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2022/02/17

モンクとブログの5年間

本日2月17日は、セロニアス・モンク没後40年目の命日である。ちょうど5年前、このブログ "odanaka@jazz" を書き始めた2017年2月17日は、モンク生誕100年という年のモンクの命日で、その年の10月17日に出版された2冊目の訳書『セロニアス・モンク  独創のジャズ物語』(ロビン・ケリー著)を翻訳中だった。元はといえば、「今どきは、何らかの方法で自著PRを著者自身がやらなければならない時代ですよ(…さもないと、このままじゃ売れませんよ)」と、売れ行きがいまいちだった最初の訳書『リー・コニッツ ジャズ・インプロヴァイザーの軌跡』の出版を手掛けてくれた編集者Aさんに言われたのがブログを始めた発端だった。確かに、私のように翻訳の実績はおろか、出版界にもジャズ界にも何のコネもなければ実績もない、どこの馬の骨か分からないような元サラリーマン翻訳者の訳書を、わざわざ宣伝してくれるような奇特な人はどこにもいるはずがなかった(だが実際には、ありがたいことに読了後ネット上で推薦していただいた人も何人かいた)。

なるほど……それでは自分で何とかやってみるかと決心して、まったく経験のなかった「ブログ」というものを、右も左も分からずゼロから勉強して手探りのまま開設し、2015年秋に初の訳書として出版した『リー・コニッツ』の内容紹介(PR)を、出版後1年半も経ってからやっと初のブログ記事にしたのだ。だからこのブログは、素人がGoogleの “Blogger” という無料だが不人気だったサービスを使って、やれる範囲でとりあえず作成し、多少の工夫はしたものの、基本的にはほとんどそのままのデザインで来たので、最新のブログやSNSに比べると、これといった特徴もヒネリもないシンプルな画面のままだ。ただし今となっては、やたらとクリックを強要することもなく、うるさい広告も出ない、とても ”静かな” 画面であるところが気に入っている。

2017年当時は、世間的にはブログからSNSにネット上のコミュニケーションの主流が移り始めた頃だった。だが、昔から団体行動は嫌い、徒党を組まない、人と同じことはやりたくない……という性分なので、そもそもSNSにはコンセプト的にどこか抵抗がある。一見開かれているようでいながら、どこか仲間うちだけの閉鎖的、排他的な匂いが感じられるところも好きではなかった。まあ私の場合、今さら誰かとつながりたいとかいう願望があるわけでもなく、訳書の存在をとりあえず知ってもらうことがそもそもの目的だった素人ブログなので、特に何かを訴えたり書きたいことがあったわけでもない。できるだけ多くの人に目にしてもらえばいいので、何の制限もないオープンなブログでよかった。その後はモンクをはじめ、訳書を出版するたびに紹介記事(PR)を書き、訳書で取り上げたミュージシャンのレコードを中心にした関連情報を、読んでもらった読者が楽しめるような読者サービスも兼ねて記事にしてきた(”お一人様マーケティング”と自分では呼んでいる)。その他、好きなジャズ・レコード、ジャズ本、ジャズ映画、オーディオといったジャズを中心にした情報に加え、ジャズ以外の好きな音楽やミュージシャンに関する記事等、ド素人の分際で好き勝手なことを書いてきた。

SNS全盛となった昨今のネット上の文字情報は、主に閉じられたサークル内に向けた短文つぶやき系文章が蔓延している。私は、今時の何でもかんでも手短か、簡潔ならいい、という文字によるコミュニケーションの風潮に抵抗を覚えている人間の一人だ。世の中 「いいね !」 と「Five Stars!」 だらけである。つまり「理由」はすっ飛ばして「結論」しか書いていない。「結論に至るプロセスはどうでもいいのか?」と、思わず突っ込みたくなる。世の中が忙しくなっているのは分かるが、単純な記号や画像だけでやり取りするようなコミュニケーションで、本当に言いたいことが通じるのか、互いに相手のことが分かり合えるのか、大いに疑問だ。民主主義の特性だった、めんどうくさい議論や時間がかかる合意形成の過程は飛ばして、とにかく結論を急ぐこの風潮は、疑いなく効率化を追求するIT社会の特徴、白黒はっきり決めたがる欧米的文化の影響だろう。AIが高度化するにつれて、人間側がどんどん単細胞化してゆくような気がする。アジアには曖昧だが、もっと奥深い言語による対話の文化があったはずだ。だが独裁的政権にとって、こうした性向が大衆に強まれば強まるほど好都合なことは言うまでもなく、東西問わず、現代世界の危険な政治状況はそのことを証明している。

