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2023/12/28

ジャズと翻訳(6)ソニー・ロリンズ

Saxophone Colossus
Sonny Rollins
(1956 Prestige)

日本語表記の続きになるが、楽器名 "saxophone" も、昔は一般的にサックス=「サ[キ]ソフォン」 だったのが、いつごろからか「サ[ク]ソフォン」という表記が増えたようだ。辞書を見ても、両方の表記があり、ネット上でも同じで、ほぼ半々くらいか(日本語「クーソ」というつながりの音を嫌って、一部の前人が、あえて「キソ」という表記にしたのかもしれない?)。ジャズファンなら誰でも知っていたソニー・ロリンズの名盤『サキソフォン・コロッサス(=サキソフォンの巨像or巨人)』(1956)も、通称「サキコロ」で通っていた。これが「サクコロ」では何となくしまらないような気がするが…?このアルバムはトミー・フラナガン(p)、ダグ・ワトキンス(b)、マックス・ローチ(ds)という、今では夢のようなメンバーによるテナーのワンホーン・カルテットの傑作だ。ベン・ウェブスター、コールマン・ホーキンズ等に続く豪快なテナーサウンドで、ジョン・コルトレーンに先駆けて、若手テナーの第一人者という地位と人気を1950年代半ばに決定づけたロリンズの出世作でもある。大きく男性的なサウンドと、豊かなメロディライン、多彩なリズムが魅力のロリンズに対し、コード、モード奏法からフリージャズへと向かったコルトレーンという二人のジャズテナーの巨人は、その演奏スタイルと個性のゆえに、日米ともに支持ファン層が分かれていた。しかし1967年に40歳で早逝したコルトレーンに対し、その後も我が道を行き、ジャズ界の重鎮として生き抜いてきたロリンズは、21世紀の今も存命だ。

Saxophone Colossus
by Aidan Levy
(2022 Hachette Books)
実は、昨年12月に米国で出版されたソニー・ロリンズ初の本格的伝記『Saxophon Colossus: The Life and Music of Sonny Rollins』(Aidan Levy著)の邦訳版を現在翻訳中だ。本記事で触れている「大著」とはこの本のことで、何といっても約800ページ(本文テキストだけで720ページ)もあって、ロビン・ケリーの『Thelonious Monk』より長く、分厚くデカいハードカバーの現物を目の前にしたときは、さすがに「うーん…」と思わず引いた。前記事(5)の本棚写真のいちばん右側にある巨大な本(笑)がそうだが、最近の本は見た目ほど重くないのが救い(?)か(だが、モンク本以降の翻訳は、紙の原書ではなくPDFのPC画像でやっているので、デカさや重さは関係ないと言えば、ない)。ただ、この本はページ数だけでなく、ページ当たりの単語数が多いので、たぶん20%くらいはモンク本より長いかもしれない。モンク本の完訳原稿の文字数が、MSWordで約80万文字だった(出版した邦訳版はその85%の量)ので、たぶん100万文字近くは行くかもしれない…。ちなみに、長寿だったアルトのリー・コニッツが3年前に92歳でコロナで亡くなった今、1930年生まれで今年93歳になるソニー・ロリンズは、おそらく20世紀のジャズ巨匠中、最年長かつ最後の存命テナーサックス奏者だ(ただし、2014年からさすがに演奏活動は休止している)。パーカー、マイルス、コルトレーン等と同時代を生き、彼らと共にモダン・ジャズ黄金期を実際に経験してきた貴重な生き証人がロリンズなのだ (ドラマーではさらに年長の98歳のロイ・ヘインズがいるが)。

The Bridge
Sonny Rollins
(1962 RCA)
ロリンズはモダン・ジャズ史に名を刻む巨人だが、突然雲隠れしたり、宗教やヨガにはまったり、急にモヒカン刈りにしたり、モンクほどではないにしても、その思想と音楽人生には謎も多く、しかも、これまで本格的伝記は一度も書かれてこなかった。エイダン・レヴィ氏のこの伝記は、当時絶頂期だったロリンズが突然ジャズシーンから姿をくらまして(1960/61年)、一人で練習していたというイーストリバーにかかる有名な「橋」(ウィリアムズバーグ橋)を境に、その前後の年月をPART1とPART2に分けて書かれている。チャーリー・パーカー、セロニアス・モンク、バド・パウエル、クリフォード・ブラウン、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、オーネット・コールマンといったジャズ界の巨人たちとの関係はもちろん、ロリンズが関わってきた他のジャズ界の主要人物たちも次々に登場するが、その物語を、存命のロリンズ本人と著者の未発表直接インタビューをはじめ、主要ジャズ・ミュージシャンや関係者との200を超える新旧インタビューを中心にして描くという、米国ジャズマン伝記の王道を行く編集と構成だ。ロリンズの名盤誕生の背景や、レコーディング情報などもたっぷりと書かれている。

"A Great Day in Harlem"
by Art Kane (Aug.12, 1958) 
米国南部ではなく、カリブ海西インド諸島出身の両親を持つロリンズは、ニューヨーク・ハーレム生まれで、アート・テイラー(ds)、ケニー・ドリュー(p)、ジャッキー・マクリーン(as) のような友人たちと、「シュガーヒル」と呼ばれるハーレムの山の手で育った。この本でも触れているが、モダン・ジャズ全盛期の1958年夏に、そのハーレムで撮影され「エスクァイア」誌に掲載された『A Great Day in Harlem』(ハーレムの素晴らしき一日)という有名な集合写真がある。そこに写っている4世代にまたがる57人のジャズ・ミュージシャンの中で、当時ロリンズは最年少(28歳)であり、これらのうち今も存命なのは、ロリンズと1歳年上のベニー・ゴルソン (ts) の二人だけだそうだ(モンク、ミンガス、レスター・ヤングなどみな写っているが、エリントン、マイルス、コルトレーン等は、当日ニューヨーク市内にいなかったので、この写真には写っていない)。こういう写真を見ると、60年という歳月が過ぎ去ると、今自分の周りいる人間は、みんなこの世からいなくなってしまい、新しい人間と入れ替わっている――という当たり前だが、厳粛な事実をあらためて思い知る。

翻訳は、昨年夏ごろに本ブログを通じて著者エイダン・レヴィ氏から直接依頼されたもので、併せて邦訳本の出版社探しも頼まれた。ソニー・ロリンズは、私的な翻訳対象クライテリアからすると有名かつ大物すぎるのだが、これまで公表された確実な情報が意外に少なく、その人生にも陰翳がある人物であるところに興味を引かれたこともあって、思い切って翻訳を引き受けた(そのときは、まさかこれほどのボリュームの本とは思っていなかったが…)。米国での出版前、昨年秋にはPDFの最終原稿を受け取っていて、一部翻訳も始めていたのだが、予想通り、ロビン・ケリーの『Thelonious Monk』の時と同じく、出版やジャズを巡る今の情勢下、この長大な伝記を日本語で出版しようという男気のある(?)出版社がなかなか見つからず、苦労していた。だが幸いなことに、ノンフィクション翻訳書に力を入れている「亜紀書房」さんが取り上げてくれることになった。基本的に日本語の「完訳版」出版を目指しているが、そうするとたぶん1,000ページ近く(以上?)の本になるので、短縮化の可能性等も含めて、どうやって現実的折り合いをつけるか亜紀書房さんと今後検討する予定だ。モンク本と同じく、記事引用元、背景、関連逸話を詳述している「原注」も貴重な情報ばかりなのだが、小フォントで本文と同様のボリュームがあり、これも和訳したら、おそらく倍近い長さの本になってしまうだろう。いずれにしろ、おそらく今の翻訳ペースだと、出版は来年半ば以降になると思われる。

ロリンズ近影
久々の本格的ジャズ・ミュージシャン伝記、しかも「最後の大物」ソニー・ロリンズということもあって、出版後早々に米国内で多くの書籍賞を受賞し、ハードカバー版は重版され、最近ペーパーバック版も出た。この本は、米国黒人史を背景にした初のロリンズ個人史に加え、ビバップ以降のジャズ史、主なジャズ・ミュージシャンの逸話など、これまでに公表されてきた、ありとあらゆるモダン・ジャズ関連情報を、最新情報も含めて1冊に凝縮したような内容になっている。したがってコアなジャズファンだけでなく、一般の音楽ファンが読んでも、「ロリンズを中心にしたバップ後のモダン・ジャズ史」として俯瞰できる楽しみもある。問題は、上述したように、その長さだけだろう(アメリカ人は本当に長い本が好きだ…)。モンク本でもそうだったが、訳していると、あまりの長さに、途中で放り出したくなるときもある。日本語の本は、小説でもノンフィクションでも、パラグラフごとに改行したりして、余白が多くスカスカだが、アメリカの本はとにかく活字(中身)がぎっしり詰まっているものが多い。文法も違うので、日本語に翻訳すると、おおよそ原書の1.5倍くらいの長さの本になるのだ。翻訳とは、他人が書いたテキストという「制約」の中で日本語文章を「ひねり出す」作業なので、パズルを解くような側面がある。それをずっと続けていると頭が疲れて、たまに身動きできない拘束衣を着せられているように感じるときがある。そういうときは、何の制約もない「日本語の文章」を、自分の言葉とリズムで好き勝手に書いて、すっきりしたいと思う。当初は訳書PRと文章修行が目的だったこのブログで、こうした駄文を何年も書き続けてきた理由の一つは、実はそうした憂さ晴らし的な効用もあるからだ。とはいえ、こうした本邦初となる書籍の翻訳作業は、聞いたことのない新情報が次から次へ出て来るという点で、単なるジャズファン的感想を言えば「楽しい」の一言だ。

私はジャズという音楽そのものへの関心はもちろんまだ強いが、人生の先が見えた今、昔のようにひたすら好みのレコードを探し出すことに喜びを感じたり、集めて聴いて楽しむということははもうない。今はむしろ人間としてのジャズ・ミュージシャンへの興味の方が大きい。ジャズほどそのサウンドに「人間性(個性、人格)」が表現される音楽はないからだ。具体的な歌詞がないのに、抽象的なサウンドを通して逆に人間が見えて来る、というのがジャズの不思議さであり特質なのだ。技術的な解説や、誰の音楽的影響だとかいうような蘊蓄ではなく、どういう人生を歩んできたがゆえに、そういうサウンドのジャズになったのか、という人間的な側面に今はより興味がある。ライヴ演奏の楽しみは、それを自分の目と耳で確認するということでもある。今後も(生きている限り)、そういう視点で面白い海外ジャズ書を探し出し、可能なら翻訳出版して、数少なくなった日本のジャズファンに楽しんでもらいたいと思っている。

(年末でもあり、ひとまず 完)

2023/12/10

ジャズと翻訳(5)日本語表記

英語版ジャズ用語集の一例
ジャズ本は音楽書なので、普通の文章に加えて、当然ながら原書英語にもジャズ独特の表現が頻出する。普通の辞書には載っていないスラングも多く、私はジャズの演奏はしないので、翻訳を始めたころ(10年前)は解釈に悩む語句も多かった。一般音楽用語までは手持ちのPC版『ランダムハウス英和』『リーダーズ英和』『研究社大英和』で95%はカバーできるが、時にはこれらの大辞典にも載っていない言葉もある。その場合はWebで調べるのだが、Web上の日本語の「ジャズ用語集」などは結構いい加減な説明もあるので、かならずしも信用できない。英語版のオンライン・ジャズ用語集もかなり多いが、これまでのところ、コロンビア大学のWeb版 "Jazz Glossary" は語句説明も簡潔で内容も信頼できるし、有用だ。

ジャズだけに限らないが、よく見る簡単な語句でも音楽用語の意味は特殊だ。たとえば名詞 ”time" は「拍子」で、4/4拍子は "four-four (time)" だし、3/4拍子は "three-four (time)"だ。また ”value" とは「音価」(音の長さのこと)で、 "note" は「音符」、"whole note" は「全音符」、"half note" とは「二分音符」で、「四分音符」は "quarter note" だ。(この「二分」と「四分」とは、割合のことではなく、全音符-whole note-を2つ、4つに分けた長さ、という意味だと今ごろ理解したのも、英語表現への疑問からだった。8分音符以降も同じ)。"changes" とは変化ではなく曲中のコード構成(進行)のことだし、"chops" は肉切りではなく、楽器演奏技術(技量)を指す。

動詞系もたとえば "trading section"とは貿易課のことではない。日本では「バース交換」と呼ぶのが普通のようだが、この「バース」とはいったい何のことかと調べたら、実は "bars" すなわち複数の 「小節 (bar)」のことで(英語発音では「バー」だろう)、奏者間の4小節とか8小節の短い掛け合い演奏 (trading 4s, とか8sと表記)のことだとわかった。ときどき見かける 「ヴァース交換」 という日本語表記が混乱の元だ(日本語の「小節」は、英語では "bar" の他に "measure" とも "meter"とも表記されることがあるのでややこしい)。日本では普通に使うブルースやロックギターの「チョーキング」(キュイーンと弦を上下にずらして音をスラーさせる技)も、英語では "bend (ing)" (曲げる)だ。 "sit in"「飛び入り演奏」などはよく知られているが、"lay out" は、あるパートの演奏だけを一時休止すること、"stroll" は文字通り、その間ぶらつくようにプレイすること、"lay (laid) back" はゆったりとしたフィーリングでプレイすること、"play cold" はぶっつけ本番、"noodling" は適当に慣らし演奏すること (ラーメン屋のチャルメラから来ているのか?と思ったがそうではない)等々…これらはジャズ用語のほんの一部だ。

マイルズ・デイヴィス?
マイルス・デイビス?
AIで翻訳が簡単、身近になった一方で、大昔の翻訳書や翻訳者のイメージのまま、今も勘違いしている人が時々いる。原書にあった資料、写真などが未収載だとか、名前などのカタカナ表記が間違っているとか、ネット上のブックレビューの場などで批判(非難)する人もいる。ジャズ・ミュージシャンの「人名」など、固有名詞の日本語表記にいちゃもんをつけている人が時々いるが、これも歴史的背景があって、これが正しいとか、厳然と決まったルールがあるわけでもない。ウィリアムスとウィリアムとか、ジェイムスとジェイムとか、エヴァンスとエヴァンとか、末尾の濁音もそうだ。今や完全に日本語になったブルース(blues)は英語発音ではブルーと濁るし(いやブルースでいいという説もある)、マイルス(Miles)も実はマイルだ。油井正一さんが、日本語は末尾の濁音を嫌うので、あえてをスという表記にした、という話をどこかで読んだことがある。上記 "bar" のように、"b" と "v" の表記(「バー」か「ヴァー」か。"Davis" もデイビスかデイヴィスか、など)、あるいは語尾 "-ve" の「ブ」と「ヴ」も、どちらにするか迷う("five", "live", "love"など)。どっちでもいいと思うが、気になる人には気になるだろう。昔、坂本九の「上を向いて歩こう」が、アメリカでは「スキヤキ」になったくらい、あちらでは大らか(いい加減?)なので、こうした細かな点にこだわるのも日本人の特性か。

