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2020/07/31

あの頃のジャズを「読む」 #5:ジャズ批評家(相倉久人)

ジャズの歴史物語
2018 角川ソフィア文庫
1970年代になると、安価な国産アナログLPレコードが大量に流通するようになり、オーディオもレコードも買えるようになったジャズファン層向け市場が大きく成長していた。ジャズ雑誌には「ジャズ評論家」と呼ばれた人たちが書いた、毎月各社から大量に発売される新譜レコード(復刻盤含)、名盤の解説やレコード評が掲載されていた。当時は他に情報源がなかったので、普通のジャズファンは、まずそれらのレビューを参考にして、気に入りそうなレコードを選んで購入していたわけである。当然だが、市場拡大につれ、レコードを売りたいレコード会社と、その広告を主たる収入源としていたジャズメディアとの間に、商業主義が忍び込む構造が益々強まった。1960/70年代の有名なジャズ評論家としては、野口久光、植草甚一、いソノてルヲ、大橋巨泉、油井正一、相倉久人、久保田二郎、粟村正昭、岩波洋三、大和明、佐藤秀樹、岡崎正通のような人たちがいた。これら評論家の中には、単なるレコード評、ミュージシャン評にとどまらず、ジャズという音楽全体を俯瞰する視点で書いた本格的な論稿、書籍を発表する人たちもいた。当時の「本流」と言うべき代表的批評家が、モンクやパーカーと同世代であり、同時代の音楽としてジャズと向き合ってきた油井正一(1918 - 98)である。ジャズの基本知識を分かりやすく軽妙に解説している油井の代表作で、今や古典と言うべきジャズ入門書『ジャズの歴史物語』(1972 スイングジャーナル社)は、3代目となる角川文庫版が2018年に出版され、半世紀近く読み続けられている名著だ。

一方、大正生まれの油井より一世代ほど後、昭和一桁生まれの相倉久人(あいくら・ひさと 1931 - 2015)は、1960年代の「前衛」を代表する批評家であり、単なる批評家に留まらず、日本独自のジャズ創出に注力した「ジャズ思想家」と呼ぶべき人物でもあった。当時のジャズ評論家が、レコード・コレクター、元ミュージシャン、デザイナー、作家、ジャズ誌編集者などの前歴や本業を持っていたのに対し、戦争末期(1945)の中学時代に難関だった陸軍幼年学校を受験し、合格、入学するも、わずか4ヶ月後に終戦を迎え、その後東大文学部美学科に入学したが、ジャズに夢中になってジャズ喫茶に入り浸って大学を中退、その後雑誌編集の手伝いをしたのがジャズ人生の始まり……という変わり種だった。楽器を演奏せず、レコードもレコードプレーヤーも持たず、当時有楽町にあった「コンボ」というジャズ喫茶だけが主な情報源で、大橋巨泉やいソノてルヲ、銀座のクラブへ出演する途中に同店へ立ち寄っていた秋吉敏子や渡辺貞夫をはじめとするジャズ・ミュージシャンたちとも交流していた。やがて60年代になると、高柳昌行たちの実験的ジャズ演奏現場に直接関わるようになり、そうした体験を通じて自らの目と耳を鍛えることで、独自のジャズ観と思想を作り上げていった。

相倉久人ジャズ著作大全
上巻/2013 DU BOOKS
前に触れたように、私が1970年頃に初めて買った相倉久人のジャズ本『現代ジャズの視点』(1967)は、ジャズ初心者には難しすぎて面白くも何ともなかったが、今は多少は分かるようになった同書と、初の単行本『モダン・ジャズ鑑賞』(1963) に加え、1954年の初の記名論稿を<上巻>に、『ジャズからの挨拶』(1968) と『ジャズからの出発』(1973) という後期2作を<下巻>に収め、1954年から70年代初めにかけて発表した単行本4部作を完全収載し、相倉の最晩年になって出版したのが『相倉久人ジャズ著作大全』(上/下巻、2013 DU BOOKS)である。ジャズをより深く理解したいという人向けの本であり、歯ごたえのない「薄い、軽い、速い」という本ばやりの昨今だが、相倉が20年近くにわたって様々な媒体に寄稿した文章を編纂した、この「分厚く、濃い」<上/下2巻>をじっくりと読めば、ジャズとは何か、日本のジャズ史がどのようなものだったのか、そのほぼすべてが表層ではなく「より深いレベルで」理解できる。ジャズという音楽の歴史、ジャズをどう聴くか、なども通り一遍の解説ではないし、相倉がほぼリアルタイムで聴いていた60年代のコルトレーン、マイルス、ロリンズ、ミンガス、ドルフィー他に関する分析と批評も実に深く鋭い。さらに当時は誤った、あるいは曖昧な理解が多かったレニー・トリスターノ、セロニアス・モンク、セシル・テイラー等に関する論稿などは、あの時代の日本に、ここまで深く、的確に彼らの音楽の本質を理解していた批評家がいたのか、と驚くほど洞察力に富むものだ。

