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2021/05/29

(続々)シブコのおかげでマリオにハマる

4月の松山英樹選手のマスターズ制覇は、世界で勝てない、選手のマナーが悪いなど、鳴かず飛ばずだった男子ゴルフ界に活を入れ、日本中のゴルフファンに感動と勇気を与えた快挙だった。何よりも7年前から米国に腰を据えて戦ってきた結果であること、さらにゴルフ界における一大目標達成の具体的イメージを、後に続く若い日本人選手に印象づけたことに大きな意味がある(ただし優勝スピーチは、短くてもいいから英語でやってもらいたかった)。昔と違って、今はどんなジャンルのプロスポーツでも、日本国内だけでなく、世界の舞台で勝利するヒーローやヒロインが当たり前に望まれている時代だ。サッカー、野球、テニス、水泳……どのジャンルでもそれは同じで、彼らのようなスターの登場なくして、ビジネスも含めてジャンルとして盛り上がるのは不可能だと言っても過言ではない。一方、その偉業を2年前にあっさりと達成し、近年韓国勢に席巻されていた日本の女子ゴルフ界に活況をもたらし、忘れていたゴルフの面白さを久々に思い出させてくれた渋野日向子選手は、昨年に続き今年も苦しいスタートを切っているようだ。

全米の渋野日向子(写真AP)
2020全米女子OP の渋野日向子
写真:AP
2019年の全英に続くメジャータイトルこそ惜しくも逃したが、渋野選手は昨年末のメジャー大会、全米女子オープンゴルフで4位という立派な成績で2020年をフィニッシュし、やはりただものではないことを証明した。世界への挑戦を念頭に置いた一昨年オフのパワー志向の改善計画が裏目に出て、年初から不調で国内、英国、米国と予選落ちや、パッとしない成績が続いていた。しかし徐々に改善して、昨年最後の大舞台では初日から前年の全英を思い起こさせるような、見違えるように切れのあるパワフルなスイングとショットで2日目にはトップに立ち、完全に復調したかのように見えた。しかし決勝ラウンドに入った3日目からは、全体にプレーが重くなり、好調だったパットにも影響が出始めた。一日順延の影響がどれだけあったのかは不明だが、最終日は寒さと風の中、残念ながら16番Hで実質的に優勝はギブアップした。4日間もの間、一打ごとに緊張して、たった一人で勝負を続けるプロゴルフは、精神的にも肉体的にも本当にタフなスポーツであることもあらためて実感した。しかしマスターズの松山選手と同じく、気の滅入るコロナ禍が続く中、格の違うメジャー大会で首位争いを演じ、毎夜、朝まで見入ってしまったほど楽しい時間を過ごさせてくれた渋野選手には本当に感謝している。

そのシブコを応援する人間が多い一方で、昨年の全米女子OP前は不調が続いた彼女に対するネット上の非難じみたコメント、あるいは一部メディアの執拗に彼女をディスるタイトルと空疎な記事をずいぶんと目にした。渋野という名前さえ載せれば何でもいいという、クリック目的の炎上商法としか思えないようなひどい記事もたくさんあった。年初から、前年オフの身体やスイング改造策の失敗だとか、実績のないコーチなど代えろとか、まるで小姑のように言いたい放題の、足を引っ張る匿名ド素人コメントもネット上に飛び交い、彼女も悩んでいたようだが、年末の上記全米OPで、彼女は見事にそれら的外れな素人衆を黙らせた。

そのシブコが今年もまた不調のままシーズンをスタートし、今月のシンガポール、タイともに不振で、トレードマークだったあの笑顔も最近はだいぶ減ったようだ。ヤフコメなどを見ると、待ってましたとばかりに、青木コーチと別れたせいだとか、彼氏ができたせいだとか、石川遼のアドバイスだというスイング改造が裏目に出たとか、オリンピックは無理だとか、帰って国内で鍛え直せとか、ニヤニヤ笑うなとか、もう終わったとか…相変わらず外野席のド素人が勝手なことを言っている。去年の不調は青木のせいだと言っていたのに、もう一度青木に頼めとか、男と別れろとか……「大きなお世話だ。うっせぇわ!」と、私がシブコなら思わず言い返しそうな誹謗中傷コメントが連日のように書かれている。