ただし今は、聞いたことのない単語や人名の発音でも、何語であろうとインターネットの音声辞書でネイティヴの発音でほとんどが確認でき、「実際の発音に近い」日本語表記が可能になったので、今後は昔のようなことは減るだろう。串刺し検索のできるWeb辞書や、モノの画像情報もそうだが、「百聞は一見に如かず」がいとも簡単に可能になって、たぶん昔の翻訳者が何のことかといちばん苦労していた問題が噓のように、なんでもインターネットで即座に分かる時代になった。

地名などで、どこに点[・]を入れるかも、決まりはあるようで、ない。New Yorkは本来の表記基準ならニュー・ヨークとすべきだろうが、慣例表記はニューヨークだし、Los Angels ロス・アンジェルスもロサンゼルスだし、San Francisco サン・フランシスコもサンフランシスコで、みな同じように前人が最初に使用した表記がそのまま使用されて一般化し、日本語として定着したものだ。アルトサックスもアルト・サックスも、テナーサックスもテナー・サックスもそうで、決まりはない。私は縦書きの場合[・]が途中に入ると読みにくい(うるさい)ので、日本語化した単語は[・]なしの表記を好んでいる。ジャズ書の翻訳文は人名、楽器名、曲名、地名などカタカナ表記がどうしても多く、見た目がごちゃごちゃしがちなので、それをうるさく感じさせずに、できるだけ縦書き日本語として「視覚的に」スムースに読ませる工夫も必要で、たとえば頻出するジャズクラブ名や新聞・雑誌名などは「xxxx」とカッコ付きにして、他の一般カタカナ語句と区別して、すぐに分かるようにしているのもその一つである。

日本語の漢字、ひらがな、カタカナの歴史もそうだが、ラテン語の英米語への浸透、変形、定着が示すように、外来語の発音や表記は、歴史的な試行が積み重なって徐々に定着してゆくもので、「原語の発音」にあまり拘泥して白黒つけるものでもないと思う。その民族、文化圏に適した表現に時間をかけて自然に収斂してゆくものだろう。特に日本という国は、そうした外来文化の吸収に関しては、2,000年に及ぶ独特の技術(?)蓄積があるので、どんな外来語も。いずれはもっとも適切な発音や表現に落ち着き、定着してゆくのだろうと思う。

ところで、本記事の(1)冒頭に記したように、団塊の世代が漸減して市場が縮小するとともに、ジャズを「聴く人」が減り、出版社も編集者もジャズを「知る人」も減り、何より本自体が売れなくなった今の時代、この種の特殊な(ジャズ)翻訳書が出版社側の企画からスタートすることはほぼないと言える。読者層が限られ「売れない」ことに加え、出版社からすると、翻訳書は「儲からない」のだ。バブル時代以降らしいが、日本への著作権料が高騰して、高い印税を原著者や版権者にまず支払わなければならず、さらに翻訳者にも別途翻訳料を支払い(昔に比べるとずっと安いようだが)、今は写真など図版類にも個別に著作権料を別途支払う必要があって、近年はこれも高騰しているらしい。原書掲載の写真類をカットしたり、時に代替したりするのは、それが理由だ。しかも、ジャズ本などは典型的だと思うが、翻訳書は一部を除いて大量の印刷部数になるケースも稀で、せいぜい千から数千部程度で、規模の経済が有効ではない(村上本は別として)。だから、国内本を出版するよりも、1冊あたりの原価が大幅に高くなるという宿命がある(翻訳書の価格が高いのはそれが理由だ)。しかも翻訳者は、長い時間と労力を費やす割に一般的に印税は低く、労働の対価としても、まったく見合っていないケースが大半だ。今後AI翻訳化がさらに進めば、ますますそうなるだろう。

というわけで、出版社、翻訳者ともに経済的にはあまりハッピーな世界ではないのだ。それにもかかわらず、ジャズを含めて、いわば特殊な芸術ジャンルの翻訳書が今でも世に出ている理由は、翻訳者と出版社(編集者)の「熱意」以外の何物でもない。一部の大ヒット作を除けば、マイナーな翻訳書の出版で大儲けした人などいないと言っていい。訳者も出版社もほぼボランティアに近い条件で、いわば情熱だけで出版しているのに近いケースが大部分だろう。儲けようとしてやっているのではなく、あくまで情熱と、出版することに価値と意味がある(埋もれさせるのは勿体ない、日本語で読んで楽しんでくれる人がまだ世の中にいる)と信じているから、出版社も赤字覚悟でやっているようなもので、いわばボランティアに近いのだ。

(続く)

2023/11/18

ジャズと翻訳(4)AIと翻訳

私はこれまで、翻訳作業はすべてゼロから100%自力でやってきた。正確に原書の意味するところを伝えるには、それがいちばん確実だと思っているからだ。昔の翻訳ソフトなどのツールを使うと、結局のところ修正箇所が多くて二度手間になって、かえって時間と労力を食うことも体験上わかった(初めから自分でやった方が速い)。どうしても理解しにくい部分があれば(たまにある)、可能なら著者に直接メールで質問して確認もしてきた。半分趣味で、生業ではないので、時間に追われず気が済むまで丁寧に「推敲」できるから、それが可能なのだろう。

しかし、異言語間に「等価(A=A')」という概念が成立するのか否か、昔から言語学者や作家・翻訳者のレベルで議論されてきたことだが、翻訳という行為はそれほど単純なものではなく、A→A´へと簡単に置き換えられるようなものではない。ある意味では、翻訳には正解というものがないと言える。完全無欠な翻訳はなく、誤訳のない翻訳はない、とも言える。また作家と違い、翻訳者は文章を「ゼロから創作」するわけではないので、オリジナル・テキストを基にして、時間をかけて日本語の訳文を仕上げて行く「推敲作業」にこそ、翻訳の意義、楽しみ、醍醐味があるとも言える。つまりそこは作家的でもあり、非常に職人的でもあるプロセスなので、歴史的に、翻訳家とはそういう作業が苦にならない、あるいはそれを楽しめる人がやる職業だったのだろう(AI翻訳の進化で、もはや高度な翻訳にしか、そうした楽しみは残されていないが)。

しかしながら、最近ある大著の翻訳に取り組んでいて、その分量のあまりの多さに音を上げそうになっている。とりわけノンフィクション翻訳は、単に文章の意味を置き換えるだけでなく、そのために文や語句や事実など、個々の情報(人名、場所名、歴史、事件、モノの意味…など)の背景調べに、実は膨大な時間がかかる。それをやらないと、不正確で、いい加減な訳文になる可能性があるからだ。原書の分量が多いと、そういう周辺の調べものだけで大変な時間がかかることになる。だから一日作業しても1ページしか訳せないようなことも起きる。かかる時間の問題は別として、今はインターネットを使えば、そうした調べものはたいていのことは理解できるが、昔(10年くらい前まで)の翻訳者はそれだけで大変な仕事量になったことだろう。

まくわうりデカ
「クマのプー太郎」より
©中川いさみ
とはいえ、たまにWeb上の英日翻訳ツールを使って遊んでいると、昔の翻訳ソフトほどではないにしても、ときどき本当に「独創的な」日本語文章に遭遇して、頭がおかしくなりそうになったり、大笑いすることがある。ギャグ漫画家・中川いさみ先生の往年の『クマのプー太郎』には、主人公のクマ以外に「しあわせウサギ」、「カラオケザル」、「ロジャー」、「分別ネコ」、「じいさんロボ」など、とにかく笑える傑作キャラクターがたくさん登場していたが、なかで私が好きだったのは「まくわうりデカ(刑事)」だった。この、”まくわうり” の姿(今や、「まくわうり」が何なのか知らない人も多いようだが…真桑瓜。メロンの仲間)をした刑事の喋り(日本語)が、昔の翻訳アプリなどを使うと、まさにそのまま再現されて、おかしくてたまらなかった。つまり一読、日本語になっているようで、意味のわからない絶妙にシュールなセリフになるのだ。(今思い出したが、東MAXの父親、東八郎の芸風が「まくわうりデカ」と同系統だった)。今のWeb翻訳はずいぶんと進化していて、それほど面白い(?)訳文にはめったにお目にかからなくなったが、それでもたまに「まくわうり的」な、笑える日本語に遭遇する(そう言えば、中川先生が、先ごろ京都で開催していた個展「しあわせうさぎ展」に行きそびれてしまって残念だ)。

4ヶ国語麻雀
タモリ
一聴「もっともらしい」中国語や韓国語他で、実は意味不明な言葉を発する、タモリ氏の往年の名人芸「4ヶ国語麻雀」も、その実演版で、こうした言葉遊びの元祖だろう。タモさんの場合は、清水ミチコ氏のモノマネと同じく、常人にはない超絶音感(音声聞き取り能力)がその「技」を可能にしている。坂田明など、山下洋輔Gとのハナモゲラ語も、ジャズマン独特の言葉遊びで、もちろん彼らの「音感とリズム感」があの言語の遊びを可能にしているので、誰にでもできるわけではない。音感、リズム感に加えて、枠にとらわれずに「自由な発想で音と遊ぶ」という、ジャズという音楽の起源、本質と大いに関係していることだからだ。たとえばジャズを「ずーじゃ」とひっくり返して言うのはその初歩の遊びだったが、これも米国のジャズマンの「ヒップな言葉遊び」から派生したものだ。今後、生成AIが普及してゆくと、ヴィジュアルだけでなく、こうした音声言語も書き言葉の世界でも、いくらでも面白いアイデアが開発(?)されてゆくだろうが、同時に「もっともらしい」(が、意味のない)言葉があふれてくる可能性がある。タモリ氏や中川先生のような天才は、30年以上も前に、既にこのAI言語caosの世界を予測していたのかもしれない。

ところで、コンピュータによる多言語翻訳は、Google翻訳の出現で一気にレベルが上がったが、昨年話題になった「ChatGPT (generative pre-trained transformer) 」など、さらに進化、深化した「生成AI」の登場で、翻訳者の未来はますます怪しくなりつつあり、あちこちから「ご心配」いただいているようだ。だが実は、昔と違って、たぶん今はもう翻訳だけで生きていけるような時代ではないことを翻訳者のほとんどが知っていると思う。生成AIは――人間が学習し、それを記憶し、徐々にその記憶量を増やし、知識として定着させ、その情報のコピーを繰り返して知識データベースを構築し、それを駆使して課題、問題を解決する――という「学習と問題解決プロセス」を、そのままコンピュータにやらせる技術だ。AIには際限のない知識と情報の蓄積が可能で、しかも「忘れることがない」ので、そのデータベース活用能力は広範で、ムラがなく、安定したままだ。いわば受験勉強に特化した物知りマシンのようなもので、ある年齢をピークにして記憶力が低下し、記憶量も徐々に減少し、頭の働きも衰えてゆく、という人間につきものの「老化と劣化」という運命から解放されている恐るべきマシンだ。

知能や知性を意味する2つの代表的英単語「intelligence」と「intellect」の違いは、昔からしばしば議論されてきた。辞書で日本語の意味を調べると、両方とも「知識」、「知能」、「知性」…と、あまり区別できないような語句が並び、日本人の頭は混乱する(というか、これらの日本語がそもそも翻訳語なのだ)。英語を使う欧米人でもおそらく、そう厳密に区別して使っていなかったのかもしれないが、生成AIの登場で、最近のWeb上ではこの二つの単語について様々な解説が飛び交っている。AI(人工知能)の「I」は Artificial Intelligenceの「I」を意味しているので、言うまでもなく上述したように、基本的には学習に基づく知識データベースの構築とその応用までだったのが、生成(genetrative) AIに進化して、学習した情報を基に、組み合わせて得られる推論(答え)までが可能になった、ということだ。一方「intellect」は、今のところ人間固有の能力であり、intelligenceの上位概念ともいうべきもので――思想、感情、抽象化など、人間だけが持つ知的能力を基にして、情報を分析し、推論し、批判し、洞察し、提案するという創造的作業を可能にするものだ――と解説されているようだ。哲学、道徳や倫理を基にした判断などもそこに含まれるだろう。したがって将来、人間の脳の働き、機能が完全に解明されない限り、生成AIの、何もかも「もっともらしい」最大公約数的、受験優等生的回答の限界は超えられまい。しかしながら、その「もっともらしい」回答や提案の中身の「真贋」と「価値」を、人間側が正しく判断できなくなると(その可能性=危険性は高い)、世の中はそうした疑似思想や疑似概念ーfake (フェイク)であふれ返ることになるだろう。つまり「本物とは何か」「創造とは何か」という人間の存在に関わる根本的、哲学的議論が必要になる。

AI翻訳を実際に使ってみた(たぶん一部機能だけだろうが)これまでの印象から言えば、英→日翻訳なども、「高品質」な訳を求めると、そう簡単に全部が生成AIに置き換えられることもないだろう――とは思う。つまり人間によるチェック(監修)は必須だ。さもないと、とんでもないモノが生まれる可能性もある。Web情報、簡単な実務翻訳や、標準的文章のレポートや論文、定型文体(役所文書のような例)は、とっくにGoogle翻訳などの既存のDeep Learning機能のあるAI翻訳で置き換え可能になっているだろう。主語、述語、目的語が容易に把握できる文章なら、ほぼまともな日本語に翻訳可能だ。「意味が大体わかれば良い」という文章には十分で、多少複雑な文章でも、100%とは言えなくとも、昔に比べたら飛躍的に翻訳精度が上がっているので、ある程度手を加えれば十分実用になるだろう。

今のAIはその誕生の歴史から、たぶん英語側の学習知識と情報に偏っているので、今後日本語側の言語学習と情報を蓄積して行けば、当然ながらさらに進化するだろう。将来、たぶん翻訳に残される人間の「頭脳労働による(?)翻訳」は、正確性を「必須」とする特殊なジャンルや、文学のように一筋縄の翻訳技量では難しい特定の分野だけだろう。そこでは翻訳といえども創作と同様の「創造力」が求められるからで、とっくにそういう棲み分けは進行していると思う。ただし、生成AIで「私小説」まで創作できるようになったら、その限りではないか。そのころには、もちろん多言語による新作小説の世界同時発表等も可能になっていることだろう。

最近は歳のせいか、翻訳していてもますます疲れやすくなった。そこで現在翻訳中の大著から従来の方針を変更し、途中からGoogle, Word, DeepLなどのWeb翻訳ツールを併用して、作業効率を上げる手法で進めている。いまだに「まくわうりデカ」的な文章に出会こともあるが(笑)、しかしずいぶんと改善されて、ときどきこちらが見落とした部分(語句、文章)や、スペルの見間違い、構文の誤解を見つけたりして、結構役に立っている。見落としや、勘違いなど、「人間に付きものの弱点を補う」ような使い方をすればいい、ということなのだろう。ジャズ書翻訳の場合、人名その他大量の固有名詞が出てくるので、それらの「英→カタカナ変換」をほぼ一気にやってくれるだけで、PC入力の手間が大幅にはぶける(ただし、理由はよく分からないが、いつでもやってくれるわけではない、という気まぐれなところが不満だ)。この数ヶ月それをやってみたが、精度は別として、翻訳作業全体の速度はかなり向上した。だから下訳的に使うことはもう十分に可能だろう。ただしそれと同時に、妙に「こなれ」すぎていて、小生意気な(?)訳文とか、クサい表現の文章までお目にかかるようになった。また、こっちも一読、分からないような難しい文章や表現などは「勝手に飛ばして」、辻褄合わせをしたような訳文を作るので、そこは気を付けないと危ない(?)。

