ページ

2020/04/24

リー・コニッツ逝去

Subconscious-Lee
1949/50 Prestige
新型コロナウィルスによる合併症のために、アルトサックス奏者リー・コニッツ Lee Konitz (1927-) が4月15日にニューヨークで亡くなった。92歳だった。コニッツはジャズマン、特にホーン奏者としては例外的に長生きだった人だが、残り少ない20世紀のジャズレジェンドの一人がついに消えてしまった。私にとっては、2017年9月の「東京ジャズ」がやはり最後の姿となった。あのとき出かけてよかったとつくづく思う。他にもジャッキー・ピザレリ (g-94歳)、エリス・マルサリス (p-85歳)、ヘンリー・グライムス (b-84歳)といったベテラン、まだ若いウォーレス・ルーニー (tp-59歳) など、この1ヶ月の間にコロナで亡くなった有名ジャズ・ミュージシャンは驚くほど多い。本当にこのウィルスは危険だ。もう一人、私の好きなピアニスト、バリー・ハリスも高齢(90歳) なので心配だったが、ハリスが来日して何度もライヴ演奏してきた山口県萩市のジャズ喫茶「village」店主の増本さんの直近情報だと、今は元気で自宅にいるということらしいので、安心した。だがこうなると、ソニー・ロリンズ(89歳)なども心配になる。人間誰しもいずれは死ぬと分かってはいるが、せっかく長生きして、世界中のジャズファンをステージ上で楽しませる音楽人生を送って来た人たちなのに、肉親すら最後を見送ることもできないような疫病のために人生の幕を下ろすのは、いかにも辛すぎる。一般人はもちろん、ジャズ界からもこれ以上犠牲者が出ないことを神に祈りたい。

Konitz Meets Mulligan
 1953 Paciffic
新聞やネット上の訃報だと、情報ソースが同じということもあって「マイルス・デイヴィスと共演したことで知られるクール・ジャズの…」という記事が大部分だが、コニッツがマイルスと共演したのは、1950年前後の数回のセッションだけだ。マイルス自身とアルバム『クールの誕生』があまりに有名で、そうでも言わないとコニッツのことは誰も分からないからなのだろうが、コニッツ・ファンとしては「そりゃ違うぞ」と言いたい。リー・コニッツは、まだ20歳そこそこだった1940年代後半に、全盛期だったチャーリー・パーカーにただ一人拮抗すると言われていた白人アルト奏者だ。もちろんコニッツもパーカーを尊敬していたし、当時のパーカーが自分と比較できるような対象ではないことは、本人も十分に承知していた。しかし誰もがパーカーのエピゴーネンだったあの時代に、師レニー・トリスターノの指導の下で、ただ一人、パーカーとは違うアプローチでアルトサックスのインプロヴィゼーションに挑戦し、「独自の即興演奏の世界」を切り拓こうとしていた姿勢と、実際の演奏の斬新さが他の凡百のサックス奏者と違っていた点なのだ。決まりきったパターン、フレーズ、クリシェを徹底的に排し、その瞬間に内部から湧いて来るアイデアのみに頼るというその(直感的)即興手法は、ジャズ・ミュージシャンとしてもっとも困難な道であり、コニッツも苦しみ続けたが、最後までその哲学を持ち続けていた。トリスターノの思想的、音楽的影響は、肯定と否定の両面で、生涯にわたってコニッツにつきまとうが、コニッツの人生の目標は、自分にしかできないインプロヴィゼーションを追求し続けることによって、パーカーとトリスターノという二人の巨人の影響を超克し、独自の音楽世界を完成させることだっただろう。

