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2020/08/15

あの頃のジャズを「読む」 #6:ジャズと文学

1960/70年代のジャズ評論の主な場は、ジャズ雑誌や音楽雑誌にあった。だがポピュラー音楽のジャンルの一つであると同時に、当時のジャズは芸術や思想の潮流にも影響を及ぼす前衛芸術だとも見られていたので、硬派だった季刊誌「ジャズ批評」に加え、文芸誌「ユリイカ」、「文学界」などでも、芸術、文学、思想という観点から「ジャズ特集」が組まれ、ジャズ全体の動向、芸術や思想との関係について「非商業的な」レビューや批評文が掲載されていた。そこでは、主に雑誌のレコード評などを担当していた前掲のジャズ評論家群とは異なる視点でジャズを捉えた文章を書く作家や批評家たちが寄稿していた。ジャズに関心の高かった作家も、60年代前半の大江健三郎や五木寛之の世代に、フリー・ジャズに傾倒した中上健次や、ジャズバーまで開いた村上春樹など団塊世代が加わるようになった。しかし世界中が騒然としていた激動の60年代が過ぎ去り、世の中全体が平和と安定を求めるようになった70年代になると、常に時代に敏感に反応するジャズも同時に変貌していったが、そこにジャズから失われてゆくものを痛切に感じ取っていた人たちもいた。

「ジャズはかつてジャズであった。」
中野宏昭  / 
1977 音楽之友社
当時読んだ本の中でもいちばん記憶に残っているのが、中野宏昭(1945-76)という人の『ジャズはかつてジャズであった。』(1977) という本で、2017年3月にもこのブログで一度紹介している。中野氏は1968年にスイングジャーナル社に入社後、体調を崩して72年に同社を辞めた後もフリーで評論活動を続けていたが、76年に病気のために31歳で亡くなっている。この本は、その70年代前半の短い期間に中野氏が雑誌などに寄稿した何編かの評論と、ビル・エヴァンスの『Explorations』など、当時のレコードのライナーノーツとして書いた代表的文章を選んで、野口久光、鍵谷幸信、悠雅彦氏ら有志が故人を偲んで出版した遺稿集である。ジャズへの深い思いに貫かれた若き中野宏明の詩的で瑞々しい文章は、日本のジャズ批評史上もっとも高い文学的香りを放っている。

モード後の1960年代、フリー・ジャズへは向かわなかったマイルス・デイヴィスは、67年のコルトレーンの死後、ロックとエレクトリック楽器にアフリカ的リズムを融合した『ビッチェズ・ブリュー Bitches Brew』(1970) に代表される一連のアルバムを発表する。まったく新しいコンセプトによって、次なるジャズ・サウンドを創出したマイルスの支配的影響もあって、それ以降のジャズは、演奏家個人の技術や魅力よりも、「全体として制御された集団即興」へと音楽の重心がシフトした。電気増幅によってサウンドが大音量化し、個性の出しにくいギターとキーボードというコード楽器の比重が増したために、それまで主楽器だったサックスなど単音のホーン系アコースティック楽器の存在感が相対的に低下した。さらに「演奏後の録音編集」という新技術がそこに加わったために、結果として、演奏現場で、独自のサウンドで瞬間に感応する即興演奏で生きていた個々の演奏家の存在感が薄まって行くことになった。中野宏昭は書名にもなった表題エッセイで、70年代フュージョンの先駆となるこうした集団即興に舵を切ったマイルスのエレクトリック・ジャズを取り上げ、一方でコルトレーンの死後も、演奏者個人のインプロヴィゼーションを追求するアコースティック・ジャズの伝統を受け継いできたキャノンボール・アダレイの死(1975年)が意味するものと対比し、かつてのジャズが持っていた、演奏家が身を削って瞬間的に生み出す「一回性の始原的創造行為」という特性をもはや失った、と70年代のジャズの変化を捉えている(それでもなお、彼はマイルスの新しい音楽にジャズの未来を託している)。これは、60年代までのシリアスでラディカルなジャズを「同時代の音楽」として聴いてきた多くのジャズの聴き手に共通する感覚でもあった。マイルスのコンセプトをいわば商業化したバージョンであり、エレクトリック楽器を多用した70年代の「フュージョン」隆盛は、単にジャズの「サウンド」を変化させただけでなく、音楽としてのジャズの「本質」を変えたと感じる人が多かったのである。

