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2020/09/18

あの頃のジャズを「読む」 #8:日本産リアル・ジャズ(高柳昌行)

日本初の「モノ言うジャズ・ミュージシャン」は、孤高のジャズ・ギタリスト高柳昌行(1932 - 1991)だろう。音楽家は音だけで勝負しろと言われていた時代に、ミュージシャンが語ること、書くことは、演奏することと等価だと主張し、本こそ出版していないが、ジャズ誌などで独自の強烈なジャズ観に基づく評論やコメントを発信していた。また1960年代初め頃に、日本で初めてフリー・フォーム的演奏を提案し、またジャズ・ミュージシャンによる組織的な音楽活動も主導していたその後70年代から80年代にかけては、アヴァンギャルド芸術系と言うべき独自のフリー・インプロヴィゼーションの世界を追求し続けた。

汎音楽論集
高柳昌行 / 2006 月曜社
高柳はクラシック・ギターからスタートしているが、様々な音楽を熱心に研究し、音楽全体への射程範囲が、当時の普通のジャズ・ミュージシャンと比べて桁違いに広い。元来が現代音楽や実験的ジャズにも関心が深い前衛指向のアーティストだったようで、ジャズでは特にレニー・トリスターノの音楽を初期の頃から研究していた。1960年前後に全盛だったファンキー等大衆受けするジャズとは対極にある芸術指向のジャズを追求すべく「ニュー・ディレクション」というユニットを編成し(形態は様々)、フリー・フォームのジャズを演奏し始めていた。1960年代初め頃に金井英人(b) たちと「新世紀音楽研究所」を組織し、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」を金曜日の昼間だけ借りて、商業目的ではない前衛ジャズ試行の場にするなど、先進的ジャズ演奏家たちを理論、行動面において主導していた。山下洋輔、富樫雅彦、菊地雅章などの若手ミュージシャンたちや、批評家・相倉久人なども、そうした実験的演奏の場に加わっていた。ジャズ・ミュージシャンによるこの種の組織形成は、米国で1960年代半ばにビル・ディクソンたちが行なった作曲家集団の活動(Jazz Composer's Guild) の何年も先を行く画期的な動きだった。1969年には、批評家・間章たちと闘争組織JRJE(日本リアル・ジャズ集団)を設立して、日本独自のフリー・ジャズを本格的に追求し始める2006年に曜社から出版された、高柳が書いた主要な文章や発言を編纂した『汎音楽論集』という本は、1950年代半ばから80年代にかけて、一人の前衛的日本人ジャズ・ミュージシャンが何を考え、何を目指して行動していたのか、その個人史をほぼ時系列で辿ることのできる貴重な本だ。それを読むと、高柳昌行という人が、自身の厳格なジャズ哲学を誰よりも「声高に発信」し続けた、日本人としては非常に珍しいタイプの音楽家であったことがよく分かる。

1968 「スイングジャーナル」広告
『汎音楽論集』より
高柳がまだ23歳だった1955年(昭和30年)の、いソノてルヲとのインタビュー記事から始まり(その年のチャーリー・パーカーの死去にも触れている)、1984年までの30年間に「スイングジャーナル」、「ジャズ批評」、「ジャズライフ」などのジャズ雑誌や音楽誌に掲載された記事、インタビュー、ディスク・レビュー、教則本解説その他のテキストからなるこの本では、最初から最後まで高柳の強烈な音楽観、ジャズ観に基づく「正論」が続く。一貫して伝わってくるのは「反商業主義」というべき音楽思想である(エンタメ全盛の現代ではもはや想像しにくいが、芸術を利用してビジネス=金儲けをするなという思想で、70年代までの音楽の世界では、一定の支持を得ていた)。時に激しい語調で、また(昭和一桁生まれなので)古風な文体でジャズの本質を語り、まさに「武士道」を思わせる「ジャズ道」のごとき厳格な哲学と思想が述べられている1960年代から主催していたギター私塾には、渡辺香津美や廣木光一などのジャズ・ギタリストも通っていて(どれくらいの期間かは不明)、1979年にその一人となった大友良英が、当時の高柳の印象や指導方法を振り返る記事を読んだことがあるが、まさにこの本で語られている通りの内容だ。フュージョン全盛の70年代後半あたりだと、師と弟子たちの実際の音楽観は相当かけ離れていたのではないだろうか。高柳的見地からすると、「楽しけりゃいいじゃん」とかいうような浅薄な音楽の世界など論外で、語る価値すらないと問答無用に切り捨てられたことだろう。

