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2021/10/10

英語とアメリカ(8 完)妄想的未来展望

昨年夏のジャズ本に関する話の連載もそうだったが、今年の夏も、終わらないコロナ禍でヒマにまかせて書いてきたので、ジャズとは直接関係ない話がいつの間にかどんどん広がって収拾がつかなくなってきた。本テーマもこのへんで終わりにしたい。最後に「まとめ」として未来展望についての「妄想話」を一つ。

1990年代以降、バブル崩壊による金融破綻と産業界の低迷、デジタル化の遅れによる国際競争力の低下、さらには阪神淡路大震災や東日本大震災、原発事故のような大災害がこれでもかと連続し、まるで呪われたかのような平成の30年だった(安倍晴明でも呼び出したいくらいだ)。おまけに国全体の高齢化も加わって、日本の国家としての活力は明らかに低下しているが、その「とどめ」となったのが、1960-70年代の高度成長期に、東京オリンピック(1964)、大阪万博(1970)、札幌オリンピック(1972) と国際的大イベントを連続開催し、それを国家事業の成功譚と記憶している老人たちが中心になって、あの夢よもう一度と、莫大な資金を投入して誘致し、コロナ禍で反対する多くの国民の懸念をよそに、今年強行開催したオリンピック/パラリンピックという世界的イベントだ。

インバウンド需要をきっかけにして、ほぼ30年間落ち込んできた経済を一気に盛り上げようと目論んでいたが、初めからスタジアム設計、パクリロゴマーク、組織委問題、開会式演出等々と問題が相次ぎ、あげく世界的なコロナ禍に見舞われ、結局は内外から誰も来ない、見ない、「無観客」という前例のない環境下で縮小開催せざるを得なくなり、国家として、ある意味ダブルパンチを喰らうという悲惨な結果に終わったのが2020/2021である。コロナもなかなか収束せず、おおっぴらに酒も飲めず、国のリーダーたちは頼りにならず、いったい日本は今後どうなるのかと不安に思っている人も多いだろうし、中にはもうお先真っ暗だと思っている人もいるかもしれない――しかしながら、これもまた「国家の運命」と考え、悲観しすぎないことだろう。あまり嘆いたり不平を言わずに、日本はあらゆる面で、今は終戦以来の「どん底」状態にあって、逆に言えば「これ以上悪くなることはないだろう」くらいに開き直って、楽観的に将来を見た方が健康にも良いと思う。人生も国家も、急がず慌てず長い目で俯瞰してみると、意外なことに気づくものだ。なんだかんだ言っても、日本はまだ今のところは良い国なのである。

そこで、本記事の最後に、まったく何の根拠もない私の「個人的な勘」に基づく無責任な妄想的未来展望を申し上げれば、日本の「次の30年間は明るい」ものになるのではないかと「漠然と予測」している。というのは以下のように、明治維新以降、日本はどうも約30年周期で「浮沈(上げ・下げ)」を繰り返しているように思えることに最近気づいたからだ。ただし、いずれも主として景況感や政治状況から、その期間を総じて見れば「社会的テンション(世相)」が「ハイ(明るい)」だったか「ロー(暗い)」だったか、という観察にすぎず、何か裏付けデータがあるわけではないことをお断りしておきます(ただ、「景気」というように、その時代に生きる「人々の気分や空気」は、社会全体の動向にも、個人の人生にも大きな影響を及ぼすことがある)。

1870-1900(沈=明治維新後の混乱と近代化模索期)、 1900-1930(浮=日清日露戦勝利による国威発揚と大正デモクラシー期), 1930-1960(沈=日中戦争、太平洋戦争、原爆、敗戦、戦後混乱期), 1960-1990(浮=高度経済成長期を経て80年代の ”Japan as #1”、バブルへ), 1990-2020(沈=バブル崩壊、阪神・東日本大震災などの大災害、デジタル敗戦)、2020-2050 (浮=?)

