ページ

2021/02/26

モンクの『パロ・アルト (Palo Alto) 』(1968) を巡る話

2月17日はセロニアス・モンクの命日なので、毎年この時期はモンクがらみの話を書いている。今年は、昨年秋に初めてリリースされたモンクの未発表音源『パロ・アルト(Palo Alto)』に関する話を書いてみたい。ジャズという音楽の面白いところは、巨人と言われるような大物ミュージシャンの昔の録音がレコード化されずに眠ったまま、ある日突然発掘されて陽の目を見るところだ。しかもそれが、今聴いてもやはり「これぞ本物だ」としか言えないような、なぜ発表されなかったのか不思議なくらいすごい演奏の場合が結構あるのだ。

モンクの未発表音源でいちばん有名なのは、2005年に米国議会図書館で半世紀ぶりに偶然発見された、ジョン・コルトレーンが参加したモンク・カルテットの「カーネギーホール」でのコンサート・ライブ録音だろう(1957年11月30日録音『Thelonious Monk Quartet with John Coltrane Live at Carnegie Hall』)。そしてもう一つは、4年前の2017年にフランスで発見された音源で、音楽プロデューサーだったマルセル・ロマーノが保管していた、1959年の仏映画『危険な関係』のサウンドトラックとして使ったスタジオ録音だ。映画の中でしか聴けなかったモンク・カルテットと、そこにバルネ・ウィランが加わったクインテットによる演奏を収めた『Les Liaisons Dangereuses 1960』は、スタジオ内でのやりとりを含めて、こちらも奇跡的に生々しいステレオ録音が聴ける(2作とも本ブログ2017年10月「モンクを聴く」ご参照)。しかし、実はモンクを中心にしたジャズ未発表音源の文字通りの宝庫は、ニカ夫人が私家録音した膨大な量のテープだろうが、それらは門外不出としてロスチャイルド家管理の下、今も封印されたままのようだ。

昨年秋に初めてリリースされたモンクの未発表音源『パロ・アルト (Palo Alto)』(Impulse!) は、上記のモンク全盛期の録音2作とは異なり、モンクが50歳を過ぎた1968年10月に録音されたモンク晩年のライヴ演奏だ。そして、クラブギグ、コンサートホール、スタジオといった普通のジャズ演奏の場ではなく、サンフランシスコから40kmほど南へ下ったパロ・アルトにある地方高校の講堂で、若者を中心にした地元の聴衆を前にした昼間のライヴ演奏であるところも珍しい。モンクはサンフランシスコでは、ソロ名盤『Alone in San Francisco』(1959)、ビリー・ヒギンズや西海岸プレイヤーと共演した『At the Blackhawk』(1960)、本盤と同メンバーで、モンクの没後1982年にリリースされた2枚組『At the Jazz Workshop』(1964) など3作品を残している。『Palo Alto』の録音は『Underground』(1968年2月 NYC) の後、コロムビア最後の録音となったオリヴァー・ネルソンとのビッグバンド『Monk's Blues』(1968年11月 LA) の直前に位置する。ちなみに、モンクの人生最後の単独ライヴ録音は、ほぼ1年後の1969年12月にパリの「サル・プレイエル」で行われた、ヨーロッパでも最後となったコンサートである。

ロビン・ケリー著『Thelonious Monk』によれば、60年代後半のモンクは、経済的、精神的、肉体的に様々な問題を抱えていて、決して万全な状態とは言えず、自宅で倒れて意識不明のまま入院したり、特に精神的に好不調の波が非常に激しかった。とりわけ66-67年にバド・パウエル、エルモ・ホープ、ジョン・コルトレーンという盟友3人を相次いで失ったことで、モンクの音楽家精神と創造意欲をはさらに衰えていた。したがって60年代前半までのモンクにあった創造性や活力はあまり感じられないものの、相棒のチャーリー・ラウズ(ts) に加え、ラリー・ゲイルズ(b)、ベン・ライリー(ds)という非常にシュアな2代目リズムセクションを得て、長い時間をかけてバンドをまとめたおかげで、最もバランスの取れた安定した演奏をしていた時期でもあり、このレコードでの演奏もそれを反映している。プログラムも、夜のジャズクラブに聴きに来るような客層ではなく、若者を中心にした地元聴衆を意識して有名曲(Ruby, My Dear/ Well, You Needn't/ Don't Blame Me/ Blue Monk/ Epistrophyを集めた分かりやすいもので、音源となった素直なアナログ・ステレオ録音もライヴ感があって上々だ。

