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2021/06/27

英語とアメリカ(1)G7にて

G7   sankei.com
今月イギリスで開催されたG7における菅総理の影の薄い、浮いた立ち位置(蚊帳の外)が、ネット上で取り沙汰されていた。4月訪米時の米国側の態度といい、一国の首相たるもの、英語ができないと国際舞台ではロクに相手にもされず、こうなるのだ、みっともない、ああ恥ずかしい……的な批判(嘆き?)が多く見られた。まあ、コロナ禍のオリンピックでは、うわ言のように「安全安心」を繰り返すだけで、理由の説明もエヴィデンスも何も示さず、結局のところ、強引に開催ありきで進めていることへの不満がくすぶっているので、なおさらの反応なのだろう。「言語より人間性だ」とかいう擁護意見もあるが、わずか数日の会議の場で人間性も何もないだろう。一生、日本から外へ出る気はない、出たくないという人を除けば、やはり今の時代、国際的標準語である英語ができた方が何かといいに決まっている。特に国を代表するような立場の人たちには、mustとされるスキルだと思う。

とはいえ、歴代総理では宮澤喜一氏以外、通訳なしでOKなほど英語が堪能だった人はいないようだ。日本人政治家は、海外の要人との会議や交流の場では昔から大体似たようなものだし、こちらも期待してこなかったので、菅総理も今更…の話だろうと思う。カメラの前では、そう見えないように振舞っていた演技(ハッタリ)上手な首相も中にはいたが、今回は確かに映像で見ても、見事に(?)ひとりだけ浮いているように見える。人付き合いが苦手だと公言し、実際に口べたで、日本語でさえあまり「自分の言葉」で喋らないので(身内は別なのだろうが)、こうした会議の場でも、通訳付きとはいえ、おそらくまともな議論はできなかっただろう――と「推測」されても仕方がない気もする。

ただ初の国際舞台でもあるし、G7の写真や映像だけで見るなら、菅総理の場合は英語の能力云々よりも、むしろ社交性を含めた本人のキャラ(パフォーマンスが苦手)と、「場慣れ」しているかどうかの問題だろう。同じ日本人でも、グローバル化した現代の実業界とかスポーツ界には、言葉も含めて国際的な場で堂々と振舞える民間人はいくらでもいるが、国内の有権者しか見ていない昔ながらの日本の政治家の多くは、そうした訓練もされていないので当分無理だろう。若くて、優秀で、広い視野と国際感覚を持った次世代政治家が育つのを待つしかないが、まるで江戸時代かと思えるような、時代錯誤も甚だしい金まみれの最近の若手(?)議員や、税金を掠め取るキャリア官僚のお粗末さで分かるように、政治家と役人はセットで人材劣化が激しい分野なので、それも期待できないかもしれない。

しかしこの件(海外における日本人の立ち位置)では、英語と、特にアメリカにまつわる会社員時代の(結構厳しい)個人的体験を、久々にあれこれ思い出した。私は日本とアメリカの「合弁企業」(化学メーカー)に約40年間勤務した。おかげで普通の日本企業で働いただけでは経験できないような、様々な体験(良いことも、そうではないことも)をしてきた。その会社を定年退職後、「ジャズ本の翻訳」という仕事を半分趣味で始めたのも、業務を通じて身に付けた英語やパソコンといった実務的スキルに加え、アメリカという国、企業、アメリカ人等を長年にわたって観察してきた経験が、単に音楽としてのジャズを楽しむだけでなく、「アメリカ固有の文化としてのジャズ」を多面的に考え、理解するための現実的背景やヒントを提供してくれると考えたからだ。

といっても、日米折半出資のこの会社は、技術は米国から、人材は日本から、という当時の典型的な合弁企業だったので、前半の20年間ほどは、いわゆる外資という雰囲気はまったくなく、確か外人役員が一人いただけで、あとは社員全員が日本側親会社からの出向でスタートしたごく普通の日本企業だった。英語がうまい人も結構いたが、入社後しばらくは、とにかく酒とゴルフの接待でお客と仲良くなれと言われるような、典型的な日本流の営業の仕事だった。おそらくまだ日本の企業内では、米国流マーケティングの「マ」の字もなかったような時代で、一般に「営業とはそういうものだ」と思われていた。もちろん日本の顧客相手なので英語も英会話の必要もなく、英会話といっても "How do you do?" くらいしか言えなかった。

ところが、米国側の親会社が提唱した、ある市場に関する初めての ”グローバル会議” へ日本代表として出席しろと、いきなり初出張を命ぜられた1981年を境に人生が変わった。米国親会社の本社と工場は、当時シカゴから1時間ほどローカル便でミシガン湖を横切って飛んだミシガン州の町にあり、今で言う中西部ラストベルト(Rust Belt) の一部だ。米国有数の化学企業の本拠地だったので、町の住人のほとんどがその関連企業に勤めていて、'80年代初め頃は、雰囲気もまだゆったりのんびりしていて、出張で訪問した英語の下手くそな日本人も、遠路はるばるやって来た客人扱いだった。まだ成田へは箱崎からリムジンバスで行き、成田からシカゴやデトロイト直行便など飛んでいなかった時代で、アメリカ東部へは時差調整も兼ねて、西海岸で一度乗り継いで行くのが普通だった。