Not Blues
1969 Jinya
私が高柳昌行を知ったのは、ギター音楽が好きだったことと、70年代のトリスターノの音楽渉猟を通じてだ。だから持っている高柳のレコードも、60年代末と70年代末のトリスターノ的演奏を収めたレコードだけで、70年代以降のノイズやフリーの大半の録音もライヴ演奏もほとんど聴いていないので、高柳の音楽全体を語れるような立場ではない。しかし1969年の『Jazzy Profile of JoJo』、『Not Blues』、79年の『Cool-JoJo』、『Second Concept』など(JoJoは高柳のニックネーム)、トリスターノ的(ビリー・バウアー的)フレイバーを持ったレコードは、実にモダンでクールなジャズギターで、当時の一般的ジャズギターとは違った味わいがあるので今でも愛聴している。高柳はジャズのみならず、あらゆるギター奏者のレコードを聴き、サウンド、リズム、フレージング、左手運指、ピッキング、右手指弾などの奏法を分析(アナリゼ)しており、ジャズでは、チャーリー・クリスチャンは別格として、ガボール・ザボ、ジミー・レイニー、ジム・ホール等を高く評価している一方、ウェス・モンゴメリーやジョージ・ベンソンのように、ポップやフュージョン系に移行した奏者は、当然ながらこきおろしている。ブルースに依拠していない非黒人で、独自のサウンド・アイデンティティを持つ奏者(つまりは自分が目指していたギタリスト像)を評価していたのだろう。

April is the Cruelest Month
1975
本書を読んだ限り、高柳昌行という人は、基本的に出自が芸能であるにもかかわらず、ビバップ以降「芸能と芸術」という2面性を持つようになり、だがそのアンビバレンスこそが西洋音楽にはない魅力だったジャズという音楽の芸能的側面は一切評価せず、芸術面にしか価値を置かなかったようだ(それを「リアル・ジャズ」と呼んだ)。芸能とは所詮は商業主義と同根であり、金儲けばかりを考えている「思想なき音楽」など音楽ではないと断じ、大衆的な音楽(演歌や民謡も)を見下し、芸術を至上のものとする思想を徹底していた(ある意味、唯我独尊オレ様系ジャズの信奉者だったと言える)。だから自分のジャズ思想とは相容れない、あるいはそれが理解できない音楽界の他の立場(レコード会社、演奏者、批評家、聴衆など)に対しては、かなり激烈な批判を繰り返していたようだ。たとえば、本書に掲載されている70年代初め頃の高柳の歯に衣を着せないディスク・レビュー(「スイングジャーナル」誌)は、まさに文体、内容共に他に類を見ない読み物になっていて、ある意味で痛快だが、すべてその独自の音楽観、ジャズ観をモノサシにして容赦なくレビューしている。いくつかの海外有名ミュージシャンのレコードも一刀両断に切り捨てており、当時よく雑誌掲載できたものだとびっくりする(あるいは当時だからこそ、まだ掲載できたのか)

しかしながら、あの当時の高柳昌行の主張の根底にあったのは、そもそも黒人でもない(=ジャズに何らのルーツも持たない=ブルース衝動を欠いた=Not Blues)日本人が、「プロフェッショナル音楽家」として真摯にジャズに取り組むとしたら、スタイルや雰囲気といった表層的な「モノマネ(芸能)」ではなく、全人的鍛錬を通して芸術としての音楽足りうる独自のジャズを極めることに挑戦する以外に方法がないではないか――というプロ演奏家としてのアイデンティティを問う、きわめてストイックな哲学だろう。そしてもう一つは、「芸術としてのジャズ」の根幹とその優劣は「インプロヴィゼーション」そのものの質にしかない、という強固なヴィジョンだ(この点では、演奏者の人種も国籍も問わない)。ジャズの存在意義も、音楽として目指すべき究極の目標と価値も最高度のインプロヴィゼーションにある、というこの芸術至上主義的思想は、同じくジャズに直接的ルーツを持たない白人だったレニー・トリスターノ(や初期のリー・コニッツ)が抱いていたジャズ観と実は同じであり、畢竟、商業主義とは無縁の音楽に価値を置き、自らもそれを追求することになる。