このレコードのもう一つの価値は1968年という時代背景にある。公民権運動、ベトナム反戦と続く既存体制や価値観の変革を求める運動は60年代後半にはさらに強まり、米国社会が騒然としていた中、パロ・アルトでのコンサートの半年前の1968年4月にキング牧師が、6月にはロバート・ケネディ上院議員がロサンゼルスで暗殺された。現在も続く人種問題の根は深く、融和に向かおうとしていた白人街パロ・アルトと、黒人街イースト・パロ・アルトの分裂も深まった。マイルス・デイヴィスと同じくモンクも、表立った政治的発言は決してしないジャズ・ミュージシャンだった。しかしこのパロ・アルトにおけるコンサートは、人種問題に揺れる1960年代末の米国西海岸の小さな町で、ジャズを愛する一人の白人高校生の熱意で実現したギグを通じて、期せずして人種を超えた地元の人々の融和にモンクが一役買った貴重な実例であり、このレコードはその背景を知って聴くと、より大きな意味を持つというのがロビン・ケリー氏の見方だ。確かに演奏会場全体に流れている、どことなく温かな雰囲気からも、そうした背景が伝わってくるようだ。

ロビン・ケリー氏と著書
モンク生誕100年にあたる2017年に出版した私の訳書『セロニアス・モンク 独創のジャズ物語』は、日本語で上下2段組700ページもある大著だ。しかし、実はこれでも訳文全体の約15%をカットしている。ロビン・ケリー氏の原書『Thelonious Monk』(2009) は600ページもあり、本文の全訳文だけでWord原稿で約80万文字だった(原稿用紙2,000枚分)。UCLA教授のケリー氏は歴史学者であり、本文の他にモンク家の全面協力の下、14年もの歳月をかけて収集した史料の出典や、背景を記した膨大な巻末脚注も加わっていて、仮に完訳本を出すとなると、最低でも800-900ページを優に超える長さになる(正直言って、翻訳中も何度か途中で投げ出したくなるほどの長さだった)。だから上下2巻にする以外に、日本語による完訳版の出版は難しい。しかし当然ながら、出版不況下の今どき、ジャズ・ミュージシャンを主人公にした、そんな長尺な翻訳書を出版してくれる出版社などない。『リー・コニッツ』も『パノニカ』もそうだが、『セロニアス・モンク』も私が自分で企画した翻訳書であり、版権確認と日本語翻訳の可否を著者のケリー教授に直接打診して、なぜ翻訳したいのかという理由も説明した上で、ご本人から許可をいただいて翻訳したものだ。私は、ジャズ本流の外側にいる特異な音楽家、あるいは単なる変人(時に狂人)といった表現で常に語られ、長い間誰も核心に触れられずにきたモンクという人物、その実人生、その音楽の素晴らしさを初めて真摯に伝えるこの本を、何としても日本語で紹介したいと思っていた。しかし、本来なら最初に決めるべき出版社も、当然自分の責任として翻訳後に探すという約束である(このやり取りを通じて、ケリー氏が本当に良い人物だと知った)。

しかし1年以上かけて翻訳した『セロニアス・モンク』出版を10社近くの出版社に打診しても、どこも「やろう」とは言ってくれなかった。モンクは、日本ではマイルスやコルトレーンのような一般的な人気者ではないので、読者数も限られるという営業上の懸念があり、もちろんそれが尻込みする最大の理由だったろうが、とにかく書物として「長すぎる」というのがもう一つの理由だった(何でも短いSNS全盛の時代に完全に逆行しているので、当然だろう)。そこで、ケリー氏に事情を説明し、日本語での完訳本出版は難しそうであり、唯一の可能性は、原書の一部をカットして、全体を短縮して単行本として出版する以外にないことを伝えた。そして日本の想定読者層を考えると、ジャズを中心にした「音楽書」として出版し、音楽と直接的関わりの薄い部分、つまり同書の物語を編む縦糸というべき、人種差別を核にした米国黒人史や政治史に関する記述部分を主にカットせざるを得ないが、それでも翻訳を許可してもらえるかどうかと尋ねた。ケリー教授はアフリカ系アメリカ人歴史学者であり、この本が単なるジャズ・ミュージシャンの伝記ではなく、米国黒人史を背景にしてモンクという独創的音楽家を描く、もっと大きな物語であることを私も重々承知していたので、無理かもしれないと半ばあきらめていたのだ(それに、昔は甘かったらしいが、今は翻訳する側が原書の内容に勝手に手を加えることを契約上許可しない著者や版元も多い)。ところが、ケリー氏がその提案を了承してくれたのである。

