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2022/09/14

椎名林檎・考(2)

獣ゆく細道(2018)
90年代末から約10年間、ほとんどジャズと主従逆転するほど椎名林檎を聴いていた私だが、『平成風俗』(2007) 以降は彼女の音楽から離れていた(理由はよく覚えていないが、仕事の関係とか、「東京事変」のテイストがオッサン好みではなくなったのか、あるいはたぶん歳のせいで、ついて行けなくなったのかもしれない)。ただしNHK紅白とか、ニュース番組、ドラマ、CMのタイアップ曲などは時々耳にしていたし、本当に大物アーティストになったものだと感心はしていたが、ほぼ10年近く、新作やDVDも買っていなかったので、いわば浦島太郎に近かった。だが最近になって、YouTubeで久々に近年の椎名林檎のMVやライヴ映像を見たり、歌を聴いたりして、相変わらず衰えることのないアーティストとしての挑戦意欲と創造性に改めて感動した。

2012年の「東京事変」解散後も、時代のニーズに応えて、ヴィジュアルを中心にした「エンタメ度」をさらに高めて、聴き手を楽しませる多彩な映像やショーを次から次へとプロデュースしている。当然だが20代に比べたら外見も作品も成熟し、近年はまさに「姐御」(あねご)と言うべき風格まで漂っていて、バンドやダンサーの統率はもちろんだが、コラボ・ゲストで呼んだエレカシの宮本浩次(獣ゆく細道)や、トータス松本(目抜き通り)のような先輩(一回り年長)男性ミュージシャンまで手玉に取る(?)かのような派手な舞台パフォーマンスを演出している。ステージ上の全員が椎名林檎に「奉仕」しているかのような様相は、もはや姐御どころか「女王様」で、それも歌舞伎町どころか日本のJ-POP界の女王である。東京五輪という世界的イベントのセレモニーへの椎名林檎の参画は、彼女の創造性とプロデュース能力の真価をグローバル・レベルで発揮する大きなチャンスだったと思うが、残念ながらああいう結果になった(今の贈収賄騒動を見ていても、やはり参加しなくてよかったとも言える。国や政治がからむイベントにアーティストが関わると、基本ロクなことにならないからだ)。

ところで、「アーティスト」という語を、今は私も普通に使っているが、とても「アート」とは呼べない活動をしている人間まで指す、この気取った日本語に以前は抵抗があった。音楽界では、昔は単に「歌手」とか「ミュージシャン」と呼んでいたと思うが、今はそのへんのタレントもYouTuberも、みんなアーティストだ。この語はいつ頃から日本で使うようになったのだろうか? そう思って、翻訳者でもあることだし、初心に帰って英語の「artist」を英日や英英辞典で調べてみた。「アート(art)」 はラテン語系で「人工のもの=技術」が原義で、日本語では昔から(と言っても明治以降だが)高度な技術という意味で「芸術」と訳されてきたので、どの辞書でも最初の意味は (1)「芸術家」で、ものを創造する人、特に画家、彫刻家、次に音楽家、作家などである。ヨーロッパでは画家のイメージがいちばん強い。次いで (2) 「一芸に秀でた人」という意味が時代と共にそこに加わり、デザイナー、イラストレーター、舞台芸術家、ダンサー、芸能人、ミュージシャンといった人たちが続く。そこからいわゆる (3)「名人、達人」という意味が加わり、ついには (4)「ペテン師、いかさま師」まで意味が広がってゆく(ある意味で「なるほど」とも思うが)。たぶん昔は一部の人の特殊技能だったものが徐々に社会全体に普及し、資本主義の発展と共にそれを商売にする人も増えてきて、経済規模も大きくなり、職種も多彩になり、中にはその特殊技能を使って悪事を働く人間まで出てくる (?) ――など、歴史的にその範囲も意味も拡大してきたのだろう。1960年代以降、アメリカではロックを中心に、大衆音楽に関わる人間の数が爆発的に増え、徐々にその社会的ステータスも、ミュージシャンとしての意識も向上していったこともあって、メディアが、それまでの高度な芸術創作(creation) を行なう人たちだけでなく、芸事全般に携わる人たちを、(面倒なので)まとめて「アーティスト」と総称するようになったのではないかと推察する(おそらく80年代頃から)。例によって、その英語をそのまま輸入した日本の音楽業界やメディアも、(大昔、洋楽を何でもかんでも「ジャズ」と一言で呼んだように)便利に使える「芸能人の総称」として90年代頃から使い出した――ということのようだ。