Motion
1961 Verve
人間としてのリー・コニッツは、権勢欲、支配欲、金銭欲とはまったく無縁の非政治的人物(文字通りアーティスト)であり、独立心と自由を求める気概が強かったので、(短い一時期を除き)生涯を通じて自身が正式なリーダーとなるバンドを持たなかった。ユダヤ系移民で、苦労しながらもシカゴで質素に真面目に生きていた両親と同じく、至極まっとうな結婚生活を送り、ジャズマンにつきもののクスリやオンナを巡る大きなトラブルもなく(たぶん)、画家だった最初の奥さんが亡くなるまで添い遂げ、二人の息子も育てあげた。20世紀半ばの、あの時代のジャズ界で、これほど真面目でクリーンな「普通の人物」を見つけるのは簡単ではない。アメリカでジャズが勢いを失う60年代後半からは、アルトサックス一本でイタリアやフランスを中心にヨーロッパ各地を渡り歩き、現地のミュージシャンたちと交流しながら、彼らを相手に他流試合を試み、毎回そこに自らのマイルストーンを刻みつつ、更なる音楽的高みを目指して前に進むという、無欲で飄々とした、まるで高貴な渡り鳥のような音楽家人生を送った。さらに、ジャズとは別のブラジル音楽の陰翳と美しさにも惚れ込み、(第2次黄金期だったと思われる)1980年代後半からは、ブラジル人ミュージシャンとも数多く共演してハッピーな音楽もかなり作っている。これらの行動はやはり、青年期まで師事していたトリスターノの、父親的な、厳格で強烈な支配からの逃避、自由の希求という心理的反動を表しているのではないかと個人的には想像している。当然のことだが、こうしたコニッツの人格と人物像は、紛れもなくその音楽の中に表現されており、20世紀のモダン・ジャズ全体に通底する「ヤクザな気配」が一切感じられない、その「知的で清潔な音楽」を好むかどうかが、ジャズ・ミュージシャンとしてのリー・コニッツの評価の分かれ目だろう。

European Episode
Impressive Rome
1968 CamJazz
もう一つ思うのは、コニッツの人生が、アメリカという国で白人がジャズに挑むとはどういうことなのかを最初から意識し、その上で音楽家としての自らのアイデンティティを認識し、目指すべき目標を設定する、というモダン・ジャズ時代以降の「非黒人」ジャズ・ミュージシャンの生き方の先駆的実例だったことだ。私の邦訳書『リー・コニッツ/ ジャズ・インプロヴァイザーの軌跡』(アンディ・ハミルトン著)にも書いてあることだが、黒人でもなく、ブルースという伝統を持たない人種が、ジャズの母国アメリカでプロのジャズ演奏家になるということが何を意味するのか、トリスターノ派のメンバーはそのことを真剣に考え、ある思想を持ち、それを大前提にしてジャズという音楽に関わっていた。トリスターノもコニッツも、チャーリー・パーカーやバド・パウエルをはじめとする先人たる黒人ミュージシャンたちを心から尊敬し(誤解されているが、これは事実だ。ただしモンクは語法が違いすぎて理解不能だったようだ)、その上で(つまりビバップの延長線上で)自分たち白人が目指すべきジャズの道筋を見出し、それに挑戦し、開拓していった。そして、ジャズから黒人的要素を捨象した結果が、芸術と呼ぶに値する「最高度のインプロヴィゼーション」を目標とすることだった。結果として彼らが提示した答が、黒人の「ホットな」ジャズとは対照的な、微妙で複雑なリズムと長い即興ラインを持った独特のジャズである。

1940年代末頃に、マイルスがギル・エヴァンスやジェリー・マリガンたちと指向していた、アレンジを重視した多人数アンサンブルによる知的でクールな音楽が、当時「クール・ジャズ」と呼ばれていたが、まったくコンセプトの違うトリスターノ派の音楽も(ビバップとは単に聞こえ方が違うという理由で)同じカテゴリーに入るジャズだと見られていたのである。コニッツは結果的に両方に関与したわけだが、彼をマイルス9重奏団のメンバーに推薦したのは、クロード・ソーンヒル楽団以来の付き合いだったアレンジャーのギル・エヴァンスであり、コニッツの持つ独自のトーンをマイルスも気に入った。だが上述のように、マイルスとの共演は短期のものであり、その後もコニッツと黒人ミュージシャンとの共演例は、エルヴィン・ジョーンズ(ds) との傑作『Motion』(1961)での共演などきわめて少数だ。こうして考えると、エルヴィンとの共演盤の演奏とその成功が、当時いかに驚きを持って見られたかがよく分かる。

