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2021/01/29

年末に聴く「永遠の嘘をついてくれ」

私はジャズ好きだが、ジャズしか聴かないゴリゴリのジャズファンというわけではない(今どき、そんな人がいるかどうかは知らないが)。昔からボサノヴァやシャンソン、クラシック音楽はもちろん、日本のフォークもJ-ポップも演歌も歌謡曲も自分が良いと思った音楽なら何でも聴いてきた。昔から椎名林檎のファンだったし、最近は米津玄師とかあいみょんもたまに聴く。良い音楽にジャンルも時代も関係ないからだ。最近の印象は、カラオケ文化のおかげで、どの歌手もみんな歌がうまいのと、たぶんアニソンの影響だろうが、全体的に感情を露わにする「絶叫型」の歌唱が増えたように思う。ロック系を除くと、日本人の歌い手は伝統的にあの種の唄い方はしていなかったような気がする。何だか、みんな何かを訴えかけるように、大声で叫んでいる歌ばかりのように聞こえるが、気のせいか。

つま恋 2006
youtube.com
例年、年末になると、なぜか昔聴いた演歌とか歌謡曲をずっとYouTubeで見聞きするのが恒例なのだが、コロナのせいかどうか分からないが、昨年末はどうもそういう気分にならなかった。代わりに聴いていたのが吉田拓郎、浜田省吾、中島みゆき…といった普段ほとんど聞いたことのないミュージシャン、つまり同世代のフォーク系ミュージシャンというべき人たちだった。きっかけは、たまたまYouTubeで吉田拓郎と中島みゆきの「2006年つま恋」での伝説的な歌と映像を、久しぶりにテレビ画面で見たことからだった。YouTubeというのは、こうして昔聴いた人たちが突然画面に現れて、それに引きずられるように、ずるずると芋づる式にその時代の歌や歌手をあれこれ思い出しては続けて聴いてしまう、というタイムスリップ起動作用がある。コロナ禍でもなければ、たぶんみんな我慢できずにカラオケ店へと急ぐことだろう。

2006年9月23日の「つま恋」野外コンサートは、1975年の「拓郎・かぐや姫」以来、31年ぶりのジョイント・コンサートとあって、3万5千人の中高年(!)が大挙してつめかけたという。3万5千人の中高年大集合という絵柄も想像を絶するが、そういえば1970年代という時代には、今と違って、若者はみんなで一緒に「同じ音楽」を聴いていたような気がするなあ、としみじみ思いだす(もちろん私のようにそうでない人間もいたが)。そして、同じ1975年に「つま恋」で行なわれた第10回のヤマハ・ポプコンで、「時代」を唄ってグランプリを獲得したのが中島みゆきだ。その同窓会的コンサートに、事前予告なしに中島みゆきが突如客演し、吉田拓郎と1曲だけ共演したのが「永遠の嘘をついてくれ」(中島みゆきが作詞・作曲して拓郎に提供した曲)で、その映像と歌を初めてテレビで見たときには、会場の異様な盛り上がりと共に、とにかくその歌と演奏の素晴らしさに完全にノックアウトされた。放映後の世の中の反応からも、いかに多くの人(中高年?)がこの演奏を見て、聴いて圧倒されたり、感動したのかが分かる。私のような取り立ててファンでもない人間が見てもそう感じたのだから、この音楽パフォーマンスには並外れたインパクトがあったということだろう。

Forever Young
私が見たYouTubeの画質があまりにひどかったので、ネットでDVD情報を調べてみたら、確か当初はかなり高額で販売されていた2枚組Blu-rayディスク『Forever Young』(すごいタイトルだ…) が、Amazon特価でだいぶ安くなっていたので、正月だし、この際だから(?)と購入した。さすがにこちらは、美しい映像と音声を安心して最後まで楽しめるので、こうした音楽が好きな人にはお勧めだ。スマホやPCで見るYouTubeも結構だが、素晴らしい音楽や演奏は、きちんとしたソースを、きちんとした装置で再生すると、楽しみや感動が何倍にもなって味わえる。自宅のテレビとオーディオシステムで再生したこのBDの映像と音声では、まず拓郎のソロによるサビのワンコーラスに続き、バンドのイントロが始まって少しすると、薄暗いステージの左手奥から、白いシャツと青いジーンズ姿の中島みゆきが、ゆっくりと、かつ颯爽と登場し、スポットライトが彼女を照らし出す。それに気づいた聴衆の数が徐々に増えていって、「ウォー!」という驚いたようなどよめきが会場全体に段々と広がってゆく。そしてマイクに向かった中島みゆきが、3万人を超える大観衆を前にして、まさに巫女的としか言いようのない強烈なオーラを全身から発しながら前半部を堂々と唄う。それに負けじと吉田拓郎が、完全に自分の持ち歌として男らしくパワフルに後半部を唄い切り、続く二人のハモリでエンディング…と、息もつかせずに聴衆を一気に引き込む両者の魅力はまさに圧倒的だ。そして、歌い終わった中島みゆきが、拓郎と、まだ演奏を続けているバンドに一礼して舞台から去ってゆく後ろ姿はまさに千両役者で、思わず声を上げたくなるほどだ。