ユリイカ(青土社)
1976年1月号
特集<ジャズは燃え尽きたか>
こうした70年代のジャズの変容を意味する『ジャズはかつてジャズであった』という詩的なタイトルは、中野宏昭が雑誌「ユリイカ」(青土社) 1976年1月号の特集<ジャズは燃え尽きたか>へ寄稿したエッセイのタイトルから引用したもので、当時の同誌編集長が小野好恵(おの・よしえ、男性、1947-96)だった小野は1970年代に「ユリイカ」と、自身が創刊した「カイエ」(冬樹社) の編集長を務めた後、80年代にフリーランスのジャズ(かつプロレス)評論家になった人だが、彼もまた病気のために1996年に48歳で早逝する。その小野好恵を追悼する遺稿集として、川本三郎氏が中心となって翌97年に編集・出版した本が『ジャズ最終章』(深夜叢書社) である。1970年代以降、小野が編集者として、あるいはジャズ批評家として雑誌や新聞等に寄稿した評論やエッセイから選んだ論稿をまとめたもので、70年代の「ユリイカ」と「カイエ」の編集後記、80年代以降に批評家に転じてから各種媒体に寄稿した文章から選ばれている。

ジャズ最終章
小野好恵 / 1997 深夜叢書
したがって本書も、ジャズ界と直接的な関わりはないが、ジャズと併走しながらあの時代を生きていた「非商業的な」批評家が、当時どんなふうにジャズシーンを見ていたのかという、もう一つの具体例である。フリー・ジャズに傾倒していた小野好恵は、1960年代末の新宿のジャズ喫茶で出会って以来、サックス奏者の阿部薫と個人的に親しく交流していた。破滅的で、孤高の音楽家ではあるが、その才能の素晴らしさを確信していた小野は、阿部の絶頂期と言われる1971年にコンサートの企画と録音を自ら手掛ける(東北大、秋田大、一関「ベイシー」で録音されたライヴ演奏が、小野の死後『アカシアの雨がやむとき』など3枚のCDで発表されている)。一方1974年に国分寺で開店し、フリー・ジャズに背を向け、50年代ジャズしか流さないと明言していたジャズ喫茶「ピーター・キャット」の常連客として、店主だった無名時代の村上春樹(1949 -)やそこに来ていた村上龍(1952-)とも知り合いだったり、当時ジャズに熱中していた中上健次(1946 - 92)とも親しく、またプロレス好きの仲間として村松友視(1940 -)とも接点があるなど、仕事がら文学関係者と幅広い交流があった。中でも親しかったのが、フリー・ジャズを自らの創作手法のバックボーンとして吸収し、『破壊せよ、とアイラーは言った』(1979) を書いた同世代の中上健次だった

1965年に高校を卒業すると、紀州(新宮)から上京してそのまま向かった新宿のジャズ喫茶で、いきなり 「重く黒い」 フリー・ジャズを全身に浴び、未体験のその音に圧倒され触発されて、ジャズそのものを創作手法に取り入れた小説を書くようになったのが中上健次だ。対照的に、60年代からジャズとアメリカン・ポップスを聴きながら都会で育ち、柔らかで軽い白人ジャズ(特にスタン・ゲッツ)を好み、ついにジャズ喫茶まで開く人並みはずれたジャズ・フリークでありながら(あるがゆえに)、多くの作品中で小道具的に触れることはあっても、創作上のテーマや技法においてはジャズと一定の距離を置いていたのが村上春樹である。小野好恵は同書で、ほぼ同世代のこの二人の作家のジャズに対するスタンス、美意識と作品を比較、考察している(「二つのJAZZ・二つのアメリカ―中上健次と村上春樹(1985年)」)。1960年代半ばの新宿で、突然「ジャズにカブれた田舎者」と、ほぼプロ並みの知識を持つ「都会人ジャズおたく」の対比という見方もできるが、中上健次の、ジャズのパワーに対する一見して雑だがピュアでストレートな反応と、対照的に、あからさまな主張や表現を嫌い、寓意と細部の洗練にこだわる村上春樹の都会人らしいジャズへの嗜好、その両方が、ある意味で当時のジャズの中にあった「土着性 / 暴力性」と「洗練 / 退廃」という2つの魅力を象徴しているとも言える。

