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2021/09/26

英語とアメリカ (7)アメリカ文化

アメリカに関するこの記事を書いていて、昔、司馬遼太郎が書いたアメリカ紀行のような本を読んだことを思い出した。その本のタイトルが『アメリカ素描』だったことも思い出し、今は文庫本になっていることを知って、先日それを買ってあらためて読んでみた。今から35年も前の1986年に読売新聞社から出版された本で、1985年から86年にかけて司馬遼太郎が初めてアメリカを訪問し、西海岸、東海岸の主要都市を40日間ほど旅行したときの観察を基に、紀行文として書いたものだ。80年代半ばといえば、私が米国親会社の内部で仕事をやり始めた頃であり、また日本経済がバブルに向かって絶好調だった時代だ。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』とか『NOと言える日本』とか、威勢のいい本も出版されていて、戦後の対米劣等感から解き放たれて、もうアメリカとは対等だというような空気があふれていた。逆に当時のアメリカは、自動車や半導体で日本に追い抜かれるかもしれない、というプライドとあせり両面が背景となって、ジャパン・バッシングが全米各地で起きていた。

したがって、そうした時代背景も前提にして読むべき本なのだろうが、司馬遼太郎らしい、表層ではなく、常に「歴史の深層」を掘り下げようとする筆致は、初めて、それも短期間だけ訪れたアメリカを対象にしても同じで、わずか数週間、数都市の滞在とは思えないような深みのある洞察と表現で、アメリカという国家の本質を探り出そうと試みている。何を見ても、常に一度、日本や世界の歴史がどうであったかという背景や事実と結び付けてから考察する姿勢と、その作業を可能にする深く広範な知識に驚く。遠くの対象にカメラのピントを徐々に合わせていくように、ある種の臨場感と生理的快感を常に感じさせる文章なので、今読んでも古くささのない、すぐれた文明論になっている。この本は、デジタル時代が到来する前の80年代までのアメリカを観察したものだが、アメリカという国家の本質をとらえようとしているので、その後私が経験上感じたり、考えてきたことを多くの点で裏付けている。同時に、イギリスのピューリタンに始まり、ヨーロッパ各国からの移民や、アジア系移民の歴史等、米国史の常識というべき事実を、おさらいのようにあらためて思い出すことも多く、WASPを頂点とする移民の重層性とヒエラルキーなども、なるほどと頷くことが多い。

特に「多民族による人工国家」という認識をベースにして、文明(普遍性)と文化(個別性)という切り口でアメリカを語った本は、今はともかく当時はまだなかったように思う。19世紀までのヨーロッパの近代文明に続き、アメリカは20世紀に生まれた「文明の国」であり、その文明は「多民族性、多文化性」という、この国が創建された時から内包する複雑なフィルターを経て、濾過されてきたものであるがゆえに、本質的にグローバル(当時はまだ、この言葉は使われていなかったが)に受容され、拡散されるという普遍性を持っている、という指摘はまさしくその通りだ。日本も、戦後の半世紀でアメリカ化されることが当たり前の日常となり、戦後生まれの我々は、子供時代から映画やテレビドラマ、飲食物、自動車、電化製品等を通して、便利で快適なアメリカ文明(=アメリカ文化)を体の芯から刷り込まれた世代だ。こうした国民レベルでの、日常生活の「アメリカ化」という蓄積があったからこそ、アメリカという手本に追いつけ追い越せ、という具体的目標とモチベーションが生まれ、日本の産業も経済も発展したのである。

90年代以降のデジタル時代になっても、「さらに便利で快適な生活」を提案するGAFAのようなビジネスを通じて、世界中で絶えず「アメリカ化」が進行してきた。私もコロナ禍の最近などは、気づくと毎日家の中で何の抵抗もなくAppleのスマホやWin PCを使って交信し、MacやWinのOS上でGoogleで検索し、MS/Wordで翻訳原稿を書き、Macオーディオで音楽を聞きながらGoogle Bloggerでブログを書き、YouTubeで動画を見たり、音楽を聴いて楽しみ、普通にAmazonであれこれ買い物をしている。そうこうしているうちに、GAFAは世界中の国や人々の日常生活の奥深くまで浸透し、知らず知らずのうちに(個人情報を収集しながら)、それらの国や地域固有の思想や文化に影響を与えているのである。その圧倒的な影響力、支配力と、今や自分がほぼ無自覚にそれらの「サービス」を日常的に利用していることに、正直言って時に恐怖すら覚えることがある。

