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2018/05/25

初夏の金沢から京都を巡る

金沢「もっきりや」
2年ぶりに金沢へ行った。会社時代のOB会を定期的にやっているのだが、昔は金沢で定例会議をやっていて、そのとき一緒に酒と仕事で楽しんだメンバーが集まってやる宴会だ。金沢には1980年前後からたぶん何十回となく行っていると思うが、兼六園など12度しか行ったことがなく、よく知っているのは片町周辺の飲み屋街だけだ。そこなら目をつぶっても歩けるくらいだ。しかし、何十年も昔から通った飲み屋やバーも今はほとんど店を閉めてしまい、1軒だけ残っていたバーも今回はついに店をたたんでいた。経営者もみんな年をとるので仕方がない。水商売の宿命だ。しかし地元の馴染みの店や人がいなくなるということは、長年楽しい時間を共有していた場と記憶も一緒に消え去るということで、その土地とも縁が切れるということなのだろう。寂しいがこれも仕方がない。かつてにぎわっていた夜の片町も随分と人出が減ったように感じた。どこでもそうだが、昔みたいに毎晩のように飲みに出かけるサラリーマンの数が減ったからだろう。企業の地方支店が減ったこともある。それに銀座を見てもわかるが、かつての日本企業の交際費の威力がどれほどだったのかも思い知らされる。金沢でもその代わり町を歩く外国人の姿がだいぶ増えたようだ(ただし地元の人の話では、余り金は落とさないという)。新幹線も来て、金沢城も美しく修復・整備され、町も相変わらずきれいで清潔なので、やはり益々夜の酒より観光で生きる街になるのだろう。だが便利になった一方で、昔のようにはるばるやって来たという旅情はどうしても薄れる。雪も昔ほどには降らなくなって、酒と魚を楽しむ冬の風情もやや薄れた(地元の人には歓迎すべきことなのだろうが)。昼間、久々に兼六園に行く途中、市役所裏手にある「もっきりや」に初めて行ってみた。金沢最古のジャズ喫茶兼ライブハウスということだが、ピアノが置いてある以外、昼間はごく普通の喫茶店だった。ライブ・スケジュールを見ると、ジャズに限らずなかなかコアな人選で、今も元気に営業しているようだ。当日はノルウェーのヘルゲ・リエン(p)他のトリオが出演予定だったが、宴会と重なってしまったので、残念ながら行けなかった。

嵐山 外人和装コスプレ?
二日酔い気味のまま北陸本線で京都に移動した。せっかくなので回り道したのだ。京都は何度も行っているし、行くたびにもういいかと思うのだが、しばらくするとまた行きたくなるのが不思議である。こちらは今の銀座と同じで、それこそどこへ行っても外国人だらけだ。ごったがえす錦市場など歩いている人の9割が外国人で、残る1割の日本人のそのまた9割が修学旅行生だ。それがあちこち立ち止まって見物しているので、満員電車並みの混雑でほとんどまともに歩けない。ただし銀座と違うのはアジア系が少なく、西欧系の人が多いことだ。昔、アジアの人たちを連れて京都を案内したことがあるが、彼らがいちばん興味を示したのが安売り家電店とかそういう買い物の場所だった。聞くと、特に中国、台湾系の人たちは京都の神社仏閣を見ても別におもしろくも何ともないという。東アジアの古代文化は共通しているものが多いし、たぶん自分たちの方が先祖だと内心思っているからで、そこは韓国系の人も同じだろう。しかし今の台湾の若い人たちなどは、親近感と日本のファッションやカルチャーに関心が高いので、昔とは違うようだ。だが共通しているのは、派手な赤い鳥居の平安神宮や伏見稲荷が好きなことだろう。彼らは西洋人と違って日本的 “わびさび” に興味はなく、とにかく縁起の良さそうな場所や派手な建物が好きなのだ。それと嵐山のような風光明媚な場所が好まれるのは洋の東西を問わない。妙な和服を着たコスプレ観光客もたくさん見かけた。まあ、せっかくはるばるやって来た観光地なので、大いに楽しんでもらったらいいと思う。海外の観光地と違って、“おもてなし” 日本、特に京都では、こうした気軽なエンタテインメント性が過去は確かに不足していた。

