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2023/11/18

ジャズと翻訳(4)AIと翻訳

私はこれまで、翻訳作業はすべてゼロから100%自力でやってきた。正確に原書の意味するところを伝えるには、それがいちばん確実だと思っているからだ。昔の翻訳ソフトなどのツールを使うと、結局のところ修正箇所が多くて二度手間になって、かえって時間と労力を食うことも体験上わかった(初めから自分でやった方が速い)。どうしても理解しにくい部分があれば(たまにある)、可能なら著者に直接メールで質問して確認もしてきた。半分趣味で、生業ではないので、時間に追われず気が済むまで丁寧に「推敲」できるから、それが可能なのだろう。

しかし、異言語間に「等価(A=A')」という概念が成立するのか否か、昔から言語学者や作家・翻訳者のレベルで議論されてきたことだが、翻訳という行為はそれほど単純なものではなく、A→A´へと簡単に置き換えられるようなものではない。ある意味では、翻訳には正解というものがないと言える。完全無欠な翻訳はなく、誤訳のない翻訳はない、とも言える。また作家と違い、翻訳者は文章を「ゼロから創作」するわけではないので、オリジナル・テキストを基にして、時間をかけて日本語の訳文を仕上げて行く「推敲作業」にこそ、翻訳の意義、楽しみ、醍醐味があるとも言える。つまりそこは作家的でもあり、非常に職人的でもあるプロセスなので、歴史的に、翻訳家とはそういう作業が苦にならない、あるいはそれを楽しめる人がやる職業だったのだろう(AI翻訳の進化で、もはや高度な翻訳にしか、そうした楽しみは残されていないが)。

しかしながら、最近ある大著の翻訳に取り組んでいて、その分量のあまりの多さに音を上げそうになっている。とりわけノンフィクション翻訳は、単に文章の意味を置き換えるだけでなく、そのために文や語句や事実など、個々の情報(人名、場所名、歴史、事件、モノの意味…など)の背景調べに、実は膨大な時間がかかる。それをやらないと、不正確で、いい加減な訳文になる可能性があるからだ。原書の分量が多いと、そういう周辺の調べものだけで大変な時間がかかることになる。だから一日作業しても1ページしか訳せないようなことも起きる。かかる時間の問題は別として、今はインターネットを使えば、そうした調べものはたいていのことは理解できるが、昔(10年くらい前まで)の翻訳者はそれだけで大変な仕事量になったことだろう。

まくわうりデカ
「クマのプー太郎」より
©中川いさみ
とはいえ、たまにWeb上の英日翻訳ツールを使って遊んでいると、昔の翻訳ソフトほどではないにしても、ときどき本当に「独創的な」日本語文章に遭遇して、頭がおかしくなりそうになったり、大笑いすることがある。ギャグ漫画家・中川いさみ先生の往年の『クマのプー太郎』には、主人公のクマ以外に「しあわせウサギ」、「カラオケザル」、「ロジャー」、「分別ネコ」、「じいさんロボ」など、とにかく笑える傑作キャラクターがたくさん登場していたが、なかで私が好きだったのは「まくわうりデカ(刑事)」だった。この、”まくわうり” の姿(今や、「まくわうり」が何なのか知らない人も多いようだが…真桑瓜。メロンの仲間)をした刑事の喋り(日本語)が、昔の翻訳アプリなどを使うと、まさにそのまま再現されて、おかしくてたまらなかった。つまり一読、日本語になっているようで、意味のわからない絶妙にシュールなセリフになるのだ。(今思い出したが、東MAXの父親、東八郎の芸風が「まくわうりデカ」と同系統だった)。今のWeb翻訳はずいぶんと進化していて、それほど面白い(?)訳文にはめったにお目にかからなくなったが、それでもたまに「まくわうり的」な、笑える日本語に遭遇する(そう言えば、中川先生が、先ごろ京都で開催していた個展「しあわせうさぎ展」に行きそびれてしまって残念だ)。

