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2020/09/18

あの頃のジャズを「読む」 #8:日本産リアル・ジャズ(高柳昌行)

日本初の「モノ言うジャズ・ミュージシャン」は、孤高のジャズ・ギタリスト高柳昌行(1932 - 1991)だろう。音楽家は音だけで勝負しろと言われていた時代に、ミュージシャンが語ること、書くことは、演奏することと等価だと主張し、本こそ出版していないが、ジャズ誌などで独自の強烈なジャズ観に基づく評論やコメントを発信していた。また1960年代初め頃に、日本で初めてフリー・フォーム的演奏を提案し、またジャズ・ミュージシャンによる組織的な音楽活動も主導していたその後70年代から80年代にかけては、アヴァンギャルド芸術系と言うべき独自のフリー・インプロヴィゼーションの世界を追求し続けた。

汎音楽論集
高柳昌行 / 2006 月曜社
高柳はクラシック・ギターからスタートしているが、様々な音楽を熱心に研究し、音楽全体への射程範囲が、当時の普通のジャズ・ミュージシャンと比べて桁違いに広い。元来が現代音楽や実験的ジャズにも関心が深い前衛指向のアーティストだったようで、ジャズでは特にレニー・トリスターノの音楽を初期の頃から研究していた。1960年前後に全盛だったファンキー等大衆受けするジャズとは対極にある芸術指向のジャズを追求すべく「ニュー・ディレクション」というユニットを編成し(形態は様々)、フリー・フォームのジャズを演奏し始めていた。1960年代初め頃に金井英人(b) たちと「新世紀音楽研究所」を組織し、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」を金曜日の昼間だけ借りて、商業目的ではない前衛ジャズ試行の場にするなど、先進的ジャズ演奏家たちを理論、行動面において主導していた。山下洋輔、富樫雅彦、菊地雅章などの若手ミュージシャンたちや、批評家・相倉久人なども、そうした実験的演奏の場に加わっていた。ジャズ・ミュージシャンによるこの種の組織形成は、米国で1960年代半ばにビル・ディクソンたちが行なった作曲家集団の活動(Jazz Composer's Guild) の何年も先を行く画期的な動きだった。1969年には、批評家・間章たちと闘争組織JRJE(日本リアル・ジャズ集団)を設立して、日本独自のフリー・ジャズを本格的に追求し始める2006年に曜社から出版された、高柳が書いた主要な文章や発言を編纂した『汎音楽論集』という本は、1950年代半ばから80年代にかけて、一人の前衛的日本人ジャズ・ミュージシャンが何を考え、何を目指して行動していたのか、その個人史をほぼ時系列で辿ることのできる貴重な本だ。それを読むと、高柳昌行という人が、自身の厳格なジャズ哲学を誰よりも「声高に発信」し続けた、日本人としては非常に珍しいタイプの音楽家であったことがよく分かる。

1968 「スイングジャーナル」広告
『汎音楽論集』より
高柳がまだ23歳だった1955年(昭和30年)の、いソノてルヲとのインタビュー記事から始まり(その年のチャーリー・パーカーの死去にも触れている)、1984年までの30年間に「スイングジャーナル」、「ジャズ批評」、「ジャズライフ」などのジャズ雑誌や音楽誌に掲載された記事、インタビュー、ディスク・レビュー、教則本解説その他のテキストからなるこの本では、最初から最後まで高柳の強烈な音楽観、ジャズ観に基づく「正論」が続く。一貫して伝わってくるのは「反商業主義」というべき音楽思想である(エンタメ全盛の現代ではもはや想像しにくいが、芸術を利用してビジネス=金儲けをするなという思想で、70年代までの音楽の世界では、一定の支持を得ていた)。時に激しい語調で、また(昭和一桁生まれなので)古風な文体でジャズの本質を語り、まさに「武士道」を思わせる「ジャズ道」のごとき厳格な哲学と思想が述べられている1960年代から主催していたギター私塾には、渡辺香津美や廣木光一などのジャズ・ギタリストも通っていて(どれくらいの期間かは不明)、1979年にその一人となった大友良英が、当時の高柳の印象や指導方法を振り返る記事を読んだことがあるが、まさにこの本で語られている通りの内容だ。フュージョン全盛の70年代後半あたりだと、師と弟子たちの実際の音楽観は相当かけ離れていたのではないだろうか。高柳的見地からすると、「楽しけりゃいいじゃん」とかいうような浅薄な音楽の世界など論外で、語る価値すらないと問答無用に切り捨てられたことだろう。

