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2020/02/17

Play "MONK"(1)

本日2月17日は、セロニアス・モンクの命日である(1982年没)。

セロニアス・モンクを単なるジャズ・ピアニストではなく、「作曲家 (composer)」として聴くというコンセプトを発見(?)して以来、モンクを聴く楽しみが倍加した。モンク本人以外に、別のプレイヤーが演奏したモンク作品にも興味が湧いて、誰かがモンクの曲を演奏したレコードを見つけると、聴いてみたくなってつい手に入れてしまうからである。各奏者がモンクの書いた曲をどう解釈し、演奏しているのか、それぞれの違いが興味深いし、その比較がとても面白い(細かな技術的な違いが分かるわけではない。あくまで感覚的なものだ。念のため)。時代ごとに、楽器ごとに、バンド編成ごとに、そして奏者のモンク解釈とモンクへの思い入れごとに、それぞれ違うプレイが楽しめる。それに、耳タコになったようなジャズ・スタンダード曲と違って、モンクの曲は何度聴いても、聴くたびに新鮮さがあって、飽きないのである。<Epistrophy>と<Round Midnight>という代表曲の他に、<Ruby, My Dear>,<Reflections>,<Ask Me Now>など美しいバラード系の曲がモンク・スタンダードと言うべき曲で、多くのミュージシャンに取り上げられている。モンクの生前、あるいは1982年の没後にトリビュートされた同時代の主要ミュージシャンによるレコードもかなりある。もちろんそれらも興味深いが、モンクの音楽にはジャンルや時代を超えた不思議な魅力があるので、没しばらく経ってから比較的新しい世代のミュージシャンたちによって録音されたものは、時代が異なるので音楽的解釈も新鮮かつ多彩で更に面白い演奏が聴ける。

Monk in Motian
Paul Motian
1988 JMT
そうしたアルバムを時代を追って探すと、まず挙げられるのは、新世代とは言えないが、ドラマーのポール・モチアン Paul Motian (1934-2011) が全曲モンク作品を取り上げたMonk in Motian』(1988 JMT) だろう。モチアンはモンクやレニー・トリスターノとの初期の共演をはじめ、実に多彩なキャリアを持ったドラマーだが、もっとも有名なのは何と言ってもビル・エヴァンスとのピアノ・トリオ、およびその後のキース・ジャレットとの共演だろう。ところが80年代からは、ビル・フリゼール Bill Frisell (g)、ジョー・ロヴァーノ Joe Lovano (ts)との “ピアノレス” トリオによる演奏に注力するようになる。このアルバムではモンク作の有名な10曲を取り上げており、モチアンの繰り出す多彩なリズムに反応するフリゼールとロヴァーノの浮遊感の濃い独特のサウンドと演奏が楽しめる。またジェリ・アレン (p) とデューイ・レッドマン (ts) 2曲ずつ客演して、独自のモンク観を表現している。特にジェリ・アレンのピアノが入ると、さすがにモンク色が一気に強まって楽しい。アルバム・タイトル通り、どの曲もモチアン的解釈による斬新なモンクが楽しめ、個人的に非常に好きなアルバムだ。
* 収録曲は以下の10曲。(GA=Gerry Allen, DR=Dewey Redman)
Crepuscule With Nellie / Justice (Evidence) / Ruby, My Dear (+GA) / Straight No Chaser (+DR) / Bye-Ya / Ugly Beauty / Trinkle, Tinkle / Epistrophy (+DR) / Off Minor  (+GA)/ Reflections