タレントみたいにテレビのバラエティに出るなとか言っている連中もいるが、それこそ大きなお世話である。私も一部のテレビ局による女子ゴルフのエンタメ化は好きではないが、プロゴルファーである彼女たちは、いわば個人事業主であり、自分の人生を自分の腕一本で生きているのである。昔とは時代が違うし、人気商売でもあるわけで、本人がその方がいいと思ってやっていることなら、外野がとやかく口を出すことではないだろう。プロは結果がすべてで、しかも何もかも本人の責任だからだ。それと日本人は「コーチ」というと、すぐに昔ながらのスポ根体育会系にありがちな「師弟関係」をイメージするようだが、そういう要素があることは否定しないが(日本のゴルフの場合、尾崎軍団や、より濃密な「親子」というケースも多いので)、どの分野であれ、欧米流の「コーチング」はそういう精神的な一体感を強調する手法とはまったく違う。あくまで目的、ゴールを共有した上で、同じレベルに立って、選手に対する技術面、精神面のサポートとアドバイスを専門的・客観的視点から行なうという「仕事」であり、日本人がイメージする上下関係を前提にした「指導」とは異なる。だから十代の若い選手は別として、主体はあくまで選手側にあり、コーチを依頼すべきかどうか、誰を選ぶか、何をアドバイスしてもらうのか、それらは選手側の選択だ。背景を詳しくは知らないが、女子テニスの大坂選手のコーチ解任の例なども、こうした見方から解釈すべきことだろう。

私は2019年の全英女子OPで渋野が見せた、女子らしからぬ胸のすくような豪快なスイングを見て、プロゴルフの楽しさを思い出し、すっかりシブコファンになった。一般的に韓国人選手も、日本の強い女子選手もそうだと思うが、基本的に女子ゴルファーのスイングに共通するのは、練習を重ねて型にはめたような、破綻はなく正確できれいだが、ダイナミックさに欠ける印象があるところだ。ところが全英時の渋野選手のスイングは、しなやかでいながら非常にダイナミックだった。岡本綾子さんと同じく、これは彼女のソフトボール経験のおかげだろうと思う。ゴルフは止まった球を打つわけだが、野球やソフトボールは自分に向かってくる球、動いている球を「打ち返す」という反射的な体の動きが基本で、スイングのリズムとタイミングが非常に重要だ。全盛期の岡本さんや全英時のシブコのスイングは、止まったボールを打ちながらも、そうした内部の動的リズムを強く感じさせる。それによってクラブヘッドにウェイトが乗り、ヘッドスピードも上がるので、腕力だけで力まかせに飛ばすより飛距離も安定して出るだろう(と、素人ながら思う)。

2020年の不調は、国内から海外挑戦への方針転換に基づくオフの体幹強化によって筋肉がつき、体が大きくなって、本来の美点だったしなやかな身体の回転と体重移動に影響が出て、結果としてヘッドスピードが落ちたり、インパクトが不安定になったからだろうと推測する。ところが年末の全米女子OPでは体もスリムになって、そこが改善され、初日、2日目などは完全に全英時の素晴らしいスイングに戻っていた。だから初日を見ただけで、今回は優勝するかもしれないと思ったほどだ。その作年末のメジャーで、優勝こそ逃したが4位と言う結果を残したのに、なぜ今年になってあのフラットなスイングに変えたのかは確かに謎だが、おそらく彼女なりに今後の世界挑戦を見据えた戦略を描き、あれこれ試行錯誤することを前提にして、「今年の課題」として取り組んでいることなのだろうと思う。だから照準はあくまでメジャーにあり、たぶんオリンピックも国内試合も、ノーマルLPGAも今の彼女の眼中にはなく、今年の「メジャー大会」のどれかで優勝することを第一目標に置いているのではないかと推測する。彼女は頑固そうだが、逆に言えば信念の強い人とも言える。だから、いずれシブコはかならず復活すると私は信じている(実際、先週末の米国内戦ではその兆しが出て来た)。

しかし渋野日向子の秀でたところは、ゴルフの技術だけではなく、明るく、聡明で、周囲に気配りもできるすぐれた人格も同時にそなえているところだ。世界の超一流のスポーツ選手はどの分野でもみなそうだと思うが、単に技術が上手いだけでは本物の一流にはなれない。常に自分のプレーを冷静に分析し、改善し、進化させるという内部モーメントを意識して持ち続け、しかもそれを実行しなければならないし、特に現代のプロ選手は、メディアやファンなど周囲に対してきちんとそれを表現できる言語能力、コミュニケーション能力も重要だ。シブコには何よりそうした姿勢と能力があり、そこが彼女の素晴らしいところで、だから見る人間を引き付けるのだと思う。全米女子OP最終日の17番Hでパットをはずし、しばらくの間、帽子を深くかぶってうつむいていたとき、最終18番Hで、「来年も頑張れ」という神様のご褒美のような長いバーディパットを沈めたときは、こちらまでもらい泣きしそうになった。涙をこらえながら、誠実に応答する試合後のインタビューもそうだ。観戦する側が思わず感情移入してしまうような何かが彼女にはあるのだ。