このBDには「南こうせつとかぐや姫」やかまやつひろし等、他のメンバーの歌や演奏も収められており、吉田拓郎が唄う他のヒット曲ももちろん収録されているが、映像を見ていると、この日の他の出演者も、歌も、何もかもが、同夜の拓郎・みゆきのこの1曲、特に中島みゆきの登場で完全にかすんでしまったかのように見える(もちろん好みの問題もあるので、そう思わない人もいるだろうが)。バックバンドもバックコーラスも、会場の聴衆も、彼ら二人と完全に一体となったこの演奏には、聴く者を高揚させ感動させる強力な何かがあり、何度見ても聴いても素晴らしい。しかもこの曲が1970年代懐メロではなく、中島みゆきの1995年の作品であるところも、様々な解釈を呼んだ謎めいたタイトルも、歌詞も、印象的なメロディも、すべてが実に興味深い。そこから二人の関係をあれこれ憶測する説も飛び交ったりしていたのも、聴いた人たちの想像力(妄想力?)を否応なく喚起する並外れたパワーがこの演奏にあったという証だろう。そして、そのパワーの源の一つと考えられるのは、2006年当時、吉田拓郎は90年代後半のキンキキッズのテレビ番組出演、中島みゆきは2000年のNHKの「地上の星」の大ヒット等で、二人ともミュージシャンとして再び全国的脚光を浴びた時期を経て、おそらく精神的にも非常に充実していたことだろう。

ジャズもそうだが、素晴らしい演奏を聴いていると、この奏者はなぜこういうサウンドの音楽を作り、こういう演奏をするのだろうか――と、私はすぐに演奏の背後にあるそのミュージシャンの思想や人生に興味を引かれ、人間としてのミュージシャンのことをもっと深く知りたくなる。だから、魅力的な音楽だけが持っている、聴く人間のインスピレーションを強烈に刺激する力の存在はよく分かる。藤圭子が唄った「みだれ髪」の短い傑作テレビ映像も、その種の想像を呼び起こされた体験だったが、そのとき、その場でしか聴けない音楽ライヴでは、時として聴き手がまったく予期しない一期一会の劇的パフォーマンスが現出することがある。「つま恋」におけるこの曲も、まさしく奇跡の1曲、永遠の1曲だ。

中島みゆきがステージを去った後もしばらく続いたバンドの演奏がようやく終わり、まだ興奮冷めやらぬ聴衆を前にして、共演してくれた中島みゆきに感謝する弁を述べつつ、吉田拓郎が「驚いたね…(共演してくれた、かまやつひろしも、中島みゆきもいい人たちだが)二人とも歳を経てきたからいい人になったんだよね。若いころはイヤな奴だったんだ、きっと…」とコメントしたのも、(たぶん本音と思うが)何度聞いても結構笑える。素晴らしい演奏の直後に、こういうコメントをする吉田拓郎という人物にも妙に感心するし、出演したミュージシャンたちそれぞれの人間性や、過去からの彼らの人間関係も透けて見えてくるようなコメントで、そこから様々な想像もできて非常に面白い。その後ラジオ番組で、後日談として吉田拓郎が「あの時は自分のステージだったのに、完全にみゆきに持っていかれた」と発言していたのも本音と思え、おかしかった。実際に当日はリハもなく、中島みゆきの衣装や登場のタイミングなども、打ち合わせなしだったので、舞台にいた拓郎も不意をつかれたようで本当に驚いたらしい。すべてきっちり演出した舞台かと思っていたのだが、中島みゆきが仕組んだ演劇的サプライズもあったたわけで、ミュージシャンという人種は、どんなに親しい間柄でも、舞台の上ではやはり互いにライバルなのだと思った。