その初出張では、一応OHPスライドを使って日本市場を紹介する英語の ”プレゼンまがい” のことをやったように思うが、何十人もの大会議ということもあって、相手が何を言っているのかもよく聞き取れず、英語の喋りは下手ときているので、ロクな質疑応答も議論もできなかった記憶がある。ただしまだ若く元気だったので、1週間ほどの滞在中に知り合った人たち(米、欧、アジア)とは、その後もずっと仕事を通じて付き合ってきたし、親会社内の人間関係という面では在職中の大きな財産となった。この出張がきっかけで、その後の30年間、主として親会社のマーケティングを中心とした部門の窓口的業務を日本で担当するようになり、会議や研修等のためにアメリカやアジア、ヨーロッパに出張する機会が徐々に増えた。1回きりの懇親の場とかなら適当にやり過ごせるが、最低でも1週間近く朝から晩まで続く、そうした会議や研修の場では、相手の言うことを聞き取り、喋れない限りコミュニケーションができないので、英語力を向上させる必要性を痛感した。そこで30歳代半ば近くになってから、やっと英会話の勉強を本気で始めたのだ。しかし、慣れがすべての英会話(特にhearing) は、やはりもっと若く、耳が鋭敏なときからやっておくべきだったと後悔した。

荒廃するデトロイト
その頃の米国親会社は、運営も、組織も、雰囲気も、日本の会社と大差なかったように思う。国土が広いアメリカでは、たいていの大企業がそうだが、とにかく片田舎にあって、人口がせいぜい数万人の町も、会社も、人も、のんびりした実にアメリカンな良い雰囲気だったのをよく覚えている。だが1980年代は米国全体としては景気が低迷し、一方、オイルショックを乗り越え、経済が絶好調だった日本が半導体や自動車で米国を追い上げ、不動産会社がニューヨークのロックフェラーセンターを買収するなど、米国における日本の存在感が急速に増してきたために、日本に対する反感(ジャパン・バッシング)も全米で徐々に強まっていた時代でもあった。その日本がバブル景気の頂点で沸き立っていた1990年頃の出張時に目撃したのは、治安の悪化で白人層が逃げ出し、黒人しか見かけなくなった州都デトロイト中心部や郊外の、ビルや住宅の廃墟が立ち並ぶ荒廃ぶりで、あの衝撃的光景は今でも忘れられない。アメリカの誇りであり、製造業の象徴でもあったデトロイトの自動車産業が壊滅的な打撃を受けていたからだ。ドライブに誘ってくれたオーストラリア人と、街の中心部から逃げ出すように離れたことを憶えている。繁栄していた都市が信じられないほどの速さで廃墟化する様は、アメリカという資本主義国家の本当の厳しさをまざまざと思い起こさせる。デトロイトの衰退と人口減はその後も続き、州や市が様々な対策を講じてきたが、今なお歯止めがかからないという

だが日本が平成に入った1989年から、ベルリンの壁崩壊、ソ連崩壊、天安門、湾岸戦争…など一連の世界的大変動を経た'90年代に入ると、東西冷戦に勝利し景気回復の軌道に乗ったアメリカは、”モノ→ 情報” へと国家戦略を転換し、インターネットと情報通信技術(IT)を基盤にした「デジタル革命」を強力に推進し始めた。企業レベルでも、リストラ(事業再構築)とIT、世界市場を対象にした ”globalization" を合言葉に、コンピュータを使った事業戦略やオペレーションを強化し、第二次大戦後から半世紀にわたって続いていた「モノ」中心の戦略、組織、活動から脱却しようとしていた。後になって振り返ると、化学会社ではあったが、当時の米国親会社が様々な事業変革に取り組んでいた背景にはこうしたアメリカ全体の流れがあったということがよく分かる。単体でも十分な規模を持つアメリカ国内市場を主対象にした、高い技術力を基盤とする化学メーカー、というそれまでの企業イメージを転換し、いかにして世界市場に向けて製品を開発、販売し、そこから安定した収益を生み出すグローバル企業に変身させるか――という典型的な米国型ビジネスモデルを目指し、そのために日本を含め世界各地に散在していた自社リソース(施設、人材、技術)を、最大限活用する戦略に舵を切ったのである。

アメリカがそうしてゲーム・チェンジしていたにもかかわらず、'90年代初めにバブルがはじけた後も、相変わらず高コストの「モノ作り優先」思想と産業構造から抜け出せなかった日本は、完全に世界のデジタル革命に乗り遅れた。そればかりか'90年代半ばからの不況で、主に年齢を理由にリストラされた電子材料・機器分野等の人材の多くが基幹技術情報と共に韓国や中国へ流出し、その結果それらの分野ではやがて両国に追いつかれ、追い越されたまま現在に至っている。一方のアメリカはその後、常に日本より10年先を進み続け、9.11やリーマンショックも乗り越えて、現在のGAFAに象徴されるように、デジタル・イノベーションによって新市場を開発するビジネス戦略を柱に、30年かけて世界経済の覇権を再び取り戻し、今は中国を念頭に、さらにそれを強固なものにしようとしている。現代の超格差社会を招いた遠因など、資本主義国家として批判すべき点も多々あるだろうが、トップが基本戦略を立案、提示し、それを下部構造を貫いて国をあげて徹底的に遂行するという、トップダウン型の米国の政治・産業システムが持つ強靭さと底力は、日本にはとても真似できないだろう。(続く)