京都「YAMATOYA」
前日の大雨があがって天気が良かったので、今回も嵐山、嵯峨野、南禅寺周辺などいつものコースを歩いたが、どこも外国人観光客で一杯だ。ところが普段ろくに歩かないのと、炎天下に水も飲まずに歩いたせいか熱中症気味になって頭が痛くなった。高齢者に熱中症になる人が多いのは、子供時代に「水を飲むとバテる」と昔の運動部などで刷り込まれた原体験が影響しているような気がする。今は知識として水分補給が大事だと頭ではわかっているのだが、水を飲むことにどこか罪悪感のようなものがあって、無意識のうちについ避けているからだ。そこで冷たいコーヒーを求めて、超有名になり、もはやジャズ喫茶とは呼べない気もするが、京都に残された数少ないジャズを流す喫茶店「YAMATOYA」に2年ぶりに行った。平安神宮裏手の路地にあって、いつも穏やかな老夫妻がやっている店だ。店内は昔のジャズ喫茶とは大違いで、木目のアップライトピアノをはじめ、京都らしくゴージャス感さえ漂う洗練された内装と調度類、大量のレコードに加え、ヴァイタボックスのスピーカーやアナログ・プレイヤーなど、これまた美しいオーディオ機器が鎮座している。音も昔のような大音量ではなく、小さな音で静かな店内に流れているだけで、何度行ってもどこかほっとして落ち着ける店だ。ジャズが流れ、ゆっくりできる、こうした雰囲気を持つ喫茶店はもう京都ではここだけだろう。ご夫妻にはいつまでも元気で続けてもらいたいものだと思う。そこに置いてあった「Rag」というライブハウスのスケジュール表で、長谷川きよしの名前を見かけた。まだ京都で暮らしているようだ。613日には誕生日ライブがあるそうだ。金沢「もっきりや」に出ていたヘルゲ・リエンの名前も、その週のライブ予定にあった。

鞍馬といえば
翌日は叡山電鉄のワンマン電車でのんびりと鞍馬寺に向かった。一度も乗ったことがなかったが、確かに京都北方の山々は奥行きが深い。徐々に山奥へと向かって行く途中、大学がいくつもあるのに驚いた。とはいえ、出町柳から鞍馬口駅まではたった30分だ。考えたら新宿駅から高尾山口に行くよりずっと近い。本殿金堂(標高410m)までの急坂を歩いて登る気はしなかったので、当然往復とも途中までだがケーブルカーを使った(寺が運営している)。それでも最後の急階段の上り下りには手こずった。もっと年を取ったら間違いなく来られないだろう。ここも参拝者の半分以上は欧米系外国人で、本殿金堂前の六芒星のところで、彼らも律儀に例のパワースポットのおまじないをやっていた。この辺りはやはり秋に来たらさぞかし景色が素晴らしいだろうと思った(大混雑は必至だろうが)。貴船神社にも行って、貴船川の川床で涼みたかったのだが、とにかくその日は暑くて行く気力が出ずやめた。

暑さで「もういや」と駄々をこねる馬
山から下りて、次に北山通の賀茂川近辺で「葵祭」の午後の部を見学した。葵祭は初めてだったが、混雑するという下鴨神社あたりは避けて、並木道で木陰のある沿道を事前に調べておいたのだ。仮装行列みたいなものだが、古(いにしえ)からの凝った装束や、道具や、飾り立てた牛車など、京都ならではののんびりとした優雅な一団の行進は確かに見ごたえがある。ところが5月なのに当日は30度を超え、余りの暑さに、重たそうな重ね着装束を着た人たちも、人を乗せた馬も、牛車を引く牛も、全員「もう堪忍してや」という顔をして歩いていた。7月の祇園祭は一度行って、文字通り蒸し風呂のような余りの暑さに二度と行かなくなったが、本来爽やかな季節のはずの5月半ばの葵祭がこんな気候では、もうやる方も見る方も、あまり楽しめなくなっているのではないか。今の5月はもう新緑も終わっているし、亜熱帯化している近年の日本の5月は、はっきり言って、もう初夏どころではなく真夏に近い日が多い。最近は春も秋も本当に短くて、あっという間に夏や冬になる。京都のいちばん良い季節も益々短くなってきているということだ。実際もうベストシーズンは4月と11月だけになっていて、そこに世界中から観光客が一気に押し寄せるのでごったがえして、とてもゆっくり観光などできない。冬がすいていていちばん楽しめると思って、一度2週間ほどゆっくり滞在しようと2月初めに企てたことがあるが、確かにすいてはいたが、余りの寒さにあっという間に風邪をひいてしまい、早々に退散した。いったい、いつ行けばいいんだ?