イメージの詩
浜田省吾
中島みゆきの個性の強い歌も、以前はほとんど聴かなかったのだが、当時このステージ映像を見てからベスト盤CDを買ったり、ときどき聴くようになった。ユーミンの音楽世界が全体として映画的で、ソフトな物語なら、中島みゆきの曲と歌詞はまさに演劇的で、暗く奥深い。吉田拓郎と同じく、どの曲もあっさりしたおしゃれ系ではなく、人の心の中にずいずいと裸足で侵入してくるような独特の力強さがあり、歌詞も含めてこの種の音楽が好きな人には、やはりたまらない魅力があるのだろう。心に響くようなエールを送る歌が得意なところも同じで、「ファイト!」も中島みゆき作で拓郎が唄った曲だが、やはりよく似合っている。年末はYouTubeの再生につられて、吉田拓郎のバックバンドにいた浜田省吾もずっと聴いていた。拓郎と同じ男性的歌唱が魅力のミュージシャンで、二人とも男っぽいバラードの歌唱が素晴らしいと思うが、浜田省吾の歌にはブルース的というか、常にそこはかとない哀愁がある。拓郎作の「イメージの詩」などはまさしく本家取のようで、この曲を歌う浜田省吾の哀愁の滲む男性的な歌唱は、私的には拓郎よりも素晴らしいと思うくらいで、私はこの歌と浜田省吾の声が大好きだ。

普段はあまり聞かない、こうしたどちらかといえば男臭い、あるいは素朴でパワフルなミュージシャンのヴォーカルが、昨年末にかぎって急に聴きたくなったのは、やはり演歌や歌謡曲と同じく、年の終わりに感じる過去への無意識の郷愁のなせるわざなのか、それとも、鬱々としたコロナ禍の世界に負けまいとするパワフルな歌への、これも無意識の共感というべきものなのだろうか。あるいは単に、スティーヴ・レイシーの抽象度の高い複雑な音楽を、翻訳作業中、ここしばらくの間ずっと聴き続けていた反動なのか。

2021/01/16

スティーヴ・レイシーを聴く #4

スティーヴ・レイシーが1965年に30歳で米国を離れるまでに正式録音したレコードはたった4枚だったが、ヨーロッパに移住後の30年余に、合計で150枚を超えるレコード数に膨らんだ。晩年多作になったのはリー・コニッツも同じで、またそれらレコーディングの大多数はヨーロッパ吹き込みという点も同じだ。レイシーもコニッツも、スナップショットのように、その時点における演奏記録をレコードに残し続けることで、自身の音楽の進化を確認する作業を続けた。それを可能にしたのは、大量販売を優先する米国流商業主義とはレコード文化の異なるヨーロッパのインディレーベルの存在で、フランスのSaravahやOwl、イタリアのSoul Note、スイスのHatology(Hat Hut) などのレーベルが、彼らのような先進的アーティストの挑戦と創造意欲を実質的に支えていたと言えるだろう。その時代のレイシーのレコードを紹介できるほどの知識も経験も私にはないが、翻訳中に探して初めて聴いたCDの中から、私なりに印象に残ったものを以下に何枚か挙げてみたい(だが『Scratching…』 を除くと、結局は80年代以降にレイシーが自身のバンドで目指した独自の音楽(art song/lit-jazz) 系よりも、自分好みの雰囲気を持ったジャズ寄りのレコードばかりになってしまったが…)。

本書#27で書かれているように、『Scratching the Seventies/Dreams』(1997) は、1970年にローマから妻のイレーヌ・エイビと共にパリに移住したレイシーが、フランスのSaravahレーベルから当時リリースした5枚のLPレコードを(20年後にレイシーがレギュラー・セクステットを解散した後に)、同レーベルが再発した3枚組CDだ。ほとんどがレイシー作品からなるその5枚のLPとは、『Roba』(1969)、『Lapis』(1971)、『Scraps』(1974)、『Dreams』(1975)、『The Owl』(1977) であり、『Roba』はイタリア、それ以外はパリ移住後の録音である。『Roba』とソロ『Lapis』以外は、イレーヌ・エイビ(vo, vln)とスティーヴ・ポッツ(as, ss) などによるレギュラーバンドによるもので、詩人ブライオン・ガイシンBrion Gysin (1916- 86)との共作『Dreams』にはデレク・ベイリーがギターで、また『The Owl』には加古隆がピアノで参加している。私が入手したこの3枚組CDには立派なブックレットが入っているが、それが本書#27のエチエンヌ・ブリュネによるインタビュー(1996) のオリジナル・フランス語版だ。その中で、これらのレコードで演奏している各曲の内容、意図、背景について、レイシー自身が詳しく解説している(レイシーの音楽思想を知る上で、非常に興味深いコメントが聞ける)。

