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2017/10/31

モンクを聴く #14:London Collection (1971)

Complete London Collection
(1971 Black Lion)
第28章 p627
「ジャイアンツ・オブ・ジャズ 」は、1971年にジョージ・ウィーンが第1回目を企画した日本やオーストラリア、ヨーロッパ各地を巡業するという興業ツアーである。ディジー・ガレスピー、アート・ブレイキー、ソニー・スティットらのビバップ/モダン・ジャズ時代の大物メンバーを集めたグループによるその公演に、既に体調が相当悪化していたモンクも参加した。3枚のCDから成る『Complete London Collection』は、そのツアー終了後、ロンドンから帰国する直前の19711115日に、Black Lionレーベルのアラン・ベイツの企画で、モンク、アート・ブレイキー(ds)、アル・マッキボン(b)というメンバーで録音されたソロとトリオによる全演奏記録である。モンクにとって最後のソロ、トリオ演奏による録音でもあり、またこのアルバムが文字通りモンク最後のスタジオ録音リーダー作となった。おそらく体調による技術的衰えはあっただろうが、その演奏からはモンクの持つ情感とイマジネーションはまったく失われていない。モンクのピアノの音をクリアに捉えた録音も良く(特にソロ)、このアルバムは晩年のモンクの素顔を描いた素晴らしい記録である(ただし現在は入手が難しそうなのが難点だが)。

London Collection
Vol.1 - Solo
これらの録音の一部は、1970年代に日本でも『Something in Blue』、『The Man I Love』という2枚のLPでリリースされている。『London Collection』はその時の6時間に及ぶ録音から、LPには未収録だった他の音源(別テイクなど)も含めた全29の演奏を3枚のCDに収録したものだ。Vol.1はソロ演奏のみ10曲(自作曲5)、Vol.2はトリオによる8曲(全て自作曲)、Vol.3は別テイクを中心としたソロとトリオによる11曲で(<The Man I Love>を除き自作曲)、すべてモンクの愛奏曲と言っていいだろう。収録曲は以下の通り。

<Vol.1> Trinkle Tinkle (Take 3)/ Crepuscule With Nellie (Take 2)/ Darn That Dream/ Little Rootie Tootie/ Meet Me Tonight In Dreamland/ Nice Work If You Can Get It/ My Melancholy Baby/ Jackie-ing/ Loverman/ Blue Sphere
<Vol.2> Evidence (Take 2)/ Misterioso/ Crepuscule With Nellie (Take 4)/ I Mean You/ Criss Cross/ Ruby My Dear/ Nutty (Take 2)/ Hackensack (Take 2)
<Vol.3>  Trinkle Tinkle (Take 2)/ The Man I Love/ Something In Blue/ Introspection (Take 1)/ Trinkle Tinkle (Take 1)/ Crepuscule With Nellie (Take 3)/ Nutty (Take 1)/ Introspection (Take 3)/ Hackensack (Take 1)/ Evidence (Take 1)/ Chordially

モンクのピアノ・トリオによる録音セッションは『The Unique Thelonious Monk』(1956) 以来15年ぶり、ブレイキーとのレコーディング共演も『Monk’s Music』(1957) 以来14年ぶりである。Vol.2のトリオ演奏で取り上げているのは、1947年に初演した<Misterioso>と<Ruby, My Dear>の2曲を除くと、これまでトリオでは演奏したことのない自作曲ばかりだ。モンクが怒ったと本書で書かれているように、この録音では曲のコード進行を忘れているアル・マッキボンのベースが難点だが、トリオ演奏の中では特に<Ruby, My Dear>が印象的だ。<Ruby,…>はコンボやソロでは演奏しているが、トリオでの演奏は1947年の初演以来なので、この録音は四半世紀ぶりということになる。モンクのここでの演奏は、1947年の自身の初録音よりも、むしろ1961年のバド・パウエル『A Portrait of Thelonious』におけるパウエルの演奏を思い起こさせる。早逝した愛弟子パウエルへのオマージュとして取り上げたものだったのだろうか。

London Collection
Vol.2 - Trio
この後1973年頃からモンクはほぼ隠遁生活に入ったために、「ジャイアンツ・オブ・ジャズ」公演とそのグループによるスタジオ録音以外にリーダー作の録音機会はなく、このアルバムがモンク最後のスタジオ録音となった。ネリー夫人、アフリカ/ガーナの友人ガイ・ウォーレン、批評家アラン・モーガン、ピアニストのブライアン・プリーストリーら親しい人たちだけに囲まれて、ロンドンのチャペル・スタジオで行なわれた録音の模様は本書に詳しい。ガレスピーの曲中心の巡業に長期間加わってきた当時のモンクは、おそらく肉体的にも精神的にも疲れ切っていただろうが、ここでようやく、久々に自分自身の作品と向き合うことができた。いくつかのスタンダード曲を除き、自身のこれまでの作品を1曲ずつじっと振り返るように弾いていて、度忘れもし、時折のミスタッチもあるが、これらの演奏から聞こえてくるのは、この時のモンクの心象風景を映し出しているかのように、それまでのモンクには余り聞けなかった透明感のある、どこかひんやりとした肌合いの音楽である。
London Collection
Vol.3 -Solo/Trio
数多いモンクのアルバムの中でも、70年代に買った上記2枚のLPにはなぜか特別に心惹かれるものがあって、時々取り出しては聴きたくなる不思議な引力があった。特にソロ・アルバム『Thelonious Himself』1956)と同じく、自らと対話するように音を一つ一つ選びながら深く沈潜してゆく気配が濃厚なソロ演奏は、聴き手の心に深く沁み入るものがある。これらのソロ演奏は、いくつかのその後のコンサート・ライヴを除けばモンク最後のソロだが、晩年のモンクのソロは本当に素晴らしい。おそらく初めてではないかと思われるVol.1の<Jackie-ing>のソロは、最初どの曲か気づかないほどで、まるで現代音楽のように聞こえる。慈しむかのように弾く、スタンダードの愛奏曲<Darn That Dream>も美しい。そしてVol.3の最後に加えられた <コーディアリー Chordially> と名付けられた即興のソロ演奏は、モンクが本番前のウォーミング・アップとして、一人でスタジオのピアノの調子を探っている様子を約9分間にわたって録音したもので、LPには収録されていなかった。ゆったりとコードを押さえながら、パラパラとアルペジオと短いメロディで次のコードへ即興でつないでゆくだけの曲とも呼べないものなのに、あたかも時が止まったかのようなその透徹した響きの美しさは感動的だ。そしてモンクの頭の中で鳴り響いている音を、聴き手として初めて共有できたような不思議な喜びを覚える。それは「Golden Circle」における、晩年のバド・パウエルの尋常ならざる超スローテンポの <I Remember Clifford> を聴いた時と同じ不思議な感動で、ジャンルも技術も何もかも全てを超越した、純粋に音楽の美しさだけが心に残るような演奏である。まさしくセロニアス・モンク最後のソロにふさわしい。

2017/10/29

モンクを聴く #13 : Concert Live (1961-69)

モンクはクラブ出演以外に米国内の数多くのコンサートに出演しているが、本書を読むとその公演スケジュールの過密さは驚くほどである。3回の通算約8年間におよぶキャバレーカード無効期間のために、ニューヨーク市内のクラブ出演機会が限られ、やむを得ず国内のコンサート公演とニューヨーク以外の都市のクラブ出演に力を入れざるを得なかったからだ。またヨーロッパを中心に海外ツアーにも頻繁に出かけていたので、ブートレグを含めて数多くの海外コンサートのライヴ録音も残されている。演奏の質という点からすると、コンサート・ライヴはクラブ・ライヴとスタジオ録音の中間にあって、当然ながらクラブほどの自由さと熱狂はないが、スタジオほどの作られ感がなく、多少よそ行きだがバランスの取れた演奏を記録した好録音が多いのが特長だ

Two Hours with Thelonious
(Fresh Sound/
Orig.Rec.1961 Riverside)
第25章 p450-
1961年春、モンク7年ぶりのヨーロッパ訪問となり、ジョージ・ウィーンがアレンジした初のヨーロッパ・ツアーにおける各国での公演は、イギリスでの評判を除けば大成功だった。特に1954年の初訪問で散々な評判だったパリでは、熱狂的な聴衆に迎えられた。だが本書にあるように、その時イタリアのミラノのコンサートでは、アーティストとレーベルという関係は終わったも同然だったが、契約上もう2枚のLPを制作する権利を有していたリバーサイドが、イタリアではモンクがあずかり知らない内に現地で録音していた。その音源と別途入手したパリ公演の録音を合わせて、1963年に『Two Hours with Thelonious』と題した2枚組のLPでリリースしたのだ。現在入手できるCDは、Fresh Soundの同タイトルのCDの他、418日パリ「オリンピア」劇場での『Live in Paris』(フランス放送協会による録音)、421日ミラノ「テアトロ・リリコ」での 『In Italy』(リバーサイドによる録音)という単独盤がある。この時のチャーリー・ラウズ(ts)、ジョン・オア(b)、フランキー・ダンロップ(ds)という新しく結成したカルテットによる他の公演も、その後ドイツ、オランダ、スウェーデンなどの現地ラジオ局が放送した音源などを元にレコードとしてリリースされている。演奏曲目はどの公演も<Jackie-ing>で始まり、モンクお馴染みの名曲が並んでいる。これらは精神、肉体ともに音楽家モンクの絶頂期とも言える時期の録音で、新カルテットもツアーを通じて徐々に安定度と緊密さを高めていたこともあって、この1961年のヨーロッパ録音はどれも安定した、高水準のコンサート・ライヴ演奏である。