Lennie Tristano
1956 Atlantic
高柳はジャズのみならずあらゆる音楽に精通し、詳細に研究していたが、セシル・テイラーにも影響を与えた初のフリー・ジャズ実験者ということも含めて、初期の頃から芸術家としてのレニー・トリスターノとその音楽を高く評価していた(心酔していた、に近い)。本書収載の1975年の「スイングジャーナル」誌レビューでも、<20年先を思索する音楽家>として、その20年前のトリスターノのレコード『Lennie Tristano』(1956) の演奏をレビューし、トリスターノ派ミュージシャンたちの音楽造形と高度なインプロヴィゼーションを称賛しているまた「ニュー・ディレクション」というフリー・ジャズ系ユニットとは別に、70年代末にはトリスターノ派の音楽を追求する「セカンド・コンセプト」というカルテットを立ち上げ、『Cool JoJo』など上記2枚のレコードも録音している1975年になってから発掘された、1953年録音の演奏<メエルストルムの渦>で、既に完全な無調フリー・ジャズを、ピアノによる「一人多重録音」で挑戦していたトリスターノが高柳に与えた影響も大きかったように思う。晩年に一人で挑戦したメタ・インプロヴィゼーションも、このトリスターノの実験からインスパイアされた可能性があるだろう。(高柳昌行のトリスターノについてのコメントと演奏レコードは、2017年5月のブログ記事「レニー・トリスターノの世界#3」もご参照)

「モダン・ジャズ」が、芸能 / 芸術、情動 / 理性、アフリカ的 / 西洋的、土着的 / 都会的……という「融和しえない2面性」を宿命的に内包し、だがそのアンビバレンスこそが魅力の音楽だと仮定するなら、それら両面を高度にバランスさせた音楽こそが真にすぐれたジャズだろうと私は考えているが、一方で、ひたすら芸能側に走る立場(商業主義)もあれば、その対極の芸術至上主義というもう一つの究極の立場も当然あるだろう。とはいえ70年代前半までのジャズと、当時は一見反体制的だったロックを含めた他のポピュラー音楽とのいちばんの違いは、「金の匂いがしない音楽」という、ある種ストイックなイメージをジャズが持っていた点にあったことも確かだ(フュージョン、バブル以降はそれも失う)。その実態がどうだったかはともかく、私がジャズという音楽を好ましく思ったのも、金にならない音楽に人生を捧げるジャズ・ミュージシャンたちをずっと尊敬してきたのも、それが理由の一つだ(反商業主義とは、いわば音楽への「ロマン」がまだ存在していた時代の産物である)。だが、いつの時代も、普通のジャズ音楽家はそれでは生きていけないので、この中間のどこかで現実と折り合いをつけて妥協するか、あるいは山下洋輔のように、意を決してそれを止揚すべく、ジャズ固有のコンテキストの中で「自分たちのジャズ」というアイデンティティをとことん追求するかなのだろうが、高柳が選んだ道は、最後まで自らの信じる「芸術としてのリアル・ジャズ」を極めることだったようだ。

1980年代初めに高柳は一度病に倒れ、ジャズそのものを取り巻く状況の変化もあって、インタビューでの発言なども多少ボルテージが下がり、当然だが70年代までのような過激さも薄まっている。その頃には、黒人、白人、日本人といったエスニシティを一切捨象し、ジャズというジャンルすら超えた純粋芸術としてのインプロヴィゼーションを追求するコンセプトがより濃厚となっていたようだ。そして晩年には、テーブル上に横に寝かせた数台のギターと音響機器を組み合わせて、ソロ演奏で電気的大音響(轟音)を発生させる「メタ・インプロヴィゼーション」、さらに「ヘヴィー・ノイジック・インプロヴィゼーション」という形態にまで到達する。こうして1991年に亡くなるまで、生涯をインプロヴィゼーションに捧げた高柳昌行は、日本の音楽界では終生アウトサイダーのままだったが、その死後、日本における真の「前衛アーティスト」として海外では高く評価され、高柳によるノイズ・ミュージックに対して「ジャパン・ノイズ」という呼称まで提唱されたということだ