路上のジャズ
中上健次 / 2016 中公文庫
『路上のジャズ』(2016) は、中上健次のジャズ・エッセイ集『破壊せよ、とアイラーは言った』と小野好恵による「解説」中上の他のジャズ・エッセイと初期の短編小説、さらに中上と小野の対談(1981) など、ジャズ関連の文章だけを収載している文庫本だ。本書のエッセイや小説では、若き中上健次の目に映った1960年代後半の新宿とジャズの風景が生々しく描かれている。全共闘時代よりも少し前の新宿の街頭で、コルトレーン、アイラー、アーチー・シェップのフリー・ジャズは20歳の中上健次と共鳴し一体化していた。同世代の小野好恵も、阿部薫も、ビートたけしも、永山則夫も、同じ時に同じ空間にいた。近くの「ピットイン」では若き日本人ジャズ・ミュージシャンたちが、独自のジャズ創出に毎夜挑戦していた。日本における60年代フリー・ジャズは、まさしくパワーとカオスに満ちた当時の「新宿」という街、そしてそこで生きる若者にこそふさわしい音楽だったのだろう。逃れ難い制度(code/chord) との葛藤、そこからの自由を求める闘いという点で、自身の出自とも複雑につながる中上のフリー・ジャズ体験は、音楽的知識や演奏技術の理解云々を超えた衝撃をこの若い作家にもたらし、「ジャズとは言語である」とわずかな期間でジャズの本質を見抜いたその鋭敏な感性を基に、ジャズ的構造、文体、語法を後年の『岬』(1976)や『枯木灘』(1977) 等の作品に投影したと小野好恵は指摘する。テーマやメタファーではなく、「ジャズそのもの」を小説技法の中で具現化した日本人作家は中上健次だけだと小野は考えていた(海外ではパーカーを描いた『追い求める男』のフリオ・コルタサル)。不幸な出自を持ち、どことなく「無頼」を感じさせる小野好恵は、中上健次の中に自分と通じる何かを感じ取っていたのだろう。「ジャズを通して世界を感知する」という、強烈な同時代体験を60年代に共有した二人による、20世紀の世界文学とジャズとの関係を巡る対話も深い。

『ジャズ最終章』には他にも、フリー・ジャズを60/70年代固有の一過性フォーマットとして捉えず、メソッドとして「意識的に選択」し、その後も10年以上にわたって一貫して「冷静に挑戦」し続けた山下洋輔のジャズ・ミュージシャンとしての矜持と真価を讃える「破壊するジャズの荒神 山下洋輔(1980年)」、フュージョン全盛時代にあって、ロック、ポップス、現代音楽など、世界中のあらゆる異ジャンルの音楽、ミュージシャンたちと共演し、そこで圧倒的な存在感を発揮する渡辺香津美のジャズ・ギタリストとしてのアナーキーさとスケールに感嘆する「渡辺香津美 あるいはテクニックのアナーキズム(1980年)」、さらに小野が寄稿したコルトレーン、ドルフィー、阿部薫、富樫雅彦他の内外ミュージシャンに関する論稿やディスクレビュー等も併せて収載されている。60年代末から80年代にかけてのジャズシーンの変容とその意味を、深く静かに見つめていた小野好恵の文章は、中野宏昭と同じく、全編に著者のジャズへの愛が感じられ、鋭くかつニュートラルなその批評の質の高さが際立っている。しかし、中上健次がそうだったように、ドルフィー、コルトレーン、アイラ―に代表される60年代フリー・ジャズこそが、ジャズという音楽の本質をもっともラディカルに体現していたフォーマットだと信じていた小野好恵の70年代半ば以降の論稿の基調は商業音楽フュージョンに埋め尽くされ、息絶えてしまったフリー・ジャズと、失われてしまった「行為としてのジャズ」そのものに対する絶望と諦念だ。