私がジャズに熱中した70年代には、相倉久人という名前をメディア上で聞くことはほとんどなくなっていた。理由は1971年に相倉が完全にジャズ界を去り、しかも60年代半ばに思想対立のために絶縁した「スイングジャーナル」誌が完全に相倉の存在を無視していたからだろう。しかし、1960年代という「政治とジャズの時代」に、もっとも熱くジャズと向き合い、独自の批評を展開していたのは相倉久人だった。ただし、その主対象は海外ミュージシャンのレコードや、50年代から既に表舞台にいた有名日本人ジャズマンというよりも、当時、日本独自のジャズを創造すべく地道に挑戦していた一群の若いジャズ・ミュージシャンと彼らの演奏活動にあった。自分でもジャズを演奏したかったが、楽器ができないので、やむなく「言葉」でジャズに関わった、と繰り返し述べているように、相倉にとってのジャズは娯楽ではなく、本ブログ#4までに書いたようなジャズレコードを集め、それを再生して楽しむ普通のジャズの聴き手の世界とは無縁だ。ジャズとは、レコードの音溝に記録された死んだ音楽ではなく、常に生きて動いている「行為」そのもののことであり、聴き手も鑑賞ではなく同時に参加する音楽だと捉えていた。60年代の著作を読めば分かるが、当時の相倉久人ほどストイックな深い視点で「ジャズとは何か?」という問いに対峙した「批評家」は、後にも先にも日本にはいないと思う。

相倉久人ジャズ著作大全
下巻/2013 DU BOOKS
1950年代から続く、アメリカのコピーが主流だった日本の商業的ジャズに飽き足らず、60年代初めにシャンソン喫茶「銀巴里」を拠点に、日本独自のジャズを生み出そうと模索し始めていた高柳昌行(g) や金井英人(b) 等の実験的ミュージシャンたちに加わった相倉が、やがて銀座「ジャズギャラリー8」や新宿「ピットイン」などのクラブで司会を務めつつ、山下洋輔、富樫雅彦といった当時新進のジャズ・ミュージシャンたちと交流し、彼らを理論的に導き、精神的に支えながら現場に関わり続けた経緯も本書に詳しい。「司会とは<言葉>によるジャズ演奏行為だ」というのが持論で、セロニアス・モンク(1963年)やジョン・コルトレーン(1966年)、さらにオーネット・コールマン(1967年)の初来日公演という、日本ジャズ史に残る記念すべき大イベントの司会進行も、30代の若さでいながら当意即妙の話術(インプロ)でこなした(全東京公演の司会をしたモンクを銀座に案内したが、予想通りほとんど会話はなく、その代りに一緒に来日していたネリー夫人、ニカ夫人と楽屋で会話したらしい)。加えて<下巻>には、相倉がジャズから離れていった70年代初めの、ロックやフォーク、演歌や歌謡曲というジャンルへの関心の高まりを示す初期の批評文も収められている。特に日本の歌謡曲の歌詞とメロディ、それを唄う青江三奈、北島三郎、藤圭子といった名歌手の「うた」とは何かに触れた文章は非常に興味深く、「日本のうた」の世界を、ジャズの理解と同じく原点から見直し、独自の視点で観察、分析する音楽評論はそれまでの日本にはなかっただろう。そこに洋の東西を問わない相倉の音楽思想の根幹が見えるようだ。そしてこれらが、70年代以降ジャズを離れた相倉のポピュラー音楽批評活動の出発点となった。

自らを「宇宙人」(!?) と称し、鋼鉄のようにクールで強靭な思想と理論で武装し、既成概念にとらわれず、権威に媚びず、徒党を組まず、60年代を通じてブレることなく独自のジャズ批評の世界を追求したのが相倉久人だった。血気盛んだった60年代半ばには、権威を振りかざす当時の「スイングジャーナル」編集部と喧嘩別れし、その後も武田和命や日本のフリー・ジャズに批判的な同誌の姿勢と対決するなど、権威や商業主義とは常に一線を画して批評活動を続けた。ジャズとは、あくまで「奏者と聴衆による共同行為」であると捉え、その「場」から生じる音楽エネルギーが相互にどう伝達され、そこに何が生じるのかという「力学」をチャート化し、物理学者のようにクールに分析する60年代の相倉久人のジャズ論は観念的かつ抽象的で難解だ。レコードや紙上の情報だけではなく、実際の演奏現場で鍛えた「プロの聴き手」相倉の思想を、ポピュラー音楽として、あるいはレコードで聴くジャズが一般的だった当時のメディアや普通のジャズファンがどこまで理解し、共感できたかは確かに疑問だ。当時ジャズ演奏の楽理やメソッドを真に理解していたのは、限られた数のプロ・ミュージシャンたちだけだった時代である。娯楽として「レコードを聴くだけ」の素人に至っては、素晴らしいジャズの即興演奏が、まるでマジックとしか思えないように聞こえた時代なのだ(私もその一人だった)。「音楽を語る」と言えば、ほとんどテクニカルな分析ばかりになった現代から見たら、信じ難いほどディープな議論を当時の相倉は提示していたわけである。