The New York Album
1987 Soul Note
コニッツは非常に多作のミュージシャンであり、数多くのアルバム(100作を軽く超える)を残している。上記邦訳書の巻末には、私が作成したトリスターノ派ミュージシャンとコニッツの主要作品のディスコグラフィを掲載しており、本ブログでも、2017年5-6月に代表作の紹介と簡単なレビューも記載している(興味のある人は、それらを参照いただければ、コニッツ作品の全体像が把握できると思います)。コニッツがリーダー名義の手持ちLP/CDを数えてみたら、既に50枚を超えているが、それは上記邦訳書の翻訳中に、それまでずっと好んで聴いていた、コニッツの全盛期だった50年代の Prestige, Storyville, Atlantic, Verve 各レーベル時代の代表作に加えて、未聴だった70年代以降のアルバムを集中して聴いたからである。50年代の定番作品はもちろんいずれも良い出来だが、それ以外にも、以下に挙げるトリオやカルテット代表作や、ミシェル・ペトルチアーニ他とのピアノ・デュオ、ストリングスとの共演、ソロ演奏、ボサノヴァなど、長期にわたってかなりバラエティに富む作品を残している。そして、つい最近までダン・テプファー他の若手ミュージシャンを相手に新しいアルバムをリリースするなど、最後まで演奏・創作意欲が衰えなかったのはすごいことだ。

Parallels
with Mark Turner
2000 Chesky Records
4/15のコニッツの訃報を聞いて以来、毎日それらの音源を聴いているが、あらためて私的ベスト盤を挙げれば、やはりアルトサックスによるインプロヴィゼーションの極致とも言うべき「本気のコニッツ」が聞けるアルバムになる。とても70年前の演奏とは思えない斬新さに満ちた、トリスターノとの共演デビュー盤『Subconscious-Lee』(1949/50)、ジェリー・マリガン、チェット・ベイカーとのピアノレス共演盤『Konitz Meets Mulligan』(1953)、60年代のエルヴィン・ジョーンズとのピアノレス・トリオ『Motion』(1961) の3枚がその代表作である。さらに60年代末のマーシャル・ソラール(p) 他のヨーロッパのメンバーとのイタリアでの共演盤『European Episode』(1968)、80年代のハロルド・ダンコ(p) とのカルテット『The New York Album』(1987)、2000年代に入ってからは、ウォーン・マーシュを彷彿とさせるマーク・ターナー(ts) 、ピーター・バーンスタイン(g)との共演盤『Parallels』(2000) などが個人的に好きなアルバムだ。しばらくは、これら名演奏を聴きながらコニッツを偲びたい。

ところで、コニッツに加えて、コロナ騒ぎがなければ今頃観光に行っているはずだった、尾道市ゆかりの大林宣彦監督も亡くなってしまった。元々病気(肺がん)のことは知っていたが、監督の作品も思想も好きだったので、日本人の心根と良心を代表するような人がいなくなると、やはり何だかがっくりする。遺作の公開予定日(コロナで延期された)に亡くなったそうだが、この映画はいずれぜひ観たい。リー・コニッツ氏と大林宣彦監督という、ジャズと映画に、文字通り人生を捧げた二人のアーティストのご冥福を心からお祈りしたい。