ギリシア、ローマ、中国などの古代文明から19世紀の西ヨーロッパまで、「文明」とはそもそも、ある国や地域固有の「文化」が政治、経済、軍事等のパワーを背景にして、周辺地域に徐々に浸透し、その過程でそれら周辺文化も吸収しながらさらに深化、拡散する、という普遍化プロセスを経て成立するものだ。ところが20世紀の「アメリカ文明」は、国家の成立時から既に普遍性を内包しており、その下で形成された「アメリカ固有の文化」が、国力を背景に短期間にそのまま世界に拡散したところがユニークなのだ。20世紀の情報伝播速度が飛躍的に上がり、デジタル化によってさらにそれが加速されているという時代背景も違う。本稿中でも挙げたように、そうしたアメリカ文化を象徴するコンセプトないしキーワードは――ヴィジョン(理想)、ミッション(使命)、フロンティア(最前線)、リモート(遠隔)、チェンジ(変化)、スピード(速度)、チャレンジ(挑戦)――等、本稿で挙げてきたアメリカ人が好む概念や行動を表す特質だが、中でも「Change(変化)」こそが、これらの特質に通底するアメリカ文化の本質ではないかと思う。

私は昔から、アメリカ人には常に 「Change」への脅迫観念(=常に変化し続けなければならない)があるのではないかと思ってきた。アメリカ人はよく働くが、それは日本人が美徳とする「勤勉」とはまた違うもので、「じっとしていると競争相手に負ける、置いて行かれる」という、資本主義の権化のような国に生きる人間特有の恐怖心のようなものだと思う。これは産業界だけでなく、たとえばマイルス・デイヴィスが米国音楽界で「芸術音楽としてのジャズ」というジャンルだけでなく、「ジャズ・ビジネス」の世界でも成功した稀なミュージシャンだった理由の一つでもあると推測している。第二次大戦後からマイルスは、ビバップ/クール/ハードバップ/モード/フュージョン/ファンク……と、演奏スタイルを時代に応じて(約5年ごとに)意図的に変化させ続けたが、これほど自身の音楽上のスタイルを変え続け、それでいながらジャズ界のリーダー的地位を確保し続けたジャズ・ミュージシャンは他にいない。もちろん才能あってのことで、芸術上の理由もあるだろうが、聡明なマイルスはむしろ、そうし続けないと「米国人聴衆に飽きられるのではないか」と恐れ、あるいはそれを見抜き、先手を打っていたのではないかというのが私の想像だ。

司馬本にも出て来るが、何年かすると「街の様子」がすっかり変わってしまう、というのも「Change」の象徴で(田舎は別だが)、資本主義社会の非情と移ろいやすさを表している。その例として、廃墟のようになったドック群を見て、フィラデルフィアの造船業の盛衰史を語っているが、ピッツバーグの鉄鋼も、私が90年頃に実際に見たデトロイトの自動車も同じだ。栄えていた街や地域が急速に廃墟化する様は、日本のように穏やかな文化を持つ国の人間からすると、本当に強烈なショックなのだ。20世紀後半に、これらの産業はみな日本に一度主役の座が移ったが、その次に鉄鋼、造船が韓国へ、さらに中国へと生産の主力が移ったのは歴史が示すとおりだ。半導体や電子機器の歴史も同じである。1980年代のアメリカ人が感じた、身の回りから国産品 (Made in USA) が徐々に消えてゆくという喪失感を、21世紀になって感じているのが我々日本人なのだ。それが資本主義であり、それもわずか数十年という期間にその変遷が起きているのである。日本に追いつかれた(表面的に、だが)アメリカは、半世紀の間、世界を主導していたそれらの国内製造業をある意味でスクラップ化し、それに代わる新たな産業をまた生み出したが、それが(80年代の準備段階を経て)90年代から始まった、インターネットとコンピュータを駆使したデジタル革命による産業のIT化だ。実物経済ではなく「カネがカネを生む」というウォール街の投機ビジネスを目にした司馬は、「モノ」を作らなくなったアメリカはいずれ亡びるのではないか……と80年代的に危惧しているが、一度沈んだかに見えても、再浮上するための資本と人材(リソース)を常に潤沢に維持し、次の成長を支える戦略と制度を常に見直している真正の資本主義国家アメリカは、90年代以降は「サービス」で復活を遂げたのである。