高柳昌行の音楽思想と人生は、ピアノとギターという違い、トリスターノが盲目だったという身体的違いを除けば、私にはトリスターノのそれとまさにダブって見える。モダン・ジャズは、音楽的緊張(テンション)と弛緩(リラクゼーション)の双方が感じられるのが魅力の音楽であり、聴衆側の嗜好もそのバランスに依るとも言えるが、トリスターノの音楽も高柳の音楽も、その多くが聴き手にもっぱら緊張を強いるという点で同質だろう。調律の狂ったピアノが置いてあり、高度な芸術を理解も評価もできない酒飲みの客だけが集まる享楽的なクラブでの演奏を嫌がり、ジャズ業界の商業主義や他のミュージシャンに対する厳しい批判を繰り返し、自らは高踏的な音楽を追求し続た結果、実人生では音楽家として生涯報われなかったトリスターノの人生のことも高柳はよく承知していた。トリスターノ自身やトリスターノ派のミュージシャンたちと同じように「私塾教師」という仕事を続けたのも、その「覚悟」があったからなのだろう。大友良英は、晩年の高柳と衝突して1986年にの元を去ったということだが、これなども、まさにトリスターノとリー・コニッツという師弟訣別のエピソードを彷彿とさせるような逸話である。


夫唱婦随と言うべきか、高柳夫人による『汎音楽論集』巻末の「あとがき」は、まるで高柳昌行自身が語る言葉をそのまま代弁しているかのようである。夫を最後まで支え続けた数少ない盟友への謝辞中で、たとえば支持者だった内田修医師やフリー・ジャズ・ライターの副島輝人は分かるが、渡辺貞夫の名前も挙げられているのが(素人目には)意外だった。目指した音楽の方向は途中で分かれても、同世代であり、長い年月にわたり、互いに日本のジャズ界を背負ってきた同志ということなのであろう。 

2020/09/04

あの頃のジャズを「読む」 #7:日本産フリー・ジャズ(山下洋輔)

ジャズ・ミュージシャン側が1970年代にどう考えていたのか、ということにも興味が湧くが、今と違って、当時はジャズを演奏する側が自分で書いたものを発表すること自体がほとんどなかった。つべこべ言わずに演奏家は音楽で勝負する、というのが暗黙のルールだったからなのだろう。その例外が山下洋輔と高柳昌行というフリー・ジャズの演奏家だ。しかし、アメリカではコルトレーンに続くアイラーの死(1970)でフリー・ジャズの時代がほぼ終わり、日米ともに商業音楽フュージョンがジャズ・マーケットの主流になり、ヒノテルやナベサダを除けばレコードを中心に1950/60年代のジャズがまだ人気だった当時の日本のジャズシーンで、「同時代のジャズ」と文字通り本気で格闘しながら、何か発信したいと思っていたのは、当時はジャズメディアからもほとんど無視されていた日本のフリー・ジャズ演奏家たちだけだったのかもしれない。

風雲ジャズ帖
山下洋輔
1975/1982 徳間文庫版
日本におけるフリー・ジャズの代表的演奏家の一人で、かつエッセイストが山下洋輔 (1942 -) だが、1960年代前半から、高柳昌行の「銀巴里」での実験的セッションに富樫雅彦たちと参加していた頃は、まだ主にバップ系の普通のジャズを演奏していた。60年代半ばにはフリー・ジャズ的演奏も始めるが、その後一時的に病気療養した後の1969年に、第1次山下トリオ(森山威男-ds、中村誠一-ts)を結成してフリー・ジャズ一本に転向し、演奏活動を続けながら、70年代半ば以降になって『風雲ジャズ帖』(1975 音楽之友社)、『ピアニストを笑え!』(1976 晶文社)他の本を矢継ぎ早に出版した。私はほぼ全部を読んでいたが、内容の面白さ、質の高さもさることながら、何よりその文才にびっくりした。本を書き、出版したジャズ・ミュージシャンは山下洋輔が初めてだと思うが、それまでのジャズ評論家と呼ばれる人たちが書いたものとはまったく違う、スピード感とジャズ的ビートに満ちた文章は読んでいて本当に面白かった。ジャズ・ミュージシャンとはエモーション一発で動く人たちばかりだと当時は思い込んでいたので(失礼)、ユーモアに満ちたエッセイと共に、知的で明晰な文章を書く山下洋輔を知って、まったくイメージが逆転したのを覚えている。海外のフリー・ジャズ・ミュージシャンたちを見てもそうだが、本物の知性と音楽的技量がないと、あの時代に本気でフリー・ジャズなどやれないのである。

