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2024/05/10

『不適切にもほどがある!』考(2)

(*)以下ネタバレあり。

「意識低い系タイムスリップコメディ」と銘打って、3月29日に第10話で終わったTBS『不適切にもほどがある!』(以降『ふてほど』)は、私的には2016年放送のNHKドラマ『ちかえもん』(作・藤本有紀、全8話。2020年2月本ブログ記事『近松心中物傑作電視楽』ご参照)以来の傑作コメディだった。もう「面白い」(コンプラ的にアブないような)TVドラマやコメディ等は、日本ではスポンサーフリーのNHKにしか制作できないだろうと思っていたが、『ふてほど』は「タイムマシン」「ミュージカル」「テロップ」という裏(荒?)技を使って、昭和という過去を鏡にして現代(令和)を相対化し、TVでの表現上微妙で複雑な問題を上手にクリアしながら問題提起していた(逆に、NHKではこのドラマは放送できないだろうが)。才能ある脚本家、プロデューサー、演出家、役者が結集して「プロの仕事」をすれば、TVドラマは決してオワコンでもなく、まだまだ視聴者を惹きつける、独創的で魅力のある作品が生まれる可能性があるということを示した。TBSの番宣の力の入れ具合もそれを表していた。YouTubeの素人作品や、配信番組に視聴者を奪われてきた地上波連続TVドラマが、久々に放った快作と言えるだろう。

NHK『ちかえもん』も素晴らしい作品だったが、あの時代は、まだSNSが今ほど普及していなかったので、一般視聴者のリアルタイムの反応はそれほどはっきりしていなかった。だが『ふてほど』は、現代のTVドラマらしく、SNSやネット上で同時進行で様々なコメントが溢れ、分析や批評が行なわれていたし、そのインパクトから、終了後もそれが続いている(この記事もそうだ)。今後も、この作品に対する様々な意見や評価が出てくることだろう。ネット上では、作品コンセプトや表現内容について批判的な意見もたまに見かけるが、この独創的なエンタメ作品に対して、それは野暮だろうと思えるような逆張り狙いか、無理やりの言いがかり、ピントのずれた意見が多いように思う(もちろん感想は自由だ)。

私見だが、この傑作ドラマ2作にはいくつか共通点がある。まず、両方とも基本は伝統的な「笑いと涙」のコメディだが、同時にいずれも「ファンタジー」作品であることだ。片や、近松門左衛門の人形浄瑠璃『曾根崎心中』をモチーフに、「人形」が主役の一部を演じる時代劇ファンタジー、一方の『ふてほど』も、近未来・近過去(昭和←→令和)タイムスリップを軸にした、ある種のSF歴史ファンタジーだ。そして『ちかえもん』の主役・近松は松尾スズキ、『ふてほど』は脚本・宮藤官九郎、主演・阿部サダヲと、いずれも劇団「大人計画」のリーダーたちであるところも同じだ。普通のドラマ構成ではなく、コミカルな歌や、ミュージカル仕立ての場面が挿入される演出もそうだ。