4ヶ国語麻雀
タモリ
一聴「もっともらしい」中国語や韓国語他で、実は意味不明な言葉を発する、タモリ氏の往年の名人芸「4ヶ国語麻雀」も、その実演版で、こうした言葉遊びの元祖だろう。タモさんの場合は、清水ミチコ氏のモノマネと同じく、常人にはない超絶音感(音声聞き取り能力)がその「技」を可能にしている。坂田明など、山下洋輔Gとのハナモゲラ語も、ジャズマン独特の言葉遊びで、もちろん彼らの「音感とリズム感」があの言語の遊びを可能にしているので、誰にでもできるわけではない。音感、リズム感に加えて、枠にとらわれずに「自由な発想で音と遊ぶ」という、ジャズという音楽の起源、本質と大いに関係していることだからだ。たとえばジャズを「ずーじゃ」とひっくり返して言うのはその初歩の遊びだったが、これも米国のジャズマンの「ヒップな言葉遊び」から派生したものだ。今後、生成AIが普及してゆくと、ヴィジュアルだけでなく、こうした音声言語も書き言葉の世界でも、いくらでも面白いアイデアが開発(?)されてゆくだろうが、同時に「もっともらしい」(が、意味のない)言葉があふれてくる可能性がある。タモリ氏や中川先生のような天才は、30年以上も前に、既にこのAI言語caosの世界を予測していたのかもしれない。

ところで、コンピュータによる多言語翻訳は、Google翻訳の出現で一気にレベルが上がったが、昨年話題になった「ChatGPT (generative pre-trained transformer) 」など、さらに進化、深化した「生成AI」の登場で、翻訳者の未来はますます怪しくなりつつあり、あちこちから「ご心配」いただいているようだ。だが実は、昔と違って、たぶん今はもう翻訳だけで生きていけるような時代ではないことを翻訳者のほとんどが知っていると思う。生成AIは――人間が学習し、それを記憶し、徐々にその記憶量を増やし、知識として定着させ、その情報のコピーを繰り返して知識データベースを構築し、それを駆使して課題、問題を解決する――という「学習と問題解決プロセス」を、そのままコンピュータにやらせる技術だ。AIには際限のない知識と情報の蓄積が可能で、しかも「忘れることがない」ので、そのデータベース活用能力は広範で、ムラがなく、安定したままだ。いわば受験勉強に特化した物知りマシンのようなもので、ある年齢をピークにして記憶力が低下し、記憶量も徐々に減少し、頭の働きも衰えてゆく、という人間につきものの「老化と劣化」という運命から解放されている恐るべきマシンだ。

知能や知性を意味する2つの代表的英単語「intelligence」と「intellect」の違いは、昔からしばしば議論されてきた。辞書で日本語の意味を調べると、両方とも「知識」、「知能」、「知性」…と、あまり区別できないような語句が並び、日本人の頭は混乱する(というか、これらの日本語がそもそも翻訳語なのだ)。英語を使う欧米人でもおそらく、そう厳密に区別して使っていなかったのかもしれないが、生成AIの登場で、最近のWeb上ではこの二つの単語について様々な解説が飛び交っている。AI(人工知能)の「I」は Artificial Intelligenceの「I」を意味しているので、言うまでもなく上述したように、基本的には学習に基づく知識データベースの構築とその応用までだったのが、生成(genetrative) AIに進化して、学習した情報を基に、組み合わせて得られる推論(答え)までが可能になった、ということだ。一方「intellect」は、今のところ人間固有の能力であり、intelligenceの上位概念ともいうべきもので――思想、感情、抽象化など、人間だけが持つ知的能力を基にして、情報を分析し、推論し、批判し、洞察し、提案するという創造的作業を可能にするものだ――と解説されているようだ。哲学、道徳や倫理を基にした判断などもそこに含まれるだろう。したがって将来、人間の脳の働き、機能が完全に解明されない限り、生成AIの、何もかも「もっともらしい」最大公約数的、受験優等生的回答の限界は超えられまい。しかしながら、その「もっともらしい」回答や提案の中身の「真贋」と「価値」を、人間側が正しく判断できなくなると(その可能性=危険性は高い)、世の中はそうした疑似思想や疑似概念ーfake (フェイク)であふれ返ることになるだろう。つまり「本物とは何か」「創造とは何か」という人間の存在に関わる根本的、哲学的議論が必要になる。

