グローバルな事業展開をしていた米国親会社は、アメリカや日本以外に、ヨーロッパにも研究開発や生産の拠点があったので、ヨーロッパ各国の社員も相当数いたし、アジアの各国にもかなりの数の社員がいた。製造業という米国では古い業態の会社であったにも関わらず、こうして米・欧・アジアという世界中の人たちと共同で、グローバルな視点で、アメリカ流の自由な流儀で仕事をする解放感と面白さは、狭い日本で、日本型組織と人脈のしがらみの中で、あれこれ気を使いながら、ちまちま進める仕事とは雲泥の差があった。’90年代後半の5年間ほどは、アジア各国にいた部下たちと一緒にアジア市場を対象にした仕事をしていたが、個人的にはこの時代が会社員生活でいちばん楽しかった。海外で仕事をした経験のある人なら誰もが感じると思うが、互いに英語さえ使いこなせたら、相手がどの国の誰であろうとコミュニケーションができるという「実感」は、絶大な意識改革を人間にもたらす。非ネイティヴのアジア人同士だと、英語はコミュニケーションのための単なる実用的「変換記号」と同じで、お互い怪しげな発音でも文章でも、下手なりに十分に意思疎通ができるのである。当時のアジアの仲間とは今も交流が続いているし、一言でいうと、英語を通じて文字通り「世界」が広がる。
しかし上司や同僚など、英語ネイティヴの欧米人相手の場では、単純な意思疎通レベルではなく、時には意見(価値観)の異なる相手を説得して、自分の「主張」を通すことができるレベルの英語スキルが必要になる。たとえば、日本市場の実情に合わない米国流事業戦略を、強引に押し進めようとするときなどがそうだが、当然そこには緊張も摩擦も生まれ、互いに納得するのは簡単ではない。普通の日本人からすると、何よりも、複雑で微妙なテーマであるがゆえに、「自分の言語」で自由に相手に考えを伝えられない歯がゆさ、もどかしさ、苦しさをつくづく味わうことになる。私の場合こうした議論では、口頭の日本語を100とすれば、英語だと、せいぜい頑張っても70-80くらいしか、自分が真に言いたいことを伝えられなかった気がする。自分なりの考えや意見を持ち、日本語の弁舌にも優れている人ほど、それを伝える「英語能力」が足らないと、言語表現上のギャップを強く感じ、フラストレーションを感じるだろう。
当たり前だが、「外国語の習得」とは、言語を自分の頭で考えて「創作」できるようになることではない。結局のところ、言語上の約束事(文法)を「学習し」、目(reading)と耳(hearing)を「訓練」しつつ、「意味を理解し」それを「記憶し」、いかにしてネイティヴの正しい書き方 (writing) と話し方 (speaking) の「マネをするか」ということだ。だから「習うより慣れろ」、つまり言語スキルとは頭ではなく体験して身に付けることで、当然ながらそれには時間がかかる。「あっと言う間に聞き取れる、喋れる…」とかいう英会話学校の宣伝などウソもいいところで(もちろん、どんなレベルの会話かによる)、文字通り「語学に王道はない」のである。だから地道な努力が苦手な人は、なかなか外国語を習得できないだろうと思う。「読み書き」は一人でもなんとか学習できるが、物理的な対人接触時間に比例する聞き(hearing)、話す (speaking) 能力は、今ならいくらでも教材があるが、当時は海外駐在でもしない限り本当には身に付かない時代だったので、ずっと東京勤務だった私の場合、会議や出張を通じて「場数」を積み、学習するしかなかった。
しかしコミュニケーション技術という観点からすれば、何と言ってもいちばん重要なのは、「読む」能力と、「聞く」能力だろう。当たり前だが、まず相手が何を言わんとしているのか分からなかったら、どうにもならないからだ(最初の頃の会話では頓珍漢な返事をして、ずいぶんと恥をかいたりしていた)。「相手の話の主旨」さえきちんと把握できれば、非ネイティヴとして「書く、話す」は、仮に表現力が多少拙くても、相手のネイティヴ側はなんとか理解できるものだ。昔から言われているように、「読む」こと、特に「多読」「速読」こそが外国語習得にはもっとも効果的方法だと経験上も思う。それが「聞く」能力も同時に高める、という相乗効果が期待できるからだ(文芸作品などの「精読」は、さらにその先にある)。
英語を「話す」能力も、ただペラペラと英語だけ流暢ならいいわけではなく、ビジネスでも、個人的なことでも、内容の伴った会話(自分の頭で考えたこと)でなければコミュニケーションとしての意味がない(すぐに人格上のメッキがはがれる)。また欧米人は、言語上の有利さだけでなく、会議(conference/meeting;日本流の "儀式" ではなく、文字通りの "議論 discussion" や "討論 debate" )を延々と、何時間でも、さらに泊まり込みで何日間でも続けられる体力(?)と技術を身に付けている。日本人にはそもそもそういう習慣も文化もないし(せいぜい「朝までナマ…」程度だ)、何でも口に出すお喋りは「はしたない」という美意識と思想がある。むしろ互いの腹をさぐりながら着地点を目指す「阿吽の呼吸」的対話を好むので、「多弁」を要する長時間協議は精神的にも肉体的にも苦痛で、苦手なのだ。おまけに企業でも上層部になればなるほど、当然ながら会議の議題は日本人好みの分かりやすく具体的なテーマよりも、企業理念、ビジネスコンセプト、戦略、リーダーの R&R といった、日本人がもっとも苦手とする(時に中身がない、空論だと軽蔑さえする)「観念的で抽象的な」テーマ中心になる。特に米国のビジネス・リーダー層は、細部のあれこれに詳しい人よりも、まず「大きな絵」 (grand design, big picture) を描ける人、つまり全体を俯瞰し、長期的視点で基本的コンセプトを考え出し、それを人に分かりやすく説明し、説得できる能力を持つ人でなければならないので、大手企業のマネージャークラスなら、誰でも滔々と(内容は別として)自分のアイデアを語れる。またそうしたコンセプトを実際に効果的にプレゼンする技術も、若い時から訓練し、身に付けている。
いかにも役人が書いたような、中身のない気の抜けた原稿を棒読みするだけの日本の首相挨拶や答弁と、アメリカ大統領のスピーチを比較するまでもなく、これは政治の世界でも同じだ。あるいは今回のオリンピック開会式と閉会式の、(物悲しくなるほど)残念な演出に見られるように、全体的コンセプトと伝えるべきキー・メッセージをいかに表現するかということよりも、超ローカル視点の「細部へのこだわり」ばかり優先し、演目相互の関係性がまるで感じられない細切れシーンの寄せ集め、といった表現方法における文化的差異も同じだ。
近所のスーパーのチラシのような、テレビワイドショーのごちゃごちゃとした、あれもこれも詰め込んだ、やたらと細かなボード資料を見るたびにそう思う。「盆栽」や「弁当」に代表されるように、小さなスペースにぎゅっと詰め込んだ小宇宙――これこそが、やはり日本的文化や美意識の根底にあるものなのだろう。だから、唯一言語を超えたユニバーサルな会話が可能な「科学技術」の世界を除くと、他のカルチャーのほとんどが、珍しがられることはあっても、他民族にはほぼ理解不能であり、世界の主流になることは難しい。個々のコンテンツとして見れば、世界に誇れるユニークな文化や、斬新なアイデアを持つ有能なクリエイターが数多く存在するにも関わらず、一つのコンセプトの下でこれらを束ねて、それを効果的にプレゼンするという思想と技量が日本には欠けているのである。