Monk in Tokyo
(1963 Columbia)
第24章 p499-
モンクの初来日ツアーは196359日から6都市を巡る2週間で、東京では3回公演を行なったが、521日の「サンケイホール」での最終公演を記録したのが『モンク・イン・トーキョー Monk in Tokyo』である。欧米での音楽家としての評価を含めて、当時は人気的面ではモンクの絶頂期だったが、本書を読むと、1963年というのは精神的、肉体的コンディションとしては微妙な時期だったようだ。このツアーでは、チャーリー・ラウズ(ts)、フランキー・ダンロップ(ds)は変わらないが、来日直前の「バードランド」のギグで、ベース奏者のジョン・オアが店主オスカー・グッドスタインと喧嘩して辞めてしまったために、急遽当時23歳のブッチ・ウォーレンが代役として参加した。しかしこの東京公演では、お馴染みのモンクの有名曲ばかりとは言え、モンクも好調そうで、バンドも非常に安定したパフォーマンスを見せているし(多少よそ行きの感はあるが…ツアー疲れか?)、録音も良く、数あるモンクのコンサート・ライヴ録音の中でも最良の1枚だろう。何よりこの録音には、当時の日本の聴衆が、いかにモンクの来日を心待ちにしていたのか伝わってくるような、会場の熱い雰囲気もよく捉えられている。この時の全東京公演の司会をつとめたのが相倉久人氏だった。この来日では、モンクに傾倒していたピアニストの八木正夫や、その後も来日のたびにアテンドした京都のジャズ喫茶「しあんくれーる」店主の星野玲子氏とも知り合った。帰国直前の523日には東京放送(TBS)でテレビ放送用の録画もしており、<エヴィデンス>、<ブルーモンク>など5曲を演奏しているが、このTV映像も残されていて、演奏と共にこの時のモンクの衣装もアクションも見ものだ。モンクはその後1966年にラウズ、1970年には後任のテナー奏者ポール・ジェフリー他を擁したカルテット、1971年にはジャイアンツ・オブ・ジャズ一行のメンバーとして来日している。

Live at the 1964
Monterey Jazz Festival
(Universal)
第26章 p540-
 
1964年9月、前年に続いてモンクは西海岸のモントレー・ジャズ・フェスティバルに登場した(LAの「The It Club」、SFの「The Jazz Workshop」出演の前月である)。この時のドラムスはベン・ライリーで、当時レギュラー・ベーシストだったラリー・ゲイルズが手を負傷したために、スティーヴ・スワローが代わってベースを担当している。カルテットでは<Blue Monk>, <Evidence>,<Bright Mississippi>,<Rhythm-a-Ning>を演奏し、さらに前年実現しなかった大編成によるモンク作品解釈という企画で、バディ・コレットが「Festival Workshop Ensemble」として<Think of One>, <Straight, No Chaser>という2曲を、モンク・カルテットに自身を含む 西海岸のプレイヤーによる4管を加えたオクテット用に編曲して演奏した。本書によれば、このアンサンブルは現地では大好評を博したということだが、確かに大編成バンドによるモンク作品の演奏は、どれを聴いても、とにかく興味の尽きない面白さがあるので個人的には大好きだ。ここでのモンクはカルテット、FWEとも好調である。

Paris 1969
(2013 Blue Note)
第27章 p597
モンクは1963年以降頻繁にヨーロッパ・ツアーに出かけ、現地録音も数多く残しているが、60年代後期のモンクのライヴ録音で、最も印象深いのは1969年のヨーロッパ・ツアー最終日12月5日のパリ「サル・プレイエル」での公演だ。当時は、ベースのラリー・ゲイルズの後任になったウォルター・ブッカーもモンクの病気による活動休止でバンドを去ったために、バークリーにいた若い白人のネート・ハイグランドを雇ったものの、次に5年間在籍したベン・ライリーもバンドを去ってしまう。代わりのドラマーを探していたモンクがツアー直前にやっと見つけたのが、まだ17歳の高校生で息子のトゥートより若いパリス・ライトだった。当然ながら、ほとんどリハーサルなしという、モンク流のいつものやり方でライトがいきなり臨んだヨーロッパでの演奏が大変だったことは予測がつくが、パリのこの舞台では、当時ヨーロッパに住んでいたフィリー・ジョー・ジョーンズが、途中<Nutty>でライトに代わって登場するというハプニングがあり、バンドが生き返ったようになる。前歯は抜けていても、フィリー・ジョーのドライヴ感は相変わらずだしかし、体調やバンドがそうした厳しい状況にあっても、当時52歳のモンク自身は、どの曲でも依然として創造力に満ちた魅力的なピアノ演奏を繰り広げているのだ。多分アンコールと思われる<Don't Blame Me>,<I Love You Sweetheart of All My Dreams>, <Crepuscule with Nellie>というソロ演奏は、聴衆の熱狂的な反応を呼び起こしている。晩年になってからのモンクの抑制されたピアノ・ソロは、深い味わいと美しさがあって、どの演奏も素晴らしい。本書によれば、それは引退の直前まで変わらなかったようだ。ブルーノートが2013年にリリースしたこの音源(TV放送用映像)には、CD/DVDのセットがあるが、当時のモンクの姿が貴重な映像として残されているこの公演の模様は、ぜひTV放送された映像を記録したDVDで見ることをお勧めしたい。モンクに往年のエネルギッシュさはないが、録音が非常にクリアなこともあって、モンクと彼の音楽は晩年になっても素晴らしかったことを再認識するはずだ。(ライナーノーツはロビン・ケリーが書いている。またDVDの最後には、この時のモンクの楽屋裏の姿やフランス人ベーシスト、ジャック・ヘスによる短いインタビューも収録されている。

モンク単独のヨーロッパでのコンサート出演は、1954年のパリに始まり、15年後の1969年末に同じ場所「サル・プレイエル」でこうして終わりを迎えた。この直後にはついにチャーリー・ラウズもバンドを去り、代わってジミー・ジェフリーがテナーを吹いた翌1970年10月のニューポート・ジャズ祭の日本公演を最後に、モンク・カルテットとして出演したツアーは終わり、以降はジョージ・ウィーン主催の「ジャイアンツ・オブ・ジャズ」ツアー・メンバーの一員としての参加がモンクの主なコンサート活動となる。その後1973年からはほぼ活動を止め、1976年6月の「カーネギー・ホール」における単独コンサートが、モンクの人生で最後の公演の場となった。

2017/10/27

モンクを聴く #12:Club Live (1960 - 64)

ジャズは基本的にジャズクラブで聴くのがいちばん楽しいと思うが、少なくとも1950年代末から60年代初め頃に、モンクのライヴ演奏をジャズクラブ聴くことほどエキサイティングで、かつ面白い見ものはなかったことだろう。何が飛び出すかわからないという予測不能なモンクの音楽が、閉じられたクラブという空間でさらに聴き手の期待を高め、気分を盛り上げ、おまけにモンクの踊りまで見られたのだから。しかしニューヨークのキャバレーカード問題がずっと付きまとったこともあって、モンクにはニューヨーク市内での公式のクラブ・ライヴ録音は少なく、代わって西海岸のツアー時に好録音をいくつか残している。

At The Blackhawk
(1960 Riverside)
第21章 p430
ジョン・コルトレーンとのライヴ録音を別とすれば、モンクのクラブ・ライヴで一般的に最も有名なレコードは、1958年のジョニー・グリフィンとの「ファイブ・スポット」における『セロニアス・イン・アクション』と『ミステリオーソ』だが、もう1枚は、チャーリー・ラウズが参加した後、リバーサイド最後のレコードとなったサンフランシスコのクラブ「ブラックホーク」での19604月29日のライヴ録音だ。本書によれば、当時ベースのサム・ジョーンズとドラムスのアート・テイラーが国内の長期ツアー後同時に辞めたため、やむなくモンクは代わりのリズムセクションを探していたが、その後ベースはロン・カーター、次にジョン・オアを雇ったものの、SFのクラブ・ギグにはドラマーがいなかった。そこで、モンクが以前から気に入っていて、当時オーネット・コールマンのドラマーだったビリー・ヒギンズが、キャバレーカードを失って西海岸に戻るのを知ったモンクが、ヒギンズをそのギグに急遽採用した。予定していたリバーサイドとコンテンポラリーによるモンクとシェリー・マン(ds) とのSFでの共作企画が不調に終わったために、オリン・キープニューズが計画を変更し、チャーリー・ラウズに加えて現地のホーン奏者ジョー・ゴードン(tp) とハロルド・ランド(ts) を加えた3管のセクステットで、「ブラックホーク」でライヴ録音したのが『Thelonious Monk Quartet plus 2 At The Blackhawk』である。
当日のライヴ録音演目は以下の通り。
Let's Call This/ Four In One/ I'm Getting Sentimental Over You/ San Francisco Holiday (as Worry Later)/ 'Round Midnight/ Epistrophy (closing theme)/ Epistrophy (complete version)/ Evidence

そういう背景もあって、このセッションはモンクの音楽をよく知らないメンバーとの、いわば他流試合に近いので、当然ながら地元NYのクラブでレギュラーバンドと共演するときのようにモンクが自由奔放になることはなく、全体をまとめようとコントロールする姿勢が強い。しかしモンクの音楽に当時すっかり馴染んだラウズ、そこにモンクと最初にして最後の共演となったヒギンズのドラミング、西海岸のホーン・プレイヤーたちの初参加、という新鮮な組み合わせが、結果としてこのライヴ録音を他のモンクのレコードとは一味違うものにしていて、これはこれで楽しめる。ゴードンとランドもモンクと初顔合わせにしては健闘している。観客の声や拍手も聞こえて、クラブ・ライヴ感のある録音も良い(うるさいくらいなので、好みによるが)

