクロしている。つまり忙しいが、給料も高い。さらに「SAP」のような、コンピュータによる先進的な全社的業務&リソース・マネージメント・システム(ERP)も'90年代後半から導入していたし、20年以上も前から、PCで作成したプレゼン資料をインターネットを通じてリアルタイムで画面表示する普通のPC端末と、複数参加者が互いの発言をやりとりできる国際電話だけを使った「グローバル電話会議」を、世界各地(米、欧、アジア)を直結して毎日のように実施していた。「リモート」が普通の彼らは、日本人のように「相手の顔が見える、見えない」、ということにはあまりこだわらないので、コスト高だったテレビ会議ではなくとも、業務コミュニケーション上はそれで十分だったのである。

もちろん会議はすべて英語なのでこちらは疲れるし、米国中心なので時差の問題はアジアがいちばん不利だが(夜間、深夜になる)、その点を除けば、まったくシームレス、タイムレスな国際会議が可能だった。もちろん会社だけでなく、インターネット環境と普通のPCと電話さえあれば自宅からも参加できたので、夜中に会社にいる必要もない。つまり、世界(日本)のどこに住んでいようと会議参加はできた。だからグローバル電話会議が終わった時点(日本では真夜中が多かった)で、普通はネットにつながったPC画面上で会議要点をまとめた資料や議事録(WordやExel) はもう完成していた。もちろん、それを稟議書にまとめてハンコをついて回して承認する、というような日本的プロセスも必要ない。

これは最近の話ではなく、今から10年、20年も前のアメリカの会社の「実話」である。デジタル時代になってから随分時間が経っているにもかかわらず、いまだに全員顔を合わせる「対面協議」を重視し、だらだらと続ける日本の会議や打ち合わせ、意志決定プロセスの非効率さとスピードの遅さは、信じ難いほどである(そこがいい、という意見があることは承知の上で)。コロナ禍のおかげで現在、日本でもやっと普及しつつあるテレワークやオンライン会議(飲み会含む)もそうだが、たとえば「電話では失礼だ」というビジネス上の慣例にも見られるように、声や資料だけでなく「相手の顔が見えないと、どこか落ち着かない」という対面重視の日本文化、日本的感覚が、(それが良い悪いという問題とは別に)これまで日本における業務のデジタル化を遅らせてきた大きな要因の一つだろう(今はヴィジュアル情報の通信技術が劇的に進化したので改善されつつあるが、これまではトータルで、どうしてもコスト高になった)。

コロナ禍で、通信とPCのインフラ、その活用方法が日本でもようやく一般化し、今後リモートワークの環境はさらに改善されてゆくだろう。住環境の面から見ても、狭い国であるにもかかわらず、毎日、満員電車で何時間もかけて一斉に定時に出勤して一箇所に集まり、顔を合わせて仕事をした後(しかも残業までして)、また何時間もかけて帰宅する、という慣習を変え(られ)ない大都市圏のサラリーマンの膨大な、無駄と思えるエネルギーも大きな問題だ。米国親会社のほとんどの社員は、(田舎ということもあって)遠くても車でせいぜい30分以内の通勤時間であり、残業もほとんどしない。一方の日本人は、通勤も含めて毎日の生活に時間的ゆとりがないので、疲れ切ってしまい、どうしても目の前のことにしか関心が向かわず、長期的なこと、根本的なこと(観念的、抽象的なこと)をじっくりと考える余裕も、習慣もなくなるのではないだろうか(その分、憂さ晴らし的な業務後の飲食が増える)。おまけに昔と違って今や国も貧乏になり、給料もまったく上がる気配のない日本の勤労者の生活(QL)は、つくづく貧しいと思う。

だが民間企業レベルはまだマシで、コロナ、ワクチン、オリンピック等の国家的課題への取り組みのトップで旗を振るべき日本政府、政治家、官公庁のデジタル化への意識と体制は、もはや手遅れと言ってもいいくらい世界的に見て遅れている。ワクチン接種のドタバタが示すように、コロナ禍が、昔ながらのモノ作り優先思想で、デジタル技術とソフトを「社会的ツール」として真に活用してこなかった日本の立ち遅れを一層目立たせているが(米国どころか中韓台にも遅れを取っている)、これを多少改善する効果があるなら、災い転じて……になるのかもしれない。しかしデジタル技術そのものではなく、ソフトや活用面、制度設計における日本の(意識を含めた)立ち遅れは明らかで、その改善策を本気で講じない限り、この国の将来は本当に危ういだろう。(続く)

2021/08/12

英語とアメリカ(4)英語を使う

ところで、日米の合弁企業にもいろいろとタイプがあるだろうが、その一つだった会社で働いた経験からすると、普通はダブルスタンダード、アイデンティティ不鮮明、二重人格的……すなわち「どっちつかず」という中途半端な企業に陥る可能性が高いように思う。私がいた会社は’90年代になって米国型に変身後、常にそうした問題を抱えながらも、幸いなことに事業としてはまずまずの結果を残し続けたが、この「日本法人の日米合弁企業だが、実質的にアメリカ側株主が事業を主導する」という特殊な(?)会社の業務で「学習」したことは多い。ネガティヴな面は(複雑すぎて)書きにくいので、ポジティヴな面だけを挙げれば、大きな個人的財産になったスキルはやはり「英語(読み書き、英会話)」で、もう一つは、日本の普通の会社より今でも10年は進んでいると思われる経営、業務上ツールとしてのコンピュータの利用と、それに支えられた「個人用パソコン(PC)」の使用だ。特に英語は社員共通の体験だったが、私のように当初「外資」を意識していたわけではない世代にとっては、いわば後付けの強制課題であり、誰しもが非常に苦労したが、そのおかげで身に付いたスキルと言える。

ただし英語もPCも、仕事上の必要性からあくまで実用本位で習得しただけなので、正直言って大したレベルではない。だが少なくとも、同世代の普通の日本人に比べたら多少はマシだろうと思う。それと、何十年もの間、米国企業とその組織内部で「生きた英語」に接してきた体験は、机に向かって本やテキストだけで学習する英語とは少し違うものだろうという気がする。おかげで世界中に知人、友人もでき、この歳で、今もこうしてPCに向かってブログや翻訳原稿を書いている。定年後はジャズ本の翻訳を趣味を兼ねて始めたが、原書の著者をインターネットでアドレスを調べて探し、英語メールで直接やり取りして翻訳を許可してもらい、また原文の意味を確認したりもしている。Macを使ったPCオーディオを20年来楽しんできたのも、PCの基礎知識を一応は身に付けているからだ。米国親会社は、携帯電話からスマホ系へつながるモバイル機器のグローバル業務への導入も圧倒的に早かった(もっとも私は、SNSは必要ないのでやらないし、今のスマホは小さすぎて、見にくいし使いにくいので、少ない外出時とオーディオ用リモコン以外はあまり使わないが)。

グローバルな事業展開をしていた米国親会社は、アメリカや日本以外に、ヨーロッパにも研究開発や生産の拠点があったので、ヨーロッパ各国の社員も相当数いたし、アジアの各国にもかなりの数の社員がいた。製造業という米国では古い業態の会社であったにも関わらず、こうして米・欧・アジアという世界中の人たちと共同で、グローバルな視点で、アメリカ流の自由な流儀で仕事をする解放感と面白さは、狭い日本で、日本型組織と人脈のしがらみの中で、あれこれ気を使いながら、ちまちま進める仕事とは雲泥の差があった。’90年代後半の5年間ほどは、アジア各国にいた部下たちと一緒にアジア市場を対象にした仕事をしていたが、個人的にはこの時代が会社員生活でいちばん楽しかった。海外で仕事をした経験のある人なら誰もが感じると思うが、互いに英語さえ使いこなせたら、相手がどの国の誰であろうとコミュニケーションができるという「実感」は、絶大な意識改革を人間にもたらす。非ネイティヴのアジア人同士だと、英語はコミュニケーションのための単なる実用的「変換記号」と同じで、お互い怪しげな発音でも文章でも、下手なりに十分に意思疎通ができるのである。当時のアジアの仲間とは今も交流が続いているし、一言でいうと、英語を通じて文字通り「世界」が広がる。

しかし上司や同僚など、英語ネイティヴの欧米人相手の場では、単純な意思疎通レベルではなく、時には意見(価値観)の異なる相手を説得して、自分の「主張」を通すことができるレベルの英語スキルが必要になる。たとえば、日本市場の実情に合わない米国流事業戦略を、強引に押し進めようとするときなどがそうだが、当然そこには緊張も摩擦も生まれ、互いに納得するのは簡単ではない。普通の日本人からすると、何よりも、複雑で微妙なテーマであるがゆえに、「自分の言語」で自由に相手に考えを伝えられない歯がゆさ、もどかしさ、苦しさをつくづく味わうことになる。私の場合こうした議論では、口頭の日本語を100とすれば、英語だと、せいぜい頑張っても70-80くらいしか、自分が真に言いたいことを伝えられなかった気がする。自分なりの考えや意見を持ち、日本語の弁舌にも優れている人ほど、それを伝える「英語能力」が足らないと、言語表現上のギャップを強く感じ、フラストレーションを感じるだろう。

当たり前だが、「外国語の習得」とは、言語を自分の頭で考えて「創作」できるようになることではない。結局のところ、言語上の約束事(文法)を「学習し」、目(reading)と耳(hearing)を「訓練」しつつ、「意味を理解し」それを「記憶し」、いかにしてネイティヴの正しい書き方 (writing) と話し方 (speaking) の「マネをするか」ということだ。だから「習うより慣れろ」、つまり言語スキルとは頭ではなく体験して身に付けることで、当然ながらそれには時間がかかる。「あっと言う間に聞き取れる、喋れる…」とかいう英会話学校の宣伝などウソもいいところで(もちろん、どんなレベルの会話かによる)、文字通り「語学に王道はない」のである。だから地道な努力が苦手な人は、なかなか外国語を習得できないだろうと思う。「読み書き」は一人でもなんとか学習できるが、物理的な対人接触時間に比例する聞き(hearing)、話す (speaking) 能力は、今ならいくらでも教材があるが、当時は海外駐在でもしない限り本当には身に付かない時代だったので、ずっと東京勤務だった私の場合、会議や出張を通じて「場数」を積み、学習するしかなかった。

しかしコミュニケーション技術という観点からすれば、何と言ってもいちばん重要なのは、「読む」能力と、「聞く」能力だろう。当たり前だが、まず相手が何を言わんとしているのか分からなかったら、どうにもならないからだ(最初の頃の会話では頓珍漢な返事をして、ずいぶんと恥をかいたりしていた)。「相手の話の主旨」さえきちんと把握できれば、非ネイティヴとして「書く、話す」は、仮に表現力が多少拙くても、相手のネイティヴ側はなんとか理解できるものだ。昔から言われているように、「読む」こと、特に「多読」「速読」こそが外国語習得にはもっとも効果的方法だと経験上も思う。それが「聞く」能力も同時に高める、という相乗効果が期待できるからだ(文芸作品などの「精読」は、さらにその先にある)。

英語を「話す」能力も、ただペラペラと英語だけ流暢ならいいわけではなく、ビジネスでも、個人的なことでも、内容の伴った会話(自分の頭で考えたこと)でなければコミュニケーションとしての意味がない(すぐに人格上のメッキがはがれる)。また欧米人は、言語上の有利さだけでなく、会議(conference/meeting;日本流の "儀式" ではなく、文字通りの "議論 discussion" や "討論 debate" )を延々と、何時間でも、さらに泊まり込みで何日間でも続けられる体力(?)と技術を身に付けている。日本人にはそもそもそういう習慣も文化もないし(せいぜい「朝までナマ…」程度だ)、何でも口に出すお喋りは「はしたない」という美意識と思想がある。むしろ互いの腹をさぐりながら着地点を目指す「阿吽の呼吸」的対話を好むので、「多弁」を要する長時間協議は精神的にも肉体的にも苦痛で、苦手なのだ。