『ちかえもん』は、浄瑠璃の描く義理人情、古典落語からの引用など、藤本有紀が得意とする日本的文芸色の強いハートフル・コメディで、とにかくよく練られた脚本と、演出、俳優の演技ともに素晴らしく、当然ながら「向田邦子賞(2015年)」を受賞している。一方の『ふてほど』は、家族愛と笑いをまぶしながら、触れにくい現代世相への疑問をテーマに10話を構成する、というクドカン独特の表現による創作世界だ。演出、演技のテンポがスピーディで、リズムと瞬発力があり、また出演者がとにかくうまい。ミュージカル部分も、懐かしの元ネタや原曲を様々に工夫して、場面に合わせて仕立ててある(しかし最近の役者さんは演技もそうだが、歌も本当に上手だ)。セリフやアクションに小ネタやギャグが散りばめられていて、展開が目まぐるしく、毎週一回観ただけでは(年寄りには)ストーリー全体の流れがつかみ切れない。また芝居の「細部」に込められた面白さをつい見逃してしまう(覚え切れないし、元ネタを知らないことがあるので)。したがって録画を何度も見直すのだが、しかし何度見ても同じところで笑ってしまう、同じところで泣ける――という点が普通のTVドラマとは違う。つまり気づくと、ロングランの劇場公演で、毎日同じ芝居を演じる役者たちの一挙手一投足を観たくて、何度も足を運ぶような(行ったことはないが…)感覚でTVを見ているのである。出演者全員の呼吸、チームワークが良い点もそうで、見終えたあと、松尾スズキ一座とか阿部サダヲ一座の「舞台公演」を観劇したような、リアルな感想と満足感を抱く。これは寄せ集めスタッフと俳優から成る普通のTVドラマからは感じられない要素で、放送中は「翌週の放送が待ち遠しい」という、まさに昭和の全盛期のTVドラマにあった魅力を持っているところも、この2作品に共通だ。

私は元来コメディやコント好きだが、今回の『ふてほど』はなぜこんなに面白いのか、ドラマなのになぜ何度も録画を観られるのか、自分でもよくわからないくらいだった。そこで念のために、基本ストーリーやその展開の面白さとは別に、どこが自分の「ツボ」なのか、(ヒマなので)各話の場面から面白い、記憶に残る部分を拾い上げて(たぶん人によってこうしたツボは違うと思う)、「備忘録」としてまとめてみようとしたが、そうした場面数が多すぎるのと、要素が複雑(セリフ、アクション、場面の流れ等)で、とても文章では書き切れないことが分かった……。しかし、私見では、この作品の成功の鍵はまず「第1話」にあるのだと思う。笑いと同時に、ドラマ全体の骨格と出演者たちのキャラが、テンポ良く見事に描かれていて、そこで完全に視聴者の「つかみ」に成功し、次回以降も「ぜひ観たい」という衝動をまず我々に起こさせるのだ。ドラマ全体の構成は、サブタイトル「……じゃダメですか?」と、全10話の各話ごとに現代世相に疑問を呈するテーマを取り上げて展開し、そこに毎回ゲスト出演者が加わるが、軸となるのは、もちろん小川市郎(阿部サダヲ)と純子(河合優実)という父娘だ。

そのイントロが、第1話の「昭和」の小川家の冒頭場面だ。「起きろブス!盛りのついたメスゴリラ!」「うっせえな、このクソジジイ。朝っぱらからギャーギャー言うな……こちとら、低血圧なんだよ!」で始まる、中学教師・小川市郎と娘のスケバン高校生・純子の、近年のTVドラマではあり得ないワイルドなセリフのやり取りで、まず唖然とさせられる(『この作品には不適切な台詞や……』というお断りテロップが、以降アブない場面では毎回流れる)。続けて、鏡に向かってルンルンと聖子ちゃんカットの髪をセットしている娘が、納豆をかき混ぜている父親に「おっさん今日は何時に帰って来んの?」と訊き、「おっさんって誰だ?」と訊く父親に対して「おめえだよ、ハゲ」、「もう一ぺん言ってみろ!」という父親、「そこで納豆かきまぜてるチビで薄毛のおっさんだよ、ハゲ」と、さらにボロクソの暴言をたたみかける娘。「何時に帰って来る? 5時、6時?」と訊く娘に「板東 ”エイジ”」と答える父、「つまんね」と答える娘(ここでまず、80年代のTBSドラマ『毎度おさわがせします』を具体的に想起させる。その後も「親をなんだと思ってるんだ?」「薄汚ねえ貯金箱」等々、純子の名言?が続くが、こうした父娘のやり取りを、私のように面白がる人間と、そうでない視聴者に分かれるのは、いたしかたないだろう)。