Live at The It Club, Complete
(1964 Rec/1998 Columbia)
第26章 p543
モンクはその後コロムビア時代に『Misterioso - Recorded on Tour』(1965) という、あちこちのクラブやコンサートでテオ・マセロが録音し、その中から選んだライヴ演奏をランダムに収録するという手法で制作したLPアルバムを残している。単独のクラブ・ライヴとして、1998年に完全版として全曲収録してリリースされたCD『ライヴ・アット・ジ・イット・クラブ Live At The It Club』は、ロサンゼルスのクラブ「The It Club」で1964年10月31日、11月1日の2日間にわたって録音されたライヴ・アルバムで、全19曲が2枚のCDに収められている。好評だった前年の日本訪問時とは異なり、この頃にはカルテットのドラムスはフランキー・ダンロップからベン・ライリーBen Riley に、ベースはブッチ・ウォーレンからラリー・ゲイルズ Larry Galesという新メンバーに代わっている。フランキー・ダンロップ時代の軽快でメリハリのあるリズム・セクションとは異なるが、非常に安定感のあるリズムを刻むこの二人が、その後しばらくは60年代モンク・カルテットのリズムセクションとなった。
ライヴ録音演目は以下の通り。
<CD 1> Blue Monk/ Well, You Needn't/ Round Midnight/ Rhythm-a-Ning/ Blues Five Spot/ Bemsha Swing/ Evidence/ Nutty/ Epistrophy (Theme)
<CD 2> Straight, No Chaser/ Teo/ I'm Getting Sentimental Over You/ Misterioso/ Gallop’s Gallop/ Ba-lue Bolivar Ba-lues-are/ Bright Mississippi/ Just You, Just Me/ All The Things You Are/ Epistrophy (Theme)

本書によれば、1964年当時はモンクの精神、体調が徐々に悪化し始めた頃で、実はこの時の1ヶ月近い西海岸訪問中もモンクはかなりひどい精神状態だったようで、サンフランシスコのコンサート・ホールやロサンゼルスのホテル内でもひと騒動起こし、この「イット・クラブ」出演時もずっと奇妙な行動をしていたという。ところが、不思議なことにそうした状態だったにもかかわらず、このライヴ・レコードの演奏内容はなかなか素晴らしいのだ。演奏曲目も、すべてお馴染みのモンクの有名曲や好みのスタンダード曲が並び(<All The Things You Are>は珍しい)、コロムビアなので録音も非常にクリアで、各楽器の音も観客の声や拍手なども明瞭に聞こえ、臨場感溢れるクラブ・ライヴの雰囲気が楽しめる。Complete盤なので、1曲の演奏時間はやや長めでベースやドラムソロも頻繁に入るが、録音が良いので聞いていて快適だ。おそらく1960年代のレギュラー・カルテットによるライヴ録音としては、最もリラックスしているモンク・バンドの演奏がゆったりと楽しめるアルバムだろう。

この西海岸訪問中に、モンクは『Solo Monk』(1964 Columbia) の大部分を現地で録音している。翌週向かったサンフランシスコのクラブ「The Jazz Workshop」でも同じメンバーで出演しライヴ録音もされているが、本書でも指摘されているように、バンドが全体的に足取りの重いこちらの演奏は『It Club』とはまったく出来が違うので、おそらくモンクのコンディションがまた不調になったのではないだろうか。

2017/10/25

モンクを聴く #11 : Play with Monk (1957-58)

モンクが共演したり、サイドマンとして客演したレコードはそう多くない。マイルス・デイヴィスのプレスティッジ盤(1954) の一部、ソニー・ロリンズのブルーノート盤(1957) の一部、アート・ブレイキーのアトランティック盤(1957) などがそうだが、ロリンズ、ブレイキーの場合は、いわばモンクの弟子のような存在でもあったので、マイルス盤を除くと平等の立場での共演とは言い難い。そのマイルス盤も、モンクの曲以外ではマイルスのソロのバックではモンクが弾いていないので曲数は限られる。だがリバーサイド時代に、モンクはそうした共演盤を2作残している。

Mulligan Meets Monk
(1957 Riverside)
第18章 p353
その1枚がジェリー・マリガン Gerry Mulligan (1927-96) と共作した『マリガン・ミーツ・モンク Mulligan Meets Monk』1957812,13日録音)である。本書によれば、初訪問となった1954年のパリ・ジャズ祭で、現地リズムセクションとの即席トリオで出演後、批評家や聴衆の評判が悪くて落ち込み気味のモンクをただ一人慰めたのが、当時は既にクール・ジャズのスターであり、その日の主役ミュージシャンとして出演していたジェリー・マリガンだったという。マリガンは非常にバーサタイルなバリトンサックス奏者で、どんな相手にも合わせられる懐の深いミュージシャンだが、それだけではなく、ピアニスト、作曲家、アレンジャーでもあり、1940年代末のクロード・ソーンヒル楽団、マイルスとギル・エヴァンスの「クールの誕生」バンド、さらに50年代初めのスタン・ケントン楽団時代を通じて多くの楽曲をバンドに提供している。だからマリガンはモンクの音楽の独創性を、おそらく当時から既に深く理解していたのだろう。パリでのコンサート後、短いジャムセッションでの共演を通じて、モンクもまたマリガンの才能をすぐに見抜いたに違いないと思う。その時以降、親しく交流していた二人の関係を知ったリバーサイドのオリン・キープニューズが、マリガンの要望を受けてモンクとの共作としてNYでプロデュースしたのがこのアルバムである。

これは同年7月から、モンクがコルトレーンと「ファイブ・スポット」に出演していた時期に組まれたセッションであり、モンクが絶好調だった時でもある。またピアノレスのフォーマットで取り組んできたが、当時は多くの奏者との他流試合に挑戦していたマリガンは、モンクと正式には初顔合わせでもあった。だからこのレコードは、いわゆるイースト対ウエスト、あるいは単に親しいミュージシャン同士を組み合わせてみたというだけのものではなく、互いにリスペクトする個性的な音楽家同士の初の真剣勝負の場だったと捉えるべきだろう。スタンダード<Sweet and Lovely>、マリガン作<Decidedly>を除く4曲がモンクの自作曲なので(<Round Midnight>,<Rhythm-a-Ning>,<Straight, No Chaser>,<I Mean You>)すべてがうまく行ったわけではないだろうが、まぎれもない名演<Round Midnight>におけるマリガンの真剣さと集中力はその象徴であり、モンクも手さぐりをしながら、興味深いこの音楽家との音のやり取りに神経を行き渡らせ、かつそれを楽しんでいるのが聞こえて来るようだ。当初B面はマリガン編曲のビッグバンドで演奏する予定だったものを、両者の希望ですべてカルテット(ウィルバー・ウェア-b、シャドウ・ウィルソン-ds )で録音することに変更したのも、2人がこのスモール・アンサンブルによるセッションに集中し、音楽上の対話を互いに楽しんでいたからだろう。リリース後の一般的評価はあまり高くなかったようだが、他のモンクのアルバムには見られない、一対一の緊張感のある対話に満ちたスリリングなこのレコードが私は昔から好きだ(ただしLPに比べ、CDは音が薄く実在感が希薄だ)。リバーサイドは、モンク全盛期の「ファイブ・スポット」時代の録音がほとんどできなかったが、2人にとって一期一会となったこの貴重なレコードを残して多少埋め合わせたと言えるかもしれない。マリガンは1990年代に、モンクの友人だったビリー・テイラー(p)と共演したアルバム 『Dr.T』1993 GRP)でも、<Round Midnight>を実に美しく、心を込めて演奏している。モンクとマリガンには、肌の色や音楽的嗜好を超えて、音楽家として互いに相通じるものがきっとあったのだと私は思う。

In Orbit / Clark Terry
(1958 Riverside)
リバーサイド時代に、モンクが完全に「サイドマン」として参加した珍しいレコードがある。それがトランぺッター、クラーク・テリー Clark Terry (1920-2015) のリーダー作『イン・オービット In Orbit』(1958年5月7日、12日録音)で、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds) とサム・ジョーンズ(b) が参加したカルテットによる演奏だ。「In Orbit」というタイトルは、LP再発の直前にスプートニク号が打ち上げられたことにちなんで、リバーサイドが冒頭のアップテンポのテリーの曲の名前と共に変更したものだという。テリーは『ブリリアント・コーナーズ』(1956) で、アーニー・ヘンリーの代役として<Bemsha Swing>のみ参加したのがモンクとの初共演だったが、モンクはテリーを以前から気に入っていて、この録音の話も喜んで引き受けたという。全10曲中モンクの自作曲は<Let's Cool One>だけで、あとはクラーク・テリーの自作曲とスタンダードだが、モンクはサイドマンということもあって、スローな曲でも、アップテンポの曲でも、他に例のないほど非常にリラックスして楽しそうにピアノを弾いていて(モンクとは思えないような、スウィングする普通のモダン・ピアノ風の時もあるほどだ)、柔らかでなめらかなテリーのフリューゲル・ホーンに上手にマッチングさせている。それを支えているのが躍動的なリズムセクションで、特にフィリー・ジョーの参加が他のモンクのアルバムとは一味違う雰囲気を与えている。フィリー・ジョーに関する面白い逸話は本書にも出て来るが、モンクとの共演盤は少なくともモンクのリーダー作ではないと思う。このアルバムではフィリー・ジョーとサム・ジョーンズのコンビが適度にテリーとモンクの2人を煽って、各演奏の躍動感を高めている。アップテンポの曲で、フィリー・ジョーの華やかなドラムスと、サム・ジョーンズの重量感のあるウォーキング・ベースがからむパートなどは、ステレオのボリュームを上げて聞くと最高に気持ちがいい。しかもそれがクラーク・テリーの名人芸と、モンクのピアノのバッキングなのである。このアルバムは聴けば聴くほど楽しめる隠れ名盤だ。