2020/04/11

モンクとニカとフランス

セロニアス・モンクとニカ夫人(パノニカ)の物語は、アメリカの天才黒人ミュージシャンと、イギリスのユダヤ系大富豪ロスチャイルド本家出身の男爵夫人が、20世紀アメリカで生まれた新しい音楽ジャズを介して、人種、貧富、地理的制約を超えた不思議な友情を生涯にわたって築いてゆくという、「事実は小説よりも奇なり」を地で行く実話である。活字でノンフィクション・ノベル化もできるだろうし、あるいは、ジャズを愛する映像作家とかコミック作家が、この壮大で不思議な物語を何とかヴィジュアル化してくれないものだろうか……とノンフィクションである『パノニカ』を翻訳中から思っていた。ところが、それをヴィジュアル化したコミックが実際に2018年に登場していた。

ユーセフ・ダウディ Youssef Daoudi というフランス在住の漫画家兼イラストレーター(モロッコ出身らしい)が、モンクとニカ夫人の人生と友情、当時のジャズの世界を、世界で初めて「コミック」として描いたのが、『Monk!: Thelonious, Pannonica, and the Friendship Behind a Musical Revolution』(2018 First Second /US) だ。英語では Graphic Novelと呼ぶらしい「大人向けのストーリー漫画」で、日本の漫画に比べるとセリフが少なく、絵でイメージを表現する傾向が強い抽象的な漫画と言えようか。私が買ったのは英語版の立派なハードカバー製の本で(電子版も、フランス語版もあるようだ)、素人目で見ても、金色を入れた2色刷りの美しくオシャレなコミックで、表紙絵に見るように、モンク独特の動き、ダンスを捉えたアーティスティックな絵もなかなか素晴らしい。海外のコミックと日本のコミックとの画風、作風の本質的違いはよく分からないが、この作品は絵柄が緻密で、大人っぽい。日本のジャズ漫画というと、昔はまずラズウェル細木のジャズマニア系ギャグ漫画があったし、ストーリー漫画としては『坂道のアポロン』(小玉ユキ)、現在も連載中の『Blue Giant』(石塚真一)などがあるが、この『Monk!』のようにグラフィック系の絵柄で、かつノンフィクション・ノベルのように実在のモデルを描いたストーリー系ジャズ漫画はこれまでなかっただろう。

物語は、マンハッタンからリンカーン・トンネルを抜けてウィーホーケンの自邸に向かうニカのクルマ(ベントレー)のカーラジオから、1981年のレーガン大統領暗殺未遂事件のニュースが聞こえてくるシーンから始まる(ニカは60歳代後半、モンクが亡くなる1年前という設定だ)。ニカ邸の自室ベッドで、きちんとスーツを着たまま相変わらず天井を見つめて横たわっているモンクに、帰宅したニカが「ピアノを弾いたら…」と勧める短い会話から、徐々に二人の回想シーンへと移って物語が展開してゆく。私が翻訳した『セロニアス・モンク』、『パノニカ』他のノンフィクション作品で描かれてきた事実や、逸話や、言葉から主要部分を抽出してストーリーとして上手にまとめ、それを詩的な絵と文学的な表現でヴィジュアル化している。したがって個人的には既視感と共に、伝記による活字の記憶と絵が一体となって、イメージしていたモンクやニカ夫人の姿が立ち現れ、あたかも実際に動き出したような気がして、読んでいて非常に楽しかった(ただしセリフは短いが英語なので、微妙な意味は翻訳しないと分からないが)。人間モンクとパノニカの苦悩、二人の友情も抽象的ながらよく表現されていると思う。またニューヨークの風景や、ジャズクラブの喧騒、ミュージシャンたちの姿と表情、演奏しているサウンド……など、画面からジャズがそのまま聞こえてくるようなリアルな描写も素晴らしい(このへんは、先輩格の『Blue Giant』の画風の影響もあるのか?)