おまけに企業でも上層部になればなるほど、当然ながら会議の議題は日本人好みの分かりやすく具体的なテーマよりも、企業理念、ビジネスコンセプト、戦略、リーダーの R&R といった、日本人がもっとも苦手とする(時に中身がない、空論だと軽蔑さえする)「観念的で抽象的な」テーマ中心になる。特に米国のビジネス・リーダー層は、細部のあれこれに詳しい人よりも、まず「大きな絵」 (grand design, big picture) を描ける人、つまり全体を俯瞰し、長期的視点で基本的コンセプトを考え出し、それを人に分かりやすく説明し、説得できる能力を持つ人でなければならないので、大手企業のマネージャークラスなら、誰でも滔々と(内容は別として)自分のアイデアを語れる。またそうしたコンセプトを実際に効果的にプレゼンする技術も、若い時から訓練し、身に付けている。

いかにも役人が書いたような、中身のない気の抜けた原稿を棒読みするだけの日本の首相挨拶や答弁と、アメリカ大統領のスピーチを比較するまでもなく、これは政治の世界でも同じだ。あるいは今回のオリンピック開会式と閉会式の、(物悲しくなるほど)残念な演出に見られるように、全体的コンセプトと伝えるべきキー・メッセージをいかに表現するかということよりも、超ローカル視点の「細部へのこだわり」ばかり優先し、演目相互の関係性がまるで感じられない細切れシーンの寄せ集め、といった表現方法における文化的差異も同じだ。

近所のスーパーのチラシのような、テレビワイドショーのごちゃごちゃとした、あれもこれも詰め込んだ、やたらと細かなボード資料を見るたびにそう思う。「盆栽」や「弁当」に代表されるように、小さなスペースにぎゅっと詰め込んだ小宇宙――これこそが、やはり日本的文化や美意識の根底にあるものなのだろう。だから、唯一言語を超えたユニバーサルな会話が可能な「科学技術」の世界を除くと、他のカルチャーのほとんどが、珍しがられることはあっても、他民族にはほぼ理解不能であり、世界の主流になることは難しい。個々のコンテンツとして見れば、世界に誇れるユニークな文化や、斬新なアイデアを持つ有能なクリエイターが数多く存在するにも関わらず、一つのコンセプトの下でこれらを束ねて、それを効果的にプレゼンするという思想と技量が日本には欠けているのである。

日本人は、「知識」(分かっていることをまとめる力)はあっても、「観念的、抽象的議論」(よく分かっていない、目には見えないものを想像する力が必要)に慣れていないし訓練もされていない。要はプラグマティック(実用本位)で、「哲学や思想を語る」ことに価値を置かない(たいてい「時間の無駄」「変人」だとして一蹴される)。学校や会社でも、ほとんどそうした議論をする機会がないし、日本語そのもの、その日本語に適応した我々の「脳」も、どうもそういう構造になっていないような気がする。きちんと論理で組み立てて行く手間をすっ飛ばし、刹那的「単語」を記号のように並べて交信する現代の短文SNS文化がその傾向をさらに助長している。日本人が国際的な場でほとんどリーダーになれない最大の要因は、言語能力だけではなく、こうした思考と表現方法にあるように思う(本ブログ2017年4月「英語を読む」ご参照)。(続く)

2021/07/28

英語とアメリカ(3)イノベーション

あくまで化学メーカーでの経験に基づく視点だが、日米の「ビジネス開発」の一般的手法を比較すると、限られた数の「重要顧客」に焦点を絞って、そこへピンポイントで集中的にリソース(営業、研究開発)を投入することで「新技術・新製品・新用途」等を開発し、次にそれを横に展開してゆくのが伝統的な日本の「戦術的営業」手法だ。そこでは昔から、目に見えている顧客と直接接触して具体的ニーズを掴み、それを掘り下げてゆく前線(ライン)こそビジネス開発の要であり、後方支援(スタッフ)はあくまで前線を支える縁の下の力持ち的役割だ、という思想が根強い。

一方アメリカは、需要の有無はまだ定かではないが、共通のニーズを持つ可能性がある「不特定の潜在顧客群」を新たな「市場 (Market)」と定義し、常にその市場に対して仕掛けることで需要を喚起しビジネスを開発する「マーケティング (Marketing) 」と、それに加えて、新たな発想で、これまでなかったまったく新しいビジネスを創出する 「イノベーション (Innovation) 」という、「戦略的ビジネス開発」の手法を両輪とする国だ。つまり人間の持つ「潜在的欲望」がどこにあるのかを探り、そこを常に刺激し続けることによって、新たな需要(市場)を生み出し経済を発展させるという、現代資本主義の典型モデルである。電話、自動車、テレビ、冷蔵庫……と20世紀にアメリカが開発し、世界に提供してきたモノは、最初「あればいいのに…」という素朴な願望に応えて作られ、次に「使ってみたら便利だった」という満足感を生み出し、さらに「これがないと困る」という欲望へと変化し、その後もコンピュータやスマホを始め、もう「これがないと、どうにもならない」という世界へ徐々に人間を導いてきたのである(このことの本質的問題はここでは問わない)。

したがってアメリカでは、まずマクロ市場分析を行ない、どこにビジネスの可能性がありそうか、そこをどう攻めて行くのか、という中長期的視点に基づく「基本戦略立案」こそが最重要で、そこから先の短期局地戦とその実行計画はラインの仕事だ、という思想が根本にある。だから米国企業では、日本とは反対に、普通は「市場戦略立案」を担当するマーケティング部門等のスタッフがもっとも重要で力を持っていて、「顧客」を担当する営業ライン職の地位が相対的に低い構造になっていることが多い。日本の営業手法は、いわば「頭脳と手足」が常に一体化していて、無駄がないので効率が良いが、どうしても短期的な目標中心になりやすい。一方アメリカでは、常に全体を見渡し、先を見通す「頭脳」と、既に見えているものに対して行動する「手足」の機能を分業で行なっている、という言い方もできる。あるいはまた、どちらかと言えば、限られた数の主要顧客層から成る川上市場(生産材)に重点を置く日本型と、不特定マス顧客から成る川下市場(消費材)に重点を置くアメリカ型のビジネス開発の特徴を表しているとも言える。こうした両国の思想、伝統の違いが、長期的なビジネス開発(技術だけではない)の成果に影響を及ぼすように思える。

日本の「短期戦術型」とアメリカの「長期戦略型」思考は、一般的な見方をすれば、国の成り立ち、地理的条件の違い、文化、国家観、価値観、国民性の違い等々、両国間に本質的に存在する相違点に由来するものだと言えるのだろう。とはいえ歴史的に見れば、日本にも戦国末期や幕末・明治初期には、全体的、長期的視野で状況を俯瞰できる優れた戦略的思想を持ったリーダーたちが実際にいたことを考えると、かならずしもそうとばかりとは言えない気もする。むしろ太平洋戦争を敗戦に導いた「大本営」の参謀たち――後方で机上の空論ばかり書いて前線部隊に指示するエリート集団――に対する、ある種のアレルギー反応というべきものが戦後の日本人に植え付けられたのかもしれない。あるいは戦後、「戦略的頭脳」を日本では育成しないという、進駐軍の深謀遠慮による国民洗脳策があったのか、それとも明治以来の、西洋に追いつけ、追い越せという性急な近代化思想が遠因となって、先のことよりまずは見えていること、目の前の問題解決を優先して、そこに集中するという思想と姿勢を日本人に定着させたのか――とか、様々な分析が可能な、興味深い比較文化論的テーマのように思える(誰か、もうこうした分析を行なった人はいるのだろうか?)。

アメリカ生まれの "リストラ" (restructuring=事業再構築、再編成) という言葉が、今や日本では「人員整理=クビ切り」と解釈されているように、 ”イノベーション"(innovation)という言葉も、日本では、(誰が使い出したかは知らないが)いまだに判で押したように「技術革新」という「訳語」で解説している大手新聞の記事や雑誌等を時々見かける。これは誤訳とは言えなくとも、一部の意味しか伝えていない、読者をミスリードする危険がある訳語だ。きちんと辞書で調べれば「新機軸、刷新」という訳語表現が多いように、「新たな発想で、制度や仕組みを変えること」が本来の意味であり、たとえ既存の技術やアイデアであっても、それらの「組み合わせ方」次第で新たな市場や価値が生み出せる、という発想がその本質だ。日本のモノ作りの伝統に見られる、特定の技術をより深く追求すべく、手の内にあるアイデアを活用しながら川上→川下へと垂直統合的に製品開発を進める(閉じられた)思想に対し、横に幅広く展開する市場を視野に入れながら、水平分業的にアイデアを柔軟に取り入れて仕事を進める(開かれた)アメリカ型思想、という両者の特徴を反映しているとも言えるだろう。

21世紀に入ったわずか20年で急成長し、今や独占による弊害が指摘されているアメリカの「GAFA」はどれも、Intel や Microsoft が先鞭をつけたデジタル技術(ハード&ソフト)の持つ潜在能力を長期的視点で掘り下げ、「インターネット空間におけるサービス」という新しい概念を、デジタル技術の外縁に位置付けるという発想で、新たな市場を生みだしたビジネス・イノベーションと言えるだろう(Googleはグローバル情報検索と広告、Appleはモバイル機器と音楽情報の組み合わせ、Facebookは個人の情報発信とコミュニケーション、Amazonはネット空間スーパーマーケットと宅配サービス、というように)。20世紀の「テクノロジー(モノ)」が、世界共通の普遍的需要(欲望)に応えたものだったように、21世紀には、ネット空間におけるデジタル技術をベースにした「サービス」にも同じ機能と価値、すなわちビジネスチャンスがあるという、1990年代の米国による「先駆的市場概念」が、21世紀のイノベーションを先取りしていたと言える。このビジネスモデルのコンセプトを、最初から「グローバル市場(世界)」を射程に入れてデファクト・スタンダード化すべく、技術だけではなく「政治力」と (英語という)「言語支配力」を利用しながら、他国に先駆けて戦略的に推進したアメリカが主導権を握ったのは当然だ(いずれも日本が、グローバル的に見てもっとも相対的に弱い能力である)。

最近NHKが『プロジェクトX』を再放送している。主に、20世紀に日本がどれだけ優れた技術や製品を世界に先駆けて生み出したかを見直すことで、バブル以降低迷していた20年ほど前の日本を、中島みゆきの応援歌「地上の星」と共に元気づけようと企画された番組だ(当時のカラオケバーを思い出す…)。その後も一向に浮上する気配が見えないどころか、さらに沈み続け、すっかり自信をなくした今の日本を再び元気づけようとするのが番組の意図なのかもしれないが、今見ても確かに感動的なエピソードが多く、昔の日本人の「生真面目さ」を懐かしく思い出す(バブル時代を経た価値観の転換で、日本人が失った最大の財産がこの属性だ。その後の「志」なき日本人リーダー層の人材劣化はここから始まった)。しかし上記の「イノベーション=技術革新」という図式と同じく、こうしたメディアの感覚も、デジタル革命に乗り遅れただけでなく、その後も過去の成功体験に縛られたまま、無意識のうちに「技術(=モノ)の革新」にばかりこだわり、デジタル技術を利用した情報(ソフト)やサービス、制度の改革に目を向けてこなかった日本人の発想をさらに狭めて「技術のガラパゴス化」へと向かわせ、本来の「イノベーション」を生まれにくくしてきた遠因とも言えるだろう。

コロナ禍で街中を走りまわる宅配員の背中の "Uber" のロゴを見るにつけ、「これって日本の蕎麦屋が昔からやってきたことだよな…アート・ブレイキーの 〈Moanin'〉 を口ずさみながら…(古いが)」と思う。調べてみると、アメリカでもっとも一般的な出前である「宅配ピザ」は1960年(昭和35年)創業のドミノ・ピザらしいし(〈Moanin'〉の頃だ)、海外で一般的な「ケータリング・サービス」も明治時代のイギリス発生らしいので、いずれも江戸時代からあったという日本の「蕎麦屋の出前」や「京都の仕出し」の歴史とは比較にならない。その「出前サービス業務」の対象食品の種類を拡大し、ネットでの受注を前提に "Food Delivery Service" という一括外注ビジネスにしたのが Uber Eats (2014年創業)なわけで、発想の転換でビジネスを創出すること(=innovation) が、アメリカ人は本当に上手だとつくづく思う。新しいビジネスのネタは日本にだっていくらでも転がっているはずだが、それを見つける視点、視角がどこか違うのだ。(続く)