実はこのレコードに関する翻訳部分は、ページ数の制約のためにやむなく本書から割愛したのだが、以下にその一部を記す。
<……クラーク・テリーはこう回想している。「モンクが私とのギグを了承してくれたときは驚いたよ。おそらくノーと言うだろうと思っていたからだが、彼は喜んでやってくれたし、しかも仕事もやりやすかった。もちろんモンク流のときもあったけど、人間が素晴らしいし、私はモンクのことがとても好きだったんだ」……モンクの曲<レッツ・クール・ワン>を録音したことに加えて、モンクの好きだった賛美歌<ウィール・アンダースタンド・イット・ベター・バイ・アンド・バイ>のコードチェンジを引用し、それをテリー作の<ワン・フット・イン・ザ・ガッター>に変えているが、それによってモンクは自身の教会のルーツをあらためて取り上げている。その年の後半に書いたこのアルバムのレビューの中で、ジョン・S・ウィルソンはこういう見方をしていた。「これまで見せたことのない天真爛漫で素直な姿勢で、モンクはテリー氏を密接かつ好意的にサポートしながら、自らも熱狂的なソロで疾走している」。モンクの与えた影響があまりに強かったために、実際このアルバムはモンクの作品として知られるようになったほどで、その成り行きは当然ながらテリーを悩ませた。「モンクが亡くなったとき、みんなこれをモンクのレコードとして取り上げて、私はサイドマン扱いだったんだよ!」>

2017/10/23

モンクを聴く #10:Les Liaisons Dangereuses (1958-59)

TILT
Barney Wilen
(1957 Swing/Vouge)
ジャズとパリとの関係は、50年代後半のフランス映画が象徴的で、ケニー・クラークやパド・パウエルをはじめとする多くのジャズメンも、パリに移住するなど、ジャズとミュージシャンたちを温かく迎え入れたこの街を愛した。ところがモンクは、1954年の初訪問だったパリ・ジャズ祭での評判が散々だったこともあって、その後1961年に初のヨーロッパ・ツアーで再訪するまで一度もパリを訪れていない。しかしモンクをパリに連れて行ったアンリ・ルノーのように、フランスには1940年代のブルーノート録音時代からモンクに注目していた現地のミュージシャンもいたのだ。フランス人テナー奏者バルネ・ウィラン (1937-96) も19歳のデビュー・アルバム 『ティルト TILT』19571月録音)で、早くもモンクの曲を6曲も取り上げ(LPで<Hackensack>、<Blue Monk>、<Misterioso>、<Think of One>の4曲、さらにCDで<We See>、<Let's Call This>の2曲追加)、モダンで滑らかなモンク作品のフランス流解釈を披露している。驚くのは、この録音がスティーヴ・レイシーの全7曲のモンク作品による『REFLECTIONS』(195810月録音)の19ヶ月も前だということだ。調べたことはないが、モンク本人との共演を除き、モンクの作品をこれだけ取り上げたホーン奏者はバルネ・ウィランが世界初だったのではなかろうか? ウィランはつまり、それ以前からモンク作品の研究をしていたということだろう。

Les Liaisons Dangereuses 1960
(1959 Rec/2017
Sam Records/Saga Jazz)
第19章 p371-
バルネ・ウィランとモンクとの関係については、本ブログの4/144/18の「危険な関係サウンドトラックの謎」、「バルネ・ウィラン」両記事で詳述している。ところが、ロビン・ケリーの本に詳しく書かれているフランス映画『危険な関係』サウンドトラックの逸話と、その後自分で調べた真相(?)に関するこの記事を書いた時点では知らなかったのだが、1959年にモンクとウィランが共演し、サウンドトラックとしては使われたが、レコード化されなかった未発表音源が今年2017年になって初めてリリースされていたのである。それが2枚組CD『Thelonious Monk - Les Liaisons Dangereuses 1960』 (Sam Records/Saga Jazz)で、ロビン・ケリーも含めた数人の解説者による60ページ近いブックレットを読むと、さらに細かいが面白い話が色々と書かれている。このブックレットには、録音内容を記録したメモや、ノラ・スタジオでの録音風景を撮影した写真もたくさん掲載されており、麦藁帽子(本書に逸話が書かれているように、これは中国製ではなく、アフリカの打楽器奏者ガイ・ウォーレンが送ってきた北部ガーナの農民の帽子だ)をかぶったモンクとレギュラー・メンバーの他、客演した当時22歳のバルネ・ウィラン、さらにネリー夫人、ニカ夫人の姿も写っている。これだけでも非常に貴重な史料だ。

この音源は、ロジェ・ヴァディムの『危険な関係』の音楽監督だったマルセル・ロマーノ(1928-2007)の死後、ジャズマニアの友人が保管していたロマーノのアーカイブの中から、2014年に55年ぶりに「発見」されたものだという。ロマーノはフランスのジャズ界では著名な人物で、1950年代にはバルネ・ウィランのマネージャーもしていて、ロビン・ケリー書の記述では1957年にNY「ファイブ・スポット」でモンクと会ったという話だが、実は1954年のモンクの初来訪時に既にパリで会っていたという(ウィランの上記アルバムでのモンク研究の痕跡を見れば、マネージャーだったロマーノがモンクと会っていてもおかしくない)。そのロマーノの残したテープの中に、ウィランの未発表音源がないかどうかFrancois Le Xuan Saga Jazzの創設者)と友人のFred ThomasSam Recordsの創設者)が探しているときに偶然そのテープを見つけたのだという。1958年夏に、ロジェ・ヴァディムとロマーノはモンクにサウンドトラック作曲の申し入れを行なったのだが、モンクはなかなか受け入れようとしなかった。1959年の夏、映画完成の直前になってようやく承諾したものの、サウンドトラック向け新曲は結局1曲も書けずに、既存の自作曲を録音することになったが、これはその時の演奏を録音したテープだったのだ。

実は、モンクは1958年10月デラウェア州でニカ夫人、チャーリー・ラウズと一緒に、麻薬所持を理由に警察による逮捕、暴行被害に合い、その後精神的に不安定になってしばらく入院していたが、その時またもや(3度目である)警察にキャバレーカードを無効にされ、ニューヨークのクラブで仕事ができなくなった。さらに翌1959年2月には、モンクが期待し、精魂込めて取り組んだ「タウンホール」のビッグバンドのコンサート後、批判的な論評に怖気づいたリバーサイドが、予定していた8都市のコンサート・ツアーをキャンセルしたために、モンクには唯一の収入の見込みがなくなってしまったのだ。精神的に落ち込んだモンクは、4月にはボストンのクラブ「ストリーヴィル」出演後行方不明になって、グラフトン州立精神病院に収容され、その後抗精神病薬の治療を受けるようになった。それやこれやで、この映画音楽の依頼を受けた当時、モンクはとても新しい曲を書けるような精神状態になかった、というのが本ブックレットでロビン・ケリーが述べている見方で、このいきさつは本書にも書かれている。

仏映画「危険な関係」
第19章 p371-
1959727日にNYノラ・スタジオで録音されたステレオ音源は、モンク、チャーリー・ラウズ(ts)、サム・ジョーンズ(b)、アート・テイラー(ds)という当時のレギュラーカルテットに、直前のニューポート・ジャズ祭でアメリカデビューを果たしたバルネ・ウィラン(ts) が客演した2テナーのクインテットによるものだ。お馴染みの曲が中心だが、リバーサイド時代のモンクには、このレギュラー・カルテットを中心にしたスタジオ録音は1作(『5 by Monk by 5』)しかないので、その意味でも貴重な録音だ。
2枚のCDの収録内容は以下の通り。
<CD1> Rhythm-a-Ning/ Crepuscule with Nellie/ Six in One (solo)/ Well, You Needn’t/ Pannonica (solo)/ Pannonica (solo)/ Pannonica (quartet)/ BaLue Boliver Ba-lues-Are/ Light Blue/ By and By (We'll Understand It Better) 
 <CD2> Rhythm-a-Ning(alt.)/ Crepuscule with Nellie (take 1)/ Pannonica (45 master)/ Light Blue (45 master)/ Well, You Needn’t (unedited)/ Light Blue (making of)