しかし「言葉による批評」をジャズ演奏行為と同一視する相倉の文章を今になって読むと、当時の時代背景や文脈なしには理解できないような言説を唱える人間が多かった中で、相倉の言葉には、それらを捨象しても何の問題もなく理解できる、時代を超えた普遍性があるのだ。現代の感覚からすると、政治の時代だった60年代的左翼フレーバーが濃厚に感じられることは否定できないし、一部論稿には「革命云々」といった過激な60年代的タームも多用されているが、当時の相倉に自ら政治活動に関与する意図はなく、ジャズという音楽がその出自のゆえに本質的に内包する属性(反体制的精神)が、ブラック・パワーやスチューデント・パワーが噴出していたあの時代の精神と激しく反応し共鳴している、ということを指摘しているだけだ。(そして、時代を先導し、時代の気分を象徴する音楽と言われていたジャズを、時代がついに追い越してしまったと相倉が感じたのが1970年前後だった。)ジャズという音楽の表層ではなく、歴史的視野を踏まえてその本質を捉えるという点で、相倉久人に並ぶ論客はいなかった。常に音楽社会学、音楽文化論的視点でジャズを見渡し、独自の美学と理論で貫かれた知的で骨のある文章を読み通すのは簡単ではないが、こうした論理的で硬質な文章を書くジャズ批評家は当時の日本には他に存在しなかったし、今もいない。相倉久人の60年代ジャズ思想を網羅した「ジャズ著作大全」は、油井正一の名著と並んで、日本のジャズ書アーカイブの筆頭に置かれるべき本だろう。

至高の日本ジャズ全史
2012 集英社新書
ジャズを離れた相倉久人は、晩年の2000年代になってから、何冊か回顧録的なジャズ本を出版している。ほとんどは上記「大全」からのダイジェスト的内容で、その一冊『至高の日本ジャズ全史』(2012 集英社新書)は、特に戦後から1960年代にかけての日本独自のジャズ形成史に焦点を当てて、批評家としての相倉の視点からあらためて振り返ったものだ。オビの文言は大仰だが、日本ならではの「国産ジャズ創出」への当時の熱気が伝わってくるような裏話がたくさん書かれている。有楽町「コンボ」と横浜「モカンボ」を結ぶ、ビバップ時代の守安祥太郎、秋吉敏子、ハンプトン・ホーズ他、もう名前も知らない人が大部分だと思われる実に多彩なジャズ・ミュージシャンたちの逸話と、その後60年代に日本産のジャズ創出を目指した前衛的ミュージシャンたちの活動など、その渦中にいた相倉ならではの観察と分析が興味深い。巻末には、山下洋輔を挟んで相倉の孫弟子のような存在でもある菊地成孔との、お喋りな自称・死神同士(?)による70年代以降のジャズを俯瞰する面白い対談も掲載されている。

ところで、元々はアメリカ生まれのジャズだが、「アメリカのモノマネではないジャズを」、「純国産かつ本物のジャズを」という、相倉久人や高柳昌行といった前衛指向の人たちが1960年代になって描いたという「ジャズの土着化」ヴィジョンが、当時のソニーやホンダのような日本企業が掲げていた目標と「同質」であるところが個人的には非常に興味深い。これもまた、60年代の進歩的、左翼的政治思想と共に、当時の日本全体を覆っていた「時代の空気」の一部だったのだろう。この本の中で、共同で演劇とジャズの融合を試みていた紅テントの唐十郎が、相倉久人のことを、先頭に立って組織を引っ張るタイプではなく、組織形成を促す「触媒のような人物」だと評した、という話が出て来る。相倉久人の本質は、自由を好み、あらゆる権威や支配/被支配を嫌うアナーキストであり、人を巻き込むオルガナイザーというよりも、新たな「こと」や「人」を生み出す環境を醸成し、そこに創造の喜びを見出すインキュベーターだったのだと思う。つまり人物そのものが「ジャズ的」だった。相倉を師匠と呼んだ山下洋輔が、その後の日本ジャズ界でどのような役割を演じてきたのかを見れば、アーティストを見極める相倉のインキュベーターとしての先見性がよく分かる。

60年代を通じてジャズ批評家として行動していた相倉だったが、もっとも期待をかけていた山下洋輔が1969年にフリー・ジャズのトリオを発足させ、目指していた日本オリジンのジャズを実現し、活動が軌道に乗りかけたと判断すると、「言葉」によって日本のジャズを孵化(incubate) させ、テイクオフさせるという自分の役目はもう終わった、と語って1971年にジャズ界からさっさと足を洗う(理由はもちろんそれだけではない)。その後は前衛映画制作に関わったり、ロック、ポップス、歌謡曲という異ジャンル音楽の批評家へと転身し、レコード大賞審査員やヤマハのコンテストの審査委員長を務める……など、あくまで「単独で」音楽ジャンルをクロスオーヴァーしてゆくこの軽快な足取りは、どう見てもアナーキストである。しかし相倉の盟友でもあった平岡正明のような政治的匂いがせず、しかし単なる批評家でもなく、常に「創作現場」の情況を見渡し、興味を持つと、そこに「行動する批評家」として自ら関わってゆくところが相倉久人なのである。