しかしながら、2016年秋口に何とかして15%ほど訳文を減らした修正案を準備してもなお、出版してくれるところはなかなか見つからなかった。そして半年ほど経った最後の最後になって(2017年4月)、本当にあきらめかけたときに手をあげてくれたのが、月曜社とシンコーミュージックの2社だった。結果的にシンコーミュージックから10月に出版していただくことに決まったが、それでも700ページというジャズ本としては異例の大著になった(月曜社は、これが縁となり、その後パノニカとレイシーに関する本を出版していただいた)。

このカットした部分に、モンクがなぜパロ・アルト高校で演奏するに至ったか、その背景に関する逸話も含まれていた。原書では、米国史上有名な白人による黒人差別や暴力に関する歴史的事件のほとんどに触れているが、パロ・アルトの事例は、中で唯一悲惨さとは無縁のポジティヴな逸話だ。そしてある意味で、モンクという人物を象徴するような物語でもある。だから長さの制約さえなければそのまま訳文を掲載したかったが、他の歴史的背景のかなりの部分をカットした以上、パロ・アルトの逸話だけ入れてもその「意義」が伝わりにくいと考えた。こうした訳文削除の背景については訳書の「解説」でも触れているので、カットされたその黒人史に関する部分を読みたい、という読者の方からの問い合わせもいただいたが、版権の問題や上記理由で日本での書籍化は難しいとお答えしている。

モンクのこのレコード『Palo Alto』(CD、LP)には、ロビン・ケリー氏が自らこの逸話の政治的背景を書いた長文ライナーノーツが添付されており、国内盤にはその日本語訳もついている。そこに、この話の主人公で当時高校生だったダニー・シャーの後年のコメントも書かれているし、他に新聞広告やポスター、コンサートプログラムのコピー等の史料も添付されている。また息子のT.Sモンクとシャーのインタビュー映像もYouTubeで公開されている。とはいえ本来は、上述のような苦闘(?)を経てようやく出版した邦訳書の一部でもあるので、以下に私が「試訳」した未発表部分を、ご参考までに紹介したいと思う(ケリー氏のライナーノーツの解説が、当時の背景を非常に詳細に語ったものなので、私の原書訳文は、むしろそのダイジェスト版のようではあるが)。