新聞紙や包装紙を再利用して大事に使っていた昭和30年代の日本に、アメリカ生まれの「使い捨て」ティッシュペーパーが初めて登場したときは本当に驚いたものだ。米国は他の国と違って、土地も資源も豊富なので「eco」という概念がそもそも稀薄だ。地球規模で「大量生産と大量消費」という概念とシステムを広め、その効用と利便性と引き換えに環境危機を生み出した最大の要因は、我々の生活を欲望の赴くままに、世界規模でひたすら便利に快適にしてきた「アメリカ文明」にあると思う。程度の差はあれ、世界のどこでも便利で快適な生活がひとたび実現すると、人間はもう元に戻れない。しかも90年代以降のデジタル化で、モノだけでなくサービスまでが自在に利用できるようになると、さらにその先の便利さが欲しくなる。1日かかっていた仕事が1時間ですむようになると、もっと短くできないかと考えるようになる。人間の欲望には際限がないので、ますます便利で快適な生活を求める。結果として、貧しかったがゆったりしていた生活から、便利で快適だがあわただしく、小忙しい毎日へと人間の世界が変わってゆく。低コストで大量に生み出したモノがあふれてゴミになり、地球規模で環境を汚染し、生産活動に大量に消費していたエネルギーゆえに天然資源は枯渇する。脱炭素もSDGsも、こうした地球規模の問題を解決しなければ、もうやっていけない状態に近づいているという危機感から生まれたものだ。最近になって、マルクスの『資本論』やマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のように、根源的な問いに答えてくれそうな(懐かしの)思想がまた注目を集めているのも、人々がこの状況に本当に危機感を抱き始めたからだろう。

こうした功罪両面を持つアメリカ文化(文明)を生み出してきた「アメリカ人」に関しては、人それぞれのイメージを持っていることだろう。複雑な背景を持つ国なので、一言で「アメリカは…」とか「アメリカ人は…」とかはもちろん言えない。私が長年経験したと言っても、アメリカの中のほんの一部の企業、地域のコミュニティに関することにすぎず、それをもって一般化できないのももちろんだ。だから、あくまで限られた体験に基づく個人的感想だが、あえて言えば、アメリカ人からは、異民族や植民地統治の長い歴史を持つイギリス等、ヨーロッパ各国のような思想的複雑さや、ある種の狡猾さ(「思慮深い」「洗練された」とも言う)は感じられない。アメリカ人は「総じて」シンプルで、フランクで、フェアな人たちだという印象を持っている(人種差別の問題は、米国の基礎疾患のようなものなので別の話だ)。

私はアメリカのドタバタ喜劇映画が昔から好きで、シリアスな局面でも、事態や自分を茶化す乾いたアメリカン・ユーモアが好きだ。日本人もそうだが、何かあっても、しつこく恨みを抱いたりしないおおらかさもいい。アメリカとアメリカ人についての、全体としてポジティブな私の見方は、幸運にもこれまでの長い交流の中で、本当にイヤな体験をほとんどしてこなかったせいなのだろうと思う。ただし、群れることを嫌い、オフィスでも個室やパーティションで区切られた世界を好む彼らは、自由の国にいながら、どこか孤独に見えるのも事実だ。それとどこかでも書いたが、アメリカ人は成長してアメリカ人「になる」のであって、一方、日本人は生まれながらに日本人「である」、という両国民のアイデンティの認識は、基本的価値観の違いを知る上で重要だと感じることが多い。

一方、移民国家としての米国には、他国から見ればおかしな点や欠点もたくさんあるだろう。私が気づいたその一つは、トランプ時代が象徴しているように、アメリカが世界の中心だという意識が強く、歴史の短い自国のことしか知らない、関心がない、という人間が総体として多いので、異国の歴史や文化、そこに住む外国人がどのような存在なのか、その多彩さに思いを巡らせる「想像力」を欠いている人が多いことだ。その結果、何ごとも「自分たちが良いと思うこと」は世界中のどこでも通用する、と楽天的に(傲慢にとも言えるが)信じ込んでいるところが「普通の」アメリカ人にはある。だから国や民族、文化の微妙な違いなどは無視して、自国の価値観を強引に押し付けたり、大雑把に「アメリカ人」がいるように「アジア人」もいるというような、ある意味で「雑な」思想や姿勢が、政治問題、企業の事業戦略や運営から現在のアジア系ヘイト問題に至るまでの背景にあるように思う。