チマチマして、狭く、小うるさい雑音の多い日本ではなく、開放的でスケールの大きな舞台こそ彼女には似合っている。スポーツに限らないが、日本人として海外で戦うということは、異文化の下での厳しい個人勝負の場には違いないが、そこで「ものをいう」のは、知識や技術ばかりではなくマナーを含めた人間性である。ゴルフの性格上、まず孤独に強いということが他のスポーツ以上に要求されるだろうが、一方でスタッフやキャディ、他の選手とのコミュニケーションを積極的に行なって、内に閉じこもらないことが大事で、それが結果として世界で戦えるメンタルの強さと安定性を生むことにつながる。ゴルフに限らず、才能ある日本人スポーツ選手がなかなか海外で成功しない理由の一つは、そこにあり、その解決には英語が必須なのだ。難しい話ができるほどの英語力は必要ないし、簡単な対人コミュニケーションに必要な程度の英語など、まだ若く優れた言語能力を持つ渋野選手がその気になれば、あっという間に身に付くスキルだろう。

それにしても、ネット上の一部メディアや匿名投稿による悪意のある批判的記事が、シブコを筆頭に女子ゴルフ選手たちに向けられることが多いようだ(昔からそういうものなのか、よく知らないが)。必要以上にシブコばかり追い回すメディアへの反感や、商業上のクリック数稼ぎが背景にあるのだろうし、有名税だと言えばそうなのだろうが、海外への挑戦意欲を持ち、まだ若く(みんな20歳そこそこだ)未来のあるスポーツ選手を貶めるようなことを、なぜ大の大人がするのだろうか。世界レベルで戦っている現役プロ選手に対して、何者でもない素人や半素人が、スイングがどうのこうのと、技術に関して上から目線で語るようなスポーツがゴルフ以外にあるだろうか。テニスの大坂選手や、サッカーの沢穂希選手に向かって、あれこれプレー内容や技術の欠点を上から目線で「公の場で」批判する素人がいるだろうか。他の女子スポーツでは、若い選手に対して、こうした非礼な、あるいは陰湿なゴシップ的ジャーナリズムとか批判はあまり見られないように思う。これはシブコの特別な人気が理由でもあるのだろうが、「昔からゴルフやってます」的な特権意識を持って若者や女性を見下す、オヤジ中心の古臭い日本のゴルフの世界特有の空気が生む行為としか思えない。

渋野日向子はまぎれもなく、世界に開かれた日本女子ゴルフ界の未来を担う、岡本綾子以来の逸材であり、コロナに苦しみ、夢のない今の日本に輝く数少ない希望の星だ。だから、その星の足を引っ張って地上に引きずり降ろすような愚行を、大の大人がすべきではないと思う。私はド素人なので、批判などせずに前途ある彼女たちを応援したい。個人的には、それぞれ個性は違うが笹生優花と原英莉花の二人は、畑岡や渋野と並んで世界で十分通用するポテンシャルを持つ選手だと思う。少なくともシブコや彼女たちは、一部の偏った批判など気にせず、今年もまた世界に向かって挑戦し、明るく伸び伸びとしたプレーで我々を楽しませて欲しい。

(*6/9 追記 …と、書いていたら、その笹生優花が6/6の全米女子OPで本当に優勝した。びっくりした。彼女も強いだけでなく、人格が素晴らしい選手だ。これで、渋野選手も多少肩の荷が下りて、期待と裏腹の無言の圧力から解放されるだろう。)

ところで「マリオオープンゴルフ」だが……Hawaiiコースの15番までは何とか進んだものの、そこで止まったままなかなか前に進めないので、しばらく遠ざかっている。しかし、このHawaiiとUKコースは(年寄りには)難しすぎる。パットがスコアメークのキーになるところも本物のゴルフと同じで、その意味でも本当によくできた名作ゲームだとは言える。そのうち、またやる気が出てきたら改めて挑戦したい(死ぬまでに冥途のみやげに何とかクリアできればいいと思っている)。

