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2017/09/15

「作曲家」 セロニアス・モンク(1)

Brilliant Corners
(1956 Riverside)
『セロニアス・モンク 独創のジャズ物語』のロビン・ケリーの原書には、モンクのアルバム、映像作品の簡単なリストが参考資料として巻末についているだけで、詳細なレコード情報などはない。ただし、初録音情報などを記した自作曲のリストがある。既述のように、この本はモンクの音楽やレコードの分析を主題にしたものではなく、またその種の本は既にいくつも書かれているので、著者も敢えて付け加えるつもりはなかったのだろう。ただし本文中には、年代ごとにレコーディング・セッションと演奏曲に関するかなり詳細な記述がある。しかし、それらは文章の流れの中で触れており、またジャケット写真を含めてリリースされたレコードに関する情報がほとんどないので、読んでいてどのレコードなのか具体的に知りたいと思う読者もいることだろう。今はインターネットで調べればほとんどの情報は個別に辿ることができるが、それでは読者に不親切なので、コニッツの本と同じくジャケット写真付きの簡単なディスコグラフィーを作成して、巻末に参考用として添付しようかと思っていたが、既述の通り大部の本となってしまい、ページ数の制約もあるので、自作曲のリスト共々今回は難しいということになった。そういうわけで、モンクの代表的レコードについて、本書を参照しながら時系列で確認できるようなレコード・ガイドをこのブログ上で書こうかと考えていた。ところが、考えているうちに、それは何か違うのかなと思い始めた。モンクには『ブリリアント・コーナーズ』のような傑作とされる名盤も確かにあるのだが、それは、例えばマイルスの『カインド・オブ・ブルー』やコルトレーンの『至上の愛』、ビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビー』のような、誰もが思いつくジャズの決定的名盤とは、一般的人気度という見方は別にしても、どこか「性格」が違うでのではなかろうかという疑問である。

リー・コニッツの時と同じく、モンクの本を翻訳中ずっとモンクのレコードを聴きながら作業していたのだが、何度も繰り返して聴いているうちに改めてその感を深めたことがある。それは、モンクの演奏は1940年代のまだ若い時も、中年になった1960年代も、音楽の骨格そのものにはほとんど変化がないということだ。普通のジャズ・ミュージシャンは、年齢と経験を重ねてゆくうちに、時代と共にその演奏スタイルやサウンドも徐々に進化あるいは変化してゆくものだ。ディスコグラフィーに沿った年代別の聴き方をしていると、素人耳にもそれははっきりとわかるもので、聴き手としてはそこがまたジャズの面白い部分でもある。ところがモンクは、初のリーダー作である1947年のブルーノート録音の時から既にモンクそのもので、最後のスタジオ録音となった1971年のブラック・ライオンの『ロンドン・コレクション』に至るまで、音楽上の造形にはほとんど基本的に変わりがないように聞こえる。もちろん年代や、録音時のコンディションや、共演相手によって演奏には当然ある程度の変化はあるのだが、基本的には30歳代も50歳代の音楽も一緒なのだ。要するに、モンクは最初からずっと「素晴らしくモンク」なのである。本人も、またネリー夫人も語っていたように、何十年も前と何も変わったことはやっていないのに、1950年代の終わり頃になってから音楽家として急に脚光を浴び、世間の認証が得られたのは、「世の中のモンクの聴き方」の方が変化したからだ、ということなのだろう。ジャズ・ミュージシャンとしてこれは特異で驚くべきことに違いないし、ジャズ史にこのような人物は他にはいない。