当然だが、逆にそれが「歴史や伝統にとらわれない」という自由、進取、革新の国民性、文化という長所を生み出してきたわけで、科学技術の発明、市場創造、起業精神のみならず、20世紀の映画やジャズのように、まったく新しいアートやエンタメ産業を生み出す土壌にもなっている。バラバラな出自の移民をまとめるために、まず共有すべき理想(Vison) を掲げて前進しつつ、人類がかつて経験したことのない社会を作ろうと、失敗もリスクも容認しながら、今も挑戦し続ける真に「実験的な国家」がアメリカなのだ。一方、同じ人種で長い歴史を持ち、互いを良く知り、和を重んじるための約束事が多く、変化やリスクを避け「何事にも慎重な」日本は、文化的にその対極にある国と言えるだろう。(続く)

2021/09/10

英語とアメリカ(6)デジタル化

世界のデジタル競争力
スイスIMD調査
日本経済新聞 2020年10月
日本のデジタル化が、世界の趨勢から見てどの程度遅れているのかは、5Gとかスマホの進歩とか、表層的話題で覆われているので日常的に実感するのは難しいが、世界では様々な指標を用いて分析されている。何を指標にするかで当然評価は変わるし、左表(スイスIMD)の「デジタル競争力ランキング」はその一つだが(知識、技術、将来への準備、の3項目で評価)、1位の米国は当然として、他のどの分析を見ても、日本の順位にそれほど大差はないので、この表の順位(27位/63ヶ国中)あたりが世界における客観的な立ち位置だと考えていいのだろう。見ての通り先進国はおろか、アジア主要国の中でも最低で、途中が省略されているがマレーシアより下、しかも、さらに沈下中だ(IMDの分析データ詳細はネット上で見られるが、中でも知識/国際的人材、技術/法規制の枠組み、将来/企業の俊敏性などの評価が最下層に近い)。コロナ禍のワクチン接種の問題等によって、従来から(大昔から)指摘されていた縦割り行政に起因する中央、地方官庁のデジタル化のお粗末さ(いまだにFAX、各地でばらばら)が顕在化したこともあって、菅内閣による「デジタル庁」という役所が異例の速度で創設され、今月からスタートした。

そこで、とりあえずホームページを一読してみた。まず気になったのは「ミッション(Mission)」と「ビジョン(Vision)」だ。ミッションが上に書かれていて『誰一人取り残さない、人に優しいデジタル化を。』で、次にビジョンが来ていて『Government as a Service』、『Government as a Startup』と2つが書いてあるが、どうもミッション、ビジョンの順序と内容が逆のような気がする(それに、なぜビジョンだけ英語なのかも謎)。本稿の(2)で書いたが、Vision/Mission (/Strategy or Value) は、元々はP・ドラッガーが、20年くらい前に米国で提案したビジネス戦略の立案プロセスを概念図化したものだ。詳しくは知らないが(親会社もそうだったので)本場(?)のアメリカでは当然「Vision」が上位概念(ピラミッドの頂点部分)だろうと思う。例によってそれを輸入加工した日本では、Web上の企業のホームページやコンサルタント会社の記事も、半分以上はMissionが上位に来ていて、しかもVisionと内容的に区別がつかないケースが多い。読んでもよく分からないような曖昧な表現も見受けられる。借り物の概念を使って、日本人の思想、視点で作ると、どうもそうなるようだ、と理解した。これが、あらゆる日本型組織の方針設定等に見られる特徴であり(総花的で焦点が曖昧)、運営上の混乱の源のような気がする。