Jurassic Classics
James Carter
1994 DIW
90年代以降のレコードでは、まずテナー奏者ジェイムズ・カーターJames Carter (1969-) Jurassic Classics(1994 DIW)での演奏を挙げたい(モンク作品は2曲だけだが)。これはカーターのデビュー2作目で(いずれも録音はDIW)、他のスタンード曲5曲と並んで、<Epistrophy>と<Ask Me Now>という2曲の代表的モンク作品を演奏しているが、両演奏ともに素晴らしい。特に13分余に及ぶ<Epistrophy>は、エリック・ドルフィー(『Last Date』に収録)を含めた数ある同曲演奏の中でも最高の部類に入るのではないかと個人的に思っている。"Epistrophy" とは、ギリシア語で「結句反復」という、強調のために文末で語句を反復する修辞技法を意味する語で、普通の辞書には載っていない(もちろんモンクはそれを知っていたということだ)。エモーションとユーモアを湛えて自由闊達、豪快に吹きまくるカーターのテナーとカルテットの演奏からは、単純なリフが反復循環されるうちに、不思議な高揚感が湧いて来るこの曲に込めたモンクのアイデアがダイレクトに伝わって来て、聴いていて実に楽しく爽快だ。一転して、バラード<Ask Me Now>は実に優しく、これもまたもう一つのモンクの世界を忠実に、かつカーター的に表現しているように思う。もしモンクがこれらの演奏を聴いたら、両曲ともきっと大喜びしたのではないだろうか(カーターは、モンクの相棒だったジョニー・グリフィンともどことなく似たところがあるし)。このCDCraig Taborn (p)Jaribu Shahid (b)Tani Tabbal (ds)というメンバーによるカルテットで、他のスタンダード曲も併せて全編で若きカーターのイキの良いプレイが聞ける。特にCraig Tabornの自由で躍動的なピアノがいい。カーターと同年生まれで早逝したトランペッター、ロイ・ハーグローヴ Roy Hargrove (1969-2018) の『The Vive』と並んで、これは1990年代の私的ベスト・ジャズ・アルバムの1枚でもある。


ギターでモンクに挑戦というコンセプトは、ビル・フリゼール以外はあまりなかったように思うが、2000年代に入ってからは、ギタリストのアルバムと演奏が目立つようになる。理由の一つは、2002年にギタリストのスティーヴ・カーディナス(Steve Cardenas)がモンク作品を正確に採譜した楽譜集『Thelonious Monk Fakebook』(ドン・シックラー編集)を出版し、それまで曖昧な部分が多かったモンクの曲に、信頼できる “標準的楽譜” が初めて登場したことだろう。まずピーター・バーンスタインPeter Bernstein (1967-) が、2007年にMonk(Xanadu)というギター・トリオ・アルバム(Doug Weiss-b, Bill Stewart-ds)で全曲モンク作品を取り上げた。たぶんギターで全曲モンクに挑戦というのは、この『Monk』が初めてではないかと思うが、ここでのバーンスタインの演奏は、いずれもオーソドックスなジャズ・ギターで、比較的あっさりと(慎重に?)モンクを解釈するという無難なスタンスで、あまり挑戦的ではない。バーンスタインは、その後も、Brad Mehldau (p)、Christian McBride (b)、Gregory Hutchinson (ds) というカルテットによるSigns Live!』(2CD、2015 Smoke Sessions) というライヴ演奏で、<Pannonica>、<Crepuscule with Nellie /We see>という3曲をカバーしている。こちらはブラッド・メルドーのピアノが入ることもあって、モンク作品も含めて、どれもカラフルな演奏で非常に楽しめるアルバムだ。特に<Pannonica>ではメルドーのピアノがいい。
* 『Monk』収録曲は以下の12曲。
Let's Cool One / Pannonica / Work / Brilliant Corners /In Walked Bud / Monk's Mood / Well You Needn't / Bemsha Swing / Played Twice / Ruby, My Dear / Blues 5 Spot / Reflections

Kurt Rosenwinkel
Reflections
2009 Wommusic
マーク・ターナー Mark Turner (ts)と共演していたカート・ローゼンウィンケル Kurt Rosenwinkel (1970-) のギターが好きで、よく聴いている。モンク曲のタイトルから取ったReflections』(2009 Wommusic)というアルバムでは、Eric Revis (b)、 Eric Harland (ds) というギター・トリオで、タイトル曲<Reflections>と<Ask Me Now>の2曲を演奏している。ローゼンウィンケルのこのギター・トリオ盤は、ジャズ・スタンダードとモンク、ウェイン・ショーターのバラード曲をそれぞれ取り上げているが、タイトル曲であるモンクの<Reflections>をはじめ、全体に静謐で、モダンで、深く沈潜するギターサウンドが、相変わらず素晴らしく、個人的に非常に気に入っているアルバムだ。デビュー作『East Coast Love Affair』でも<Pannonica>を演奏しているが、できればもっと多くのモンク作品をローゼンウィンケルのギターで聴いてみたい。

