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2020/10/25

訳書『スティーヴ・レイシーとの対話』出版

表題邦訳書が10月末に月曜社から出版されます。

20世紀に生まれ、100歳を越えた音楽ジャズの歴史は、これまでに様々な視点や切り口で描かれ、もはや語り尽くされた感があります。しかし「即興 (improvisation)」 こそが音楽上の生命線であるジャズは、つまるところ、限られた数の優れた能力と個性を持つ「個人」が実質的に先導し、進化させてきた音楽です。こうした見方からすると、ジャズ史とは、ある意味でそれらのジャズ・ミュージシャンの「個人史」の総体であると言うこともできます。大部分がミュージシャン固有の知られざる実体験の集積である個人史は、その人の人生で実際に起きたことであり、ジャズの巨人と呼ばれた人たちに限らず、多くのジャズ・ミュージシャンの人生には、これまで語られたことのない逸話がまだ数限りなくあります。そこから伝わって来るのは、抽象的な、いわゆるジャズ史からは決して見えてこない事実と、時代を超えて現代の我々にも響く、普遍的な意味と価値を持つ物語やメッセージです。変容を続けた20世紀後半のジャズの世界を生き抜いた一人の音楽家に対して、半世紀にわたって断続的に行なわれたインタビューだけで構成した本書は、まさにそうした物語の一つと言えます。

スティーヴ・レイシー (Steve Lacy 1934-2004) は、スウィング・ジャズ時代以降ほとんど忘れられていた楽器、「ソプラノサックス」をモダン・ジャズ史上初めて取り上げ、生涯ソプラノサックスだけを演奏し続けたサックス奏者 / 作曲家です。また「自由と革新」こそがジャズの本質であるという音楽哲学を生涯貫き、常に未踏の領域を切り拓くことに挑戦し続けたジャズ音楽家でもあります。1950年代半ば、モダン・ジャズが既に全盛期を迎えていた時代にデビューしたレイシーは、ジャズを巡る大きな時代の波の中で苦闘します。そして1965年に30歳で故郷ニューヨークを捨ててヨーロッパへと向かい、その後1970年から2002年に帰国するまで、33年間パリに住んで音楽活動を続けました。本書は、そのスティーヴ・レイシーが米国、フランス、イギリス、カナダ他の音楽誌や芸術誌等で、1959年から2004年に亡くなるまでの45年間に受けた34編のインタビューを選び、それらを年代順に配列することによって、レイシーが歩んだジャズ人生の足跡を辿りつつ、その音楽思想と人物像を明らかにしようとしたユニークな書籍です。本書の核となるPART1は、不屈の音楽哲学と音楽家魂を語るレイシーの名言が散りばめられた34編の対話集、PART2は、ほとんどが未発表のレイシー自筆の短いノート13編、PART3には3曲の自作曲楽譜、また巻末には厳選ディスコグラフィも収載されており、文字通りスティーヴ・レイシーの音楽人生の集大成と言うべき本となっています。

原書は『Steve Lacy; Conversations』(2006 Duke University Press) で、パリから帰国してボストンのニューイングランド音楽院で教職に就いたレイシーが2004年に亡くなった後、ジェイソン・ワイス Jason Weiss が編纂して米国で出版した本です。編者であるワイスは、1980年代初めから10年間パリで暮らし、当時レイシーとも親しく交流していたラテンアメリカ文学やフリー・ジャズに詳しい米国人作家、翻訳家です。本書中の何編かの記事のインタビュアーでもあり、また全体の半数がフランス語で行なわれたインタビュー記事の仏英翻訳も行なっています。「編者まえがき」に加え、各インタビューには、レイシーのその当時の音楽活動を要約したワイス執筆の導入部があり、全体として一種のレイシー伝記として読むことができます。

一人のジャズ・ミュージシャンの生涯を、ほぼ「インタビュー」だけで構成するという形式の書籍は、知る限り、私が訳した『リー・コニッツ』だけのようです。しかしそれも、数年間にわたって一人の著者が、「一対一の対話で」集中的に聞き取ったことを書き起こしたもので、本の形式は違いますがマイルス・デイヴィスの自叙伝もそこは同じです。それに対し本書がユニークなのは、45年もの長期間にわたって断続的に行なわれたインタビュー記事だけで構成していることに加え、インタビュアーがほぼ毎回異なり、媒体や属する分野、職種が多岐にわたり(ジャズ誌、芸術誌、作家、詩人、音楽家、彫刻家…他)、しかも国籍も多様であるところです。このインタビュアー側の多彩な構成そのものが、結果的にスティーヴ・レイシーという類例のないジャズ音楽家を象徴しており、それによって本書では、レイシーの人物とその思想を様々な角度から探り、多面的に掘り下げることが可能となったと言えます。ただし、それには聞き手はもちろんのこと、インタビューの受け手の資質も重要であり、その音楽哲学と並んで、レイシーが鋭敏な知性と感性、さらに高い言語能力を備えたミュージシャンであることが、本書の価値と魅力を一層高めています。