2021/07/15

英語とアメリカ(2)米企業

私が勤務した合弁会社の仕組みと運営は、当初の20年間はほとんど普通の日本企業のものだったが、折半だった出資比率が米国側の株主主体に変更された1980年代後半からは、ほとんど別の会社に変貌していった。前述した米国の産業政策全体の転換もあって、「グローバル化」を志向した米国親会社の主導で、組織、事業運営、人事などすべてが、それまでの伝統的な日本企業から「米国型」へと徐々に移行していったからだ。日本側親会社は事業運営、人事には一切口をはさまなくなり、'90年代になってSAPを導入した米国親会社は、事業運営をグローバルに一括管理するようになった。従来からの日本型組織も解体され、米国親会社の組織の一部に編入され、人事権も米国側へと移行し、ほとんどの管理職の直属上司も、日本人から海外にいる外国人ボスへと変更になった。その後20年間に交代した10人近い私の直属上司も、当然ながら全員が外国人で(アメリカ、イギリス、カナダ、ベルギー人)、そのうち約半数が東京駐在の上司で、それ以外はアメリカやイギリスにいたリモート上司である。

私は80年代から、いくつかのグローバル・プロジェクトの日本代表として、特にアジア市場向けビジネスに関わっていたが、当時はあくまで日本の合弁会社からの特別参加的な扱いだった。しかし90年代になって、会社全体が米国親会社の傘下に編入されて行くと、上司も、仕事も、仕事上の人間関係も、完全に米国に重心を置いたものにならざるを得なかった。'90年代半ばからしばらくは、私の担当分野の部下も全員がアジア各国(台湾、香港、中国、韓国、他)にいたので、上司、部下ともに業務上のコミュニケーション(読み、書き、聞く、話す)は基本的にすべて英語になった。何ごともアメリカ中心、ビジネス中心なので、正確さよりもスピード第一であり、メールも電話も文書も会話も会議も、通訳や翻訳などといった、まどろっこしいことをやっているヒマはなく、仕事上はすべて否も応もなく英語だった(いかに下手くそでも)。

海の向こうにいるリモート上司とは年に何回か顔を合わせるだけで、あとはメールと電話会議だけの関係になった。こうして会社全体が徐々に米国型に再編されてゆくと、仕事の延長のように、毎晩居酒屋で(日本語で)議論したり、愚痴るという、懐かしの昭和のサラリーマン上司/部下の関係も当然ながら薄れていった。それまで普通の日本企業の感覚でいた社員全員が、この大変化に戸惑い悪戦苦闘したことは言うまでもない。社員の大部分は、英語や米国流のやり方を学習して適応しようと努力したと思うが、中にはこうした変化に馴染めず、会社を去る人たちもいた。こうして徐々に会社がアメリカ化されてゆく過程で、英語の問題をはじめ、日本とアメリカの文化の違い、考え方の違い、企業活動や仕事のやり方の違い等、普通の日本企業の内部で働くだけでは知りえない様々なことを経験し、観察し、また学習した。

アメリカの企業はたぶんどこもそうだろうと思うが、この親会社の社風も上下感が稀薄で風通しが良く、常に「自由にものを言える」雰囲気があった。だから、そこでは「ものを言わない」人間は評価されない。自己主張しない、控えめで大人しい人は、競争社会アメリカでは評価されないのだ(外国人社員が、たとえ英語のハンディゆえに「黙っている」ことが多くても、理不尽と思うがそこは同じだ。かならず "speak up!" と促される)。しかし、課長や部長といった「ポジション(地位)」ではなく、どういう仕事をするか、どれだけ目標を達成したか、という業務内容と成果で「個人」としての評価(給料)が決まる米国流人事制度は、日本式に比べて基本的にオープンで、密室的要素が少ない、分かりやすいシステムだと思う。転職も容易で、人事の流動性も確保しやすい。ただし昔ながらの、地位を目指して生きてゆくような日本人には、目標とやりがいが感じられない制度に思えることだろう。

米国親会社は(日本側親会社と同じく)有力な化学メーカーだったので、いわゆる今のハゲタカ外資と呼ばれるようなアメリカ金融業界の企業イメージとはまったく違う、歴史あるきちんとした制度と組織を持つ製造業だった。事業運営という点では、日本と米国の企業文化や企業戦略はどちらがより優れているとは言えないし、いずれも一長一短があるように思う。米国流が優れているのは、合理的かつ論理的な考え方と行動基準に貫かれているところで、それが「経営システム」として世界に通じる普遍性を持っていることだろう。だが、それを根本で支えているのは、あくまで「アメリカ的価値観」だ。アメリカ人が好むのは、何よりも「速さ(speed)」、「変化(change)」、そして「挑戦(challenge)」であり、決断せずに、うろうろ、まごまごして、前進しないこと(つまりは、よくある日本的行動パターン)を一番嫌う。だから事業戦略も当然そうした志向を反映したものになる。

特にこの親会社は先進的なことが好みで、まるでビジネス・スクールのように、常に新しいビジネス・モデル、マーケティング戦略を導入し、研修を通じて幹部社員に徹底して教育していた(またかよ…と言うほどに)。むろんこれらの研修は英語だったが、しばらく経ってから日本の書店へ行くと、同じ内容を日本語に翻訳・解説した最新ビジネス書が棚によく並んでいたりした(この種のビジネス本のオリジナル出典は、ほとんどがアメリカ発だ)。好業績だった親会社は、ビジネス・コンサルティング会社が新しい企画、コンセプトをまず最初に売り込む、良いお得意様だったようだ。こうした、いわばまだ「ナマ煮え」の既成コンセプトを積極的に導入(購入)し、それを「カスタマイズ」しながら実際の経営に応用しようとするアメリカ的実験精神には本当に驚く。

この親会社では、テーマに関わらず新しいプロジェクトを始めるときの協議手順はほぼ決まっていて、まず何を目指すのか、やるべきことは何か(Vision & Mission) という高次目標を参加者全員で議論して意思統一することから始め、徐々にそれを具体的アクションにブレイクダウンしてゆく。今はこうしたプロセスに関しては、様々なコンセプトをネット上でも見かけるが、左図ピラミッドはそこで見つけた一例で、20年くらい前に我々が教育を受けた当時のものとほぼ同じシンプルなチャートだ(今はさらに工夫され、洗練されたコンセプトになっているだろうが、基本的思想は一緒だろうと思う)。この図はアメリカ流の「トップダウン」、すなわち頂点から下方へ向かって読む。ピラミッド頂上にある "Vision"(理念、理想) という「抽象概念」からスタートして、下方へ行くにつれて、徐々にそれを現実の行動に具体化してゆくのが、一般的なビジネス計画立案プロセスだ。日本では、経営思想や事業運営手法は各企業が歴史的に独自のものを作り上げているのが普通だが、コンサルティング会社から提案されるこの種の既成コンセプトを導入し、実際の経営手法として内部システム化するのが米国親会社のやり方だった(米国の他の会社が、どうやっていたかは知らないが)。

しかし、どんなテーマでも、どんなプロセスを採用しようと、いちばん重要なのは常に頂上にある ”Vision” である。「Vision=どうあるべきか、どうありたいか」は、どの国でも集団でも重要だろうが、様々な出自と背景を持った人間の集まりである移民国家アメリカを「束ねる」ためには、もっとも重要な「共有すべきイメージ」であり、すべての議論の原点なのだろう。何千年も同じ場所で、同じ言語を使って自然に暮らしてきたような国々、たとえば日本人には自明のことすぎて、そもそも基本的にこうしたことを考える必要性も、問題意識もないので、(頭では理解しても)この議論には常にどこか違和感があった。この微妙な違和感は、国家として長い歴史を有するヨーロッパ諸国出身の社員もたぶん同じだっただろうし(これは想像だ。だが「米国企業」で働く「ヨーロッパ人」というのも結構微妙な立ち位置だろう)、やはりアメリカ固有の文化ではないかと思う。しかし様々な背景を持った国々が、同じ土俵で活動するグローバル化した現代世界(これも推進したのはアメリカなので=アメリカ化した世界)を今後「束ねてゆく」ためには、このアメリカ的なアプローチがやはり必要なのかもしれない。

社内プロジェクトの協議では、次に徐々にピラミッドの下部構造へと向かい、まず理念実現のための「具体的目標」を設定し (Goal Setting) 、その目標達成のための「基本戦略」を策定し (Strategy Development) 、次にその戦略の「実行計画」を立て (Operation Planning)、さらに各実行レベルでの「段階的目標」(Key Milestones) 設定と具体行動計画(Action Plan) を策定する(下部へ行けば行くほど、日本人にも分かりやすい領域へ入ってゆく)。そのための各部門・部署の「役割と責任」(Roles&Responsibilities)を明確にして各リーダーの裁量の範囲も決め、実行時の「意思決定プロセス」(Decision Making) は、明快かつ迅速であることを優先して設計する。社員の「人事評価制度」も民主的かつオープンにして、上司との「合意に基づく目標設定」とその「達成度の相互確認」というプロセスを経て、業務の最終成果が自身の評価(収入)に直結する――それらすべてをSAPによる全社業務運営システムが合理的に支える――とまあ、もちろんすべてがこうした理念やコンセプト通りに進んだわけではないが、このピラミッド構造と思考プロセスは、感覚的に言うと、当時の伝統的な日本企業の「実態」とはいわば真逆の世界だった。

それから20年経った現在ではこうした手法は既に一般化し、実際に導入している日本企業もあるだろうし、一方で、こんな七面倒くさい定型プロセスはやはり日本人には合わないと考えている人も多いかもしれない。しかし過去や伝統にこだわらず、周囲(上司とか既存組織)への余計な忖度抜きで、「プロジェクト参加者」が一つ一つステップを踏んで合意しながら、目標と行動計画を決定してゆく「理詰めの世界」で仕事をすることに慣れると、頭の中が常にすっきりと整理され、仕事上の優先順位も自然にはっきりしてくる。そして、意味不明の慣習や規則だらけでもやもやとした、伝統的日本企業の年功序列ヒエラルキーに基づく仕組みや業務プロセスが、いかに古臭く、無駄が多く、効率が悪いかあらためて身に沁みて分かる。

ところが逆に、年齢(seniority) という人間誰しもが平等に持っている自然な指標を尊重し、ガチガチの決め事は避けて、柔軟で、適度に曖昧さを残した玉虫色の制度と手法が、(必ずしも「優れている」とは言えないだろうが)実は伝統的な日本社会の在り方と、日本人の心性、行動様式には、やはり適しているのだ――と再認識させられることもたびたびあった。合弁企業の理想とは、両親会社の「良いとこ取り」であるべきだとずっと信じていたのだが、こうした経験から、やはり鍵となるのはパワーバランスであり(当然だが)、異種文化や思想の融合は不可能ではないだろうが、そう簡単には行かないものだという現実も思い知った。(続く)

2021/06/27

英語とアメリカ(1)G7にて

G7   sankei.com
今月イギリスで開催されたG7における菅総理の影の薄い、浮いた立ち位置(蚊帳の外)が、ネット上で取り沙汰されていた。4月訪米時の米国側の態度といい、一国の首相たるもの、英語ができないと国際舞台ではロクに相手にもされず、こうなるのだ、みっともない、ああ恥ずかしい……的な批判(嘆き?)が多く見られた。まあ、コロナ禍のオリンピックでは、うわ言のように「安全安心」を繰り返すだけで、理由の説明もエヴィデンスも何も示さず、結局のところ、強引に開催ありきで進めていることへの不満がくすぶっているので、なおさらの反応なのだろう。「言語より人間性だ」とかいう擁護意見もあるが、わずか数日の会議の場で人間性も何もないだろう。一生、日本から外へ出る気はない、出たくないという人を除けば、やはり今の時代、国際的標準語である英語ができた方が何かといいに決まっている。特に国を代表するような立場の人たちには、mustとされるスキルだと思う。

