ページ

2018/10/27

ジャズ・ギターを楽しむ(1)ガットギターの美

ジャズ・ギターの場合、使われるのは昔も今もエレクトリック・ギターがほとんどだ。生ギターの音は小さいので、アンプで音を増幅しないと、ピアノやホーンといった他の楽器と音量的に対等なセッションができないことが理由で、チャーリー・クリスチャン以来、ジャズ・バンドで演奏されるのはすべてエレクトリック・ギターである。ジャズのセッションで使われるピアノやギターは、基本的にコード楽器としての役割が強いこともあって、たとえば前項のジャッキー・マクリーンのようなメロディを担当するホーン奏者のように、一音聞いただけで、誰が吹いているのかわかる、というようなミュージシャンの個性を感じ取るのが難しい。もちろんメロディ・ラインだけでなく、コードワーク、リズム、フレージングを組み合わせたサウンドで個性を表現するので、より複雑だという理由もある。しかし1960年代までのジャズには、エレクトリック・ギターといえども、こうした個性のある奏者がいた。古くはタル・ファーロウ、そしてもちろんウェス・モンゴメリー、白人でもジム・ホールやパット・マルティーノのような人たちは、ホーン奏者と同じくらいサウンドの個性が際立っていたので、ワン・フレーズで誰の演奏かわかったほどだ。70年代以降ロックからの影響やフュージョンが台頭して、ジャズ・ギター奏者の数が激増し、生音増幅だけではなくアンプによるイフェクトも多彩になると、ジョン・スコフィールドやビル・フリゼールのような人たちを除いて、音色やフレージングだけで誰の演奏か聞き分けるのが簡単ではなくなる。音だけでは誰の演奏かわからない、という没個性分野になっていったのである。とはいえ、これはギターに限ったことではなく、1970年前後のマイルス・デイヴィスによるサウンドの電化と、集団即興演奏というコンセプトが支配的になってから、自由な個人による強烈な個性がジャズとジャズ・ミュージシャンたちから徐々に薄れて行く、というジャズ史的、あるいは社会史的時代背景もあるだろう。

I Remember Charlie Parker
Joe Pass (1979)
ところで、ジャズでも完全なアコースティック・ギターを使うことがあるが、ラルフ・タウナーのように主としてスチール絃を張った系統のギターと、ナイロン弦(大昔はガットー羊の腸)を使った普通はピックを使用しない、いわゆるガットギターがある。響きと余韻はスチール絃やエレクトリック・ギターに比べてずっと控え目だが、アコースティック・ギター本来の、木の柔らかく繊細な音が聞こえて、曲や演奏によっては「ならでは」のジャズの世界が楽しめる。ガットギターは、アール・クルーなどフュージョン以降はジャズでも時々使用されるようになったが、音量が小さいだけでなく、音が持続しない、という欠点を補うためにアンプ増幅されているのが普通だ。バーデン・パウエルやルイス・ボンファのようなサンバ、ボサノヴァ系、チャーリー・バードやローリンド・アルメイダなどのジャズ・ボッサ系は基本的には生のガットギターだが、フュージョン以外のいわゆる伝統的なモダン・ジャズでガットギターを使った例は非常に少ない。私はガットギターの柔らかく温かい(時にクールだが)音色が好きで、ジャズ・ギター好きでもあるので、昔からガットギターを使ったジャズ・レコードを探してきたが、一部の曲で使うという例はあっても、アルバム全部がガットギターという盤は数が非常に少ない。アンプ増幅を使わない生のガットギター・ジャズは、音量的にセッションは無理で、クラシック・ギター的に普通は一人で、それもスタジオで作り込むソロ演奏しかないだろう。ピックを使わない指弾きでジャズを演奏するとなると、ガットギターの構造上、複雑なコードの押さえ、運指、右手(指)の使い方に高い技術が必要で、ごまかしがきかないので、ジャズ・ギター奏者なら誰でも弾けるわけではない。しかし、ナイロン弦が柔らかく響くそのジャズ・サウンドは、内省的で、繊細で、非常に美しいものが多く、クラシック・ギター音楽や、エレクトリック・ギター、スチール弦のアコースティック・ギターによるジャズにはない、独特の美の世界を持っている。

Songs for Ellen
Joe Pass (1994)
そういうわけで、数少ない「ガットギターの美が聞けるジャズ」という条件を満たした、私の好きなレコードをこのページに何枚か挙げてみた。ジャズでソロ・ギターと言えば、まずはジョー・パスだが、ジャズ・スタンダードをガットギターによるソロで弾いたジャズ・ギタリストも、私が調べた範囲では、ジョー・パスが最初のようだ。パスは1979年に、最初の全編ガットギターによるソロ・アルバム『I Remember Charlie Parker』(Pablo)を吹き込んでいる。これは70年代のパス畢竟のソロ名演 “Virtuoso” シリーズを何枚か出した後、チャーリー・パーカーの『With Strings』に収録された名曲を、ジョー・パス流解釈とテクニックで、見事にガットギターで弾き切ったアルバムだ。