AIは潜在的に、人間活動にプラス、マイナスともに大きな影響を及ぼす問題を孕んでいて、著作権の問題など、その法的、倫理的規制を巡って世界的な議論が進行中だ。しかし当面は(当たり前だが)、翻訳に限らずどんなジャンルでも、AIの限界と有効性をよく認識したうえで、あくまで「道具」として使いこなすという姿勢で付き合ってゆくことが肝要なのだろう。(続く)

2023/10/27

ジャズと翻訳(3)伝記・評伝

Thelonious Monk
Robin DG Kelley

インタビュー本と同じく、アメリカで多いジャズ本が「伝記」(biography) である。私の訳書にも2冊の伝記がある。意外に思えるが、一般的にアメリカ人は歴史本、伝記の類が好きだ。米国には「伝記作家」と呼ばれる伝記、評伝を専門にする作家もいるくらいで、ジャーナリストの他にも、大学教授などアカデミズムの世界の人たちが、ジャズやジャズ・ミュージシャンを対象に取り上げて、史実を基にして分析、考察、論評しているのも日本には見られない特徴だ。ジャズを生み、長い歴史と人材を持つ国と、ジャズが単に輸入ポピュラー音楽の一つで、一部の大衆が趣味として楽しむという日本の伝統とは異なる背景があるからだろう。ただし同じ大学教授でも、『リー・コニッツ』のアンディ・ハミルトン(英Darham大)はイギリス人の哲学・美学者、『セロニアス・モンク』のロビン・ケリー(米UCLA) は歴史学者である。大学教授だから偉いとか、すごいとか、そういうことではなく、レコードを中心にした日本の典型的な「ジャズ語り」とは、また違う切り口と内容を持った「ジャズ書」が生まれるということである。

アメリカ人の伝記好きの理由はいろいろと想像できるが、一つには、国としての歴史が短いので、余計に自分たちの「歴史」を大事にして、「国家としてのアイデンティティ」を共有したいという社会的なニーズが強いことだと思う。もう一つは移民による国家なので、自身の「ルーツ」を知りたいという強い潜在的願望を多くのアメリカ人が個人として持っているからだろう。そして3番目が、その個人が新世界で闘って生き抜くという、建国以来の「個人主義」とそこから派生した「ヒーロー像」という伝統だろう。創造性と革新性が米国型ヒーローの特徴であり、デジタル時代以降の創造的ビジネス変革者なら、ビル・ゲイツ、スティーヴ・ジョブズ、今なら最近評伝が出たイーロン・マスク(南ア出身)などが、そういうヒーローだ。

ジャズミュージシャン個人の伝記もたくさん書かれていて、調べてみると大物ミュージシャンにはほとんど自伝とか評伝がある。しかし「読み物」として、外国のジャズファンが読んでも興味を持てるような普遍性のある本はそれほど多くはないだろうと思う。パーカー、ホリデイ、マイルスやコルトレーンのような大物、あるいはモンクのような謎多き人物(インタビュー記録がほとんどない)を除けば、よほどの個人的ファンでもないかぎり、有名ジャズマンといえども、単に事実を並べただけのような伝記類はそう面白いものではない、というのが個人的な感想だ。ジャズ・アーティストの誰もが、魅力的で立派な人物なわけでもないし(むしろその逆の人が多い?)、また伝記に書いて面白いような人生を送ったわけでもないだろう。もう一つは、やはり音楽家やその人生に対する「著者」独自の視点と洞察が、文章の底に常に流れていなければ、異文化圏の人間が読んで感動したり、興味を抱くことはないだろう。伝記には物語性もないと面白くない。したがって著者の「筆力」も当然ながら重要だ。

The Baroness
Hannah Rothchild
 
そういうわけで私はジャズ・ミュージシャンの伝記類はこれまであまり読まなかった。その例外が、ロビン・ケリー氏が14年の歳月をかけて、それまで伝説や謎に包まれていた人物セロニアス・モンクの人生を辿った初の本格的伝記『Thelonious Monk』だった。『リー・コニッツ』『 スティーヴ・レイシー』もそうだったが、日本ではあまり紹介されることがなく、情報が限られていて、しかも自分がその音楽に魅力を感じ、もっと知りたいと思っているミュージシャンの個人史は、当たり前だが一文を訳すたびに新たな発見があって、やめられないほど面白い。もう一人は、ジャズ・ミュージシャンではないが、そのモンク本を読んで、謎のパトロンという存在から興味を持ったニカ夫人だ。以前から多少の知識はあったが、そのニカ本人の人生を描いた本があることを知って、こちらも読んでみた。

英国ロスチャイルド家出身のニカ男爵夫人(パノニカ)は、当時のジャズ界全体の大パトロンで、パーカーとモンクの最後を自宅で看取ったという伝説的人物だ。『パノニカ(原題:The Baroness)』はノンフィクション伝記なのだが、破天荒な人生を歩んだ謎の大叔母(祖父の妹)の誰も知らなかった人生の足跡を、ハナ・ロスチャイルド氏が親族ならではの視点と情報で辿りつつ、著者の一人語りで、ある種「20世紀小説的な」筆致で描いているので、翻訳中は小説を訳しているような気がしていた。実話とは思えないような圧倒的スケールの人生もあって、読後感も伝記というより、小説を読んだような気がする作品である(著者は女性映像作家であり、小説家でもある)。特に、ニカがNYに移る前の前半生部分は、ヨーロッパにおけるロスチャイルド家の謎の歴史や実態を描いた貴重な情報も含まれている。この2冊ともに、謎多き個人の伝記であると同時に、20世紀という時代の深層、アメリカという国家、20世紀半ばのジャズ界とそこで生きるミュージシャンたちの暮らしや、相互の人間的、音楽的なつながりが生き生きと浮かんで来るところが、私的には読んでいて非常に面白く、日本語に翻訳してみたいと思った理由だ。

Miles:
The Autobiography
Quincy Troupe

自分で訳した上記2冊を除けば、私がこれまで日本語で読んで「面白い」と思ったジャズマン伝記は、『マイルス・デイヴィス自叙伝』(クインシー・トループ 1989/中山康樹・訳 1991)だけだ。なんといっても、ジャズの本流中の本流であるマイルスの「一人語り」という形式がいい。そして上記モンク本もそうだが、こうしたジャズ史上に残る大物ミュージシャンの伝記は、本人だけでなく、ジャズの時代的、音楽的背景、周辺の人物との様々な関係なども同時に描かれているので、それがまさに「ジャズ史そのもの」になっているのである。それも事実だけでなく、裏面史や、人生や、微妙な人間関係が具体的に見えてくる。だから、マイルスの人生と音楽に加えて、登場人物も含めてジャズ史的な読み方をしても面白くないはずがないのだ。

ただし、この本は「ノンフィクション」としては原書、訳書ともに少し問題(?)があったようだ。原書はクインシー・トループのマイルスへの「インタビュー」に基づく聞き書き(共著)だが、「自叙伝」と呼ぶには情報引用の出所、編集の問題(内容のどこまでが著者とのインタビューに基づくものか?)があり、訳書は翻訳者による無断改編が多いという。昔はこのへんは寛容で、かなり手を加えた訳書も多かったようだが、今はいずれも出版にあたって普通は厳しくチェックされる。原著の「引用」部分は出典を明示することが求められるし、訳書の「改編」は原著者、版元の承諾が前提である。私は自分の訳書はすべて基本的に原書通りに完訳(パラグラフの変更や、テキスト抜粋なし)しているが、『セロニアス・モンク』の場合、長すぎてどこも出版してくれないので、やむなく一部をカットして短縮したし、他の訳書も含めて、一部の章タイトル名など日本人には分かりにくい部分を変更しているが、いずれも「事前に著者の了承」を得たうえで行なっている。しかし、そうした点を別とすれば、中山康樹・訳のマイルス自叙伝は、ジャズファンが読んで楽しめる日本語ジャズ伝記の筆頭だろう。

ところで、今年出版した私の訳書『カンバセーション・イン・ジャズ』の中で、ラルフ・J・グリーソンが行なった12人のミュージシャンへのインタビューのうち、他は「です、ます」調なのに、ディジー・ガレスピーの章だけ口語体に近い表現になっているが、「原文」はどうなっているんだ?と疑問を呈している、さるブログ記事を読んだ。まあ、そう思うのも無理はないし、日本語への翻訳で常に問題になる点だろう。異言語(文化)間には、単語の意味を含めて完全な「等価」表現はない。そこを微妙に「調節」して、違和感なく他言語に置き換える技術が翻訳である。ガレスピーの場合は、二人の「関係性」を日本語の「書き言葉」で表すために、あえてガレスピーだけそういう訳文にしたのである。原書の英語は、録音したインタビューの口語表現を著者(トビー・グリーソン)が文字起こしする際に、ほとんどすべて普通の文体に編集して書いている。だからガレスピーの章も、多少くだけた表現が多いが、基本的には他と同じ会話文体だ(口語表現をそのまま文章にすることは普通はない)。この二人は同年齢であり(1917年生まれ、モンクとも同じ生年)、家族ぐるみの付き合いをしていて、グリーソン家が1964年のガレスピーの米大統領選出馬の応援までしていた仲なので、グリーソンの「自宅」で行なったプライベートな対話時に、堅苦しい表現で「話すはずがない」からだ。

一方、他のインタビュイーはTV出演時のデューク・エリントン(1998年生まれ)を除き、これもグリーソンの自宅での対談だが、全員グリーソンより「年下」で、なおかつジャーナリスト、ジャズ評論家として当時のグリーソンは当然それなりの人物として尊敬されていた。だから、いくらフランクなアメリカといえども、一流ミュージシャンたちが「タメ口で話す」はずもなく、当然それなりの態度と言葉遣いをしていただろう。つまり、そこも「想像」である。英語には日本語のようなあからさまな敬語表現が少ないが(あるにはある)、会話の場合、話し手の「トーン(話しぶり、短縮表現など)」がかなりそこを表現している。だから「書き言葉」としての日本語訳の文章は、性別、年齢や、上下関係など、「日本文化的に見て」違和感のない表現にするのが望ましいと思う。そこは、不自然にならない限り訳者の裁量範囲なのだ。私は原テキストに忠実に、逐語的に翻訳することを心掛けているが、マイルス自叙伝も含めて「作家的な」翻訳者だと、このへんはかなり表現に幅が出てくるだろう。

個々の人格や個性に関しても、原書テキストのトーンを大きく逸脱することなく、訳文の表現で、ある程度は違いが出せると思う。この本の場合、12人のミュージシャンは、ジャズ界での実績や演奏の個性、原文のリズムや使用する言葉(短縮など)を勘案して、それぞれの「人物の雰囲気」が感じられる訳文になるように心がけた。たとえばジョン・コルトレーン、ジョン・ルイス、ビル・エヴァンスのような生真面目な雰囲気のある人たちと、クインシー・ジョーンズやフィリー・ジョー・ジョーンズのようなやんちゃな感じのタイプとでは印象が違うと思う。今はヴィジュアルやオーディオの記録も簡単に視聴でき、リズムを含めた話し方、話しぶりの情報も、実際に目や耳で確認できるので、それも参考にしてできるだけ訳文に反映させるようにしている。特にリズムには話し手の個性が出る。この本で面白かったのは、12人の発言を訳してみて、レコードなどで聞ける彼らの「音楽」と、インタビューでの「語り口」に、明らかに「相関がある」のを感じたことで、そこにジャズという音楽の本質がよく表れていると思う。

もう一点、英日翻訳者にとっては当たり前のことだが、英語では、大統領もホームレスも、男も女も、大人も子供も、1人称の主語「私」は「I」しかない。「私、アタシ、俺、オレ、僕、ボク、ワシ、自分、おいら、おいどん、拙者……」などと多様な表現で、その人の性別、立場、地位とか性格まで表す日本語のような豊富な語彙は英語の主語にはない(複数のweも、2人称youも、3人称he/sheも同様)。上述した中山康樹氏訳の『マイルス・デイヴィス自叙伝』では、独白するマイルスはずっと「オレ」で通している。第三者も「奴」が多い。もちろん原書はすべて「I, (my, me)」であり、「he (his, him)」である。共著者クインシー・トループとの対話とはいえ、品のない「マザファッカー」という語を連発するジャズマン・マイルスが、「私は」とか「僕は」とか言ったらやはり妙なので、ここは「俺」でもなく、視覚的にも「オレ」がいちばんぴったりだ、と訳者が判断したのだろう。これを「私」で始めたら、全体のトーンがまったく違う物語になったことだろう。そのいかにも「らしい」マイルスの語り口のおかげもあって、この本は面白い「日本語」の読み物になったのである。ただそのイメージがあまりにハマりすぎて、それ以降(私もそうだが)マイルスはいつも「オレ」と言わないとサマにならないのが困ったところでもある。当然だが、マイルスが「私は」と真面目な顔(?)で言っていたときも彼の人生にはあったはずだ(実際の人間マイルス・デイヴィスは知的で、シャイで、繊細な人だったと言われている)。今の生成AI翻訳は、このへんも、「主語」を選択することで、訳文はどうにでも書き分けられるようだ。ただし周知のように、日本語は「私は」とか、「それが」とかの「主語」なしでも文章が成立するところが、英語と異なる。(続く)

2023/10/14

ジャズと翻訳(2)インタビュー本

Lennie Tristano
Eunmi Shim
私はこれまでに3冊のインタビュー本を翻訳してきたが、初の訳書が『Lee Konitz: Conversations on the Improvisor's Art』(原書 2007 Michigan大学) だった。トリスターノ派の音楽全体に興味を持っていたので、実はリー・コニッツの前に、当時日本ではほとんど情報が手に入らなかった、コニッツの師匠レニー・トリスターノ唯一の伝記である『Lennie Tristano』(2007 Michigan大学) をまず訳してみようと思っていた。10年前にはWeb上(英語)でもトリスターノ派に関する情報がほとんどなく、あれこれ探してやっと見つけた本である。また同じくトリスターノの弟子のベース奏者、ピーター・インド Peter Ind がトリスターノ派の音楽について書いた『Jazz Visions』(2008) も見つけた。前者に関しては著者ユンミ・シム Eunmi Shim(韓国出身、現在はバークリー音楽大学教授)に直接コンタクトして翻訳の可否について問い合わせていたのだが、音楽学の学者である著者のアカデミックな視点が少々私的興味とは違う方向だったこと、またインドの本も少し方向が違う印象だったので、最終的にやはり『Lee Konitz』を手掛けてみることにしたのだ。これはミシガン大経由で著者アンディ・ハミルトン氏に、メールで直接コンタクトして翻訳許可をもらった(次の『セロニアス・モンク』も『パノニカ』も同様に、著者ロビン・ケリー氏およびハナ・ロスチャイルド氏から直接許諾をもらって翻訳している)。