油井正一と相倉久人という私が好きな二人のジャズ批評家は、60年代から70年代初めにかけて「保守本流」と「前衛」という、いわば対照的な批評活動をしていたが、両者ともに魅力的な人物だった。単なるモノ書きではなく、油井はラジオ放送で、相倉は様々なイベント司会(MC)で、「言葉」を操って場を仕切ってゆくパフォーマーとしての優れた能力があった。しかも二人とも、本やラジオでの対談で分かるように、深い知識と教養がありながら偉ぶらず、飄々としていて会話が実に面白いのだ(これらも非常に大事なジャズ的要素だ)。ジャズに関する幅広く深い知識を有し、有力メディアを通じて分かりやすい語り口で大衆を啓蒙したモダニストが油井正一だとすれば、独自のジャズ美学を構築し、日本人のジャズ創作現場と常に密着しながら、彼らを鼓舞、扇動した一匹狼のアナーキストが相倉久人だった――とも言えようか。しかし、この二人の代表的批評家が「1970年頃までのジャズ」を語った本が、今も十分読むに値するという事実こそ、その後の半世紀、追記すべきほどの大きな歴史的進化がジャズにはなかった、ということの証左なのだろう。

2020/07/16

あの頃のジャズを「読む」 #4:ジャズの変容

油井正一
「アスペクト・イン・ジャズ」
2014 CDジャーナル・ムック
1960年代後半の日本は、戦後生まれの団塊世代が20歳前後となり、ロック、フォーク、ポップスなど軽音楽(死語?)への関心と需要が爆発的に増え、若者を中心に音楽全体の大衆化が一気に進んだ時代だ。それが、マイナーで難しい音楽だったジャズへの関心も増大させた。同時に、アメリカを中心にした海外のジャズやジャズ・ミュージシャンに加えて、日本国内で日本独自のジャズを追求するミュージシャンたちも、ようやく日の目を見るようになった。65年にバークリー留学から帰ってきた渡辺貞夫がボサノヴァ・ブームを巻き起こし、日野皓正のモダンなジャズ・ロックが映画やファッションでも人気となってフュージョン人気の先鞭をつけ、1970年前後からは富樫雅彦や山下洋輔が日本オリジンのフリー・ジャズで日本国内のみならず、世界のジャズ界をも驚かせるようになった。こうして日本におけるジャズはより多彩な音楽となって、限られた聴衆だけが好んでいた60年代の前衛的芸術音楽から、終戦後の50年代的ポピュラー音楽への道を再び歩き出す。ラジオ放送でも、FM東京の油井正一「アスペクト・イン・ジャズ」(1973 - 79)や、渡辺貞夫「マイ・ディア・ライフ」(1972 - 89) などが人気になって、全国にジャズとその情報が流れるようになった。

さらに、1977年からは田園コロシアム(後に読売ランド)の「ライヴ・アンダー・ザ・スカイ」、80年代に入ると、82年から斑尾の「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」、86年から山中湖の「マウントフジ・ジャズ・フェスティバル」などがそれぞれ始まり、その模様はTV番組でも放映された。景気が良くなると資金が潤沢になって芸術の芸能化が強まる(エンタメ化する)、というのが資本主義社会の常だ(逆もまた真で、景気が落ち込むと芸能の芸術化が起きがちだ。80年代米国ジャズ界におけるフュージョンからW・マルサリスへの流れはその象徴だ)。70年代から続く好景気に支えられて、マイナーだった日本のジャズ界にもやっと金が回るようになり、ロックやポップスでは普通だった、大資本スポンサー後援による大規模な野外ジャズ・フェス等が開催されるようになった(海外、日本人ミュージシャンともに、これらのコンサート出演者の豪華さは、今振り返るとすごいものだ)。こうしたイベントを可能にするほど聴衆が拡大した背景には、バブル景気と共に、80年代に主流となったフュージョンで、ジャズの大衆化(底辺拡大)がさらに進んだこともあっただろう。もちろん、それでもロック、ポップス、歌謡曲などに比べたら比較にならないほど小さなマーケットと聴衆だったとは思うが、バブル期の80年代末にかけては、(表層的には)おそらく史上もっとも日本のジャズ界が多彩で活気に満ちていた時代だっただろう。