Unforgettable
Joe Pass (1998)
その後ずいぶん経って、病気で亡くなる2年前の1992年にソロ・アルバム『Songs for Ellen』(Pablo 1994)を録音している。同日録音した他の演奏も『Unforgettable』(Pablo)というアルバムに収録され、パスの没後1998年にリリースされた。若き日のスウィンギングなジョー・パスのジャズ・ギターはどれも素晴らしいが、晩年になったこの時期の、ナイロン弦ギターによる枯れたソロ演奏は実に味わい深い。もともとギターのナチュラルでアコースティックな響きを好んだジョー・パスは、後期になると益々アンプ増幅を抑えて、ギターのボディの響きをより聴かせる演奏が増えたように思う。そしてこの『Songs…』と『Unforgettable』では、ついにいずれもガットギターによる静謐なソロ演奏だけでアルバムを構成した。この最晩年の、ジャズ・バラードを中心とした2枚のCDは、どの曲も慈しむかのように柔らかく、優しく、病んだ当時のパスの心象を表すかのように、ガットギターの繊細な響きがしみじみと伝わってくる素晴らしいソロ・アルバムである。

So Quiet
廣木光一、渋谷毅 (1998)
ガットギター・ソロでは、パット・メセニーのバリトンギターのソロ『One Quiet Night』2003)や、日本人では渡辺香津美のソロ『Guitar Renaissance』(2003)もよく聴く。いずれも達人の技が堪能できるアルバムだが、私にとって20年来の愛聴盤は、なんと言っても廣木光一の『Playin’ Plain』(1996)だ。残念ながらもう入手できないようだが、ガットギター・ソロでジャズ・スタンダードに挑戦するという、ジョー・パス以来の素晴らしくユニークな演奏が収められている(もちろん伝統的なパスの演奏とはまったく違う、ずっとアブストラクトなサウンドだが)。初めて聴いた時には、ガットギター・ソロで、しかも「本気で」弾いているジャズにびっくりし、また感動もしたが、廣木光一の師があの高柳昌行と知ってなるほどと思った。

Bossa Improvisada
廣木光一(2007)
もう1枚は、ソロではなく廣木光一と、ジャズ・ピアノのベテラン渋谷毅によるガットギターとピアノのデュオ『So Quiet』(1998 BIYUYA)である。こちらのアルバムは、上記ソロ盤のようなジャズ的厳しさよりも、美しく、またリラックスした音の世界であり、気持ちの良いアコースティックな響きにひたすら浸ることができる。曲は<Over the Rainbow>などのスタンダード6曲、廣木、渋谷のオリジナル4曲の計10曲。『So Quiet』というタイトルが表しているように、昼とは打って変わった、深い静寂に包まれた都会の夜を彷彿とさせる音楽である。2人はコンビで最近も新作『五月の雨』(2018)を発表し、ライヴ活動も行なっている。もう1枚の廣木光一のソロ『Bossa Improvisada』(2007 BIYUYA) は、ジャズ側からのボサノヴァ・ソロ・ギターへのアプローチで、佐藤正美の弾くボサノヴァ・ギターとは異なるジャジーな味と美しさがあって、私的にはこれも非常に楽しんでいる。(しかし廣木さんのCDは、私家録音なのか、気づくとカタログから消えているのが残念だ)。

Pao
Eugene Pao (2001)
ソロではなく、ジャズ・コンボでガットギターを弾く場合は、普通はアンプを通すが、それでもナイロン弦の湿度感のある柔らかな響きは楽しめる。ジョン・マクラフリンが、ビル・エヴァンスの曲をガットギターとベースだけのアンサンブルで演奏した耽美的レコード『Time Remembered』(1993 Verve)もあるが、これはクラシカルで美しすぎて、私的にはジャズを感じない。ここに挙げたアルバム『Pao』(2001 Stunt) は、ユージン・パオ(Eugene Pao 1959-) という、日本では多分ほとんど知られていない香港生まれ北米(アメリカ、カナダ)育ちのコンテンポラリー・ジャズ・ギタリスト(と呼ぶのだろう)のカルテットによるリーダー作だ。デンマークのマッズ・ヴィンディング(b)のトリオ(アレックス・リール-ds、オリビエ・アントゥヌス-p)との共演盤である。全9曲のうち6曲がナイロン弦のガットギターによる演奏で、マッズの勧めによってアコギの選択になったそうである(ただしピックを使用している)。聴けばわかるが比較的クールな奏者なので、ナイロン弦アコギによる演奏が資質にピタリとはまって(マッズはそれを見抜いたのだろう)、特にウェイン・ショーター作の<Infant Eyes> や、<Blame It on My Youth>、<My Foolish Heart> などの古いバラード曲の演奏は、ナイロン弦の響きが曲調と合っていて、私的には非常に気に入っている。ヨーロッパ録音なので音も非常にクリアで、共演のオリビエ・アントゥヌスのピアノも、パオのガットギターの響きも余韻も非常に美しい。(ただし、今はこのCDも入手が難しいようだが)