さらに、ヒマなのでPCスキルを駆使して(?)、おおよその図を描き、各期間を大きなイベントを中心に埋めてみたのが以下のチャートだ。これを眺めていると、何となく、もっともらしい説に思えてくるような気がしないでもない……


生命体にはバイオリズム(bioとrhythmの合成語、身体ー感情ー知性の周期的変化)があるという仮説があり、人間の活動にも、その人生にも「周期的な浮沈のリズム」があると(占いなどで)言われている。企業の寿命と盛衰にも昔から30年説があり、たとえば芸能としてのジャズの歴史は100年以上と長いが、最盛期だったモダン・ジャズ時代は1945 - 75年と、これも30年間という寿命だったようにも見える(頂点は1960年前後)。まあ俗説にすぎないことは分かっているが、宇宙が一定のリズムで動いていることを考えると、地球という天体で生きる生物である人間がそのリズムに影響され、その人間の集団的活動もまた、あるリズムで変化するという考えも、別段、頭ごなしに否定するようなことではないか――とも思う。

また30年周期ということは、60年で「1サイクルの浮沈」ということになり、平均寿命80歳とすれば、これは成人後の人生の長さに相当する。つまり、日本人のほとんど誰もが、時期のずれはあっても「人生で、1サイクルの世の中の浮沈」(これは不可抗力)を経験するということであり、これはこれで神の公平な配材といえるのかもしれない。中高年なら、上図に自分の生年の位置を置いてみれば、おおよその世相の浮沈を過去の経験から想像できる。また、たとえば就職氷河期(90年代後半)を経て現在に至るまでツイていない世代(団塊ジュニア)にも、やがては「明るい時代」がやって来るという希望が(せめて)持てるかもしれない(?)

実は、面白いのは同じ期間に、ほとんど似たような周期で(国力と浮沈の程度の差はあるが)アメリカが日本とほぼ「真逆の浮沈」を繰り返しているように見えることだ。たとえば過去100年間に限っても、第二次世界大戦期(戦後はアメリカ最盛期)、ヴェトナム戦争時代(日本は高度成長期、1975年のヴェトナム敗戦時のアメリカは底?)、90年代に始まるデジタル革命時という各30年は、浮沈サイクルが日本と真逆の傾向にあるようにも見える(そうすると、アメリカの次の30年は「沈」ということになる?)。ただし繰り返すが、あくまでこれは私個人の単なる妄想であり、まったく根拠はない。ところが、念のためにネットで調べてみたら、何と日本のこの景況浮沈の30年周期について、同じような説を既に唱えている人が日本にいることを知った(私の妄想よりは信用できるだろう)。経済学では昔から短期、中期の景気変動説に加え、コンドラチェフの長期波動説等、景気循環論が提唱されているので、今の時代、データに基づいた科学的な検証を行えば、何かしら新しい傾向が得られているのではないかと思う。やがてはAIが、ビッグデータを駆使した総合的分析で、こうした人間の社会経済活動や国家の浮沈周期の存在、その理由等を解説してくれるかもしれない。

さて30年後に私はたぶん生きていないので、まさに無責任な話になるが、2021年という時点で推測される、次の30年間に日本が再浮上するための「唯一ポジティブなシナリオ」とは――《 独創性はあまりないが、特定の「プラットフォーム」(ここではデジタル技術、サービスを含む21世紀デジタル社会の基盤)がひとたび構築された後の、 日本人の学習・分析能力、創意工夫、実行スピード、高い品質は歴史的に実証済みなので、日本が今後、本気で社会の(再)デジタル化(DX)に取り組めば、その過程でもそうした能力が発揮される可能性がある 》ということだろう。その可能性を高めると予想される重大な「ファクト」は―― これまで年功序列をベースにした会社や組織など、社会の中枢にいて、20世紀の成功体験と意思決定権を持つが、デジタルに関する知識とスキルが欠けていたために、業務のデジタル化転換を主導できず、むしろ直接、間接両面でそれを妨げ、結果として過去30年間の日本社会全体のデジタル化への構造転換を遅らせてきた大きな要因と思える――我々のような「情弱中高年以上の年齢層」が、向こう30年間で徐々に退場してゆくことだ(アジアなど新興国のデジタル競争力の強さの要因の一つは、この生産年齢人口の若さであるのは明白だ)。