(3) で書いたように、ものごとを見ている視点、視界が違うからだろう。まず、長期的に「あるべき未来図」(Vision)を常に思い浮かべるのが習性になっている(歴史が極小のフロンティア志向の)民族と、まず自らを律する「使命(任務)」(Mission)を先に思い浮かべる(長い過去を引きずり、その延長線上に生きている)民族の差ということなのだろう。ほとんどのアメリカ人がまず「現在から見た未来」に目を向けがちなのに対し、日本人が常に「過去から始まる現在を見る」傾向があり、相対的に未来に目を向ける比率がアメリカ人より圧倒的に低いという分析があって、私も実際にその実験に米国親会社の研修で参加したことがあるが、実にその通りの傾向が見られた。つまり過去へのこだわりの強さ(日本)、未来へ託す希望の強さ(米国)、の差とも言える。また翻訳の仕事をしてあらためて分かったのは、英語と日本語における過去形、現在形の表現にもその違いが表れていることだ。英語の文章や会話では、過去ー現在完了ー現在ー未来の「時制表現」は文法上ほぼ明確だが、日本語では、同じ文章や会話の中で過去と現在を行ったり来たりして、過去のことなのに、あたかも現在のことのように現在形で表現していることが多い。これは「歴史的現在」と呼び、英語にもあるが頻度が違う。特に小説や会話で頻出するが、英→日翻訳の場合は日本語を工夫して、過去のことではあっても部分的にあえて現在形にした表現で訳さないと、みんな「…た」で終わってしまい、単調でおさまりが悪い文章になる(意識して日本語の文章を読んでみたら分かります)。

何が言いたいのかというと、社会全体のデジタル化のような根本的変革は、過去(アナログ思想)の延長線上で徐々にやろうとしても、うまく行かないということである。つまりアメリカ型の、未来を見据えたラディカルな「Change」思想が必要で、昔の日本が得意とした徐々に前進させてゆく「カイゼン」思想ではうまく行かないということで、それが過去30年間の日本のデジタル化失敗から得られた教訓だろう。それを打破すべく、遅ればせながら「デジタル庁」を創設したことは一歩前進と評価したいが、それにしても上記ミッション、ビジョンの設定はどうもしっくりと来ない。国家として2021年のフェーズで重要なのは、「行政手続き」のデジタル化とか、「紙からデータへ」というデジタル化の初期(20年以上も前だ)に期待されたスピードと効率向上という単純な効果(digitization or digitalization) ではなく(もちろんそれすら実現できていないのだが)、むしろ社会的ツールとしてのデジタルを、国としていかに活用して、社会の在り方そのものを変えてゆくかという構想 (digital transformation; DX) の方だろうし、もちろんそのことはデジタル庁の中でも議論されている。

ただし社会のデジタル化は万能ではないし、移行の過程である程度の歪や痛みも伴う。アナログ世界の何をどこまでデジタル化したら国家として最も望ましいかは、当然ながら各国の歴史や文化に関わってくる問題なので、その最適解は国ごとに違うと思う(やがては各国が、その国に適したバランスで落ち着くのだろう)。だから日本における「デジタル化の理想」を協議した結果が、いかにも日本らしい『人に優しいデジタル化社会の実現』だという結論に至ったなら、それこそをデジタル庁が音頭を取って日本国民が共有し、目指すべき「ビジョン」とすべきではないか。「誰一人…」は情報弱者、高齢者等への配慮だろうが、「人にやさしい」で表現されていると考えれば(標語は短い方がいいので)言葉としては不要だろう。そのためにデジタル庁が担うべき使命(ミッション)が、『Government as a Service』=「国、地方公共団体、民間事業者、その他あらゆる関係者を巻き込みながら有機的に連携し、ユーザーの体験価値を最大化するサービスを提供します」、と『Government as a Startup』=「高い志を抱く官民の人材が、互いの信頼のもと協働し、多くの挑戦から学ぶことで、大胆かつスピーディーに社会全体のデジタル改革を主導します」であるべきだろう(ただし、文章が長いし、もっと他に重要な仕事や、簡潔な表現がある気もするが)。

懸念するのは、デジタル庁がデジタル・インフラのさらなる整備・強化や、デジタル・ビジネスの自由な発展を支援し、促進する――ならいいが、民間の仕事に横から口を出し、利権がらみで上から規制したがる恐れがあることで(担当大臣のこれまでの言動、デジタル監の人事問題に既にその兆候が表れている)、その行動と成果を注視してゆく必要があるだろう。だから、この役所創設の「目標」設定と「任務」の定義は重要で、それが曖昧だと、従来の「日本的役所」がまた一つ増えるだけの話になって、デジタルによる効能「スピードと効率アップ」どころか、相変わらず利権を貪る輩の餌食となって、税金の無駄使いに終わる可能性もある。上図のように世界的に見て明らかに遅れていること(ほぼ手つかずであること)と、コロナ禍の混乱や制約の問題(社会的にニーズが高まっていること)が「逆に幸いして」、今はデジタル技術やサービスを駆使して、ほぼゼロベースで日本を変革できる千載一遇のチャンスであり、その「変革プラン」の策定は日本の未来にとって極めて重要だからだ。成功すれば、沈みっぱなしの過去30年間から脱却し、日本ならではの新たな価値創造を通じて、日本が真に生まれ変われる可能性さえあるのだ。