初エッセイ集である『風雲ジャズ帖』は、1970年代はじめから山下が雑誌等に寄稿したエッセイや対談を編纂した本で、山下のエッセイの他に、グループのメンバーや、筒井康隆(作家)、菊地雅章(ジャズ・ピアニスト 1939-2015)などとの対談も収載されている。中でも文化人類学者の青木保 (1938-) との<表現>と題された長い対話(初出 1971年 社会思想社)では、あの時代のジャズが演奏者と聴き手にとってどういうものだったのかを語り、またジャズと祭事の文化的類似性について探るなど、非常に奥の深い議論を交わしている。昔から思っていることだが、ジャズ本でいちばん興味深く、読んで面白いのは、本音で自らの考えを語る知的なジャズ・ミュージシャンのインタビューである。またこの本には、当時進路に悩み、しかもピアノが弾けない病気療養中に山下が書いたという『ブルー・ノート研究』(初出 1969年 音楽芸術)という、ジャズにおける「ブルー・ノート」の真の意味を探る、彼の唯一の音楽研究論文も収載されている。これは、近代西洋音楽の音階と和声論だけで、ブルー・ノートを含むジャズという音楽を強引に析することには無理があり、ヨーロッパ的和声とアフリカ的音階・旋律の融和し得ないせめぎあい(アンビヴァレンス)にこそジャズの本質があるという、当時主流だったバークリーを筆頭とするコード(記号化)進行によるジャズの西洋的単純化(システム化)思想に一石を投じた本格的論文だ。そして退院後の1969年に、それまでのジャズ・ミュージシャンとしての悩みのあれこれを払拭すべく、山下は意を決して、ビバップから「ドシャメシャ」のフリー・ジャズの世界へと本気で向かうのである。

DANCING古事記
1969 at 早稲田大学
私は語れるほどフリー・ジャズを聴いたわけではないが(高度成長期の日本の普通のサラリーマンで、規則や秩序を無視、破壊するフリー・ジャズを好んで聴いていた人は少ないのではないかと思う)、個人的分類法だと、当時のフリー・ジャズには体験型の「体育会系」(タモさんは「スポーツ・ジャズ」と呼んでいた)と、観念型の「芸術系」と二通りあったように思う。ジャズは何といってもレコードよりもライヴが面白いのは事実だが、特に体育会系フリー・ジャズはそうだった。山下Gに代表される前者は音を「聴く」というよりも「体験する」、あれこれアタマで考えずに、音に身体を投げ出してその中で全身に音を浴びる、と形容した方が適切な音楽だった。まさに「祭り」に参加するのと同じなのだ。だからそのライヴはわけもなく盛り上がって楽しいときもあって、たまに聴くとスカッとして実に気分が良かった(ただし聴く気力、体力ともに必要だったが)。山下が発掘した若き日のタモリや坂田明が登場したライヴ・コンサートなどは、ハチャメチャでいながらジャズの神髄を感じさせ、本当に面白かった。山下Gの当時のフリー・ジャズの特徴は、フュージョンとは違った意味で、70年代的な「健全性」があり、音楽が明るいことだ。ある意味ロックに通じる高揚感と爽快感があったが、リズムとハーモニーの多彩さ、複雑さ、そして何が起こるか分からないという、パターン化とは無縁の演奏の自由さがジャズならではの魅力だった

ジャズとは「集団による行為」であり、プレイヤー同士が瞬間に反応し、応酬し合う運動競技と同じで、プレイの結果が美や芸術として昇華するならともかく、最初から「芸術」や「作品」を作ろうなどとするジャズはだめだと山下は繰り返し発言し、芸術指向のジャズを否定している。だから「現代音楽的」なジャズになることだけは避ける、というのが全員が音大出のフリー・ジャズ・トリオの約束事だったという。電気の力ではなくアコースティック楽器にこだわり、奏者が生身の行為を通じて楽器を鳴らし、出した音に対して相手も瞬時に即興の音で応じるという「フリー・ジャズ」を思想としてではなく、ジャズが原初的に持っていた肉体を用いた演奏技法(Proto-Jazz)として追求する、というのが山下トリオの基本コンセプトだった。TV番組(田原総一朗・演出)で早稲田全共闘の拠点で学生たちを前にして演奏したり(『Dancing古事記』1969)、防火服を着たまま燃え上がるピアノを演奏したり(『ピアノ炎上』粟津潔 1973) するなど、激しい時代の激しい(?)演奏体験を通して、3人が結果的に到達した表現が、それまでのジャズにはなかった「日本的祝祭空間」だった。そしてこれは、#6で述べたように、70年代のフュージョンの台頭で失われつつあったジャズ本来の始原的パワーの復権という意味もあった。