これらは、いずれも60年代フリー・ジャズを通過した後の音楽(post-free)を追及していた時代の作品で、中でも間章も気に入ったソロ『Lapis』(1971)は評価の高いレコードだった。レイシー的には、1975年のブライオン・ガイシンとの共作『Dreams』が、その時代の最高作だったと言っている。このCD版のタイトル “scratching” とは、いろいろな意味のある英語で、DJ用語にあるように基本は「引っ掻く」という意味だが、「苦労して金をかき集める」とか「何とか生計をたてる」という意味もあって、1970年代前半のパリで、レイシーが新たな音楽を模索して苦闘していた時代を象徴する言葉なのだ。半世紀前のこうした実験的音楽を鑑賞し、楽しむセンスは残念ながら今の私にはないが、本書を読みながらじっくりと聴いてみると、あの混沌としつつも活力が満ちていた時代に、ヨーロッパの片隅で彼らが創造しようとしていた音楽と、その挑戦を支えていた気概や精神は確かに伝わってくる。

1975年に初来日したレイシーは、招聘した間章のプロデュースで富樫雅彦、吉沢元治、佐藤允彦たちと国内のコンサート・ツアーを行い、何枚か録音を残した(『Stalks』他)。特に、事故で下半身の動きは失ったものの、当時は復帰して本格的活動を再開し、『Spiritual Nature』等の新作が好評だった富樫雅彦(1940-2007) との、その後も続いた音楽的交流は本書に書かれている通りだ。1979年にパリに渡って公演し、ドン・チェリーや加古隆たちと現地録音した富樫が、1981年にレイシーと日本で録音したキング盤『Spiritual Moments』(富樫作の3曲とレイシー作2曲) では、当時レイシー・バンドにいたケント・カーター(b)とのトリオによる研ぎ澄まされた演奏が聴ける。モンク伝来の「余計なものは削ぎ落とす」ことを信条とし、スペースを重視するレイシーの美意識と、少ない音数で見事に空間を造形する富樫のパーカッションは、基本的に音楽的相性が良いのだと思う。3人で並んで写っているジャケット写真も貴重で、楽しそうな雰囲気が印象に残る。1986年にはレイシー、ケント・カーターにドン・チェリー(tp) も加わった『Bura Bura』 、1991年にはレイシー、富樫のデュオ『Eternal Duo』、その後も2000年には深谷エッグファームでレイシー、富樫に高橋悠治(p)というトリオでも録音するなど、2004年にレイシーが亡くなるまで交流は続き、その間二人は数多くの貴重な録音を残した。

レイシーとピアニストのマル・ウォルドロンMal Waldron(1925-2002)は、50年代半ばから交流があり、1958年のモンク作品集『Reflections』で初共演して以来の盟友ともいえる間柄で、レイシー同様ウォルドロンも60年代半ばにヨーロッパへ移住し、移住後も二人は様々な機会に共演を重ね、特に80年代には数多く共演した。パーカッシブで厚く重い低域を持ったウォルドロンのピアノは、明らかにモンクの影響を感じさせ、またレイシーが言うように、50年代後半のビリー・ホリデイの歌伴時代から伴奏の名人として知られていた。ジャッキー・マクリーンと共にビリー・ホリデイを偲んだ『Left Alone』(1959 Bethlehem) や、ソロ・アルバム『All Alone』(1966 GTA) など、1970年代になると日本でも独特の陰影のあるピアニズムが支持されて人気を博し、何度も来日し、日本人の奥さんと結婚するなど、ジャズ界きっての日本通だった。しかしウォルドロンは、実は当時の日本のジャズファンが抱いていた一般的イメージとは異なる、急進的側面も併せ持ったピアニストでもあった。アムステルダムのコンサートホール (旧) 「Bimhuis」でライヴ録音された二人のデュオ『At the Bimhuis 1982』(Daybreak) は、2006年になって初めてCD化された未発表音源だ。その4年前の1978年に急逝した間章に捧げた曲が冒頭の〈Blues for Aïda〉で、日本通のウォルドロンと、日本文化をリスペクトしていたレイシーの二人による、深い日本的エキゾチスム(尺八風)を感じさせるデュオ演奏が聞ける(清水俊彦氏によれば、『万葉集』の悲歌をモチーフにした曲だという)。ウォルドロンの前衛的自作曲〈Snake Out〉、モンクの代表作3曲(Reflections, Round Midnight, Epistrophy) も含めて、レイシーの美しいソプラノの背後から聞こえる、ウォルドロン節ともいえる低域のリフは、オールド・ジャズファンにはどこか懐かしいサウンドでもある。長い交流を背景にした二人の、ぴたりと息の合った素晴らしいデュオ・アルバムだ。