2021/05/14

井上陽水の50年

ジャズ以外の音楽を聴くとなると、年末に聴く演歌系とは別に、年に何回か集中して聴きたくなる日本人アーティストがいる。私の場合、長谷川きよしと並んで頻度が高いのはやはり井上陽水だ(他には、ほぼ夏限定だが山下達郎、大瀧詠一、サザン)。いつもはレコードを聴くのだが、たまには映像でもということで、先日は「陽水の50年」という、井上陽水のデビュー50周年となる2019年末にNHKが放送したテレビ番組の録画をしばらくぶりに見た。もちろん陽水の歌も久々に堪能したが、松任谷由実、玉置浩二、奥田民生、宇多田ヒカル、リリー・フランキーという陽水と交流のある5人のゲストが、旧友、師匠、弟子、同業者、先輩、ダチ…といった各視点で陽水を語る趣向も面白かった。玉置浩二、奥田民生との懐かしいデュエット、宇多田ヒカルの〈少年時代〉のカバー映像(一部だが)なども楽しめた。

ユーミンが「ヨースイ」と呼び捨てにしたり、奥さんの石川セリと親友だ…とかいう話も初めて聞いた(前に一度見たはずなのだが、演奏部分は記憶にあっても、このコメントは憶えていなかった…)。奥田民生の、陽水のカニ好きの話も面白かったが、興味深かったのは、宇多田ヒカルがソングライターとしての彼女との同質性を語った、特に歌詞に関する分析で、陽水の詩の本質を見事に捉えていたように思う(さすがに天才同士)。相変わらず掴みどころのない、陽水のシニカルでおネェな喋りも久々に楽しんだ。昔から、思い切り力の抜ける「みなさん、お元気ですかー」という日産セフィーロのバブル時代(1988年)のCMといい、時々テレビで見たタモリとのサングラス漫談のようなやり取りといい、最近では『ブラタモリ』の脱力系エンディング・テーマ〈女神〉といい、清水ミチコのモノマネのネタになるほどキャラの立った陽水には、唯一無二の存在感がある。今やユーミンも出ている年末の『紅白』には、「恥ずかしいから」という理由で出場しないところもおかしい。

それにしても70歳を越えてなお(1948年生まれだ)衰えを見せずにあの高音域を駆使し、しかも50年も前の自作曲を、まったく古臭さを感じさせずに唄いこなす井上陽水は間違いなく天才だが、その尋常ではない才能とバイタリティからして、「怪物」とさえ呼べそうな気がする。「アンドレ・カンドレ」 という、"いかにも" な芸名で陽水がデビューした1969年前後は、20歳前後になった団塊世代に支えられ、あらゆる新しい音楽が爆発的な勢いで出現した日本の音楽市場の「ビッグバン時代」だった。今はもう当たり前だが、自作自演の「シンガーソングライター」という言葉が生まれたその時代に、鮮烈なオリジナリティを持って現れ、その後半世紀にわたって楽曲創作を続け、唄い続け、しかも時代ごとに、誰もが今でも記憶している大ヒット曲をコンスタントにリリースしてきた陽水ほど、その呼称にふさわしい日本人歌手はいないだろう。吉田拓郎、小椋佳、小田和正、長谷川きよし…など、あの時代に現れた自作曲を唄う素晴らしい歌手はたくさんいるが、この50年をあらためて振り返ってみると、陽水はやはり別格のアーティストなのだということがよくわかる。

陽水の独創性をもっとも象徴しているのは、独特の歌声とメロディに加え、世代を超えて日本人の心の琴線に触れる「歌詞」であり、その言葉が喚起する文学的、詩的、哲学的イメージである。時に呪文のようにも、単なる語呂合わせ(?)とも聞こえることもあるが、ありきたりの言語表現が生む月並みな世界とは縁のない歌詞、そこから生まれるイメージの抽象性こそが、陽水の楽曲がいつまでも古びず、時代に縛られないオールタイム性を維持してきた最大の理由だろう。どこにでもありそうでいて実は存在しない世界を、日本的情緒と、時にシュールなイメージにくるんで描くファンタジーが陽水ワールドなのだ。ある意味で、これほど文学的、哲学的な雰囲気が濃厚な歌手、楽曲は、日本のポピュラー音楽界には他に存在しない。しかも、それでいながらほとんどの曲に、ヒットに必須の要素、日本の大衆にアピールする要素がかならずあるところが陽水の音楽の魅力だ。ただし、諧謔、言葉遊びの要素もあるその歌詞に、過剰に深い意味を見出そうとするのは、本人も本意ではない(恥ずかしい?)だろうという気がする。基本的に「はぐらかし」が好きなので、聴き手側が抱くイメージが(歌詞の抽象性ゆえに)多彩、多様であればあるほど、喜ぶ人ではないかと思う。

