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2019/01/20

訳書 『パノニカ ジャズ男爵夫人の謎を追う』 出版

表題邦訳書が、2月下旬に「月曜社」から出版されます。

本書は、イギリスの大富豪ロスチャイルド家の出身で、20世紀半ばのアメリカ・ジャズ界の伝説的パトロンとして、またセロニアス・モンクの個人的パトロンだったことでも知られる、“ニカ・ド・コーニグズウォーター男爵夫人”(Baroness Nica de Koenigswarter 1913-1988、以下ニカ夫人)の生涯と実像を描いたノンフィクション作品です。前訳書「リー・コニッツ」、「セロニアス・モンク」は、片や芸術哲学、片や米国史を専門とする英米の大学教授が、これまであまり語られてこなかったジャズ・ミュージシャンの人生と音楽思想を描いた多少アカデミックな内容のノンフィクション作品でしたが、本書は、ドキュメンタリー映像作家で、ニカ夫人の実家イギリス・ロスチャイルド家の一員でもある著者が、大叔母にあたるニカ夫人の数奇な生涯を、親族ならではの近接した視点で愛情を込めて描いた、驚きとロマンの物語と言えます。

原書『The Baroness; The search for Nica, the rebellious Rothschild』の著者ハナ・ロスチャイルド(Hannah Rothschild 1962-)は、ニカ夫人の実兄でイギリス第3代ロスチャイルド男爵ヴィクター・ロスチャイルド氏の孫、氏の長男で第4代現ロスチャイルド男爵ジェイコブ・ロスチャイルド氏の長女です。オックスフォード大学を卒業後BBCに勤務し、主にドキュメンタリー映画の制作を手がけ、その後ロスチャイルド家関係の仕事や慈善活動に従事し、2015年からはロンドン・ナショナル・ギャラリー(国立絵画館)初の女性理事長を務めています。ロスチャイルド家の一員ではあったものの、同家においては異端児とも言うべきこの大叔母の存在すら知らなかった著者が、20代の初めに知ったニカ夫人に強い興味を抱き、1984年にニューヨークまで出かけて初めて本人と会い、親族として交流を始めます。しかし、そのニカ夫人が1988年に74歳で急死してしまいます。その後、この大叔母の生涯と謎を追い続けようと決心した著者は、BBCに入社後、ついにニカ夫人を題材にしたラジオ番組とドキュメンタリー映画を制作します。両作品ともに『The Jazz Baroness (ジャズ男爵夫人)』(2008年)というタイトルで、後者はBBCHBO(米)両局で放映され、また世界各地の映画祭などでも上映されてきました。そして、その間に続けた通算20年以上にわたるニカ夫人に関する調査と探求の総決算として、2012年にノンフィクション書籍として本書をイギリスで発表したものです。

ニカ夫人(旧姓名:キャスリーン・アニー・パノニカ・ロスチャイルド Kathleen Annie Pannonica Rothschild)は、セロニアス・モンクが作曲した〈パノニカ〉を筆頭に、ジャズ・ミュージシャンたちから彼女に捧げられた数多くのジャズ曲タイトル中の "ニカ Nica" として、あるいはジャズ界の大パトロン "ニカ男爵夫人" として、ジャズ関係者やジャズファンならその名を知らぬ人はいないほどの伝説的人物です。しかし、ニカ夫人の話を元にして、クリント・イーストウッド監督が映画『バード』(1988年)でも描いた、スタンホープ・ホテル自室でのチャーリー・パーカー変死事件 (1955年) のスキャンダルに象徴されるように、20世紀半ばのアメリカ・ジャズ界に常に影のように登場する "謎のパトロン" というイメージが強く、また一族の秘密を厳守するというロスチャイルド家の家訓もあり、これまで日本はおろかアメリカでも、その人物像の詳細が語られたことはありませんでした。私も自分で翻訳したロビン・ケリーのモンク伝記を読むまで詳しいことはまったく知りませんでしたが、同書で触れている1954年のパリにおける、セロニアス・モンクとの運命的出会い以前のニカ夫人の経歴と、その後のジャズ界、特にモンク個人との深いつながりを知って、その謎めいた背景や人物像をもっと詳しく知りたいという強い興味が湧いて来ました。そこでロスチャイルド家出身とされていたニカ夫人と血縁関係にある著者が、ロビン・ケリーのモンク伝記の3年後に出版した原書を読んでみることにしました。それが本邦訳書出版のきっかけです。