このテープは、翌728日、29日のアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズによる演奏(こちらは<No Problem> などのデューク・ジョーダン作品)を収録した録音テープと一緒に、ロマーノが映画の完成に間に合わせるために急いでパリに持ち帰ったものだ。映画冒頭のタイトルバック<クレパスキュール…>や<パノニカ>をはじめ、これらの演奏は映画中で何度も使われている。特筆すべきは、おそらくロマーノ所有のマスターテープの保存状態が良かったために、多分あまり加工していないこのステレオCDの音は非常にクリアで、音場も良く、モンクのピアノも、各メンバーの楽器もボディ感のある鮮明な音で再生できることだ(同時発売のアナログ盤はきっとさらに良いのだろう)。リバーサイド時代のモンク作品の録音は、どれもいまいちのように思うが、その中で比べても一番良い音だと思う。このセッションは、モンクにとってリバーサイド最後のスタジオ録音となった『5 by Monk by 5』 録音(19596月)の直後で、モンクの体調も回復し、チャーリー・ラウズがようやくモンクの音楽に馴染んだ頃でもあり、ラウズのプレイも非常にスムースだ。モンクとの最初にして最後の共演となった若きバルネ・ウィランは時々トチっている部分もあるが、4曲に参加して堂々とプレイしている。おそらくアンニュイな映画のイメージを意識したのだろう、ほとんどの曲がテーマ中心に比較的短く、かつゆったりとしたテンポで演奏されている。印象的な<Six in One>は、この時名付けられたモンクのソロによる即興のブルースで、同じ年10月のSFでのソロアルバムで、多少変形されて<Round Lights>として演奏された曲だ。CD2の<Light Blue>メーキングでは、アート・テイラーのドラムスのリズムを巡って、延々と続く(?)スタジオ内のモンクたちの会話も捉えられている。

1960年に公開された映画『危険な関係』がヨーロッパで大ヒットしたこともあり、翌1961年に7年ぶりにパリを再訪し「オリンピア」劇場で公演したモンクは54年の時とは打って変わって熱狂的な聴衆に迎えられた。当時アメリカでもようやく名声を高めていたモンクは、文字通り凱旋を果たしたのである。パリは、1954年のニカ男爵夫人との出会いがあり、愛弟子バド・パウエルが暮らしていた場所でもあり、その後のモンクの人生に大きな影響を与えた街だった。

2017/10/21

モンクを聴く #9:Big Band (1959 - 68)

モンクはビッグバンドのレコードを3作品残している。モンク本人ですら苦労したビッグバンドによる編曲と演奏は、いわば大キャンバスに描く抽象画と同じくらい難しいことだろう。しかし「メロディからハーモニーが聞こえて来る」というモンク作品を、大編成バンドのカラフルなサウンドで解釈するというこの試みは、今でも非常に魅力的だと個人的には思っている。これは現代のジャズにとっても、まだまだ掘り下げるに値する数少ない分野の一つではないだろうか。山中千尋や狭間美帆のような女性アーティストがチャレンジしているように、ジャズに限らず、モンクの音楽を現代の感覚で解釈、表現するという世界に挑戦するミュージシャンがこれからも現れて欲しい。

The Thelonious Monk
Orchestra at Town Hall
(1959 Riverside)
第20章 p393
モンク初のビッグバンド(テンテット:10重奏団)の公演と正式録音は、リバーサイド時代の1959228日の「タウンホール」コンサートである(『The Thelonious Monk Orchestra At Town Hall』)。これは1946年に、モンクがディジー・ガレスピーのバンドを遅刻が理由でクビになって以来のビッグバンド参加であり、しかもコンサートのすべてをモンクの自作曲で行なうという画期的な企画だった。ずっとモンクを尊敬し、モンクの音楽を深く理解していた当時ジュリアード音楽院教授だったホール・オヴァートンを編曲者としてモンクは指名する。この時ビッグバンドのリハーサルを行なっていたニューヨーク6番街のロフトにオヴァートンたちと住んでいたのが、写真集「水俣 MINAMATA」で知られる社会派の写真家W・ユージン・スミス(1918-78)だった。オーディオマニアでもあったスミスがロフトで録音していた貴重なテープから、ロビン・ケリーが本書中で一部を書き起こしたモンクとホール・オヴァートンの会話とリハーサルの模様は、モンクの思想と手法を語るものとして非常に興味深いものだ。またこのテープは、これまでオヴァートンが単独で編曲したと思われていたコンサートの音楽が、実はモンクと緊密なやり取りをしながら、いわば共同で書かれていたことを示す証拠となった。
カルテットとテンテットによる当日のメンバーとCD収録曲は以下の通り。
<メンバー> Donald Byrd (tp) Eddie Bert (tb) Bob Northern (fh) Jay McAllister (tuba) Phil  Woods (as) Charlie Rouse (ts) Pepper Adams (bs) Thelonious Monk (p) Sam Jones (b) Art Taylor (ds)
<CD収録曲> Thelonious/ Friday The 13th/ Monk's Mood/ Little Rootie Tootie/ Off Minor/ Crepuscule With Nellie/ In Walked Bud/ Blue Monk/ Rhythm-A-Ning

演奏内容と評価は本書に詳しいが、当日の会場の反応はすこぶる良かったものの、1952年のモンク初のピアノ・トリオの演奏をビッグバンドで再現し、高い評価を得た<リトル・ルーティ・トゥーティ>を除き、結果的に批判的なコンサート評が多かったために、リバーサイドはその後スポンサーも兼ねて予定していた8都市を巡るコンサート・ツアーを中止した。この予想外の判断によって、このコンサートに大きなエネルギーを注ぎ込んだばかりか、当時キャバレーカードがなく、ツアー公演に唯一の収入を見込んでいたモンクは落胆し、リバーサイドとの関係も決定的に悪化した。さらにモンクの精神状態もその後しばらくは不調となり、4月にはボストンの「ストーリーヴィル」出演後に行方不明になるという事件を起こす。ところが、このライヴ・アルバムは1959年のリリース後、非常に高い評価を得るようになるのである。ジャズ・コンサート批評の難しいところだが、これがジャズ、特にモンクのようなエモーション一発ではない複雑で高度な音楽を、ライヴで1回聞いただけの批評の危うさだと言える。一般的にジャズとはそういうもので、だからこそ録音とレコードの価値があるわけだが、中でもモンクのように、何度も繰り返して聴かないと、その本当の素晴らしさがわからないジャズというものはあるのだ、という実例の一つだろう。

Big Band and Quartet
in Concert
(1963 Columbia)
第25章 p515
モンク2度目のビッグバンド公演が、コロムビア時代19631230日の「フィルハーモニック・ホール」でのコンサートで(『Big Band and Quartet in Concert』)、ホール・オヴァートンが再び編曲を担当した。モンクがビッグバンドに求めていた理想は困難ではあるが明快なもので、単に楽器の数を増やしただけの定型的大編成バンドではなく、スモール・コンボと同じように自由な即興演奏に近いスウィングする音楽をラージ・アンサンブルで実現することだった。「タウンホール」での音調が低域部が重かったという反省から、メンバーにはサド・ジョーンズ(corn)とスティーヴ・レイシー(ss) を新たに加え準備を進めていたが、1122日のダラスでのケネディ大統領暗殺事件によって1129日に予定されていた公演日程が1ヶ月先送りとなった(タイム誌が予定していた、モンクの表紙とカバーストーリーを掲載した号も発売延期となった)。今回はモンク・カルテットを間に挟んだ3部構成とし、高域部の強化によって明るい響きになったビッグバンドは好評で、特に『At the Blackhawk』のソロを引用した<フォア・イン・ワン>が最も高い評価を得た。こちらは追加曲も収録した2CDで、録音が非常にクリアなので、各パートの音も明瞭で快適なサウンドだ。
カルテットとテンテットによる当日のメンバーとCD収録曲は以下の通り
<メンバー> Thad Jones (cort) Nick Travis (tp) Eddie Bert (tb) Steve Lacy (ss) Phil Woods (as,cl) Charlie Rouse (ts) Gene Allen (bs, cl, bcl) Thelonious Monk (p) Butch Warren (b) Frankie Dunlop (ds)
<CD収録曲> Bye-Ya/ I Mean You/ Evidence/ Epistrophy/ (When It's) Darkness On The Delta/ Oska T./ Misterioso/ Played Twice/ Four In One/ Light Blue 

「タウンホール」直後の不評とは違い、「フィルハーモニック・ホール」での公演は論評を含めて大成功となった。モンクは自分の功績の一つとして「インプロヴァイズするジャズを、ビッグバンドという形態で実現したことだ」と後年述べているが、確かにこれも、モンクとオヴァートンが共同で作り上げた独創的音楽の一つだったと言えるだろう。その後モンクは196710月の6度目のヨーロッパ・ツアー時にも、ジョージ・ウィーンの提案でオクテット、ノネットによるバンドを率いてイギリス、ドイツ、フランス他で演奏し好評を博しているが(ジョニー・グリフィンやフィル・ウッズを擁したこのバンドの映像の一部が、映画『ストレート・ノー・チェイサー』に残されている)、ドイツのベルリン・ジャズ祭では、ヨアヒム・ベーレントとテオ・マセロのレコーディング企画提案にもかかわらず、コロムビア上層部の支持が得られなかったためにこの企画はお流れとなった。ただし、ヨーロッパの現地放送局が録音したこの時の公演は、いくつかアルバムとなって後にリリースされている。