Lee Konitz
Andy Hamilton
『Lee Konitz』は、老境に入ったアルトサックス奏者リー・コニッツ(1926-2020, インタビュー当時70歳代後半)への5年間にわたるインタビューを通して、彼の音楽人生とジャズ哲学を探るというユニークな一種の自叙伝だ。インタビューは<コニッツx著者>の1対1で、イギリス人著者アンディ・ハミルトン(Darham大教授、美学・哲学者)が強調しているように、マイルス自叙伝のような編集、脚色や他の資料からの引用を一切せずに、「コニッツ本人の言葉」をほぼそのまま載せて、そのユニークな人生とジャズ哲学を語らせている。特に「ジャズ即興演奏とは何か」という自身の疑問に起因する、パーカーやコルトレーンの「固有のヴォキャブラリーの組み立て」に基づく演奏技法と、コニッツの「内発的 (spontaneous) アイデア」による純粋な即興演奏思想との対比は、これまでどんなジャズ本でも語られてこなかった、ジャズの本質に迫るユニークなトピックであり、ジャズ・ミュージシャンが何を考えて、どう演奏しているのか、という音楽家の内面を探る非常に興味深い議論だ。シカゴ時代からの師匠レニー・トリスターノの音楽思想、師弟関係、ビバップとトリスターノ派の音楽の関係、彼らの音楽の本質を語る部分も、これまで日本では読んだことがない非常に貴重な情報だ。そこに、著者ハミルトンがインタビューで取材した、多くのジャズ・ミュージシャン(40人)のコニッツに関するコメントを加えた構成にして、リー・コニッツというミュージシャン像とその音楽を、立体的に描いている。

ジャズは黒人――アフリカ系アメリカ人が中心となって生まれ、発展した音楽だが、いわゆる白人ジャズ・ミュージシャンも数多い。日本ではこうして「黒人」に対して「白人」ミュージシャンとひと言で呼ぶが、アメリカの白人といっても様々なバックグラウンドを持つ人たちの集まりで(もちろん黒人もそうだ)、ジャズの場合いちばん多いのはいわゆるWASPではなく、ユダヤ系アメリカ人である。ハリウッドの映画産業から始まり、ガーシュインやアーヴィング・ヴァーリンのようなポピュラー音楽作曲家、ブルーノートのアルフレッド・ライオンやフランシス・ウルフ、プレスティッジのボブ・ワインストックやアイラ・ギトラーのようなレコード・プロデューサー、ナット・ヘントフ、レナード・フェザーのようなジャズ評論家、ジョージ・ウィーンのようなジャズ興行主、大物ミュージシャンでは古くはベニー・グッドマンはもちろん、本書で出自を公言しているリー・コニッツやスティーヴ・レイシーの他にも、ギル・エヴァンス、ビル・エヴァンス、スタン・ゲッツも、ユダヤ系移民の子孫だと言われている。その他バート・バカラック、ジョン・ゾーンのような音楽家もそうだし、アメリカのクラシック音楽の世界でもその傾向は同じだ(バーンスタインなど)。

ユダヤ人には特別な能力があるからだとか、陰謀論的な見方とか、根拠の曖昧な議論には与しない。ジャズを含めてそもそも「芸能」というものが、主として(宿命的に支配者層にはなれない)被差別階層の人たちによって作り上げられてきたのは、アメリカだけでなく、諸外国や日本の芸能の歴史を見ても明らかだからだ。元々、様々な社会的ハンディを背負って生き、進路の選択肢が限られているがゆえに、個人としての才能、能力を最大限生かせる分野に人生を賭ける――という生き方を選ぶしか方法がないので、結果的にそこで名を遺した人が多いということではないかと思う。アメリカという新しく複雑な移民国家では、人種間競争が厳しく、ヒエラルキー形成の歴史も短いので、それがより顕著な形で表れているということを学習したのも、数冊のジャズ書の翻訳を実際に手掛けて、翻訳過程でその背景を知ったからだ。黒人の音楽を白人が「拝借」して商業的に成功させた、という見方が一般にあるが、芸術的な観点から見れば、そんな単純なものとは言えない。どんなミュージシャンにも、それぞれ「個人としての」歴史や背景があるのだ。トリスターノや初期のコニッツから感じられる強靭な意志と音楽的テンションの源は、当時のビバップという「本流の黒人」が作った強力で魅力的なジャズの世界の内側から、何とかして「自分たち固有の音楽」を創り出したい、という「傍流の白人」アーティストとしての強い芸術的願望であることも、コニッツの本を通じて初めて理解した。トリスターノがもっとも敬愛していたのは、ビバップの権化チャーリー・パーカーとバド・パウエルなのだということも、この本で初めて知った。日本のギタリスト高柳昌行の音楽を知ったのも、トリスターノ派が起点だった。

Steve Lacy
Jason Weiss
2番目のインタビュー本『スティーヴ・レイシーとの対話』(原書 2006) は、ソプラノサックス奏者<スティーヴ・レイシーx多彩なインタビュアー>という組み合わせで、20世紀後半に、主にヨーロッパで40年以上にわたって行なわれたレイシーへの34篇のインタビューを、編者ジェイソン・ワイスが一部翻訳し(仏→英)、年代順に解説を加えて再編集し、そこにレイシー本人のメモなども加えて彼の人生と音楽思想を描く――というこれもまたユニークな構成のインタビュー集である。特にレイシーが私淑し、自身の音楽の基盤となったセロニアス・モンクの音楽の分析と解釈は、類を見ない深さで師のサウンドの構造と本質を語っている。モンクの音楽をここまで深く理解し、語っている音楽家はいない。そして、そのインスピレーションがいかに自身の音楽を形成してきたかを詳細に述べている。この本は月曜社の企画で、私が選んだものではないが、セロニアス・モンクを通じてレイシーに興味を持っていたこともあって翻訳を引き受けた。翻訳作業を通じて、あまり詳しく知らなかったスティーヴ・レイシーという音楽家と、その音楽を知る非常に良い機会となった。

これら2冊はインタビューを通じて掘り下げた、白人サックス奏者、リー・コニッツとスティーヴ・レイシーのある種の自叙伝とも言える。アルトとソプラノという楽器、年齢の違い(レイシーは1933年生まれで2004年没)に加え、コニッツはビバップから出発して、トリスターノとの邂逅を経て独自の音楽を追及し、一方のレイシーはディキシーランドから出発して、セシル・テイラーを通してモンクを知り、フリージャズに向かった、という経歴上の違いがあるが、この二人にはいくつか共通点もある。両者ともにユダヤ系白人(コニッツはオーストリア系、レイシーはロシア系)サックス奏者であり、片やレニー・トリスターノ、片やセロニアス・モンクという、ともにジャズ史上の巨人というべき人物だが、「ジャズ本流」のミュージシャンとは言い難い師に、青年時代に薫陶を受けたという経歴を持っていること、さらに両者ともに1960年代後半という、人生の半ばで、実質的に米国の地を去って新天地ヨーロッパを活動拠点とし、そこで晩年まで暮らしたということである(コニッツはケルン、レイシーはパリ)。逆に言えば、米国では彼らの音楽は受け入れられなかったと言える。2冊のインタビュー本による個人史からは、ジャズ・ミュージシャンの人生の背後にあった、20世紀生まれのジャズという音楽の特質が鮮明に浮かび上がってくる。

Conversations
in Jazz
Ralph J Gleason
一方、今年初めに出版した3冊目のインタビュー本『カンバセーション・イン・ジャズ』は、米国の著名ジャーナリストであるラルフ・J・グリーソンが一人で行なった<グリーソンx12名のジャズ・ミュージシャン>というインタビュー集で(原書は14人)、1960年前後に行なわれたグリーソンの私的インタビュー音声を、2016年に息子のトビー・グリーソン氏が初めて文字化してイェール大から出版したもので、ほとんどのインタビューが初出だ。1960年代に日本でモダン・ジャズ・ブームが起こる前の米国のジャズ黄金時代に、若きコルトレーンやロリンズ、ビル・エヴァンス、MJQの全メンバー 、フィリー・ジョー・ジョンーズのような大物ミュージシャンたちが、何を感じ、考えていたのか、当時の彼らの音楽思想を、すぐれたインタビュアーが一人で切り取ったもので、ミュージシャンたちのナマの声を通してジャズ史の一断面をとらえた興味深く、また貴重な記録である。個人的には、マイルス・デイヴィスに関する各ミュージシャンの意見や、ビル・エヴァンスのトリスターノとモンクに関するコメントが面白かった。

Notes and Tones
Arthur Tailor
このように、同じインタビュー本だが、上記3冊はそれぞれ個性的な内容を持ち、いずれもインタビューを通して、いわば「ジャズ・ミュージシャンという存在」を様々な角度から描くという書籍である。ジャズとは結局、ミュージシャン個人の声を聴く音楽なので、今の私の関心は、昔と違ってレコードやテクニカルな情報よりも、ジャズサウンドの根本にあるミュージシャン個人の人生や演奏思想にあり、「彼らがなぜそのような演奏をするに至ったか」という事実を知ることにある。そういう視点で翻訳候補に挙げている興味深いインタビュー本が、まだ他にも何冊かある。たとえばその中の1冊で、ドラマーのアーサー(アート)・テイラー著の『Notes and Tones』(1977/93) は、グリーソンの本と同じ構成(インタビュアー1人 x 複数ミュージシャン)だが、これはグリーソン本から約10年後、すなわちフリージャズ登場後の1970年前後、およびそれ以降に行なわれたインタビューである点と、インタビュアー自身がアート・テイラーというビバップ以降、ジャズの巨人たちとの数々の名演に加わってきたジャズ・ドラマーである点が違う(サブタイトルが "Musician-to-Musician Interviews")。ロックやポピュラー音楽が米国の音楽市場の主役になる以前、モダン・ジャズがまだまだ隆盛だった1960年前後で、訊き手が白人の著名ジャーナリストであるグリーソン本では、どことなく「よそ行き」の雰囲気が感じられるジャズ・ミュージシャンたちが、それから約10年後に、ミュージシャン同士でリラックスして本音を語り、またマイルス・デイヴィスなど主流のアーティストの他に、オーネット・コールマンやドン・チェリーなどフリージャズ以降のミュージシャンも登場し、ロックやフリージャズ登場後の米国ジャズ界の変化やミュージシャンたちの反応も見られ、ある意味でアメリカという国、ジャズという音楽の歴史の複雑さを表出している非常に興味深い1冊だ。こうした原書を年代順に何冊か翻訳出版して、一種の「日本語によるジャズ・オーラル・ヒストリー」にしてみたいと考えているのだが、今後これらを訳書として日本で出版できるかどうかはまだ未定だ。(続く)

2023/09/24

ジャズと翻訳(1)ジャズ本

ジャズを「同時代の音楽」として楽しみ、主導してきた1940ー50年代初め生まれの団塊を中心とする世代が、今や70歳から80歳に達し、鬼籍に入り、病院に入り、寝たきりになり……と、社会活動から徐々に退場しつつあり、日本の実質的なジャズの聴き手の数は減る一方だ。2010年に休刊したジャズ専門誌「スイングジャーナル」の後継誌「Jazz Japan」編集長の今夏の孤独死が象徴するように(彼はもう1世代若いのだが)、4年近いコロナ禍とこの夏の酷暑が、ジャズを知り、楽しんできたその世代に、特に大きな肉体的ダメージを与えているような気がする。そういう背景もあって、ジャズに対する国内の「需要」全体が、これまで以上に急速に冷え込んでいるように感じる。「Jazz Japan」誌は今156号で終了するが、「Jaz. in」と名称を変更して再出発するという。

中高年が残り少なくなってきた人生をどう楽しむか、人それぞれ考え方があるだろうが、今の私の楽しみの一つは「20世紀ジャズ博物館」を渉猟することだ。20世紀半ばに生まれたモダン・ジャズは時代を先導する音楽だったが、そのジャズの「核たる部分」は今や古典であり、残されたジャズDNAが多様な音楽に拡散し、浸透し、その中でジャズは今も生き続けている、というのがいろいろ考えた末の私の認識だ。ただし本来「ルールがないのがルールである」という自由な精神を持ち、ジャズを生んだアメリカと同じく多様な文化の混合物、つまり雑種であるジャズDNAの生命力は強靭であり、今後さらに薄く拡散しながら膨張を続けることだろう。したがって、その核となった部分が収納された「20世紀ジャズ博物館」は、私にとっては宝の山だ。録音、映像記録はもちろん、ジャズの時代とその音楽、人物たちを描写し、語った、国内外の「ジャズ本」もその一部であり、そこから面白いものを探し出すのが楽しみなのだ。数は減ったかもしれないが、そういう楽しみ方をしているジャズファンはまだまだいると思うし、日本ではほとんど紹介されたことのない海外ジャズ書の自力翻訳出版も、その一環としてやってきた。

定年退職後、その翻訳出版を半分趣味で始めて10年経った。その間5冊の翻訳書を出版したので、ほぼ2年に1冊というペースとなり、これは「死ぬまでに10冊」を目標にした当初の計画通りである。そのきっかけというか目的は、本ブログを開始した初期の「ジャズを『読む』」という3本の連載記事(2017年3月)で書いた通りである。要は、自分で面白いと思ったジャズ本を、「日本語で読めるもの」にしたい、ということだった。「演る」を除き、趣味としてのジャズの面白さは《「聴く」→「読む」→「知る」→「考える」→「聴く」》という終わりのないサイクルにある、というのが私的ジャズ観なので、「読む」という行為はジャズを楽しむための必須要件なのだ。

時にネガティヴな使い方もされる「蘊蓄」(うんちく)と呼ばれる知識集積も、単に「聴く」だけではない、この「読む」→「知る」→「考える」というプロセスで培われるもので、ジャズが他のポピュラー音楽と異なるのは、クラシック音楽と同じく、この知的プロセス単独でも十分に楽しめるだけの、歴史と深さと多様性を持っている音楽だからである。曲や楽理や演奏技術に加え、米国史、ジャズ史、ジャズ・ミュージシャンの個人史とその人生など、周辺情報を深く知れば知るほど、ジャズを「聴く」ことが楽しくなる。そこを「面倒くさい」と思うような人は、そもそもジャズ好きにはならないだろう。

