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2020/08/08

「エスターテ(Estate)」を聴く夏

《「あの頃のジャズ」を読む》 はまだ連載途中なのだが、昔のことをあれこれ思い出しながら書いているうちに、イントロ部分が予想外にどんどん長くなってしまい、まだ本論(?)の入り口に辿り着いたばかりだ。コロナと長雨で史上最悪となった鬱陶しい梅雨がやっと明けたことだし、<interlude>として、一息入れて夏らしい名曲と演奏を取り上げてみたい。         

Amoroso
João Gilberto / 1977 Warner Bros
 
<エスターテ Estate>は、ジョアン・ジルベルトJoão Gilberto (1931-2019) のアルバム『Amoroso(イマージュの部屋)』(1977 Warner Bros.)での歌唱で有名になり、ボサノヴァのみならずジャズ・スタンダードの1曲としても知られるようになった曲だ。クラウス・オガーマンの涼し気なストリングス・オーケストラをバックにして、有名なスタンダードやボサノヴァを唄う『Amoroso』での、けだるく哀愁に満ちたジョアンの歌が好きで、昔から特に夏になるとこのアルバムをよく聴いてきた。しかし、<エスターテ>の原曲はてっきりブラジルの曲で、ポルトガル語だとばかり思い込んでいて、しかも<Estate>というタイトルの意味も、歌詞も、英語からの連想で「地所」とか「財産」とかに関係があるのだろう、くらいにしか思っていなかった。というのは、何せポルトガル語で唄う歌は響きが美しく心地よいので、ボサノヴァを聴くときも歌詞の意味などまったく考えもせず、ひたすらその「サウンド(言葉の響き)」しか聞かないクセがついてしまっているからだ。小野リサの歌などもそうだし、ジャズ・ヴォーカルも一部を除けばそうだ(それにポピュラー曲の歌詞そのものは、大体において、愛だの恋だのといった、ありきたりの内容が実際多い)。おまけにジョアンのボサノヴァのアルバムに入っているわけで(ジョアンが唄うと、何でも「彼の歌」になってしまう)、何の疑問もなく、ブラジルの歌だと頭から思い込んでいたのである。

Live in Montreux
João Gilberto / 
1985 
だから、「この叙情的な美しい曲が、なぜ不動産や財産とかに関係するタイトルなのか不思議だ、誰かブラジルの大富豪にでも関係する歌なんだろうか…」、くらいにずっとぼんやり考えていた(いい加減で、ほとんど何も考えていない…)。まさに翻訳家にあるまじき怠慢だが、ついこの間、思い立って調べてみたら(Wiki)、実は原曲はブルーノ・マルティーノ Bruno Martino (1925 – 2000)というイタリア人のジャズ・ピアニスト兼歌手がイタリア語で書いた曲で、曲名の<Estate>は何とイタリア語で<夏>という実にシンプルな意味だった。知っている人は当然知っていたのだろうが…恥ずかしながらまったく知らなかった(ただし原題は、過去のいろんなことを思い出すので「夏が嫌い」という歌だったらしい)。1960年代にこの曲を聴いたジョアン・ジルベルトが気に入り、その後ずいぶん経った1977年になってから、そのまま「イタリア語で」唄って録音したという驚くべき(?)事実も知った。どおりで夏に聴きたくなるわけで、確かに言われてみれば、『ニューシネマパラダイス』等の音楽に通じるイタリア的メランコリーが強く感じられる曲なのだ。どこか懐かしさを漂わせるメロディは、真夏というよりも、むしろ過ぎゆく夏を惜しむ晩夏を感じさせる曲だ。しかしながら、スペルのまったく同じ《estate》が、イタリア語(エスターテ)だと<夏>という意味で、なぜ英語圏(エステート)では《real estate》を含む<不動産>や<財産>とかいう意味なのか、その語源や関係も調べてみたが、(ラテン語系にはまったく詳しくないので)これもよく分からなかった。しかしまあ、それ以来安心して(?)「夏の曲」として楽しめるようになった。ギター1本でジョアンが唄うヴァージョンはいくつかあるが、1985年のスイス「モントルー・ジャズ祭」で、ヨーロッパの聴衆を前にして、ジョアンのヒット曲ばかりを唄うライヴ録音『Live in Montreux』(1985) がやはり最高だろう。

Estate
Michel Petrucciani / 
1982 IRD 
ジョアンの後、ジャズの世界でも取り上げられるようになったそうだが、ジャズ界でいちばん有名な演奏は、イタリア系フランス人ピアニストであるミシェル・ペトルチアーニ Michel Petrucciani(1962 - 92)が、ジョアンの『Amoroso』から5年後に、ピアノ・トリオでリリースしたアルバム『Estate』(1982 IRD)だろう(Furio Di Castri–b、Aldo Romano–ds)。骨形成不全症という障害を抱えていたが、素晴らしい才能を持っていたペトルチアーニは、80年代初めにチャールズ・ロイドや、当時ヨーロッパで活動していたリー・コニッツとも共演し、この頃米国デビューを果たしている。まさにサウダージを感じさせる、遥か遠くを見ているようなジョアンの歌と比べて、おそらく強いコントラストを感じさせる独特の録音(若干シャープでハイ上がりに聞こえる)のせいもあって、このアルバムでペトルチアーニが弾く<Estate>からは、哀切さを超えて、どこか悲痛な嘆きまでが聞こえてくるような気がする。やはりイタリアの熱い血が、どこかその表現につながっていて、それも、この演奏が聴き手に鮮烈な印象を残す理由ではないかという気がする。だから、ジャズで<Estate>と言えば、やはりこのペトルチアーニの演奏なのである。他の曲も含めて、当時まだ20歳のペトルチアーニの瑞々しい演奏が聴ける素晴らしいアルバムだ。