本書のもう一つの魅力は、レイシーとセロニアス・モンクとの音楽上の関係が具体的に描かれていることです。モンクの音楽を誰よりも深く研究し、その真価を理解し、生涯モンク作品を演奏し続け、それらを世に知らしめた唯一の「ジャズ・ミュージシャン」がスティーヴ・レイシーです。私の訳書『セロニアス・モンク』(ロビン・ケリー)は、モンク本人を主人公として彼の人生を描いた初の詳細な伝記であり、『パノニカ』(ハナ・ロスチャイルド)では、パトロンとしてモンクに半生を捧げ、彼を支え続けたニカ男爵夫人の生涯と、彼女の視点から見たモンク像が描かれています。そして本書にあるのが三番目の視点――モンクに私淑して師を身近に見ながら、その音楽と、音楽家としての真の姿を捉えていたジャズ・ミュージシャン――というモンク像を描くもう一つの視点です。レイシーのこの「三番目の視点」が加わることで、謎多き音楽家、人物としてのモンク像がもっと立体的に見えて来るのではないか、という期待がありました。そしてその期待通り、本書ではレイシーがかなりの回数、具体的にモンクの音楽と哲学について語っており、モンクの楽曲構造の分析とその裏付けとなるレイシーの体験、レイシー自身の演奏と作曲に与えたモンクの影響も明らかにされています。ニューヨークのジャズクラブ「ファイブ・スポット」と「ジャズ・ギャラリー」を舞台にした、ニカ夫人とモンク、レイシーの逸話、またソプラノサックスを巡るレイシーとジョン・コルトレーンの関係など、1950年代後半から60年代初頭にかけてのジャズシーンをリアルに彷彿とさせるジャズ史的に貴重な逸話も語られています。そして何より、モンクについて語るレイシーの言葉には常に温かみがあり、レイシーがいかにモンクを敬愛していたのかが読んでいてよく分かります。

本書で描かれているのは、ジャズの伝統を継承しつつ、常にジャズそのものを乗り越えて新たな世界へ向かおうとしたスティーヴ・レイシーの音楽の旅路と、その挑戦を支えた音楽哲学です。20世紀後半、世界とジャズが変容する中で苦闘し、そこで生き抜いたレイシーの音楽形成の足跡と、独自の思想、哲学が生まれた背景が様々な角度から語られています。レイシーが生来、音楽だけでなく写真、絵画、演劇などの視覚芸術、文学作品や詩など言語芸術への深い関心と知識を有するきわめて知的な人物であったこと、それら異分野芸術と自らの音楽をミックスすることに常に関心を持ち続けていた音楽家であったことも分かります。後年のレイシー作品や演奏の中に徐々に反映されゆくそうした関心や嗜好の源は、レイシーにとってのジャズ原体験だったデューク・エリントンに加え、セシル・テイラー、ギル・エヴァンス、セロニアス・モンクという、レイシーにとってモダン・ジャズのメンターとなった3人の巨匠たちで、彼らとの前半生での邂逅と交流が、その後のレイシーの音楽形成に決定的な影響を与えます。

さらにマル・ウォルドロン、ドン・チェリー、ラズウェル・ラッドなど初期フリー・ジャズ時代からの盟友たち、テキストと声というレイシー作品にとって重要な要素を提供した妻イレーヌ・エイビ、フリー・コンセプトを共同で追求したヨーロッパのフリー・ジャズ・ミュージシャンや現代音楽家たち、テキストやダンスをミックスした芸術歌曲(art song)や文芸ジャズ(lit-jazz) を共作したブライオン・ガイシン他の20世紀の詩人たち、ジュディス・マリナや大門四郎等の俳優・ダンサーたち、富樫雅彦や吉沢元治のような日本人前衛ミュージシャン――等々、スティーヴ・レイシーが単なるジャズ即興演奏家ではなく、芸術上、地理上のあらゆる境界線を越えて様々なアーティストたちと交流し、常にそこで得られたインスピレーションと人的関係を基盤にしながら、独自の芸術を形成してゆく多面的な音楽家だったこともよく分かります。

翻訳に際しては、いつも通り、原文の意味が曖昧に思える箇所は著者にメールで質問して確認しています。ワイス氏によれば、本書は英語版原書と今回の日本語版の他は、数年前にイタリア語版が出版されただけで、オリジナル記事の半数がフランス語のインタビューであるにもかかわらず、フランス語版は出ていないそうです(イタリアのおおらかさと、フランス国内で芸術活動をする《アメリカ人》に対するフランス的反応のニュアンスの対比は、本書中のレイシーの発言からも想像できます)。