1992年に46歳で亡くなった中上健次の後を追うように、96年に病に倒れた小野好恵に捧げられた村上龍、高瀬アキ、清水俊彦、山口昌夫氏他の各分野の知人、友人たちからの心のこもった巻末の追悼文が、著者の人柄と業績をよく表している。同時に、1977年の『ジャズはかつて…』からちょうど20年後の1997年に出版された『ジャズ最終章』というタイトルが、時の流れとあの時代のジャズの変容を物語っている。偶然とはいえ、ここに挙げた中野宏昭、小野好恵、中上健次というほぼ同世代の3人は、不幸にも全員が早逝してしまった。しかし、「音楽」が消耗品のように日常に溢れ、すべてがエンタメ化し、もはや個々の音楽に特別な感慨を抱くことが難しくなってしまった現代から振り返ってみると、豊かな知性と感性を持ちつつジャズと真摯に向き合い、ジャズを語り、ジャズを心から愛し慈しむことのできた彼らは、短いながらも幸福な時代を生きたと言えるのかもしれない。

2020/08/08

「エスターテ(Estate)」を聴く夏

《「あの頃のジャズ」を読む》 はまだ連載途中なのだが、昔のことをあれこれ思い出しながら書いているうちに、イントロ部分が予想外にどんどん長くなってしまい、まだ本論(?)の入り口に辿り着いたばかりだ。コロナと長雨で史上最悪となった鬱陶しい梅雨がやっと明けたことだし、<interlude>として、一息入れて夏らしい名曲と演奏を取り上げてみたい。         

Amoroso
João Gilberto / 1977 Warner Bros
 
<エスターテ Estate>は、ジョアン・ジルベルトJoão Gilberto (1931-2019) のアルバム『Amoroso(イマージュの部屋)』(1977 Warner Bros.)での歌唱で有名になり、ボサノヴァのみならずジャズ・スタンダードの1曲としても知られるようになった曲だ。クラウス・オガーマンの涼し気なストリングス・オーケストラをバックにして、有名なスタンダードやボサノヴァを唄う『Amoroso』での、けだるく哀愁に満ちたジョアンの歌が好きで、昔から特に夏になるとこのアルバムをよく聴いてきた。しかし、<エスターテ>の原曲はてっきりブラジルの曲で、ポルトガル語だとばかり思い込んでいて、しかも<Estate>というタイトルの意味も、歌詞も、英語からの連想で「地所」とか「財産」とかに関係があるのだろう、くらいにしか思っていなかった。というのは、何せポルトガル語で唄う歌は響きが美しく心地よいので、ボサノヴァを聴くときも歌詞の意味などまったく考えもせず、ひたすらその「サウンド(言葉の響き)」しか聞かないクセがついてしまっているからだ。小野リサの歌などもそうだし、ジャズ・ヴォーカルも一部を除けばそうだ(それにポピュラー曲の歌詞そのものは、大体において、愛だの恋だのといった、ありきたりの内容が実際多い)。おまけにジョアンのボサノヴァのアルバムに入っているわけで(ジョアンが唄うと、何でも「彼の歌」になってしまう)、何の疑問もなく、ブラジルの歌だと頭から思い込んでいたのである。