AI翻訳を実際に使ってみた(たぶん一部機能だけだろうが)これまでの印象から言えば、英→日翻訳なども、「高品質」な訳を求めると、そう簡単に全部が生成AIに置き換えられることもないだろう――とは思う。つまり人間によるチェック(監修)は必須だ。さもないと、とんでもないモノが生まれる可能性もある。Web情報、簡単な実務翻訳や、標準的文章のレポートや論文、定型文体(役所文書のような例)は、とっくにGoogle翻訳などの既存のDeep Learning機能のあるAI翻訳で置き換え可能になっているだろう。主語、述語、目的語が容易に把握できる文章なら、ほぼまともな日本語に翻訳可能だ。「意味が大体わかれば良い」という文章には十分で、多少複雑な文章でも、100%とは言えなくとも、昔に比べたら飛躍的に翻訳精度が上がっているので、ある程度手を加えれば十分実用になるだろう。

今のAIはその誕生の歴史から、たぶん英語側の学習知識と情報に偏っているので、今後日本語側の言語学習と情報を蓄積して行けば、当然ながらさらに進化するだろう。将来、たぶん翻訳に残される人間の「頭脳労働による(?)翻訳」は、正確性を「必須」とする特殊なジャンルや、文学のように一筋縄の翻訳技量では難しい特定の分野だけだろう。そこでは翻訳といえども創作と同様の「創造力」が求められるからで、とっくにそういう棲み分けは進行していると思う。ただし、生成AIで「私小説」まで創作できるようになったら、その限りではないか。そのころには、もちろん多言語による新作小説の世界同時発表等も可能になっていることだろう。

最近は歳のせいか、翻訳していてもますます疲れやすくなった。そこで現在翻訳中の大著から従来の方針を変更し、途中からGoogle, Word, DeepLなどのWeb翻訳ツールを併用して、作業効率を上げる手法で進めている。いまだに「まくわうりデカ」的な文章に出会こともあるが(笑)、しかしずいぶんと改善されて、ときどきこちらが見落とした部分(語句、文章)や、スペルの見間違い、構文の誤解を見つけたりして、結構役に立っている。見落としや、勘違いなど、「人間に付きものの弱点を補う」ような使い方をすればいい、ということなのだろう。ジャズ書翻訳の場合、人名その他大量の固有名詞が出てくるので、それらの「英→カタカナ変換」をほぼ一気にやってくれるだけで、PC入力の手間が大幅にはぶける(ただし、理由はよく分からないが、いつでもやってくれるわけではない、という気まぐれなところが不満だ)。この数ヶ月それをやってみたが、精度は別として、翻訳作業全体の速度はかなり向上した。だから下訳的に使うことはもう十分に可能だろう。ただしそれと同時に、妙に「こなれ」すぎていて、小生意気な(?)訳文とか、クサい表現の文章までお目にかかるようになった。また、こっちも一読、分からないような難しい文章や表現などは「勝手に飛ばして」、辻褄合わせをしたような訳文を作るので、そこは気を付けないと危ない(?)。

AIは潜在的に、人間活動にプラス、マイナスともに大きな影響を及ぼす問題を孕んでいて、著作権の問題など、その法的、倫理的規制を巡って世界的な議論が進行中だ。しかし当面は(当たり前だが)、翻訳に限らずどんなジャンルでも、AIの限界と有効性をよく認識したうえで、あくまで「道具」として使いこなすという姿勢で付き合ってゆくことが肝要なのだろう。(続く)