長年生きてきて思うのは、大雑把に分けると、年齢や性別を問わず、いつの時代も人間はやはり「寄らば大樹」という権力志向、上昇指向の強い体制派と、「そんなの関係ねぇ」という反権力の自由派の2通りに分類できそうだということだ。もちろんどんな人間にも両面があるし、世の中的には両者ともに必要だが、そのバランスが個人や組織や社会の在り方を決める。ジャズ好き人間はどう考えても昔からやはり後者なのだろうと思う。権力好き(?)なジャズマンとかジャズファンも中にはいるかもしれないが、あまり想像しにくい。スティーヴ・レイシーが語ったように、ジャズとは本質的に反体制、反定型の音楽、つまり出来上がった世界や決め事に抗ったり、そこから脱出したりして、常に「制約からの自由」を追い求める音楽であり、そこにこそ世界中の人々の心に響き、そこに共感する――という音楽としてのジャズが持つ魅力と普遍性があるのだと思う。

私はどうも昔から、エラそうにしている(「主流」然とした)ヒトやモノが嫌いな性分だ。モノにだって一見してエラそうに見えるモノはあるし、クルマやオーディオでも、そういう匂いのする製品は昔からある。クルマやオーディオならコンパクトで、機能的で、スッキリしたデザインの機械が好きだ。どの世界であれ、中心的存在のヒトやモノはもちろんそれなりにリスペクトするが、それよりもあまり目立たないけれど、実は非常に良い仕事をしているヒトやモノが好きな性分なのだ。ジャズにもパーカーやマイルスのように、歴史的に主流というべき人たちは当然ながらいるが、ジャズの魅力は、基本的にそれが必ずしもヒエラルキーにはならず、また聴き手にもそれを感じさせず、目立たないながら個性のある優れたミュージシャンも数多く存在し、そうした人たちの演奏も平等に楽しめるところにある(あった)。自分の訳書で取り上げてきたジャズマンの顔ぶれを見てもそうだし、ピアニストなら独創的なモンクや、いぶし銀のような魅力があるトミー・フラナガンやバリー・ハリスに魅力を感じるのも同じ理由だ。

ジャズ演奏にはソロもあれば、小編成から大編成のアンサンブルまであり、楽器の種類も、演奏の形態も多様だし、そこに参加するミュージシャンも多彩だ。とはいえ、ジャズとは基本的には「自由な個人の音楽」であるところが重要なのだと思う。誰か第三者が正確に書いた譜面を楽器でなぞり、その世界の枠内で完成された美や個性を追求するクラシック音楽との違いがそこにある。誰にも似ていない自分だけの声(voice) を自由に追い求めるのがジャズ・ミュージシャンの性であり、他のミュージシャンや楽器と共演することで、そこからまた別のサウンドを新たに生み出す過程にジャズの醍醐味がある。だがあくまで大前提は、まず奏者一人一人が「独自のサウンド」を持っていることなのだ。バンドメンバー個々人のサウンドを「ブレンド」して生み出すデューク・エリントンの音楽が、米国でなぜあれだけ評価され、崇拝されているのか――それはジャズという音楽の持つ「個と集団」という本質的関係を、自らのバンド音楽の中で高い次元で調和させることを常に目指し、しかもそれを実現してきたからで、エリントンの目指した音楽そのものが「ジャズ」を見事に体現していたからである。

ジャズに関する英語の原書は、現役の会社員時代から読んでいて、ときどき面白い原書に出会うと、日本ではなぜこうした「面白いジャズ本」が出版されないのだろうか、とずっと疑問に思っていた(「面白い」と言っても自分がそう感じるだけの話で、他の人はそうは思わない可能性もあるが…)。はっきり言って、今も私の本棚にずらりと並んでいる1970年代から読んできた数多くのジャズ本も含めて、日本で出版されてきたジャズ関連書籍(教則本や演奏技術書の類を除く)のほぼ80%が、著者の解説や感想文付き「レコード・カタログ」だ。続く10%が翻訳書を中心にしたパーカー、マイルス、コルトレーンなどジャズ巨人の伝記類と、ジャズ解説書も兼ねたジャズ通史で、この2タイプが、時代と著者は違えど(多少の新情報を加えながら)繰り返し出版されてきた(これは日本のジャズ受容史と関係する話で、日本人ほどジャズの「レコード」を聴いてきた国は世界中探してもない。一般人にはジャズのナマ演奏がほとんど聴けなかったというのが、いちばん大きな理由で、そこは明治以降のクラシック音楽の受容史と同じことだ)。そして残る10%(以下?)がマイナーなジャズ・ミュージシャン、批評、思想、楽理等に関するコアな本だろう。これらが少ない理由は、言うまでもなく、出版しても売れない(需要が少ない)類の本だったからだろう。

だから教則本や演奏技術書(今はこの分野の本ばかりだが)を除くほとんどのジャズ本は、「レコード紹介」を通じた演奏、楽曲、ミュージシャン、楽器の解説書だ。もちろんそれはそれで読んで面白いのだが、私のような長年の読者からすると、さすがにもう飽きた。また、芸術批評の対象に値するようなすぐれた「ジャズ・レコード」は、(私見では)1990年代でほぼ終わっていると思う。ジャズは「マイルスさえ聞いていればいい」とか乱暴なことを言う人がいたせいで、(売れることもあって)毎年のように出るマイルス本も、もうおなか一杯だ。数少ない例外的に面白かったジャズ本は、批評家なら相倉久人、また山下洋輔氏や、菊地成孔・大谷能生両氏というジャズ演奏家の書いた本、さらにマイク・モラスキー氏のように外から見た日本のジャズなど、ジャズという音楽そのもの、その歴史、特質、影響、他音楽との関係などが、独自の視点で書かれている本が新鮮で面白かった。もう一つ、定期的に出版され、ジャズ本としては例外的に「売れて」いるのが作家・村上春樹氏が執筆した本(自著、訳書)だが、これはジャンルとしてのジャズ本というよりも、「村上本」として人気があるということだろう。

私は元来、分野やメディアに関わらず、著名な人物が「本音で語るインタビュー」が好きだ。ジャズも例外ではなく、初の訳書『リー・コニッツ』もそうだし、最近も『カンバセーション・イン・ジャズ』という、1960年頃の批評家ラルフ・J・グリーソンのインタビュー記録を復刻した本を翻訳出版した。伝統的に、米国のジャズ・ジャーナリズムの基本は「インタビュー」であり、なおかつ日本と違って、ミュージシャンといえども、自分の言葉で個人としての意見を述べ、発信せざるを得ない社会文化的背景があるので(黙っていると、何も考えていないアホだと見なされる。アメリカ人が、しょうもないことでも、とにかく堂々と何でも喋るのはそのせいである)、音楽に限らず、芸術の世界全般に多くのアーティストに対する優れたインタビュー記録が残されてきた。だから米国のノンフィクションのジャズ本の多くは、ジャズ・ミュージシャンの演奏記録と共に、本人あるいは周囲の人間に対するインタビューに基づいた情報(一次史料)を基にして書かれている。その中にはアーティストの個人史として、あるいは20世紀芸術論として、21世紀の今でも(だからこそ)十分に読む意味と価値がある書籍も含まれている。そこが日本の一般的ジャズ本との大きな違いだろう。

「インタビュー」という、ある種の即興演奏に近い「対話」形式、インタビューする側の知見と力量、対話を通じて互いに相手を触発する言語表現力、結果としての対談内容の質と深度に、文化的な違いも含めて日米間には大きな差があるように思う。日本では昔から「書いたもの > 語ったもの」という暗黙の価値基準があるように思え、その場限りで消える対話、対談に重きが置かれて来なかった(軽く見られる)歴史があるからだと思う。そして当然だが、少なくとも「英語」を完璧に駆使できない限り、20世紀の日本人が当時の米国のジャズ・ミュージシャンたちの音楽思想や、本心、本音をリアルタイムの「インタビュー」を通して聞き出すことは簡単ではなかっただろう。加えて、同じ国や共同体の一部で生きるという実体験がなければ、背景も含めた言葉の真の意味を理解することは難しいだろう。だから、英語ネイティヴによって語られた本、書かれた本が、やはり私が知りたいと思っているジャズの世界を楽しみ理解するためには必要なのだ。(続く)

2023/08/13

「憂歌団」 Forever!

Rolling 70s (1994)
インストのジャズは通年、つまり1年中聴いているが、加えて私には「シーズンもの」というべき音楽ジャンルがある。すべてヴォーカルで、年末になると決まって聴きたくなるのが船村徹、藤圭子、ちあきなおみ…など日本情緒あふれる演歌。春から初夏にかけてはボサノヴァ、真夏はサザン、大瀧詠一、山下達郎などのJ-POP、秋から冬はジャズ・ヴォーカルに加え、井上陽水や長谷川きよしのしみじみ系……と年がら年中ヴォーカルも聴いているわけだが、夏の定番がもう一つあって、それが「ブルース」を唄うバンド「憂歌団」だ。と言っても、女のブルースとか、港町ブルースとかの日本の歌謡曲ではない、本物のブルースをやるバンドだ。こちらは夏向きのクール系音楽ではなく、むしろ逆にアクが強くて暑苦しい系の音楽なのだが、6月から7月くらいになると、私は無性に憂歌団が聴きたくなる。

真冬に聴く演歌もそうだが、ポピュラー音楽にはどれも、その出自から来る「いちばん似合う場 (situation)」というものがある。明るい南国行きの船の上ではなく、雪の舞う北国へ向かう暗い冬の船や列車の中だからこそ、演歌は一層しみじみと心に響く。同様に、ジャズをさわやかな高原で、真っ昼間に聴きたいとはあまり思わない。ジャズは基本的には「都会の」「夜の」音楽だからだ。ブルース(Blues:英語の発音では「ブルーズ」と濁る)も、秋とか冬の澄み切った青空の下で聴きたいとは思わない。アメリカ深南部 (Deep South) の、ミシシッピ・デルタあたりのジトーッと重い湿った空気の中で生まれたブルースも、底に流れる黒人音楽特有の哀しみや嘆きに加え、その出自の一部である「風土」が、サウンドの中に色濃く反映されている。日本の気候とはまったく違うだろうが、強いてあげれば、日本では6月から7月のじめじめした蒸し暑い季節が、いちばんブルースには似合うように思う。

熱心なファンを除けば、今やどれくらいの人が「憂歌団」のことを知っているのか分からないが、ジャズ、ロックに加えフォーク、ニューミュージック、演歌、歌謡曲…と、何でもありで、ほとんど「ビッグバン」状態だった日本の1970年代の音楽界で、ひときわ異彩を放っていたのが「憂歌団」(Blues Band=ブルース・バンド=憂歌・楽団=憂歌団)だ。あの時代ブルースをやっていたバンドは、憂歌団も影響を受け、曲提供も受けた名古屋の「尾関ブラザース」や、京都の「ウエスト・ロード・ブルース・バンド」など、結構あったようだが、もっともインパクトがあり、メジャーな存在になったのは、やはり当時の「アコースティック・ブルース・バンド」憂歌団だっただろう。内田勘太郎のギター、木村充揮(きむら・あつき)のヴォーカルを核にして、花岡献治(b)、島田和夫(ds-故人)を加えた4人の音楽は、「憂歌団」という素晴らしいネーミングと共に、私的にはとにかく衝撃的だった。

17/18 oz (1991)
ブルースの歴史に特に詳しいわけではないが、いくつかの系譜があるブルースの起源の一つは、言うまでもなくジャズのルーツでもあるアメリカ南部の黒人音楽を核にした「カントリー・ブルース」だと言われている。つまり本来が土くさい、汗くさい音楽で、NYやシカゴなど都市部に広まってジャズやR&Bのルーツにもなった、モダンな「シティ・ブルース」とはサウンドの肌合いが違う。だから一部のブラック・ミュージック好きな人たちを除けば、そもそも、あっさり好みが多い日本人の嗜好に合うような音楽ではなかっただろうと思う。憂歌団の音楽は、このアメリカ生まれの黒っぽく土くさいブルースに、きちんと「日本語で日本的オリジナリティ」を加えて、日本にブルースという音楽を「土着化」させた初めての音楽だった。ジャズで言えば、山下洋輔グループが同じく1970年代に生み出した「日本独自のフリージャズ」と、その性格と立ち位置がよく似ている。

ブルースの日本土着化を可能にした「要因」はいくつかあるだろうが、その一つは、間違いなく憂歌団の本拠地である「大阪」という土地柄、風土だ。東京でも京都でもなく、日本で大阪ほどブルースの似合う街はない。昔(50年前)に比べると、今は大阪もすっかりモダンに様変わりしたようにも見えるが、その根底に、気取らず、飾らず、泥臭く、人間味があって、「本音」で生きることにいちばんの価値を置く、という長い「文化」がある大阪こそ、日本にブルースが根付く土壌をもっとも豊かに備えている街だ。憂歌団のオリジナル・メンバーの出身地であり、彼らの音楽が持つサウンドと歌詞のメッセージに共感し、それを支持する「聴衆」が多いこともその条件の一つだろう。そして「日本語のブルース」を可能にしたのが、上記文化を象徴する言語である「大阪弁」の持つ独特の語感とリズムだ。そしてもちろん、その大阪弁をあやつる木村充揮の、「天使のだみ声」と呼ばれる超個性的なヴォイスと歌唱が決定的な要因だ。内田勘太郎のブルージーだが、同時に非常にモダンなブルース・ギターと木村の味のあるヴォーカルは、もうこれ以上の組み合わせはないというほど素晴らしかった。とりわけ木村充揮は、ブルースを唄うために生まれてきたのか…と思えるほどで、ブルースとは何かとか考える必要もなく、木村が唄えばそれがブルースであり、どんな楽曲も「ブルースになる」と言ってもいいほどだ。

私が持っている憂歌団のレコードは『17/18 oz』(1991)と、2枚組『憂歌団 Rolling 70s』(1994)というベスト盤CDだけだったが、彼らの名曲をほとんどカバーしているこの40曲ほどを、何度も繰り返し聴いてきた。今はこれらをまとめた新しいベスト盤も、DVDも何枚か出ているし、木村充揮のソロ・アルバムも何枚かリリースされている。それにYouTubeでも過去のライヴ演奏など、かなり昔の記録までアップされていて、映像では内田勘太郎の見事なギタープレイもたっぷりと楽しめる。憂歌団のレパートリーは、ブルース原曲や、アメリカのスタンダード曲に加え、オリジナル曲の「おそうじオバチャン」、「当たれ!宝くじ」、「パチンコ」、「嫌んなった」など、70年代憂歌団の超パワフルで、いかにも大阪的なパンチのきいた楽曲が最高だ。しかしシャウトする曲だけではなく、木村がブルージーかつ、しみじみと唄う「胸が痛い」「夜明けのララバイ」「けだるい二人」のようなバラード曲や、「夢」「サンセット理髪店」など、ほのぼの系の歌も絶品だ。ただし、バンドとしての憂歌団の素晴らしさをいちばん味わえるのは、何といってもライヴ演奏だろう。それも大阪でやったライヴが特に楽しめる(聴衆のノリが違う)。ライヴで唄う定番曲「恋のバカンス」や「君といつまでも」他の、日本のポップスの木村流カバーも非常に楽しめる(時々、森進一みたいに聞こえるときもあるが)。