とはいえ、歴代総理では宮澤喜一氏以外、通訳なしでOKなほど英語が堪能だった人はいないようだ。日本人政治家は、海外の要人との会議や交流の場では昔から大体似たようなものだし、こちらも期待してこなかったので、菅総理も今更…の話だろうと思う。カメラの前では、そう見えないように振舞っていた演技(ハッタリ)上手な首相も中にはいたが、今回は確かに映像で見ても、見事に(?)ひとりだけ浮いているように見える。人付き合いが苦手だと公言し、実際に口べたで、日本語でさえあまり「自分の言葉」で喋らないので(身内は別なのだろうが)、こうした会議の場でも、通訳付きとはいえ、おそらくまともな議論はできなかっただろう――と「推測」されても仕方がない気もする。

ただ初の国際舞台でもあるし、G7の写真や映像だけで見るなら、菅総理の場合は英語の能力云々よりも、むしろ社交性を含めた本人のキャラ(パフォーマンスが苦手)と、「場慣れ」しているかどうかの問題だろう。同じ日本人でも、グローバル化した現代の実業界とかスポーツ界には、言葉も含めて国際的な場で堂々と振舞える民間人はいくらでもいるが、国内の有権者しか見ていない昔ながらの日本の政治家の多くは、そうした訓練もされていないので当分無理だろう。若くて、優秀で、広い視野と国際感覚を持った次世代政治家が育つのを待つしかないが、まるで江戸時代かと思えるような、時代錯誤も甚だしい金まみれの最近の若手(?)議員や、税金を掠め取るキャリア官僚のお粗末さで分かるように、政治家と役人はセットで人材劣化が激しい分野なので、それも期待できないかもしれない。

しかしこの件(海外における日本人の立ち位置)では、英語と、特にアメリカにまつわる会社員時代の(結構厳しい)個人的体験を、久々にあれこれ思い出した。私は日本とアメリカの「合弁企業」(化学メーカー)に約40年間勤務した。おかげで普通の日本企業で働いただけでは経験できないような、様々な体験(良いことも、そうではないことも)をしてきた。その会社を定年退職後、「ジャズ本の翻訳」という仕事を半分趣味で始めたのも、業務を通じて身に付けた英語やパソコンといった実務的スキルに加え、アメリカという国、企業、アメリカ人等を長年にわたって観察してきた経験が、単に音楽としてのジャズを楽しむだけでなく、「アメリカ固有の文化としてのジャズ」を多面的に考え、理解するための現実的背景やヒントを提供してくれると考えたからだ。

といっても、日米折半出資のこの会社は、技術は米国から、人材は日本から、という当時の典型的な合弁企業だったので、前半の20年間ほどは、いわゆる外資という雰囲気はまったくなく、確か外人役員が一人いただけで、あとは社員全員が日本側親会社からの出向でスタートしたごく普通の日本企業だった。英語がうまい人も結構いたが、入社後しばらくは、とにかく酒とゴルフの接待でお客と仲良くなれと言われるような、典型的な日本流の営業の仕事だった。おそらくまだ日本の企業内では、米国流マーケティングの「マ」の字もなかったような時代で、一般に「営業とはそういうものだ」と思われていた。もちろん日本の顧客相手なので英語も英会話の必要もなく、英会話といっても "How do you do?" くらいしか言えなかった。

ところが、米国側の親会社が提唱した、ある市場に関する初めての ”グローバル会議” へ日本代表として出席しろと、いきなり初出張を命ぜられた1981年を境に人生が変わった。米国親会社の本社と工場は、当時シカゴから1時間ほどローカル便でミシガン湖を横切って飛んだミシガン州の町にあり、今で言う中西部ラストベルト(Rust Belt) の一部だ。米国有数の化学企業の本拠地だったので、町の住人のほとんどがその関連企業に勤めていて、'80年代初め頃は、雰囲気もまだゆったりのんびりしていて、出張で訪問した英語の下手くそな日本人も、遠路はるばるやって来た客人扱いだった。まだ成田へは箱崎からリムジンバスで行き、成田からシカゴやデトロイト直行便など飛んでいなかった時代で、アメリカ東部へは時差調整も兼ねて、西海岸で一度乗り継いで行くのが普通だった。

その初出張では、一応OHPスライドを使って日本市場を紹介する英語の ”プレゼンまがい” のことをやったように思うが、何十人もの大会議ということもあって、相手が何を言っているのかもよく聞き取れず、英語の喋りは下手ときているので、ロクな質疑応答も議論もできなかった記憶がある。ただしまだ若く元気だったので、1週間ほどの滞在中に知り合った人たち(米、欧、アジア)とは、その後もずっと仕事を通じて付き合ってきたし、親会社内の人間関係という面では在職中の大きな財産となった。この出張がきっかけで、その後の30年間、主として親会社のマーケティングを中心とした部門の窓口的業務を日本で担当するようになり、会議や研修等のためにアメリカやアジア、ヨーロッパに出張する機会が徐々に増えた。1回きりの懇親の場とかなら適当にやり過ごせるが、最低でも1週間近く朝から晩まで続く、そうした会議や研修の場では、相手の言うことを聞き取り、喋れない限りコミュニケーションができないので、英語力を向上させる必要性を痛感した。そこで30歳代半ば近くになってから、やっと英会話の勉強を本気で始めたのだ。しかし、慣れがすべての英会話(特にhearing) は、やはりもっと若く、耳が鋭敏なときからやっておくべきだったと後悔した。

荒廃するデトロイト
その頃の米国親会社は、運営も、組織も、雰囲気も、日本の会社と大差なかったように思う。国土が広いアメリカでは、たいていの大企業がそうだが、とにかく片田舎にあって、人口がせいぜい数万人の町も、会社も、人も、のんびりした実にアメリカンな良い雰囲気だったのをよく覚えている。だが1980年代は米国全体としては景気が低迷し、一方、オイルショックを乗り越え、経済が絶好調だった日本が半導体や自動車で米国を追い上げ、不動産会社がニューヨークのロックフェラーセンターを買収するなど、米国における日本の存在感が急速に増してきたために、日本に対する反感(ジャパン・バッシング)も全米で徐々に強まっていた時代でもあった。その日本がバブル景気の頂点で沸き立っていた1990年頃の出張時に目撃したのは、治安の悪化で白人層が逃げ出し、黒人しか見かけなくなった州都デトロイト中心部や郊外の、ビルや住宅の廃墟が立ち並ぶ荒廃ぶりで、あの衝撃的光景は今でも忘れられない。アメリカの誇りであり、製造業の象徴でもあったデトロイトの自動車産業が壊滅的な打撃を受けていたからだ。ドライブに誘ってくれたオーストラリア人と、街の中心部から逃げ出すように離れたことを憶えている。繁栄していた都市が信じられないほどの速さで廃墟化する様は、アメリカという資本主義国家の本当の厳しさをまざまざと思い起こさせる。デトロイトの衰退と人口減はその後も続き、州や市が様々な対策を講じてきたが、今なお歯止めがかからないという

だが日本が平成に入った1989年から、ベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊、天安門、湾岸戦争…など一連の世界的大変動を経た'90年代に入ると、東西冷戦に勝利し景気回復の軌道に乗ったアメリカは、”モノ→ 情報” へと国家戦略を転換し、インターネットと情報通信技術(IT)を基盤にした「デジタル革命」を強力に推進し始めた。企業レベルでも、リストラ(事業再構築)とIT、世界市場を対象にした ”globalization" を合言葉に、コンピュータを使った事業戦略やオペレーションを強化し、第二次大戦後から半世紀にわたって続いていた「モノ」中心の戦略、組織、活動から脱却しようとしていた。後になって振り返ると、化学会社ではあったが、当時の米国親会社が様々な事業変革に取り組んでいた背景にはこうしたアメリカ全体の流れがあったということがよく分かる。単体でも十分な規模を持つアメリカ国内市場を主対象にした、高い技術力を基盤とする化学メーカー、というそれまでの企業イメージを転換し、いかにして世界市場に向けて製品を開発、販売し、そこから安定した収益を生み出すグローバル企業に変身させるか――という典型的な米国型ビジネスモデルを目指し、そのために日本を含め世界各地に散在していた自社リソース(施設、人材、技術)を、最大限活用する戦略に舵を切ったのである。

アメリカがそうしてゲーム・チェンジしていたにもかかわらず、'90年代初めにバブルがはじけた後も、相変わらず高コストの「モノ作り優先」思想と産業構造から抜け出せなかった日本は、完全に世界のデジタル革命に乗り遅れた。そればかりか'90年代半ばからの不況で、主に年齢を理由にリストラされた電子材料・機器分野等の人材の多くが基幹技術情報と共に韓国や中国へ流出し、その結果それらの分野ではやがて両国に追いつかれ、追い越されたまま現在に至っている。一方のアメリカはその後、常に日本より10年先を進み続け、9.11やリーマンショックも乗り越えて、現在のGAFAに象徴されるように、デジタル・イノベーションによって新市場を開発するビジネス戦略を柱に、30年かけて世界経済の覇権を再び取り戻し、今は中国を念頭に、さらにそれを強固なものにしようとしている。現代の超格差社会を招いた遠因など、資本主義国家として批判すべき点も多々あるだろうが、トップが基本戦略を立案、提示し、それを下部構造を貫いて国をあげて徹底的に遂行するという、トップダウン型の米国の政治・産業システムが持つ強靭さと底力は、日本にはとても真似できないだろう。(続く)

2021/02/26

モンクの『パロ・アルト (Palo Alto) 』(1968) を巡る話

2月17日はセロニアス・モンクの命日なので、毎年この時期はモンクがらみの話を書いている。今年は、昨年秋に初めてリリースされたモンクの未発表音源『パロ・アルト(Palo Alto)』に関する話を書いてみたい。ジャズという音楽の面白いところは、巨人と言われるような大物ミュージシャンの昔の録音がレコード化されずに眠ったまま、ある日突然発掘されて陽の目を見るところだ。しかもそれが、今聴いてもやはり「これぞ本物だ」としか言えないような、なぜ発表されなかったのか不思議なくらいすごい演奏の場合が結構あるのだ。

モンクの未発表音源でいちばん有名なのは、2005年に米国議会図書館で半世紀ぶりに偶然発見された、ジョン・コルトレーンが参加したモンク・カルテットの「カーネギーホール」でのコンサート・ライブ録音だろう(1957年11月30日録音『Thelonious Monk Quartet with John Coltrane Live at Carnegie Hall』)。そしてもう一つは、4年前の2017年にフランスで発見された音源で、音楽プロデューサーだったマルセル・ロマーノが保管していた、1959年の仏映画『危険な関係』のサウンドトラックとして使ったスタジオ録音だ。映画の中でしか聴けなかったモンク・カルテットと、そこにバルネ・ウィランが加わったクインテットによる演奏を収めた『Les Liaisons Dangereuses 1960』は、スタジオ内でのやりとりを含めて、こちらも奇跡的に生々しいステレオ録音が聴ける(2作とも本ブログ2017年10月「モンクを聴く」ご参照)。しかし、実はモンクを中心にしたジャズ未発表音源の文字通りの宝庫は、ニカ夫人が私家録音した膨大な量のテープだろうが、それらは門外不出としてロスチャイルド家管理の下、今も封印されたままのようだ。