辛口JAZZノート
寺島靖国 / 1987 日本文芸社 
だが1980年代は、日本中のあらゆる分野で、日本人全体が浮かれまくっていたので、後で振り返ると実質的に何も残っていない……という、文字通り泡と消え、祭の後のような空虚さが感じられる時代だったとも言える。ジャズの世界も同じ印象で、実際、個人的に記憶に残るほど印象的なレコードも演奏もほとんどないのだ。ある野外ジャズ・フェスで、最前列で酒を飲んで「踊りまくる」聴衆を見ながら、後方でジャズ仲間と座って聴いていた寺島靖国氏(当時、客が減って経営が苦しくなっていたジャズ喫茶「Meg」の店主で、1938年生まれの戦中派)が、ため息まじりの感想を述べている記事をよく覚えているが、これが80年代日本のジャズの風景を象徴している。寺島氏は、こうしたジャズの変容と、相変わらず黒人や大物ばかり取り上げる権威主義、教条主義のジャズメディアに逆らい、無視されてきたマイナーな50年代白人ジャズを敢えて紹介するなど、あくまで個人の趣味を重視する「分かりやすい」ジャズの聴き方を『辛口JAZZノート』(1987) という処女本で打ち出し、これが(たぶん)当時の風潮に不満を持っていた多くのジャズファンの共感を呼び、大ヒットした(私も吉祥寺駅ビル2Fの本屋で初版を買った)。ジャズ喫茶店主や、他の著者によるいわゆる「ジャズ本」は、この本がきっかけとなって、その頃から90年代にかけて数多く出版されるようになった。私も、その後「テラシマ本」はほとんど読んだと思うし、「Stereo」誌や「オーディオアクセサリー」誌などで、快楽の泥沼オーディオ(?)に踏み込んでからの記事も愛読していたが、クリーン電源確保を目的にしたオーディオ専用ケーブルや屋内トランス設置はともかく、自宅の庭に「マイ電柱」を立てたあたりでさすがに引いた…(面白かったが、我が家には庭がないし…)。しかし、その後も2000年代に入ってプライベート・レーベルの「寺島レコード」を興すなど、常に超個人的趣味優先で、多少の迷走や暴走(?)があったにしても、寺島氏が先頭に立って、ジャズとは多彩な音楽であり、その聴き方も自由だという思想を打ち出して、世紀末におけるジャズとオーディオの世界の楽しみ方を広げてくれたことは確かだ。

吉祥寺 「Sometime」
話は少し戻るが、1970年代になると銀座や青山、六本木のような都心に、ライヴ演奏が楽しめるジャズクラブが何軒も登場し、80年代後半のバブル時代まで、店の数も増加し続けた。ただし増えたのは65年開業の老舗、新宿「ピットイン」のようにコアなジャズをひたすら聴かせる店よりも、ジャズのライヴ演奏と一緒に酒や食事も楽しめる「大人のジャズクラブ」である(バブル期の88年に開業した「Blue Note東京」は、その頂点だ)。さらに都心だけでなく、JR中央線沿線など郊外にも何軒かカジュアルなジャズクラブが出現し、ライヴ演奏がやっと身近で楽しめるようになってきたのも70年代後半だ(吉祥寺の老舗「Sometime」は1975年開店である)。60年代にジャズに熱中した青春時代を送り、その後中堅社会人になって、おまけにバブルで金回りのよくなった(?)団塊世代が、80年代に(カラオケに加えて)これらのジャズクラブの中心的客層になったのは間違いないだろう。

日本におけるジャズは、こうして70年代から80年代にかけて、暗いジャズ喫茶で(煮詰まった)コーヒーをすすりながら、深刻な顔をしてレコードを聴く「小難しい音楽」から、明るい屋外でリラックスして(たまには踊って)「陽気に聴くライヴ音楽」へ、さらに夜はジャズクラブで酒を飲みながら、ゆったりとライヴ演奏を聴く「おしゃれな音楽」へと徐々に変貌していった。そしてバブル到来と共に、80年代終わりに最盛期を迎え(最後のアダ花を咲かせ?)、90年代初めのバブル終焉と共に、1950年代からのいわゆる「モダン・ジャズの時代」も終わりを迎えたと言えるだろう。こうして振り返ると、戦後日本のジャズの盛衰は、良くも悪くも、団塊世代の人生の歩みとシンクロしていることがよく分かる。そしてそれから30年、モラスキー氏の『ジャズ喫茶論』(2010)からも既に10年が過ぎた今は、演奏者の顔が見えない「匿名ジャズ」が、TVの中でも街中でも便利なBGMとなり、また日本中のクラブやバー、コンサート会場、ジャズ・フェスなどで、プロアマ問わず日本人ジャズ・ミュージシャンによるライヴ演奏が毎日のように聴ける時代になった。1960年代には前衛であり先端音楽だった日本におけるジャズは、今や誰もが自由に聴いて楽しみ、演奏できる普通の音楽の一つになったと言えるだろう。

