年末年始は、どうしても「何か日本的なもの」をゆっくりと見たり聞いたりしたくなるのだが、今年は近松門左衛門 (1653 - 1725) に関する作品(DVD、録画)をテレビで見ていた。近松といえばやはり「心中物」が有名だが、近頃は「心中」というと、高齢者夫婦とか、老々親子の無理心中とかいった救いのない悲惨な事件ばかりで、近松が描いたような「現世で無理なら来世で添い遂げよう」という相思相愛の男女の心中事件(情死。本来の心中)などほとんど聞いたことがない。300年前とは時代が違いすぎることもあるが、心中はもはや男女の愛のテーマにはなり得ないのかとも思う。しかし近松は、町民を主人公として書いた「世話物」人形浄瑠璃24編の中で、当時の実話に基づく「心中物」と呼ばれる作品を11作も書いている。いかに当時心中事件が多かったかということだろうが(遊女がらみの話が多い)、近松作品に刺激されて心中事件が増えたために、江戸幕府は「心中」という言葉を禁止し、実行者を罪人扱いし、『心中天網島』(しんじゅうてんのあみじま)発表の2年後には、ついに「心中物」浄瑠璃の上演も禁止したという。
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心中天網島 2005 東宝DVD |
『心中天網島』は、今からちょうど300年前 (1720) に実際に起きた、大坂・天満の紙屋治兵衛と曽根崎新地の遊女・小春の心中事件を元に、晩年の近松が書き下ろした「心中物」の最高傑作と言われている作品だ。事件からわずか2ヶ月後には上演されたというから、ものすごいスピードである。今から半世紀前の1969年に、その『心中天網島』を人形浄瑠璃以外の手法で描くことに挑戦したのが、篠田正浩監督の同名の傑作映画(表現社/ATG)である。この映画は学生時代にATG系封切り館で何度か見て、その後もテレビ放送やDVDで繰り返し見てきた。最近の映画は1回見れば十分なものばかりだが、何度見ても飽きず、毎回何かを感じる作品こそを名画と呼ぶのだろう。金と時間をたっぷりかけたというような即物的な理由ではなく、原作の質に加えて、才能ある制作者のアイデアと、作品を作り込むために注いだ情熱、エネルギーが、画面を通して観客に自然と伝わってくる作品のことだ。今回この映画を久々に見直してみたが、当然ながら往時の前衛的衝撃度は薄れてはいても、映画全体から伝わってくるエネルギーは今も変わらないことを再確認した。
篠田監督の映画化コンセプトは、近松の描いた男女の古典的悲劇に忠実に、人形による浄瑠璃劇を実際の人間が演じる映画で表現する、というものだ。制作資金の制約もあって、結果的に舞台演劇のようなミニマルかつ抽象的なセットと演出手法を用い、また役者の運命を操るかのような「黒子(黒衣)」を実際に画面に登場させるなど、当時としてはきわめて前衛的な手法を大胆に用いている。しかし篠田正浩(監督)、富岡多恵子(台詞)、武満徹(音楽)、粟津潔(美術)、篠田桃紅(書画)、成島東一郎(撮影)という錚々たる制作スタッフが目指したのは、あの時代に流行った目新しさを狙っただけの実験的な作品ではなく、また近松の傑作古典の単なる映画版でもなく、日本の伝統美を表現するまったく新しい映像作品を創造することだった。才気溢れる上記スタッフにとっては、制約がむしろ創造への挑戦意欲を一層掻き立てたことだろう。舞台のようにシンプルな画面構成、ハイコントラスト・モノクロによる光と影が圧倒的に美しい映像美に加え、斬新な美術、音楽、演出、さらに各役者の演技と細かい所作、台詞(せりふ) 回し等々、この映画を構成するあらゆる要素が実に綿密に考えられていることが分かる。
映画のストーリーとシナリオは、「河庄」、「時雨の炬燵」、「大和屋」、「道行」の各段に沿って、近松の原作をほぼ忠実になぞっている。近松の浄瑠璃原本による 「太夫の語り」の美しい語感とリズムを、作家・富岡多恵子が “口語変換” した台詞も違和感がなく、それを喋る役者陣の登場人物 (人形?) へのなりきり振りも驚くほどだ。特に紙屋治兵衛役・中村吉右衛門が演じる情けない男ぶりも、女の持つ二面性と女同士の義理の真情を、遊女・小春と女房・おさんという二役で演じ分ける若き岩下志麻の美しさと演技も素晴らしい。三味線の使用をあえて控えめにし、代って琵琶、ガムラン、トルコ笛を用いて汎アジア的音空間を生み出した武満の音楽、浮世絵や書をデフォルメした背景やセットを用いた粟津の美術、モノトーンの究極美を追求した成島のカメラワーク、そして終始物語を先導する「黒子」の存在など、すべてに人形浄瑠璃とは異なる映像表現としての独創性と前衛性が顕著に見られる。人形浄瑠璃(文楽)は、じっと見ていると操る黒子が徐々に気にならなくなり、人形がまるで人間のように見えてくる。この映画では逆で、最初控え目だった黒子が物語の進行につれて徐々にその出番と存在感を増していき、それにつれて役者が段々と操られる人形のように見えてくる。あたかも情感と意志を持つかのように、二人を死へと導くこの黒子は、篠田によれば、原作者である近松自身だという。確かに近松の原作通り、世間の義理に背く者たちへの当然の報いだとする冷めた視点と、恋に溺れる心中者への憐憫が交錯する作者の心情が、各場面における黒子の「所作」から同時に表現されている。