Solo on Vogue
1954 Paris
アメリカでなかなか売れずに苦労していたセロニアス・モンクが、ヨーロッパ・デビューしたのが36歳のとき、1954年6月のパリ・ジャズ祭だった。フランス人男爵で外交官の夫と、その当時離婚を考えていたニカ夫人は、そのときニューヨークを離れ、実家のあるイギリスに帰省中だった。1951年に、兄ヴィクターのピアノの先生だったテディ・ウィルソンから教えられ、衝撃を受けた<Round Midnight>を作曲し、ブルーノートに録音した男セロニアス・モンクに一目会いたいと、ニカはニューヨーク中のジャズクラブを探したが、キャバレーカードを剥奪され、クラブ出演できなかったモンクに、それまで一度も会えないでいた。パリの「サル・プレイエル」にモンクが初出演することを知ったニカは、友人の著名な女性ジャズ・ピアニストで、モンクとも親しかったメアリ・ルー・ウィリアムズと一緒に急遽ロンドンからパリに飛ぶ。メアリ・ルーを介した、この1954年のパリにおける二人の運命的な出会いをきっかけにして、以降ニカ夫人は1982年にモンクが亡くなるまで、彼を支援し続けることになる。このとき、モンクのファンだったフランス人プロデューサーのシャルル・ドロネー (1911-88) が、フランス放送協会のラジオ番組向けに急遽現地録音したソロ演奏が、後にリリースされたモンク初のソロ・アルバムにして名盤『Solo on Vogue』である。ドロネーはその後も、モンク作品を中心にしたレコードをバルネ・ウィラン(ts)を使って制作するなど、モンクの音楽を好んでいた。

フランスとジャズの結びつきはニューオーリンズ植民地時代以来の歴史的なものである。1950年代になると、シドニー・ベシェ、ケニー・クラーク、デクスター・ゴードン、バド・パウエルなどが、人種差別の激しいニューヨークを離れて、彼らを芸術家として遇してくれるパリに次々と移住する。その後ヌーベルバーグと呼ばれた斬新な手法のフランス映画が、ジャズをサウンドトラックとして使用するようになり、MJQ、マイルス・デイヴィス、アート・ブレイキー、そしてモンク(1959『危険な関係』)も広く知られるようになる。さらに、シドニー・ベシェに憧れてソプラノサックス奏者となり、モンクの音楽を徹底的に研究して全曲モンク作品のアルバム『Reflections』(1959) を録音し、ついにニカ夫人の推薦でモンクのグループに一時期在籍していたのがスティーヴ・レイシー Steve Lacy (1934-2004) である。フリー・ジャズ時代の1965年に、米国を離れてヨーロッパへと向かったレイシーは、1970年にパリに移住すると、そのまま30年以上にわたってパリに住み続け、その間モンク作品を何度も取り上げた。このように、ジャズ全体とフランスの関係はもちろんのこと、モンクとフランスも歴史的、音楽的、運命的に奇妙に深いつながりがある。そして、上記のコミックや、以下の伝記、レコードのように、その後もモンクとフランスの不思議な関係は続くのである。

セロニアス・モンク
ローラン・ド・ウィルド
1997 音楽之友
謎多きモンクを描いた最初の評伝は、1987年のドイツ人批評家トーマス・フィッタリングのドイツ語版の本(英語版は1997年)である(ただし、この本の半分はモンクのレコード評だ)。次に出版されたのがフランス人ジャズ・ピアニスト、ローラン・ド・ウィルド Laurent de Wilde (1960-) による、フランス語版の『MONK』(1996 L'Arpenteur /Gallimard)である。ド・ウィルドは、米国のワシントンDCで生まれたフランス人で、幼少時からフランスで育ち、パリの名門高等師範学校で哲学、文学を専攻して卒業した後、米仏を行き来しながらジャズ・ピアニスト、作曲家として演奏活動を行なってきたミュージシャンだ。そのド・ウィルドが崇拝するモンクを描いたこの本は、パリのカフェ「ドゥ・マゴ Les Deux Magots」主催の音楽書籍賞である第1回ペレアス賞を受賞し、多言語に翻訳されている(邦訳版は『セロニアス・モンク:沈黙のピアニズム』1997年 音楽之友社/水野雅司訳)。本国アメリカ人による英語版評伝は、1997年に女性伝記作家レスリー・ゴースが書いた『Straight, No Chaser』が最初だが、英語版の決定版というべき本は、歴史学者ロビン・ケリーによるモンク伝記『Thelonious Monk』(2009年) である。この本は、膨大な事例や史料を学者らしく一つ一つ検証し、それらをジグソーパズルのパーツのように埋め込みながら、人間モンクとその生涯、彼を支えた周囲の人たちを、アメリカ黒人史を背景とした大きな物語として描いた典型的な伝記だ。それに対して、音楽家モンクを「100年に1人の天才」と呼ぶド・ウィルドの作品は伝記的部分を織り込みながらも、モンク・フリークのジャズ・ピアニストである著者が、主として芸術的、技術的、美学的視点から観察、分析したモンクの天才性を、賞賛を込めて描いた「私的モンク論」というべき内容の本だ。