***

《 この話はカリフォルニア州パロ・アルトという、スタンフォード大学近くの裕福な白人のカレッジタウンから始まる。パロ・アルトが起点のベイショア・フリーウェイをはさんで、イースト・パロ・アルトがあった――当時は貧しく、黒人住民が中心の ”郊外の貧困地域” だった。その極貧ぶりと失業率の高さゆえに、その街を別の国だと譬える人もいたほどだった。アフリカの独立や、台頭しつつあった黒人民族主義者の気運に触発されて、地元の活動家の中には、誇りを持ってその町を ”ナイロビ” というニックネームで呼ぶ人たちもいた。1966年にアフリカ中心の教育に特化した独立学校としてナイロビ・デイスクールが創設され、その2年後に、”ナイロビ” を町の公式名称にすることを問う住民投票を目指す運動が始まったのだ。その運動は反白人主義によるものではなかった。それどころか、名称変更の支持者たちは、そのコミュニティの中で地域への誇りを持つ気持が浸透すれば、学校や近隣地区を改善し、経済を強化でき、最終的には人種に関わらず、ナイロビをすべての家族にとって魅力的な場所にできると信じていたのである。4月3日、町議会は名称変更についての公聴会を開くことを可決したが、その翌日キング師が暗殺された。若者たちがあちこちの略奪行為や焼き打ちに加わるにつれて、期待されていた協力の可能性は怒りに取って代わられた。「ナイロビに賛成しよう」と駆り立てるポスター、チラシ、黒とオレンジ色のバンパーステッカーは戦闘的な雰囲気を漂わせるようになった。人種間の緊張が高まるにつれて、パロ・アルト自由主義のグループは黒人の中流層を引き寄せて、何とか白人の近隣住民と一体化しようと試みた。
 ここでダニー・シャーの紹介をすると、彼はパロ・アルトの上流中産階級の家庭で生まれ育った16歳のユダヤ系の少年だった。ジャズ狂で、人種間の緊張が高まっていた1968年に、パロ・アルト高校の2年生に進級するところだった。ダニーを知らぬものはいなかったが、それは1年前に独力でパロ・アルト高校初のジャズ・コンサートをプロデュースし、そこでなんとあのピアニスト、ヴィンス・ガラルディとヴォーカル・グループのランバート・ヘンドリックス・アンド・ロスを招聘したからだ。しかも毎週水曜日のランチタイムには、学校内でジャズのラジオ番組の司会も務めていた――ただし放送局の設備はマイク一本と、じっくり配置を考えた数本のスピーカー、それにターンテーブルだけだった。学校外では、ベイエリアのコンサート・プロモーターのもとで仕事をするようになり、そこでダーレンス・チャンと知り合ったが、彼女はカリフォルニア大学バークレー校で初めて一連のジャズ・コンサートをプロデュースし、批評家ラルフ・J・グリーソンの下で働いていた。シャーは回想する。「僕の夢は、セロニアス・モンクとデューク・エリントンをパロ・アルト高校に連れて来ることだった。第一候補はモンクだったので、ダーレンスにどうやって彼と接触したらいいか尋ねたら、彼女がジュールズ・コロンビー[訳注:モンクの元マネージャーだったハリー・コロンビーの兄]の電話帽号を教えてくれたんだ。僕はジュールズに電話して、モンクに高校で演奏して欲しいという話を伝えた。彼は500ドルくらいかかるよ、と言ったと思う。最終的にジュールズは契約書と、何枚かのモンクの写真、それに『アンダーグラウンド』のLPも何枚か送ってきた。あとは校長に頼んで契約書にサインしてもらうだけだった」
 モンクは、10月末にはサンフランシスコの「ボース・アンド・クラブ」に3週間出演することになっていたので、シャーは10月27日、日曜日の午後に学校の講堂を確保し、他の2つのバンドの出演も決めた――<ジミー・マークス・アフロアンサンブル>とケニー・ワシントンをフィーチャーした<スモーク>だった。主役はモンクのカルテットで、収益金はインターナショナル・クラブに寄贈されることになっていたので、チケットはあっという間に売り切れるだろうとシャーは踏んでいた。ところがそうは行かなかった。2ドルのチケットを売りさばくのに苦労したシャーは、購読していた新聞のコネを通じて、何軒かの新聞販売店にプログラムへの広告掲載を売りこみ、各店の窓にコンサートを宣伝するポスターを貼ってくれるよう頼み込んだ。それでもチケットの売れ行きが良くならないと、彼はコンサートをイースト・パロ・アルトにも売り込むことにした。「それで、ついにイースト・パロ・アルトにもポスターを貼り出すことにして、街中に貼るポスターの見出し文をこう書いた。『それで、本当にモンクが白人だらけのパロ・アルトにやって来るのだろうか? 信じれば、そうなるさ』。僕が会った黒人連中は疑っていたので、とにかく日曜日に学校の駐車場に来てくれ、そこでモンクを見たらチケットを買ってくれ、って言ったんだ」
 あとは、モンクとバンドが確実にギグに来られるようにすればよかった。コンサートの何日か前に、シャーはホテルにいたモンクに電話して、どこに来てもらいたいか念押しした。するとモンクは、「えー、私はその件は何も聞いてないよ」と答えた。分かったのは、モンクが契約書を一度も見ていないこと、しかもサンフランシスコからパロ・アルトへ行って、クラブの最初のセットに間に合うように戻ってくる移動手段がないということだった。しかし、モンクはその少年の厚かましさを面白いと思ったし、特にシャーが、自分の兄の車でバンドの行き帰りの送迎をさせると申し出たこともあって、その出演を承諾した。日曜日の午後、両パロ・アルトの町から黒人と白人の少年たちが駐車場に集まり、モンクが現れるのを見ようと待っていた。バンが駐車場に止り、中からモンク、チャーリー・ラウズ、ラリー・ゲイルズ、ベン・ライリーが現れると、そこにいたみんながチケットを買う列に並んだ。最終的に、モンクのカルテットは人種の入り混じった、ほぼ満員の聴衆に素晴らしいショーを披露した。彼らは1時間以上演奏した。嵐のような拍手に呼び戻されたモンクはアンコールも演奏した――ソロ・ピアノによる〈スウィートハート・オブ・オール・マイ・ドリームズ〉――それから、これ以上は演奏できないことを丁重に謝った。「今晩は街に戻って演奏しなければならないので、ご了承ください」。モンクはそれをコンサートの締めの言葉にし、ダニーは現金でモンクに謝礼を支払い、それから彼の兄が「ボース・アンド・クラブ」までバンドを送り届けたが、時間的には十分な余裕があった。数日後、ジュールズからダニーに電話があり、出演料を請求した。「私は彼に、それならモンクさんに支払いましたよと言った。『私のコミッションはどうなるの?』と言うので、『コロンビーさん、こちらにはサインした契約書はないんです。なのでコミッションをお望みなら、モンクさんに話した方がいいですよ』って答えた」。その後成長したシャーは、西海岸でもっとも成功をおさめた屈指のコンサート・プロモーターになった。
 モンクも16歳のダニー・シャーも、この地域の人種間の関係に、このコンサートがどういう意味をもたらしたのか完全に理解していたわけではなかった。つまり気持ちの良いある日の午後に、黒人と白人が、そしてパロ・アルトとイースト・パロ・アルトが、争いをやめて一緒に集まり、〈ブルー・モンク〉、〈ウェル・ユー・ニードント〉、〈ドント・ブレイム・ミー〉を聞いたということである。それから9日後の住民投票で、イースト・パロ・アルトをナイロビに改名する案は2対1以上の大差で完敗した 》