歴史の長い陽水のベストアルバム、ベスト曲は、人によって様々だろう。シングル盤の名曲もたくさんあるし、数多いヒット曲からセレクトしたベスト曲コンピ盤もある。ダウンロードやストリーミングという曲のバラ聞き時代には、「アルバム=作品」という意識も稀薄になって、今後はアルバム単位で歌手の世界を語ることもさらに減ってゆくだろう。しかしジャズがそうだが、陽水のように単発のヒット曲云々を超えて、時代を代表するような楽曲を数多く残してきた20世紀のポップ・アーティストは、やはり時代を切り取るようなアルバム単位で、いつまでも語る意味も価値もあると思う。古い時代のアルバムから順次聞き返すと分かるが、何より陽水のアルバムは、あたかも一人の作家が発表してきた詩や短編小説を集めた作品集のように、一作ごとにアルバム・コンセプトが背後にきちんと存在することを感じさせる。陽水の楽曲はそれぞれが一編の詩か小説(物語)であり、だから各アルバムには一つのムードを持った詩集あるいは短編小説集の趣がある。

ベストアルバムは初期3作を挙げる人が多いそうだが、やはり70年代のアルバムにある陽水的な斬新さこそがいちばん魅力的だ。デビュー盤『断絶』(1972) は、〈傘がない〉などまさに陽水を代表する歌もあるが、アルバム全体としてまだ60年代フォーク色が強く、さすがに今聴くと曲想もサウンドも多少古臭く感じる部分がある。『陽水IIセンチメンタル』(1972) は、タイトル通り、若さとメランコリー感に満ちた名曲、佳曲が並ぶ文字通りの名盤だが、中でも〈能古島の片思い〉などは、永遠の青春ラヴソングだ。アルバム全体の完成度という点からいえば、次の『氷の世界』(1973) が70年代と言わず、陽水の全作品の中でもダントツだろう。日本初のミリオンヒットとなったこのアルバムには、若き陽水のあふれるような才能が凝縮されている。タイトル曲の他、〈心もよう〉〈白い一日〉〈帰れない二人〉など名曲も満載であり、1970年代初頭の時代の風景と我々の記憶を、もっとも鮮明に甦らせるレコードだ。続く『二色の独楽』(1974) は結婚後のハッピー感とLA録音のせいもあったのか、陽水の作品ではもっとも「明るい」アルバムだ。ただし充実しているが、明る(軽)すぎて、どこか陽水的な深みや謎という「風味」が薄い気がする(この盤は録音もいまいちだ)。70年代で個人的に好きなもう1作は、フォーライフ設立後の初アルバム『招待状のないショー』(1976) だ。〈結詞〉(むすびことば) のような名曲の他、どの曲も編曲も、一皮むけたようなモダンさ、シンプルさ、味わいがある(以上、あくまで個人的感想です)。

陽水のアルバムのもう一つの特徴は、時代を問わず、どれも「録音」のクオリティが高いことだ。1970年代のレコードは、完成されたアナログ技術とそれに習熟した音響技術者が録音していることもあって、ニューミュージックと呼ばれていた当時の他のレコードも総じて録音は良いが、陽水のアルバムはそれらに比べてもサウンドのナチュラルさが際立っている。ヴォーカルも楽器の音もレンジが広く、非常に深みのある音で録られているので、オーディオ的にも再生する楽しみが大きい。上記の主要アルバムは、70年代発売当時に買ったLPと、80年代以降のリマスターCDの両方を持っているが、考えてみれば当時買ったLPなどは、ジャズで言えばオリジナル盤に相当するわけで、サウンドの鮮度が高いのも当然だ(だが、アルバムのCD版も音は非常に良い)。陽水自身が、どれだけ自作アルバムの録音クオリティにこだわりがあるのかは分からないが、「音楽耳」が異常に優れた人のはずなので、コンサートやテレビ番組でのサウンドから想像できるように、質の低いサウンドや録音を許すとは思えない。だから陽水自身が、作品の録音の質には相当深く関わっているのだろうと想像する。すべて好録音の70年代の陽水作品の中でも、私の装置で聴いた限りは『招待状のないショー』が最も音質的に優れた録音のように思う。これはLPでも、CD版で聴いても同じである。やはりオリジナル・アナログ録音そのものの質が高かったのだろう。1970年代の、特にアコースティック・サウンドをナチュラルに捉えたアナログ録音は、技術レベルの点でも、やはり日本の録音史の頂点だったのだろう。そしてほぼ同世代の大瀧詠一や山下達郎などもそうだが、音と響きへの繊細な感性を持ち、妥協せずに録音の質にこだわるアーティストは、当然だがヴォーカルだけでなくアルバム全体の「サウンド」も素晴らしいのである。

