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2023/03/04

BRUTUS「JAZZ is POP !」を読む

雑誌「BRUTUS」3月1日号の特集「JAZZ is POP!」を読んだ。良くも悪くも、まさに現代のジャズシーンをそのまま表しているタイトルで、新進からベテランのミュージシャン、批評家など多彩なメンバーが現代のジャズとポップスの関係を語っている。私の近刊訳書『カンバセーション・イン・ジャズ』の監修・解説をお願いしたミュージシャン&批評家の大谷能生さんも、興味深い一文を寄稿している(「JAZZの100年を一気読み。」)。19世紀西洋絵画の歴史と対比するという独自の視点で、ジャズの総体と、現代の「ポップ化」に至る歴史的変遷とその意味・背景を解説しているが、この号のタイトルからすると、マクロな視座でジャズの変容を分かりやすく伝えるこの一文こそ「巻頭」に置くべき文章ではないかと思った(ジャズ誌ではないので、仕方ないか)。分野によらず、重箱の隅をつつくような細かな断片情報ばかりが目立つ現代日本で、こうした視点でジャズという音楽全体を俯瞰し、相対化できる批評家はもう少ないと思う。私の訳書の監修・解説をお願いしたのもそれが理由である。

1960年代にモードを手にして芸術の域に達し、一方、当時の政治状況を反映して難解さと抽象度を増したフリージャズで自己解体してしまったかのようなジャズが、その「反動」で、最初に「ポップ化(=大衆化)」したのは世の中が穏やかになった1970年代である。主導したのはもちろん60年代末のマイルス・デイヴィスの電化ジャズであり、その弟子筋のハービー・ハンコックのファンクや、チック・コリア、ウェザーリポートなど、ジャンルをミックスしたようなジャズが続々登場し、その後70年代半ばから「フュージョン」として本格的に大衆化した時期がそれだ。同じ頃デューク・エリントンが亡くなり、マイルスが一時引退し、モンクも引退し…という史実が象徴するように、それまで隆盛だった「モダン・ジャズ」は、ここでほぼ30年の進化の歴史を終える。しかし、この時点から80年代末までは、それまでの余韻とウィントン・マルサリスの登場などもあって、ポップ化したものの、まだ主がジャズであり従がポップス側という「イメージ」が世の中的にも成り立っていた。特に日本では、バブルに向かっていた好景気が、ジャズ=高級=大人の音楽という従来のイメージを支え、ジャズクラブの隆盛に見られたように、聴き手も音楽市場もそれをエンジョイしていたからだ。

Roy Hargrove
The Vibe (Novus, 1992)
しかし日本のバブル崩壊と時を同じくして、1990年前後にマイルス・デイヴィス、アート・ブレイキー、スタン・ゲッツなど、20世紀最後のジャズアイコンが相次いで消え、それと共にジャズとポップスが主客転倒してゆくのが90年代からである。ロイ・ハーグローヴという人は、ちょうどその端境期に登場したトランぺッターで、彼を見出したウィントン・マルサリスがモダン・ジャズに引導を渡し、どっぷりと古いジャズ側(博物館)に回帰して行ったのに対し、ハーグローヴはモダン・ジャズの香りをまだ残しつつ、重心はR&B、ヒップホップなど、既に21世紀のジャズ側に移行している非常にイキのいい斬新なアーティストだった。だから私にとって「20世紀最後のジャズマン」は、ロイ・ハーグローヴであり(もう一人はサックスのジェイムズ・カーターだった)、「ブルーノート東京」で90年代に見た、まだ20歳代のやんちゃなハーグローヴのライヴの記憶は、今思えば、あたかもモダン・ジャズの「フィナーレ」のようだった。現代のジャズを代表するアーティストの一人であるロバート・グラスパーと、そのハーグローヴの関係を今号の「BRUTUS」で知って、なるほど、と合点がいった。しかし、そのハーグローヴも2018年に49歳という若さであっさり亡くなってしまった。