The Jazz Baroness(ジャズ男爵夫人)』というラジオ番組や映画のタイトルから "Jazz" をはずして原書を『The Baroness』と名付けたように、本書では、ジャズ側からではなく、あくまでニカ夫人側の視点に立って、彼女の人生と人物像、そしてジャズとモンクとの関係を描こうとしています。ロスチャイルド家という、ドイツを祖とするユダヤ系イギリス人大富豪の令嬢として1913年に生まれ、3人の兄姉と共に大邸宅で育ち、イギリス上流階級の世界で生き、フランス人男爵と結婚してフランスの豪壮な城に住み、その後ナチスのホロコーストからかろうじて逃れ、第2次世界大戦中はド・ゴール将軍の自由フランス軍に自ら志願して夫と共にアフリカ、ヨーロッパ戦線で従軍し、叙勲され、戦後は外交官夫人として家族と共にノルウェーとメキシコに赴任する――という、文字通り世界を股にかけたコスモポリタンとして波乱の半生をニカ夫人は送っていました。しかし大戦中の1943年にニューヨークで聴いた、デューク・エリントン楽団のジャズ・シンフォニー『ブラック・ブラウン・アンド・ベージュ Black, Brown and Beige』の中に、ジャズの世界へ向かえという "神のお告げ" を聞き取ります。さらに外交官夫人としてメキシコに住んでいた戦後間もないあるとき、兄ヴィクターとも親しかったピアニスト、テディ・ウィルソンの勧めで聴いたセロニアス・モンクの演奏するSPレコード『ラウンド・ミッドナイト ‘Round Midnight』に深い感銘を受け、その後1951年に、それまでの生活すべてを投げ捨てて単身ニューヨークへと向かい、そのままそこで、ジャズという音楽、そしてセロニアス・モンクに残りの人生のすべてを捧げることになります。

名門一族の伝統と強い磁場から逃れ、自分なりの生き方を見つけたいと悩んでいた当時20代初めの著者には、大叔母ニカ夫人のこの型破りの人生が、一つの解答を与えてくれるように思えました。ロスチャイルド家という大富豪のイギリス分家の女性の一人だったニカ夫人が、なにゆえに自分の一族も、国も、ステータスも、結婚生活も、家庭も突然棄てて、モダン・ジャズ全盛時代のニューヨークに単身で渡り、ジャズに魂を奪われ、ジャズ・ミユージシャンたちを支援し、とりわけセロニアス・モンクにその後の人生の大半を捧げることになったのか――本書はその疑問と謎を、大叔母ニカ夫人と同じく、徹底した男系一族であるロスチャイルド家の女性という特異な立場にいる著者が、長い時間を費やして追った物語です。とりわけ、ヨーロッパの国家や君主を対象としたユダヤ人銀行家としてのロスチャイルド家の苦難の歴史、イギリス上流階級における一族の暮らし、内情や秘密、ニカ夫人の生い立ちと経歴などを描いた前半部分は、同家内部の人間にしか書けない、ある意味で非常に新鮮かつスリリングなノンフィクション読み物となっています。そして著者は、ニカ夫人がその世界を捨てて、ニューヨークとジャズに向かった手がかりをそこに見出そうとします。

本書はノンフィクション作品ではありますが、ロスチャイルド家を巡る歴史や逸話、ニカ夫人の驚きの経歴とジャズ、そしてモンクとの運命的な出会い、ニューヨークにおけるジャズ・ミュージシャンたちとの交流や暮らしぶり、最後の日々までモンクを支え続けた彼女の愛と献身......など、その信じ難い物語と途方もないスケールから、いわばジャズを巡る20世紀のファンタジーとして読むこともできます。著者も単なる風変わりな親族の伝記ではなく、そうした視点と深い思い入れを込めてこの本を書いています。究極のジャズ・ノンフィクションとも言えるロビン・ケリーのモンク伝記も「事実は小説より奇なり」を地で行く波乱の物語ですが、本書のニカ夫人の物語には、それを遥かに超えたスケールと破天荒さがあり、同時に、モンクがそうであったように、"自由" を求め続けた人間だけが放つ不思議なロマンが漂っています。

富豪一族や個人の大パトロンが芸術と芸術家を支援するというヨーロッパ古来の文化的伝統が、二十世紀半ばのアメリカにおけるジャズ界の背後にも存在したという事実、大富豪の末裔ニカ夫人のまさに破天荒で、常に自由を求める精神と博愛主義に満ちた波乱の生涯、そして天才セロニアス・モンクへ捧げた尽きることのない無償の愛――それらを描いた壮大なノンフィクションとして、本書はジャズファン以外の人が読んでも十分に楽しめる物語ではないかと思います。

     以下は、訳書 『パノニカ ー ジャズ男爵夫人の謎を追う』全24章のタイトルです。

もう一人の妹 蚤の女王 ハンガリーの薔薇 宝石の鳥籠 長く暗い牢獄 ロスチャイルド家の人々 蝶と憂鬱 社交界デビュー 最高司令官 フランスの女城主 / 嵐の時代 戦場の女 外交官の妻 神のお告げ ニューヨーク 孤独のモンク ネリーとニカ バードの死 パノニカ 奇妙な果実 差別と闘う 狂気の人 最後の日々 ラウンド・ミッドナイト