Epistrophy
Bill Frisell
2019 ECM
上記ポール・モチアンのアルバムから30年経って、ビル・フリゼール(1951-)も今や大ベテランギタリストになったが、トーマス・モーガン(b)とのデュオ新作『Epistrophy (2019 ECM)では、タイトル曲と<Pannonica>という2曲のモンク作品を再び演奏している(フリゼールも、かなりのモンク好きと見える)。好評だった前作『Small Town』と同じライヴ演奏(2016年3月、「ヴィレッジ・ヴァンガード」)で収録した曲から成るアルバムで、モンク作品以外のよく知られたスタンダード曲の演奏を含め、どの解釈も新鮮で相変わらず不思議な魅力があるジャズ・ギタリストというよりも、今やアメリカン・ヒーリング・ミュージックとでも呼べそうなフリゼールのギター・サウンドだが、カントリーやブルースという土台に加え、そこにはジム・ホールにつながるジャズ・ギターの深い伝統も、トリスターノやフリー・ジャズにつながるアブストラクト的音楽の要素もあり、1950年代生まれのミュージシャンが経て来た多様な音楽体験が渾然一体となって、摩訶不思議とも言える独特のギターワールドへと我々を誘う。21世紀になっても古びないフリゼールの音楽の秘密は、その超合金的組成ゆえの本質的に多彩で強靭なサウンドにあるのだろう。ジム・ホールという名ジャズ・ギタリストが、ロン・カーター、レッド・ミッチェル、チャーリー・ヘイデンというベーシストたちとデュオで共演してきたその歴史的延長線上に、トーマス・モーガンと共演するビル・フリゼールがいる。

2020/02/07

近松心中物傑作電視楽

年末年始は、どうしても「何か日本的なもの」をゆっくりと見たり聞いたりしたくなるのだが、今年は近松門左衛門 (1653 - 1725) に関する作品(DVD、録画)をテレビで見ていた。近松といえばやはり「心中物」が有名だが、近頃は「心中」というと、高齢者夫婦とか、老々親子の無理心中とかいった救いのない悲惨な事件ばかりで、近松が描いたような「現世で無理なら来世で添い遂げよう」という相思相愛の男女の心中事件(情死。本来の心中)などほとんど聞いたことがない。300年前とは時代が違いすぎることもあるが、心中はもはや男女の愛のテーマにはなり得ないのかとも思う。しかし近松は、町民を主人公として書いた「世話物」人形浄瑠璃24編の中で、当時の実話に基づく「心中物」と呼ばれる作品を11作も書いている。いかに当時心中事件が多かったかということだろうが(遊女がらみの話が多い)、近松作品に刺激されて心中事件が増えたために、江戸幕府は「心中」という言葉を禁止し、実行者を罪人扱いし、『心中天網島』(しんじゅうてんのあみじま)発表の2年後には、ついに「心中物」浄瑠璃の上演も禁止したという。

心中天網島
2005 東宝DVD
『心中天網島』は、今からちょうど300年前 (1720) に実際に起きた、大坂・天満の紙屋治兵衛と曽根崎新地の遊女・小春の心中事件を元に、晩年の近松が書き下ろした「心中物」の最高傑作と言われている作品だ。事件からわずか2ヶ月後には上演されたというから、ものすごいスピードである。今から半世紀前の1969年に、その『心中天網島』を人形浄瑠璃以外の手法で描くことに挑戦したのが、篠田正浩監督の同名の傑作映画(表現社/ATG)である。この映画は学生時代にATG系封切り館で何度か見て、その後もテレビ放送やDVDで繰り返し見てきた。最近の映画は1回見れば十分なものばかりだが、何度見ても飽きず、毎回何かを感じる作品こそを名画と呼ぶのだろう。金と時間をたっぷりかけたというような即物的な理由ではなく、原作の質に加えて、才能ある制作者のアイデアと、作品を作り込むために注いだ情熱、エネルギーが、画面を通して観客に自然と伝わってくる作品のことだ。今回この映画を久々に見直してみたが、当然ながら往時の前衛的衝撃度は薄れてはいても、映画全体から伝わってくるエネルギーは今も変わらないことを再確認した。