椎名林檎は言うまでもなく、上記「アーティスト」の定義をほとんどすべて満足する「代表的」アーティストの一人だ (ただし(4)の意味は除く)。20年以上にわたり、時代の変化に合わせて(その先を行きながら)様々なパフォーマンスを創作し、提供してきたが、思うに、彼女のように独自の「コンセプト」を突き詰めていくタイプのアーティストにとっては、絶えざる「自分への挑戦」こそが音楽的モチベーションを維持し、高めるための最善の方法なのだろう。私はロック方面には詳しくないので、比較するとしたらジャズのミュージシャンしか思いつかないのだが、サウンド云々ではなく音楽家としての資質的に、ジャズで言うならマイルス・デイヴィスと似たタイプではないかと思う。椎名林檎の「音楽」にはセロニアス・モンク的独創(「定型」を打ち破ろうとする意志と、それを可能にするオリジナリティ)を感じるが、彼女の音楽家としての「姿勢と思想」から感じるのは、むしろクールなマイルス的合理性だ。椎名林檎の中には、この両者が共存しているように思う。

Misterioso
(1958 Riverside)
椎名林檎の言語センスには唯一無二の独創性があるが、ユニークなのは歌詞だけでなく、アルバム名や曲名という「タイトル」もそうだ。ジャズの世界ではモンクが数々の「名言」を残しているが、モンクは言葉遊びも好きで、「MONK」と名前を彫った指輪を逆から「KNOW」と相手に読ませて、「MONK always KNOW」(いつだって分かってる)と言ったり、音楽の中にも常にユーモアとウィットを感じさせるのがモンクの魅力の一つだ。そして歌詞こそ書いていないが、モンクが自作曲に与えたタイトルにも天才的言語センスを感じる。ほとんどのジャズ・スタンダード曲は(愛だの恋だのといった)月並みなティンパンアレーの曲名がついているし、ジャズ・オリジナル曲のタイトルも、デューク・エリントンの曲など一部を除けば変哲もないものがほとんどだ。しかし70曲ものオリジナル作品を書いたモンクは、曲名のセンスも素晴らしく、<Round Midnight><Ruby, My Dear><Straight, No Chaser>などの名曲を筆頭に、<Ask Me Now><Well, You Needn't><Bright Mississippi><Brilliant Corners><Ugly Beauty><Criss Cross><Epistrophy><Reflections><Evidence><Functional><Misterioso>…等々、短い普通の単語を用いながら、曲のイメージとジャズ的フレーバーを瞬時に感じさせ、しかも哲学的な余韻まで残す独創的なタイトルが並ぶ。椎名林檎のアルバム名『無罪モラトリアム』『勝訴ストリップ』『教育』『大人』『平成風俗』『日出処』…など、また特に初期の曲名「正しい街」「丸の内サディスティック」「本能」「ギブス」「罪と罰」「浴室」「迷彩」「茎(STEM)」「ドッペルゲンガー」「意識」…などから感じるのも、モンクと同種の言語センスである(ちなみに、モンクの曲もほとんどが20歳代に作られている)。

Kind of Blue
(1959 Columbia)
モンクは自由人で天才だが、マイルスは育ちの良い秀才である。モンクはピアニストであり「作曲家」だが、マイルスはトランペッターであり「バンドリーダー」である。演奏者(パフォーマー)である点は同じだが、「楽曲のワンマン創作者」と「演奏集団の統率者」とでは見ている世界が違う。音楽家としてのモンクは、常に制約を打ち破る「自由な音楽」を創造していたが、マイルスはジャズ演奏上の一定の制約を認めた上で、その中でバンドとして到達可能な「最高度の音楽美」を追求した。そうした個性の違いはあったが、1950年代に二人が見ていたジャズは、まだビバップを起源とする「アート」だった。それが変質し始めた1960年代になっても、モンクはまだ従来のまま「独自の曲」を書き続けようとしていた(ドラッグの影響と体力の低下で徐々にそれができなくなる)。一方、マイルスは最初から常に「次に何をやるか」を冷静に考えていた音楽家だった。1940年代後半からビバップ、クール、ハードバップ、モード、ファンク……と、ほぼ5年おきに自身の音楽をあえて変化させて「新たなスタイルのジャズ」を創ることへの挑戦を続け、そのつどそれを成功させて「本流」としてジャズ界をリードし続けた。