プロのジャズ・ミュージシャンや批評家、真にコアなモンクファンを別にすれば、おそらく普通のジャズファンは、レコードを聴きながらジャズ・ピアニストとしてのモンクの演奏を楽しみ、聴いているのではないかと思うし、私もこの本を読むまでは長年そういう聴き方をしていた。もちろん作曲家であることも、<ラウンド・ミッドナイト>や<ルビー・マイ・ディア>のような名曲の作曲者であることも知識としては当然知ってはいたが、レコードを聴くときは普通のジャズ・ピアニストを聴くときのように聴いていたし、同じ曲を何度も取り上げていても、代表的レコードから聞こえてくるその個性的な演奏の魅力を単に楽しんでいた。モンクの音楽を分析的に聞いたところで(しかもド素人が)少しも面白くないし、モンクにしかないあの開放感と不思議なサウンド、リズム、メロディを素直に楽しむのがいちばんいいからだ。しかし上述の自分の観察から、またこの本を読んで改めて理解したのは、モンクという音楽家はピアニスト以前に、本質的にまず「作曲家=composer」なのだということだった。

モンクは、即興演奏だけの単なるジャズ・ピアニストではなく、コンポーザー(作曲家)、アレンジャー(編曲者)、インプロヴァイザー(即興演奏家)という3つの資質を併せ持った稀有なジャズ・ミュージシャンだと言われている。タッド・ダメロンのようなビバップの作曲家もいるが、演奏家としてはモンクのような存在感はなく、またジャズの巨人と呼ばれてきた人たち、例えばマイルス・デイヴィスは作曲より、むしろ常に曲と演奏の全体的構造を考えるアレンジャーとしての資質が強く、ジョン・コルトレーンやソニー・ロリンズはほぼ真正のインプロヴァイザーだったと言えるだろう。そしてビル・エヴァンスやキース・ジャレットのようなピアニストを含めて、大方のジャズ・ミュージシャンはこのインプロヴァイザー型である。しかしクラシック音楽の世界では、モーツァルトやベートーヴェンの時代までは、音楽家は一人でこの3つの技術を持っているのが当たり前だったが、その後の歴史でこれらは徐々に分化し、曲を作る人、演奏する人、さらには全体の指揮をする人というように、専業化が進んで今のようになったと言われている(ただしショパンのように、ピアニストの一部には自作曲を演奏した音楽家もいた)。ジャズも初期の段階では、これらの技術は未分化だったが、クラシック同様に徐々に作曲(ポピュラー曲)、編曲、演奏という分化した専門技術から成る音楽となって行ったようだ。ジャズの始祖とも言われるバディ・ボールデンの後、それらの技術を一人で「統合」し、多くの有名曲を作り、編曲し、ピアノを通じてビッグバンドという自らの「楽器」を指揮することで、黒人音楽の伝統の上に高度な水準の音楽を創造した史上初の「ジャズ音楽家」が、スウィング時代に現れたデューク・エリントンである。ジャズ史におけるエリントンの偉大さはそこにあり、そして曲を単なる素材にした即興演奏の価値が一層重視されるようになったビバップ以降のモダン・ジャズ時代に、この3つの要素を統合し、一人3役の能力を持った音楽家として登場したのがセロニアス・モンクなのである。エリントンがモンクの音楽を直ちに理解したこと、モンクとエリントンの互いへの敬意を示す本書中のいくつかの逸話は、したがって非常に説得力のあるものだ。