篠田監督の映画化コンセプトは、近松の描いた男女の古典的悲劇に忠実に、人形による浄瑠璃劇を実際の人間が演じる映画で表現する、というものだ。制作資金の制約もあって、結果的に舞台演劇のようなミニマルかつ抽象的なセットと演出手法を用い、また役者の運命を操るかのような「黒子(黒衣)」を実際に画面に登場させるなど、当時としてはきわめて前衛的な手法を大胆に用いている。しかし篠田正浩(監督)、富岡多恵子(台詞)、武満徹(音楽)、粟津潔(美術)、篠田桃紅(書画)、成島東一郎(撮影)という錚々たる制作スタッフが目指したのは、あの時代に流行った目新しさを狙っただけの実験的な作品ではなく、また近松の傑作古典の単なる映画版でもなく、日本の伝統美を表現するまったく新しい映像作品を創造することだった。才気溢れる上記スタッフにとっては、制約がむしろ創造への挑戦意欲を一層掻き立てたことだろう。舞台のようにシンプルな画面構成、ハイコントラスト・モノクロによる光と影が圧倒的に美しい映像美に加え、斬新な美術、音楽、演出、さらに各役者の演技と細かい所作、台詞(せりふ) 回し等々、この映画を構成するあらゆる要素が実に綿密に考えられていることが分かる

映画のストーリーとシナリオは、「河庄」、「時雨の炬燵」、「大和屋」、「道行」の各段に沿って、近松の原作をほぼ忠実になぞっている。近松の浄瑠璃原本による 「太夫の語り」の美しい語感とリズムを、作家・富岡多恵子が “口語変換” した台詞も違和感がなく、それを喋る役者陣の登場人物 (人形?) へのなりきり振りも驚くほどだ。特に紙屋治兵衛役・中村吉右衛門が演じる情けない男ぶりも、女の持つ二面性と女同士の義理の真情を、遊女・小春と女房・おさんという二役で演じ分ける若き岩下志麻の美しさと演技も素晴らしい。三味線の使用をあえて控えめにし、代って琵琶、ガムラン、トルコ笛を用いて汎アジア的音空間を生み出した武満の音楽、浮世絵や書をデフォルメした背景やセットを用いた粟津の美術、モノトーンの究極美を追求した成島のカメラワーク、そして終始物語を先導する「黒子」の存在など、すべてに人形浄瑠璃とは異なる映像表現としての独創性と前衛性が顕著に見られる。人形浄瑠璃(文楽)は、じっと見ていると操る黒子が徐々に気にならなくなり、人形がまるで人間のように見えてくる。この映画では逆で、最初控え目だった黒子が物語の進行につれて徐々にその出番と存在感を増していき、それにつれて役者が段々と操られる人形のように見えてくる。あたかも情感と意志を持つかのように、二人を死へと導くこの黒子は、篠田によれば、原作者である近松自身だという。確かに近松の原作通り、世間の義理に背く者たちへの当然の報いだとする冷めた視点と、恋に溺れる心中者への憐憫が交錯する作者の心情が、各場面における黒子の「所作」から同時に表現されている。

映画の終盤、女房・おさんを義父に連れ去られた治兵衛は絶望のうちに心中を決意し、それまでの舞台のような抽象的セットを破壊する。場面が変わり実際の夜の屋外ロケで撮られた、美しくまた凄惨な夜半の道行(名残の橋づくし)はこの映画の白眉であり、吉右衛門、岩下の迫真の演技で描かれる ”彼岸への旅” の、日本的エロスと無常感が漂うリアルな映像美は日本映画史に残るものだ。この時代の日本には活力がみなぎり、内側から何かを変革しようとするエネルギーに満ちた若き才能が溢れていた。制作当時、篠田も武満も粟津もみな30歳台後半である。この映画が放つ時代を超えた芸術的芳香と力は、それらの才能とエネルギーが奇跡的に一つに集結できた時代の産物である。いくら金をつぎ込みCGを駆使しても、もはやこのように濃密な作品が生まれることはないだろう。