2018/05/18

アメリカン・バラード: チャーリー・ヘイデン

アメリカに行ったことがある人なら、飛行機の窓から初めて眺めるアメリカ大陸の広大さに驚くのが普通だ。何せ昔は4時間飛んでも西海岸から東海岸に辿り着けなかったのである。ニューヨークなどの大都市を別にすれば、アメリカという国の大部分は田舎で、場所によっては地上に降りても山や起伏がどこにも見当たらない場所もある。どこまで行っても地平線しか見えない真っ平な土地なのだ。そういう場所で生まれ育った人がどういう世界観や感性を持つようになるのかは、日本のように四方を山で囲まれた狭い土地で育った人間には想像もできない。

Gitane
1978 All Life
アメリカは同時に雑多な人種が入り混じって出来上がった国でもある。植民地から独立して建国したのは1776年(江戸時代中期)であり、日本の明治維新の頃には内戦・南北戦争があって、1865年にそれまで続けてきた南部の奴隷制がようやく廃止され、表向きは黒人が解放されたものの、彼らに国民として当たり前の公民権を与える法律がようやく制定されたのは、それから100年経った1964年、東京オリンピックの年である。それまで奴隷だった黒人に加え、アメリカ先住民、フランス系、イギリス系、アイルランド系、ドイツ系、オランダ系、イタリア系、ユダヤ系、中南米系、アジア系などあらゆる人種が移民として集まり、混在しながら国を形成してきた。日本人のように、生まれた時から同じような顔をして、同じ言語を話し、同じ文化を持つ人たちに囲まれているのが当たり前で、何千年もそれを不思議とも思わず、海という国境線のおかげで「国家」すら意識せずに生きて来た国民と、アメリカ人の世界観や感性が違うのは当然だろう。彼らは “たった” 240年前から、先祖に関わらず「アメリカ」という自分の属する国をまず意識し、次に「アメリカ人である自分」も常に意識しなければならなくなった。常に「自分は何者か」ということ(Identity)を意識しなければ生きて行けないのがアメリカ人なのだ。そのためにはまず、あるべき理想(Vision)を掲げ、そこに到達するための目標(Goal)と道筋(Strategy)を定め、さらにいくつかのステップ(Milestone)を決め、それを他者に提案し、説明し、合意を得ることを常に強いられることになった。個人レベルでも組織レベルでも、このプロセスは同じだ。自らの主張とそれを他者に分かりやすく伝えるためのプレゼンテーション、というアメリカでは必須とされるコミュニケーション技術はこうして生まれ、育まれてきた。この国では、“黙って” いては誰も自分の存在を認識してくれないのだ。それは絶えざる自己表現と、他者との競争というプレッシャーを受け続けることでもある。だがその重圧を担保してきたのが、広大な土地と豊かな資源、それに支えられた豊かな経済、移民に代表される開かれた社会、誰でも多様な生き方を選べる自由、そして誰にでもある成功のチャンス、アメリカン・ドリームだった。

Beyond the Missouri Sky
1997 Verve
そういう国で生きるアメリカ人が感じる見えないプレッシャーは、いくらアメリカ化してきたとは言え、基本的に何でもお上が決めて、それに従い、同じような人間同士が和を第一として組織や共同体に従順に生きてきた日本人のそれとは違うものだろう。だからその重圧や、そこから逃れてほっとする気分を表現した音楽の印象もどこか違う。差別され続けてきた黒人は歴史的にブルースやジャズという音楽の中で、そのどうにもならない重圧と嘆きを歌うことで、そこから解放されるささやかなカタルシスを得てきたのだろう。一方の白人音楽家も、アメリカのポピュラー音楽の作曲家やジャズ・ミュージシャンに見られるようにユダヤ系の人たちが多く、彼らは黒人ほどの差別は受けなくとも、異教徒としての微妙な疎外感とアメリカで生きる重圧から逃れて、ほっとできる、心を癒す美しい音楽を創り、また演奏してきた。ただし、どんなバックグラウンドを持った人でも、アメリカという新しい国への帰属意識を持ち、そこで生きながら、同時に自分の先祖のルーツを知りたいという潜在的願望は常に持っていることだろう。ジャズは、そうした複雑な人種的、文化的混沌を背景に持つ「アメリカという場所」で生まれた音楽なのだ。果ての見えない大地を感じさせるようなパワーと雄大さ、細かなことにこだわらない自由と寛大さ、現在に捉われずに常に新しい何かを求める革新性を持つ一方で、自分が何者なのかを常に意識せざるを得ない不安と繊細さを併せ持つのがアメリカという国と人とその音楽の特徴だろう。ジャズの中にも、アフリカへの郷愁につながる黒人のブルースの悲哀だけではなく、そうした複雑な背景を持つ「アメリカ人」ならではの哀愁や郷愁を強く感じさせる音楽がある。自らを “アメリカン・アダージョ” と称していたベーシスト、チャーリー・ヘイデン Charlie Haden (1945-2014) のリーダー作や参加作品には、そのような気配が濃厚なアルバムが多い。