これは、戦後半世紀の日本の発展に尽力してきた年寄りにもっと敬意を払え――とかいう話ではなく、デジタル革命の勃興期(1990年代)から、残念ながら戦後の日本を牽引してきた世代(1930-50年生まれ?)の「高齢化」がたまたま重なったために、組織や意思決定プロセスの迅速なデジタル体制への転換が「より難しくなった」――すなわち、これも日本の「歴史的運命」だったという話である。しかし、次の30年間は、この世代交代によって日本社会の人口構成も変わり、新たなデジタル技術やサービスの開発、提供者のみならず、その利用者や、政治や企業活動の意思決定の中心を成す層が、遅ればせながらデジタル・リテラシーの高い若い世代に徐々に移行してゆく。過去30年間の出遅れが逆に幸いして、デジタル庁が唱える日本流の「人に優しいデジタル化社会実現」のための施策を基礎から積み上げ、それが社会に根底から浸透し、技術、サービス分野で他国にはない「日本ならでは」の知恵を使ったデジタル活用策が実際に生まれ、機能すれば、この国の産業や社会を根本的に作り変える可能性は十分にあると思う。それが30年周期説という「妄想」に基づく、唯一の希望的観測だ(そうなれば我々年寄りも、火野正平氏の名言「人生下り坂サイコー!」と叫びながら、残された人生を楽しく送れるかもしれない?)。

ただし、いずれにしろ今後の日本は、20世紀のようにデファクト化して「世界市場で主導権を握る」というような大それたことを目指すのではなく(太平洋戦争とデジタル戦争で懲りたはずだし、そもそも似合わない)、産業や文化など、あらゆる分野で世界に類のない価値創造を目指す「ガラパゴス・ジャパン」(英語だとSpecialty Japan?) という独自の道を、自虐的にではなく、世界の趨勢を俯瞰しつつ「戦略的に選択して」前進すべきだと思う。すなわち、総人口は減るが、団塊以上が徐々にいなくなり平均年齢は若返るという要素も含めて、国家も産業も「ダウンサイジング」してゆくというイメージ――つまり得意とする小宇宙化(盆栽化、弁当化)をさらに深化、洗練させて、国家のサイズに適した領域で生き残ってゆくことである。日本的伝統工芸などに限らず、ゲーム、マンガ、アニメの例に見られるように、声高に叫ぶことなく独自文化や技術を掘り下げ、それを控えめに発信しつつ、「世界に発見、認知してもらう」ことによって逆に自らの価値を高めることを、日本の基本的国家戦略にすべきだ。そしてこれは、日本人の特性と国家としての歴史的文脈にも合致した方向性だと思う。デジタル化はあらゆる分野で、そのコンセプトを支える有効な柱となり得るだろう。

最後に日米関係に関して言えば、大雑把だが常に前進し、変化している「ダイナミック・アメリカ」と、保守的で細部にこだわる「ガラパゴス・ジャパン」は、ある意味で水と油のようなものだが、「イノベーション」は、それを得意とするアメリカに任せて、日本はそこから生まれた技術やアイデアを「選別、洗練」させることに特化するというように、「競争」ではなく、お互いに得意とする分野で棲み分けて「協業する collaborate」こと、つまり従来の基本的枠組みの戦略的強化が、やはり両国にとっていちばん良いことなのだろうと思う。幕末の黒船以来の歴史的運命が示しているように、太平洋をはさんだ日本とアメリカの両国は、いろいろあっても基本的には相性が良く、これからも互いを補い合う良きパートナー足り得る可能性が大きいと個人的には信じている。加えてもう一つは、一党独裁化をさらに進めている中国の動向を睨みつつ、アジアでもっとも日本に友好的な人々から成り、かつ中華文化圏の歴史と本質を理解している台湾と、より密接な関係を築き上げてゆくことが、日本にとって政治、経済両面できわめて重要な選択肢になると思う。

本稿(1)冒頭の、菅総理(当時)のG7写真から受けた印象(世界における日本の立ち位置)と英語問題から思いついた話だったが、つい長い論文(回顧録?)のようになってしまった。その菅総理も、国民の不満を察知した自民党による「ガースー抜き」戦略(文字通り)のゆえに、あっという間に退陣してしまい、岸田新総理になった。

本稿もこれにて終了です。(完)