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2021/09/26

英語とアメリカ (7)アメリカ文化

アメリカに関するこの記事を書いていて、昔、司馬遼太郎が書いたアメリカ紀行のような本を読んだことを思い出した。その本のタイトルが『アメリカ素描』だったことも思い出し、今は文庫本になっていることを知って、先日それを買ってあらためて読んでみた。今から35年も前の1986年に読売新聞社から出版された本で、1985年から86年にかけて司馬遼太郎が初めてアメリカを訪問し、西海岸、東海岸の主要都市を40日間ほど旅行したときの観察を基に、紀行文として書いたものだ。80年代半ばといえば、私が米国親会社の内部で仕事をやり始めた頃であり、また日本経済がバブルに向かって絶好調だった時代だ。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』とか『NOと言える日本』とか、威勢のいい本も出版されていて、戦後の対米劣等感から解き放たれて、もうアメリカとは対等だというような空気があふれていた。逆に当時のアメリカは、自動車や半導体で日本に追い抜かれるかもしれない、というプライドとあせり両面が背景となって、ジャパン・バッシングが全米各地で起きていた。

したがって、そうした時代背景も前提にして読むべき本なのだろうが、司馬遼太郎らしい、表層ではなく、常に「歴史の深層」を掘り下げようとする筆致は、初めて、それも短期間だけ訪れたアメリカを対象にしても同じで、わずか数週間、数都市の滞在とは思えないような深みのある洞察と表現で、アメリカという国家の本質を探り出そうと試みている。何を見ても、常に一度、日本や世界の歴史がどうであったかという背景や事実と結び付けてから考察する姿勢と、その作業を可能にする深く広範な知識に驚く。遠くの対象にカメラのピントを徐々に合わせていくように、ある種の臨場感と生理的快感を常に感じさせる文章なので、今読んでも古くささのない、すぐれた文明論になっている。この本は、デジタル時代が到来する前の80年代までのアメリカを観察したものだが、アメリカという国家の本質をとらえようとしているので、その後私が経験上感じたり、考えてきたことを多くの点で裏付けている。同時に、イギリスのピューリタンに始まり、ヨーロッパ各国からの移民や、アジア系移民の歴史等、米国史の常識というべき事実を、おさらいのようにあらためて思い出すことも多く、WASPを頂点とする移民の重層性とヒエラルキーなども、なるほどと頷くことが多い。

特に「多民族による人工国家」という認識をベースにして、文明(普遍性)と文化(個別性)という切り口でアメリカを語った本は、今はともかく当時はまだなかったように思う。19世紀までのヨーロッパの近代文明に続き、アメリカは20世紀に生まれた「文明の国」であり、その文明は「多民族性、多文化性」という、この国が創建された時から内包する複雑なフィルターを経て、濾過されてきたものであるがゆえに、本質的にグローバル(当時はまだ、この言葉は使われていなかったが)に受容され、拡散されるという普遍性を持っている、という指摘はまさしくその通りだ。日本も、戦後の半世紀でアメリカ化されることが当たり前の日常となり、戦後生まれの我々は、子供時代から映画やテレビドラマ、飲食物、自動車、電化製品等を通して、便利で快適なアメリカ文明(=アメリカ文化)を体の芯から刷り込まれた世代だ。こうした国民レベルでの、日常生活の「アメリカ化」という蓄積があったからこそ、アメリカという手本に追いつけ追い越せ、という具体的目標とモチベーションが生まれ、日本の産業も経済も発展したのである。

90年代以降のデジタル時代になっても、「さらに便利で快適な生活」を提案するGAFAのようなビジネスを通じて、世界中で絶えず「アメリカ化」が進行してきた。私もコロナ禍の最近などは、気づくと毎日家の中で何の抵抗もなくAppleのスマホやWin PCを使って交信し、MacやWinのOS上でGoogleで検索し、MS/Wordで翻訳原稿を書き、Macオーディオで音楽を聞きながらGoogle Bloggerでブログを書き、YouTubeで動画を見たり、音楽を聴いて楽しみ、普通にAmazonであれこれ買い物をしている。そうこうしているうちに、GAFAは世界中の国や人々の日常生活の奥深くまで浸透し、知らず知らずのうちに(個人情報を収集しながら)、それらの国や地域固有の思想や文化に影響を与えているのである。その圧倒的な影響力、支配力と、今や自分がほぼ無自覚にそれらの「サービス」を日常的に利用していることに、正直言って時に恐怖すら覚えることがある。

