シナトラ系と対照的な、“囁き系” 歌唱の白人ジャズヴォーカリストとしては、チェット・ベイカーの他にマット・デニス Matt Dennis(1914 - 2002) という人がいる(かなりシブいが)。デニスは語りかけるような軽妙洒脱なピアノの弾き語りで、独特の味のある歌唱を聞かせたが、実は数々の名曲を書いた作曲家でもあった。<Violet for Your Furs>、<Angel Eyes>, <Everything Happens to Me>、<Will You Still Be Mine?>などの有名ジャズ・スタンダード曲がデニスの代表的作品で、数えきれないほどのジャズ・ミュージシャンがこれらの曲を取り上げている。これらの名曲を自身でカバーした『Matt Dennis Plays and Sings』(1954年?)は、ハリウッドのクラブ「Tally-Ho」でのライヴ録音で、ベース、ドラムスも入ったトリオによる演奏だ。ジャズはやはり、レコードもライヴ録音がいちばんいい。一聴、鼻歌みたいで声量には欠けるが、気負いも何もなく、何気なく語りかけるようなデニスの自然体のシャンソン風歌唱は、シナトラ系とは正反対だが、上手下手を超えて、ジャズという音楽の持つ最高の美点の一つであるリラクゼーションを絵に描いたような演奏と歌である。この洒脱さはニューヨークではなく、やはり西海岸ならではのものだろう。2曲だけ女性とのデュオのトラックがあるが、相手は奥さんである。
ところで、マット・デニスのこのリラックスしたピアノの弾き語りを聴いていると、いつも思い出すことがある。それは米国親会社への初出張時に同行したジャズ好きの先輩が連れて行ってくれた、シカゴの某ホテル地下にあったジャズクラブ(名前は忘れた)で聞いたジョージ・シアリング George Shearing (1919-2011) のソロ・ピアノだ。1981年のことで、シアリングのピアノを生で、しかも目の前で聞けるという、まさしく ”アメリカン” なジャズクラブの夜だった(シアリングはイギリス人だが)。初出張、初ライヴで舞い上がっていたこともあって、今と同じで演奏内容はよく覚えていないが、シアリングがピアノを弾く姿だけはよく記憶している。ちなみに、その前日はサンフランシスコで「キーストン・コーナー Keystone Korner」に寄って、当時人気絶頂だったリッチー・コール Richie Cole (1948-) のアルトサックスを聴いていた。ビル・エヴァンスはその前年1980年に亡くなっていたが、最後のアルバムとなった『Consecration』 を録音していたのもその「キーストン・コーナー」だ。質素なライヴハウスという感じで、料金も安く、まったく派手さがないジャズクラブという印象だったが、これがアメリカで初めて聞いたジャズ・ライヴで、忘れられない思い出だ。あの当時は今のようにシカゴやニューヨーク行きの直行便がまだ飛んでおらず(たぶん)、米国東部への出張は必ずハワイや西海岸で乗り継いでいたので、みんなそこでよく休憩して楽しんでいたのである。便利にはなったが、何もかもこ忙しくなって、時間に余裕のない現代の会社員に比べたら、何とものんびりした良い時代だった。(思えば、一時引退していたマイルス・デイヴィスが復帰して、来日したのもその1981年で、モンクが亡くなったのは翌年の1982年だった。)
シカゴで泊まったホテルの玄関前で、その先輩が財布を取り出して何かを調べていると、ホテルのドアボーイが寄って来て、「このホテルを買うつもりか?」とかジョークを言っていたのもよく覚えている。当時の日本はバブル期に入ろうかという直前で景気が良く、逆にアメリカ経済は80年代になると落ち込み、自慢だったクルマでも日本に追い抜かれたように感じて元気がなかった。実際に1989年には、アメリカのシンボルと言われていたニューヨークのロックフェラセンターまで日本企業が買収した。しかしアメリカは90年代からのIT革命で産業構造を変革し、徐々に息を吹き返す。2000年代に入った直後は9.11とイラク戦争、リーマンショックなどがあったものの、30年の間にGAFAに代表されるように完全に世界経済の覇権を取り戻した。一方の日本は80年代バブルで浮かれまくり、90年代のバブル崩壊でIT革命にも完全に乗り遅れ、その後我々が知る現在の日本への道を歩んできた。80年代バブルと、続くアメリカ主導のIT革命は、本当に日本のすべてを変えてしまったと思う。それまでは世の中全体がまだ物質的には今よりずっと貧乏だったと思うが、どこかもっと心に余裕があって、希望もあり、人間も社会もすべてがもっとゆったりとして寛容だった気がする。音楽の世界も一つの産業であるがゆえに、こうした時代ごとの経済活動に大きく影響を受けて変化し続けるもので、当然ながら各年代のジャズも、日米それぞれの時代ごとの空気を反映していると思う。楽器ではなく、”人間の声” によるヴォーカル曲というのは、なぜか、こうした過去の記憶を次々に呼び起こすもののようだ。