Not Blues
1969 Jinya
私が高柳昌行を知ったのは、ギター音楽が好きだったことと、70年代のトリスターノの音楽渉猟を通じてだ。だから持っている高柳のレコードも、60年代末と70年代末のトリスターノ的演奏を収めたレコードだけで、70年代以降のノイズやフリーの大半の録音もライヴ演奏もほとんど聴いていないので、高柳の音楽全体を語れるような立場ではない。しかし1969年の『Jazzy Profile of JoJo』、『Not Blues』、79年の『Cool-JoJo』、『Second Concept』など(JoJoは高柳のニックネーム)、トリスターノ的(ビリー・バウアー的)フレイバーを持ったレコードは、実にモダンでクールなジャズギターで、当時の一般的ジャズギターとは違った味わいがあるので今でも愛聴している。高柳はジャズのみならず、あらゆるギター奏者のレコードを聴き、サウンド、リズム、フレージング、左手運指、ピッキング、右手指弾などの奏法を分析(アナリゼ)しており、ジャズでは、チャーリー・クリスチャンは別格として、ガボール・ザボ、ジミー・レイニー、ジム・ホール等を高く評価している一方、ウェス・モンゴメリーやジョージ・ベンソンのように、ポップやフュージョン系に移行した奏者は、当然ながらこきおろしている。ブルースに依拠していない非黒人で、独自のサウンド・アイデンティティを持つ奏者(つまりは自分が目指していたギタリスト像)を評価していたのだろう。

April is the Cruelest Month
1975
本書を読んだ限り、高柳昌行という人は、基本的に出自が芸能であるにもかかわらず、ビバップ以降「芸能と芸術」という2面性を持つようになり、だがそのアンビバレンスこそが西洋音楽にはない魅力だったジャズという音楽の芸能的側面は一切評価せず、芸術面にしか価値を置かなかったようだ(それを「リアル・ジャズ」と呼んだ)。芸能とは所詮は商業主義と同根であり、金儲けばかりを考えている「思想なき音楽」など音楽ではないと断じ、大衆的な音楽(演歌や民謡も)を見下し、芸術を至上のものとする思想を徹底していた(ある意味、唯我独尊オレ様系ジャズの信奉者だったと言える)。だから自分のジャズ思想とは相容れない、あるいはそれが理解できない音楽界の他の立場(レコード会社、演奏者、批評家、聴衆など)に対しては、かなり激烈な批判を繰り返していたようだ。たとえば、本書に掲載されている70年代初め頃の高柳の歯に衣を着せないディスク・レビュー(「スイングジャーナル」誌)は、まさに文体、内容共に他に類を見ない読み物になっていて、ある意味で痛快だが、すべてその独自の音楽観、ジャズ観をモノサシにして容赦なくレビューしている。いくつかの海外有名ミュージシャンのレコードも一刀両断に切り捨てており、当時よく雑誌掲載できたものだとびっくりする(あるいは当時だからこそ、まだ掲載できたのか)

しかしながら、あの当時の高柳昌行の主張の根底にあったのは、そもそも黒人でもない(=ジャズに何らのルーツも持たない=ブルース衝動を欠いた=Not Blues)日本人が、「プロフェッショナル音楽家」として真摯にジャズに取り組むとしたら、スタイルや雰囲気といった表層的な「モノマネ(芸能)」ではなく、全人的鍛錬を通して芸術としての音楽足りうる独自のジャズを極めることに挑戦する以外に方法がないではないか――というプロ演奏家としてのアイデンティティを問う、きわめてストイックな哲学だろう。そしてもう一つは、「芸術としてのジャズ」の根幹とその優劣は「インプロヴィゼーション」そのものの質にしかない、という強固なヴィジョンだ(この点では、演奏者の人種も国籍も問わない)。ジャズの存在意義も、音楽として目指すべき究極の目標と価値も最高度のインプロヴィゼーションにある、というこの芸術至上主義的思想は、同じくジャズに直接的ルーツを持たない白人だったレニー・トリスターノ(や初期のリー・コニッツ)が抱いていたジャズ観と実は同じであり、畢竟、商業主義とは無縁の音楽に価値を置き、自らもそれを追求することになる。

Lennie Tristano
1956 Atlantic
高柳はジャズのみならずあらゆる音楽に精通し、詳細に研究していたが、セシル・テイラーにも影響を与えた初のフリー・ジャズ実験者ということも含めて、初期の頃から芸術家としてのレニー・トリスターノとその音楽を高く評価していた(心酔していた、に近い)。本書収載の1975年の「スイングジャーナル」誌レビューでも、<20年先を思索する音楽家>として、その20年前のトリスターノのレコード『Lennie Tristano』(1956) の演奏をレビューし、トリスターノ派ミュージシャンたちの音楽造形と高度なインプロヴィゼーションを称賛しているまた「ニュー・ディレクション」というフリー・ジャズ系ユニットとは別に、70年代末にはトリスターノ派の音楽を追求する「セカンド・コンセプト」というカルテットを立ち上げ、『Cool JoJo』など上記2枚のレコードも録音している1975年になってから発掘された、1953年録音の演奏<メエルストルムの渦>で、既に完全な無調フリー・ジャズを、ピアノによる「一人多重録音」で挑戦していたトリスターノが高柳に与えた影響も大きかったように思う。晩年に一人で挑戦したメタ・インプロヴィゼーションも、このトリスターノの実験からインスパイアされた可能性があるだろう。(高柳昌行のトリスターノについてのコメントと演奏レコードは、2017年5月のブログ記事「レニー・トリスターノの世界#3」もご参照)