2021/02/14

冬ドラ『夢千代日記』

NHK 夢千代日記
吉永小百合

朝の連続テレビ小説は「朝ドラ」、近年、深夜に放送されている斬新なドラマを「よるドラ」とNHKでは呼んでいるが、「冬ドラ」という呼称はまだないようだ(聞いたことがないので)。なぜか年末になると聴きたくなる演歌や歌謡曲に加えて、私には冬がやって来ると見たくなるドラマがあって、それを「冬ドラ」と勝手に呼んでいる。気楽に流して見られるようなエンタメ系作品ではなく、「外は雪とか木枯らしの寒い冬の夜、炬燵に入って熱燗でちびちびやりつつ、しみじみと見るようなテレビドラマ」のことだ(あくまでイメージで、実際に炬燵で一杯やっているわけではない)。見るのはもちろん、CMのない、それも大昔のNHKドラマだ。最近のように、目まぐるしい展開や、ファンタジー色の強いドラマも面白いことは面白いのだが、やはりじっくりと楽しめるオーソドックスなドラマは落ち着くし、NHKは朝ドラや派手な大河ドラマとは別に、日本的情緒と文芸の香り漂う大人向けのドラマを昔は数多く制作していた。その代表的作品で、寒いこの時期になると、飽きずに何度も見てきたのが吉永小百合主演の『夢千代日記』である。今から40年も前に放送された、言わずもがなの名作だが、やはり「冬に見るからこその夢千代」であり、以前NHKが真夏に再放送していたときには、何を考えているのだと怒りさえ覚えたほどだ(大ゲサだが)。

毎冬のように見てきたのはもちろん録画してあるからで(今はNHKオンデマンドでも見られる)、『夢千代日記(5話)』(1981)『続・夢千代日記(5話)』(1982)『新・夢千代日記(10話)』(1984) という3部作で、いずれもオリジナルはもちろん冬に放送された。原作・脚本が早坂暁、演出が深町幸男、音楽が武満徹という制作陣に加えて、主演が(たぶんいちばん奇麗だった頃の)吉永小百合という豪華な布陣のドラマだ。私は(タモさんのように)吉永小百合の熱烈なファンというわけではないが、夢千代役にはやはり吉永小百合以外の女優は思い浮かばない。実際、ドラマの夢千代の年齢設定と、当時の吉永小百合の実年齢はほぼ同じで、早坂は吉永を念頭にこの作品を書いている(しかしこのときの吉永が、今の綾瀬はるかとほぼ同年齢だった、というのは何となく意外な気がする)。

