世界のデジタル競争力 スイスIMD調査 日本経済新聞 2020年10月 |
そこで、とりあえずホームページを一読してみた。まず気になったのは「ミッション(Mission)」と「ビジョン(Vision)」だ。ミッションが上に書かれていて『誰一人取り残さない、人に優しいデジタル化を。』で、次にビジョンが来ていて『Government as a Service』、『Government as a Startup』と2つが書いてあるが、どうもミッション、ビジョンの順序と内容が逆のような気がする(それに、なぜビジョンだけ英語なのかも謎)。本稿の(2)で書いたが、Vision/Mission (/Strategy or Value) は、元々はP・ドラッガーが、20年くらい前に米国で提案したビジネス戦略の立案プロセスを概念図化したものだ。詳しくは知らないが(親会社もそうだったので)本場(?)のアメリカでは当然「Vision」が上位概念(ピラミッドの頂点部分)だろうと思う。例によってそれを輸入加工した日本では、Web上の企業のホームページやコンサルタント会社の記事も、半分以上はMissionが上位に来ていて、しかもVisionと内容的に区別がつかないケースが多い。読んでもよく分からないような曖昧な表現も見受けられる。借り物の概念を使って、日本人の思想、視点で作ると、どうもそうなるようだ、と理解した。これが、あらゆる日本型組織の方針設定等に見られる特徴であり(総花的で焦点が曖昧)、運営上の混乱の源のような気がする。
(3) で書いたように、ものごとを見ている視点、視界が違うからだろう。まず、長期的に「あるべき未来図」(Vision)を常に思い浮かべるのが習性になっている(歴史が極小のフロンティア志向の)民族と、まず自らを律する「使命(任務)」(Mission)を先に思い浮かべる(長い過去を引きずり、その延長線上に生きている)民族の差ということなのだろう。ほとんどのアメリカ人がまず「現在から見た未来」に目を向けがちなのに対し、日本人が常に「過去から始まる現在を見る」傾向があり、相対的に未来に目を向ける比率がアメリカ人より圧倒的に低いという分析があって、私も実際にその実験に米国親会社の研修で参加したことがあるが、実にその通りの傾向が見られた。つまり過去へのこだわりの強さ(日本)、未来へ託す希望の強さ(米国)、の差とも言える。また翻訳の仕事をしてあらためて分かったのは、英語と日本語における過去形、現在形の表現にもその違いが表れていることだ。英語の文章や会話では、過去ー現在完了ー現在ー未来の「時制表現」は文法上ほぼ明確だが、日本語では、同じ文章や会話の中で過去と現在を行ったり来たりして、過去のことなのに、あたかも現在のことのように現在形で表現していることが多い。これは「歴史的現在」と呼び、英語にもあるが頻度が違う。特に小説や会話で頻出するが、英→日翻訳の場合は日本語を工夫して、過去のことではあっても部分的にあえて現在形にした表現で訳さないと、みんな「…た」で終わってしまい、単調でおさまりが悪い文章になる(意識して日本語の文章を読んでみたら分かります)。
何が言いたいのかというと、社会全体のデジタル化のような根本的変革は、過去(アナログ思想)の延長線上で徐々にやろうとしても、うまく行かないということである。つまりアメリカ型の、未来を見据えたラディカルな「Change」思想が必要で、昔の日本が得意とした徐々に前進させてゆく「カイゼン」思想ではうまく行かないということで、それが過去30年間の日本のデジタル化失敗から得られた教訓だろう。それを打破すべく、遅ればせながら「デジタル庁」を創設したことは一歩前進と評価したいが、それにしても上記ミッション、ビジョンの設定はどうもしっくりと来ない。国家として2021年のフェーズで重要なのは、「行政手続き」のデジタル化とか、「紙からデータへ」というデジタル化の初期(20年以上も前だ)に期待されたスピードと効率向上という単純な効果(digitization or digitalization) ではなく(もちろんそれすら実現できていないのだが)、むしろ社会的ツールとしてのデジタルを、国としていかに活用して、社会の在り方そのものを変えてゆくかという構想 (digital transformation; DX) の方だろうし、もちろんそのことはデジタル庁の中でも議論されている。