なお、この本はレイシーの音楽人生と思想に加え、フリー・ジャズを含めた曲の構造とインプロヴィゼーションの関係、またソプラノサックスとその演奏技術に関するレイシーの哲学や信念など、ジャズに関わる専門的なトピックもかなり具体的に語られています。そこで今回は、サックス奏者で批評家でもある大谷能生さんに、プロのミュージシャンの視点から、レイシーとその音楽に関する分析と考察を別途寄稿していただくことにしました。タイトルは『「レイシー・ミュージック」の複層性』です。どうぞ、こちらもお楽しみに。

(*) 月曜社のHP/ブログもご参照ください。https://urag.exblog.jp/240584499/

2020/10/15

あの頃のジャズを「読む」 #10 (完):されどジャズ

80年代バブル景気に沸く東京のジャズの中心は、70年代までのアングラ的新宿から、オシャレな六本木、青山方面へと移動し、難しい顔をして聞く前衛的音楽から、バブルを謳歌する小金持ちや、中堅の団塊世代が集まるジャズクラブで、ゆったりと酒を飲みながら聴く「大人の音楽」へと完全に変貌した。もう「反商業主義」などと面倒臭いことを唱える人も消えて、みんなで楽しく気楽に聴けるフュージョン全盛時代となり、大規模ジャズフェスなども盛況で、ミュージシャンの仕事の場も数多く提供されていた(たぶん音楽的進化や深化はほとんどなかっただろうが、ショウビズ的には大成功で、それはそれで大衆娯楽としての音楽の本来の役割を十分に果たしていた)。ライヴのみならず、日本伝統のオーディオとジャズも相変わらず元気で、高額なオーディオ機器が飛ぶよう売れていた時代だ。それから30年、今や日本中のどこでも(蕎麦屋でも、ラーメン屋でも、ショッピングモールのトイレでも、TVでも)何の違和感もなく普通にBGMとしてジャズが聞こえてくる時代となり、プロアマ問わずジャズを演奏する人の数も飛躍的に増えて、日本中で今や毎月のように開催されているジャズフェスに出演している(今年はコロナのせいで減ったが)。つまり相倉久人が1960年代に主張していた、日本における「ジャズの土着化」は、時間はかかったが(50年)、こうしてついに実現したと言えるのかもしれない(ある意味で)。

一方、ジャズの本場アメリカは常に日本より10年ほど先を進んでいて、1960年代にはベトナム反戦や公民権運動に呼応したフリー・ジャズが台頭したが、特に64年のビートルズの米国進出以降、若者音楽の中心は、完全にロック、フォーク、ポップスへと移行し、ジャズ市場は縮小する一方だった。そうした時代に反応したマイルスの電化ジャズが60年代末期に登場したものの、70年代はじめになると、そのコンセプトを分かりやすく商業化したファンクやフュージョン時代が既に到来していた。そして67年のコルトレーン、70年のアイラ―というフリー・ジャズのカリスマたちの死、続く74年の王様エリントンの死、75年の帝王マイルスの一時引退、76年の高僧モンクの引退…等々、20世紀ジャズ界の「巨人」たちが相次いでシーンから退場し、70年代半ばには戦後のビバップに始まる「モダン・ジャズ」は実質的にその30年の歴史を終える。その後も78年のトリスターノ、79年のミンガス、80年のビル・エヴァンス、82年のモンクの死と続き、日本のバブルとは対照的な不況の80年代を通過して世紀末の最後の10年に入ると、ジャズ・メッセンジャーズを率いて多くのスターを輩出してきたアート・ブレイキーが1990年に亡くなる。そして翌91年には、白人ジャズの巨匠スタン・ゲッツ、さらにマイルス・デイヴィスという残された最後の巨人たちもついにこの世を去って、1990年代初めには、「20世紀の音楽ジャズ」の主なアイコンはほぼ消滅する。こうして、いわゆるモダン・ジャズは文字通り「博物館」へと向かうべく、ウィントン・マルサリスによっておごそかに引導が渡されたのである。

コロナ禍で時間があったこともあって、予想外に長引いたこの連載も区切りの良い#10となるので、(まだまだ面白い内外のジャズ本はあるが)とりあえず今回で終わりにしたい。最後に、「20世紀のジャズ」を心から愛し、ジャズと共に生きた日米の代表的批評家が書いた2冊の本を紹介したい。