Genius of Modern Music
(1947- 52 Blue Note)
モンクは1930年代から既に作曲を始めていたようだが、驚くことに、モンクの作った有名曲の多くが、まだ若かった1940年代(20歳代)に既に作曲されている。本書で描かれているようにモンク初のリーダーセッションとなったのが、1947年モンク30歳の時に、これらの自作曲を引っ提げて臨んだブルーノートへのスタジオ録音である。ブルーノートのアルフレッド・ライオンたちは、194710月から11月にかけて、セクステット、トリオ、クインテットで計3回、19487月にミルト・ジャクソンを入れたカルテットで1回、その後しばらくして19517月に同じくクインテットで1回、最後の録音となった19525月のセクステットで1回、と都合6回の録音セッション(78回転SP盤)を行なっている。1947年の録音では、<ルビー・マイ・ディア>、<ウェル・ユー・ニードント>、<オフ・マイナー>、<イン・ウォークト・バド>、<ラウンド・ミッドナイト>などが、1948年録音では<エヴィデンス>、<ミステリオーソ>、<アイ・ミーン・ユー>、<エピストロフィー>などが、1951年録音には<フォア・イン・ワン>、<ストレート・ノー・チェイサー>、<クリス・クロス>、<アスク・ミー・ナウ>、1952年録音には<スキッピー>、<ホーニン・イン>、<レッツ・クール・ワン>などが収録されている。こうして録音リストを見ると、実は上記ブルーノートにおける録音の時点で、モンクは既に自身の「名曲」の大半を作曲していたことがわかる。したがってこれらブルーノートの初期セッションをLP時代にまとめたレコード『Genius of Modern Music Vol.1,2,3』(Vol.3はミルト・ジャクソン名義)こそ、まさに音楽家セロニアス・モンクの原点だと言える。聴いていると、これらの演奏が1940年代の大部分の聴衆の耳には、あまりに先進的かつ個性的に聞こえ、理解できなかったという話もよくわかる。そして、上記セッションで気づくもう一点は、モンクが、ソロ以外のすべての演奏フォーマット(トリオ、カルテット、クインテット、セクステット)で録音していることだ。ブルーノートはメンバーの構成、人選を当初モンクに一任していたので、ビバップとは異なるコンセプトで自作してきた曲が、それぞれのフォーマットでどのような「サウンド」になるのか、モンクはひょっとして初期の録音の場で周到に実験していたのではないだろうか(あくまで想像です)。

At Town Hall (Live)
(1959 Riverside)
こうした1940年代のキャリアから見ても、モンクをモンクたらしめているのは何よりも作曲家 (composer) の資質だと言えるだろう(ただし本書に書かれているように、ピアノ奏者としてなかなか認められなかった当時の状況が、結果的にモンクの創造エネルギーをより作曲に向かわせたという一面はあるかもしれない)。そしてエリントンが自らのオーケストラで追求したように、モンクはソロの他に、トリオ、コンボ、さらには後年の「タウンホール」のビッグバンドなど、様々なアンサンブル・フォーマットで、これらの自作曲を「再解釈」しながら、新たな「サウンド」を探求し続けていたのだろう。つまり何よりも「作曲」こそが、モンクという音楽家の真のアイデンティティであり、音楽上の基盤だった。本書に書かれている1959年の「タウンホール」コンサートの準備段階で、モンクと編曲者ホール・オヴァートンの会話を録音したテープは貴重な記録だ。そこでモンクの曲を習得していたオヴァートンに対して、「聴くのは曲じゃない、サウンドだ」と語ったように、自身が作った「曲の構造とメロディ」から生み出し得る様々な「サウンドの可能性」を探求するために、モンクは生涯にわたって自作曲を数限りないヴァリエーションで解釈(アレンジ)し、演奏(インプロヴァイズ)し続けていたのだということが、ド素人の私にも「ようやく」分かったのである。

モンクの音楽は様々に語られてきたが、その全体像を短い言葉で的確に説明するのは不可能だろう。しかし唯一、1982年のモンクの死の直後、ジャズ批評家ホイットニー・バリエットが述べた、「モンクのインプロヴィゼーションは彼の作品が融解したものであり、モンクの作品は彼のインプロヴィゼーションを凍結したものだ」という比喩はまさに至言だと思う。「作曲と即興」が可逆的に一体化したものこそがモンクの音楽の本質だという見方である。普通の耳には摩訶不思議に響くのも、誰にもまねができないのも、思考するジャズ・ミュージシャンをいつまでも触発し続けるのも、そのような音楽は他に類例のない存在だからだ。そしてそこが、与えられた曲を単なる素材にして、自身のアレンジや即興演奏で様々に解釈する「普通の」ジャズ・ミュージシャンとモンクが根本的に違う部分なのだ。
(#2に続く)