1985年の映画版も見たが、NHKドラマの方がずっと出来が良い。個人的には、林隆三、ケーシー高峰、楠木トシエなどが出演し、ドラマの基本的イメージを作った第1作目がやはりいちばん記憶に残る。山陰の小さな温泉町で夢千代が営む置屋「はる家」の芸者役、樹木希林(菊奴)、秋吉久美子(金魚)、中村久美(小夢)の他、夏川静江、中条静夫、加藤治子、佐々木すみ江、長門勇、緑魔子、あがた森魚などのレギュラー陣、さらに林隆三、石坂浩二、松田優作という1作ごとに変わる客演男優等、それぞれ味わいのある役柄キャラクターと物語をじっくりと楽しめる。しかし、今はもうこの名作ドラマのことさえ知らない人も多いらしい。制作陣もそうだが、画面の中にいるこれら出演者の約半数がもう故人なのだと思うと、なんだか寂しく、また時の流れをつくづく感じる。

NHK 夢千代日記
左から夢千代、小夢、金魚、菊奴
物語の主な舞台は山陰にある架空の温泉町「湯の里温泉」で、全編のドラマロケは鳥取県境に近い兵庫県の日本海側、山陰本線の浜坂駅から少し内陸部に入った「湯村温泉」(新温泉町)で行なわれた。しかし港が近かったり、海鳴りが聞こえるなど、ドラマの「湯の里温泉」はもっと海に近い設定になっていて、全体的にむしろ鳥取県のイメージが強い。実は最近ネットで読んで初めて知った話だが、当初早坂暁は、鳥取県の倉吉に近く、原稿を書くために滞在していた三朝温泉をドラマロケの舞台に考えていたが(実際「夢千代」という名前の芸者も三朝にいたらしい)、広島で胎内被曝した夢千代の原爆症が、イメージ的に三朝温泉の有名なラジウム泉に結びつけられる懸念があるという理由で断られ、それでは、と次に話を持ち掛けたのが民謡「貝殻節」で知られる同じ鳥取の浜村温泉だったが、今度は話が暗すぎると再び断られたのだそうだ。そこでやむなく、県境を東へ少し越えた兵庫県の湯村温泉に声を掛けたら、そこで快諾されたという。よく知られているように、ドラマが大ヒットしたおかげで、無名に近い温泉場だったロケ地湯村温泉は「夢千代の里」としてブレイクし、全国的に知られる観光地となって夢千代の銅像まで建てられた。というわけで、湯村は兵庫県なのになぜドラマの背景に「貝殻節」や鳥取砂丘が?という疑問もめでたく氷解した。ドラマでは、イメージとしての冬の山陰と日本海を全体として統合したということなのだろう。

夢千代日記、波の盆
岩城宏之指揮(JVC)
冬になると『夢千代日記』を見たくなる理由は他にもあって、一つは「夜…外は粉雪…」と、夢千代が静かに語る日記風のナレーション、そしてもう一つは音楽だ。ドラマのオープニングで、列車がトンネルを抜けて(旧)余部鉄橋を渡る映像のバックに、武満徹のテーマ曲が流れてきた途端に、気分はもう一気にどんよりと暗い冬の山陰だ(各作ともに、神戸の病院で半年ごとの定期検診を受けた夢千代が、帰路の山陰本線の列車の中で出会う人物から物語が始まる)。そして煙草屋旅館の宴席では吉永、秋吉、中村という3人の芸者が踊り(踊りの出来は、小夢>夢千代>金魚の順で、日舞>体操>ダンスか)、菊奴の弾く三味線(これは本物)で毎回唄われる鳥取民謡の「貝殻節」、スナック「白兎」(オーナー長門勇、ママ水原英子)の場面や、毎回登場する旅芸人一座の芝居とそのバックで聞こえる演歌など当時のヒット曲、うらぶれたヌード劇場のストリッパー緑魔子の踊りと(照明係)あがた森魚の独特の歌など――これでもかと、ドラマ全体にわたって「昭和」の懐かしさと哀感が漂う音楽が散りばめられている。印象的な武満の冒頭のテーマ曲は、ドラマでは小編成のアンサンブルがやや早めのテンポで演奏しているが、1998年に岩城宏之が金沢のオーケストラを指揮し、映画音楽やテレビドラマ向けに武満 徹が書いた曲を演奏した『夢千代日記、波の盆』(JVC) というCDでは、テレビ版よりもゆったりとしたテンポで、大編成アンサンブルが美しく流れるように、しみじみとこの名曲を演奏している。