吉祥寺「A&F」
ところで、インターネットで自由に音源を選べる昨今では、レコード音源を聞かせる昔ながらのジャズ喫茶は、一関「ベイシー」など地方の一部の老舗名店を除くと、今や発見困難なほど稀少かつ貴重な存在となった(客が来ないので当然だ)。たまにあっても、音量を絞ってBGM的に静かにジャズを流す店がほとんどだ。思えば、1970年代は吉祥寺を中心に都内の大方のジャズ喫茶に顔を出したが、当時まだ多かった60年代的な密閉感の強い、暗く、狭いジャズ喫茶が苦手だった私は(それが好きな人はもちろんいた)、吉祥寺の中でも比較的明るくゆったりとした「A&F」によく通った。ネットで調べても「A&F」はファンが多かったようで、新譜がよくかかったこと、音がこもらずにクリーンで気持ちが良かったこと、ママさん(大西店主の奥さん)もいて店の雰囲気が明るかったこと、などが理由にあげられているが、同感だ。他店に比べて敷居が低く、構えずに誰でも気楽に入りやすかったのである。当時は吉祥寺いちばんの老舗だった野口店主の「Funky」も、寺島店主の「Meg」も、まだ60年代の雰囲気が濃厚で、なんとなく空気が重く、店に入るのに勇気がいる感じだった(寺島店主などは、後年のオーディオ狂い時代と違って、暗く神経質な文学青年みたいだったし…。しかし後年アルコールを導入するなど方針転換してジャズクラブ的になったその「Meg]も、2018年についに閉店し、現在は同名の後継店になっている)。一方の「A&F」には普通に会話のできる談話室も階段をはさんで反対側にあり、聴取室側には JBL と ALTEC の2組の大型SPシステムが並んで置かれていた。「A&F」で知った名盤や当時の新譜も数多く、2つのSPシステムから交互に再生される、カラッとした開放的なジャズサウンドを聴きに行ったあの日々は、正直言って本当に楽しかったし、懐かしい(同店は2002年まで営業を続けたようだ)。

現代のジャズ喫茶
神戸・元町「JamJam」
現在、こうした古典的ジャズ喫茶の香りを残しつつ、高度なジャズサウンドを大きなスペースでゆったりと、かつ大音量で楽しめるのは、大都市圏では、私の知る限り神戸・元町の「JamJam」だけだ。昔のジャズ喫茶では普通だったレコード・リクエストは受けない、など店主の哲学も明快だし、店内は多少暗いが、昔のジャズ喫茶と違って広く、天井が高く、空間容量が大きいので、オーディオ的にも理想的な環境だ。また「A&F」と同じく、聴取専用席に加えて会話のできる席もある。2017年3月のブログ記事「神戸でジャズを聴く」で紹介しているが、初めて同店を訪れたときは、まさに70年代にタイムスリップしたのではないかと思えるほど感激したのを覚えている。私的理想とも言えるジャズ喫茶「JamJam」で鳴るジャズは、ライヴ演奏とは別種の、(音響に優れた昔のジャズ喫茶やオーディオショップ等で時々聴けた)ヴァーチャル・リアリティ的次元のジャズサウンドであり、同店は現代の大都市にあって唯一それが楽しめる貴重な「異空間」だ。未体験の人(もちろんジャズやオーディオに興味のある人)は、ぜひ一度訪問してみることをお勧めする。ちまちましたヘッドフォンによる脳内音楽でもなく、単に音がばかでかいだけの「爆音」でもない、スピーカーが実際に大空間の空気を震わせて、過去の名演を立体的に再現するリアルなジャズ・オーディオの世界と、半世紀前からの日本的ジャズの楽しみ方がどういうものだったのか、それらが実際に体感できると思う。同店には関西に出かけるたびに立ち寄ってきたが、今年はコロナ禍で行けないのが残念だ。今は阪神大震災以来の2度目の苦境に直面しているのかもしれないが、「JamJam」には、なんとか頑張って生き残って欲しい。

2020/07/03

あの頃のジャズを「読む」 #3:レコード

「幻の名盤読本」
スイングジャーナル
1974年4月
ジョン・コルトレーン(67年)、アルバート・アイラー(70年)の連続死で、1970年代に入ったアメリカでは既にフリー・ジャズもほぼ終わりつつあり、マイルスの電化ジャズが登場しても、ロックに押されてジャズ人気は相対的に下降気味だった。ところが一方、1970年代半ばの日本では、1950/60年代録音のアナログLPレコードが、いわば新譜と同じか、場合によってはそれ以上に価値あるものとして扱われていた。ジャズは、興味を持つと次から次へと聴きたくなる中毒性のある音楽なので、レコード・コレクターと言われる人たち以外の普通のジャズファンでさえ、ジャズ雑誌の「幻の名盤」特集などを、わくわくしながら読んで、当時はあちこちにあったレコード店を何軒も探し回ったりしていた。こうした動きに呼応して、60年代ほどではなかったにしても、アメリカのベテラン・ミュージシャンたちが盛んに来日していた(本国では仕事が減ってきたこともあって)。もちろん、70年代のジャズ新譜や、日本人ミュージシャンの演奏をリアルタイムで聴いて楽しんでいた人もいただろうが、大部分の「普通のジャズファン」は、まずは1950/60年代のマイルスやコルトレーンの名演や、それまであまり知られていなかったミュージシャンたちの名盤と言われるレコードをジャズ喫茶や自宅で初めて聴いて、その素晴らしさに感激していたと思う。都会の一部を除き、海外や日本のミュージシャンのライヴ演奏を聴く場も機会も当時は限られていたので、大方のジャズファンにとっては、たとえ過去のものであっても、ジャズの本場アメリカのレコードという音源が依然として魅力的かつ貴重だったのである。