「憂歌団」というバンド自体は1998年に活動休止したが、その後も内田勘太郎と木村充揮はソロ活動を続け、2014年には「憂歌兄弟」を結成したり、二人は今もソロや種々のコラボ企画で活動を続けている。現在YouTube上では、多彩なミュージシャンと木村充揮の共演記録が貴重な映像で見られる。もう70歳に近く、さすがに昔のようなワイルドさは減ったが、今や「枯淡の域」に達した感のある木村のソロ・ライヴ記録はどれも本当に面白い。最近ではコロナ前2018年に地元の大阪、昭和町(阿倍野区)のイベントでやった屋外ソロ・ライヴ(「どっぷり昭和町」)が傑作だ。お笑いと同じく、演者と観客が一体化して盛り上がる大阪ならではのライヴは、とにかく見ていて楽しい。木村を「アホー」呼ばわりし「はよ唄え」と、突っ込みながら歌をせがむ観客と、舞台上で悠然と酒を飲み、タバコをふかして、その観客に向かって「じゃかっしー、アホンダラ!」と丁々発止で渡り合い、適当に客をイジり、イジられながら、ギター1本で延々と語り、唄う木村充揮の芸は、まさにブルースなればこそ、大阪なればこそ、という最高のパフォーマンスだ。もうこうなると、もはや完全に名人芸「ブルース漫談」の芸域だ。

The Live (2019)
また憂歌団時代はつい内田勘太郎ばかりに目が行っていたギターだが、映像で見ると、ソロで唄うようになった木村のブルース・ギターが、半端なく上手いことがよくわかる。今はアンプをつないだエレキが多いが、カッティング、ヴォイシングともに、限られた音数のギター1本だけで、その独特のヴォーカルを伴奏しながら、深くブルージーなグルーヴを生み出すテクニックはすごいものだ(しかも酒を飲み、客と冗談を言い合いながら)。世界には「吟遊詩人」の時代から、ギター一本の伴奏と歌だけで「その音楽固有の世界」を瞬時に生み出してしまう名人アーティストがいるもので、「ボサノヴァ」ならジョアン・ジルベルト、「演歌」なら船村徹が思い浮かぶが、木村充揮は間違いなく世界に一人しかいない稀代の「日本語ブルース歌手」である。その木村は、コロナが収束に向かっていることもあり、今年は7月以降のライヴスケジュールもびっしりとつまっているし、9月初めには、何とあの東京のど真ん中「丸の内 Cotton Club」でライヴをやるらしい。いや、楽しみだが、大丈夫か(何が)?

団塊の若者が主導し、1960年代的「混沌」を半分引きずりながら、同時に高度経済成長に支えられた未来への「希望」が入り混じった1970年代のカオス的でパワフルなカルチャーには、商業的成功だけではない、サブカル的音楽の存在と価値を認め、それを楽しむ度量というものがあった。それに当時は老いも若きも、まだ国民の半分くらいは「自分は貧乏だ」という意識があって、それを別に恥じることもなく、かつ「権力には媚びない」という60年代的美意識がまだ残っていた。この70時代から80年代にかけてのポピュラー音楽からは、音楽的な洗練度とは別に、「生身の人間」が作っているというパワーと手作り感が強烈に感じられるのだ。ところが80年代に入って日本がバブルへと向かい、みんながそこそこ裕福になり、世の中も人間もオシャレになってくると、音楽も徐々に洗練されるのと同時に、80年代末頃からは、デジタル技術が音楽の作り方そのものを変え始める(生身の人間による音楽の「総本家」たる即興音楽ジャズさえも、80年代以降は明らかに変質してゆく)。聴き手側でも、「おそうじオバチャン」的世界を共感を持って面白がり、支持する層も徐々に減って行っただろう。憂歌団にはブルースという普遍的な音楽バックボーンがあり、決して流行り歌を唄うだけのバンドではなかったが、こうして社会と人間の音楽への嗜好が変わって行くと、バンドの立ち位置も微妙に変化せざるを得なかっただろう。

20世紀後半は日本に限らず、世界中でありとあらゆる種類のポピュラー音楽が爆発的に発展した時代だ。その時代に生まれた様々な、しかも個性豊かな音楽に囲まれて青春時代を送り、生きた我々の世代は本当に幸運だったと思う。その世代には、この世に音楽がなかったら、人生がどんなにつまらないものになるか、と本気で思っている人が大勢いることだろう。しかし、この20世紀後半のような幸福な時代――次々に新たな大衆音楽が生まれ、それを創造する才能が続々と登場し、それらを聴き楽しむ人が爆発的に増え、音楽と人が真剣に向き合い、感応し合い、楽しく共存した時代――は、もう二度とやって来ないだろう。あの半世紀は「特別な時代」だったのだ。この夏も、こうして70年代「憂歌団」の超個性的な演奏を聴きながら思うのは、そのことだ。

2023/07/18

どこでも浦島

©中川いさみ
「クマのプー太郎」より
じいさんロボ
モノや人の名前など記憶力の低下が最近顕著で、あきれるほどだが、やはり脳機能の低下が老化のいちばん大きな原因なのだろう。しかしミクロに見れば、「老化」とは自分の身体を構成する「細胞」の一つ一つが「経年で徐々に劣化 (aging)し」、自分の身体内部や、外部の情報を把握すべく機能してきた個々の細胞の感度(センサー)が、徐々に鈍って行く過程ではないかということを、ここ数年つくづくと「実感」する。空間認識が衰え、ぶつかるはずのないものにぶつかったり、皮膚感覚が衰え、熱いものを持ったり、何かにぶつかってもその瞬間は気づかず、後になって傷やアザになっていて初めて分かったり、片足だとバランスを崩してズボンが履けなくなったり、立ち上がろうとしてなぜかよろめいたり、顔を洗っているのに鼻の穴に指を突っ込んでみたり(笑)……と、笑えるほど動物的皮膚感覚が衰えていくのは、皮膚のセンサー機能自体が衰えているということで、つまるところ個々の細胞の感度(反応)の劣化に起因する。こうして視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感のすべてが徐々に衰えて行くのだろう。

「よいしょ!」とか、年寄りがアクションのつど、いちいち掛け声を発するのは、若い時は何も意識せずにできたことが、一つアクションを起こすのに、(脳を通じて)そのつど個々の細胞に「やるぞ!」という指令を行き渡らせてやらないと、身体が全体として反応してくれないからだろう。「歳をとる」とは、意識して、日夜、細胞全体にこうした「指令」を出す必要性と頻度が高まるということなのだ…と最近つくづく思うようになった。コロナのおかげで、この3年間外出を控えてきた高齢者は多く、これで使わなくなった細胞の感度劣化がさらに進み、身体の動きが目に見えて衰えた人がきっと多いはずだ(自分のことだが)。

まだ現役で外で働いたり、外出好きな人はともかく、私のように元々インドア派で、以前に輪を掛けて家で過ごす時間が増えた人間にとっては、この「3年間の空白」は、予想以上に心身に目に見えないダメージを与えている気がする。また外部世界とほぼ遮断された3年間の空白は、知らない間に今まで自分の目に馴染んで、当たり前だった「風景」の多くも変えてしまった。特に大都市内の主要区域の変貌ぶりは信じがたいほどだ。新聞、テレビ、ネット情報等で頭では理解し、知っているつもりのことでも、実空間とそこにある実物を目にすると、頭が見事に混乱する。外出した先々で愕然とするのは、こうして自分がまさしく「浦島太郎状態」になっていることだ。コロナが収束しつつある今、日本中の高齢者の多くが、この3年間に起きた実空間の変貌に、まさに「どこでも浦島」状態になっているのではないだろうか。

横浜エアキャビン
先月、渡辺香津美と沖仁のコンサートを見に久々に出かけた横浜でも、その感を強くした。横浜の桜木町あたりに行ったのは、たぶん十年ぶりくらいだと思うが(神戸に行った回数の方が多い)、駅前から「横浜エアキャビン」という、昔スキー場でよく乗ったような小さなゴンドラで、街と運河をひとまたぎして赤レンガ倉庫のある「みなとみらい」埠頭まで行けるという、まるでSFのような乗り物とその景観に驚いた(2021年にできたらしい)。横浜は神戸と同じく、街の佇まいそのものが基本的におしゃれだが、同じ港湾都市でも六甲山がすぐ背後にそびえる神戸に比べると、街の景色に全体として立体感が乏しいので、高層ビル以外に、こうした工夫で上空から街や海を楽しめるようにするのは良い案だと思う(火野正平氏と同じく高所恐怖症の私は、もちろん乗らなかったが)。最近では、東京駅八重洲口再開発による大変貌ぶりに驚いたばかりだが、東京駅周辺は長年通勤してよく知っているつもりだったが、会社があった丸の内側はともかく、八重洲や日本橋方面があんなに変わっているとは思わなかった。今は渋谷も新宿も同じように、とんでもなく変貌しているようなので、もうこうなると、どこへ行っても浦島太郎状態だ。そういう場所では、記憶に残る懐かしい昔の風景は消えて、どこにも見当たらなくなっている。人間は、こうして脳に刻まれた過去の景色の記憶も徐々に喪失しながら、歳を取ってゆくものなのだな…と感慨深い。

大阪駅
5月末に4年ぶりに行った関西旅行でも、万博を控えた大阪駅の大変貌ぶりに驚愕した。これまでは宿泊も京都と神戸が中心で、大阪には滅多に立ち寄らなかったので、おそらく、なおさら昔のイメージとのギャップを感じたのだろう。夕方、京都駅で元上司と久々に会食して、そこから新快速で大阪駅に向かったが、これまで通り、大阪駅ではいちばん後方で電車を降りてホームの階段を下りれば、以前なら阪急梅田方面に自然に足が向いて、そのまま歩道橋を渡ったらすぐに阪急三番街に着いたはずだった。ところが荷物を引きずっていたので、ホームの真ん中あたりにあった登りエスカレーターについ乗ってしまったために、駅を南北に横断する新しい歩道橋に出てしまい、そのまま北口改札を出たら、あるはずのヨドバシ梅田の姿がなく、目の前に見たこともないビルがいくつもできている。ヨドバシは?と探すと、遥か右手の方向に見えるではないか。つまり電車が、以前よりずっと前方(西)に停車していたわけだ。当然阪急梅田との距離は遠くなる。そのままよくわからない新しいビルの中に入ってしまって、そこからエスカレーターを降りたり登ったりして、うろうろしながら人混みの中をスーツケースをがらがらと引きずって歩いたために、何やかやで阪急梅田側にたどり着くのに10分以上かかってしまった。しかも阪急側も三番街に新しい区域ができたりして、昔と勝手が違い、そこでもスーツケースを引きずってうろうろしてしまい、ようやくホテルにたどり着いたときには、もうくたくたに疲れ切っていた(ほとんど徘徊老人状態である)。その疲れもあったのか、翌日晩の会社の同窓会は久々で楽しかったせいもあって、よせばいいのに冷酒を飲みすぎて足腰が立たなくなってしまい、80歳過ぎの先輩二人に両脇を抱えられてホテルまで送ってもらうという体たらくだった。というわけで、この時点で完全にもうろくじいさん状態だった。

久々の神戸「JamJam」
その翌日の神戸は、六甲山があるおかげで南北がわかりやすく、平坦で似たようなビルばかりの大阪のように迷うことはなかった。それもあるのだが、若かった学生時代に4年間過ごしているので、それこそ皮膚感覚を含めた五感が街の方角と空気を忘れず、きちんと機能している感じがした。大阪から向かう電車の窓から右手に六甲山が見えてくると、今でもなんだかほっとする。神戸はまた、震災後の復興過程で街の風景全体が一度大きく変貌しているので、それに目が慣れているせいもあるだろう。しかし、4年ぶりに訪問するのを楽しみにしていた元町のジャズ喫茶「JamJam」では、前日の大酒もあって、いつもの地下への急階段ではなく、安全策として使ったエレベーターを降りた先にある暗い廊下で、まったく気づかなかった小さな段差につまずいて前方に転び、おでこをしたたかに固い木の床にぶつけて大きなこぶを作った。痛くて、入店してからもずっと濡れタオルで額を冷やしていて、ジャズをゆっくり聴くどころの話ではなかった。しかし、少し落ち着いてから見渡した店内がほぼ満席だったのにはまた驚いた。以前何回か訪問したときは、いつも客の姿がまばらで、いつまで店が持つのかと不安に思った記憶があるからだ。ここでもまた浦島太郎状態かと、何があったのか観察したが、特に店内の様子に変化はなく、いつもの空間で大音量のジャズが鳴っている。違うのは、以前はいつも平日に行っていたのが今回は日曜日だったのと、たぶん当日が「神戸まつり」の開催日で、人出が多かったせいだろうと推察して安心した。あるいは昨今のジャズブームもあって、客数が実際に増えているのかもしれない。そういうわけで、おでこが痛くて今回はじっくりと音を楽しめなかったのが残念だ(帰宅後しばらくは、右目の周りがパンダ状態だった)。

神戸まつり
 サンバパレード
ところで「神戸まつり」というのは、私の学生時代にはなかったと思うが、後で調べたら1971年に始まって今年が第50回目だという。つまり大学3年のときに第1回が始まったようだ。当時は学園紛争で2年間ロックアウトされていた大学で、ようやく授業が開始されたばかりで、市が主催する公共行事などにはあまり関心が向かなかったのだろう。「JamJam」のあと、その「神戸まつり」でサンバカーニバルのパレードというのを見た。東京では浅草が有名だが(行ったことはないが)、「阿波踊り」や「よさこいソーラン」などはまだ日本オリジナルのダンスなので、なかなかだと思うが、サンバは日本とどういう関係があるのかよくわからない(私はサンバ、ボサノヴァ好きなのでOKだが)。だが神戸でやると、異国の文化が街にすんなり馴染むように思えるのが不思議だ。賑やかなパレードが行進した三宮と元町を結ぶ大通り沿いを歩きながら、確か学生時代の夏に、屋上ビアガーデンでウェイターのアルバイトをした、昔の「神戸オリエンタルホテル」がそのへんにあった記憶が突然蘇った。このあたりだったと思える場所を見渡してみたが、特定はできなかった(震災で街全体がかなり変わってしまったせいもあるのか)。ホテルの屋上ビアガーデンでは、当時の関西らしくストリップショーをやっていて、若くてきれいな(そう見えた)踊り子さんが一枚一枚上から脱いでゆく衣装を舞台から客席へ投げ捨てると、学生アルバイトのウェイターたちがそれを競って拾い歩く、という実に楽しいショータイムが毎晩行なわれていた。