Monk's Blues
(1968 Columbia)
第27章 p585
モンク最後のビッグバンドのアルバムが、196811月にロサンゼルスでスタジオ録音された『モンクス・ブルース Monk’s Blues』で、前年のヨーロッパでのモンクのビッグバンドの演奏に触発されたテオ・マセロがプロデュースし、当時売れっ子アレンジャーだったオリヴァー・ネルソンを編曲者に指名したレコードだ。モンクのバンドに加え、LAの現地ミュージシャンを数多く起用した16人のオーケストラで、大編成の強力なバンドによる「ロックやR&Bの要素を取り入れたクロスオーバー的味付けの音楽」という、あの時代を感じさせるコンセプトだ。この録音では、モンクはピアニストとしてフィーチャーされただけで、曲の構成全体に関与していたわけではなく、モンクとオヴァートンの協働作業で作り上げた上記2つのビッグバンドとはまったくコンセプトが違うものだった。モンク自身は録音には協力的だったようだが(仕事として)、セロニアス・モンクの曲を「素材」にしただけで、モンク的音楽世界からはまったく乖離しているとして、このアルバムはプロデュサーのマセロ本人を含めて各メディアや批評家からは酷評された。今の耳でモンク入りの珍しいイージーリスニング・ジャズとして聞けば、なるほどと思えるが、それまで長年「モンク固有の音楽」を聴いてきた当時の批評家たちにとっては受け入れ難かったのだろう。CDの録音はエコーがかかったようで、ホーン群の高域も強調され過ぎて、若干うるさい。マネージャーのハリー・コロンビーが、モンクと一緒にLAのネルソンの豪邸を訪問した際の観察と、このレコードの感想が本書に書かれているが、まさに対照的な二人の音楽家の対比が非常に面白い。
収録曲は以下の通り(テオ・マセロ作の2曲がこっそり入っている)。
Let's Cool One/ Reflections/ Little Rootie Tootie/ Just a Glance at Love (Macero)/ Brilliant Corners/ Consecutive Seconds (Macero)/ Monk's Point/ Trinkle, Tinkle/ Straight, No Chaser/ Blue Monk/ Round Midnight

ところで、1960年代という時代背景もあるのだろうが、このアルバムも含めてコロムビア時代のモンク作品のジャケット・デザインはどれも薄味で、モンクの音楽世界を表現していないように個人的には思える(凝った「アンダーグラウンド」も)。テオ・マセロはプロデューサーとして、コロムビア時代のマイルス・デイヴィスを録音編集の技術を駆使して「創作」した功労者だったが、初期の頃からモンクのファンでもあった。だからモンクへの尊敬と愛情は持ち続けていたし、モンクの売り出しに大きな力を注いだのも事実だと思うが、レコード作りのコンセプトがモンクの音楽の本質と徐々にずれて行ったことと、それを加速した売り上げを至上命題としたコロムビアの商業主義によって、結局コロムビアという会社とアーティスト・モンクの板挟みのような状況に追い込まれて行ったのではないかと想像する。「聴き手が理解するまで、妥協せずに自分の信じる音楽をやり続けろ」と語っていたように、モンクは基本的に作曲家であり、マイルスのように時代や聴衆のニーズを見抜いて自分の音楽を変えることのできる器用な音楽家ではなかったからだ。モンクとコロムビアとの契約は1970年まで継続するが、結局この1968年の『Monk's Blues』が、モンクにとってコロムビアへの、またメジャー・レーベルへの最後の録音となった。

2017/10/19

モンクを聴く #8:with Charlie Rouse (1959 - 70)

ジョニー・グリフィンに代わって短期間だけ参加したニー・ロリンズが去った後、ウェイン・ショーターを含む多くの後任テナー希望者があった中、モンクが選んだのはチャーリー・ラウズ(1924-1988)だった。ラウズは1958年末にモンクのバンドに加わり、その後1970年に辞めるまで約11年間在籍した。ラウズも当初は前任のテナー奏者たちと同じく、モンクの音楽を理解、吸収するのに苦労していた。しかし、ラウズがロリンズ、コルトレーン、グリフィンと違ったのは、共演することでモンクと対峙し、テナー奏者として成長しただけでなく、その長い在籍期間を通じて完全にモンク・バンドにとって欠かせない一部となって行ったことだ。モンクはラウズの存在ゆえに、長いキャリアを通じて初めて、自分のサウンドを自由に追求できる安定したワーキング・バンドを持つことができた。その間メインのドラマーはフランキー・ダンロップからベン・ライリーに、ベーシストはジョン・オアからブッチ・ウォーレン、ラリー・ゲイルズ等に代わったが、ラウズはテナー奏者として一貫してモンク・カルテットの要として活動を続けた。モンクの音楽を理解し、モンクの意図を汲み取り、モンクを助け、バンドを献身的に支える役目も果たした。1960年代を通じて築かれたモンクーラウズの独特の共生関係は、他に例を見ないような一体感をバンドにもたらしたが、一方で、代わり映えのしないカルテットのフォーマットとサウンドに、やがて音楽的には時に批判の対象ともなった。前任者たちのような “華” はないが、そうした批判にも耐え、リーダーのモンクが常に快適でいられるように場をまとめ、同時にモンクが目指すサウンドを一緒に作り上げたラウズのミュージシャン、サイドマンとしての能力と人格は、決して過小評価すべきではないだろう。

5 by Monk by 5
(1959 Riverside)
第20章 p402
ラウズのモンクとの初録音は、19592月の「タウンホール」コンサートでのテンテット(10重奏団)だった。そしてリバーサイドにおける最初のコンボ録音となったのが、19596月初めの『ファイブ・バイ・モンク・バイ・ファイブ 5 by Monk by 5』である。サム・ジョーンズ(b)、アート・テイラー(ds)という当時のレギュラー・カルテットに、カウント・ベイシー楽団の花形トランペッターだったサド・ジョーンズがコルネットで客演したクインテットによるアルバムだ。新作<プレイド・トゥワイス>、<ジャッキーイング>に加え、<ストレート・ノー・チェイサー>、<アイ・ミーン・ユー>、<アスク・ミー・ナウ>などすべてモンクの自作曲だ。まだ加わって半年ほどだったが、前任者たちと比較され、当初厳しい批判を受けていたラウズのソロは、ここでは一皮むけたように流麗だ。モンクにとってリバーサイド最後のスタジオ録音となったこのアルバムはどの曲も名演だが、何よりも演奏全体に自由と躍動感が満ちているところがいい。サド・ジョーンズの参加によるバンドへの刺激とクインテットという編成の違いはもちろんだが、それを生み出している大きな要因が、モンクのあの独特のリズムに乗ったアブストラクトなコードによるコンピングで、とりわけ空に向かって飛んで行きたくなるような<ジャッキーイング Jackie-ing>の開放感は最高だ。アート・テイラーのイントロのドラムス、ラウズとサド・ジョーンズのソロも素晴らしい。シカゴの作家フランク・ロンドン・ブラウンが、この曲に触発されて書いたという小説「ザ・ミス・メイカー The Myth-Maker」のくだりを本書で読んで、私は自分とまったく同じ感覚を抱いた人が半世紀前にいたのだ、と驚くと同時に非常に嬉しくなった。これぞ「モンク的自由」を象徴するようなサウンドだと思う。この曲はモンクも気に入って、その後しばらくコンサートのオープニングに使うなど、何度も演奏された。自分の姪の名前 「Jackie」に「-ing」を付けるモンクの言語センスも素晴らしい。

Monk's Dream
(1962 Columbia)

第24章 p488
Criss-Cross
(1963 Columbia)

第24章 p496
この時期(19571962年頃)のモンクは、何をやっても生涯で最も冴えわたっていたと思う。この期間は、一時期を除きモンク的には稀な、精神的にも肉体的にも非常に安定した状態が比較的長期にわたって続いていたからだ。好評だったラウズ(ts)、ジョン・オア(b)、フランキー・ダンロップ(ds) というカルテットによる1961年の2ヶ月近いヨーロッパ・ツアー等を通じて、固定バンドとしてこれまでにない一体感を高めたモンクのバンドは、翌19629月のリバーサイドからコロムビアへのモンクの移籍に伴い、10月末からデビューLP『モンクス・ドリーム Monk’s Dream』の録音を30丁目スタジオで開始した。リバーサイド時代との重複を避けるために、曲は慎重に選ばれ、<ロコモーティヴ>、<バイ・ヤ>、<ボディ・アンド・ソウル>、<モンクス・ドリーム>など従来録音機会の少なかった曲や、<スウィート・ジョージア・ブラウン>を基にした新曲で、これも躍動感に満ちた<ブライト・ミシシッピ>を加えた。バンドの好調さを示すかのように、このアルバムはどの曲でも安定感のある演奏を聞かせ、各プレイヤーも自分の役割を完全に理解、消化した上で演奏している様子がよくわかる。50年代末のような予測不能性やわくわくするような刺激は薄れたかもしれないが、モンクは初めて自分の思い通りのサウンドを自由に出せるバンドを手に入れたと言える。また大手コロムビアとの契約と、このデビュー・レコードは世の中の注目を集め、モンクは初めてスター・ミュージシャンの仲間入りを果たし、かつてない名声を得るのである。モンクもラウズも、ダンロップもオアも、おそらくこのアルバムと、続く『クリス・クロス Criss-Cross』(1963)の2枚が、60年代にコロムビアに残したスタジオ録音としては最上のレコードと言えるだろう。

Straight, No Chaser
(1966 Columbia)
第26章 p567
Underground
(1967 Columbia)
第27章 p579
1960年代後半になると、肉体や精神の不調もあって、モンクの作曲への意欲や創作エネルギーは徐々に衰えつつあったが、1966-67年にバド・パウエル、エルモ・ホープ、そしてジョン・コルトレーンという盟友3人を相次いで失うという悲運が、音楽家モンクの精神の安定と創造意欲にとどめのような一撃を与える。またコロムビアの商業主義とは相容れない芸術家モンクの葛藤や不満も、徐々に高まっていたことだろう。ロックやフォーク、ポップスに押され、音楽としてのジャズそのものの衰退も明らかだった。したがってこの時期のレコードには、60年代前半までのモンクにあったような活力はあまり感じられないが、代わって成熟した安定感のあるバンドといった趣が強い。『ストレート・ノー・チェイサー Straight, No Chaser』(1966) と、『アンダーグラウンド Underground』(1967) という2枚のアルバムは、ラウズに加え、ドラムスのベン・ライリーとベースのラリー・ゲイルズというシュアな2代目リズムセクションとなって、タイム、リズムともにモンク・カルテットが最もバランスの取れた演奏をしていた時期でも最良の演奏を記録したものだろう。また新曲として、前者には日本公演時に覚えた<ジャパニーズ・フォークソング(荒城の月)>を、後者には<アグリー・ビューティ>、<レイズ・フォア>、<ボーボーズ・バースデイ>、<グリーン・チムニーズ>という新作4曲も久々に加えている。