80年代以降で私が好きなアルバムの筆頭は『Lion & Pelican (ライオンとペリカン)』(1982)で、次に『ハンサム・ボーイ』(1990)、『アンダー・ザ・サン』(1993) という3枚だ。時代を超える陽水の楽曲だが、当然ながら創作行為はその時代の空気の中で行なっているわけで、これら3枚を<before/ mid/ after "バブル">という視点で聴いてみると、曲想と時代の関係も透けて見えてきて面白い。『ライオン…』は、タイトル曲の他、〈リバーサイド・ホテル〉〈背中まで45分〉、個人的に好きな〈チャイニーズ・フッド〉〈約束は0時〉他の名曲揃いの傑作アルバムで、30歳を過ぎた陽水による洗練された大人の音楽という印象だ。バブル全盛期の『ハンサム・ボーイ』には〈最後のニュース〉〈少年時代〉というメガヒット曲に加えて、個人的に大好きな〈自然に飾られて〉という名曲がある。そして『アンダー・ザ・サン』には、〈5月の別れ〉〈Make-up Shadow〉〈カナディアン・アコーディオン〉という、これも大ヒット曲が収録されている……が、こうしていくつか曲を挙げてみたところで、これらは陽水が書いた数多くの名曲のほんの一部にすぎないことをあらためて感じる。それほど陽水には名曲が多い。

そしてコンサート・ライヴに出かけると、陽水が唄うどの曲も、我々の世代の身体と心の奥底に深く沁みこんでいることがつくづく分かる。'00年代以降になってから、都内で行なわれた陽水のライヴ・コンサートに何度か出かけたが、それは陽水が60歳頃に行なった年齢を感じさせないコンサートの素晴らしさに感激して、つい何度も出かけるようになったからだ。テレビで見るより遥かにエネルギッシュで、しかも毎回アレンジに工夫を凝らしたサウンドをバックに唄いまくる陽水のステージは、その年齢を考えたらまさに驚異的だ。高域は徐々に苦しくなってはきたが、オリジナルのキーは維持しているし(たぶん)、声量はまだ十分で、ピッチは常に安定して決して音を外さず、リズムには融通無碍というべき柔らかさがあり、バックのサウンドも毎回シンプルでいながら新しい。天性の資質があるとはいえ、年齢的に見て、体力はもちろんのこと、事前に相当量のボイス・トレーニングをこなすことなしに、あの2時間近い濃密なパフォーマンスを維持することはできないだろう。そして何より、陽水がステージで唄う数多い曲のほとんどを、聴き手であるファンが鮮明に記憶しているという点にこそ、アーティストとしての井上陽水のすごさがある。

70歳を越えてなお現役で活動を続ける陽水は、時空を超えて、音楽の持つ不思議な力を実感させてくれる稀有なアーティストだ。どんなジャンルの音楽もそうだが、ライヴ・コンサートでは、その場にいるアーティストと聴衆だけが共有できる真に幸福な瞬間が時として生まれる。ジャズにもそういう瞬間はあるが、陽水のようなポピュラー歌手の場合は、聴衆のほとんどが名曲の記憶と共に生きる同時代人であることが聴く喜びを増幅するので、会場のボルテージがまったく違う。ステージ上の陽水も、そうした聴衆側の思いや感動を直接感じ取り、インスパイアされながら唄っているはずだ。昨年来のコロナ禍を最悪の厄災と呼ぶしかないのは、音楽産業や演奏活動への経済面の打撃ばかりでなく、アーティストと音楽ファンをつなぐ、人生におけるこうした至福の瞬間も奪ってしまったからである。