そうこうして出かけようとする娘に、急にやさしく「純子、ママに『行ってきます』は?」と訊く父と、一転して、素直に従って仏壇の前に座り、律儀に母親の遺影に手を合わせて「行ってきます」と言う娘。出かけ際に「カネくれ」と父親に可愛くねだる娘。怒っていたのに、「しようがねえな」という感じで千円札を渡しながら、娘が可愛くて仕方がない複雑な顔をする阿部サダヲ。背後の(古い)TV画像でミヤコ蝶々が、にっこりして「ちゃっかりしてるけど、ええ子やな」と言う……この冒頭の小川家のシーンで、父娘のキャラ、二人の関係、物語の骨格が見事に提示されている。そして純子役の河合優実は、既に実力ある若手女優として知られていたらしいが、たぶんこの冒頭シーン一発で、日本全国の昭和のオヤジ(+全元ヤン)の心をわしづかみにしたことだろう。『あまちゃん』の能年玲奈(のん)と同じく、河合優実というフレッシュな女優を全国的にブレイクさせたのもクドカンの慧眼と腕だろう。頑張っていたが、当時は「いっぱいいっぱい」という感じだった能年玲奈(そこが良かったわけだが)に比べ、河合優実には既に「役を演じている」女優という大物感が漂っていて、役になり切るその自然な演技には天才を感じる。

もう一人の主人公、阿部サダヲのスピード感のある「キレのいい」セリフと演技にも笑いっぱなしだった。以前は苦手なタイプの役者だったのだが、最近、特にこのドラマで、やはりいい役者だと見直した。娘にAXIAのカセットテープを買ってきたものの、「ノーマルじゃねぇかよ! 音の良いメタルかクロームじゃなきゃだめなの!」と昭和的に怒られ、おニャン子の渋谷 ”SAILORS” のトレーナーならぬニセモノ ”SAYERS” を錦糸町で買ってきて、これも娘に怒られ「よく見ろジジイ!」と投げつけられる(本物?の "SAYERS" トレーナーを、TBSが売っているらしい)。純子にかかってきた電話を取り上げ、「純子はもうクソして寝ました」と言って勝手に電話を切り、「ジジィもクソして寝ろ!」と娘に罵倒される。学校帰りに乗った路線バスが昭和から令和にタイムスリップし、中で普通にタバコを吸いながら、乗ってきた白いAirPodsを耳に付けた女子高生に「ねえちゃん、ウドン、ウドン、耳からウドンが垂れてますよ」という阿部サダヲ(アブない男と思われ、乗客が全員バスから逃げ出す)。コンビニでタバコの「ハイライト」を買おうとして女性店員(この人が、どことなく可笑しい)から、やれ番号で言え、年齢確認ボタンを押せと言われ、「にゃんにゃん、ちょめちょめ」が伝わらず、あげく値段が170円から520円になっていて「なめてんのか!」とキレまくる阿部サダヲ。タイムスリップ後、喫茶「すきゃんだる」だった店が、「SCANDAL」になっていて、マスターが袴田吉彦から、よれよれの沼田爆(『鬼平犯科帳』の炊事担当の同心「猫どの」の姿を久々に見た)になっていて驚く阿部サダヲ……等々。

一方、逆に令和から昭和にタイムスリップしたフェミニストの社会学者・向坂サカエ(吉田 羊)と、とぼけた中学生の息子(4丁目の)キヨシ(坂元愛登)の二人も傑作だ。吉田羊は、これ以上の女優はいないだろう、というくらいぴったりのはまり役だ。キヨシのおっとり演技もいい。そのキヨシに暴力をふるったと、小川と校長はじめ、パワハラ、セクハラまみれの昭和の中学の教師たちを相手に、スマホを片手に説教したり(この場面のやり取りが超面白い)、その後小川家に居候することになって、「ババア」呼ばわりし「おばさん冝保愛子?」とか言う純子や、その純子に一目惚れして「地上波でおっぱいが見たい」と駄々をこねるキヨシにも説教し、これも昭和の定番「翔んだカップル」状態になった二人が「xxしないか」と心配して、令和ー昭和のスマホ交信を可能にする(?)脚立(きゃたつ)を肩に担いで「キヨシー!」と絶叫しながら、昭和のアーケード商店街を疾走する…等々、笑えるシーンが満載だ(同じく阿部サダヲが、二人が心配で令和から家に戻って来て、純子とキヨシとやり合うドタバタシーンも笑える)。吉田羊はずっと、クールにギャグ的演技をこなしているが、第9話のホテルの場面で「すしざんまい!」のキメが入ったシーンが最高に面白かった。しかし、妻を亡くして落ち込む父親の気をまぎらわすために自分がグレた、と純子がしみじみ告白する相手もサカエさんだ。