しかしモンクの精神的不安定さと、体調が理由でギグをキャンセルしたりすることが徐々に増えていったこともあって、1969年には5年間在籍したベン・ライリーが去り、チャーリー・ラウズも翌1970年についにモンクの元を離れた。50年代のロリンズ、コルトレーンと同じく、ラウズもまた、モンクとその音楽の目指す方向性に忠実に、しかも長期にわたって従ったミュージシャンだった。映画『ストレート・ノー・チェイサー』で、モンクとの録音セッションやインタビューを受けるラウズの姿が見られるが、画面や言葉からもその人柄や誠実さがよく表れている。ラウズはこの映画の公開(1989年)を待たずに、19881130日にモンクと同じ享年64歳でシアトルで亡くなる。そして奇しくも同じ日に、あのニカ男爵夫人もニューヨークで亡くなっている。

2017/10/17

モンクを聴く #7:with Johnny Griffin (1958)

コルトレーンの後任、モンク・カルテット二人目のレギュラー・テナー奏者になったジョニー・グリフィン(1928-2008) はシカゴ生まれで、ライオネル・ハンプトン楽団でプロのキャリアをスタートさせ、1957年にニューヨークに進出した。本書にあるように、195512月にシカゴで共演したモンクはグリフィンを気に入り、オリン・キープニューズにリバーサイドがグリフィンと契約するよう働きかけたらしいが、ブルーノートが先に契約してしまったという。

Art Blakey's Jazz Messengers
with Thelonious Monk
(1957 Atlantic)

第17章 p327
アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズのメンバーとしてブルーノートに何作か録音したグリフィンの、モンクとの初の共演セッションは、19575月のアトランティック・レーベルの『Art Blakey's Jazz Messengers with Thelonious Monk』である。相性の良いブレイキーが率いるクインテット(グリフィン-ts、ビル・ハードマン-tp、スパンキー・デブレスト-b)に、<エヴィデンス>、<イン・ウォークド・バド>、<リズマニング>、<ブルー・モンク>、<アイ・ミーン・ユー>という自作の5曲を提供した代わりとして、モンクが(ユニオン最低賃金で)サイドマンとして客演したセッションだ<リズマニング>はこのレコードが初録音である。サイドマンとは言え、当然このセッションを仕切っているのはモンクで全体としてメッセンジャーズ側がまだモンクの音楽を消化していない様子が伺えるが、グリフィンは自作ブルース<パープル・シェイズ>を提供していて、他の曲でもやはりモンクとの相性の良さが既に感じられる。ちなみにモンクが参加したアトランティックのレコードはこれ1枚だけである。グリフィンはその後1958年にリバーサイドに移籍し、小さな身長(165cmくらい)なのに、高速で豪快なサックスを吹きまくることから付けられたニックネーム通りの「リトル・ジャイアント The Little Giant(1959)というアルバムを含めて、リバーサイドから何作かリリースしている。

Thelonious in Actin
(1958 Riverside)
第19章 p364
195712月にコルトレーンとの初の長期ギグを終えたモンクは、テルミニ兄弟の要請で、翌19586月から二度目となる「ファイブ・スポット」での8週間のレギュラー・ギグを開始する。カルテットのテナー奏者として、モンクはコルトレーンの後任に依然としてソニー・ロリンズを雇いたいと思っていたが、ロリンズは既に完全にリーダーとして活動していたので、その案の実現は難しく、代わってジョニー・グリフィンを雇うことにした。上記アトランティック盤のセッションから約1年後である。グリフィンがリバーサイドに移籍したことから、コルトレーンの時と違って「ファイブ・スポット」でのレーベルによる初のライブ録音が可能となった。「ファイブ・スポット」でのモンク・カルテットの公式ライヴ録音は、グリフィンと共演したこの2枚のアルバムだけである。アーマッド・アブドゥルマリク(b)とロイ・ヘインズ(ds)というカルテットによる195879日、87日の2日間のセッションをリバーサイドが録音したが、7月9日の録音は演奏が不満だったモンクの許可が出ず(モンクの死後、キープニューズが発表して追加した)、8月7日の録音だけが『セロニアス・イン・アクションThelonious In Action』と『ミステリオーソMisterioso』という2枚のLPでリリースされた。全曲がモンクの自作曲で、同一メンバーによる同日演奏を振り分けただけなので、演奏内容に大きな違いはないが、ジョニー・グリフィンのテナーは、ロリンズともコルトレーンとも異なる快活さと、枠内に留まらない自由と豪放磊落さを持っているので、ライヴ録音ということもあって両アルバムとも非常に楽しめる。

Misterioso
(1958 Riverside)
第19章 p364
本書にあるように、クラブの出演ステージ上でリハーサルをやっていたモンク流の指導方法に加え、グリフィン的にはモンクのピアノだと、どこか拘束されているような気がするという感覚もよくわかる。モンク独特のリズムに乗ったアクセントでコンプしながら、飛び回るようなやんちゃなグリフィンをコントロールするように、モンクが冷静な音を出して手綱を引き締めているような瞬間がたびたびあるからだ。これは真面目できちんとした(?)ロリンズやコルトレーン相手のモンクとは明らかに違う。しかしこのグリフィンの豪快さと対照的にクールなモンクとの対比が、このアルバムの面白いところで、聞きどころでもある。モンクも、グリフィンの枠にはまらない自由さと豪快さを違う個性として評価していたのだろう、ロリンズやコルトレーンに対するのとは別のアプローチを楽しんでいるようにも聞こえる。また著者ロビン・ケリーが好きなロイ・ヘインズの躍動的なドラミングも非常に素晴らしい。いずれにしろ、クラブ・ライヴがジャズではいちばんエキサイティングで楽しい、ということを証明しているようなアルバムである。ピアノ・トリオ入門がプレスティッジ盤であるように、モンクのコンボ演奏入門には、ジョニー・グリフィンとのこの「ファイブ・スポット」ライヴが最適だろう。

しかしモンクの絶頂期とも言える、この時期の「ファイブ・スポット」のライヴ演奏を記録したのがこの2枚のアルバムだけというのは、リバーサイドの大失態ではないかと思う。さらに後年19606月にテルミニ兄弟が新たにオープンした「ジャズ・ギャラリー」で、キャバレーカードを三たび取り戻して久々に登場したモンクのバンド(チャーリー・ラウズ-ts、ジョン・オア-b)に、ロイ・ヘインズ(ds)、さらに初めてスティーヴ・レイシー(ss) が加わったクインテットの長期間(16週間)の貴重なライヴ演奏も録音されなかった。芸術指向が強く、完全主義のオリン・キープニューズ的には、何が起こるかわからないライヴ録音は気が進まなかったのだろうか? あるいは本書にあるように、キープニューズとモンクの関係は、この時期には既に相当悪化していたようなので、そうした影響もあったのかもしれない。この当時のリバーサイドの録音記録を見ると、ビル・エアヴァンス、キャノンボール・アダレイ等を頻繁に録音しているので、モンクへの過小な印税支払い疑惑と自分の録音の少なさなどを、当時モンクが不満に思っていたことも確かだろう。実際その年の末には、モンクはリバーサイドを去るという決断を下すのである。一般的な印象とは違って、本書における著者のリバーサイドとオリン・キープニューズの描き方は一貫して批判的だ。 

グリフィンは約2ヶ月という短期間でモンクのバンドを辞めるが(「ファイブ・スポット」では金にならない、という理由で)、その後1960年からエディ・ロックジョー・デイヴィス(ts)と双頭クインテットを率い、1963年にはヨーロッパに移住し、1978年までオランダで活動した。その間、1967年のモンクのヨーロッパ・ツアー時には、オクテット、ノネットのメンバーとして参加している。グリフィンは辞める際、後任にソニー・ロリンズを指名し、19589月にそのロリンズは「ファイブスポット」での12日間のギグとコンサートでモンクと短期間共演するが、翌10月のモントレージャズ祭出演を機に、チャーリー・ラウズの名前を自分の後任候補の一人として挙げてバンドを去るのである。

2017/10/15

モンクを聴く #6:with John Coltrane (1957 - 58)

1956年当時、モンクはマイルス・バンドにいたジョン・コルトレーン(1926-67) に目をかけていたが、モンクのキャバレーカード問題、コルトレーンのヘロイン問題という両者の障害のために、共演の機会はなかなか訪れなかった。その後マイルス・バンドをクビになったコルトレーンを、モンクはメンターとして個人的に指導するようになり、コルトレーンはニカ邸に加え、モンクの自宅にまで毎日のように通って指導を受けている。そして、ようやく初共演の録音セッションとなった1曲が、19574月のモンクのソロ・アルバム『Thelonious Himself』(Riverside) でのウィルバー・ウェアとのトリオによる<モンクス・ムード>である。