2018/10/06

忘れ得ぬ声 : ジャッキー・マクリーン

なぜか時々無性に聴きたくなるジャズ・ミュージシャンがいる。サックス奏者ジャッキー・マクリーン(Jackie McLean 1931-2006) もその一人だ。私はマクリーン・フリークというほどではないが、一時期マクリーンに凝って、いろいろアルバムを聴き漁ったことがあり、当時集めたLPCDもかなりの数になっている。時々、PCに入れたマクリーンのアルバム音源を連続して再生していると、懐かしさもあって、つい時の経つのを忘れるほど楽しい。親しかった昔の友人と久々に会って、話を聞いているような気がするからだ。もう亡くなってしまった昔の知人や懐かしい友人たちは、顔も思い出すが、むしろ記憶している "声" の方が、いつまでも生々しく聞こえてくるように思う。マクリーンの場合、特にそう感じるのは、ややピッチが高めで、哀感を感じさせる、かすれたアルトサックスの音色、粘るリズムとフレーズ、演奏の中から聞こえてくるブルース……それらが一体となってマクリーンにしかない個性的サウンドを形作っているのだが、それが単なるサックスの音というより、“人間の声” のように感じさせるせいだと思う。同じチャーリー・パーカーのコピーから始めても、ソニー・スティットのような名手をはじめとした他のパーカー・エピゴーネンとは違う、マクリーンにしかないその "声” が、技術の巧拙を超えて、どのアルバムを聴いても聞こえてくる。アルトサックスではリー・コニッツもそうだが、これはジャズではすごいことで、それこそがジャズ音楽家の究極の目標の一つと言ってもいいくらいなのである。マクリーンのアルトで有名なアルバムと言えば、日本ではまずはソニー・クラークの名盤『Cool Struttin’』(Blue Note 1958)、それにマル・ウォルドロンの『Left Alone』Bethlehem 1960)が昔から定番だ。どちらも出だしの一音でマクリーンとわかる、これぞジャズというそのサウンドには忘れがたいものがある。

マクリーンの公式な初録音は、20歳のとき1951年のマイルス・デイヴィス『Dig』(Prestige)参加で、その後毎年のようにマイルスのBlue NotePrestige等のレコーディング・セッションに参加していた。初リーダー作となったのは、ハードバップの時代に入り、ドナルド・バードのトランペットも入った2管の『The Jackie McLean Quintet-The New Tradition Vol.1』1955 Ad-Lib/Jubilee)だ。私はこのアルバムが大好きで、McLean(as)Donald Byrd(tp)Mal Waldron(p)Doug Watkins(b)Ronald Tucker(ds) というメンバーによる演奏は、マクリーンもバードも含めて、ほぼ全員が20歳代の新進プレイヤーたちの気合を象徴するように、粗削りだがアルバム全体が溌溂かつ伸びのびとしていて、どの演奏もエネルギーに満ちているので、聴いていて実に気持ちが良い。ここでのマクリーンは、既にして個性全開ともいうべき鋭いフレーズと独特のサウンドを展開しており、ドナルド・バードの流れるようなトランペット・ソロ、初期のマル・ウォルドロンのアブストラクト感のあるピアノ、ダグ・ワトキンスの重量感のあるベースなど、どのプレイも楽しめる。特にマクリーンとバードの2管の相性は良いと思う。アルバム冒頭の<It’s You or No One>が聞こえてきた途端に、全盛期のモダン・ジャズの空気が流れ、マクリーンのあの “声” に何とも言えない懐かしさがこみあげて来る。私的に大好きな演奏The Way You Look Tonight>、マクリーンが書いたジャズ・スタンダード<Little Melonae>の初演、最後にはマクリーンのアイドル、チャーリー・パーカーへのオマージュとして、バラード<Lover Man>も入っている。初代レーベル(Ad-lib)は猫のジャケットだが、この2代目(Jubilee)の面白いデザイン(フクロウ?)も、本アルバムの若さと爽快感がそこから聞こえて来るようで気に入っている。