ジャズの「芸術的」頂点と言われるモードの傑作『Kind of Blue』(1959) を発表した後、60年代のマイルスはモードを洗練させることに注力し、オーネット・コールマンの登場後、主潮流になったフリー・ジャズへは向かわず、むしろ大衆音楽として新たに台頭してきたロックやR&Bの特徴や動向を冷静に観察し、分析していた。音楽的な理由もあっただろうが、何よりフリー・ジャズでは「金(ビジネス)にならない」ことが聡明なマイルスには分かっていた。音楽家として、アメリカという国で「生き残る」には、一部の聴衆にしか理解できない難しいことだけやっていてはだめで、一定数の「大衆」の支持が不可欠だと考えていたからだろう。大衆に受け入れられ、彼らに飽きられず、なおかつジャズ・アーティストとして自らの「芸術上の基準」も満たす音楽を創造すべく、常に「次の目標」へ向けて挑戦を続けていたのである。

ジャズの宿命だったコインの表裏であり、資本主義の発展と共に1960年代に顕著になったこの「芸術(アート)と芸能(エンタメ entertainment)の相克」は、やがて資本主義下のアーティストの誰もが向き合わざるを得なくなる問題だが、マイルス・デイヴィスという人は、60年代当時最先端の「アート」だったジャズ界のリーダーとして、その問題を「止揚」(aufheben) すべく苦闘していた音楽家だったと私は考えている。そして60年代後期に行き着いたマイルスの答えが、電子楽器とポリリズムを導入した『Bitches Brew』(1969)に代表されるエレクトリック・ジャズである。マイルスは、それまでのホーン奏者を中心とする「個人の即興演奏」から、ギターやキーボードという電子楽器を使った「集団即興」へとジャズのスタイルをシフトさせた。同時にステージ上ではヒップさを強調し、ロックを意識した派手な衣装ばかりか、演奏時の見栄え、振舞いなど、音楽以外のパフォーマンスも含めてエンタメ志向を強めていった。それが70年代以降、ファンク、フュージョンという、より大衆寄りの新しいジャズのスタイルと流れを生み出し、その歴史的転換によって、ジャズと、ロック、R&B、ポップスという他のポピュラー音楽との「境界線」も、その後さらに薄れてゆくのである(これをジャズの「拡張」と言うか、「衰退」と見るかは意見が分かれる)。ジャズ出身のアレンジャー、クインシー・ジョーンズとマイケル・ジャクソンの80年代におけるコラボは、いわばその総仕上げと言えるだろう。

三毒史 (2019)
こうして20世紀の代表的アートの一つだった、アコースティック楽器による「モダン・ジャズ」が終わりを迎える頃(1978年)に生まれ、バブル後の90年代日本のポピュラー音楽界に現れたのが椎名林檎である。音楽ビジネスも当時は不況の影響を大きく受けていたことだろう。その経済環境下で登場した椎名林檎は、生来「アート志向」が非常に強いミュージシャンだったがゆえに、マイルスと同じく、この「アートとエンタメ」という問題を最初から強く意識し、音楽家としてのアーティスティックな目標とビジネスの成功を「両立」させるための手法を、冷静に考え抜いてきたのではないかと思う。

この「アートかエンタメか」という二元論は、「ジャズか否か?」あるいは「ロックか否か?」、という大昔の音楽ジャンル議論と同じく1990年代まではかろうじて存在していた。しかし90年代以降、情報と経済のグローバル化の進展が社会の価値観を変えた。「アート」を真剣に追及することよりも「カネになるか、ならないか」という2択のエンタメ(=商業主義)全盛となった21世紀の今は、この二元論は完全に消え失せたと言っていい(「アーティスト」という言葉だけは残ったが)。現在クラシック、ジャズを含めてあらゆる音楽ジャンルで進行しつつあり、この20年間の椎名林檎の音楽・映像作品、ステージ演出の推移が如実に示しているように、21世紀の今は、アートとエンタメは、完全に一体化された「パフォーマンス」として「止揚」されつつあると言っていいのだろう。そうした見方からすると、2003年の椎名林檎のアルバム『カルキ』は、マイルスの『Kind of Blue』と同じく、「アート」の価値がまだかろうじて残されていた時代に、アート志向が強かった若き椎名林檎が挑戦し、到達した「頂点」と言うべきアルバムだったと言えるだろう。(続く)