もう1枚は60年代からで、ジャズファンなら誰でも知っているレコード、ジョニー・ハートマン Johnny Hartman (1923 - 83) がジョン・コルトレーン・カルテット (McCoy Tyner-p, Jimmy Garrison-b, Elvin Jones-ds) と共演した『John Coltrane & Johnny Hartman』(1963 Impulse!) だろうか。ハートマンのヴォーカルを聴きながらコルトレーンのサックスも聴く、という贅沢な楽しみ方のできるヴォーカル・アルバムで、コルトレーンの『Ballads』のムードの延長線上で聞ける。ジャズファンがいちばんよく聴いた男性ヴォーカル・アルバムが実はこれではなかろうか。ハートマンの甘い声と歌唱は時に鼻につくこともあるが、聞き心地の良い滑らかなバリトンボイスなので、たまに聴くといい。ハートマンはコルトレーンとの共演前に、ハワード・マギー(tp)、ラルフ・シャロン(p)のクインテットをバックに『Songs From the Heart』(1956)というレコードをBethlehemレーベルに吹き込んでいて、時々それも聴いている。当然ながらこちらもテイスト的には同じだが、さらに甘い。
60年代以降のジャズヴォーカルはほとんど聞いたことがなかったが、ジョン・ピザレリ John Pizzarelli (1960-) は7弦ギター奏者バッキー・ピザレリ(1926-) の息子で、1980年代にギターとヴォーカルで20歳代でデビューした人だ。日本デビューは、まさにバブルの頂点だった1990年の『My Blue Heaven』(Chesky) で、これはなかなか良いアルバムだった。当時はハリー・コニック・ジュニア (1967-) と並んで新世代男性ジャズヴォーカリストとして脚光を浴びていた。そのピザレリが、ナット・キング・コールに文字通りトリビュートしたアルバムが『Dear Mr. Cole』(1993 Novus) だ。当時のレギュラー・トリオではなく、ベニー・グリーン Benny Green (p)、クリスチャン・マクブライド Christian McBride (b)という、当時まだ新進の若手ミュージシャンを迎えたドラムレス・トリオで、ピザレリが見事なギターワークとヴォーカルでコールの有名曲を軽快に演奏し、若きグリーンとマクブライドがイキのいいバッキングでサポートするというアルバムだ。どの曲も演奏が短く、キレがいいのが特徴で、全編楽しめる。ピザレリは現在も活動していて時々来日しているが、年齢を重ねて外見も音楽もシブくなった。
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Night and Day
森山浩二 (1976 TBM) |
日本にも数は少ないが男性ジャズヴォーカリストはいる。近年では小林圭とかTOKUとかが有名だが、昔は笈田敏夫くらいしか思い浮かばなかった。しかし1970年代にTBM(スリー・ブラインド・マイス)からレコードを出していた森山浩二という人がいて、当時ラジオで聞いたその歌が気に入ってすぐに買ったレコードが、初リーダー作の『Night and Day』(1976)だった。ピアノの山本剛とコンビを組んで活動していたようだが、このレコードも山本剛トリオ(井野信義-b, 小原哲次郎-ds)と録音したもので、独特のハスキーな声と、何より日本人離れしたそのリズム感とスウィンギングな唄いっぷりに驚いた。タイトル曲の他、<マイ・フーリッシュ・ハート>や<バイ・バイ・ブラックバード>など、ジャズ・スタンダードの名曲をカバーしたこのレコードでも、コンガを叩きながら唄い、実にハッピーかつスウィンギングな歌を聞かせている。こういう味のある歌唱は日本人歌手にはあまり聞けない。これはスタジオ録音盤だが、当時六本木に「Misty」という洒落たジャズクラブがあって私もよく行ったが、そこでハウスピニストとして出演していた山本剛トリオと共演したライヴ盤も出しているようなので(知らなかった)、最近それも探したけれど今は入手困難のようだ。日本人らしからぬ、しゃれた大人のジャズヴォーカルを聞かせてくれる、こういう素晴らしいジャズ歌手も当時はいたのである。