1980年代のレイシーのレコードで、日本のジャズファンにいちばんよく知られているのは、ギル・エヴァンスGil Evans (1912-88) 最後の録音となった、二人のデュオ作品『Paris Blues』(Owl) だろう。1987年12月の本録音の3ヶ月後(88年3月)にエヴァンスは亡くなった。1950年代半ばに『Gil Evans & Ten』で、レイシーとソプラノサックスを実質的にジャズ界にデビューさせた恩人がエヴァンスであり、二人はその後30年にわたって親しく交流を続けていた。二人には共通のサウンド嗜好があったように思えるし、またエヴァンスはレイシーのソプラノ・サウンドを本当に気に入っていたのだろう。ここでは二人の自作曲とエリントン、ミンガスの作品を選び、あまり耳にできないエヴァンスの弾くピアノ(エレピも)演奏が聴ける。二人が歩んできた人生を振り返るように語る、レイシーのソプラノとエヴァンスのピアノのサウンドが空間で美しく溶け合っている。

ピアニストで作曲家のラン・ブレイクRan Blake (1935-)は、大学を卒業したばかりの若い時に、自らセロニアス・モンク家に出入りしていたほどモンクとその音楽に傾倒していた。ネリー夫人が忙しいときには、まだ幼かったモンク家の二人の兄妹(TootとBarbara)の面倒を見ていたし、モンクの死後、若くして病気で亡くなったそのBarbaraを追悼するアルバムも制作した。ブレイクはジャズ演奏家であると同時に、サード・ストリームを主導した作曲家ガンサー・シュラーたちとの長い音楽的交流もあり、また教育者としてニューイングランド音楽院で長年教鞭をとってきたインテリでもある。だからスティーヴ・レイシーとの接点も共通点も当然あったことだろう。『That Certain Feeling-George Gershwin Songbook』(1990 Hatology)は、そのブレイクのピアノと、レイシーのソプラノ、リッキー・フォードRicky Ford (1954-) のテナーサックス2管による、ジョージ・ガーシュインの名曲をカバーしたアルバムだ。ソロ、デュオ、トリオと、どの曲も深く沈潜する知的で陰影に満ちた演奏だが、特にレイシーとの『The Man I Love』は、透徹した究極のクールサウンドが実に味わい深い素晴らしいデュオだ。翌年ブレイクは、全曲モンク作品を演奏したピアノ・ソロアルバム『Epistrophy』(1991 Soul Note)をリリースしている。

最後に、レイシーの共同制作者で1986年に亡くなった詩人のブライオン・ガイシンを追悼すべく、同年12月にパリで行なわれた3日間のコンサートの模様をプライベート録画し、4篇に編集してYouTubeにアップした映像を、著者のJason Weiss氏が送ってきたので、以下にそのリンクをはっておく。いずれも本書に登場するガイシン作品をフィーチャーしたステージだ。レイシーのソプラノ、イレーヌ・エイビの歌、JaosnWeissたちが一緒に歌っている模様、特に#4では踊る大門四郎、アクション・ペインティングをする画家の今村幸生の姿も見られる…など、いずれも貴重な映像記録だ(私にはディープすぎてよくわからない世界だが、1980年代後半の彼らのパフォーマンスに興味ある人はご覧ください)。

Gysin/Lacy#1 "Somebody Special" (Brion Gysin) - Steve Lacy Sextet - Dec 17 1986 - YouTube

Gysin/Lacy#2 "Nowhere Street" (Brion Gysin) - Steve Lacy Sextet - Dec 17th 1986 - YouTube

Gysin/Lacy#3 Cut-Ups -Texts & songs by Brion Gysin from Trois Soirs pour Brion Gysin - 18 Dec 1986 - YouTube

Gysin/Lacy#4 A Japan-ing for Brion Gysin ブリオン・ジシンに捧ぐ日本-ing Musée D'Art Moderne Paris Dec19 1986 - YouTube