昨年秋に初めてリリースされたモンクの未発表音源『パロ・アルト (Palo Alto)』(Impulse!) は、上記のモンク全盛期の録音2作とは異なり、モンクが50歳を過ぎた1968年10月に録音されたモンク晩年のライヴ演奏だ。そして、クラブギグ、コンサートホール、スタジオといった普通のジャズ演奏の場ではなく、サンフランシスコから40kmほど南へ下ったパロ・アルトにある地方高校の講堂で、若者を中心にした地元の聴衆を前にした昼間のライヴ演奏であるところも珍しい。モンクはサンフランシスコでは、ソロ名盤『Alone in San Francisco』(1959)、ビリー・ヒギンズや西海岸プレイヤーと共演した『At the Blackhawk』(1960)、本盤と同メンバーで、モンクの没後1982年にリリースされた2枚組『At the Jazz Workshop』(1964) など3作品を残している。『Palo Alto』の録音は『Underground』(1968年2月 NYC) の後、コロムビア最後の録音となったオリヴァー・ネルソンとのビッグバンド『Monk's Blues』(1968年11月 LA) の直前に位置する。ちなみに、モンクの人生最後の単独ライヴ録音は、ほぼ1年後の1969年12月にパリの「サル・プレイエル」で行われた、ヨーロッパでも最後となったコンサートである。

ロビン・ケリー著『Thelonious Monk』によれば、60年代後半のモンクは、経済的、精神的、肉体的に様々な問題を抱えていて、決して万全な状態とは言えず、自宅で倒れて意識不明のまま入院したり、特に精神的に好不調の波が非常に激しかった。とりわけ66-67年にバド・パウエル、エルモ・ホープ、ジョン・コルトレーンという盟友3人を相次いで失ったことで、モンクの音楽家精神と創造意欲をはさらに衰えていた。したがって60年代前半までのモンクにあった創造性や活力はあまり感じられないものの、相棒のチャーリー・ラウズ(ts) に加え、ラリー・ゲイルズ(b)、ベン・ライリー(ds)という非常にシュアな2代目リズムセクションを得て、長い時間をかけてバンドをまとめたおかげで、最もバランスの取れた安定した演奏をしていた時期でもあり、このレコードでの演奏もそれを反映している。プログラムも、夜のジャズクラブに聴きに来るような客層ではなく、若者を中心にした地元聴衆を意識して有名曲(Ruby, My Dear/ Well, You Needn't/ Don't Blame Me/ Blue Monk/ Epistrophyを集めた分かりやすいもので、音源となった素直なアナログ・ステレオ録音もライヴ感があって上々だ。

このレコードのもう一つの価値は1968年という時代背景にある。公民権運動、ベトナム反戦と続く既存体制や価値観の変革を求める運動は60年代後半にはさらに強まり、米国社会が騒然としていた中、パロ・アルトでのコンサートの半年前の1968年4月にキング牧師が、6月にはロバート・ケネディ上院議員がロサンゼルスで暗殺された。現在も続く人種問題の根は深く、融和に向かおうとしていた白人街パロ・アルトと、黒人街イースト・パロ・アルトの分裂も深まった。マイルス・デイヴィスと同じくモンクも、表立った政治的発言は決してしないジャズ・ミュージシャンだった。しかしこのパロ・アルトにおけるコンサートは、人種問題に揺れる1960年代末の米国西海岸の小さな町で、ジャズを愛する一人の白人高校生の熱意で実現したギグを通じて、期せずして人種を超えた地元の人々の融和にモンクが一役買った貴重な実例であり、このレコードはその背景を知って聴くと、より大きな意味を持つというのがロビン・ケリー氏の見方だ。確かに演奏会場全体に流れている、どことなく温かな雰囲気からも、そうした背景が伝わってくるようだ。

ロビン・ケリー氏と著書
モンク生誕100年にあたる2017年に出版した私の訳書『セロニアス・モンク 独創のジャズ物語』は、日本語で上下2段組700ページもある大著だ。しかし、実はこれでも訳文全体の約15%をカットしている。ロビン・ケリー氏の原書『Thelonious Monk』(2009) は600ページもあり、本文の全訳文だけでWord原稿で約80万文字だった(原稿用紙2,000枚分)。UCLA教授のケリー氏は歴史学者であり、本文の他にモンク家の全面協力の下、14年もの歳月をかけて収集した史料の出典や、背景を記した膨大な巻末脚注も加わっていて、仮に完訳本を出すとなると、最低でも800-900ページを優に超える長さになる(正直言って、翻訳中も何度か途中で投げ出したくなるほどの長さだった)。だから上下2巻にする以外に、日本語による完訳版の出版は難しい。しかし当然ながら、出版不況下の今どき、ジャズ・ミュージシャンを主人公にした、そんな長尺な翻訳書を出版してくれる出版社などない。『リー・コニッツ』も『パノニカ』もそうだが、『セロニアス・モンク』も私が自分で企画した翻訳書であり、版権確認と日本語翻訳の可否を著者のケリー教授に直接打診して、なぜ翻訳したいのかという理由も説明した上で、ご本人から許可をいただいて翻訳したものだ。私は、ジャズ本流の外側にいる特異な音楽家、あるいは単なる変人(時に狂人)といった表現で常に語られ、長い間誰も核心に触れられずにきたモンクという人物、その実人生、その音楽の素晴らしさを初めて真摯に伝えるこの本を、何としても日本語で紹介したいと思っていた。しかし、本来なら最初に決めるべき出版社も、当然自分の責任として翻訳後に探すという約束である(このやり取りを通じて、ケリー氏が本当に良い人物だと知った)。

しかし1年以上かけて翻訳した『セロニアス・モンク』出版を10社近くの出版社に打診しても、どこも「やろう」とは言ってくれなかった。モンクは、日本ではマイルスやコルトレーンのような一般的な人気者ではないので、読者数も限られるという営業上の懸念があり、もちろんそれが尻込みする最大の理由だったろうが、とにかく書物として「長すぎる」というのがもう一つの理由だった(何でも短いSNS全盛の時代に完全に逆行しているので、当然だろう)。そこで、ケリー氏に事情を説明し、日本語での完訳本出版は難しそうであり、唯一の可能性は、原書の一部をカットして、全体を短縮して単行本として出版する以外にないことを伝えた。そして日本の想定読者層を考えると、ジャズを中心にした「音楽書」として出版し、音楽と直接的関わりの薄い部分、つまり同書の物語を編む縦糸というべき、人種差別を核にした米国黒人史や政治史に関する記述部分を主にカットせざるを得ないが、それでも翻訳を許可してもらえるかどうかと尋ねた。ケリー教授はアフリカ系アメリカ人歴史学者であり、この本が単なるジャズ・ミュージシャンの伝記ではなく、米国黒人史を背景にしてモンクという独創的音楽家を描く、もっと大きな物語であることを私も重々承知していたので、無理かもしれないと半ばあきらめていたのだ(それに、昔は甘かったらしいが、今は翻訳する側が原書の内容に勝手に手を加えることを契約上許可しない著者や版元も多い)。ところが、ケリー氏がその提案を了承してくれたのである。

しかしながら、2016年秋口に何とかして15%ほど訳文を減らした修正案を準備してもなお、出版してくれるところはなかなか見つからなかった。そして半年ほど経った最後の最後になって(2017年4月)、本当にあきらめかけたときに手をあげてくれたのが、月曜社とシンコーミュージックの2社だった。結果的にシンコーミュージックから10月に出版していただくことに決まったが、それでも700ページというジャズ本としては異例の大著になった(月曜社は、これが縁となり、その後パノニカとレイシーに関する本を出版していただいた)。

このカットした部分に、モンクがなぜパロ・アルト高校で演奏するに至ったか、その背景に関する逸話も含まれていた。原書では、米国史上有名な白人による黒人差別や暴力に関する歴史的事件のほとんどに触れているが、パロ・アルトの事例は、中で唯一悲惨さとは無縁のポジティヴな逸話だ。そしてある意味で、モンクという人物を象徴するような物語でもある。だから長さの制約さえなければそのまま訳文を掲載したかったが、他の歴史的背景のかなりの部分をカットした以上、パロ・アルトの逸話だけ入れてもその「意義」が伝わりにくいと考えた。こうした訳文削除の背景については訳書の「解説」でも触れているので、カットされたその黒人史に関する部分を読みたい、という読者の方からの問い合わせもいただいたが、版権の問題や上記理由で日本での書籍化は難しいとお答えしている。

モンクのこのレコード『Palo Alto』(CD、LP)には、ロビン・ケリー氏が自らこの逸話の政治的背景を書いた長文ライナーノーツが添付されており、国内盤にはその日本語訳もついている。そこに、この話の主人公で当時高校生だったダニー・シャーの後年のコメントも書かれているし、他に新聞広告やポスター、コンサートプログラムのコピー等の史料も添付されている。また息子のT.Sモンクとシャーのインタビュー映像もYouTubeで公開されている。とはいえ本来は、上述のような苦闘(?)を経てようやく出版した邦訳書の一部でもあるので、以下に私が「試訳」した未発表部分を、ご参考までに紹介したいと思う(ケリー氏のライナーノーツの解説が、当時の背景を非常に詳細に語ったものなので、私の原書訳文は、むしろそのダイジェスト版のようではあるが)。