現代は、20世紀のようにジャズが越境してポップス側を徐々に「侵食している」という構図ではなく(これは昔ながらのジャズ側からの視点だ)、資本の論理がより強まって、巨大化したビジネスになったポップス市場全体にジャズが呑み込まれ、その内部で攪拌され、希釈され、分解し、細かな「ジャズ粒子」となって拡散しながら、現代のポップス全体に溶け込みつつある、というイメージではないかと思う。20世紀はじめに音楽的進化をほぼ終えた西洋クラシック音楽が、完成されていた和声の基本体系を提供して、100年前にジャズの生みの親の一人になったわけだが、これを歴史的に見れば、ジャズとは「クラシックのポップ化」の一環として生まれた音楽だった、とも言えるだろう。近年のクラシック音楽のさらなるポップ化ぶりはすさまじいものがあるが、続いてその子供であるジャズもまったく同じ道を歩んでいるとも言える。21世紀における音楽のポップ化とは、ある意味で、現代資本主義が20世紀までの芸術を食いつぶす過程、すなわち20世紀までの純粋芸術解体プロセスの一環なのである。

amazonジャズ書籍の
独走ベストセラー本

「ジャズのポップ化」を牽引しているのは消費側(聴く側)だけではない。ジャズ誌「スイングジャーナル」が休刊して10年以上経つが、今やジャズ界で隆盛なのは「聴き手側」の情報誌よりも「演奏者側の本」で、ジャズ理論だけでなく、ギターを筆頭に、ピアノ、サックス、ドラムス、ベースなどの教則本、楽譜、奏法解説など、昔は考えられなかったほど多種多様な楽器別のジャズ誌や本が増殖している。この基調を形成し、それまでの「聴くだけ」のファンでなく、ジャズを「演る」ことの面白さに若者を目覚めさせたきっかけの一つが、出版物にまだ力があった15年ほど前、’00年代半ばの菊地成孔、大谷能生両氏による、ジャズの歴史と理論を「ジャズ演奏者側」の視点で初めて語った一連の著作(マイルス、バークリー、東大アイラ―本)にあることは間違いないだろう。その後2013年から連載が始まり、「BRUTUS」今号にも特別掲載されている、若き主人公がミュージシャンとして成長する姿を熱く描く、ジャズ系スポ根(?)漫画『ブルージャイアント』も、その流れを強めたことだろう。つまり、ジャズを演奏する側の数が昔に比べて圧倒的に増えたが、彼らは当然ながら聴く側の人でもあり、結果として、聴き手のジャズや楽理に関する知識も昔とは比べられないほど高度化しているということでもある。毎年日本各地で開催される「ジャズフェス」の数の多さには本当にびっくりするが、加えて、蕎麦屋やラーメン屋やファミレスやショッピングセンターで、BGMとして流れる「匿名ジャズ」が当たり前になったように、ジャズの音楽としての垣根も低くなり、日常生活の中で普通に聞こえてくる音楽になった。こうして感覚的にも、日本人全体のジャズ・リテラシーが大幅に高まって、ポップ化を加速しているのだろう。

今や何をもって「ジャズ」と呼ぶのかもはっきりしなくなり、そう呼ぶことにいったい意味があるのか、という疑問さえ湧いてくるのが現代の日本の音楽シーンだ。印象からすれば、「ジャズ」とも呼べるし「ポップス」とも呼べるような「ジャズっぽい音楽」が急増している、という表現がいちばんしっくりと来るが、それをジャズ目線で俯瞰的に見れば、常に時代と共に変容してゆくジャズという音楽の、「現時点の姿」にすぎないとも言える。とはいえ、たとえジャズそのものがどう変化しようと、聴き手側 も「同時に」変化してゆくのは困難なのだ。たとえば、20世紀半ばの「黄金期のモダン・ジャズ」(=ジャズという音楽の基本モデル)を同時代の音楽として聴きながら青春時代を送った人たちにとっては、それがデフォルトであり、「ジャズ」とは今でもその時代における意味、感覚、体験を喚起する具体的言語であり音楽なのだ。それ以前のスウィング・ジャズも、後のフュージョン世代もそこは同じだ。これは、「生きた時代」 が違うのだから仕方がない。音楽を聴くということはきわめて個人的な体験であり、いつの時代も、感受性がいちばん豊かな青年期に、いちばん感銘を受けた音楽は無意識のうちにその人の身体の奥深くまで浸透し、人は生涯それを忘れることができないからだ。それが音楽の持つ力であり、音楽と人間との関係というものだろう。つまり、音楽は「その時代の聴き手」を選ぶということである。