モンクの「音楽」をここまで詳細に語った本は他にないと思われるが、本書(邦訳版)は絶版なので、私が読んだのは中古本を入手したつい最近のことである。フランス語的表現のゆえか、あるいは著者の原文の特徴のせいなのか、少し直訳的な硬い表現、文章ではあるものの、ジャズの演奏、技術、魅力を伝える独特の文学的筆致には、対象に近接したマクロ写真を見るように細部を浮かび上がらせる不思議な味わいがある。伝記としてモンクの全体像を本書に求めるのは無理があるが、ジャズ音楽家としてのモンクの天才性と、彼が創出した独創的音楽の「本当のすごさ」が具体的に伝わってくる緻密な表現は、モンクを敬愛するジャズ・ピアニストなればこそだろう(上記コミック『Monk!』にも、ド・ウィルドが分析したモンクのピアノ奏法の特色と思われる部分が登場している)。読んでいると、斬新ないくつかのモンク解釈に加え、ド素人的にも著者の考えに同意できること、頷ける点がたくさんあって、たぶんそうだろうと思っていたモンクのすごさとその美点が、ジャズ・ピアニストによる詳細な説明で再確認できる。したがってジャズをよく知り、モンクの音楽が好きな人にとっては非常に楽しめる本だ。ロビン・ケリーの実証的モンク伝記と併せて読むと、人間モンクの芸術家としてのイメージがより立体的に浮かび上がる。

New Monk Trio
Laurent de Wilde
2017 GAZEBO
ローラン・ド・ウィルドは、エレクトリック・ピアノによる演奏を含めて、これまでモンク作品を何曲か取り上げてきたが、崇拝するモンク作品の扱いにはずっと慎重だったようだ。しかし自著出版から20年、モンク生誕100年を記念する2017年に、モンク作品だけ(1曲のみ自作)を選んで制作したトリビュート・アルバム『New Monk Trio』をようやくリリースした。Jérôme Regard (b)、Donald Kontomanou (ds)というピアノ・トリオでは、全曲アコースティック・ピアノで以下のモンク作品に挑戦している。スローからアップテンポまで、バラエティに富む選曲だが、モンク作品らしく全体に空間を生かしたモダンな解釈で、やはりどこかフランス的香りのするエレガントな演奏を披露している。
Misterioso /'Round Midnight /Monk's Mood /Thelonious /Pannonica /True Fort /Monk's Mix /Four In One /Reflection /Coming On The Hudson /Locomotive /Friday The 13th

モンク、ニカ夫人とフランスの関係、そしてモンクに対して示してきた「フランス語圏」からの関心とその表現をこうして並べてみると、モンクは、ニューヨークはもちろんだが、背景としてのパリが誰よりもよく似合うジャズマンだという気がする。完璧な構造なのに、全体の造形がどことなく歪んで見え、予期せぬハーモニーや不思議なリズムで構成された「当たり前でない」モンクの音楽、モンクの自由、モンクの美は、アメリカよりも、むしろフランス的美意識、フランス的価値観こそが真に理解し、愛することができる世界なのかもしれない。