いずれにしろ、おそらく60年代よりもずっと早く海外の音楽情報が伝わったはずにもかかわらず、70年代の日本には、リアルタイムのジャズシーンとは別に、アメリカと実際10 - 15年くらいのタイムラグがある「レコードを中心にした日本独自のローカルジャズシーン」が存在していたということである。これはやはり、既にあったジャズ喫茶という存在とともに、「スイングジャーナル」誌を中心とするジャズメディアが、レコード業界やオーディオ産業と共に作った特殊な日本的構造と言っていいのだろう。当時まだ若かった私のような新参のジャズファンは、知らずに洗脳されつつ、その世界を大いに楽しんでいたことになる。60年代はよく知らないが、オーディオへの関心を含めたジャズの大衆化、コマーシャル化を推進した1970年代の「スイングジャーナル」誌には、後で振り返れば功罪共にあるのだろうが、ジャズという音楽の面白さ、素晴らしさを、できるだけ多くの音楽ファンに知ってもらおうとする「志」も、同時に感じられたことも確かである(80年代以降は?だが)。特に、私が今でも何冊か所有している70年代に発行されたジャズレコードの特集号は貴重であり、解説付きレコードカタログとして非常にクオリティが高いものだ。

「私の好きな1枚の
ジャズ・レコード」
1981 季刊ジャズ批評別冊
『季刊ジャズ批評』は、当時はコアなジャズファンを対象としたジャズ雑誌で、『別冊』ムック本を定期的に出版していた。1981年の別冊「私の好きな1枚のジャズ・レコード」は、ミュージシャンや、作家他の各界ジャズファンが、それぞれ思い入れの深いジャズ・ミュージシャンのレコード1枚(計110人)について語った文章(1978/80既出文)を収載したもので、日本人がジャズレコードに寄せる独特の思いが全編に溢れている。執筆者の多彩さにも驚くが、中には、ジャズへの愛情のみならず、その人の人生までもが1枚のレコードを通して、しみじみと伝わって来るようなすぐれたエッセイもある。その後も同様の企画があったが、この時代に書かれた文章のような熱さと深みは当然だが望むべくもない。ジャズクラブのように、同一の時空間で演奏者と聴衆が共有する1回性の「ライヴ即興演奏」こそがジャズの醍醐味だ、と考えるモラスキー氏のような普通のアメリカ人(かどうかは分からないが)が、こうした日本人のレコード偏重を奇異に思ったのもまた当然だろう。特に彼は、聴き手(鑑賞側)というだけではなく、自分でもジャズピアノを弾く演奏側という立場でもあるところが視点の違いに関係しているように思う(一般に、ジャズ・ミュージシャンは過去に録音された自分の演奏にあまり興味を持たない人が多いようだ。現在の自分の演奏、前に進むことのほうが大事だからだろう)。

「レコード」に対するジャズファンのこの特殊な姿勢は、日本における明治以来の西洋クラシック音楽の輸入、教化、普及という受容史も大いに影響していると思う。つまり生演奏を滅多に聴けないがゆえに、複製代替物ではあるが、レコードという当時はまだ「貴重な」メディアを通して西洋の音楽を「拝聴する」、という姿勢が学校教育などを通じて自然に形成されてきたからだ。クラシック音楽と同様に、60年代には芸術音楽だと思われていた貴重なジャズのレコードを、つい「鑑賞する」という態度で聴くのも、普通の聴き手にとっては自然なことだった。ジャズを聴きながら「踊る」などとんでもない話で、じっと目を閉じて、音だけを聴いて演奏の「イメージ」を膨らませるわけである(踊らずとも、指や足でリズムはとっていた)。それ以前からあったクラシック音楽の「名曲喫茶」がそうだったように、たとえ再生音楽であっても「高尚な場と音楽」を提供する側(ジャズ喫茶店主)が、何となく偉そうで権威があるような立ち位置になるのも、クラシックの世界と同じ構造なのだ。「店内での会話・私語厳禁」という信じられないような「掟」を標榜していたジャズ喫茶があったのも、咳払いや、何気に音を立てることにもビクビクする、あのクラシックのコンサート会場で現在でも見られる光景と根は同じである。(行ったことがないので知らないが、アメリカのクラシックのコンサート会場でも同じなのだろうか? それともお国柄で、みんなリラックスして例の調子で聴いているのだろうか?)