そうした時流に逆らうかのごとく、また誰に語るわけでもなく、何だか(歳のせいか)ますます長文化しているこのブログを読むような奇特な人が世の中にいるかどうか疑問に思いつつ書いているのだが、統計を見ると結構読んでいただいている人もいるようだ。このブログの効果がどこまであったのかはまったく不明だが、訳書も幸いなことに新聞や音楽雑誌の書評でも取り上げていただき、また手紙や、ブログの ”Contact” を通じて何人かの読者の方から感謝や励ましのメールをいただいている。最近は”Contact”を通じて、海外の複数の著者(ジャズ本)から直接日本語翻訳の依頼メールが来るようになった。PC版画面の右側には、日本語タイトルに加えて、英語で原書名、著者名を付記した4冊の訳書の画像が張り付けてあるので、これを見てコンタクトしてくるのだろう。嗜好の問題、時間や体力的な問題もあるので、すべて受諾するのは難しいだろうが、むしろこれこそが、5年前に ”お一人様マーケティング” を始めたときに、いずれそうなればいいと期待していた状況なので、素直に嬉しい。というわけでド素人ながらも、やはり翻訳、ブログともに挑戦してよかったと今は思っている。

初めてブログ記事を掲載した2017年2月17日はモンクの命日だが、これはたまたまではなく、生誕100年かつ命日と、年月日ともども語呂合わせ的に覚えやすいので、あえてその日を選んでスタートしたのだ。当時はモンク伝記の翻訳に没頭していたので、ありとあらゆるモンクのレコードを聴き漁り、関連情報を調べるなど、思えばモンク一色の日々だった。早いもので、あれからもう5年が過ぎたことになるが、続いて翻訳した『パノニカ』も『 スティーヴ・レイシーとの対話』も、私的にはモンク伝記の延長線の仕事という位置づけだ。140件近くになった本ブログ記事も、その4分の1はモンク・ネタである。私にとってモンクは文字通り「巨星」であり、今も謎が多くて、不思議で、魅力的な人物であり、もちろんその音楽は素晴らしく――つまり何もかも知りたい、調べずにはいられない存在、誰とも比べようのないほど魅力的な音楽家なのだ。こうして、この5年間はモンク三昧だったわけだが、その5年目の現在、没後40年の企画として、モンクの記録映画が日本全国で初めてスクリーン上映されているのは、個人的にも本当に嬉しい。なにものにも縛られない、あらゆることから自由なジャズを自ら体現していた天才音楽家セロニアス・モンクの素晴らしさを、多くの人たちにぜひ知ってもらいたいと思う。

     ウィーホーケン
          ニカ邸
ところでロビン・ケリーの伝記によれば、モンクは1982年2月5日に、マンハッタンからハドソン河をはさんだ対岸ニュージャージー州ウィーホーケンにあったニカ夫人邸の自室で倒れた(脳卒中と急性肝炎の併発と言われている)。ニカ邸に引きこもってから約10年、マイルス・デイヴィスとほぼ同時期に、ジャズシーンから完全引退して約5年が過ぎた年だった(マイルスは81年に復帰)。同じく当時ニカ邸で暮らしていたピアニスト、バリー・ハリスが倒れているモンクに気づき、ニカの通報でイングルウッド病院に救急搬送されたが、12日間の昏睡状態の後、2月17日の午前8時10分に亡くなった。64歳だった。