ジャズ・イズ
ナット・ヘントフ
1976/1982 白水社
昔は、飽きずに擦り切れるほど繰り返し聴いたジャズ・レコード(LP)が何枚かあったものだが、ナット・ヘントフ Nat Hentoff (1925 - 2017) の『ジャズ・イズ (Jazz Is)』(1976 / 1982 白水社 /志村正雄訳) は、そうしたレコードと同種の魅力を持ち、年齢を重ねて読むたびに新たな面白さを発見するという名著だ。11人のジャズの巨人たちの肖像をヘントフ独自の視点で描いたものだが、ジャズという音楽と、ジャズ・ミュージシャンという人種を、ここまで味わい深く描いたジャズ本はない。ナット・ヘントフはジャズ評論家として有名だったが、同時に小説家、歴史学者、政治評論家でもあった。だから社会やアーティストを見る視線の角度と、深さが、他の普通のジャズ批評家たちとは違う。大手新聞や「ダウンビート」誌等の主要雑誌のコラムニストの他に、ジャズ・レーベル創設(Candid)、ジャズ作品のプロデュース(セシル・テイラー)など、全盛期のジャズ界で多彩な活動を行なっていた。特に50年代のモダン・ジャズ黄金期を牽引した世代、マイルス、コルトレーン、マリガン、コニッツなど1920年代半ば生まれのジャズ・ミュージシャンとヘントフは同世代であり、故郷ボストンでの少年期から同時代の音楽としてジャズに触れ、ジャズを愛し、その発展、変化と共に生きてきた、いわば「モダン・ジャズ史の目撃者」である。それゆえ、本作を含めてジャズ現場における実体験に裏付けられたヘントフの本は、どれも陰翳と示唆に富み、ジャズの世界を内側から見るその分析と洞察は常に深く、また鋭い。

『Jazz is (ジャズとは)』の後に続く「…である、…のことだ、…ものだ」といった部分には、一言では語り尽くせないジャズを巡る様々な文言が入るだろう。この本では、スウィング時代のルイ・アームストロング、テディ・ウィルソン、デューク・エリントン、ビバップ時代のパーカー、ミンガス、マイルス、前衛からはコルトレーン、セシル・テイラー、女性ボーカルはビリー・ホリデイ、白人からはジェリー・マリガン、そして唯一の非アメリカ人ミュージシャンであるアルゼンチンのガトー・バルビエリというように、一読してジャズ史とジャズの持つ多様性を俯瞰できる人選になっている(ただしモンクがいないが)。また政治や社会に対して発言し続けたヘントフ独自の視点で、ジャズやジャズ・ミュージシャンと社会・経済との関わりについて随所で触れているのも、単なるアーティスト評伝や一般的なジャズ本にはあまり見られない部分だ。読むたびに、本書で描かれた11人のジャズの巨人たちの知られざる部分を発見するような新鮮な感覚を持つので、何度読み返しても飽きない。何というか、マクロレンズで近接撮影したかのように、彼らの人間としての内面が、著者の目を通して独自の角度から鋭く切り取られているので、文章は短いのに、彼らの存在がリアルに感じられるのである。ジャズ・エッセイと言うべき読み物だが、このような深さでジャズとジャズ・ミュージシャンを語った本は、やはりこれまで読んだことがない。

上述したように、原書が出版された1976年という時点で、本書で描かれた11人の巨人たちのうち6人が既に故人となり、一方でジャズのポップ化もますます進行し、その未来には疑問符が付けられていた。そうした時代に書かれたこの本は、ジャズの本質と魅力をあらためて探ると同時に、ヘントフが体験した最もジャズが幸福だった時代へのオマージュとも、彼のジャズへの別れの挨拶とも読める(ヘントフは、これ以降ジャズ関連の本は書いていない)。私が買った版の帯に書かれている本文中の記述「根本的な意味で、ジャズとは不屈の個性派たちの歴史である」という短く鋭いフレーズも、今となっては懐かしい。歴史を継ぐべき《不屈の個性派》は、その後のジャズ界に登場しただろうか。

されどスウィング
相倉久人 / 2015 青土社
ジャズの歴史と厚みにおいて、日米間には埋めがたい差があるので、ナット・ヘントフに匹敵するような経験と視点を持つ日本人ジャズ批評家が見当たらないのは仕方がないだろう。しかしただ一人、かなり近いスケールと眼力を持っていたと思える存在を挙げるなら、やはりそれは相倉久人だ。ヘントフがアメリカなら、同じように常に現場に関わってきた相倉は「戦後日本ジャズ史の目撃者」と言えるだろう。相倉久人の批評家としての素晴らしさと名著については#5で詳述したので繰り返さないが、ヘントフの本から40年後の2015年に出版し、著者の遺作となったのが『されどスウィング』(青土社)である。ジャズへの深い愛情と哀惜がにじむヘントフの『Jazz is』と、どこか似たニュアンスが感じられる『されどスウィング』という絶妙なタイトルが私は好きだ。著者最後の書き下ろしとなった本書中の短いエッセイ、《たかが0秒1、されど0秒1》(2015年)は、「スウィング(ゆらぎ)」という、ジャズの持つリズムの神髄について語ったもので、まさに相倉久人の遺言と呼ぶにふさわしい文章である。