ギリシア、ローマ、中国などの古代文明から19世紀の西ヨーロッパまで、「文明」とはそもそも、ある国や地域固有の「文化」が政治、経済、軍事等のパワーを背景にして、周辺地域に徐々に浸透し、その過程でそれら周辺文化も吸収しながらさらに深化、拡散する、という普遍化プロセスを経て成立するものだ。ところが20世紀の「アメリカ文明」は、国家の成立時から既に普遍性を内包しており、その下で形成された「アメリカ固有の文化」が、国力を背景に短期間にそのまま世界に拡散したところがユニークなのだ。20世紀の情報伝播速度が飛躍的に上がり、デジタル化によってさらにそれが加速されているという時代背景も違う。本稿中でも挙げたように、そうしたアメリカ文化を象徴するコンセプトないしキーワードは――ヴィジョン(理想)、ミッション(使命)、フロンティア(最前線)、リモート(遠隔)、チェンジ(変化)、スピード(速度)、チャレンジ(挑戦)――等、本稿で挙げてきたアメリカ人が好む概念や行動を表す特質だが、中でも「Change(変化)」こそが、これらの特質に通底するアメリカ文化の本質ではないかと思う。

私は昔から、アメリカ人には常に 「Change」への脅迫観念(=常に変化し続けなければならない)があるのではないかと思ってきた。アメリカ人はよく働くが、それは日本人が美徳とする「勤勉」とはまた違うもので、「じっとしていると競争相手に負ける、置いて行かれる」という、資本主義の権化のような国に生きる人間特有の恐怖心のようなものだと思う。これは産業界だけでなく、たとえばマイルス・デイヴィスが米国音楽界で「芸術音楽としてのジャズ」というジャンルだけでなく、「ジャズ・ビジネス」の世界でも成功した稀なミュージシャンだった理由の一つでもあると推測している。第二次大戦後からマイルスは、ビバップ/クール/ハードバップ/モード/フュージョン/ファンク……と、演奏スタイルを時代に応じて(約5年ごとに)意図的に変化させ続けたが、これほど自身の音楽上のスタイルを変え続け、それでいながらジャズ界のリーダー的地位を確保し続けたジャズ・ミュージシャンは他にいない。もちろん才能あってのことで、芸術上の理由もあるだろうが、聡明なマイルスはむしろ、そうし続けないと「米国人聴衆に飽きられるのではないか」と恐れ、あるいはそれを見抜き、先手を打っていたのではないかというのが私の想像だ。

司馬本にも出て来るが、何年かすると「街の様子」がすっかり変わってしまう、というのも「Change」の象徴で(田舎は別だが)、資本主義社会の非情と移ろいやすさを表している。その例として、廃墟のようになったドック群を見て、フィラデルフィアの造船業の盛衰史を語っているが、ピッツバーグの鉄鋼も、私が90年頃に実際に見たデトロイトの自動車も同じだ。栄えていた街や地域が急速に廃墟化する様は、日本のように穏やかな文化を持つ国の人間からすると、本当に強烈なショックなのだ。20世紀後半に、これらの産業はみな日本に一度主役の座が移ったが、その次に鉄鋼、造船が韓国へ、さらに中国へと生産の主力が移ったのは歴史が示すとおりだ。半導体や電子機器の歴史も同じである。1980年代のアメリカ人が感じた、身の回りから国産品 (Made in USA) が徐々に消えてゆくという喪失感を、21世紀になって感じているのが我々日本人なのだ。それが資本主義であり、それもわずか数十年という期間にその変遷が起きているのである。日本に追いつかれた(表面的に、だが)アメリカは、半世紀の間、世界を主導していたそれらの国内製造業をある意味でスクラップ化し、それに代わる新たな産業をまた生み出したが、それが(80年代の準備段階を経て)90年代から始まった、インターネットとコンピュータを駆使したデジタル革命による産業のIT化だ。実物経済ではなく「カネがカネを生む」というウォール街の投機ビジネスを目にした司馬は、「モノ」を作らなくなったアメリカはいずれ亡びるのではないか……と80年代的に危惧しているが、一度沈んだかに見えても、再浮上するための資本と人材(リソース)を常に潤沢に維持し、次の成長を支える戦略と制度を常に見直している真正の資本主義国家アメリカは、90年代以降は「サービス」で復活を遂げたのである。