ちかえもん
2016 DVD-Box
ポニーキャニオン
もう一つの「近松心中物」の現代版傑作は、半世紀前に作られた芸術指向のシリアスな上記映画とは対照的なコンセプトで、NHK2016年上半期に放送した木曜時代劇『ちかえもん』(全8回) である。こちらは大坂の遊女・お初と商家平野屋の手代・徳兵衛の心中実話を描き、「世話物」初の作品となった『曽根崎心中』(1703) の誕生秘話をデフォルメした現代流パロディである。作者の近松門左衛門を主役(妻に逃げられ、スランプ中のさえない作家)として描いた「創作時代劇」なので、筋立てや登場人物の役柄は一部変えているが、ギャグ満載のコメディでもあり、ファンタジーでもあり、ミュージカル的でもあり、落語的でもある、という「笑いと涙と芸」が混然一体となった上方芸能の真髄が、見事に伝わってくる大傑作ドラマだ。近松の「虚実皮膜論」をドラマという場で試みたとも言える。タイトルの『ちかえもん』からして『ドラえもん』的だし、各回には「近松優柔不断極(ちかまつゆうじゅうふだんのきわみ)」(第1回) といった浄瑠璃風タイトルが付けられているななど、遊びごころで一杯だ(このブログ記事のタイトルも、それに倣って「ちかまつしんじゅうものけっさくをテレビで楽しむ」と読む。ただし、いいかげんだが)。本格的セットと衣装で演技する時代劇でありながら、毎回近松 (松尾スズキ) による現代関西弁の独り言と、有名フォークソングなどの替え歌が挿入されたり、アニメーションが入ったりと、とにかく意表を突く演出の連続で、毎回大笑いさせられる。悪役も登場するにはするが (黒田屋九平治を演じる山崎銀之丞がうまい)、悲劇ではなくハートウォームな結末にしたことを含めて、物語全体が終始コミカルかつ温かいトーンで満たされているところが素晴らしい。

「ちかえもん」役の松尾スズキ(リアクション芸、顔芸に注目)、謎の ”不幸糖売り”  万吉」役の青木崇高 (憑依芸に注目)に加え、早見あかりの「お初」(顔が洋風だがうまい)小池徹平の「あほぼん徳兵衛」(意外と適役)のカップル、岸部一徳(平野屋主人役はこの人しかいない)と徳井優(引っ越しのxxx風番頭がハマり役)の旦さん/番頭コンビ芸といい、その他の出演者も全員が素晴らしい。ちかえもんの母親役・富司純子のボケの名演技に、大昔(1960年代)の舞台コメディ『スチャラカ社員』(藤田まこと主演) に出演していた美人OL「ふじクーン!」(藤純子時代)を懐かしく思い出すのは私だけではないだろう。劇中に、当時の竹本座による人形浄瑠璃『曾根崎心中』の上演を再現したシーンもあるし (北村有起哉による「大夫の語り」が本職並みだ)、ドラえもんのように、主人公ちかえもんをいつも窮地から救う万吉が、(人形に魂が宿るという)人形浄瑠璃へのオマージュともなる涙々のファンタジックなオチも素晴らしい。「楽しめる」テレビドラマという観点からは、おそらくこの作品はこれまでの人生で私的ベストワンだ。

今や、新たにテレビ時代劇を手掛けるのはNHKのみといった状態だが、現代劇に新味が欠ける現状からすると、CGが使えるようになって、想像力次第でどんな物語も映像化が可能な時代劇は新鮮でもあり、テレビにとって益々有望なジャンルになるだろう (NHKもAIひばりとかに余計な金を使っていないで、もっと予算対象を絞るべきだろう)。この作品も今回録画を見返したが、演技や言葉遊びの洒落と面白さは何度見てもまったく変わらず、むしろ台詞や所作の細部の面白さにあらためて気づいて、毎回さらに楽しめるという驚くべき完成度を持ったドラマだ。これも傑作の朝ドラ『ちりとてちん』を書いた脚本の藤本有紀は、この作品で同年の「向田邦子賞」を受賞している。ストーリーの面白さもそうだが、“江戸の粋” と “上方の情” という違いはあっても、二人はユーモアのセンスでも肩を並べると思うし、藤本有紀が翌2017年にNHKで書いた、上方と江戸を結ぶ人情時代劇『みをつくし料理帖』も、とてもよくできたドラマだった。彼女はまさに向田邦子の世界を引き継ぐドラマ界の才人だ。

映画化、テレビドラマ化の他にも、これも名作『冥途の飛脚』他を題材にした秋元松代・作、蜷川幸雄・演出の『近松心中物語』という演劇が1979年の初演以来ロングランを続け、スタッフ、キャストを変えながら今も上演されているという(私はまだ見たことがないが)。男女の実際の心中事件はもはや絶滅しかかっていても、300年も前に書かれた古典的心中物語が、こうして未だに取り上げられ、現代の作家や表現者を触発して新しい作品を生み出し続けているのは、近松門左衛門の作品に、やはり時代を超えて日本人の心に訴える何かがあるからなのだろう。