モンクの葬儀は5日後の2月22日午前11時に、レキシントン街54丁目の聖ペテロ教会で行なわれたが、翌2月23日の「ニューヨーク・タイムズ」紙に、モンクファンだったジョン・S・ウィルソン記者の詳細なレポートが掲載されている。葬儀には多くのジャズ・ミュージシャンをはじめ、千人以上の参列者がつめかけたという。約3時間の葬儀の間モンクの音楽が流れ、トミー・フラナガン、バリー・ハリス、ランディ・ウェストン、マリアン・マクパートランド等9名のピアニストが演奏を捧げ、マックス・ローチはドラム・ソロを演奏し、チャーリー・ラウズとトミー・フラナガンはデュオで、またジェリー・マリガンはバリトンサックスのソロで、<ルビー・マイ・ディア>をそれぞれモンクに捧げた。アイラ・ギトラー、ジョージ・ウィーン、ウォルター・ビショップ・ジュニアが弔辞を読んだ。

   聖ペテロ教会
モンクの棺の入場に際しては、子供の頃から好み、『Monk's Music』(1957) でモンク自身が編曲し、録音した賛美歌〈Abide with Me〉(日暮れて四方は暗く)が流れた。ジョージ・ウィーンの自伝によれば、このとき棺の入場が遅れ、”遅刻癖” で有名だったモンクは、自分の葬儀まで遅刻した、とウィーンはジョークで締めくくっている(このあたりの、死んだ後までどことなくユーモアが似合うところが、モンクらしくて私は好きなのだ)。葬儀の模様は、ドキュメンタリー映画『Staright, No Chaser』(1989)の最後の部分に出て来る。生きていたとき、とびきりオシャレだったモンクだが、死んでからも仕立ての良さそうなスーツをきちんと着て、ネクタイを締めたまま棺の中に納まっている姿がカラー映像で撮影されている。葬儀会場の最前列で、ネリー夫人と、当時70歳近い、固い表情のニカ夫人(パノニカ)が並んで座っている姿も写っている。

モンクとニカとベントレー

この葬儀の後、親族を先頭にした葬列は、スウィング・ストリート52丁目、サンファンヒル西63丁目、クラブ「ミントンズ」のあったハーレムのセシルホテルなど、モンクゆかりの場所を巡って、マンハッタンから北方約40kmにあるハーツデールのファーンクリフ墓地へと向かったのだが、そのときの逸話が、ロビン・ケリーとハナ・ロスチャイルド両方の本で書かれている。ハナの『パノニカ』では、モンクがずっと同乗していたニカ夫人の愛車 ”ビバップ・ベントレー” が、当然葬列の先頭車輌となると思っていたのに、家族が別に手配して既に乗り込んでいたリムジンになっていることを知ったニカが珍しく冷静さを失い(怒って)、モンク家全員(妻ネリー、長男TSモンク、長女バーバラの3人)がリムジンを降りて、先頭車となったニカのベントレーに乗り換えたというエピソードが書かれている。

    ファーンクリフ墓地
そして両書によれば、そのままニカの車を先頭にして葬列は滞りなく進んだが、ファーンクリフ墓地の敷地内に入ってしばらく行くと、霊柩車の後ろに続いたニカの車が突然動かなくなったのだという。仕方なく、家族はまた車を降りてリムジンに乗り換え、ニカはベントレーに一人残されて、通り過ぎて行く葬列を見送った……という象徴的なシーンで終わっている。モンクとニカ夫人(パトロン)とネリー夫人(正妻)3人の関係は、普通の人間には測りがたいものがあるが、この出来事も意味深で、いかにもモンクらしい最後の公平な(?)采配なのかもしれない。

ニカ夫人は6年後の1988年11月30日に、心臓の手術が元でNYCで74歳で急死する。ところがまったく同じ日に、ニカ夫人とも親しく、長年モンクのパートナーを務め、モンクを献身的に支え続けたサックス奏者チャーリー・ラウズが、西海岸シアトルで肺がんのために64歳で亡くなる。二人とも映画『Straight, No Chaser』に登場しているし、ニカ夫人は製作したクリント・イーストウッドにも会っている(これは映画『Bird』のためでもあった)。モンク伝記というべきこの映画が公開されたのは、二人が亡くなった翌1989年である。まるで映画で遺言を残したモンクが、二人一緒に連れて行ったかのようだ。1955年に同じくホテルの自室でもう一人のジャズの巨人、チャーリー・パーカーを看取ったニカ夫人もそうなのだが、こうしたエピソードを挙げてゆくにつけ、モンクという人も、やはり常人にはない、ある種の不思議なパワーを持っていた人物としか思えないのである。