学生だった1970年頃に、何度か山陰地方を旅行したことがあるが、「表日本」「裏日本」と呼んでいたあの時代の両地域の「差」に何度も驚いた経験がある(当時はとっくに硬貨に切り換わっていた「百円札」が、山陰ではまだ流通していた、など)。そうした旅行経験からすると、80年代バブルが到来する以前の山陰地方には、ドラマで描かれているような風情や情緒や人間関係が、実際にまだ色濃く残っていても不思議はないと思った。原爆症や中国残留孤児など、あの時代(1970年代)の日本には、戦争の影を引きずりながら生きている人たちが、まだたくさんいただろう。東京ですら、バブル前には文字通り昭和の風景や風情がまだたくさん残っていたし、人間関係ももっと密で濃いものだった。一方で、都会と地方との間には、地理的にも、心理的にも、また情報面でも容易には近づけないような距離があって、良きにつけ悪しきにつけ、両者を隔てる見えないバリアがまだ残されていた。だから夢千代ドラマの定番、訳あって雲隠れしたり警察から追われる逃避行なども、監視カメラやスマホ映像、ツイートですぐに見つかってしまう現代とは違って、まだまだ可能だった。逆に言うと、常にどこかで誰かから監視されている現代人は、現実からの逃げ場が物理的になくなりつつあるとも言える。ジャンルに関わらず、最近「ファンタジーもの」に人気が集まるのは、こうした現代日本人の心理を反映しているのかもしれない。

人生に疲れ、あるいは心や身体に傷を抱えたまま、人知れず「表日本」から日本海に面した小さな温泉町に流れ着き、そこで互いを気遣いながらひっそりと寄り添うように暮らしている人々を描くこのドラマは、余命短い原爆症の主人公も含めて、死をモチーフにしたやりきれないような物語が続く。しかし、ゆっくりと流れるドラマの時間と登場人物の造形には、昔の日本人が持っていたつつましさ、やさしさ、我慢強さ、運命に逆らわずに生きてゆくけなげさ――などへの、原作者・早坂 暁の郷愁と深い思いが込められている。そしてドラマの中で、夢千代他の登場人物たちが体現しているのが、そうした時代の懐かしい日本人像だ。『夢千代日記』は、今となっては、ロマンとメルヘンの香りさえ漂う懐かしき昭和の日本昔話なのである(ただし、男性向けではあるが)。

大人が楽しめる、こうした純文学的なドラマは、エンタメ全盛の現代ではもう望むべくもないが、『夢千代日記』を含むNHKのシリーズ「ドラマ人間模様」(1976 - 88)には、向田邦子の名作『あ・うん』や、大岡昇平原作で『夢千代日記』と同じく早坂暁、深町幸男コンビによる『事件』シリーズなど優れた作品がいくつもあった。これらはいずれも人生の深さと哀感をしみじみと感じさせる大人の「冬ドラ」だ。振り返ると、こうした名作ドラマはどれも、1970年代の日本列島改造論に始まり、日本がバブルに向かう途上にあった1980年前後に制作されたものが多い。現代の感覚からすれば、もちろん筋立ても構成もシンプルだが、昭和も終わりに近づく頃に作られた、どこか心の琴線に響くそれらの「冬ドラ」をじっと見ていると、その後80年代後半のバブルを通過し、グローバル化と情報革命に戸惑いながら必死に生きてきた日本人が、この30年間に失ったものが見えてくるような気がする。それに、最近の冬は昔ほど寒くない。真冬の日本海側に雪が降っても、さらさらと乾いた粉雪はめったになく、湿った重い雪ばかりになってしまった。こうして、昔の日本人を包んでいた冬の風情も徐々に失われてゆくのだろう。