「モダン・ジャズ」が、芸能 / 芸術、情動 / 理性、アフリカ的 / 西洋的、土着的 / 都会的……という「融和しえない2面性」を宿命的に内包し、だがそのアンビバレンスこそが魅力の音楽だと仮定するなら、それら両面を高度にバランスさせた音楽こそが真にすぐれたジャズだろうと私は考えているが、一方で、ひたすら芸能側に走る立場(商業主義)もあれば、その対極の芸術至上主義というもう一つの究極の立場も当然あるだろう。とはいえ70年代前半までのジャズと、当時は一見反体制的だったロックを含めた他のポピュラー音楽とのいちばんの違いは、「金の匂いがしない音楽」という、ある種ストイックなイメージをジャズが持っていた点にあったことも確かだ(フュージョン、バブル以降はそれも失う)。その実態がどうだったかはともかく、私がジャズという音楽を好ましく思ったのも、金にならない音楽に人生を捧げるジャズ・ミュージシャンたちをずっと尊敬してきたのも、それが理由の一つだ(反商業主義とは、いわば音楽への「ロマン」がまだ存在していた時代の産物である)。だが、いつの時代も、普通のジャズ音楽家はそれでは生きていけないので、この中間のどこかで現実と折り合いをつけて妥協するか、あるいは山下洋輔のように、意を決してそれを止揚すべく、ジャズ固有のコンテキストの中で「自分たちのジャズ」というアイデンティティをとことん追求するかなのだろうが、高柳が選んだ道は、最後まで自らの信じる「芸術としてのリアル・ジャズ」を極めることだったようだ。

1980年代初めに高柳は一度病に倒れ、ジャズそのものを取り巻く状況の変化もあって、インタビューでの発言なども多少ボルテージが下がり、当然だが70年代までのような過激さも薄まっている。その頃には、黒人、白人、日本人といったエスニシティを一切捨象し、ジャズというジャンルすら超えた純粋芸術としてのインプロヴィゼーションを追求するコンセプトがより濃厚となっていたようだ。そして晩年には、テーブル上に横に寝かせた数台のギターと音響機器を組み合わせて、ソロ演奏で電気的大音響(轟音)を発生させる「メタ・インプロヴィゼーション」、さらに「ヘヴィー・ノイジック・インプロヴィゼーション」という形態にまで到達する。こうして1991年に亡くなるまで、生涯をインプロヴィゼーションに捧げた高柳昌行は、日本の音楽界では終生アウトサイダーのままだったが、その死後、日本における真の「前衛アーティスト」として海外では高く評価され、高柳によるノイズ・ミュージックに対して「ジャパン・ノイズ」という呼称まで提唱されたということだ

高柳昌行の音楽思想と人生は、ピアノとギターという違い、トリスターノが盲目だったという身体的違いを除けば、私にはトリスターノのそれとまさにダブって見える。モダン・ジャズは、音楽的緊張(テンション)と弛緩(リラクゼーション)の双方が感じられるのが魅力の音楽であり、聴衆側の嗜好もそのバランスに依るとも言えるが、トリスターノの音楽も高柳の音楽も、その多くが聴き手にもっぱら緊張を強いるという点で同質だろう。調律の狂ったピアノが置いてあり、高度な芸術を理解も評価もできない酒飲みの客だけが集まる享楽的なクラブでの演奏を嫌がり、ジャズ業界の商業主義や他のミュージシャンに対する厳しい批判を繰り返し、自らは高踏的な音楽を追求し続た結果、実人生では音楽家として生涯報われなかったトリスターノの人生のことも高柳はよく承知していた。トリスターノ自身やトリスターノ派のミュージシャンたちと同じように「私塾教師」という仕事を続けたのも、その「覚悟」があったからなのだろう。大友良英は、晩年の高柳と衝突して1986年にの元を去ったということだが、これなども、まさにトリスターノとリー・コニッツという師弟訣別のエピソードを彷彿とさせるような逸話である。


夫唱婦随と言うべきか、高柳夫人による『汎音楽論集』巻末の「あとがき」は、まるで高柳昌行自身が語る言葉をそのまま代弁しているかのようである。夫を最後まで支え続けた数少ない盟友への謝辞中で、たとえば支持者だった内田修医師やフリー・ジャズ・ライターの副島輝人は分かるが、渡辺貞夫の名前も挙げられているのが(素人目には)意外だった。目指した音楽の方向は途中で分かれても、同世代であり、長い年月にわたり、互いに日本のジャズ界を背負ってきた同志ということなのであろう。