***

《 この話はカリフォルニア州パロ・アルトという、スタンフォード大学近くの裕福な白人のカレッジタウンから始まる。パロ・アルトが起点のベイショア・フリーウェイをはさんで、イースト・パロ・アルトがあった――当時は貧しく、黒人住民が中心の ”郊外の貧困地域” だった。その極貧ぶりと失業率の高さゆえに、その街を別の国だと譬える人もいたほどだった。アフリカの独立や、台頭しつつあった黒人民族主義者の気運に触発されて、地元の活動家の中には、誇りを持ってその町を ”ナイロビ” というニックネームで呼ぶ人たちもいた。1966年にアフリカ中心の教育に特化した独立学校としてナイロビ・デイスクールが創設され、その2年後に、”ナイロビ” を町の公式名称にすることを問う住民投票を目指す運動が始まったのだ。その運動は反白人主義によるものではなかった。それどころか、名称変更の支持者たちは、そのコミュニティの中で地域への誇りを持つ気持が浸透すれば、学校や近隣地区を改善し、経済を強化でき、最終的には人種に関わらず、ナイロビをすべての家族にとって魅力的な場所にできると信じていたのである。4月3日、町議会は名称変更についての公聴会を開くことを可決したが、その翌日キング師が暗殺された。若者たちがあちこちの略奪行為や焼き打ちに加わるにつれて、期待されていた協力の可能性は怒りに取って代わられた。「ナイロビに賛成しよう」と駆り立てるポスター、チラシ、黒とオレンジ色のバンパーステッカーは戦闘的な雰囲気を漂わせるようになった。人種間の緊張が高まるにつれて、パロ・アルト自由主義のグループは黒人の中流層を引き寄せて、何とか白人の近隣住民と一体化しようと試みた。
 ここでダニー・シャーの紹介をすると、彼はパロ・アルトの上流中産階級の家庭で生まれ育った16歳のユダヤ系の少年だった。ジャズ狂で、人種間の緊張が高まっていた1968年に、パロ・アルト高校の2年生に進級するところだった。ダニーを知らぬものはいなかったが、それは1年前に独力でパロ・アルト高校初のジャズ・コンサートをプロデュースし、そこでなんとあのピアニスト、ヴィンス・ガラルディとヴォーカル・グループのランバート・ヘンドリックス・アンド・ロスを招聘したからだ。しかも毎週水曜日のランチタイムには、学校内でジャズのラジオ番組の司会も務めていた――ただし放送局の設備はマイク一本と、じっくり配置を考えた数本のスピーカー、それにターンテーブルだけだった。学校外では、ベイエリアのコンサート・プロモーターのもとで仕事をするようになり、そこでダーレンス・チャンと知り合ったが、彼女はカリフォルニア大学バークレー校で初めて一連のジャズ・コンサートをプロデュースし、批評家ラルフ・J・グリーソンの下で働いていた。シャーは回想する。「僕の夢は、セロニアス・モンクとデューク・エリントンをパロ・アルト高校に連れて来ることだった。第一候補はモンクだったので、ダーレンスにどうやって彼と接触したらいいか尋ねたら、彼女がジュールズ・コロンビー[訳注:モンクの元マネージャーだったハリー・コロンビーの兄]の電話帽号を教えてくれたんだ。僕はジュールズに電話して、モンクに高校で演奏して欲しいという話を伝えた。彼は500ドルくらいかかるよ、と言ったと思う。最終的にジュールズは契約書と、何枚かのモンクの写真、それに『アンダーグラウンド』のLPも何枚か送ってきた。あとは校長に頼んで契約書にサインしてもらうだけだった」
 モンクは、10月末にはサンフランシスコの「ボース・アンド・クラブ」に3週間出演することになっていたので、シャーは10月27日、日曜日の午後に学校の講堂を確保し、他の2つのバンドの出演も決めた――<ジミー・マークス・アフロアンサンブル>とケニー・ワシントンをフィーチャーした<スモーク>だった。主役はモンクのカルテットで、収益金はインターナショナル・クラブに寄贈されることになっていたので、チケットはあっという間に売り切れるだろうとシャーは踏んでいた。ところがそうは行かなかった。2ドルのチケットを売りさばくのに苦労したシャーは、購読していた新聞のコネを通じて、何軒かの新聞販売店にプログラムへの広告掲載を売りこみ、各店の窓にコンサートを宣伝するポスターを貼ってくれるよう頼み込んだ。それでもチケットの売れ行きが良くならないと、彼はコンサートをイースト・パロ・アルトにも売り込むことにした。「それで、ついにイースト・パロ・アルトにもポスターを貼り出すことにして、街中に貼るポスターの見出し文をこう書いた。『それで、本当にモンクが白人だらけのパロ・アルトにやって来るのだろうか? 信じれば、そうなるさ』。僕が会った黒人連中は疑っていたので、とにかく日曜日に学校の駐車場に来てくれ、そこでモンクを見たらチケットを買ってくれ、って言ったんだ」
 あとは、モンクとバンドが確実にギグに来られるようにすればよかった。コンサートの何日か前に、シャーはホテルにいたモンクに電話して、どこに来てもらいたいか念押しした。するとモンクは、「えー、私はその件は何も聞いてないよ」と答えた。分かったのは、モンクが契約書を一度も見ていないこと、しかもサンフランシスコからパロ・アルトへ行って、クラブの最初のセットに間に合うように戻ってくる移動手段がないということだった。しかし、モンクはその少年の厚かましさを面白いと思ったし、特にシャーが、自分の兄の車でバンドの行き帰りの送迎をさせると申し出たこともあって、その出演を承諾した。日曜日の午後、両パロ・アルトの町から黒人と白人の少年たちが駐車場に集まり、モンクが現れるのを見ようと待っていた。バンが駐車場に止り、中からモンク、チャーリー・ラウズ、ラリー・ゲイルズ、ベン・ライリーが現れると、そこにいたみんながチケットを買う列に並んだ。最終的に、モンクのカルテットは人種の入り混じった、ほぼ満員の聴衆に素晴らしいショーを披露した。彼らは1時間以上演奏した。嵐のような拍手に呼び戻されたモンクはアンコールも演奏した――ソロ・ピアノによる〈スウィートハート・オブ・オール・マイ・ドリームズ〉――それから、これ以上は演奏できないことを丁重に謝った。「今晩は街に戻って演奏しなければならないので、ご了承ください」。モンクはそれをコンサートの締めの言葉にし、ダニーは現金でモンクに謝礼を支払い、それから彼の兄が「ボース・アンド・クラブ」までバンドを送り届けたが、時間的には十分な余裕があった。数日後、ジュールズからダニーに電話があり、出演料を請求した。「私は彼に、それならモンクさんに支払いましたよと言った。『私のコミッションはどうなるの?』と言うので、『コロンビーさん、こちらにはサインした契約書はないんです。なのでコミッションをお望みなら、モンクさんに話した方がいいですよ』って答えた」。その後成長したシャーは、西海岸でもっとも成功をおさめた屈指のコンサート・プロモーターになった。
 モンクも16歳のダニー・シャーも、この地域の人種間の関係に、このコンサートがどういう意味をもたらしたのか完全に理解していたわけではなかった。つまり気持ちの良いある日の午後に、黒人と白人が、そしてパロ・アルトとイースト・パロ・アルトが、争いをやめて一緒に集まり、〈ブルー・モンク〉、〈ウェル・ユー・ニードント〉、〈ドント・ブレイム・ミー〉を聞いたということである。それから9日後の住民投票で、イースト・パロ・アルトをナイロビに改名する案は2対1以上の大差で完敗した 》

2020/05/15

タイムトラベル


TBS『JIN-仁-』の再放送特番をやっていたので久々に全編通して観たが、やはり名作だ。現代から幕末の江戸時代にタイムスリップした主人公の脳外科医、南方仁(みなかた・じん)が、手術や医薬の開発によって、コレラや他の感染症、災害、事故から当時の人々を救うという、荒唐無稽だが、救命医療とヒューマニズムを軸にした壮大な歴史ファンタジーだ。原作漫画(村上もとか)とは設定や結末が多少違うようだが、テレビドラマとして脚本(森下佳子)、演出、俳優陣、映像、音楽どれをとってもやはり非常によくできている。内野聖陽が演じる坂本龍馬を筆頭に、登場する歴史上の人物の造形も新鮮で、大沢たかお、綾瀬はるか、中谷美紀他の主役のみなさん全員が、真情あふれる魅力的な演技をしている。ノスタルジーをそそる音楽と共に、タイトルバックで交錯する懐かしい東京と江戸の写真もいい(ただし、外科ものだから仕方ないが、毎回あるリアルな手術シーンだけは苦手だ)。

ところで、南方仁は階段や崖から転げ落ちてタイムスリップするが、「階段や高いところから落ちるとタイムスリップする」、というモチーフのルーツはどこ(小説や映画)なのかと、(ヒマなので)いろいろ調べてみたが、はっきりとは分からなかった(『JIN-仁-』が最初なのか?)。「階段落ち」で有名なのは、先月亡くなった大林宣彦監督の『転校生』(1982) だが、これはタイムスリップではなく男女の入れ替わりだ。実をいうと、粗忽ものだった私は小学校低学年の頃に、学校の薄暗く、かなり急で長い階段から、横向きとかではなく、文字通り「前方に転げ落ちた」ことがあるのだ。当時は木造校舎だったのと、子供で身体が柔らかかったせいもあってか、奇跡的に大けがもせずに済んだが(とはいえ、着地場所は給食室前の、木製渡り廊下が敷いてあるコンクリートの廊下だった)、ゴロンゴロンと前方に何回転かしている間の、ぐるぐると世界が回転し、目の回るようなあの感覚は今でもはっきりと覚えている。たぶん時空を超える瞬間とは、ああいう感覚なのかもと、(私と同じように転げ落ちた経験のある) 誰かが最初にこのモチーフを思いついたのかもしれない。

ある日どこかで
1980
まったくの偶然だが、『JIN-仁-』再放送の1週間ほど前に、いくつか録画しておいた映画でも見ようと、その中から『ある日どこかで (Somewhere in Time)』という1980年に公開されたアメリカ映画を選んだ(ちなみに、タイトルの邦訳は「ある日」ではなく、「いつかどこかで」の方が語句と内容に近いだろう)。リゾートホテルで時空を超えて恋人と再会する、という古典的タイムトラベル・ファンタジーで、たまたま久々に観ようかと思い立って選んだ映画だ。懐かしさもあって、この映画は時々観たくなるのである。なぜかというと、今から約40年前、合弁企業勤務時代の1981年に、私はこの映画の舞台である「グランドホテル (Grand Hotel)」へ行ったことがあるからだ。つまりアメリカでこの映画が公開された翌年ということになる。初の米国出張時で、ミシガン州にあったアメリカの親会社の人たちが、休日ドライブに連れて行ってくれたのが五大湖の一つヒューロン湖のマキノー島 (Mackinac Island)で、 その島にこのホテルがあったのだ(泊まったわけではない)。テレビで初めてこの映画を観たのは、たぶん1990年代になってからだったと思う。グランドホテルのことはまったく知らずにたまたまこの映画を見ていたら、(文字通り)ある日どこかで見たことのあるような建物と風景が出て来たので、そのまましばらく画面を見ていたら、それがマキノー島のグランドホテルだと分かってびっくりしたのである。

カナダとの国境に近いミシガン州の北端(正確にはLower半島の北端)、ミシガン湖(西)とヒューロン湖(東)の海峡にある港町マキノーシティ (Mackinaw City;デトロイトからの距離は約420km) から、ヒューロン湖側をフェリーで30分くらい(?)行ったマキノー島の丘の上に、1887年に開業したグランドホテルは今もある。緯度が高く冬場は湖が全面凍結するため、ホテルなどの施設はすべて閉鎖されるので、夏場中心のリゾート地だ。あの当時この島を訪れた日本人は、きっとまだ珍しかったのではないかと思うが、何せ湖の巨大さと、ヴィクトリア調の白く大きなホテルの豪華さと美しさに、心底びっくりしたのをよく覚えている。島内では、クルマもバイクも、エンジンを搭載した車輛は一切禁止されていて、移動手段は馬車か自転車か徒歩だけという、本当に19世紀にタイムスリップしたかと思うような場所だった(これは現在もそうだ。映画では、シカゴに住む主人公が仕事のストレスからドライブ旅行に出かけ、ふらりと立ち寄る設定になっているので、ホテル前に普通にクルマで到着するシーンが出てくるが、これは撮影用として特別に許可された車だそうだ)。

グランドホテル
Mackinac Island, MI
この映画の原作は、1975年の幻想小説『Bid Time Return』(時よ戻れ;シェイクスピア 『Richard II』からの引用) であり、書いたのはリチャード・マシスン Richard  Matheson (1926-2013) というモダンホラーの作家・脚本家だ。あのスピルバーグのデビュー作かつ傑作であるTV映画『激突 (Duel)』の原作、脚本もマシスンで、映画『ヘルハウス』や、『トワイライトゾーン』のようなTVドラマも書いている人らしい。小説の映画版である『ある日どこかで』も、マシスン本人による脚本である。原作のホテルはカリフォルニア州の設定だが、映画ではそれを(ミシガン州の)グランドホテルに変えたわけだ。映画『ある日どこかで』は予算も絞られ、1980年の公開時は日米ともにパッとしない興行成績だったらしいが、その後ケーブルTVやビデオを通じてじわじわとファンが増え、今やカルト的人気のあるタイムトラベル映画になっていて、毎年10月には、今もグランドホテルでファンの集いが開催されているほどだそうだ。

その方面に詳しくはないが、タイムスリップやタイムトラベルといえば自由な発想ができるSF小説が中心で、内容も未来社会とか、思い切り過去に飛ぶ活劇系作品が多いように思う。映像化もその方が分かりやすいし、古くは『ターミネーター』とか『バック・トゥー・ザ・フューチャー』といった傑作映画がいちばん有名だろうが、公開は1984年、1985年だ。『ある日どこかで』はそれより5年も前の作品で、しかも内容が恋愛ものであるところが違う。だから、今や小説、コミック、ドラマ、映画などで数多く描かれている時空を超えるラヴ・ファンタジー作品の元祖というべき映画であり、大林宣彦監督も『時をかける少女』(1983 /筒井康隆の原作小説は1967年出版)の制作にあたって、この映画を参考にしたそうだ。大林監督は他にも『さびしんぼう』(1985) や『異人たちとの夏』(1988) など、実在しないが、心の中にある、はかなく懐かしい存在をイメージ化する映画を制作しているが、『ある日どこかで』もSFというより、どちらかと言えば昔のアメリカのTV番組『ミステリーゾーン』や『トワイライトゾーン』的な「不思議な物語」という味付けの映画だ。『JIN-仁-』にも、この映画の影響、もしくはオマージュと思われるモチーフが多い。南方仁と咲、野風、未来(みき)を巡る、会いたくても会えない、時空を超えた切ない恋愛感情がそうだし、主人公が手にする「コイン(硬貨)」が、過去と現在が交差する入口を象徴している設定もたぶんそうだろう。