Live in Montreux
João Gilberto / 
1985 
だから、「この叙情的な美しい曲が、なぜ不動産や財産とかに関係するタイトルなのか不思議だ、誰かブラジルの大富豪にでも関係する歌なんだろうか…」、くらいにずっとぼんやり考えていた(いい加減で、ほとんど何も考えていない…)。まさに翻訳家にあるまじき怠慢だが、ついこの間、思い立って調べてみたら(Wiki)、実は原曲はブルーノ・マルティーノ Bruno Martino (1925 – 2000)というイタリア人のジャズ・ピアニスト兼歌手がイタリア語で書いた曲で、曲名の<Estate>は何とイタリア語で<夏>という実にシンプルな意味だった。知っている人は当然知っていたのだろうが…恥ずかしながらまったく知らなかった(ただし原題は、過去のいろんなことを思い出すので「夏が嫌い」という歌だったらしい)。1960年代にこの曲を聴いたジョアン・ジルベルトが気に入り、その後ずいぶん経った1977年になってから、そのまま「イタリア語で」唄って録音したという驚くべき(?)事実も知った。どおりで夏に聴きたくなるわけで、確かに言われてみれば、『ニューシネマパラダイス』等の音楽に通じるイタリア的メランコリーが強く感じられる曲なのだ。どこか懐かしさを漂わせるメロディは、真夏というよりも、むしろ過ぎゆく夏を惜しむ晩夏を感じさせる曲だ。しかしながら、スペルのまったく同じ《estate》が、イタリア語(エスターテ)だと<夏>という意味で、なぜ英語圏(エステート)では《real estate》を含む<不動産>や<財産>とかいう意味なのか、その語源や関係も調べてみたが、(ラテン語系にはまったく詳しくないので)これもよく分からなかった。しかしまあ、それ以来安心して(?)「夏の曲」として楽しめるようになった。ギター1本でジョアンが唄うヴァージョンはいくつかあるが、1985年のスイス「モントルー・ジャズ祭」で、ヨーロッパの聴衆を前にして、ジョアンのヒット曲ばかりを唄うライヴ録音『Live in Montreux』(1985) がやはり最高だろう。

Estate
Michel Petrucciani / 
1982 IRD 
ジョアンの後、ジャズの世界でも取り上げられるようになったそうだが、ジャズ界でいちばん有名な演奏は、イタリア系フランス人ピアニストであるミシェル・ペトルチアーニ Michel Petrucciani(1962 - 92)が、ジョアンの『Amoroso』から5年後に、ピアノ・トリオでリリースしたアルバム『Estate』(1982 IRD)だろう(Furio Di Castri–b、Aldo Romano–ds)。骨形成不全症という障害を抱えていたが、素晴らしい才能を持っていたペトルチアーニは、80年代初めにチャールズ・ロイドや、当時ヨーロッパで活動していたリー・コニッツとも共演し、この頃米国デビューを果たしている。まさにサウダージを感じさせる、遥か遠くを見ているようなジョアンの歌と比べて、おそらく強いコントラストを感じさせる独特の録音(若干シャープでハイ上がりに聞こえる)のせいもあって、このアルバムでペトルチアーニが弾く<Estate>からは、哀切さを超えて、どこか悲痛な嘆きまでが聞こえてくるような気がする。やはりイタリアの熱い血が、どこかその表現につながっていて、それも、この演奏が聴き手に鮮烈な印象を残す理由ではないかという気がする。だから、ジャズで<Estate>と言えば、やはりこのペトルチアーニの演奏なのである。他の曲も含めて、当時まだ20歳のペトルチアーニの瑞々しい演奏が聴ける素晴らしいアルバムだ。