映画の終盤、女房・おさんを義父に連れ去られた治兵衛は絶望のうちに心中を決意し、それまでの舞台のような抽象的セットを破壊する。場面が変わり実際の夜の屋外ロケで撮られた、美しくまた凄惨な夜半の道行(名残の橋づくし)はこの映画の白眉であり、吉右衛門、岩下の迫真の演技で描かれる ”彼岸への旅” の、日本的エロスと無常感が漂うリアルな映像美は日本映画史に残るものだ。この時代の日本には活力がみなぎり、内側から何かを変革しようとするエネルギーに満ちた若き才能が溢れていた。制作当時、篠田も武満も粟津もみな30歳台後半である。この映画が放つ時代を超えた芸術的芳香と力は、それらの才能とエネルギーが奇跡的に一つに集結できた時代の産物である。いくら金をつぎ込みCGを駆使しても、もはやこのように濃密な作品が生まれることはないだろう。
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ちかえもん 2016 DVD-Box ポニーキャニオン |
もう一つの「近松心中物」の現代版傑作は、半世紀前に作られた芸術指向のシリアスな上記映画とは対照的なコンセプトで、NHKが2016年上半期に放送した木曜時代劇『ちかえもん』(全8回) である。こちらは大坂の遊女・お初と商家平野屋の手代・徳兵衛の心中実話を描き、「世話物」初の作品となった『曽根崎心中』(1703) の誕生秘話をデフォルメした現代流パロディである。作者の近松門左衛門を主役(妻に逃げられ、スランプ中のさえない作家)として描いた「創作時代劇」なので、筋立てや登場人物の役柄は一部変えているが、ギャグ満載のコメディでもあり、ファンタジーでもあり、ミュージカル的でもあり、落語的でもある、という「笑いと涙と芸」が混然一体となった上方芸能の真髄が、見事に伝わってくる大傑作ドラマだ。近松の「虚実皮膜論」をドラマという場で試みたとも言える。タイトルの『ちかえもん』からして『ドラえもん』的だし、各回には「近松優柔不断極(ちかまつゆうじゅうふだんのきわみ)」(第1回) といった浄瑠璃風タイトルが付けられているななど、遊びごころで一杯だ(このブログ記事のタイトルも、それに倣って「ちかまつしんじゅうものけっさくをテレビで楽しむ」と読む。ただし、いいかげんだが)。本格的セットと衣装で演技する時代劇でありながら、毎回近松 (松尾スズキ) による現代関西弁の独り言と、有名フォークソングなどの替え歌が挿入されたり、アニメーションが入ったりと、とにかく意表を突く演出の連続で、毎回大笑いさせられる。悪役も登場するにはするが (黒田屋九平治を演じる山崎銀之丞がうまい)、悲劇ではなくハートウォームな結末にしたことを含めて、物語全体が終始コミカルかつ温かいトーンで満たされているところが素晴らしい。
「ちかえもん」役の松尾スズキ(リアクション芸、顔芸に注目)、謎の ”不幸糖売り” 「万吉」役の青木崇高 (憑依芸に注目)に加え、早見あかりの「お初」(顔が洋風だがうまい)、小池徹平の「あほぼん徳兵衛」(意外と適役)のカップル、岸部一徳(平野屋主人役はこの人しかいない)と徳井優(引っ越しのxxx風番頭がハマり役)の旦さん/番頭コンビ芸といい、その他の出演者も全員が素晴らしい。ちかえもんの母親役・富司純子のボケの名演技に、大昔(1960年代)の舞台コメディ『スチャラカ社員』(藤田まこと主演) に出演していた美人OL「ふじクーン!」(藤純子時代)を懐かしく思い出すのは私だけではないだろう。劇中に、当時の竹本座による人形浄瑠璃『曾根崎心中』の上演を再現したシーンもあるし (北村有起哉による「大夫の語り」が本職並みだ)、ドラえもんのように、主人公ちかえもんをいつも窮地から救う万吉が、(人形に魂が宿るという)人形浄瑠璃へのオマージュともなる涙々のファンタジックなオチも素晴らしい。「楽しめる」テレビドラマという観点からは、おそらくこの作品はこれまでの人生で私的ベストワンだ。
今や、新たにテレビ時代劇を手掛けるのはNHKのみといった状態だが、現代劇に新味が欠ける現状からすると、CGが使えるようになって、想像力次第でどんな物語も映像化が可能な時代劇は新鮮でもあり、テレビにとって益々有望なジャンルになるだろう (NHKもAIひばりとかに余計な金を使っていないで、もっと予算対象を絞るべきだろう)。この作品も今回録画を見返したが、演技や言葉遊びの洒落と面白さは何度見てもまったく変わらず、むしろ台詞や所作の細部の面白さにあらためて気づいて、毎回さらに楽しめるという驚くべき完成度を持ったドラマだ。これも傑作の朝ドラ『ちりとてちん』を書いた脚本の藤本有紀は、この作品で同年の「向田邦子賞」を受賞している。ストーリーの面白さもそうだが、“江戸の粋” と “上方の情” という違いはあっても、二人はユーモアのセンスでも肩を並べると思うし、藤本有紀が翌2017年にNHKで書いた、上方と江戸を結ぶ人情時代劇『みをつくし料理帖』も、とてもよくできたドラマだった。彼女はまさに向田邦子の世界を引き継ぐドラマ界の才人だ。
映画化、テレビドラマ化の他にも、これも名作『冥途の飛脚』他を題材にした秋元松代・作、蜷川幸雄・演出の『近松心中物語』という演劇が1979年の初演以来ロングランを続け、スタッフ、キャストを変えながら今も上演されているという(私はまだ見たことがないが)。男女の実際の心中事件はもはや絶滅しかかっていても、300年も前に書かれた古典的心中物語が、こうして未だに取り上げられ、現代の作家や表現者を触発して新しい作品を生み出し続けているのは、近松門左衛門の作品に、やはり時代を超えて日本人の心に訴える何かがあるからなのだろう。