『されどスウィング』は、一部を除き、1970年代初めにジャズ界を離れた後に発表してきた代表的な文章を、著者自身が選んだ「自選集」である。主に80年代以降にジャズを回顧し語った文章と、その後手掛けたポピュラー音楽に関する批評から成り、随所にジャンルを超えた著者の音楽哲学が垣間見え、全体として相倉の遺書というべき本だろう。細野晴臣、サディスティック・ミカ・バンド、はっぴーえんど、桑田佳祐、吉田拓郎、坂本龍一、町田康、上々颱風、菊地成孔等々…さらにはアイドルや浅川マキに至るまでの幅広いジャンルのアーティストを対象に、独自の視点で興味深い観察と批評を展開している。60年代の新宿時代からの知己で、2010年に亡くなった浅川マキについて、「変わらずにいること」の難しさと価値を語り、アーティストとしての浅川マキの姿勢に深い敬意を表している。相倉久人の思想と批評は一見クールだが、表面的な分析や印象論だけではなく、深い部分でアーティスト個人に対する人間観と敬意が常に感じられる。そこが音楽批評家として、ナット・ヘントフやラルフ・J・グリーソン、ホイットニー・バリエットのような優れた米国人批評家に通じる部分なのだ。

20世紀初めから、アメリカという特異な場所で異種混淆を繰り返しながら進化した「雑種」音楽であるジャズは、誕生後半世紀足らずの1950年代から60年代にかけて、芸術的にも商業的にもその頂点に達した。いろいろな見方があるが、1970年代以降、現在までの半世紀に及ぶジャズシーンの変化もその延長線上にあって、60年代まではジャズの強い音楽的影響下にあった他の大衆音楽であるR&B、ロック、ポップスなどとの混淆が更に多彩に、複雑に進行し、特に90年代以降「xxx ジャズ」と呼ばれる様々な形態を持つ音楽が世界中で登場し、それらが同時併行的に存在してきたと言える。それをジャズ側から見ると「ジャズが多彩になった」という言い方になるが、むしろ、総体としてのジャズが、アメーバのように境界線を越えて、様々な音楽ジャンルの中に「薄く広く拡散してきた」、あるいは「徐々に吸収されてきた」過程だったと言えるのではないかと(ド素人ながら)私は思う。つまりジャズと他のポピュラー音楽との主客が、1970年代を境に逆転した、あるいは各ジャンルがそれ以降横並びになって、互いに混淆を続け、20世紀半ばまでに出来上がっていたポピュラー音楽のヒエラルキーが、徐々に解体してゆく過程だったとも言える。

マクロで見れば、20世紀の前半に芸術として創造面での進化がほぼ止まった西洋クラシック音楽が、和声やモード他のコンセプトや理論を介して、発展する新世界アメリカで生まれたジャズという新たなポピュラー音楽の中に、半世紀にわたって溶け込み生き続けてきたように、次にはそのジャズ自身が、即興音楽としての急速で短期間の芸術的進化を20世紀半ばすぎには終え、その後世界の多様な音楽の中に徐々に拡散し、溶け込んできた過程が、1970年代に始まり現在までの半世紀に起きてきたことではないだろうか。それを加速した社会的背景は、言うまでもなく、同期間に急速に進展した資本主義経済のグローバル化と、それに伴う文化・芸術の大衆化(商業化)である。そこで新たに生まれた音楽の需要者、消費者としての「大衆」が、新たな感覚を持った「聴き手」として「21世紀のジャズ」の形と針路を決めてゆくことになるのだろう。

こうした見方からすると、1971年に「狭いジャズ界」に見切りをつけ、ロック、ポップス、フォーク、歌謡曲など、ジャズの外側に開かれ発展していた日本のポピュラー音楽全体へと目を向けた70年代以降の相倉久人の足取りは、まさにこの半世紀のジャズの歩みと変化をそのまま映し出しているようにも見える。40歳までの前半生を振り返って、「自分の生き方がジャズだった」と言ってジャズ界を去った男にまさにふさわしい後半生である。相倉久人は2015年、ナット・ヘントフは2017年と、ジャズを愛し、日米のジャズ史の目撃者だった二人の代表的批評家は、ほぼ同時期に亡くなったが、1970年代の前半に、この二人が見ていたジャズの未来のイメージは、おそらく同じものだったのだろう。
(完)

2020/10/02

あの頃のジャズを「読む」 #9:間 章と阿部 薫

山下洋輔や高柳昌行と並んで、1970年代のフリー・ジャズを語る際に外せないのは、やはり阿部薫 (1949 - 78) と、その阿部をシーンに紹介した音楽批評家/プロデューサーの間章 (あいだ・あきら 1946 - 78) だろう。ただし、私は二人ともリアルタイムでは見聞きしていない。

〈なしくずしの死>
への覚書と断片  
間章著作集Ⅱ / 2013 月曜社
間章のフリー・ジャズのアイドルはエリック・ドルフィーで、60年代末頃から、フリー・ジャズのみならず、ロック、シャンソン、邦楽、現代音楽といった広汎な領域の音楽を対象とした批評活動を行なっていた。スティーヴ・レイシーなど、海外の即興音楽演奏家を日本に初招聘したり、阿部薫の他にも、国内ミュージシャン(近藤等則、坂本龍一など)を発掘、紹介し、演奏の場やイベントを積極的にアレンジするなど、多彩な活動を行なっていたマルチ・オルガナイザーというべき人物だった。間章が書いたテキストは膨大だが、2013年に『時代の未明から来たるべきものへ  間章著作集Ⅰ』(1982年のイザラ書房刊を復刊)と『〈なしくずしの死〉への覚書と断片  間章著作集Ⅱ』、2014年に『さらに冬へ旅立つために  間章著作集Ⅲ』という、計3巻の(真っ黒な)遺稿集が月曜社から出版されている(編集・須川善行)。