たとえばデジタル技術や機器による通信インフラが整備され、その有効性がようやく実証されつつある今、個人レベルでも「地方への移住」という選択肢の可能性がかつてなく高まっている。従来から指摘されていることだが、社会全体として見ても、「人口密度」と「地価」が異常に高い大都市圏に国や企業のリソースを集中させ続けることは、日本の産業構造の持つ「宿命的コスト高」から逃れられず、かつ今回のコロナや地震のような災害時の「社会的リスク」が増大するだけで、もはやプラスの要素は何もない。コスト(地価)の安い地方に拠点を分散し、従業員はゆったりとした地方で、広い居住スペースと安い生活費(住居費)で暮らし、容易になったホームオフィスやオンライン会議、満員電車から解放された短時間通勤等で家庭と仕事をバランスよく両立する、そして、そうしたリソースの分散・移動によって地方に雇用を創出して地域を活性化する、また観光客も呼ぶなど過疎化対策にも寄与する、さらに、これまで制約の多かった女性や障がい者が、家にいながら、もっと自由に働けるような条件や環境を整備する――等々、デジタル技術の社会的活用は、これまで日本では克服するのが困難だったそれらの課題を実現するためのインフラ、ツールとして強力な潜在能力を秘めている。そのための法整備や既存の慣行の改革も必要だ。それらの結果として社会の在り方、価値観そのものを変えてゆく力もある(transformation)。単に「テレワーク化をもっと進めましょう」とお願いするのではなく、その変化を強力に推進するための政治的指針と、支援のための施策が重要なのだ。

もっと言うなら、「長期的視点」から国土全体への人や資源のバランスの取れた「再分配」を最優先課題とし、その「大構想の下で」、デジタル技術とシステムを最大限活用して抜本的改革を目指す『21世紀型の日本列島改造論』こそを国家戦略として官民共同で策定し、計画的に実行すべきではないか。そこでの「デジタル庁」最大の任務は、その「長期戦略策定と実行」を、省庁を横断的に統括して推進する司令塔であるべきだ。そして、上に立ってその大改革を主導し、「1億人の国民」が将来も安定した生活を送れるような施策を提案、実行することが、国政を担う政治家の最大使命だろう。日本国内だけでなく、「台湾」のようにデジタル化が進んでいる海外の「友好国」と密接に協業し、その知見やリソースも活用するなど、国際的視野を拡げ、柔軟に取り組む政治的リーダーシップも必要だ。

政策より政局好きで、派閥間の権力闘争にしか興味もなく、頭の中は「昭和」のままで、デジタル世界の ”デ” の字も分からず、80歳を越えてなお反社のボスさながらの言動で権力にしがみつく老人たちや、金と利権にしか興味のない無為・無策・無能の3無の政治家たちにはとっとと引退してもらって、古い制度を大胆にスクラップ化し、同時に未来の「グランド・デザイン(大きな絵)」を描き、主導できる新たな政治家やリーダーが現れることを一国民として切望する。無用・無能な国会議員の数を半減させ、定年制を導入して全体を若返らせ、一人あたりの議員報酬レベルを上げ、その待遇に見合う能力とプライドを持った、真に優秀な議員を「厳重に選別」するための制度構築が必要だろう。また現代の日本に存在する、もっとも有効な「未開拓リソース」は女性だ。たぶん、この国の未来を救うのは、過去のしがらみに縛られ、忖度しながら生きる常に内向きな「日本の男」ではなく、広い視野で世界を知る、真に優れた女性リーダーではないかと思う(ただし、男中心の政治世界で生き抜いてきた老獪な女性政治家とか、反対を声高に叫ぶだけの古臭い左翼的女性ではない)。いずれにしろ、世界を知らず、また知る努力もしない、狭い日本の、そのまた一地方や一団体の利益代弁者とその後継者が国政を担えるような時代はもうとっくに終わっているのである。(続く)