Cool Struttin'
Sonny Clark / 1958 Blue Note
もう1点は「オーディオ」の役割とも関わることで、何度も繰り返し再生し、鑑賞できるレコードだからこそ、音や演奏の持つ「細部の美」に気づき、そこに「こだわり」が生まれる。これは芸術評価における日本的繊細さや美意識の伝統(特に陰翳美に対する)から来るもので、既にクラシック音楽鑑賞でこうした文化的伝統は形成されていた(アメリカ文化はダイナミックだが、基本的に何事も平板で大雑把だ)。そのためには再生される「音響のクオリティ」が大事で、生演奏を彷彿とさせるレベルのサウンドが望ましい。趣味のオーディオが際限なく泥沼化しやすいのも、この「高音質へのこだわり」のせいであり、本来ダイナミックでオープン、つまりどう展開するのか分からない「アメリカ的な大雑把さ」が魅力であるジャズという音楽と、スタティックで「整然としたミクロの美」にとことんこだわる日本的嗜好の融合が、日本におけるジャズの風景を独特なものにしてきた最大の理由だと言えるだろう。

特に1950年代後半のジャズレコードは、単なる1回性の即興演奏を録音したものだけではなく(プレスティッジの多くはそうだったらしいが)、ブルーノートやリバーサイドの名盤のように、スタジオに特別編成のメンバーを集めたり、ヴァンゲルダーのような優れた録音エンジニアによって高い録音クオリティを確保したり、プロデューサーのいる場で何度もリハを重ね、総合的にじっくりと作り込んだ「作品」という性格が強いアルバムも多かった(たとえば、1956年のセロニアス・モンクのアルバム同名曲<Brilliant Corners>の演奏は、リバーサイドのプロデューサーだったオリン・キープニューズが、25回の「未完成」録音テイクをテープ編集して完成させたものだ、という話は極端な例として有名だ。これはその後のマイルス/テオ・マセロ合作を経て、音楽ジャンルに関わらず、今では当たり前に行なわれている録音手法である。)。それらは確かに1回だけの「生演奏」とは違うが、繰り返して聴く価値のある演奏が収録された「ジャズ作品」と考えられていたし、事実優れた演奏やアルバムも多かった。だからソニー・クラーク Sonny Clarkというピアニストとその作品『クール・ストラッティン Cool  Struttin'』(1958 Blue Note) の存在を知らない、あるいはそのレコードに聴ける、翳のある独特のピアノの音色の魅力が分からないアメリカ人は、「本当にジャズを聴いているのか?」と思う日本人が多かったのである。

LPレコードに今でも人気がある理由の一つは、そうした時代の演奏とサウンドを再現するには、音源をデジタル化したり、圧縮したりして加工された音ではなく、当時のアナログ録音手法に則った再生方式の方が原理的に「より忠実で再現性が高い」、という考え方があるからだ。そして、たとえ疑似体験と言えども、それを最大限楽しむには、ジャズという音楽が持つエネルギーが聴き手に十分に伝わり、同時に演奏の細部も聞き取れるような高音質で、かつ音量を上げた再生が望ましいのである。こうした日本人の持つ嗜好や美意識、つまりは「オタク文化」を、米国のジャズ文化との比較を交えた日米文化論としてもっと掘り下げたら、モラスキー氏の『ジャズ喫茶論』はさらに深いレベルの議論になったようにも思う。

Waltz for Debby
Bill Evans / 1961 Riverside
 
ジャズとは常に「生きている」音楽であり、毎回の演奏に「想定外」のことが起こるところがその魅力と醍醐味なのに、レコードという缶詰音楽は、いかに名演、素晴らしい録音であっても、同じ音が繰り返し聞こえてくるだけの、所詮は「想定内」のいわば過去の音楽にすぎない、という見方の違いが根本的な部分だろう。「ジャズ(音楽)はライヴがいちばん」という認識は、「音源」が簡単に、自由に入手でき、貴重なものではなくなった現代では当然ながら高まっているが、生演奏を聴く機会がまだ少なく、西洋音楽鑑賞法の伝統が濃厚で、芸術鑑賞に独特の視点があった半世紀前の日本の時代状況を考えれば、聴き手がジャズという音楽に向き合う姿勢(ジャズ観)という点で、(ジャズの歴史的背景云々は別としても)そもそも日米間には大きな相違があったのではないかと思う。だから上記日本側の見方とは反対に、「日本人はジャズが分かっていない…」という見方が米国側の一部にあった(今もある?)のもまた当然なのだろう。しかし、面白くもない下手くそなジャズライヴを100回聴くより、好きなミュージシャンが演奏する1950年代の名盤を、ジャズ喫茶や自宅の優れたオーディオ装置でじっくりと聴いて楽しんだ方がよっぽどいい、という考え方が一方にあることも確かだ。ビル・エヴァンスのライヴ録音『Waltz for Debby』のレコードを、エヴァンス好きな日本人が耳を澄ませてじっと聴き入っているときに、「ヴィレッジ・バンガード」の(たぶん)アメリカ人女性客がバカ笑いする大声がスピーカーから響きわたる……という絵柄も、よく考えると、ある意味で実にシュールだ。