Monk's Music
(1957 Riverside)
第17章 p329-
続いて4管セプテットの一人としてだが、本格的共演作『Monk’s Music』(Riverside) がその直後6月に録音されており、モンクはコルトレーンを自分のバンドで雇うという約束をようやく果たした。レイ・コープランド(tp)、ジジ・グライス(as)、コールマン・ホーキンズ(ts)、ウィルバー・ウェア(b)、アート・ブレイキー(ds)というメンバーによるこのアルバムは、「ブリリアント・コーナーズ」と並んでリバーサイド時代のモンクを代表する録音で、<オフ・マイナー>、<エピストロフィー>、<ウェル・ユー・ニードント>など久々に取り上げた曲など、モンクの自作曲のみ6曲を演奏しているアルバム冒頭の、ホーンセクションだけの短いが荘厳な<アバイド・ウィズ・ミー Abide with Me>は、幼少時代から愛した賛美歌(日暮れて四方は暗く)をモンクが編曲したもので、心に染み入るその演奏はモンクの葬儀の際に流れた。この録音は、モンクがコールマン・ホーキンズという恩人と10年ぶりに共演するという機会でもあり、ホーキンズは<ルビー・マイ・ディア>で芳醇で温かなソロを聞かせている。しかし、コルトレーンはホーキンズに気後れしたのか、セプテットという編成もあったのか、まだ新入りだったせいなのか、ここではまだ全体にあまり目立たない演奏が多い。苦労した録音時のいくつかの逸話は本書に詳しいが、特にアート・ブレイキーの語る、恩人ホーキンズ、当時弟子のようだったコルトレーンに対するモンクの説教の裏話は、作曲家モンクの面目躍如といった趣があり非常に面白い(どことなくおかしい)。作曲に何ヶ月もかかり、当時病床にあったネリー夫人に捧げた名曲<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>は、インプロヴィゼーションのない通作歌曲形式の作品で、これが初演である。<ウェル・ユー・ニードント>演奏中に「コルトレーン!」と叫ぶモンクの声も、2011年のリマスターされたOJCステレオ版のCDではよく聞こえる(このCDは非常に音がクリアだ)。疲れ切ったモンク、重鎮ホーキンズの存在、新米メンバーだったコルトレーン初の本格的共演、難曲録音時の裏話、<クレパスキュール・ウィズ・ネリー>の作曲と初演、ジャケット写真制作時の面白い逸話など、このアルバムは個々の演奏の完成度は別としても、何よりモンクらしい話題が豊富なので、それらを想像しながら聴くだけで十分楽しめる。

Thelonious Monk with
John Coltrane
(1957Rec. 1961 Jazzland)
第18章 p352
本書に詳しいように、ハリー・コロンビーやニカ夫人の尽力、テルミニ兄弟の支援によってキャバレーカードをようやく手に入れたモンクは、この翌月195774日からクラブ「ファイブ・スポット」にレギュラー出演し、コルトレーンも716日にモンク・カルテットのテナー奏者として同クラブに初登場する。ウィルバー・ウェア(b)(後にアーマッド・アブドゥルマリク)、シャドウ・ウィルソン(ds) を加えたコルトレーンのワンホーン・カルテットは、その後約半年間「ファイブ・スポット」に連続出演することになる。当時はまだ精神面に不安があったものの、長年の苦闘を終え、6年ぶりにやっとキャバレーカードを手にしてニューヨーク市内で仕事ができることに加えて、これはモンクにとって初の自分のレギュラー・バンドによるレギュラー・ギグであり、しかもそこでコルトレーンを擁して自作曲を演奏できるモンクが、どれだけ高揚した気分でいたかがわかろうというものだ。本書に詳しいように、当時「ファイブ・スポット」に日参した芸術家たちを中心とした聴衆側の熱気も伝説的なものだ。ところが返すがえすも残念なことに、この時期の伝説的カルテットの白熱のライヴ演奏を録音したレコードは存在しないのだ。それはコルトレーンが当時プレスティッジとの契約下にあったためで、唯一記録として残されているのが、リバーサイドが7月にスタジオ録音したと言われている3曲で、これも交換条件を出したプレスティッジのボブ・ワインストックの案(コルトレーンのレコードに、モンクがサイドマンとして参加する)をモンクが拒否したために、その後リバーサイド系のJazzlandレーベルによって 1961年にリリースされるまでお蔵入りになっていた。その3曲とはモンク作の<ルビー・マイ・ディア>、<トリンクル・ティンクル>、<ナッティ>で、当時のレギュラーだったウィルバー・ウェア(b)とシャドウ・ウィルソン(ds ) が参加している。その3曲に、モンクの19574月の『ヒムセルフ』からソロ演奏の<ファンクショナル>、6月の『モンクス・ミュージック』から<エピストロフィー>(ホーキンズ抜き)と<オフ・マイナー>のそれぞれ別テイク計3曲を加えて、1961年になってからリリースされたのが『Thelonious Monk with John Coltrane』(Jazzland) である。<ルビー・マイ・ディア>に聞けるように、メロディからあまり遊離することなく、シンプルに美しく歌わせるコルトレーンのその後のバラード演奏は、明らかにこの時期のモンクの「指導」によって磨かれたものだろう。<トリンクル・ティンクル>と<ナッティ>は、コルトレーンがモンクと共演してから初めて思う存分吹いているようで、モーダルな初期のシーツ・オブ・サウンドがたびたび現れる。7月中旬の「ファイブ・スポット」出演当初はボロボロだったと言われるコルトレーンの演奏は、以降モンクとのリハーサル(?)を経て飛躍的に進化して行ったが、あの「神の啓示」を得たという有名な発言も、モンクと共演していたこの時期のことである。ついにヘロイン断ちをしたのも同じ時期であり、その後さらに強まるコルトレーンの求道的な姿勢も、この当時に形作られたものだろう。最後に1曲だけ入ったモンクのソロ、<ファンクショナル>の別テイクもやはり素晴らしい。

Thelonious Monk Quartet
with John Coltrane
Live at Carnegie Hall
(1957 Rec. 2005 Blue Note)
第18章 p356
上記スタジオ録音は19577月だと言われているので、コルトレーンがバンドに入ってまだ間もない頃だ。その後18週間の「ファイブ・スポット」でのギグを経て、カルテットにとって初の大舞台となったのが1129日の「カーネギーホール」での慈善コンサートで、このときはベースがウィルバー・ウェアからアーマッド・アブドゥルマリクに代わっている。短波ラジオ局ヴォイス・オブ・アメリカ(VOA)によるこのコンサートの録音テープが米国議会図書館で奇跡的に「発見」されたのは、それから48年後の2005年であり、まるでタイムカプセルを開けたようなこの発見は当時大変な騒ぎとなった。ブルーノートのマイケル・カスクーナとモンクの息子T.S.モンクが、そのモノラル録音テープをデジタル・リマスターして発表したのが『Thelonious Monk Quartet with John Coltrane at Carnegie Hall』Blue Note)である。幻の「ファイブ・スポット」でのライヴではないが、4ヶ月以上にわたって共演してきたモンクとコルトレーンのカルテットによる演奏が素晴らしいのは当然で、しかも<スウィート・アンド・ラヴリー>を除く7曲がすべてモンクの自作曲である。冒頭の<モンクス・ムード>の美しい対話だけで、いかに二人が緊密な関係を築き上げていたかがよくわかる。モノラルだが録音も素晴らしくクリアで、モンクとコルトレーンだけでなく、アブドゥルマリクのベース、ウィルソンのドラムスも明瞭に聞き取れ、演奏の素晴らしさを倍増させている。当時の好調さを表すように、モンクも非常に生きいきとした文句のないプレイを聞かせているが、コルトレーンは完全にtake-offしており、その後の世界に半分突き進んでいる。このカルテットの演奏は、おそらくモンク作品を史上最も高い密度と次元で解釈、演奏したコンボの記録と言えるだけでなく、絶頂期のモンクと前期コルトレーンの2人を捉えたモダン・ジャズ史上最高の録音の一つと呼べるだろう。

Thelonious Monk Quartet
with John Coltrane
Live at Five Spot
(1958 Rec. 1993 Blue Note)
第19章 p376
モンクとコルトレーンのもう一つの共演記録としては、1957年末にバンドを去ったコルトレーンが、翌1958911日にジョニー・グリフィンの代役として「ファイブ・スポット」に出演したときの録音が残されている。アーマッド・アブドゥルマリク(b)とロイ・ヘインズ(ds) によるカルテットで、これは当時コルトレーンの妻だったナイーマが、プライベート録音していた音源を1993年にブルーノートがCD化したものだ。家庭用のレコーダーだったために音質は良くないが、その時期のモンクとコルトレーンの「ファイブ・スポット」における共演を捉えた唯一の貴重な録音である。それまでモンクとたっぷりリハーサルを積み上げ、また自身もミュージシャンとして急上昇中のコルトレーンは、クラブライヴということもあって、ここでは余裕しゃくしゃくで吹きまくっているようだ。

これら残された録音を聴くと、ソニー・ロリンズと並んで、真面目なコルトレーンも当時モンクの良き生徒であり、2人の人間的、音楽的相性も良かったように思える。本書からわかるのは、モンクは基本的に「ジャズの先生」であり、ロリンズ、コルトレーン、チャーリー・ラウズも含めて、モンクが好んだのは、実力はもちろんだが、師匠の言うことに謙虚に耳を傾け、成長しようとする誠実なミュージシャンだったということだ。ロリンズと同じく、自らの道を選んで飛び立ったコルトレーンとモンクが、その後レコード上で共演することは二度となかった。それから9年後の196612月、コルトレーンが亡くなる7ヶ月前、真冬のデトロイトでのコンサートが二人の最後の共演の場となった。