のちに、純子の娘(市郎の孫)だと分かる犬嶋 渚を演じた仲 里依紗も熱演で、彼女は自然なコメディもうまい。令和にタイムスリップした市郎と、祖父とは知らずいい感じになって、エレベーターの中で二人があわや接触しそうになるたびに「ビビビッ」と電気が走り(歴史の書き換え禁止。タイムパラドックス)、二人が何度もくっついては離れ……を繰り返す姿を、守衛室の防犯カメラのTV画像で見ている二人の守衛(警備員?)が、ぼんやりと「あの二人、何やってるんですかね?」と言うシーンも笑える(本物の守衛さんにやらせたのかと思ったら、そうではないらしい)。

後半に入ると、阪神淡路で亡くなる運命の市郎と純子を中心に泣かせるシーンが増える。令和にタイムスリップして考えを改め、猛勉強して大学へ進学した純子が、ディスコで知り合った「覇者」で神戸出身の犬嶋ゆずる(錦戸 亮→古田新太)と結婚して子供(渚)を産む。バブル崩壊でテイラーになったゆずると、結婚に反対していた市郎が神戸で対面、和解し、"Daddy's Suits" の歌をバックに市郎のスーツを仕立てるシーンにはぐっと来る。そして令和にタイムスリップしてきた高校生の純子と渚、最終回に市郎と一緒に昭和にタイムスリップした渚と、自分が渚の母とは知らない純子の二人が、「娘と母親」という時空を超えて対面するシーンは、いずれも何度見ても泣かせる。最終回の場面は、どうしても大林宜彦監督の『異人たちとの夏』での、生前のまだ若い両親(片岡鶴太郎と秋吉久美子)の幽霊と、成人した息子(風間杜夫)が、浅草で共に過ごす短い夏のシーンを思い起こす。

その他、名前を知らない人を含めて俳優陣がみなさんうまい。マッチそっくりの「ムッチでーす」の磯村優斗(二役)の肩の力の抜けた演技がいい。ムッチと純子という昭和のヤンキーカップルにキヨシがからむコント場面や、タイムマシン発明者・井上昌和役は二人とも(メガネの中学生→三宅弘城)面白かった。他に、演技が地のままのような山本耕史や八嶋智人、トリンドル玲奈、それに携帯ショップで「…でよろしかったでしょうか?」と繰り返して市郎を怒らせる”若井ちゃん” (後でカラオケにも参加)等々…面白場面と同じく、多すぎて全て書き切れない。

ネット上では、阪神淡路での小川市郎と純子の運命を含めて、いろいろ最終回への期待や想像が語られていたが、エンディングはあれでよかったと思う。純子の娘の渚と、ムッチの息子・秋津真彦(マッチ)がマッチング(シャレか?)アプリのデータでくっつくのもなるほどだし、キヨシが「純子先輩、おっぱい見せてくれてありがとう!」と、令和行きの最後のバスの窓から叫んで、市郎が「えっ」と驚くフィナーレも笑わせてもらった。さすがクドカンである。個人的には、3ヶ月近くの間、TVを通じて(タダで!)この傑作を楽しませくれた作者、スタッフ、俳優陣、スポンサーに感謝したい。それくらい面白かった。