今のコロナ禍と同じく、当時は大学紛争でまともに授業がなく、ヒマだったこともあって、家庭教師や塾の講師の他、こうした面白いアルバイトをたくさんやった。六甲山中で撮影した映画のエキストラ(加山雄三主演「蝦夷館の決闘」の、その他大勢のアイヌ人兵士役。寒かったので、休憩時間に黒沢年男と倍賞美津子と一緒に焚火にあたった記憶がある)、住之江競艇場のガードマン(制服を着て、一日中客席で立ってじっとレースを見ていただけ。一回のターンでほぼ勝負が決まる単純な競技だと分かったが、博打好きにはそこがいいのだろう。「ケンカや暴動が起きたらすぐ逃げるように」と指示されていた。ガードマンがそれでいいのか?と思ったが、当然だろう。神戸港の積荷泥棒を一晩中寝ずに見張るウォッチマンというアルバイトも同じで、危ないと思ったらすぐ逃げることになっていた)、それに除草剤散布というのもやった(雇い主は個人経営者で良い人だった。あちこちクルマで移動して、工場敷地とか、草の生える場所に除草剤を撒く仕事。今考えると化学的に危険な作業だったが、当時は何も考えていなかった。甲子園球場の中に入って外野の芝生に散布したこともある。つまり私は甲子園の土を踏んだことがある)――等々、次から次へと、キリもなくあの時代のことを思い出す。最近のことは何でもすぐに忘れるのに、半世紀も昔のことは、楽しいことも、若気の至りで今となっては恥ずかしいことも、まるで昨日のことのようにはっきりと覚えているのが実に不思議だ。

六甲山の中腹や山上から初めて見た神戸の夜景の美しさも、忘れられない(当時は百万ドルだったが、今はインフレで一千万ドルに値上がりしている)。三宮で酔っ払って、夜中に歩道にひっくり返って寝ていても、若いお巡りさんがやさしく注意して起こしてくれて、(昔の)東遊園地の芝生広場に移動して、そのまま朝まで芝生の上で寝たこともあった。バイト経験も含めて、何だかあの時代の人や街は、今よりずっとやさしかったような気がする。震災もあって、こうした記憶に残る風景もずいぶん消えてしまった。しかし今思えば、「神戸オリエンタルホテル」の屋上ビアガーデンこそ、浦島的には、まさしく「乙姫様のいる竜宮城」だった…。

2023/06/30

『渡辺香津美x沖仁 ギターコンサート』(横浜)を見に行く

コロナ禍以降出かけた大ホール会場のイベントといえば、『稲川淳二の怪談ナイト』と『清水ミチコのTalk&Live』の2回だけだ。もちろん楽しんだが、両方とも「語り」を楽しむある意味キワモノ(?)的公演で、音楽だけを楽しむ本物の音楽コンサートとは違う。今年になって、ようやくコロナから解放され、演歌からポップス、ロック、ジャズ、クラシックまで、この3年間身動きが取れなかった演奏者側も聴衆側も、今や日本中で思い切りライヴ音楽を楽しんでいる感がある。楽しさでライヴに勝る音楽体験はないのだから、今のこの盛況は当然だ。そういうわけで、ギター音楽好きな私も、楽しみにしていた渡辺香津美と沖仁(おき・じん)という、ジャズとフラメンコ界のギター巨匠二人によるデュオ・コンサートを見に横浜「関内ホール」へ出かけた (6/24)。実は数年前にも、この二人の横浜でのデュオ・コンサートのチケットを購入していたのだが、コンサート当日に台風が横浜あたりを直撃するという予報で、帰宅時が危なくなったために泣く泣く諦めた経緯があるので、今回はなおさら楽しみだった。

「関内ホール」はおしゃれな馬車道通り沿いにあって、開場前に観客が外でぶらぶら待っていた。主催者の影響かもしれないが(今回は労音主催)、客層は平均60歳代半ば?くらいと思われた。まあ平均的ジャズコンサート観客年齢ではある。ただし女性が半数近くもいた感じで、その多さに驚いたが、これは若い沖仁のファン層なのか? ホールの収容人員は千人ほどで、小さすぎず、大きすぎずという、この種のライヴには最適なサイズだと思う。コンサート後の感想を一言で言えば、音楽的に素晴らしいコンサートだったと思う。比較的おとなしかった観客が、フィナーレで二人へ示した反応がそれをよく表していた。私も、名人同士の2時間の白熱したギターライヴを楽しみ、心ゆくまで演奏を堪能した。ヴァーチャルではなく、広い実空間を生楽器のサウンドが埋め尽くすという快感も久々に味わった。基本的に沖仁のフラメンコ・ギターに、どんな音楽にも融通無碍に対応できる渡辺香津美が合わせることになるので、当然だが、音楽全体はジャズよりもスパニッシュなムードに統合される。しかし渡辺香津美のジャンルを超越した相変わらずのギター・ヴァーチュオーソぶりと、今や成熟した余裕を感じさせる沖仁の、非常に洗練された「コンテンポラリー・スパニッシュギター」とでも呼ぶべきモダンな演奏が見事だった。

渡辺香津美の存在を知ったのは、私がジャズを聴き始めた1970年前後だ。それ以来50年が経ち、今年で70歳になるという今やジャズギター界の大御所だが、その活躍が本格化したのは、70年代後半から80年代にかけてのエレクトリックギターによるフュージョン時代だ。アコースティックギターに本気で取り組み始めたのは、たぶん『おやつ』(1994年)をリリースした頃からだと思う(当日演奏した「クレオパトラの夢」と「ネコビタンX」はこのアルバムに収録されている)。既に世界的に有名になっていたエレクトリックギターによるジャズ、フュージョン、ロック、ポップス界での活動のみならず、この頃からアコースティックギターを使ったクラシカルな音楽にも挑戦し始めた。そのアコースティックギターによる渡辺香津美ライヴを見たのは、90年代に故・佐藤正美とデュオで共演したブラジル音楽のライヴだったので(これも素晴らしかった)、今回はそれ以来のライヴということになる。一方、渡辺香津美がプロデビューした時代に生まれ、今年デビュー15年になる49歳の沖仁は、スペインでの修行時代以前にも世界各地で音楽修行を積んでおり、単なるフラメンコのギタリストとは違う多彩な音楽的バックグラウンドを持った人だ。私が行ったライヴ・コンサートは、たしか10年以上前の「東京オペラシティ」でのソロ・コンサート以来だ(しかし時の経つのは早い…)。

沖仁氏ツイッターより
二人は10年ほど前からデュオ演奏に挑戦してきたらしく、コンサート公演のライヴCD、DVDもリリースしているが、この二人のギタリストは人柄を含めて非常に相性がいいように思う。コンサート中のお喋りからも、ギター音楽の先輩に対するリスペクトが滲み出る沖も、後輩に対してマウントをとらない、渡辺のジャズミュージシャンらしい、フラットでバリアのない公平な態度がとても好感が持てた。だからコンサート全体の雰囲気も、火花散るギターバトルというよりも、二人がデュオ演奏を心から楽しんでいることがサウンドから伝わってくる。当日の、二人のヴィヴィッドな赤と青のパンツという舞台衣装も、息の合ったところが出ていた。渡辺香津美が終始MCを務めていたが、おそらく曲全体のアレンジも渡辺香津美が中心になって進めてきたのだろう。

うろ覚えながら、演奏曲目で覚えているのは、1曲目が沖仁のオリジナル曲、バド・パウエルの「クレオパトラの夢」、ピアソラの「リベルタンゴ」、渡辺のフラメンコ風「ネコビタンX」、パットメセニーの「アントニオ(?)」、ビレリ・ラグレーンの「フレンチxxxx(?)」、渡辺の「ユニコーン」、そして最後にクラシックから「ボレロ」だったように思う。演奏は、名人二人の超絶のギターデュオと言うべきレベルなので、最初から最後までテンポも緩まず、鋭いアタックとリズム、激しく切れのいいラスゲアード、低域から高域まで流れるような、かつ揺るぎないメロディラインの美しさ……と、2部構成のコンサート全体のサウンドを一言で言えば、見事な「スパニッシュ・スウィング」であり、2台のギターだけで、これだけ厚みのある多彩なサウンドと、激しく、しかも柔らかくスウィングする音楽を創造する二人は本当にすごいと思った。特に感じたのは、ガットギターのサウンドというのは、本当にジプシー的悲哀、フラメンコ的哀愁がよく似合うことだ。フラメンコギターの、一聴シンプルに聞こえるが非常に強烈なサウンド、複雑で推進力のあるリズム、うねるようなグルーヴには圧倒された。もちろんPA増幅はしているのだが、いわゆる生のガットギターとは、そもそもこういう音楽のために作られた楽器なのだ、ということがよく分かる。

同上
しかし、最後の演目「ボレロ」まで何本かのアコースティックギターの持ち替えだけで、本領を発揮するエレクトリックギターを封印(?)してきたかに見えた渡辺香津美が、「ボレロ」の中間部から取り出し、弾き始めたエレクトリックギターには心底惚れぼれした。どちらがいいとかいうことではなく、アコースティックギターのフレージングとの違い、そのサウンドの世界の違いと面白さを、ステージ上の同曲演奏でまざまざと見せつけてくれたからだ。100年近く前に、ジャンゴ・ラインハルトやチャーリー・クリスチャンのような名人がエレクトリックギターを引っ提げて登場したときは、きっとこうした驚きと感動を聴き手に与えたのかもしれない、と思ったほどだ。

本公演は、もちろんジャズっぽくもあるフラメンコがメインのギター音楽であり、ボーダーレスに世界の音楽を知る、本物のジャズとフラメンコの日本人ギター巨匠二人が、信じがたい技で自在に弾きまくるという素晴らしくハイレベルなライヴ音楽だ。即興演奏の部分も多いはずなので、たぶん2度と同じサウンドは聞けない音楽でもある。だが不思議なのは、聴いている客が中高年ばかりで、会場に若者の姿がほとんど見当たらないことだった。公演後感じたのは、「いったい、今の若者は何を聴いているのだろうか?」という素朴な疑問だった(大きなお世話かもしれないが)。先の短い年寄りが聞いているだけでは実にもったいない、滅多に聞けない創造的音楽なのに、とつくづく思う。コロナもほぼ収まった今年は、二人ともそれぞれ単独のライブ公演を数多くやる予定らしいので、老若男女問わず、素晴らしいギターの生演奏をぜひ聴きに行ってはどうかと思う。家の中で、YouTubeでチマチマ聴くのとは次元の違う音楽体験ができます。

2023/05/31

『グレースの履歴』

最近のTVドラマは、マンガやアニメの実写版のように、早いテンポの荒唐無稽なストーリーや、軽い人物描写ばかりで、元来そういうドラマを面白がって、結構好きだった私でもいささか食傷気味だ。21世紀に入ってから、音楽、映像、テキストすべてが「アートからエンタメ」に変容して、今や面白くないと、後の配信市場でも稼げない。その方向に行かざるを得ない作り手側も、それを好む視聴者側も、ほぼ同世代が世の中の中心になっているので、需要・供給両面で軽くて面白いエンタメ作品ばかりが増えることになる。消えつつある団塊世代や年配者も楽しめ、じっくりと味わえる、昔の文芸作品的なドラマはほぼ消えたと言っていい。現在、それに唯一挑戦できるドラマ供給者が、スポンサーフリーのNHKなのである。

この3月から5月にかけて放映されたNHK BSのプレミアムドラマ『グレースの履歴』(全8回)は、そういう風潮の中で、久々に物語そのものと、映像、音楽、登場人物の演技等、全盛期のテレビ作品にしか見られなかった丁寧な作りと高い質を持った大人のドラマだった。ヨーロッパの一人旅の途上、事故で急逝した妻の遺した車(グレース)のカーナビに導かれて、二人の過去を辿ることになる夫の旅路を繊細に描く物語だ。

脚本・演出を手掛けたのは源 孝志で、『京都人の密かな愉しみ』(2014~21)、『平成細雪』(2018)、『スローな武士にしてくれ』(2019)、『怪談牡丹灯籠』(2019) など、多くの大人のドラマをNHKで制作してきた人だ。音楽担当の阿部海太郎と組んだNHKドラマは、おそらく二人の美意識に共通したものがあるからだと思うが、丁寧に作られた映像と音楽が共に繊細で、美しく、格調の高さがあって、どの作品も何度でも見たくなる奥行と魅力がある。配役も、おそらく源 孝志の世界観と美意識に共感する俳優が選ばれているので、どの役者も今風の大袈裟な無理やり感が皆無で、登場人物として物語の中に自然に溶け込んで演じている。

最新作『グレースの履歴』でも、尾野真千子、滝藤賢一という夫婦の両主役に加え、源作品では欠かせない柄本 佑の自然な演技が光っていた。尾野真千子は、時おり関西風味が強すぎると感じることもあるが、やはりさすがの演技力で、物語の主人公・美奈子の独特の存在感をここまで表現できる女優はなかなかいないだろう。夫の希久夫役の滝藤賢一はTBSの『半沢直樹』で初めて知った人だが、様々な役柄がこなせる幅のある役者だ。近年では、広瀬アリスとの日テレのコメディ『探偵が早すぎる』で大いに笑わせてもらった。本作『グレースの履歴』では、真面目な、理系の「受け身の男」を演じて、実に良い味を出していた。その他、伊藤英明、宇崎竜童もよかったが、意外にも(?)広末涼子が希久夫の元恋人役を好演していたと思う。

映像美は源 孝志作品の要であり、本作でも3人目(?)の主人公「HONDA S800(エスハチ)」の深紅の車体の美しさを存分に生かして、湘南、信州、琵琶湖、瀬戸内、四国松山を巡る主人公のドライブと共に、各地の海、森、農道、並木、高原、湖などの背景にエスハチを溶け込ませた映像がふんだんに見られる。特に冒頭やエンディングで、尾野真千子の運転するS800がメタセコイアの並木道(滋賀県高島市らしい)を走る画、滝藤が信州の長い一本道の農道を走る画は美しい。クルマ好きにはたまらないドラマでもあるが、NHK制作なので社名「HONDA」への言及は控え目だ。しかし作者の「HONDA」への思い入れは、原作の小説を読むと非常に深いものがあることが分かる。今は消えてしまったが、20世紀の日本の夢を乗せた、この初の日本製ライトウェイト・スポーツカーの持つ、どこへでも身軽に飛んで行ける軽快さ、自由さが、主人公二人を結びつけ、人生を導く鍵なのだ。

ドラマを見てから『グレースの履歴』の原作小説を読んでみた。この本は源 孝志自身が2010年に『グレース』というタイトルで出版し(文芸社)、2018年に文庫本で『グレースの履歴』と改題して改めて発行されている(河出文庫)。著者がまだテレビ界でブレイクする以前に書かれた小説のようだが、やはり「脚本」を読んでいるように映像が目に浮かんで来る、非常にヴィジュアル・イメージを喚起する語り口の作家だということが分かる。ただし、ドラマを先に見ているので、登場人物のイメージがどうしてもテレビの印象に引っ張られ、テレビの俳優がそのまま浮かんでくる。ヴィジュアル情報が与える強烈さを再認識したが、先に小説を読んでいたら、どんな俳優がテレビ版には合っているのか想像できたか――と考えてみたのだが、もうイメージが湧いて来ない。