これらの本は間章が雑誌、機関紙他で発表した批評文、ライナーノーツ他の多岐にわたるテキストを編纂したもので、まさに間章の脳内世界を集大成したような本だ。音楽と政治、哲学、文学、芸術にまたがる思想が渾然一体となった、熱く重い60/70年代的アジテーション色の濃い文章が敷き詰められている。世界を凝視し、思索する、尋常ではない熱量は確かに伝わってくるが、全共闘世代に特有の文体と長尺な観念的文章を、実用短文SNS全盛時代に生きる現代人が果たして解読できるものか、とは思う。しかしそれらの文章を「じっくりと」読めば、当時の間章が音楽と世界を見つめていた視点と思想の深さが、私のような凡人でも何となく分かってくる部分もある。時代背景ゆえの過剰な表現を間引けば、「音楽」を評価する間章の鋭く的確な眼力も見えて来る。ドルフィー、セシル・テイラー、アルバート・アイラー、デレク・ベイリーなど、ジャズ関連の論稿を中心とした『間章著作集Ⅱ』に収載されている、70年代半ばのスティーヴ・レイシーとの何度かの対談は、穏やかで知的なレイシーが相手ということもあって、この時代のジャズと即興音楽が直面していた問題を語り合う、深く読みごたえのある対話である。

解体的交感
高柳昌行 阿部薫 / 1970
「ニュー・ディレクション」と称する高柳昌行のフリー・ジャズ・マルチ・ユニットの一つとして、1970年に新宿で行なわれた阿部薫との「デュオ」コンサートとそのライヴ録音『解体的交感』は、タイトルからして時代を象徴するようなイベントで、演奏もサウンドも、まさに攻撃的でアナーキーだが、それをプロデューサーとしての初仕事にしたのが間章である。「産業(ビジネス)から音楽家の側へ音楽の主導権を取り戻す」という反商業主義が間章の基本思想で、同じ思想を持っていた高柳昌行と間章は、阿部薫、吉沢元治、高木元輝、豊住芳三郎等のメンバーと共に、1969年に「闘争組織」JRJE(日本リアル・ジャズ集団)を結成して、自主コンサートを開催するなど共同で活動していた。高柳に阿部薫を紹介したのは間章で、めったに人を誉めない高柳が阿部薫のことは称賛している。1年ほど続いた活動では、ジョイント・コンサート(間のアジ演説 + 演奏)が何度か開催されたが、『解体的交感』の後、まもなくして何らかの内部衝突が理由で間章と高柳が訣別したためにJRJEも解散し、間はその後しばらくはジャズから離れ、阿部薫ともその後の5年間は疎遠になる

29歳で夭折した阿部薫は、もはや伝説となった天才アルトサックス奏者だが、脚光を浴びるようになったのは死後10年以上も経った90年代に入ってからで、その破滅型の人生と天才性に注目した各種メディアに取り上げられた。きっかけになったのは、1989年に出版された『阿部薫 覚書 1949-1978』(ランダムスケッチ) だろう。91年には、テレビ朝日の深夜対談番組『プレステージ』で、蓮舫を含む女性3人の司会という、いかにもバブル期らしい設定と演出で、異形の天才として阿部を振り返っている。制作の意図、背景は不明だが、バブル末期になって、70年代的純粋さ、反抗、退廃を懐かしむ風潮が出て来たのかもしれない。作家(五木寛之、芥正彦)、批評家(相倉久人、平岡正明)、ミュージシャン(三上寛、PANTA、山川健一)に加え、阿部薫が定期的に出演していた2軒のジャズ喫茶のママ(福島「パスタン」、東京・初台「騒 (GAYA)」)と、当時は陸前高田にあった「ジョニー」店主が出演している(この番組は、今でもYouTubeで視聴可能だ。30年も前の放送なので画面の出演者は全員まだ若いが、二人のママさんと相倉、平岡両氏はもう故人である)。番組中、当時は未発表だった、阿部薫が福島「パスタン」で演奏する貴重なライヴ映像も挿入されている。見るからに若い大友良英が、高校時代に初めて聴いたジャズライヴが「パスタン」のその阿部薫だった、と語るインタビュー映像もある。翌92年には、稲葉真弓 (1950-2014) が実名小説『エンドレス・ワルツ』で、阿部薫と作家兼女優だった妻の鈴木いづみ(1949-86)との激しい関係を描き、95年には若松孝二 (1936-2012) が、町田康と広田玲央名の主演でその小説を同名映画化している。