Take a Chance
Joanne Brackeen /1994 Concord 
他にどういう演奏があるのか、例によってi-Tunesで手持ちのアルバムを調べてみたら、ピアノ・トリオによる演奏がほとんどだ。ネットで調べてみると、ヴォーカルやホーンの入ったアルバムもあるが、ヴォーカルではどうやってもジョアンを超えられないが、ボサノヴァのムードと美しいメロディ、それにペトルチアーニの鮮烈なジャズ演奏があるので、ジャズ界ではやはりピアノ・トリオが標準的なフォーマットになったのだろう。しかし、この曲はメロディが際立ってメランコリックなので、ジャズとしては演奏しにくい部類の曲(単調になる)で、やはりボサノヴァとして軽くムーディに弾き流すような演奏が多い。1990年代になると、ギルド・マホネス Gildo Mahones が『Gildo Mahones Trio』(1991 Intetplay) でボサノヴァ風に弾いており、94年にはアメリカ人のベテラン女性ピアニスト、ジョアン・ブラッキーン Joanne Brackeen (1938-) がボサノヴァ曲を演奏した『Take a Chance』(Concord) というアルバム(Eddie Gómez–b、Duduka da Fonseca–ds)で取り上げている。ブラッキーンという人は、女性らしからぬパワフルでスピード感のある演奏をする人だが、ボサノヴァ曲を集めたこのアルバムでも、どの曲もべたつかずに、比較的あっさりさっぱりと夏向きに弾いている。Concordらしいクリーンな録音も良く、原曲のメロディに寄りかかりすぎず、エディ・ゴメスの短いベース・ソロも入れたジャズ的な演奏も気に入っている。

Never Let Me Go
 Robert Lakatos / 2007澤野工房
その後21世紀になると手持ちアルバムが増えて、カスパー・ヴィヨーム Kasper Villaume の『Estate』(2002)、シェリー・バー グ Shelly Berg の『Blackbird』(2003)、ルイス・ヴァンダイク Louis Van Dijk の『Ballads In Blue』 (2004)、ロバート・ラカトシュ Robert Lakatos の『Never Let Me Go』(2007) と、やはりペトルチアーニの影響か、ヨーロッパ系ピアニストによるトリオ・アルバムが多いようだ。しかしジャズにそれほど熱心でなくなった2000年代になってから、なぜこの種の比較的マイナーなピアノ・トリオのCDを何枚も買ったのか、自分でもその理由をよく覚えていない。ジャズ好きは、ミュージシャンや、バンド編成や、特定の曲など、ある時マイブームになって集中的に聴くことがあるので、仕事のストレスなどから「聞き疲れしないピアノ・トリオ」を、という時期だったのかもしれない。基本的にメロディをあまりいじれない曲で、どのアルバムもしっとりとしたムーディな演奏なので、優劣よりも好みだろう。個人的には、夏に聴くには、やはりあまり粘らないすっきり系が好みなので、ハンガリーのピアニスト、ロバート・ラカトシュ盤のジャズ的で、かつ端正でクリーンな演奏がいちばん気に入っている (Fabian Gisler-b, Dominic Egli-ds)。このアルバム『Never Let Mr Go』は、タイトル曲や<Estate>に加え、<My Favorite Things>など他の曲も含めて選曲がよく、しかも録音が非常に優れていて全体にピアノの響きが美しいので、ピアノ・トリオ好きな人にはお勧めだ。

ネットで曲だけ探せば、まだまだヒットするのだろうが、あくまでアルバム(CD)として保有しているという条件では、この曲が入っている唯一ピアノ以外の手持ちアルバムは、アコースティック・ギターでジャズを弾く加藤崇之の『Guitar Standards』 (2001 TBM) だけである(井野信義、是安則克-b、山崎比呂志、小山彰太-ds) 。このCDはジャズ・スタンダードを取り上げたもので、録音も良く、演奏もユニークでなかなか素晴らしいギター・アルバムだが、今はもう廃盤らしい。<Estate>で加藤は、スチール絃のギターを用い、ユニークなイントロをはじめ、斬新な解釈で仕上げている。そしてもう1枚日本人の演奏として、評判が良いので探しているのが、安次嶺悟(あじみね・さとる)という関西を拠点にする日本人ピアニストの『For Lovers』(2009) という作品だが、このCDももう市場にないようで、残念ながらいまだに入手できていない。