原作の登場人物は、それぞれ複雑な過去を背負っているが、8回連続とはいえ、TVドラマでは細かな情報をすべてカバーすることはできないし、(歳のせいか)こちらが見落とすこともあるので、見ていてときどき「??」と思う場面があった。また今回は前半録画もし損ねた。そこで、原作を読んでみることにしたのだが(TVドラマを見てから原作を読んだのは私的には初めてだ)、多少ストーリーがドラマ版と違うところもあるが(林遣都のエピソードなど)、なるほどそうだったのか、と納得できた場面も結構あった。この作者の作品は、非常に緻密に組み立てられているので、ドラマでも、何度も見ると毎回新たな発見がある。ただしエンディングは、「グレース」という車名の由来に回帰する小説版の方がしゃれていると思った。

ドラマは、10年以上構想を温めてきた源 孝志自身が、原作から脚本・演出のすべてを手掛けているわけで、その完成度の高さも分かろうというものだ。つい最近、2026年からのF1復帰を発表したホンダだが、2輪から始めて、世界の4輪市場に挑戦し、1964年に初参戦したF1で、80年代にはついに数多くのタイトルを制覇するという偉業を成し遂げた。ホンダは、戦後世界における日本の復興という夢と、日本ブランドの新たな価値を象徴する会社の一つだった。その夢を実現させたホンダと、創業者で生涯一人の技術者でもあった本田宗一郎氏への、著者の尊敬と愛が溢れるオマージュである原作小説には、同じく昔のホンダと創業者が好きだった私も、何度か胸に込み上げて来る部分があった。劇中、元ホンダ・レーシングチームのメカニックで、今は信州・岡谷でバイク修理店を営んでいる宇崎竜童演じる仁科 征二郎が、S800(グレース)を巡る物語の鍵を握っている設定がその象徴だ。薄っぺらなエンタメを遥かに凌ぐ、ノンフィクションの重みと歴史的背景に支えられた『グレースの履歴』は、大人が真に楽しめる良質な小説であり、TVドラマである。おそらく既に要望が急増しているとは思うが、NHKには、ぜひ地上波で本ドラマを再放送することをお願いしたい。

2023/04/21

(続)「長谷川きよし」を聴いてみよう

2018年1月に『「長谷川きよし」を聴いてみよう』という記事を本ブログで書いてからもう5年が過ぎた。その後コロナ禍のために音楽ライヴもすっかりご無沙汰だったが、昨年10月末に「新宿ピット・イン」で長谷川きよしのライヴを久々に見て、ある意味、ミュージシャンとして、その「不変ぶり」に感動した。私は1969年のデビュー作「別れのサンバ」以来のファンなので、50年以上彼の音楽を聴いてきたことになるが、73歳にして、その美声も、声量も、歌唱も、ギターも、サウンドも、半世紀前とほとんど変わっていなかったからである。そして、その「異質ぶり」も、ほとんど変わっていないと言える。長谷川きよしの歌の世界は、1970年代の日本のポピュラー音楽界では異質で、90年代も異質だったし、そして今でも異質だ。そもそも、時流や世の中の嗜好に音楽を合わせるというようなアーティストではなく、基本的に時代はおろか国すら超越して、ひたすら自らが「愛する音楽」を唄い、演奏する、という自分だけの世界を持つ音楽家だからだ。日本のポピュラー音楽界では、実にユニークな存在なのである。

私は歌だけ聴いていたわけではなく、「別れのサンバ」をはじめ、長谷川きよしの初期アルバム2作のほとんどの曲のギターを学生時代に「耳コピ」して、自分でもギターを弾いて唄って楽しんでいた(当時はそういう人が結構いたことだろう)。したがって、彼の音楽の聴き方も、普通の長谷川きよしの歌のファンとは少し異なるかもしれない。当時からジャズを聴いていた私がいちばん興味を持ったのは、歌だけでなく、長谷川きよしが弾くガットギターのサウンドだ。非常に日本的なサウンドの歌がある一方で、ジャズの世界では当たりのmajor7やdimというコードを多用するガットギターの「響きのモダンさ、美しさ」を、初めて知ったのも長谷川きよしの演奏からだ(今もガットギターによるジャズが好きなのもその影響だ)。ただし当時の長谷川きよしは、ジャズっぽい曲もあったがジャズではなく、サウンド的には総じてシャンソン、サンバやボサノヴァ系の曲が多かった。だがギターの「奏法」はフラメンコ的でもあり、ギターの弦へのタッチと破擦音が強烈で、それがガットギターのサウンドとは思えないようなダイナミックさを生んでいるのが特色だった。いずれにしろ、あの当時日本で流行っていたフォークソングや、歌謡曲、ロック、グループサウンズなどからはおよそ聴けなかったモダンなギターコードの新鮮な響きに夢中になった。1970年頃、そんなコードやサウンドが聞ける歌を唄ったり、演奏しているポピュラー歌手は日本には一人もいなかったと思う。

Baden Powell
長谷川きよしのリズミカルで歯切れの良いギター、特にコード奏法の大元は、やはりバーデン・パウエルだろう。私も「別れのサンバ」から始めて、その後バーデン・パウエルやジョアン・ジルベルトなど、ブラジル音楽のサンバやボサノヴァ・ギターの演奏にチャレンジするようになった。当然だが、あの時代は今のようなデジタル録音機器はもちろんなく、アナログ録音機さえカセットはおろか、高価なオープンリールのテープレコーダーしかなかった。ましてギターのコピー譜など何もなく、ただレコードを何度も何度も繰り返し聴いて、音やコードを探し、耳コピで覚えた音を、自分流に勝手に演奏していた。バーデン・パウエルの「悲しみのサンバ (Samba Triste)」など、耳コピの音符を基にして自分で譜面まで書き起こしたほどだ(その後、故・佐藤正美氏の完コピ演奏を聴いて、その正確さに驚いた。この曲は今でもYouTube上で演奏している人が結構いる)。確か『長谷川きよしソングブック』という楽譜集がその後出版されて、「夕陽の中に」のようなジャズっぽい複雑なコードの曲は、その譜面で覚えた気もする。だが、そうやって苦労して覚えた音符や演奏も、半世紀後の今はほとんど忘れてしまい、もう指も動かない…(どころか、情ないことに、近頃はギターを持つだけで重たく感じるくらいだ…)。

1970年頃、銀座ヤマハの裏手にあったシャンソン喫茶「銀巴里」で、ナマの長谷川きよしの歌と演奏を「目の前で」見て、聴いて、その歌唱の本物ぶりと、ギターのフレット上を縦横無尽に動き回る指の長さと、その動きの速さに心底びっくりし、圧倒され、感動した。長谷川きよしのサウンドとリズムは、シャンソン、カンツォーネ、フラメンコ、サンバ、ボサノヴァ、ジャズ……が一体となった、まさに「ワールド・ミュージック」の先駆で、そんなジャンル横断的な音楽を演奏する歌い手も当時の日本には一人もいなかった。それから50年後の昨年末の「ピットイン」ライヴに行ってから、これまで聴いてきた彼の曲や演奏を、あらためて聴き直してみた。当時の他のポピュラー曲の多くが、半世紀を経て古臭い懐メロになってしまった今も、「別れのサンバ」を筆頭に、長谷川きよしの楽曲の多くは色褪せることもなく、一部の曲を除けば、ほとんどが依然として「モダン」なままだ。これもまた驚くべきことである。

一般的には「黒の舟歌」や加藤登紀子との「灰色の瞳」など、長谷川きよしにしては珍しい(?)ヒット曲が有名で、テレビ出演のときにもそういう歌ばかり唄ってきた。長谷川きよしのファンは、ほとんど「コアな」ファンばかりだとは思うが、そうしたヒット曲や分かりやすい曲のファンもいれば、彼の詩や訳詞の世界が好きだという人、シャンソンやラテン系のしぶい弾き語りが好きな人、また私のようにジャズやボサノヴァ系の歌が好きなファンまで様々だろう。しかし、「変わらない長谷川きよし」を何十年にわたって聴いてきた私が、真に「名曲」「名唱」だと思う歌は、やはりほとんどが初期の楽曲で、『ひとりぼっちの詩』、『透明なひとときを』というデビュー後2作のアルバムに収録されている。たいていのシンガーソングライターは、やはりデビューした当時の音楽がもっとも新鮮で、長谷川きよし自身もそうだが、聴き手としての自分もまた、まだ若く感受性が豊かだったことや、自分でギターコピーまでしていたこともあって、なおさらそうした曲の素晴らしさを理解し、また感じるという傾向もあるだろう。しかし、CD再発やダウンロードに加え、最近はストリーミング配信にも対応したということなので、長谷川きよしの「有名曲」や新しめの曲しか聞いたことのない人にも、それ以外の「隠れた名曲、名唱」の数々を、ぜひ一度聴いてもらいたいと思っている。もちろん好みの問題はあるだろうが、とにかくこれまで日本にはおよそいなかった、素晴らしい音楽性を持ったユニークな歌手である、ということが分かると思う。というわけで、以下はあくまで極私的推薦曲である。

ひとりぼっちの詩
(1969)
アルバム『ひとりぼっちの詩』(1969年) は、若き盲目のギタリスト&歌手という売り出しイメージもあって(ジャケットもいかにもそうだ)、どちらかと言えば暗くメランコリックなサウンドとトーンで、十代の少年/青年にしか書けない、孤独、純情、夢想が散りばめられたデビューアルバムだ。「別れのサンバ」(こんな複雑なギターを一人で弾きながら、自作曲を歌える20歳は、50年後の今もいない)、「歩き続けて」(1973年の井上陽水の「帰れない二人」と並ぶ、永遠の青春ラブソング。イントロのmaj7の響きが当時としては出色)という2曲は、いまだに色あせない名曲だ。クールなボッサギターで、深い夜の孤独をしみじみと唄う「冷たい夜に一人」、同じくボサノヴァの青春逃避行ラブソング「心のままに」、さらに、おしゃれな都会風ボサノヴァ「恋人のいる風景」など、どれも未だにモダンな曲ばかりだ。

透明なひとときを
(1970)
2作目のアルバム『Portrait of Kiyoshi Hasegawa(透明なひとときを)』(1970年)は、デビューアルバムとは趣をがらりと変えて、シャンソン、カンツォーネなどのポピュラー曲のカバーに、モダンなボサノヴァのタイトル曲をはじめとする自作曲を加えた、当時の長谷川きよしの歌の世界のレンジの広さと「全貌」を伝える傑作だ。中でも「夕陽の中に」は、このアルバムに収録された「光る河」と同じく津島玲作詞のオリジナル曲で、村井邦彦のジャジーな編曲と、とても20歳とは思えない大人びたアンニュイな歌唱が素晴らしい。「透明なひとときを」も、村井邦彦のアレンジによる、当時としては超モダンなボサノヴァ曲だ。越路吹雪の歌唱で有名だったシャンソンを、ピアノ中心のジャズ風にアレンジした「メランコリー」、60年代カンツォーネの名曲「アディオ・アディオ」「別離」、サンバ調の「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」等々、いずれも当時まだ20歳の若者が作ったり、唄ったりしたとは信じられないほど本格的な歌唱で、何度聴いても素晴らしい。

コンプリート・シングルス
(1999)
長谷川きよしは、まだ十代のときに、1960年代に隆盛だったシャンソン・コンクールで入賞したことがデビューのきっかけだったほどなので、上記アルバム収録曲のほか、エディット・ピアフの「愛の賛歌」、ジルベール・ベコーの「帰っておいで」「そして今は」「光の中に」など、一部フランス語の歌唱も含めてシャンソンは何を唄っても素晴らしい。いわゆるシャンソン風の語り歌と違って、正統的、本格的な歌唱で唄い上げるのが特徴だが、ギターと美声で原曲の良さが見事に描かれる。津島玲時代を除くと共作はそれほど多くないが、1970年代には、荒井由実時代のユーミンの曲「ひこうき雲」「旅立つ秋」のカバーの他に、「ダンサー」「愛は夜空へ」など、ユーミン作詞・長谷川きよし作曲のコラボ曲があって、これらはさすがに長谷川きよしに似合う曲ばかりだ。「卒業」(作詞・能 吉利人)「夜が更けても」(作詞・津島玲)も佳曲だ。私は上記2枚のアルバムLPとCD以外は、『コンプリート・シングルズ』『マイ・フエイバリット・ソングス』などのコンピレーションCDに収録されたこれらの曲を聴いている。'00年代には、長谷川きよしを「発見」した椎名林檎とも共演し、彼女が提供した「化粧直し」もカバーした(これは椎名林檎本人の歌が、実に長谷川きよし的でいい)。

アコンテッシ
 (1993)

私が最後に買った「LP」は1976年の『After Glow』で、その頃からどこか歌の世界が、変質してきたような気がしていた。だから、それ以降80年代の長谷川きよしの歌はほとんど聴いていない(本人も一時スランプになったらしく、隠遁生活をしていた)。そして、バブル崩壊後の1993年に突然復活し、ほぼ15年ぶりに聴いて驚愕したのが、NHK BSでテレビ放映されたフェビアン・レザ・パネ(p)、吉野弘史(b)、ヤヒロトモヒロ (perc)とのユニットであり、そのメンバーで録音したのが名作『アコンテッシ』である。自作定番曲の再カバーと、ピアソラ、カルトゥーラの名曲に自作の訳詩をつけ、それらを素晴らしいユニットの伴奏でカバーしたこのアルバムこそ、初期2作と並んで、歌手・長谷川きよしの歌手としての個性と実力をもっともよく捉えた傑作だ。初期からの「バイレロ」「ラプサン」「別れのサンバ」「透明なひとときを」という名曲に加えて、岩松了作詞の新作「別れの言葉ほど悲しくはない」、さらにピアソラの「忘却 (Oblivion)」、カルトゥーラの「アコンテッシ」という3曲がとにかく素晴らしい。長谷川きよしは、この90年代半ばの再ブレイクで、再びTVやライヴで脚光を浴びるようになり、何枚か新作CDもリリースしてきた。

ギター1本で唄う長谷川きよしもいいのだが、私はどちらかと言えば、ライヴでやっていたピアノ(林正樹)やパーカッション(仙道さおり)のような伴奏陣のリズムとメロディをバックに、リラックスして、歌に集中して唄うときの長谷川きよしの歌唱がいちばん素晴らしいと思う。だから昨年も、久々に「新宿ピットイン」のドス・オリエンタレスとの共演ライヴにも出かけたのだが、期待通りで、やはり行ってよかったとつくづく思う。今年はコロナからの復活ライヴが各地で行なわれるようになって、音楽シーンもミュージシャン自身もやっと活気が戻って来たが、長谷川きよしをはじめ、70歳を過ぎたベテラン・ミュージシャンたちにとっては、限りある人生に残されていた時間のうち、貴重な3年間をコロナで失ってしまい、引退時期を早めた人も多いようだ。残念ながら4/2の京都「RAG」でのソロライヴには行けなかったが、長谷川きよしは今は地元になった京都でもライヴ活動を続けるようだし、来月以降東京、大阪でのライヴ公演も決まっているらしいので、これまで彼を未聴だった人は、ぜひ一度ナマで聴いてもらいたいと思う。