60歳、70歳になっても、現在進行形の新しい音楽に関心を持ち、それを鑑賞し批評できる感性を持ったスーパー中高年(&老人)も中にはいるだろうが、基本的に 「contemporary (同時代の)音楽」 の主役は常に若者であり、いつの時代も若者の感性だけが新たな魅力を持ったその時代のアートを 「発見」 してきたわけで、年寄りにはその能力も出番もないと思った方が賢明だろう。若者は今現在と未来に生き、先の短い年寄りが過去を振り返るのは人間として当たり前のことであり、世の中はそれがうまくバランスすることで健全さを維持してきた。だから、一時期のように(「ど・ジャズ」と呼んで過去の音楽をバカにしたり、反対に(「あんなモノはジャズじゃない」と言って)現代の音楽に価値を認めないといった、世代を対立させ分断するような不毛な議論ではなく、ジャズという、ひと繋がりの長く、深く、幅広い歴史を持った音楽を愛する聴き手として、互いに補完し合い棲み分けることが可能なのだ、という認識が大事だと思う。

「21世紀のポップス」とは、ある意味で、クラシックやジャズという近代芸術音楽の集大成ともいうべき要素と構造と技術から成る非常に「高度な音楽」であり、21世紀のポップスの聴衆も、それらを苦も無く楽しめるほどの音楽的感性とリテラシーを備えた人たちだと言うこともできるだろう。音楽を構成する素材とアイデアは、20世紀までに、もうあらかた出尽くした感があるので、たとえテクノロジー面での 「進化」 は続いても(AIやコンピュータが生み出す音楽なども含め)、21世紀の音楽そのものにあるのは 、 完成した部品の新たな組み合わせで得られる「変化ないし多様化」 だけではないだろうか(大谷さんは、それを「リ・デザイン」と呼んでいる)。伝統的に、外国からやって来たものを何でも取り込んで「日本化」 してしまうのが得意な我が国でも、現在のJ-POPの音楽的進化(作曲者、演奏者、聴衆)を見ていると、ジャズ側の延長線上というよりも、むしろ大衆音楽としての 「J-POPという総体」の中から、やがて日本独自の音楽とジャズが融合した、真の「J-JAZZ」と呼ぶべき新たな音楽ジャンルが生まれて来るのではないか、という予感さえする。今号の「BRUTUS」にはそれを感じさせる星野原さんも登場しているが、ジャズの技術や要素を自然に取り入れた近年のJ-POPのサウンド、それを演奏する一部アーティストの洗練ぶりは、まさに世界レベルだと思う。むしろJ-POPこそが、日本ジャズ独自の進化系だと思えるほどで、この音楽は21世紀の今後に向かってさらに進化してゆく可能性を秘めていると思う。

100年前にアフリカ、ヨーロッパ、カリブ海からの様々に異なる音楽的、文化的、社会的要素が混淆、融合して北米のニューオーリンズという場所で偶然生まれ、その後米国の発展と繁栄を背景に世界中へと拡散していった「 JAZZ と呼ばれてきた音楽」が持っている最大の特質は、やはり「雑種のDNA」なのだろう(つまり、この音楽はアメリカという国家そのものだ)。「ジャズは死んだ」と何べん宣告されても、どっこいどこかでしぶとく生き残っていく強靭さがその象徴なので、以前は「ゾンビ」 のような音楽だと思っていたが、最近はやはり「雑種」という出自が、その生命力の源なのだとあらためて思うようになった。アメリカ生まれのどんな音楽も、ある意味で雑種と言えるが、ジャズの持つ「雑種性」 はそのスケールと深度と多様性が違う。それゆえその本質が固定した枠組みに縛られず(自由)、一箇所、一ジャンルに留まらず(越境)、状況 に応じて自在に変化し、膨張を続ける(変容)――という類を見ない音楽になったのだろう。今や空気のように当たり前に存在し、時代に応じて変化し続けるこの音楽がこれからも「JAZZ/ジャズ」と呼ばれるのかどうかは分からない。しかし、20世紀に北米の一地方で起きた音楽上の化学反応と同様のことが、21世紀にはおそらく世界的規模で、地球上のどの地域でも起こり得る、あるいは既にそれが起きつつあるのは確かだと思う。その音楽が、名称はともかく、やがて「21世紀のジャズ」となるのだろう。