Take a Chance
Joanne Brackeen /1994 Concord 
他にどういう演奏があるのか、例によってi-Tunesで手持ちのアルバムを調べてみたら、ピアノ・トリオによる演奏がほとんどだ。ネットで調べてみると、ヴォーカルやホーンの入ったアルバムもあるが、ヴォーカルではどうやってもジョアンを超えられないが、ボサノヴァのムードと美しいメロディ、それにペトルチアーニの鮮烈なジャズ演奏があるので、ジャズ界ではやはりピアノ・トリオが標準的なフォーマットになったのだろう。しかし、この曲はメロディが際立ってメランコリックなので、ジャズとしては演奏しにくい部類の曲(単調になる)で、やはりボサノヴァとして軽くムーディに弾き流すような演奏が多い。1990年代になると、ギルド・マホネス Gildo Mahones が『Gildo Mahones Trio』(1991 Intetplay) でボサノヴァ風に弾いており、94年にはアメリカ人のベテラン女性ピアニスト、ジョアン・ブラッキーン Joanne Brackeen (1938-) がボサノヴァ曲を演奏した『Take a Chance』(Concord) というアルバム(Eddie Gómez–b、Duduka da Fonseca–ds)で取り上げている。ブラッキーンという人は、女性らしからぬパワフルでスピード感のある演奏をする人だが、ボサノヴァ曲を集めたこのアルバムでも、どの曲もべたつかずに、比較的あっさりさっぱりと夏向きに弾いている。Concordらしいクリーンな録音も良く、原曲のメロディに寄りかかりすぎず、エディ・ゴメスの短いベース・ソロも入れたジャズ的な演奏も気に入っている。

Never Let Me Go
 Robert Lakatos / 2007澤野工房
その後21世紀になると手持ちアルバムが増えて、カスパー・ヴィヨーム Kasper Villaume の『Estate』(2002)、シェリー・バー グ Shelly Berg の『Blackbird』(2003)、ルイス・ヴァンダイク Louis Van Dijk の『Ballads In Blue』 (2004)、ロバート・ラカトシュ Robert Lakatos の『Never Let Me Go』(2007) と、やはりペトルチアーニの影響か、ヨーロッパ系ピアニストによるトリオ・アルバムが多いようだ。しかしジャズにそれほど熱心でなくなった2000年代になってから、なぜこの種の比較的マイナーなピアノ・トリオのCDを何枚も買ったのか、自分でもその理由をよく覚えていない。ジャズ好きは、ミュージシャンや、バンド編成や、特定の曲など、ある時マイブームになって集中的に聴くことがあるので、仕事のストレスなどから「聞き疲れしないピアノ・トリオ」を、という時期だったのかもしれない。基本的にメロディをあまりいじれない曲で、どのアルバムもしっとりとしたムーディな演奏なので、優劣よりも好みだろう。個人的には、夏に聴くには、やはりあまり粘らないすっきり系が好みなので、ハンガリーのピアニスト、ロバート・ラカトシュ盤のジャズ的で、かつ端正でクリーンな演奏がいちばん気に入っている (Fabian Gisler-b, Dominic Egli-ds)。このアルバム『Never Let Mr Go』は、タイトル曲や<Estate>に加え、<My Favorite Things>など他の曲も含めて選曲がよく、しかも録音が非常に優れていて全体にピアノの響きが美しいので、ピアノ・トリオ好きな人にはお勧めだ。

ネットで曲だけ探せば、まだまだヒットするのだろうが、あくまでアルバム(CD)として保有しているという条件では、この曲が入っている唯一ピアノ以外の手持ちアルバムは、アコースティック・ギターでジャズを弾く加藤崇之の『Guitar Standards』 (2001 TBM) だけである(井野信義、是安則克-b、山崎比呂志、小山彰太-ds) 。このCDはジャズ・スタンダードを取り上げたもので、録音も良く、演奏もユニークでなかなか素晴らしいギター・アルバムだが、今はもう廃盤らしい。<Estate>で加藤は、スチール絃のギターを用い、ユニークなイントロをはじめ、斬新な解釈で仕上げている。そしてもう1枚日本人の演奏として、評判が良いので探しているのが、安次嶺悟(あじみね・さとる)という関西を拠点にする日本人ピアニストの『For Lovers』(2009) という作品だが、このCDももう市場にないようで、残念ながらいまだに入手できていない。