完全版 東北セッションズ 1971
King International
阿部薫のミュージシャンとしての活動期間は、60年代末から1978年に亡くなるまでの約10年間と短い
。生前の正式レコードは間章がプロデュースした2作品だけだったが、90年代以降、小野好恵がプロデュースした東北での1971年の演奏(つい最近、
完全版で再リリースされた)や、他のジャズ喫茶でのライヴなど、多くの未発表音源がCDでリリースされてきたので、今はかなりの数の演奏が聴ける。「父親はエリック・ドルフィー、母親はビリー・ホリデイ」で、「ぼくは誰よりも速くなりたい」と語っていた阿部薫の音楽は、その発言からも一般的には「フリー・ジャズ」に分類されているが、その音楽を「ジャズ」と呼ぶにはあまりに孤独で、アヴァンギャルドと呼ぶにはあまりにナイーブで、むしろ所属ジャンルなど不要な「阿部薫の即興音楽」と呼ぶべき固有の音楽ではないかと個人的には思う。そもそも阿部の音楽は、ソロでしか成立しえないものではないかという気がする。内部を流れている時間と、音空間が独特すぎて、他の演奏者と音楽的にシンクロする必要がないように感じる。「何がジャズか」に定義はないが、演奏フォーマットとは関わりなく、特定の場で、即興を通じて聴き手(共演者 and/or 聴衆)と時間/空間を共有し、交感(シンクロ)するという、ジャズにとってもっとも重要な音楽的要件の一つを欠いているように思えるからだ(ただし、その行き場のない「孤独」に共鳴する聴き手はもちろんいると思う)。

阿部薫と同じく「攻撃的で孤独な」音を出すギタリスト、高柳昌行との激しい上記デュオ・ライヴのタイトルを『解体的交感』と名付けたのは間章と阿部薫らしい。コンサートのサブタイトルが<ジャズ死滅への投射>であることから、要は1970年前後の時代的コンテキストや、60年代フリー・ジャズ末期という音楽情況を背景に、ジャズ的交感といった従来の概念を意図的に破壊すること、もしくはそれとの訣別宣言だったと解釈すべきなのだろう。「音で人を殺せる」と言っていたらしいが、実際には、阿部薫の音楽は「外部(聴き手)」へとは向かわず、ひたすら自己の内部にしかその音が向けられていないように聞こえる。自分の内奥深くに向けて、何かを語り、叫び、それを送り届けるためだけに吹いているようにしか聞こえない。おそらく、音楽の環が閉じられたそうした「極私的行為」そのものが彼の音楽なのだろう。しかし、阿部薫の「音楽」を理解できる、できないということとは別に、阿部の吹くアルトサックスの音の「速度」や「美しさ」や「叙情」など、彼の「サウンド」から感じる凄みと魅力は、多くの人が認めているし、録音された音源を聴いただけだが、私もそう思う。そこには言葉にできないような美を感じる瞬間があるし、心の奥底を揺り動かす何かが確かにある。阿部自身も、ジャズでも音楽でもなく、「音を出すこと」にしか興味はないという意味のことを語っているので、聴き手が抱くこの感覚はたぶん間違っていないのだろう。しかし残念だが、これも「生音」を聴かないと本当の凄さは分からないだろう。

阿部 薫 1949-1978
1994/2001 文遊社
私が持っている本『阿部薫 1949-1978』(2001 文遊社) は、ミュージシャン、作家、肉親その他、阿部と接触のあった様々な人たちが、それぞれ阿部薫とその音楽を語った言葉(談)や文章を集めたアンソロジーで、1989年の『阿部薫 覚書』を原本にして再編纂した本だ(増補改訂版)。私的には、この本には数ある音楽書の中でも屈指の面白さを感じた(謎多き音楽家を語り、理解しようとすることは、音楽を楽しむことの一部だ)。間章の文を別とすれば、数多いコメントの中で、阿部薫への同志的愛を感じさせ、かつ音楽家としての彼の苦悩を理解していると思えたのは、やはり坂田明(as) 、近藤等則(tp) 、吉沢元治(b)、浅川マキというミュージシャンたちと、批評家で阿部の友人でもあった小野好恵が語った文だ。また、特殊な病気で生死の境を何度も彷徨った阿部薫の幼児期の体験が、ある種の精神的トラウマを生み、彼の音楽につきまとった出口の見えない「生と死の往来」の遠因だったのではないか、という肉親と思われる人の分析も印象に残った。