キアズマ Live in Germany
1975 MPS
第二次山下トリオ(中村→坂田明-as)が1970年代半ばからヨーロッパのジャズ祭に出演し、特にドイツで評価された理由は、(クラシック音楽の伝統という重い足かせから逃れようとしていた現代音楽に、限りなく近づきつつああった)頭でっかちで芸術指向のヨーロッパのフリー・ジャズとは異なる、自由と解放感に満ちた日本的祝祭」という表現上のシンプルさとパワーが、それまでになかった高揚感をドイツの聴衆に喚起し、同時に「日本人のジャズ」という音楽上のオリジナリティ、アイデンティティが、その演奏の中に紛れもなく存在していたからだろう。山下洋輔トリオによる「日本オリジン」のフリー・ジャズは、70年代を通じて、メンバーを変えながら異種格闘技やアメリカ乱入などの欧米訪問を含めて1983年まで14年間も続き、初めて「日本人のジャズ」を世界に認知させた。これは山下Gだけが成し得た功績である。山下トリオの音楽は、その演奏コンセプトからしても、基本的に現場で聴くライヴだからこそ価値があるものと言えるが、ドイツでの『キアズマ』など、当時のその「音」を捉えた記録としてのレコードも、2次的な体験になるがやはり一聴に値する。

ジャズの証言
山下洋輔 相倉久人
2017 新潮新書
その山下洋輔が「師匠」と呼ぶ相倉久人と何度か行なった未発表の対談記録を、2015年に相倉が亡くなった後、書き起こして発表したのが『ジャズの証言』(2017 新潮新書)だ。山下の音楽とその思想の背景を幼少期から辿りつつ、日本のジャズ黎明期から70年代の独自のフリー・フォーム形成に至った経緯を中心に、相倉の質問に山下が答える形式で構成した対談である。60年代の初期の活動に始まり、70年代から80年代初めにかけてのフリー、トリオ解散後のソロ活動、80年代末から現在まで続くニューヨーク・トリオ、その間のクラシック音楽との接近、さらには2007年の日本におけるセシル・テイラーとの共演に至る、山下洋輔のジャズ思想形成と実践の経緯が、様々な角度から述べられている。本書で山下は、1960年代初めからの相倉の言辞が、ジャズ・ミュージシャンとして進むべき道を決めるための刺激となり、指針にもなったと繰り返し語っている。この対談を読んで感じたのは、二人が知性、生き方、美意識、表現手法という点で、そもそも共通の資質、価値観というものを持っていたように思えることだ。だから二人の出会いは、双方の人生にとって幸運なものだったのだろう。

また当時、日本的な空間美を意識した「芸術系」フリー・ジャズの最重要ミュージシャンだったのが天才ドラマーの富樫雅彦(1940 -2007)だ。「銀巴里」セッションをはじめ、相倉久人と一緒に行動していた1960年代の富樫雅彦と山下洋輔の関係はあまり知らなかったのだが、本書には同じようにフリー・ジャズの世界を指向しながら、二人が結果的に別々の道を歩むことになった経緯も書かれている。富樫は佐藤允彦(p) と共演するなど絶頂期だった1970年に不幸な事故に会い、下半身不随という後遺症と向き合いながら、その後パーカッショニストとして復活して数多くの名演を残した。また70年代半ばからは間章 (あいだ・あきら)の仲介を経て、スティーヴ・レイシーなど多くの海外ミュージシャンとも共演してその音楽世界を拡大し、2007年に亡くなるまで演奏活動を続けた。いずれにしろ、相倉の目指した、アメリカのモノマネを越えて、(世界に通用する)日本独自のジャズを創造するというヴィジョンは、表現手法は異なっても、山下洋輔と富樫雅彦という二人の日本人ミュージシャンによって実現したと言えるだろう。近年「和ジャズ」がブームになっているが、日本ならではのオリジナリティを持ち、しかもメジャーな存在として世界に認知された「正真正銘の和ジャズ」と呼べる音楽を創造したのは、間違いなく50年前の山下洋輔と富樫雅彦であり、また当時二人と共演した日本人ミュージシャンたちだったと思う。