新聞紙や包装紙を再利用して大事に使っていた昭和30年代の日本に、アメリカ生まれの「使い捨て」ティッシュペーパーが初めて登場したときは本当に驚いたものだ。米国は他の国と違って、土地も資源も豊富なので「eco」という概念がそもそも稀薄だ。地球規模で「大量生産と大量消費」という概念とシステムを広め、その効用と利便性と引き換えに環境危機を生み出した最大の要因は、我々の生活を欲望の赴くままに、世界規模でひたすら便利に快適にしてきた「アメリカ文明」にあると思う。程度の差はあれ、世界のどこでも便利で快適な生活がひとたび実現すると、人間はもう元に戻れない。しかも90年代以降のデジタル化で、モノだけでなくサービスまでが自在に利用できるようになると、さらにその先の便利さが欲しくなる。1日かかっていた仕事が1時間ですむようになると、もっと短くできないかと考えるようになる。人間の欲望には際限がないので、ますます便利で快適な生活を求める。結果として、貧しかったがゆったりしていた生活から、便利で快適だがあわただしく、小忙しい毎日へと人間の世界が変わってゆく。低コストで大量に生み出したモノがあふれてゴミになり、地球規模で環境を汚染し、生産活動に大量に消費していたエネルギーゆえに天然資源は枯渇する。脱炭素もSDGsも、こうした地球規模の問題を解決しなければ、もうやっていけない状態に近づいているという危機感から生まれたものだ。最近になって、マルクスの『資本論』やマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のように、根源的な問いに答えてくれそうな(懐かしの)思想がまた注目を集めているのも、人々がこの状況に本当に危機感を抱き始めたからだろう。

こうした功罪両面を持つアメリカ文化(文明)を生み出してきた「アメリカ人」に関しては、人それぞれのイメージを持っていることだろう。複雑な背景を持つ国なので、一言で「アメリカは…」とか「アメリカ人は…」とかはもちろん言えない。私が長年経験したと言っても、アメリカの中のほんの一部の企業、地域のコミュニティに関することにすぎず、それをもって一般化できないのももちろんだ。だから、あくまで限られた体験に基づく個人的感想だが、あえて言えば、アメリカ人からは、異民族や植民地統治の長い歴史を持つイギリス等、ヨーロッパ各国のような思想的複雑さや、ある種の狡猾さ(「思慮深い」「洗練された」とも言う)は感じられない。アメリカ人は「総じて」シンプルで、フランクで、フェアな人たちだという印象を持っている(人種差別の問題は、米国の基礎疾患のようなものなので別の話だ)。

私はアメリカのドタバタ喜劇映画が昔から好きで、シリアスな局面でも、事態や自分を茶化す乾いたアメリカン・ユーモアが好きだ。日本人もそうだが、何かあっても、しつこく恨みを抱いたりしないおおらかさもいい。アメリカとアメリカ人についての、全体としてポジティブな私の見方は、幸運にもこれまでの長い交流の中で、本当にイヤな体験をほとんどしてこなかったせいなのだろうと思う。ただし、群れることを嫌い、オフィスでも個室やパーティションで区切られた世界を好む彼らは、自由の国にいながら、どこか孤独に見えるのも事実だ。それとどこかでも書いたが、アメリカ人は成長してアメリカ人「になる」のであって、一方、日本人は生まれながらに日本人「である」、という両国民のアイデンティの認識は、基本的価値観の違いを知る上で重要だと感じることが多い。

一方、移民国家としての米国には、他国から見ればおかしな点や欠点もたくさんあるだろう。私が気づいたその一つは、トランプ時代が象徴しているように、アメリカが世界の中心だという意識が強く、歴史の短い自国のことしか知らない、関心がない、という人間が総体として多いので、異国の歴史や文化、そこに住む外国人がどのような存在なのか、その多彩さに思いを巡らせる「想像力」を欠いている人が多いことだ。その結果、何ごとも「自分たちが良いと思うこと」は世界中のどこでも通用する、と楽天的に(傲慢にとも言えるが)信じ込んでいるところが「普通の」アメリカ人にはある。だから国や民族、文化の微妙な違いなどは無視して、自国の価値観を強引に押し付けたり、大雑把に「アメリカ人」がいるように「アジア人」もいるというような、ある意味で「雑な」思想や姿勢が、政治問題、企業の事業戦略や運営から現在のアジア系ヘイト問題に至るまでの背景にあるように思う。

当然だが、逆にそれが「歴史や伝統にとらわれない」という自由、進取、革新の国民性、文化という長所を生み出してきたわけで、科学技術の発明、市場創造、起業精神のみならず、20世紀の映画やジャズのように、まったく新しいアートやエンタメ産業を生み出す土壌にもなっている。バラバラな出自の移民をまとめるために、まず共有すべき理想(Vison) を掲げて前進しつつ、人類がかつて経験したことのない社会を作ろうと、失敗もリスクも容認しながら、今も挑戦し続ける真に「実験的な国家」がアメリカなのだ。一方、同じ人種で長い歴史を持ち、互いを良く知り、和を重んじるための約束事が多く、変化やリスクを避け「何事にも慎重な」日本は、文化的にその対極にある国と言えるだろう。(続く)