しかしながら、この本を読み通して真っ先に感じたのは、「阿部薫の真実」をもっとも深く理解していたのは、 実は彼を支援し続け、定期的に演奏する場を提供していた東京、福島、札幌、大阪などの「ジャズ喫茶のママたち」ではなかったかということだ。この本にも対談の一部が転載されている30年前の上記テレビ番組をYouTubeで見たときも、まったく同じ印象を抱いた。この番組でも、「男たち」はほぼ全員が「頭や観念」で何とか阿部薫を理解し、語ろうとするが、話がかみ合わず、阿部の本質を掴み切れないようなもどかしさが感じられる(メンバー選定の問題もあるが)。それに対して、出演したジャズ喫茶のママさん二人は、生前の阿部やその演奏から自分がほぼ本能的に感じ取ったことを「自信満々に」語っている。上掲の本に掲載された彼女たちの言葉も、他の店のママさんたちもそこは同じだ。実際に阿部と何度も身近に接してその演奏を生で聴いているし、阿部も彼女たちの前では無防備に、つい本音を漏らしたこともあっただろう。だから説明は必ずしも論理的ではないが、彼女たちが言わんとしていることは何となく分かる。正直言って、「(サックスからは)聞こえない音が聞こえるかどうか…」というような阿部の「シャーマン的」レベルの音と表現による音楽に、頭だけで考えがちな男が「感応」できるわけはないと思った。「言葉で音楽は語れない」とは真実だが、阿部薫の「音楽」は、まさしくそういう次元のものだったのだと思う。だからこそジャンルも時代も超越して、人の心に響く何かがあるのだろう。

阿部薫は、男友だちにとっては面倒で厄介な人物だったかもしれないが、彼の母親や妹(文章に愛情があふれている)、同じく早逝した妻の鈴木いづみ、上記のママさんたちを含めた「女性たち(女神)」からは無条件に愛され、庇護されていた存在だったのだと思う。セロニアス・モンクがそうだったように、世の中には「そういう男」がいるのだ。ブルーノートのロレイン・ライオンやニカ夫人が、誰も見向きもしなかった当時のモンクを即座に理解したように、彼女たちには阿部が自分の音楽を通じて「本当に言いたかったこと」が伝わってきたのだろう。そういう男は無口で謎も多いし、その音楽も簡単には理解されない。だから私は、あり余る知性を持ちながら、無駄なことはあまり口にせず、「音」だけにすべてを託そうとした孤高の音楽家・阿部薫にどこかモンクに通じる何かを感じる。

なしくずしの死/ Mort A Credit
阿部薫 1975
阿部薫とその音楽をいちばん深く理解していた「男」はやはり、「阿部には未来がない」と、その音楽から阿部の死を予感していた間章だったのだろう。しばらくジャズを離れていた間は、1975年にスティーヴ・レイシーを初めて日本に招聘し、富樫雅彦や吉沢元治たちとの共演の場をアレンジし、同じ年に70年以来疎遠だった阿部薫のソロコンサート『なしくずしの死』(Mort A Credit)を5年ぶりにプロデュースし、レコード化する。その後77年にはドラマー、ミルフォード・グレイヴスを、さらに78年4月には、イギリスのフリー・インプロヴィゼーションのギタリスト、デレク・ベイリーも日本へ初招聘し、阿部薫、近藤等則他の前衛ミュージシャンたちとの共演を含めて各地で公演し、即興音楽の世界をさらに深く追求しようとしていた。ところが同年9月9日に、阿部薫が睡眠薬過剰摂取のために29歳で急死し、さらにその3ヶ月後の12月12日に、後を追うようにして間章も脳出血のためにわずか32歳で急逝するのである。

「行為としてのジャズ」を信奉し、娯楽としての音楽を超えた何かを、フリー・ジャズあるいは自由な即興音楽の中に見出したり、求めていた当時の人たちには、激しい人生を送った人が多い。阿部薫、間章の二人も、まさに死に急ぐかのように1970年代を駆け抜けた。ジャズがまだパワーを持ち、フリー・ジャズが時代のBGMとしてもっともふさわしかった1960年代という激しい政治の季節が終り、穏やかな70年代になって穏やかなジャズが主流になると、大方のジャズファン(単なる音楽ファン)は難しいことは忘れて専ら快適なジャズや他の音楽を求め、それを楽しむようになった。そうした中で、よりマイナーな存在となった60年代のフリー・ジャズ的思想とパッションを持ち続けていた人たちの行動が、その反動として一層先鋭化したという時代的背景はあっただろう。しかし続く80年代になると、バブル景気に向かった日本では、当然のようにジャズを含む音楽の商業化(大衆化)が益々強まり、70年代までわずかに残されていた、シリアスな芸術を指向する思想や行動には、ほとんど関心が持たれなくなった。しかし商業的隆盛とは無関係に、日本のジャズが米国のモノマネから脱し、真にオリジナリティのある音楽へと進化したのは、70年代の山下洋輔G、富樫雅彦、高柳昌行、阿部薫などに代表されるフリー・ジャズやフリー・インプロヴィゼーションの個性的ミュージシャンたちの音楽的挑戦の結果である。だから日本のジャズが、音楽としてその「内部」で真に熱く燃えた時代は、逆説的だが「フュージョンの70年代」だったと言えるだろうそして、1978年の阿部薫と間章の死は戦後日本における「ムーヴメントとしてのジャズの時代」が、実質的に終焉を迎えたことを象徴する出来事だったのだろう