懸念するのは、デジタル庁がデジタル・インフラのさらなる整備・強化や、デジタル・ビジネスの自由な発展を支援し、促進する――ならいいが、民間の仕事に横から口を出し、利権がらみで上から規制したがる恐れがあることで(担当大臣のこれまでの言動、デジタル監の人事問題に既にその兆候が表れている)、その行動と成果を注視してゆく必要があるだろう。だから、この役所創設の「目標」設定と「任務」の定義は重要で、それが曖昧だと、従来の「日本的役所」がまた一つ増えるだけの話になって、デジタルによる効能「スピードと効率アップ」どころか、相変わらず利権を貪る輩の餌食となって、税金の無駄使いに終わる可能性もある。上図のように世界的に見て明らかに遅れていること(ほぼ手つかずであること)と、コロナ禍の混乱や制約の問題(社会的にニーズが高まっていること)が「逆に幸いして」、今はデジタル技術やサービスを駆使して、ほぼゼロベースで日本を変革できる千載一遇のチャンスであり、その「変革プラン」の策定は日本の未来にとって極めて重要だからだ。成功すれば、沈みっぱなしの過去30年間から脱却し、日本ならではの新たな価値創造を通じて、日本が真に生まれ変われる可能性さえあるのだ。
たとえばデジタル技術や機器による通信インフラが整備され、その有効性がようやく実証されつつある今、個人レベルでも「地方への移住」という選択肢の可能性がかつてなく高まっている。従来から指摘されていることだが、社会全体として見ても、「人口密度」と「地価」が異常に高い大都市圏に国や企業のリソースを集中させ続けることは、日本の産業構造の持つ「宿命的コスト高」から逃れられず、かつ今回のコロナや地震のような災害時の「社会的リスク」が増大するだけで、もはやプラスの要素は何もない。コスト(地価)の安い地方に拠点を分散し、従業員はゆったりとした地方で、広い居住スペースと安い生活費(住居費)で暮らし、容易になったホームオフィスやオンライン会議、満員電車から解放された短時間通勤等で家庭と仕事をバランスよく両立する、そして、そうしたリソースの分散・移動によって地方に雇用を創出して地域を活性化する、また観光客も呼ぶなど過疎化対策にも寄与する、さらに、これまで制約の多かった女性や障がい者が、家にいながら、もっと自由に働けるような条件や環境を整備する――等々、デジタル技術の社会的活用は、これまで日本では克服するのが困難だったそれらの課題を実現するためのインフラ、ツールとして強力な潜在能力を秘めている。そのための法整備や既存の慣行の改革も必要だ。それらの結果として社会の在り方、価値観そのものを変えてゆく力もある(transformation)。単に「テレワーク化をもっと進めましょう」とお願いするのではなく、その変化を強力に推進するための政治的指針と、支援のための施策が重要なのだ。
もっと言うなら、「長期的視点」から国土全体への人や資源のバランスの取れた「再分配」を最優先課題とし、その「大構想の下で」、デジタル技術とシステムを最大限活用して抜本的改革を目指す『21世紀型の日本列島改造論』こそを国家戦略として官民共同で策定し、計画的に実行すべきではないか。そこでの「デジタル庁」最大の任務は、その「長期戦略策定と実行」を、省庁を横断的に統括して推進する司令塔であるべきだ。そして、上に立ってその大改革を主導し、「1億人の国民」が将来も安定した生活を送れるような施策を提案、実行することが、国政を担う政治家の最大使命だろう。日本国内だけでなく、「台湾」のようにデジタル化が進んでいる海外の「友好国」と密接に協業し、その知見やリソースも活用するなど、国際的視野を拡げ、柔軟に取り組む政治的リーダーシップも必要だ。
政策より政局好きで、派閥間の権力闘争にしか興味もなく、頭の中は「昭和」のままで、デジタル世界の ”デ” の字も分からず、80歳を越えてなお反社のボスさながらの言動で権力にしがみつく老人たちや、金と利権にしか興味のない無為・無策・無能の3無の政治家たちにはとっとと引退してもらって、古い制度を大胆にスクラップ化し、同時に未来の「グランド・デザイン(大きな絵)」を描き、主導できる新たな政治家やリーダーが現れることを一国民として切望する。無用・無能な国会議員の数を半減させ、定年制を導入して全体を若返らせ、一人あたりの議員報酬レベルを上げ、その待遇に見合う能力とプライドを持った、真に優秀な議員を「厳重に選別」するための制度構築が必要だろう。また現代の日本に存在する、もっとも有効な「未開拓リソース」は女性だ。たぶん、この国の未来を救うのは、過去のしがらみに縛られ、忖度しながら生きる常に内向きな「日本の男」ではなく、広い視野で世界を知る、真に優れた女性リーダーではないかと思う(ただし、男中心の政治世界で生き抜いてきた老獪な女性政治家とか、反対を声高に叫ぶだけの古臭い左翼的女性ではない)。いずれにしろ、世界を知らず、また知る努力もしない、狭い日本の、そのまた一地方や一団体の利益代弁者とその後継者が国政を担えるような時代はもうとっくに終わっているのである。(続く)