マクリーンはこの後PrestigeNew Jazzに何枚かのレコードを吹き込み、さらにドナルド・バードと共にBlue Noteに移籍し、1959年の初リーダー作『New Soil』以降、1960年代はBlue Note盤、その後ヨーロッパのSteeple Chase盤などをはじめ、一時引退するまで数多くの録音と名盤を残しており、その間独特のアルトの音色も微妙に変化してゆく。復帰後、晩年の'90年代には、大西順子(p)と『Hat Trick』Somethin’else 1996)を吹き込んでいる。人それぞれに好みがあると思うが、私が個人的に好きなマクリーンは、どれも一般的なジャズ名盤とまでは言えなくとも、やはり瑞々しい若き日の演奏が聴ける1950年代だ。まずはPrestigeの『4, 5 and 6』(1956) で、McLean(as)Mal Waldron(p)Doug Watkins(b)、Art Taylor(ds)というワン・ホーン・カルテット(4)による 3曲(Sentimental JourneyWhy was I BornWhen I Fallin' Love)、そこにDonald Byrd(tp) が加わったクインテット(5)で2曲(ContourAbstraction)、さらにHank Mobley(ts) が加わったセクステット(6)で1曲(Confirmation)ということで、タイトルの『4, 5 and6』になる。考えてみれば、Prestigeらしい適当なアルバム・タイトルだが、ヴァン・ゲルダー録音による音が生々しく、どの曲を聴いてもハードバップのあの時代が蘇って来るような、肩の凝らない演奏が続いて楽しめる。ここでもドナルド・バードのトランペットが良い味だ。

上の盤と並んで好きなこの時期のレコードは、Prestigeの傍系レーベルNew Jazzに吹き込んだ『McLean’s Scene』(1956)だ。Prestigeと違って、New Jazzのアルバムはタイトルもそうだが、このマクリーンのレコードの赤い印象的なジャケット・デザインに見られるように、どれも “一丁上がり” という軽さがなく、一応考えているように見える(Blue NoteRiversideのような丁寧さや知性は感じられないが)。こちらもMcLean(as)Bill Hardman(tp)Red Garland(p)Paul Chambers(b)Art Taylor(ds)という2管クインテットによる3曲(Gone with the WindMean to MeMcLean's Scene)と、McLean(as)Mal Waldron(p)Arthur Phipps(b)Art Taylor(ds)というワン・ホーン・カルテット3曲(Our Love is Here to StayOld FolksOutburst)を、組み合わせたスタンダード曲中心の作品だ。こうした曲の組み合わせも、Prestigeが一発録りで一気に録音した音源を、あちこちのアルバムに適当に(?)組み合わせて収録しているので、アルバム・コンセプト云々はほとんど関係ない(もう1枚、同じメンバーで同日録音した音源を収録した『Makin’ The Changes』というマクリーンのリーダー作がある。当然だが、こちらも良い)。この時代のこうしたレコードは、細かなことをごちゃごちゃ言わずに、ひたすら素直にマクリーンの音を楽しむためにあるようなものだ。ただし、マクリーンの "声" を生々しく捉えたヴァン・ゲルダー録音でなかったら、ここまでの魅力はなかっただろう。Prestigeもこれでだいぶ救われた。

もう1枚も、同じくNew Jazzの『A Long Drink of the Blues』1957)である。全4曲ともにゆったりとしたブルースとバラードで、タイトル曲で冒頭の長い(23分)のブルース<A Long Drink of the Blues>のみがMcLean(ts,as)Webster Young(tp)Curtis Fuller(tb)Gil Cogins(p)Paul Chambers(b)Louis Hayes(ds)という3管セクステット、残る3曲のバラード(Embraceable YouI Cover the WaterfrontThese Foolish Things)が、McLean(as)Mal Waldron(p)Arthur Phipps(b)Art Taylor(ds)というワン・ホーン・カルテットによる演奏だ。スタジオ内の長い演奏前のやり取りの声から始まる1曲目のブルースでは、マクリーンがアルトとテナーサックスを吹いているが、そのテナーはフレーズはまだしも、ピッチのやや上がったかすれた音色までアルトと同じようで、まるで風邪をひいたときのマクリーンみたいなところが面白い。後半のバラードは、ビリー・ホリデイの歌唱でも有名なスタンダードで、マクリーンの哀愁味のあるアルトの音色がたっぷり楽しめる。当時ホリデイの伴奏をし、独特の間を生かした自己のスタイルを確立しつつあったマル・ウォルドロンのピアノも、メロディに寄り添うように美しいバッキングをしている。この作品もそうだが、Blue Note盤のような格調、また演奏と技術の巧拙やアルバム完成度は別にして、ブルースやバラードなどを若きマクリーンがリラックスして吹いており、こちらも肩の力を抜いて、あの “声” をひたすら楽しんで聴けるところが、’50年代のこうしたアルバムに共通の魅力だ。新Macオーディオ・システムは時間とともに音が一段と良くなり、間接音の響きが増して実に気持ちが良いので、ついヴォリュームを上げてしまうが、ヴァン・ゲルダー録音のマクリーン一気通貫聴きの楽しみを倍加している。