Nocturne
2001 Verve
チャーリー・ヘイデンというベーシストは、私にはいわゆるアメリカ人の原型のような人に見える。基本的にアメリカを心から愛し、知性とチャレンジ精神に満ち、人間的包容力と人格に秀で、また善意のコスモポリタンであり、世界の様々な国の人と分け隔てなく協働でき、幅広い人脈を持ち、しかしアメリカ的正義の観点からは他国の政治問題にも口を出し、思想やコンセプトを重視し、またそれを実現するためのプロデュース能力に秀でている……という私の勝手なイメージが正しければ、これは伝統的アメリカ中産階級のリーダー像そのものだ。これに、どんな相手にも合わせられるバーサタイルなジャズ・ベーシストという本来の仕事を加えるとチャーリー・ヘイデンになる。この人間分析が当たっているかどうかはともかく、ヘイデンのキャリアと、そのベースからいつも聞こえてくる悠然とした、豊かで安定した音からすると、あながちはずれていないような気もする。ジャズ史に残る白人ベーシストと言えば、早世したスコット・ラファロや今も活動しているゲイリー・ピーコックなどが挙げられるが、ヘイデンも彼らとほぼ同世代だ。ベースの専門家でもないので、黒人ベーシストと非黒人ベーシストとの演奏上の本質的違いなどはよくわからないが、ニールス・ペデルセンやエディ・ゴメスなども含めて、共通点はどちらかと言えば “ビート” の印象よりも、よく “歌う” ということではないだろうか。ヘイデンはこれらの奏者に比べると高域まで歌いあげることは少ないが、ウッド・ベース本来の低域の太く重量感のある歌を伝える技量にとりわけすぐれていると思う。フリージャズで鍛えられた和声とリズムへの柔軟な対応もそうだ。そして彼のもう一つの特徴が、上記のアメリカ的抒情と郷愁を強く感じさせる演奏と作品群である。

ヘイデンは1950年代末からオーネット・コールマン、キース・ジャレット、ポール・ブレイ、カーラ・ブレイ、パット・メセニーなど数多くの、多彩な、かつ革新的なミュージシャンと共演し、数多くのアルバムを残してきた。ここに挙げた私が好きな4枚のアルバムはそれぞれ異なるコンセプトで作られているのだが、どの作品からも “アメリカン・バラード” とも言うべき、癒しと懐かしさの漂う、ある種のヒーリング・ジャズが聞こえてくるような気がする。ジャズシーンへの本格的参画がアヴァンギャルドだったことを思うと意外だが、アイオワ州出身のヘイデンが子供の頃から聞いてきたヒルビリーやカントリー・アンド・ウェスタン(C&W)という、黒人のブルースとは別種の、これもまた多くのアメリカ人の心に深く染みついた固有のフォーク音楽がその音楽的ルーツとなっているからなのだろう。

Nearness of You
The Ballad Book
2001 Verve
『ジタン Gitane』(1978)は、フランスのジプシー系ギタリスト、クリスチャン・エスクードとのギター・デュオでジャンゴ・ラインハルトへのトリビュートだが、雄大で骨太なヘイデンのベースがエスクードのエキゾチックで鋭角的なギターを支え、最後まで緊張感が途切れず、聞き飽きない稀有なデュオ作品だ。ヘイデンはこの他にも多くの優れたデュオ・アルバムを残しているが、中でもパット・メセニーとの美しいギター・デュオ『ミズーリの空高く Beyond the Missouri Sky』(1997)は、タイトル通りメセニーの故郷ミズーリ州をイメージしたアメリカン・バラードの傑作だ。一方キューバのボレロを題材にし、漆黒の闇に浮かび上がるような甘く濃密なメロディが続くラテン・バラード集『ノクターン Nocturne』(2001)もヘイデン的傑作であり、ゴンサロ・ルバルカバ(p)、ジョー・ロヴァーノ(ts)に加え、ここでも一部メセニーが参加して、究極の美旋律を奏でている。そして、マイケル・ブレッカー(ts)をフィーチャーし、パット・メセニー、ハービー・ハンコック(p)、ジャック・デジョネット(ds)、さらに一部ジェームズ・テイラーのヴォーカルまで加えた『ニアネス・オブ・ユー The Ballad Book』(2001) も、まさしくヘイデン的アメリカン・バラードの世界である。これらのアルバムとそこでのヘイデンのベースを聴くと、私はまず「アメリカ」をイメージし、そして会社員時代に付き合っていた、素朴で善良なアメリカ人の典型のような人物だった、心優しいある友人をいつも思い出すのである。