女優エリーズ・マッケナ
(ジェーン・シーモア)
『ある日どこかで』で主人公の若い脚本家を演じるのは、あの「スーパーマン」役のクリストファー・リーヴ Christopher Reeve (1952-2004) である。ジュリアード音楽院出身で、いかにもアメリカンなこの人は、落馬事故が原因で早逝してしまったらしい。主人公が一目で魅了される、ホテルの資料室の肖像写真に写っているのが、タイムトラベルで邂逅する女優エリーズ・マッケナで、007のボンドガールの一人だったジェーン・シーモア Jane Seymour (1951-) が演じている(彼女のモナ・リザ的で、どこかノスタルジーを刺激する謎めいた写真は実に美しく、確かに一度見たら忘れられない)。大昔ではなく、1980年から1912年という近過去(68年前)に主人公がタイムスリップするのがこの映画の特徴で、またタイムスリップはタイムマシンのような機械や、階段落ちとかの事故や偶然ではなく、戻りたい過去の事物だけに囲まれた場所を選び、その時代の衣服等を身に付け、その上で自己催眠をかけて実行するという、主人公の学生時代の恩師から伝授された方法だ。『JIN-仁-』がそうであるように、この種のファンタジー映画は音楽も大事で、007で有名なジョン・バリーが自作曲とラフマニノフのピアノ曲を組み合わせて、映画のストーリーによくマッチした音楽を制作している。『ある日どこかで』は、近年のタイムトラベル作品に比べてストーリーがシンプルで、時代を反映して、エンディングもどこかやさしい余韻を残して終わるところがいい。私にとって懐かしい風景が出てくる画面をじっと見ていると、何だか自分も40年前にタイムスリップしたような気がしてくる不思議な映画である。

ところで私は、日本中が浮かれていたバブル時代に、会社のパーティ向けに組んだ即席バンド(サイドギター担当)で、サディスティック・ミカ・バンドの<タイムマシンにおねがい>(1974) を演奏したことがある。ミカ・バンドはその後、89年に桐島かれん、2006年に木村カエラを擁して同曲を再・再々カバーしていたが(名曲なので)、実は私も2010年代の同パーティで、いい歳をして再結成バンドでもう一度この曲を演奏している。「階段落ち」実体験といい、『ある日どこかで』の偶然といい、<タイムマシンにおねがい>との縁といい、こうして並べてみると、どうも自分にはタイムトラベルをする素質(?)があるような気がしてくる(朝が弱い私は、むしろ「タイムトラブル」の方が多かったが……)。しかしよく考えてみると、昔ながらのジャズファンというのは、ある意味でタイムトラベルを日常的に楽しんでいるようなものかもしれない。私の場合、ふだん聴いているジャズ音源の7割くらいは1950年代から60年代前半のものだし、しかもライヴ録音のアルバムを聴くことも多い。優れたライヴ録音のアルバムを、良いオーディオ装置で再生すると、時として実際にジャズクラブの中にいるのでは、と錯覚するほどの臨場感が得られることがある。だから、60-70年くらい前の全盛期のジャズの演奏現場にタイムスリップしたような感覚が味わえるジャズレコードは、いわば「即席タイムマシン」のような機能を果たしているのかもしれない。ジャズレコードには、どこか他の音楽ジャンルの音源とは違う不思議な魅力があると思っていたが、どうやらこれも理由の一つのようだ。

「Five Spot」前の
モンクとニカとベントレー
とはいえ、本物のタイムトラベルもできれば死ぬ前に一度経験してみたいものだが、もしそれが可能なら……行きたいところは決まっている。時は1957年、場所はニューヨーク、ヴィレッジの「Five Spot Cafe」だ。もちろん、ヤク中のためにマイルス・バンドをクビになったジョン・コルトレーンを雇ったセロニアス・モンクが、自身初のレギュラー・カルテットを率いて登場し、コルトレーンが次なる飛躍に向かって徐々に成長してゆく過程を捉えた演奏を聴くためだ(4ヶ月にわたるこの伝説のライヴ演奏は、録音記録が残されていない)。タバコとアルコールの匂いが立ち込める1950年代ニューヨークのジャズクラブで、客席の著名な芸術家やミュージシャンたちに混じって、できればニカ夫人のテーブル近くに座って、モンクたちの演奏を朝まで聴いていたい……

2018/05/18

アメリカン・バラード: チャーリー・ヘイデン

アメリカに行ったことがある人なら、飛行機の窓から初めて眺めるアメリカ大陸の広大さに驚くのが普通だ。何せ昔は4時間飛んでも西海岸から東海岸に辿り着けなかったのである。ニューヨークなどの大都市を別にすれば、アメリカという国の大部分は田舎で、場所によっては地上に降りても山や起伏がどこにも見当たらない場所もある。どこまで行っても地平線しか見えない真っ平な土地なのだ。そういう場所で生まれ育った人がどういう世界観や感性を持つようになるのかは、日本のように四方を山で囲まれた狭い土地で育った人間には想像もできない。

Gitane
1978 All Life
アメリカは同時に雑多な人種が入り混じって出来上がった国でもある。植民地から独立して建国したのは1776年(江戸時代中期)であり、日本の明治維新の頃には内戦・南北戦争があって、1865年にそれまで続けてきた南部の奴隷制がようやく廃止され、表向きは黒人が解放されたものの、彼らに国民として当たり前の公民権を与える法律がようやく制定されたのは、それから100年経った1964年、東京オリンピックの年である。それまで奴隷だった黒人に加え、アメリカ先住民、フランス系、イギリス系、アイルランド系、ドイツ系、オランダ系、イタリア系、ユダヤ系、中南米系、アジア系などあらゆる人種が移民として集まり、混在しながら国を形成してきた。日本人のように、生まれた時から同じような顔をして、同じ言語を話し、同じ文化を持つ人たちに囲まれているのが当たり前で、何千年もそれを不思議とも思わず、海という国境線のおかげで「国家」すら意識せずに生きて来た国民と、アメリカ人の世界観や感性が違うのは当然だろう。彼らは “たった” 240年前から、先祖に関わらず「アメリカ」という自分の属する国をまず意識し、次に「アメリカ人である自分」も常に意識しなければならなくなった。常に「自分は何者か」ということ(Identity)を意識しなければ生きて行けないのがアメリカ人なのだ。そのためにはまず、あるべき理想(Vision)を掲げ、そこに到達するための目標(Goal)と道筋(Strategy)を定め、さらにいくつかのステップ(Milestone)を決め、それを他者に提案し、説明し、合意を得ることを常に強いられることになった。個人レベルでも組織レベルでも、このプロセスは同じだ。自らの主張とそれを他者に分かりやすく伝えるためのプレゼンテーション、というアメリカでは必須とされるコミュニケーション技術はこうして生まれ、育まれてきた。この国では、“黙って” いては誰も自分の存在を認識してくれないのだ。それは絶えざる自己表現と、他者との競争というプレッシャーを受け続けることでもある。だがその重圧を担保してきたのが、広大な土地と豊かな資源、それに支えられた豊かな経済、移民に代表される開かれた社会、誰でも多様な生き方を選べる自由、そして誰にでもある成功のチャンス、アメリカン・ドリームだった。

Beyond the Missouri Sky
1997 Verve
そういう国で生きるアメリカ人が感じる見えないプレッシャーは、いくらアメリカ化してきたとは言え、基本的に何でもお上が決めて、それに従い、同じような人間同士が和を第一として組織や共同体に従順に生きてきた日本人のそれとは違うものだろう。だからその重圧や、そこから逃れてほっとする気分を表現した音楽の印象もどこか違う。差別され続けてきた黒人は歴史的にブルースやジャズという音楽の中で、そのどうにもならない重圧と嘆きを歌うことで、そこから解放されるささやかなカタルシスを得てきたのだろう。一方の白人音楽家も、アメリカのポピュラー音楽の作曲家やジャズ・ミュージシャンに見られるようにユダヤ系の人たちが多く、彼らは黒人ほどの差別は受けなくとも、異教徒としての微妙な疎外感とアメリカで生きる重圧から逃れて、ほっとできる、心を癒す美しい音楽を創り、また演奏してきた。ただし、どんなバックグラウンドを持った人でも、アメリカという新しい国への帰属意識を持ち、そこで生きながら、同時に自分の先祖のルーツを知りたいという潜在的願望は常に持っていることだろう。ジャズは、そうした複雑な人種的、文化的混沌を背景に持つ「アメリカという場所」で生まれた音楽なのだ。果ての見えない大地を感じさせるようなパワーと雄大さ、細かなことにこだわらない自由と寛大さ、現在に捉われずに常に新しい何かを求める革新性を持つ一方で、自分が何者なのかを常に意識せざるを得ない不安と繊細さを併せ持つのがアメリカという国と人とその音楽の特徴だろう。ジャズの中にも、アフリカへの郷愁につながる黒人のブルースの悲哀だけではなく、そうした複雑な背景を持つ「アメリカ人」ならではの哀愁や郷愁を強く感じさせる音楽がある。自らを “アメリカン・アダージョ” と称していたベーシスト、チャーリー・ヘイデン Charlie Haden (1945-2014) のリーダー作や参加作品には、そのような気配が濃厚なアルバムが多い。

Nocturne
2001 Verve
チャーリー・ヘイデンというベーシストは、私にはいわゆるアメリカ人の原型のような人に見える。基本的にアメリカを心から愛し、知性とチャレンジ精神に満ち、人間的包容力と人格に秀で、また善意のコスモポリタンであり、世界の様々な国の人と分け隔てなく協働でき、幅広い人脈を持ち、しかしアメリカ的正義の観点からは他国の政治問題にも口を出し、思想やコンセプトを重視し、またそれを実現するためのプロデュース能力に秀でている……という私の勝手なイメージが正しければ、これは伝統的アメリカ中産階級のリーダー像そのものだ。これに、どんな相手にも合わせられるバーサタイルなジャズ・ベーシストという本来の仕事を加えるとチャーリー・ヘイデンになる。この人間分析が当たっているかどうかはともかく、ヘイデンのキャリアと、そのベースからいつも聞こえてくる悠然とした、豊かで安定した音からすると、あながちはずれていないような気もする。ジャズ史に残る白人ベーシストと言えば、早世したスコット・ラファロや今も活動しているゲイリー・ピーコックなどが挙げられるが、ヘイデンも彼らとほぼ同世代だ。ベースの専門家でもないので、黒人ベーシストと非黒人ベーシストとの演奏上の本質的違いなどはよくわからないが、ニールス・ペデルセンやエディ・ゴメスなども含めて、共通点はどちらかと言えば “ビート” の印象よりも、よく “歌う” ということではないだろうか。ヘイデンはこれらの奏者に比べると高域まで歌いあげることは少ないが、ウッド・ベース本来の低域の太く重量感のある歌を伝える技量にとりわけすぐれていると思う。フリージャズで鍛えられた和声とリズムへの柔軟な対応もそうだ。そして彼のもう一つの特徴が、上記のアメリカ的抒情と郷愁を強く感じさせる演奏と作品群である。

ヘイデンは1950年代末からオーネット・コールマン、キース・ジャレット、ポール・ブレイ、カーラ・ブレイ、パット・メセニーなど数多くの、多彩な、かつ革新的なミュージシャンと共演し、数多くのアルバムを残してきた。ここに挙げた私が好きな4枚のアルバムはそれぞれ異なるコンセプトで作られているのだが、どの作品からも “アメリカン・バラード” とも言うべき、癒しと懐かしさの漂う、ある種のヒーリング・ジャズが聞こえてくるような気がする。ジャズシーンへの本格的参画がアヴァンギャルドだったことを思うと意外だが、アイオワ州出身のヘイデンが子供の頃から聞いてきたヒルビリーやカントリー・アンド・ウェスタン(C&W)という、黒人のブルースとは別種の、これもまた多くのアメリカ人の心に深く染みついた固有のフォーク音楽がその音楽的ルーツとなっているからなのだろう。

Nearness of You
The Ballad Book
2001 Verve
『ジタン Gitane』(1978)は、フランスのジプシー系ギタリスト、クリスチャン・エスクードとのギター・デュオでジャンゴ・ラインハルトへのトリビュートだが、雄大で骨太なヘイデンのベースがエスクードのエキゾチックで鋭角的なギターを支え、最後まで緊張感が途切れず、聞き飽きない稀有なデュオ作品だ。ヘイデンはこの他にも多くの優れたデュオ・アルバムを残しているが、中でもパット・メセニーとの美しいギター・デュオ『ミズーリの空高く Beyond the Missouri Sky』(1997)は、タイトル通りメセニーの故郷ミズーリ州をイメージしたアメリカン・バラードの傑作だ。一方キューバのボレロを題材にし、漆黒の闇に浮かび上がるような甘く濃密なメロディが続くラテン・バラード集『ノクターン Nocturne』(2001)もヘイデン的傑作であり、ゴンサロ・ルバルカバ(p)、ジョー・ロヴァーノ(ts)に加え、ここでも一部メセニーが参加して、究極の美旋律を奏でている。そして、マイケル・ブレッカー(ts)をフィーチャーし、パット・メセニー、ハービー・ハンコック(p)、ジャック・デジョネット(ds)、さらに一部ジェームズ・テイラーのヴォーカルまで加えた『ニアネス・オブ・ユー The Ballad Book』(2001) も、まさしくヘイデン的アメリカン・バラードの世界である。これらのアルバムとそこでのヘイデンのベースを聴くと、私はまず「アメリカ」をイメージし、そして会社員時代に付き合っていた、素朴で善良なアメリカ人の典型のような人物だった、心優しいある友人をいつも思い出すのである。

2017/08/10

ジャズ映画を見る (2)

一般的にジャズ映画と呼ばれている中で一番多いのは、ジャズ・ミュージシャン本人を描いた伝記的映画だ。「グレン・ミラー物語」(1954や「ベニー・グッドマン物語」(1956など白人ビッグバンドのリーダーを描いた映画が古くからあって、私も昔テレビで見た程度だが、いかにも往時のハリウッド的な作りの映画だった記憶がある。我々の世代だと、一番記憶に残っているのは、やはり1980年代の「ラウンド・ミッドナイトRound Midnight」(1986年)と、「バードBird」(1988年)だろうか。(しかし、これらの映画も既に30年も前の作品だと思うと、つくづく時の流れを感じる。当時の日本はバブル真只中で、一方でアメリカはまだIT革命前の不況に喘いでいた時代だった。)

「ラウンド・ミッドナイト」は、フランス人のベルトラン・タヴェルニエ (1941-) が監督・脚本、ハービー・ハンコック (1940-) が音楽を担当した米仏合作映画である。基本はピアニスト、バド・パウエル  (1924-66) がパリに移住していた時代 (1959-64) に、パトロンとしてパウエルを支え続けたフランス人、フランシス・ポードラ (1935-97) が書いた評伝 “Dance of The Infidels”(異教徒の踊り)で描かれたパウエルの物語だが、そこにテナーサックスのレスター・ヤング (1909-59) の生涯の逸話もミックスしている。この二人のジャズの巨人をモデルにした主人公、テナー奏者デイル・ターナー役を、パウエルと同時期にパリに住み、共演もしていたデクスター・ゴードン (1923-90) が演じている。ハンコック(p)とボビー・ハッチャーソン(vib)も実際に役を演じ、またフレディ・ハバード(tp)、ウェイン・ショーター(ts)、ロン・カーター(b)、ビリー・ヒギンズ(ds)、トニー・ウィリアムズ(ds)、ジョン・マクラフリン(g)、さらにチェット・ベイカー(tp)など、当時の錚々たる現役ジャズ・ミュージシャンたちが、ジャズクラブの演奏シーンに登場している。そしてもちろん、映画のタイトル「ラウンド・ミッドナイト」によって、この曲の作曲者であるもう一人のジャズの巨人で、パウエルを兄のように支え続けたセロニアス・モンクへのオマージュも表現している。フランス人監督が、落ちぶれた晩年のジャズの巨人を1960年前後のパリを舞台に描いた世界なので、ジャズ映画とはいえ、映像、演出ともに陰翳の濃い映画全体のトーンはやはりフランス映画的で、ほの暗く、しっとりしていて、アメリカ映画的な乾いた単純明快な描き方ではない。パリ時代のバド・パウエルは様々に語られてきたが、実際はこの映画で描かれた以上に悲惨な状態だったのだろう。しかし、その時代にパウエルが残したどのレコードからも、演奏技術の衰え云々を超えて、天才にしか表現できない味わいと寂寥感が伝わって来る。この映画で描かれているのも、まさに沈みゆく夕陽のような晩年の天才の最後の日々だ。主演のデクスター・ゴードンは、この映画での枯れた演技を高く評価されたが(地のままだという説もあるが)、ハッチャーソンやハンコックも含めて、即興で生きるジャズメンというのは、やはり演技力もたいしたものだと思う。なおデイル・ターナーが娘チャンに捧げた印象的なメロディを持つ曲は、ハンコックがこの映画のために書いた ”Chan’s Song (Never Sad)” という曲である。映画オープニングのモンクの曲 ”Round Midnight” と同じく、ミュート・トランペットのような音でこの曲がエンディングで流れるが、これは両方ともボビー・マクファーリンによる高音スキャット・ヴォーカルなのだそうである。この曲は今やジャズ・スタンダードになっていて、私が好きなのは、マイケル・ブレッカー(ts)のアルバム  ”Nearness of You:The Ballad Book” (2001 Verve) 冒頭の演奏で、ハンコック自身のピアノの他、パット・メセニー(g)、チャーリー・ヘイデン(b)、ジャック・デジョネット(ds)が参加している。この演奏は美しくまた素晴らしい。

映画「バード」は、言うまでもなく天才アルトサックス奏者チャーリー・パーカー (1920-55) の生涯を描いたもので、製作・監督は筋金入りのジャズファンであるクリント・イーストウッドだ。1930年サンフランシスコ生まれのイーストウッドは、少年時代に西海岸にやって来たパーカーの演奏を実際に聴いている。映画中の演奏シーンでは、パーカーの録音から、パーカーのソロ部分だけを抜き出し、その音(ライン)に合わせて、レッド・ロドニー(tp. 1927-94. 実際にパーカーと共演し、映画でも 南部ツアー時の “アルビノ・レッド” として描かれている)、チャールズ・マクファーソン(as)、ウォルター・デイヴィス・ジュニア (p)、ロン・カーター(b)などが実際に演奏した音楽を使うという凝りようである。したがってパーカーの演奏シーンの音楽はもちろん素晴らしい。物語はパーカーの少年時代からの多くの逸話や、相棒だったディジー・ガレスピー (1917-93) との交流も出て来るが、ほとんどはドラッグによって破滅に向かう天才パーカーの苦悩と、それを支えるチャン・パーカー夫人 (1925-99) との夫婦の情愛を描いたもので、映画は当時存命だった彼女の監修も経て制作している。パーカー役のフォレスト・ウィテカーは、演技はともかく、外見(顔や体型や仕草)がパーカーの私的イメージと違い過ぎて、正直どうもピンと来ない。鶴瓶に似ているとかいう話もあったが、実際のパーカーは、もっと凄みもあって(鶴瓶にもあるが)、もっとカッコ良かったんじゃなかろうか、と思う(ジャズに限らないが、いつの時代も人気の出るカリスマ的ミュージシャンは、何と言ってもカッコ良さが大事なはずなので)。それと、チャン夫人の回想が中心になっているためだと思うが、映画全体のムードと流れが暗く、重苦しい。パーカーがドラッグまみれだったのは確かだろうが、本当はもっとあっただろう、ジャズとパーカーの音楽の持つ明るく陽気な部分があまり描かれていないのが残念なところだ(印象に残ったのは、ユダヤ式結婚式のシーンくらいだ)。クリント・イーストウッドのジャズへの愛情の深さは伝わって来るものの、一方で彼の基本的ジャズ観が表れているのかもしれない。

同時期のもう一作は、スパイク・リー (1957-)監督・制作の「モ・ベター・ブルースMo’Better Blues(1990)で、実在のモデルはいないが、1960年代後半にニューヨーク・ブルックリンで生まれたジャズ・トランペッターとその仲間たちの音楽、友情、恋愛、挫折を描いた映画である。フランス人、白人アメリカ人による重厚な上記2本の映画とは違って、もっと若い(当時30歳代初め)アフリカ系アメリカ人の監督が、ジャズとミュージシャンたちをテンポ良く、比較的軽く明るく描いた作品だ(制作費も安かったらしい)。当時スパイク・リーが、クリント・イーストウッドの「バード」に刺激されて制作したという話もあって、リー監督本人も、主人公デンゼル・ワシントンの幼なじみの小男マネージャー役(ジャイアントというあだ名)で、準主役的に登場してコミカルな演技を披露している(田代まさし、みたいだが)。当時まだ30歳台の主役デンゼル・ワシントン (1954-) は実にセクシーでカッコ良く、ジョン・コルトレーンの風貌と、ソニー・ロリンズの外見を足して2で割ったような雰囲気があるし、特にトランペットの演奏シーンでの男っぽい立ち姿は若き日のロリンズのようで本当にサマになっている。音楽も、リー監督とほぼ同世代のブランフォード・マルサリス(sax)、テレンス・ブランチャード(tp)といった一流ミュージシャンが制作に関わっているので演奏シーンでは本格的なジャズが聞ける。クラブにジャズを聴きに来るのは今や(1980年代)日本人とドイツ人ばかりで、黒人はまったく来ないと主人公が嘆くセリフとか、ピアニストの面倒をあれこれと見るフランス人女性のパトロンがフランス語でまくしたてたり、ミンガスの自伝タイトルから取ったジャズクラブ名(Beneath the Underdog)が出て来たり、パーカーやコルトレーンのレコードを偏愛する姿、さらに後半からは疾走するコルトレーンの「至上の愛」をバックに物語が進み、最後に主人公がやっと結婚して、生まれた子供の名前をマイルスにするというオチもあって、ジャズへのオマージュが全編に溢れている。カラフルなエンドロールのバックに流れるジャズ讃歌のような(たぶん)ラップも非常に楽しい。話としては単純だが何よりテンポが軽快なこともあって、同時代の3本の映画の中で、私的に一番ジャズを感じさせたのはこの「モ・ベター・ブルース」だった(もちろん人それぞれの好みによると思うが)。やはり各監督の資質、ジャズ観に加え、過去を振り返るのと、今 (1980年代当時) を描こうとする作り手の姿勢が、映画全体の印象と関係しているのだろう。 

この他、ジャズを取り上げた最近の洋画は、今年封切り時に映画館で見た「ラ・ラ・ランド」で、この映画についてはブログの別の記事で書いている。同じ監督の「セッション」や、一時引退時のマイルス・デイヴィスを描いた「マイルス・アヘッド」(2016)、チェット・ベイカーを描いた「ボーン・トゥー・ビー・ブルー」(2015) などはまだ見ていないが、いずれ機会があれば見てみたいと思う。ミュージシャンの伝記系以外の映画なら、日本でも上野樹里の「スウィング・ガールズ」(2004) があったし、先日テレビでは筒井康隆原作の「ジャズ大名」(1986)をやっていたが、時代劇とジャズという奇想天外な組み合わせ、お遊びたっぷりの演出で非常に面白かった。タモリや山下洋輔まで出演していたのでびっくりした(知らなかった)。こういうジャズを題材に取り上げた映画は、漫画「坂道のアポロン」もついに映画化されるように、すぐれた作者がいて、良いテーマがあれば、これからも作られてゆくだろう。